「そう言えばユージーン将軍の話、聞いた?」
そう切り出したリズベットの問いに、アスナは忙しなく動かしていた手を休め少しだけ顔を引き攣らせた。
ユージーン将軍と言えば火妖精族(サラマンダー)のハイプレイヤーだ。火妖精族(サラマンダー)領主、モーティマーの弟にして種族部隊における地位も№2──戦闘力のみにおいてなら№1と言っても過言ではない──を誇っている。
さらにゲームサーバー内に一本しか存在しないオンリーワンの伝説武器(レジェンダリィウェポン)《魔剣グラム》を所持していることを考えると間違いなくALO──アルヴヘイム・オンライン──最強プレイヤーの一角を担うだろう。
あの武器に付加されているエクストラ効果、《エセリアルシフト》はそう易々とは攻略できない。ただ、彼は少々性格に難があった。
「そう嫌そうな顔しなさんなって」
「だって……」
ユージーンは強いプレイヤーが好きなことで有名だった。
バトルジャンキー……だというのならまだ可愛いもので、彼の目的を知った今となっては辟易するばかりでもある。
彼の目的は自分が納得するほどの強い相手を己の属する種族領の領地へと呼び込み、結婚するということだった。
他人に勝負を挑んでは自分の眼鏡に適う相手を見つけると娶るべく口説いてくる……という彼の有り方は最早ALOで知らぬ者のいないポピュラーな話だ。
ただし前述したとおり彼自身も相当な腕前の為、彼を満足させられるプレイヤーはALO広しと言えど中々いない。
必然的にユージーンは、これまでに見つけたことのある数少ない《強敵》と書いて《ヨメコウホ》と読む相手の元へ赴くことが多くなる。
そこでは交渉とは名ばかりの求婚という体裁を借りたガチバトルを強いられ、何故か負けると結婚を了承したことにされてしまうという意味不明ルールが彼の中では採択されている。
これが対岸の火事であったならアスナも「迷惑な人もいるねえ」と世間話程度に笑ってスルーできるのだが、我が身や《彼》にまでその毒牙が及ぶとなると無視することも出来ない。
そう、ユージーン将軍と不本意ながらも戦った──それも眼鏡に適う戦いを見せてしまった──アスナや彼女に近しい何人かは全く持って嬉しくないことにユージーン将軍の嫁候補入りを果たしていた。
無論全力でお断りしているのだが、彼はどうにもそれを聞き入れない。さらに良くない事に彼は強ければそれで良いらしく、《男性》であろうとその力量によっては求婚対象となる。
アスナの周りでは自分を含め既に三人が目を付けられていた。
アスナ、リーファ……そしてキリト。
ユージーン将軍が来るたびにお断りするか叩きのめすかするのだが、彼は一切めげずにフラッと現れては求婚バトルを繰り返してくる。
というより、自分の認めた相手は彼の中では既にほとんど嫁なのだ……傍迷惑な事に。
悪い人、という程でもないのだが、いい加減そういった勧誘……もとい求婚は止めてほしいものである。
アスナには既に心に決めた相手がいるのだ。彼以外と未来を歩む気はそれが例え《仮想世界》のことであろうとミジンコ一匹分たりとも考えられない。
同時に、そろそろキリトに手を出すのもやめてもらいたい。いろいろな意味で。
そもそもどうやったらそんなことが出来るのか、いつもいつも狙ったかのようなタイミングでユージーン将軍は現れるのである。
この前などは、リーファに教わったスカイダンスを彼と踊り、ふと見つめあって良い空気になり、もうすぐ互いの距離が零になる……というところで現れた。
流石に温厚──だと思っている──アスナもアレにはかなりの怒りを覚え、久しぶりに全力全開の最上位細剣技《フラッシング・ペネトレイター》をお見舞いし、一切の反撃を許されず赤い《リメインライト》となったユージーン将軍に対し蘇生可能時間である一分間をまるまる恨み辛みの籠った説教で責め続けたことはまだ記憶に新しい。
ちなみにキリトはアスナの《フラッシング・ペネトレイター》を見て、
「あの技は結構な加速距離を必要とするんじゃなかったっけ?」
などとアスナの攻撃スキルに対するややシステムを超えた無茶ぶりに──自分のことは棚に上げて──戦々恐々としていたことは余談である。
閑話休題。
ユージーンとはアスナにとってそういう相手であることから、あまり彼に関する話は期待できなかった。
精々またぞろ何か厄介ごとに巻き込まれるかもしれない……などといったマイナスイメージがどうしても先行してしまう。
「まあまあ、その様子だと知らないみたいね。ユージーン将軍の連日求婚バトル」
「……へ?」
リズベットの言葉に、アスナは素っ頓狂な声を上げた。
意味が分からなかったわけではない。意味がわかったからこそ、驚いたのだ。
手合せしたことのあるアスナだからこそ、良くわかる。ユージーン将軍の強さは本物だ。
その彼に連日勝負を挑まれる……ということはその相手は相当な強さを持っていることは疑う余地もない。
しかし最も驚くべきところは、どうやらそのバトルが現在進行形で続いている……という事実だった。
それはすなわち、その対戦相手が勝利し続けているということなのだから。
いくら空気の読めない、相手の都合をあまり省みないユージーン将軍と言えど相手の許可が無い限り日を置かずの挑戦はしてこない。
それぐらいのマナーは彼にも存在する。
しかしそんな彼が連日戦い続けているとなれば、相手プレイヤーは連日の挑戦を受け入れ、尚且つユージーン将軍に勝ち続けていることになる。
それは一体どれほどの豪傑……強者なのか、自身もそれなりに強い自負があるアスナは初めてこの会話に少しばかりの興味を持ち始めた。
アスナはテーブルに置いてある先日みんなで受けたクエストで入手した《九十九種のお茶がランダムで出るポット》をタップし、もくもくとした湯気を立ち上らせる味違いのお茶を三つ入れると、その一つをリズベットの前にコトンと置いた。
話を聞きましょう、という合図だ。もう一つは今の話を黙って聞いていた風妖精族(シルフ)のリーファの前へと静かに置く。
その瞬間、リーファの隣でテーブルに突っ伏していた猫耳アバター少女がピクリと反応した。
カップから放たれる芳醇な香りに獣よろしく気づいたらしいシリカは、眠い目をこすりながら猫のように顔を数回洗い、獣耳をぴくんぴくんと揺らせてから突っ伏していた顔をのろのろと上げる。
ぼんやりとした定まらない視線が徐々に実像を結び始め、現状を理解した。
「ふみゅ……良い香り、ですね~」
「あ、起きた? それじゃシリカちゃんの分も入れるね」
シリカの様子に苦笑しながら、アスナはシリカにもアツアツのお茶を用意し、改めてリズベットの話を聞くべく向き直った。
今日は残り僅かとなった冬休みの宿題をみんなで片付けるべく、アインクラッド二十二層にあるアスナとキリトのプレイヤーホームへと集まっていた。
アスナとキリト、そしてユイの帰るべき場所とも言えるこの場所はいつからかみんなの溜まり場にもなっていて、何か集まるのなら大抵はリズベットのお店かこの家と相場が決まっていた。
最も、比率的にはリズベット武具店よりもこちらの方が多い。その理由としては、誰もが言葉にできない居心地の良さを感じてしまうからだろう。
アスナ自身、ここがとても気に入っていて、現実世界よりも安らぐことが多々ある。他の人にもそれが伝染するのは喜ばしい事ではあるのだが、どうにもこの場所を気に入ったリピーターが後を絶たず、知り合いがひっきりなしに訪ねてくるのは少々悩みどころでもあった。
本当に偶には、彼と娘と《家族三人》の時間を持ちたいと思わないでもない。賑やかなことが嫌いではないのだが、やはりそれとこれとは別感情である。
そのキリトは、と言えば赤々と燃えるペチカのそばで、揺り椅子をゆっくりと揺らしながら眠っていた。
この揺り椅子はクリスハイトからの贈り物だが、使い心地は悪くなかった。キリトなどは時間が空くとこの椅子に座り、すやすやと眠りに落ちてしまう事は日常茶飯事で、寝室のベッドよりもこちらで眠ってしまう事の方が多いくらいだった。
理由としては使い心地もさることながら、かつてデスゲーム時代のSAOにおいてこの家で使っていた揺り椅子に似ていることがあげられるだろう。
その揺り椅子も、もともとはアインクラッド第五十層主街区《アルゲード》にてエギルが開いていた店の二階にあったものを当時結婚祝いだとして譲り受けた物だ。
当時からキリトはその椅子を大層気に入っていて、揺り椅子に腰かけているとふとした拍子には眠りこけてしまう。アスナは何度もそんなキリトを見ては苦笑して、一緒に甘い眠りを共有したものだった。
「ありがとうございます……」
シリカはアスナに礼を述べると、コクコクとカップに口を付け、眠気をさらに追い払っていく。
そんなやり取りを見終えてからリズベットは会話を再開した。
「二十四層主街区のちょっと北にでっかい樹が生えた観光スポットの小島があるじゃない? あそこの樹の根元で午後三時に挑戦者求むって人がいるんだけど」
「それが相当の腕前、ってこと? スタイルは?」
「戦い方はちょっと違うけど属性的にはキリトに近いんじゃないかな。片手直剣使いの脳筋タイプで魔法は使わないみたい。その戦い方で毎日何十人と斬っているみたいよ」
「へぇ……」
彼とほとんど同じスタイルの強者、というのはこれまたアスナの興味を大いに刺激した。
しかしそこでふと疑問が残る。
「でもよくそんなに挑戦者が集まるね。その話しぶりだとまだ挑戦者募っていて、毎日コンスタントに挑戦者がいるんでしょ?」
腕試しや物は試し……で挑戦する人はいるだろう。
だが、挑戦者が居続けるとなると少々腑に落ちない。
ユージーン将軍は別としても、目的もなしに戦い続けるだけのプレイヤーは実はそう多くもない。
そもそもデュエルにおけるデスペナルティはなかなかに重く、取り戻すのには時間がかかる。
となれば……。
「まぁ最初は無名の選手が対戦者求む、なんて生意気だってそれなりの古参プレイヤーが痛い目合わせる目的で行ったらしいんだけど……返り討ちにあったみたいでね。そこから強いって噂が流れに流れてってのもあるんだけど……お察しの通りBETがなかなか凄いのよ」
「高額ユルドとか? それともレア武器? まさか《伝説武器(レジェンダリィウェポン)》級ってことはないわよね?」
「違う違う。けど人によってはそれ以上の価値かもよ?」
「それ以上の……?」
「そう。勝者にはOSSの秘伝書がもらえるの。なんと十一連撃!」
「じゅーいち!?」
思わずアスナも恐れ慄く。
OSSとはオリジナル・ソードスキルのことだ。
ALOにおいてアインクラッド実装に伴いアップデートされたソードスキルというSAOの遺産。
運営はこれをただそのまま使用することを良しとせず、ほぼすべてのソードスキルに属性ダメージを付加した。
さらに運営は新しく、自身で考えたオリジナルのソードスキルを生み出すことをシステム的に可能としたのだ。
これには多くのプレイヤーが沸き、《ぼくのかんがえたさいきょうのわざ》を編み出すべく日々剣を振り続け……挫折したのだった。
オリジナル・ソードスキルを登録する手段は非常に簡単で、システムメニューからOSSタブの《剣技記録》をスタートさせ、実際に技を記録するのだが、これがシステム的にソードスキルとして認められるには様々な規定があった。
第一に既に登録済みの動きは採用されない。単発モーションは既にほぼ基本技として存在するため、必然的に登録するなら連続剣が求められてくる。
この連続剣がなかなか厄介で、体に少しでも無理があるとシステムとしては認められず、また実際のソードスキルに迫るスピードでなくてはならない。
つまり、本来システムアシストがあって初めて使えるソードスキルのモーションをアシストなしで再現することが求められているのだ。
それだけ難易度が高い分リターンもそれなりで、対モンスター、対プレイヤーに対してOSSは相当な補正がかかり、威力は絶大となる。
アスナ自身も五連撃のソードスキルを編み出すことには成功したものの──それでも中々凄いことなのだが──それで気力を使い果たし、さらなる上位剣技への挑戦は未だしていない。
先のユージーン将軍でさえ生み出せたのは八連撃が最大とのことで、それを上回る十一連撃とはいかほど凄いのか、益々興味は深まるばかりだ。
しかしこれで合点はいった。OSSは一代に限り伝承することが可能となっている。最強の一角を担うユージーン将軍でさえ勝てないプレイヤーの、それも十一連撃OSSとなれば皆喉から手が出るほど欲しいはずだ。
挑戦者が後を絶たず、有名になるのも頷ける話だった。
しかし、そこでさらなる疑問がアスナに湧いてきた。
「えっと、その人……」
「名前はわかんないんだよね、種族は闇妖精族(インプ)で通り名は《絶剣》って呼ばれてるけど……って、そうだ。リーファは分かるんじゃないの?」
「それを言うならリズさんだって」
唐突に話を振られたリーファはバツが悪そうに苦笑しながらリズベットへ返す。
リズベットも「やぶへびだった」と肩を竦めた。意味が分からないアスナとしては少々居心地が悪い。
それに気付いたシリカがアスナに説明するべく口を開いた。
「実はリズさんとリーファは絶剣さんと戦ったんですよ。ものの見事にやられちゃいましたけど」
「うるさいわね、何事もやってみなけりゃわからないでしょーよ」
「経験だもん」
二人は揃ってやや悔しそうに唇を尖らせた。
リズベットとリーファの二人はデュエルの際相手プレイヤーの名前を見ているはずなのだが、目の前の戦闘に思考が集中してしまってプレイヤー名を覚えていないという少々お粗末な結果だった。
余談だがシリカはリーファと同年代なこともあってリアル共に特に仲が良い。
既にお互いほとんど呼び捨てで呼び合い、休日には一緒に出掛けたりするほどだ。
あのウェブサイトで知り合って以来、二人の絆は強固になっていた。お互い、今はそのサイトの《とあるサービス》に期待して毎日チェックしていたりもする。
「へえ……」
試合結果を聞いたアスナは改めて《絶剣》なるプレイヤーの実力に感嘆する。
半分鍛冶師能力構成(ビルド)のリズベットはともかく風妖精族(シルフ)でもかなりの腕前を持つリーファがやられたとなると相手の実力は本物だろう。
それはユージーン将軍を退けていることからも窺える。
話を聞いたアスナは、少しだけ自信を無くした。リーファが勝てないのであれば自分も無理かもしれない、と。
「やってみなければわかりませんよ」
リーファは少しだけ恐縮しながら答える。
しかし世辞ではない。リーファ自身何度かアスナと腕試しバトルをした経験や一緒に戦った事のある経験から、彼女の強さの底が未だ見えないでいた。
彼女ならあるいは、という思いがないわけではないのだ。
「ん……それならまあやるだけやってみてもいいかな……ってそういえば」
そこでアスナはこういう話が好きそうな人の事を思い出す。
ゆっくりと視線をペチカ傍で静かに動く揺り椅子に向けると、未だ黒い影妖精族(スプリガン)の少年は双眸を閉じたまま現実同様のあどけない寝顔を晒していた。
彼のアバター容姿はSAO時代の物を引き継いでいない。つまり、現実世界の彼とは少々違った顔つきなのだが、どこかリアルの面影を匂わせるのはユイの要望によって変えられたヘアスタイルのせいだろう。
小竜ピナが、獣使い(ビーストテイマー)である猫妖精族(ケットシー)のシリカの頭を定位置としているように、ユイの定位置はキリトの頭やら胸ポケットやらだったりする。
そのユイが頭の上に居辛いとキリトに上申し、いかなやり取りがあったのかアスナには不明だが、比較的アバター容姿には不精なキリトがユイの提案を珍しく受け入れてヘアスタイルチェンジをわざわざ床屋ショップで行ったのである。
おかげで、SAO時代のステータスしか引き継いでいない筈のキリトはしかし、ツンツンとした黒頭からリアルに少々似ているサラリと下ろした黒頭にジョブチェンジされていて、なんというか……アスナの好みを益々突く出で立ちになっていた。
そのキリトの腹の上ではフワフワとした和毛を持ったピナが丸くなって眠っており、さらにピナを布団代わりにユイが小さくなって眠っている。
ピナは基本シリカ意外になつくことはないが、何故かキリトには比較的心を許していて、本当に不思議なのだが普段シリカの傍から離れることのないピナはキリトが眠っている所に出くわすと自身もキリトの元へ飛んでいって眠りを共有せんと丸くなるのである。
それを見るたびにアスナは何故か……妙な勘繰りを入れてしまう。
脳裏によぎるのは思い出したくもない須郷伸之に囚われていたキリトを助け出した後のことだ。
ピナ……フェザーリドラの姿を借りたヒースクリフ団長、いや茅場晶彦が助言とも取れる言葉を残した事はアスナも忘れていない。
キリトの話も合算するとどうやら本物の──この表現が正しいのかは分からないが──茅場晶彦はその時既に亡くなっていたそうだ。
アスナは電子的な分野には少々疎く、詳しくは分からないが自身の脳をスキャンして亡くなったという。スキャンの成功率はほんの僅かだったそうだが、ああして実際に相まみえたことから、キリトはそれに成功したのではないかと睨んでいた。
速い話、茅場晶彦はその記憶と意識を電子データとして変換し、電子の世界を彷徨っている可能性があるとのことなのだ。
かなり荒唐無稽な話ではあるが、実際に自分の目で見ている以上、お伽噺として切り捨てることも出来ない。
キリト自身も実際ピナと茅場晶彦の繋がりがどれほどなのかは想像もつかないと言う。
ただ、《箱舟》……と言っていたそうなので、単なるバックドアの一つでしかなく、めったなことではピナを経由して自分たちの前には姿を現さないだろう、というのが一応キリトの見解であった。
アスナもまたその考えを支持しているのだが、こういう時には「……まさかね」と思ってしまう。
「おーい……熱い視線送ったまま止まるのいい加減止めてくんなーい?」
リズベットの諌めるような声にハッとアスナは自身を取り戻した。
いけないいけない。内容はどうあれ彼が関わるとつい思考がトリップしてしまう。
「え、えと……キリト君とかそういう話好きそうじゃない?」
「あーまあ、ねえ……」
リズベットの歯切れがやや悪くなる。
アスナは首を傾げた。何かあったのだろうか。
「アスナさんはこの前帰ってきたばかりで、一緒にそのポットのクエストやった時にはお兄ちゃんも比較的いつも通りだったから気付かなかったでしょうけど……」
「絶剣の噂を聞き始めたのは年末年始あたりからだったから」
「それがどうかしたの?」
いまいちアスナにはリーファとリズベットの話が飲み込めない。
年末年始に噂がたった……つまり現れたからなんだと言うのだろう。
別に然程不思議でも驚くことでもないような気はするのだが。
「あんたも大概ねえアスナ。キリトのヤツがアンタなしでモチベーション保てると思ってんの?」
「お兄ちゃん、アスナさんがいないからって年末年始は腑抜けそのものでしたから」
「キリトさん、その辺の雑魚Mobにも一回危ない目に合うくらいには集中できていませんでしたね」
「んな状態のキリトがそーんな強プレイヤーに挑みに行くと思う? 噂さえ右から左に抜けていってるかもよ」
「あう……」
まさに予想外の切り返しにアスナは顔を赤く染めた。
ALOアバターのフェイスエフェクトはSAO時代よりは幾分マシになったものの、それでも感情に過剰気味に反応する。
アスナは思わず顔を上げていられず俯いてしまった。
そんなアスナに、少しだけ真剣な声色でリーファは話しかける。
「今でこそ、家の中でも表情を見せるようになってくれましたけど……やっぱりまだお兄ちゃんの顔は硬いんです。アスナさんといる時みたいには……まだ無理みたいで」
「リーファちゃん……」
「だから、私が言うのも変かもしれないんですけど……お兄ちゃんを、よろしくお願いします」
リーファがその長いポニーテールを揺らして頭を下げる。
ふよん、とふくよかな胸がテーブルに押し付けられて形の良いお椀が潰れた。
思わずシリカとリズベットは自身の胸に手を当てて溜息を吐く。
そんな二人の行動を見て見ぬフリをして、アスナはリーファの手を握った。
「リーファちゃん、きっとキリト君には私だけじゃなくてリーファちゃんだって必要なはずだよ。だから、一緒に頑張っていこう、ね?」
「……はい!」
リーファのはにかむような笑顔にアスナも心から温かくなりながら、しかし目端で捉えたデジタル時計に焦り出す。
その時刻はもうじき午後六時になろうとしていた。
「いっけない! もうこんな時間だわ。そろそろ夕飯の時間になっちゃう」
「あ~、アスナのトコは結構厳しいからね。今日はこれでお開きにしよっか」
「うん、ごめんね?」
「いーっていーって。それで明日どうする? 絶剣……行くの?」
「うーん……」
アスナは少しだけ迷う素振りを見せてから、しかし頷いた。
もとより、この世界に浸かった時からそれらの好奇心を最早制御などできるはずもない。
「一応やるだけやってみる」
「そっか、じゃあ明日は応援だね。それじゃまた」
「お疲れ様でした~」
リズベットとシリカがログアウトし、ログハウス内にはリーファとアスナ、キリトとユイが残される。
ユイが布団代わりにしていたピナは主であるシリカのログアウトと同時に消滅したが、ユイは目覚めることなく、目を閉じたまま布団を探るようにして今度はキリトの衣類をギュッと掴み、すやすやと眠り続けていた。
「まるで家でのお兄ちゃんみたい」
くすくすと笑うリーファにアスナも苦笑を零す。
性格的にはアスナ似だとよく言われるユイだが、深い所では結構キリトの影響を受けている。
無意識下に近い状況や、理性的判断が求められる時とは無縁なケースではキリトのような決定を下すことも珍しくないのだ。
