「……スナ、アスナ?」
声をかけられてベンチに座っていた結城明日奈/アスナは我に返った。
場所はALO──アルヴヘイム・オンライン──にアップデートされたアインクラッド、その第二十四層主街区《パナレーゼ》である。
第二十四層はかつてアスナがプレイヤーホームを購入した第六十一層に良く似ていた。
湖上都市《セルムブルグ》。湖に映る赤い夕焼けがとても幻想的で、観光地と呼べるフロアでありながらいかな環境設定なのか、静観さを全く損なわない仕様になっていた。
その分何を買うにもボッタクリ、もとい観光地仕様なお値段になっており、プレイヤーホームなどと言えば当時の最前線で戦っていた攻略組ですら目も霞むほどの高額なコルが要求される。
そんな中アスナは一切の妥協を許さず実にその日まで溜めに溜め込んだコルを一気に放出、一念奮起してのホーム購入に至った……のだが何故だろうか、その割にはあそこにあまり良い思い出は無い。
どちらかと言えば摩訶不思議な……それこそ文字通り夢に見るお伽噺のようなクエストを経て購入に至った第二十二層のログハウスの方がアスナは気に入っていた。
恐らく、あのセルムブルグの家をアスナがあまり良く思えないのは、当時の自分があまり好きではなかったからだろう。
自分自身が散々嫌い、感じていた《人を導かなければならない》などという思い上がった思考。
いつからだろうか。自分が《攻略組》としての力を持ち、戦える以上、前線で戦い続けるのは義務で、弱き者たちを護り、ゲームクリアを目指すことに囚われ始めたのは。
いつの間にか、自分がずっと嫌いだった他人への《上から目線》に自分がなってしまっていたのは。
たぶん、それはギルドに入ってからなのだろう。
トップギルドと呼ばれるようになったKoB──血盟騎士団──の実質№2、副団長という肩書はアスナの仮想体に痛いほどの重みを与えた。
感じないはずの重量をその華奢な双肩にズッシリと感じながら日々を過ごし、いつ破裂してもおかしくないパンパンの風船のように張り詰めていた。
もし破裂してしまっていたなら、きっと彼女は現実世界への帰還は叶わなかっただろう。その自覚が彼女にはある。
彼女がその重責を破裂させず、萎むようにして排出できたのは……やはりキリトのおかげだろう。
そのことが彼女の彼に対する思いの強さの一因になっていることは否めない。
しかし、それだけでは無いのも事実だった。だからこそ、昨夜見たペーパーが頭から離れない。
嫌な鼓動を伴ってアスナの傍で近づいてくる足音のように鳴り響く。
最低最悪と称されたデスゲーム……SAO──ソードアート・オンライン──の時とは別種の、未来に対する不安。
それがアスナの心を曇らせる。
それに気付いたらしいリズベットがいつも着ている紅白色のメイドエプロンに簡易アーマーを付けた軽装備で不思議そうな──いや、心配そうな顔をしていた。
「あ、ごめん……えっと、なんだっけ?」
「いや、なんだっけってことはないけど。随分ボーッとしているみたいだったから……大丈夫? 調子悪いなら今日は止めといたら?」
「……ううん、大丈夫」
アスナはゆっくりとかぶりを振って微笑んだ。
視線の先では珍しく──と言っても最近ではそうでもない──元の姿に戻ったユイが和人/キリトに肩車をしてもらいキャッキャッと楽しそうに微笑んでいる。
キリトはユイが喜べば喜ぶほど「ようし!」と気合を入れて動くスピードを増していくので、ユイの楽しそうな声は止まらない。
──────何故かその光景が、凄く遠いところのように感じた。
二人と自分の間に溝のようなものがある錯覚。
ユイがこちらに気付いて両手を振る。キリトはそれに気付いて動くことを止め、同じようにこちらに視線を送る。アスナは微笑んで手を振り返す。
それだけでそれは他愛のない思い過ごしだと言い聞かせられる一方、京都への家族帰省からずっと纏わりつく嫌な予感を拭いきることは出来ない。
予想は昨日のペーパーという形で既に少しずつ現実へとオブジェクト化されてきている実感がある。
それを思うと、胸の奥からゾワゾワと鬱屈した黒い感情が溢れだしそうで、それを抑えきれなくて、その感情の正体を二人に見破られそうで、少し怖い。
二人に心配をかけるのが怖い。二人と離れ離れになることが怖い。
そして何より。
《何か》しでかしてしまって、二人が離れていくことが、怖い。
自分から距離を感じてしまっていることは分かっているが、裡から湧き上がる不安と言うものはどうしようもない。
アスナはすっくと立ち上がると、とりあえず今は考えないようにしようと自分に言い聞かせながら、もうすっかりと慣れた感覚である自らの背中に生えた仮想の翅に命令を送ってフワリと浮き上がる。
そのまま二人へと飛んで近寄り、ユイをキリトから受け取って抱き上げるとユイはアスナに甘えるように胸へと顔を埋めた。
ユイのその仕草が不思議とアスナの心を穏やかにしてくれる。ユイに甘えられることが、一種の精神安定剤とも言えるほどに。
と、その様子をキリトが見つめていることに気付いた。……哀しそうな瞳で。
「どうかした? キリト君」
「あ、いや……なんでもない、ただユイがうらやましいなあ、と」
「も、もう! 何言ってるの!」
キリトの言葉にドキッと胸を高鳴らせながら、しかし決して不快ではないそれに頬を染めて視線を逸らす。
ユイがトントンと背中を叩いたので彼女を解放すると、ユイはニッコリ微笑んでから嬉しそうにアスナの腰へとしがみついた。
ここのところ、ユイは急に甘えん坊になることがある。アスナとしては微笑ましい限りなので構わないのだが。
アスナはしょうがないなあ、という態度を装いつつ笑顔でユイの髪を優しく梳いて微笑む。この時間が本当に今のアスナにとっての安らぎだった。
「うおーい……そろそろ時間ナンデスケドー」
そこでようやく恨みがましい声色をしたリズベットが声をかけた。
まるで存在など無いかのように親子の団欒の一部始終を見せつけられては、《自称傷心中乙女》として恨み言の一つくらい物申したくもなるのだろう。
リズベットの声に押されるようにして、合流したシリカとリーファも含めた一行は慌てて目的地である小島を目指し、北側へと飛行を始める。
さして遠くもなく、時間が迫っていると言ってもすