「ウォリャアァァッ!」
気合いの入った声を上げながら、お気に入り兼トレードマークとなったバンダナを額に巻いた野武士面の武者プレイヤー……もといクラインは地を疾走した。
現実なら額のバンダナはさぞ汗にまみれて滲んでいることだろうがこの仮想世界……VRワールドたるALO──アルヴヘイム・オンライン──ではその心配はない。
肉体的疲労が蓄積しないというのは一つのVRワールドにおけるメリットであり、本来なら酸素を求めて胸が苦しくなる呼吸欲求も今は発生しない。
だが、
「ゼェーーッ、ゼェーーッ……! ヒィ……!」
クラインは両膝にそれぞれ手を乗せて腰を大きく曲げ、深く息を吐いていた。
気分的な問題と、長年しみついた疲労への肉体的行動が彼をそうさせる。
これは特段おかしなことではない。VR世界での出来事は全て脳内信号をプロセスとしている。
そして意外に知られていないことだが、人間の脳という物は学習機能があるために錯覚を起こしやすいのだ。
傷を負えば痛いと感じる、というのは小さい子供でもわかっている当たり前のことだ。故に、脳は過去の経験から傷を負った、もしくは負うとわかっている場合、脳がその際に必要な体内活動を無意識的に要求する。
何かにぶつかった時、たいして痛みを感じないのに「痛い」と言ってしまうのはこれの典型だ。
当のクラインも、実際には肉体的疲労は感じず、息が苦しいわけでもないが、全力疾走をこれでもかと続けた結果、脳の錯覚によって現実世界(リアル)よろしく疲労を色濃く表すポーズを取っていた。
「お疲れ様ですクラインさん」
そんなクラインに笑顔を向けるのは、白いワンピースから健康的な素足をにゅっと生やし、長く艶のある黒髪に麦わら帽子を被ったまだあどけない少女、ユイだった。
今日は先日クラインから口説かれ──もとい申し出のあったデートについて、ユイが必死に大好きな両親──和人/キリトと明日奈/アスナのことだ──を説得して敢行されていた。
場所はALOの空に浮かぶ鋼鉄の城、浮遊城アインクラッド、その第二層である。
アインクラッドはあの最低最悪なデスゲームとなったSAO──ソードアート・オンライン──のそれと基本的には同じものだ。
昨年春頃に有志によってALOにアップデートという形で導入されて以来、難易度を当時よりも跳ね上げての再来という形でVRプレイヤーはもちろんSAO生還者(サバイバー)を沸かせている。
当然、《これはゲームであり遊び》なので、かつての悲劇のような心配はない。そこは安全策が厳重に張り巡らされている。
だからこそここアインクラッドにおける人口密度はそれなり……なのだが、さほどこの辺りの層にプレイヤーは多くない。
理由の一つとして、ここはアインクラッドと呼ばれる新エリアではあるものの、低階層なことが上げられる。
開放されたばかりの時期はまだこの辺りも相当な賑わいを見せていたのだが、《最前線》が何十層も上となった今ではプレイヤーの興味や求めるリターンはより上層へと傾いていた。
上層へ行けば難易度が上がる代わりにその分リターンも多くを望めるからだ。
これはMMORPG系ゲームにおける必然的なことでもある。新しいアップデートでも無い限り、自分のレベル帯──能力とも言い換えられる──を下回るエリアや一度踏破したエリアは再訪する旨みがガクンと下がる。
もちろん全く旨みが無いわけではないし、新たなクエストが発行されていたり見落としの発見や、見知らぬ人への協力を楽しむなどプレイスタイルは人それぞれだ。
今もってALOプレイヤーは──過渡期は過ぎたものの──ゆるやかな増加傾向にある。新参プレイヤーや未踏破プレイヤーも少なからずいる以上、いくら過疎化しているエリアと言えどプレイヤーが皆無ということは流石に無かった。
ただ、今のアインクラッドは第一層から第四層程度までは現時点のALOにおいて特にプレイヤーが少ないエリアと呼されていた。
「お、おう……危なかったぜぃ……!」
ぐいっと掻いてもいない顎下の汗を拭う仕草をしてから、ようやくクラインは姿勢を正した。
クラインとユイがいるのは二層の中でも比較的大きくない町、《タラン》だった。迷宮区には一番近い町だが、取り立てるほど何かがあるというほどの場所でもない。