「私、先に落ちて夕飯の準備をしているので、お兄ちゃん起こしておいてもらえますか?」
「うん、わかったよ」
「それじゃ、お疲れ様でした」
「またねリーファちゃん」
「はい、明日楽しみにしていますね」
リーファ/直葉はそう言い残すと即時ログアウトし、その姿を光のポリゴンへと霧散させていった。
アスナは少しだけ申し訳なく思いながら、心の中でお礼を言う。ありがとう、と。
今のは直葉が気を回してくれたのだ。キリトと二人きりの時間──ユイはいるがそれを気にするキリトとアスナではない──を作らせるために。
彼女はそういった気の使い方を時折してくれる。以前などは少しだけ彼とギクシャクしてしまった時にキリト/和人の夕飯を任されたこともあった。
そのおかげもあってかこんな関係を続けていられるのだとアスナは自覚している。本当に彼女には頭が上がらない。
ちなみにその翌日、ややいたたまれない空気になったのは……あえて自業自得と思うことにしている。
今日は母親がいないから一緒に夕飯の用意をしなくてはならない……と直葉は言っていたはずなので、あまり時間をかけるのは悪い。
すぐに起こすことを決めつつ、すやすやと仮想世界のそのまた仮想世界へと旅立つ彼の横に滑り込む。
ギシッと揺り椅子が少しだけ軋んで、動きを止める。この程度では彼が目覚めないのは既に何度も経験済みなので、慌てることなく彼の鎖骨に頭を預けて目を閉じる。
暖かな感触がアスナを優しく包み込み、スッと胸の奥の不安を鎮めてくれる。
この感覚がペチカの赤々と燃える熱エフェクトの影響だとか、人の熱体感を電子的に再現した似非感覚だとロジック的な説明をすることは簡単だが、アスナそれだけではないと感じていた。
仮想世界だろうと、そこに世界があることは事実で、そこに生きる物がいればそこは本物になりえるのだ。
だからこのアスナを安心させてくれる温かみも、適温を感じることによる脳から肉体への弛緩作用感覚というロジックなどではなく、彼が傍にいてくれることへの嬉しさだと思っている。
出来ることならばずっとこのまま椅子に揺られて眠ってしまいたい。しかしそれでは直葉に申し訳がない。
アスナは何度か眠るキリトの胸元にのの字を書いてから重たそうに瞼を開いた。
「ん……《キリト君分》充電終わりっと。さ、キリト君起きて」
ユサユサと肩を揺らして、キリトが「あう?」とか「ほへ?」などといった呂律の回らない言葉で覚醒していくのを苦笑交じりに見届ける。
同時に、伝わる振動によってキリトのお腹の上で丸くなっていたユイも眠たげな眼を擦りながらフワフワと宙に浮きだした。
「ふぁ……おはようございます、ママ……」
「おはようユイちゃん。だめだよーあんまり居眠りしちゃ。風邪ひいちゃうかもしれないし」
実際にはユイが風邪をひくことはありえない。
人工知能であり、ゲームの中でもアシスト妖精扱いにあたる《ナビゲーション・ピクシー》たる彼女には人間で言うところの病気的概念はない。
さらに言えばゲーム内……ALOに風邪などといった体調不良を引き起こすようなバッドステータスは存在しない。
しかしアスナはユイのことを本当の娘のように思っており、現実と仮想世界での区別や差別をすることを良しとしていなかった。
「すみません。パパの傍ってなんだかとっても寝心地が良くって……ふぁ」
「気持ちはわかるけどね。私たち一度落ちなくちゃいけないから……また夜に会う?」
「はい!」
「ちゃんと眠れるの?」
「パパとママがいれば眠れます!」
ユイは元気よく嬉しそうに答えた。
SAOから解放され、キリトが目覚めず、手がかりを求めてこのALOに入って以来、アスナはユイと一緒に眠ることを好む。
ユイもまた少しでも長くアスナやキリトと時間を共有できることを喜んだ。
眠るために仮想世界に入る、というのは些か用法としては矛盾している気もするが、多様なニーズに応えんとNERDLES技術は日々日進月歩の発展を見せ、そういったことは珍しくなくなってきていた。
ユイとアスナが眠ることを目的に仮想世界で会うのであれば、そこにキリトが来ない理由はない。
特に何か予定ややりたいことでもない限り、キリトもそれに付き合い、親子三人で眠りに付くことはさほど珍しくもなかった。
「んにゅ……ふぁ」
約束が纏まった所でキリトが大欠伸をしながら身を起こす。
二、三度瞬きをしてからアスナ、ユイと順に視線を向けてぼんやりとシステムウォッチに目を向け、「げ!」と声を発した。
「やばい……スグ戻ってる?」
「キリト君起きないから怒って先に落ちちゃったよー」
「パパだめだめです」
「うわっちゃあ……やばいぞ。ごめん二人とも、俺も落ちるな。また夜に会おう」
アスナと自分の事を棚に上げたユイの言葉に少しだけ焦りを感じながらキリトはシステムメニューを操作し始める。
これ以上の遅刻は我が身がリアルで危ない。
「よーく直葉ちゃんの手伝いしてあげてね」
「了解」
キリトは照れたようにはにかむと自身のアバターを即時ログアウトさせ、世界からその痕跡をポリゴン片に変えて消える。
帰り際、当然のように夜の再開を口にしてくれたことが嬉しい。
完全にキリトが消えるのを見届けてから、アスナも一度ユイにお別れを告げて現実世界へと戻ることにした。
チチッ……というやや低温の機械音を耳に感じながらアスナはアミュスフィアを外した。
先ほどのキリトのように目を二、三度瞬かせて身をゆっくりと起こす。
部屋が暗い。月明りで見えぬほどではないが、一月ともなればもう照明を点灯しても良い時間ではある。
アスナはベッド際にあるタッチパネル……統合環境コントローラに細い指をツンと触れさせた。それだけで部屋は天井のパネルによってオレンジの煌々とした明かりに包まれる。
時刻は十八時二十五分。夕食まであと五分だ……と理解したところで身震い。暖房の設定を忘れていたようで、一月の寒気が容赦なくアスナを突き刺した。
先ほどまで仮想世界で感じていた温かさと真逆のそれに、嫌でも現実と言うものを思い出させられる。
だがジッとしているわけにはいかないし、悠長に温まっている時間もない。
アスナは先と同じく部屋の暖房パネルに触れる。「ピッ」という電子音と共にファンが回り出す音が聞こえ、温風が部屋に流れていくのを肌で感じながらやや乱れた髪にブラシを入れる。
それが終わるとスリッパに足を滑り込ませ、クローゼットの前に立つ。するとクローゼットは全自動で扉が開いた。
アスナの意志とは関係なく、アスナが目覚めた時には部屋が父親の会社による最新テクノロジーで一新されていた。
ボタン一つで室内環境を変更でき、余分な動きをせずとも必要な物が自動で広げられる。
目の前の現象は仮想世界のそれとは大きく変わらない。だが、アスナはなぜかそれを好きになれなかった。
上手く言葉にして説明はできないが、アスナの愛する世界を汚されているかのような、そんな感覚。
アスナは内心で溜息を吐いて部屋を出る。するとちょうどハウスキーパーの佐田明代が帰宅するところだった。
「いつも遅くまでお疲れ様です」
「と、とんでもありませんお嬢様、仕事ですから」
彼女は年下のアスナにも常に謙った態度を止めない。
丁寧、なのとは少し違うそれにアスナはいつも申し訳なく思うが、何度言っても彼女はそれを改める気はないらしい。
それは偏に母親によるもののせいだろう、とアスナは当たりを付ける。
と、一瞬よぎった母親……という単語から恐らくは予想済みである返事をあえて確認する。
「母さんと兄さんはもう戻っています?」
「浩一郎様はお帰りが遅くなるそうです。奥様についてはつい先ほど外出なされました」
「そう……ありがとう」
アスナが礼を言って頭を下げるとそれよりも深々とした礼を佐田は見せ、今度こそ結城邸を後にした。
そこでアスナはふぅっと息を吐く。予想通りではあるが、それでも少し肩の力が抜けた。
ここ数ヶ月、母親は家で一緒に食事を摂ろうとはしない。いや、それを言うなら《須郷を刺したあの日から》だろうか。
会話が無いわけではない。母主導による日々の宿題が無いわけでもない。しかし、家族だからこそ分かる。
避けられている、と。アスナにとってキリトとユイは誰が何と言おうと家族だ。
それと全く同じで、母親と言うのも誰が何と言おうと家族である。だと言うのに、この違いはなんなのだろう。
十八時半丁度。アスナは食卓に一人でついて食事を始める。この時間が母親の定めた食事の時間で、遅れるとこれまではどんな小言を言われるかわかったものではなかった。
仮に遅れる場合や食卓に付けない場合は前もってかなり早い段階からの連絡を入れることになっており、その理由もまた母親を納得させるものでなくてはならない。
「……服、着替えなくても良かったな」