クラインはそのまま牧場のゲートをくぐった。ゲートの上には大きな角を生やした牛の顔を象ったレリーフが飾られている。
第二層には珍しくない場所だった。《タラン》を始め主街区の《ウルバス》にもこうした場所はいくつかある。
アインクラッドの各階層はそれぞれ何らかのテーマを持っていて、キリトがかつて《モーモー天国》と評したこの第二層は動物……それもとりわけ《牛》にそのスポットが充てられていた。
もっとも、この階層に湧出(ポップ)する牛型モンスターを始めフロアボスなどはどちらかというと《牛人間》と呼ぶ方が相応しく、アスナなどは「こんなの牛じゃないでしょ!」と嘆いていた過去があるのだが。
そんなことを知る由もないクラインは何を思うこともなく牧場の主人の元へ向かう。第二層ではそのテーマ性もあってか牧場経営が盛んという設定があるらしく、特産品物もそれにちなんだものが多い。
牧場主は白い前掛けエプロンに白いナプキンを頭に巻いたおばさんだった。頭の上にはクエスト受注中のアイコンが浮かび上がっている。
「無事終わったぜ、牛乳配達」
「ええ、本当にありがとう。これはお礼の気持ちです」
クラインがおばさんに報告すると、おばさんは深々と頭を下げてから一つの壺を手渡した。
クラインはそれを受け取るとユイに向かって高々と掲げる。
「ほれユイちゃん、ゲットしてやったぜ」
「わあ! ありがとうございます!」
ユイは目をキラキラと輝かせている。
このクエストの報酬(リワード)である《ベルベルクリーム》を所望したのは何を隠そう彼女だったのだ。
二人は《タラン》中心部に戻ると、適当なベンチを見つけてから腰かけた。
ユイは移動中ずっとクラインから渡されたクリームの入った壺を大切そうに抱えていた。
「ユイちゃんそンなにこのクリームが食べたかったのか?」
「はい!」
元気よく答える少女の顔にクラインの顔も綻んだ。
普段は外見年齢不相応に大人びているところを見せるユイだが、こういうところはまだまだ少女そのものだと思える。
クラインは最初に頼まれ、一層にて購入しておいたパンをシステムウインドウから呼び出し、オブジェクト化してユイに手渡した。
ユイはそれを受け取ると、左手で壺オブジェクトに触れてからぐいっとパンに塗りたくる。
あっという間に仮想の鼻腔に甘い匂いが舞い込み、ユイはさらに目の輝きを増した。
クラインも同じようにしてクリームを塗ると、二人は目を見合わせてからがぶりとパンへ食いついた。
「……やっぱりおいしい!」
感激したようにユイは喜んだ。
ニッコリと零れんばかりの笑みを張り付けてはしゃぎ、はぐはぐと残りを頬張っていく。
小刻みにバタつかせる素足が何とも微笑ましい光景だった。
クラインはその姿を見て、頑張った甲斐があったと思いながらふと引っかかった事について尋ねる。
「やっぱりってことは、ユイちゃんはコレ食べたことあンのか?」
「いいえ。知識としては《識って》いましたけど」
ユイの言い回しに僅かに首を傾げながら、クラインはまあいいか、とそれ以上追及することをやめた。
実際どうでもよかったのだ。ふと気になったから聞いただけで、彼女が喜んでいるなら質問の答えは気にしない。
折角の《デート》なのだから、楽しめればそれでいいのだ。
「ありがとうございますクラインさん」
「ン? このクリームのことか? なァにどうってことねェって!」
クラインはパンの残りをバクバクと食べつくすと、ドンと胸を叩いた。任せておけ、というポーズである。
漢クライン、女の子のお願いは可能な限り叶えるのだった。ましてやデート相手となれば尚更である。
「それもありますけど……私は《ここ》で……《この場所》で、《クラインさんとこのクリームを乗せたパンを食べる》という《経験》を《自分でしておきたかった》んです」
「……?」
ユイの言うシチュエーションの意味がよくわからない。
一体この行為のどこが彼女の琴線に触れているのかクラインには知る由もなかった。
いや、この世界の誰であろうと、恐らくその本当の意味……真意を知ることは出来ないに違いない。
そういった意味では、クラインに理解が出来ないのは無理のない事であり、責めることはできなかった。
「しっかしユイちゃん、本当にこンなンで良かったのかい?」
「はい」
「そりゃユイちゃんが良いなら良いンだけどさァ」
今日のデートコースはクライン想定の物、ではなくユイコーディネートによるものだった。
クラインにもいくつかプランはあったのだが、ユイは最初に「今日のデートコースは私に決めさせてください」とお願いしてきたのだ。
そのデートコースとは、《アインクラッドを第一層から第三層までクラインと歩くこと》だった。
その為、途中でいくつかの寄り道はするものの、基本的にはユイが行きたいところにクラインは付いていくというスタンスで今日のデートは進んでいた。
「つまらない……ですか?」
「ン? いや全然そンなことはねェけど、逆にユイちゃんは楽しめてるかなって思ってさ」
ユイは言いながら、麦わら帽子を脱いで、恐る恐ると言った様子でクラインを見上げた。
少しだけ不安そうになってしまった少女に、クラインは安心させようとニカッとした笑みを向ける。
加えてそのままゆっくりと艶のある黒髪に手を伸ばし、優しく髪を撫でながら続けた。
「こう見えても俺だっていろいろ考えていたンだぜ? キリトのヤツからカメラとか借りて現実世界でユイちゃんとどこかに行こう、とかな」
「それも……良かったかもしれませんね」
ユイは小さく微笑んでから腰を上げた。
枝毛の無い、スラッとしたサラサラのロングヘアがサラリとクラインの手によって梳かれ、靡く。
「さあ、第三層へそろそろ行きましょうか!」
「また迷宮区を通って行くのかい?」
「はい! 良いですか?」
「ソリャ構わねーけどよ」
アインクラッドの迷宮区とは徒歩で次層へ至るための道程である。
言わずもがなダンジョンフィールドであり、安全圏ではない。
簡単な話、モンスターが普通に湧出(ポップ)し、戦闘になるのである。
湧出(ポップ)モンスターはクラインの敵ではないし、ユイも《システム上》攻撃されることは無い。
しかし折角のデート中に戦闘ばかりしているのはどうか、とは流石のクラインも感じていた。それならいつもみんなで集まって遊んでいるのとあまり変わらない。
迷宮区など使わなくても、主街区の中心部にある転移門からなら解放されている層へと自由に行き来できるのだから、それを利用すれば良いのだ。
だがユイはそんなクラインの疑問に少しだけ申し訳なさそうな顔をしながら、頼んできた。
「ごめんなさいクラインさん。どうしても《自分の目で見ておきたい》んです」
ユイが一体何を思い、どんな思惑があるのかクラインには理解できない。
だが、今日はデートである。それなら、オンナノコの願いは聞き届けるのが男というものだ。
「うっしわかった。まかしときなって!」
「しっかし……懐かしいなァ」
「クラインさんも昔ここを通ったんですか?」
アインクラッド第二層迷宮区フロア。迷いなく進むクラインの隣を半歩遅れで付いてくるユイがピョコッと顔を覗き込むようにして尋ねてきた。いつの間にか麦和帽子は消えている。
クラインは目端で捉えたモンスター湧出(ポップ)エフェクトに向かって得意の《カタナスキル》をお見舞いし、完全に電子のポリゴンガラス片へと変えてから──答えた。
「そりゃあな、当時は誰だってこうやって攻略された後の迷宮区をおっかなびっくり通ったモンさ。仲間たちと固まって歩いて、Mobトーラス相手に全員でがむしゃらにソードスキル振るったりしてな。まだまだSAOでの戦闘に慣れきっていなかったから今思えばアリャ随分とオーバーキルだったろうなあ」
懐かしむようなクラインの顔を見て、しかしユイは「あれ?」と首を傾げる。
何故そのクライン達は迷宮区を通ったのか、と。
「でも、転移門で上には行けたはずですよね?」
「そりゃあ行こうと思えば行けたさ。でもなユイちゃん、上に行けば行くほど強い敵がいるのに、弱いマンマの俺たちじゃあっという間に殺されちまうだろ?」
「あ……」
「だから俺たち……《風林火山》はゆっくり低層を攻略してレベルを上げて行ったのさ。《攻略組》に合流するまでには大分時間がかかっちまったけどおかげで良いこともあったンだぜ?」
「良いこと?」
「ああ。攻略組の連中は常にフロントラインで戦い続けているから通り過ぎた層のクエストには基本興味を示さねェ。取り零しがあってもドンドン先に行っちまう。まあ当然のことなンだけどよ」
SAOのクリア……それすなわち全プレイヤーの解放。