さらに、母親は服装にも煩かった。
例え家の中に居ようといい加減な格好は指摘対象に入る。
まるで軍隊……とまでは言わないが心休まる、とは言い難い。兄の帰りが遅いのもつまりはそういうこともあるのだろう。
それがアスナにとっての実家だった。それでも母の期待に応えられないことを怖がって、SAOにログインする前は大した反抗らしい反抗はしたことがなかった。
それなりにヤンチャをして叱られたことは幾度もあるが、それでも母親の期待に応えたくないと思ったことは──今も無い。
ただ、自分の進む道を決められることだけは、当時からイヤだった。
それは今も変わっていない……が、
「あまり何も言われないのも、ね……」
口煩くなくて良い、と言えばそれまでかもしれない。
しかし、距離感が開けば開くほど、嫌悪とは別の感情が広がり育っていく。
アスナは手早く食事を済ませるとキッチンのシンクに食器を片づけに向かう。
ここにもいつの間にか全自動食器洗浄機なるものが設置されていて、ボタン一つで食器はピカピカの状態に戻される。
手が荒れなくて良いと言えばそうなのだが、どうにもアスナは好きになれなかった。
楽しいはずの食事でやや鬱屈とした感情を溜め込みながらアスナは自室へ戻ろうとして……《それ》に気付く。
母親の書斎の扉が、僅かに開いている。
母親は外出中とのことだから中には誰もいないはずなので、ただの閉め忘れなのだろうが、それは珍しいことだった。
母親はアスナにも厳しいが自分自身にも厳しい。そういった小さなことは許せない性質なのだ。
その母親が戸を僅かにと言えど開いたまま外出しているというのは、ここ数年の記憶を遡ってみても覚えがない。
アスナはフラリと好奇心から母親の書斎の戸へと近寄る。僅かに開いているドアの隙間から中を覗くと、部屋の中は消灯されていてPCのものらしい赤い光が暗闇で明滅しているだけだった。
ごくり、と息を呑んで思い切って扉を開けてみる。瞬間パッと天井のライトが点灯した。人を探知するとオートで点くようになっているのだろう。
アスナは部屋を見渡す。数える程度しか入ったことのない母親の書斎は記憶の中そのままで、何の本かもわからない本がびっしりと詰まった天井まで届く本棚が所狭しと並んでいた。
「仮想世界で電子化すれば、もっとスッキリするのに」
言ってから、自分が少しおかしなことを言った事に気付く。
身の回りのハイテクノロジー化にややノスタルジックな気分を味わっていたのは自分なのだ。
とは言っても、仮想世界でのそれと現実世界での生活水準とはまた別の話だとも思う。
最近ではフルダイブシステムの発達で自分の欲しい書籍を集めた自分のプライベートルームを活用する研究者なども増えてきている。
現実と違ってスペースも取らず、各文書やウインドウを宙にいくつも展開できるそれはあらゆる面で利便性が高いからだ。
肉体疲労も感じないし、眼球疲労も発生しない。視力が下がることがないというのはかなりのメリットとしても捉えられている。
しかし母親はそれらのダイブシステムをあまり使っていなかった。
一度ダイブさせてみたことはあるのだが、「眩暈がする」といってすぐにログアウトしてしまったのだ。
肌に合わないというヤツなのだろう。直接本に触れ、読み、考えることを良しとする究極の現実主義者(リアリスト)とも言える。
アスナがそのシステムによって囚われていた過去がある──SAO事件のことだ──のも原因の一つには抵触しているのかもしれない。
とにかく、母親は仮想世界のことをあまり良く思っていない。アスナがダイブすることにも良い顔はしていなかった。
そんな母親だから部屋はいつも本で一杯であり、その全てを驚いたことに殆ど暗記していたりする。
本棚の本も良く整理されていて、背表紙が一冊たりとも飛び出たり、引っ込んだりすることなくピッシリと収納されている。
そのしっかりさに感嘆の息を漏らしながら──机の上にあるいくつものプリントに目を引かれた。
理由はそれだけしっかりしている母親が、プリントと言えど机に置きっぱなしという事実に違和感を覚えたからだ。
何気なく手に取って……息を呑む。
「え……これって」
いくつもあるプリントのうちたまたま手に持った二枚のプリント。
一枚目のプリントには《編入試験概要》、二枚目のプリントには《結婚指輪》の資料がそれぞれ印刷されていた。