デスゲームと化した世界からの生還は当時誰もが望んでいたことだ。
戻ってやりたいことがまだ一杯あったし、早く戻らなければならない理由もそれぞれ多々あった。
時間がかかればかかるほど、社会復帰も《命》も危うくなっていく。
解放を待つプレイヤーは始まりの街に五万といた。そんな人達のためにも、攻略は速度を求められていた。
「ンで、だ、そンなわけだから《クエストの効率化》なンてことには気を向ける余裕はないわけで。逆に先に進むのにビビリまくっていた俺たちは何度も似たようなクエ繰り返してな。結果、クエストの効率化が自然と身についていったンだよこれが。そうやって覚えた事をまだ未達成の奴らに協力して広げていく……それがなンていうか、こう言ったら変だけどよ、結構ジュージツしていたっていうか」
「あ、もしかしてそれでさっきあの《牛乳配達》のクエスト、クリア出来たのですか?」
「まァな」
「パパも一人じゃ相当キツイって言っていたのにクラインさんクリアしちゃうから実は結構ビックリしていました」
「キリトが? へえ、あいつがそンなことをねえ……これでようやく一コ勝ったぜ」
「あ……」
瞬間、ユイはとてもバツが悪そうな顔になった。
言ってはいけないことを言ってしまった……そんな顔だ。
「ユイちゃん?」
「……すいませんクラインさん。今言った事はパパとママには内緒にしてもらえますか?」
「別にいいケドさ、なンでだ?」
「……」
ユイは口籠る。
ずっと感じていたことだが、今日のユイは何か変だった。
隠し事をしている……とはクラインも思うのだが、それが一体どんなものなのかまではわからない。
ただ人の、ましてや女の子の秘密や隠し事を根堀り葉堀り聞く趣味はクラインには無いため、腑に落ちない点はあるものの快く了承する。
「まあユイちゃんがそう言うなら秘密にしておこうや。その代わり一層のアレはキリトやアスナさんには秘密にしておいてくれよ? ユイちゃん」
「一層のって……《クラインさんが私の裸を見た》ことですか?」
「しぃぃーッ! ユイちゃん声がでかいって!」
クラインは周囲をぶんぶんと見渡し他にプレイヤーがいないことを確認し、安堵する。
いかに人の少ないエリアのダンジョンとは言え、何処に目や耳があるかはわかったものではない。
それに、その件は飽くまで不可抗力なのだ。不可抗力なのだが、本人に事実を言い回られては男としては立場的に非常に危うくなる。
「わかりました。パパとママには秘密にしておきます」
フフッと小さく笑いながらユイは了承した。
その返事にホッと胸を撫で下ろしながらクラインは第一層でのことを思い出す。
第一層の迷宮区に最も近い町《トールバーナ》。ユイが一番最初に行きたがったのはその町の広場だった。
この広場は当時、初めての攻略会議が行われた場所として、少しだけ有名だった。
特に何があるわけでもない、石畳の小さい半径アリーナ状になっていて、向かいにはステージがある。
ここで初めて音頭をとったプレイヤーは第一層攻略時に亡くなっているが、彼がいたからこそその後の攻略があるとされていた。
ユイは薄らと目を細めてステージを見渡すと、次いで町の東へと足を向ける。どうやら目的地があるらしく、クラインは黙ってユイについていった。
街を歩いているのはほとんどがNPCだが時折プレイヤーも見受けられる。何人かとすれ違った時、クラインは引っ張られるようにすれ違った相手へと振り返った。
肩まである緑のセミロングヘアに露出が高めな和風をイメージさせる着物もどき装備の女性プレイヤー。
股下からのぞかせる素足がなんともたまらない……と思ったところで慌ててクラインは視線を元に戻す。
ユイはこう見えて鋭く結構嫉妬深い。デート中に他の女性に目を奪われたことなどがばれたら雷が落ちることになるのは必至だ。
しかし、ユイは何の反応も示さなかった。ばれなかったのかもしれないとホッと胸を撫で下ろしクラインは何事も無かったかのようにユイについていく。
《トールバーナ》の東部は牧草地帯が広がっていて、ぽつぽつと農家らしい家が散見される。
その中でも小川沿いにある大きな家へとユイは足を踏み入れた。家の真横には小川を動力源とした水車が設置されており、ごとんごとんと風情ある音を醸し出している。
実際に泊まるつもりは無かったのだが──そもそも今夜十二時までにはユイの所有権を返す約束である──ユイたっての希望によりクラインはこの家の部屋を借り入れた。
クラインの所持ユルドはそれなりにある為、当時と同じ金額──一コル一ユルド換算──の支払いは彼にとって軽いものだった。
借りた部屋は二階の一室で、これまたかなり広い。無料でミルクも飲めるとあって早速クラインはピッチャーからグラスにミルクを注いで一気飲みした時だった。
「クラインさん、私ちょっとお風呂に入りますね」
「おう……おう?」
答えてからすぐに疑問符を浮かべる。
確かにこの部屋には【Bathroom】と書かれたプレートがかかっている扉がある。
だが何故このタイミングで? と深く考えている余裕はクラインには無かった。
「覗いちゃだめですよ?」
茶目っ気たっぷりなユイの笑みにクラインは慌てだす。
首をぶんぶんと振って行儀正しくソファーに腰掛け、ぐびぐびとミルクを飲んで精神を落ち着かせる。
【Bathroom】のプレートがかかったドアを穴が開くほど見つめながらそろそろ飲んでいるミルクが二桁杯に届きそうとなったとき、ようやくその扉は開かれた。
「ぶふぅぅぅぅううっ!?」
瞬間、クラインは白濁液を口から噴出した。
幸いにも噴出された白濁液……ミルクは空中で霧散し床を濡らすことは無い。もっとも濡らしたところでたちどころに乾いてしまうのだが。
しかしそんなことに配れる気などクラインは持ち合わせていなかった。噴出したミルクと一緒に放出してしまった。
「ユユユユユユ、ユイちゃん……!?」
「あっ!? 《ママ達》と一緒に入った時の癖でつい……」
ユイの体はうっすらと煙る湯気エフェクトの中で一糸纏わぬ、綺麗な肌色一色だった。
流石のユイも慌てて戻り、一瞬で着替えを済ませて再び出てくる。
少しだけ顔を赤く染めて、おずおずと向けられる視線はクラインに少なくない衝撃を与えた。
その気持ちを打ち消すために二人はそのままユイが希望した迷宮区へ向かい、敵をバッタバッタと切り倒しながら二層へと進んだのである。
「今日は楽しかったか? ユイちゃん」
「……はい」
三層の探索を終えたところでクラインが尋ねると、少しだけ元気が無い声でユイが答えた。
ユイは三層では何を求めるでもなく、ただクラインと街やフィールドを歩いて回るだけだった。
時折、森の奥深くを睨みつけるようにしてジッと立ち止まったり、何かのオブジェクトに触れてはゆっくりと目を閉じて動かなくなるが、それを除けば三層は終始散策していただけだ。
それでも会話は弾んだし、楽しいことも一杯あった。だから彼女の返事はとても気持ちの良いものを期待していたのだが……そんな思惑とは反対にユイは沈んだような顔をしている。
クラインが「あれ? 俺何かやらかしたか?」と思うのも仕方のない事だった。
「クラインさん、今日は……いえ、これまでありがとうございました」
「なンだよユイちゃん、水くせえなあ。ユイちゃんさえ良ければこれくらいいつだって……」
「……もう……──め、なんです」
「えっ……」
彼女が呟いた言葉をクラインは聞き取ることが出来なかった。
ただ、
「ううん、なんでもありません……《さようなら》クラインさん」
彼女が最後に浮かべた笑顔は、とても哀愁を帯びていて。
徐々にその姿を透明化させ、消える瞬間に放たれた言葉は……まるで《今生の別れ》であるかのような……そんな根拠の無い不安をクラインに与えた。
深い深い底の底。
表現しがたい暗闇の中で、薄く発光するユイは膝を抱えて揺蕩っていた。
ここは水中ではない。しかし彼女の体は水中にいるかのように揺蕩っている。
ポロン、と小さい水泡が生まれて、溶けた。水泡は次から次へと生まれては……溶けていく──《無くなっていく》。
水泡の発生源はユイだった。ユイから生み出され、無へと回帰される。
ユイは尚一層膝へと自分の顔を埋めた。揺蕩う漆黒のロングヘアが、肩を撫でる。
彼女の小さい体は、少しだけ振動していた。
「……ぅっ」
初めて音らしい音が世界に発生する。
嗚咽……と言う種類に分類されるデータ郡から選択されたそれは、やはりユイから発生したものだ。
この世界にはユイ以外の物は存在しない。彼女だけのプライベート空間……ではなく人には認識できない電子の世界。
「……こんな気持ちになるのなら、あの時……」
ユイが発した言葉は決して誰にも聞かれない。ログが保存されるわけでもない。
これは単なるコンピュータ上にあるAI……人工知能内における演算過程に過ぎない。
現実時間にして一秒にも満たない一間で、ひたすらなゼロとイチのイエスノー判断を高速処理しているだけだ。
ユイは顔を膝に埋めたまま左手を宙に掲げる。
そのまま手先で何か操作するような仕草をすると、何も無い空間にいくつものウインドウがぶわっと浮かび上がった。
その中の一つ、顔を膝に埋めたユイの正面に浮かぶウインドウには……クラインの顔があった。
そのクラインの頬に口付けをしているのは……ユイだ。クラインは驚いて固まってしまっている。
そのウインドウにユイの手が触れ────────その手が、《ドット抜け》した。
「……ッ!」
ユイは力を込めてウインドウに手を触れる。
すぐに手は何の変化もないいつもの状態に戻ったが、先よりも体の震えは増していた。
「……《残り時間》はもう……長くない。《カウントダウン》は始まってしまった」
ユイは撫でるようにしてウインドウ上のクラインの頬に触れる。
顔は、まだ膝に埋めたままだ。
「《あの時》から、《こうなる》のはわかっていたのに……」
ユイには、全てが《想定内》の事態だった。
それを覚悟の上で彼女は今日まで過ごしてきた。
ただ《想定外》だったものが一つ。
「痛いって……こういうこと、なんですね……ママ、パパ」
大好きな両親に、現実世界あるいは仮想世界では決して口にしたことのない彼女の……弱音。
本来AIである彼女に《痛覚》は存在しない。しかし、今ユイは確かに《痛み》を感じていた。
「でも……まだ、だめです。せめてもう少し……《私はどうなってもいいから》もう少しだけパパとママの為に……データは揃いました。《今度こそ気付いてくれる》…………そのためには」
ユイは、初めて顔を上げた。
その双眸からは雫が滴り落ち……無へと還元される。涙エフェクトという名前ではないそれは、機械的にはやはり水泡と呼ばざるを得ない。
ユイが触れているウインドウに映っているのは……これまで《忘れたことのない》初めて会った時のクライン。
ユイは口の中で「ごめんなさい」と呟いてから、目を閉じた。ウインドウに触れている手は、震えている。
ゆっくりと、彼女の瞼から零れている雫が透明になっていき……消えていく。震えが、止まる。
「…………………………《感情制御リプログラム》、実行」
音もなく、ウインドウが砕け散った。
「ピッ」と向かっていたデスクトップから電子音が鳴る。
キリト/和人は「おっ」とその発信音の原因に気付いた。
ALOでは友人たちと目的のクエストを見事達成し、欲しいレアアイテムも手に入れたので今日のところは解散し、皆現実世界へと戻ってきていた。
和人はその後、PCでいくつか作業をしながらユイの帰還を今か今かと待っていたというわけだ。
「帰ってきたか、ユイ」
和人の少しだけホッとしたような声。
別にクラインのことをそれほど疑っていたわけではないのだが、それとは別にやはり心配してしまうものだ。
『あ、パパ。お帰りなさい』
「それはこっちの台詞だぞユイ。それでどうだった?」
『何がです?』
「何って今日のことだよ」
『今日……? 何のことです?』
ユイのとぼけている……のとは少し違う不思議そうな声に、和人は首を傾げた。
《いつものユイなら》その日あった事をまくし立てるように話してくれるのだが。
それとも彼女もやはり乙女。いくら父親と言えど初デートのことは話さず自分の胸の中に仕舞っておきたいのだろうか。
「言いたくないんなら無理に聞かないけど……クラインと出かけてきたんだろ?」
『………………ああ、《そういえばそうでした》。はい、とっても楽しかったですよ!』
少しだけ間を空けた後、ユイはいつものようにはしゃでいでマシンガントークに花を咲かせ始めた。
「聞いていますかパパ!」と嬉しそうに話をしたがるユイに、和人は一瞬よぎった先の違和感を「考えすぎか」と打ち消す。
ただ──────気のせいだろうか。
ユイの話は彼女自身の経験談のはずなのに、時々まるで《他人事》のように聞こえてしまうのは。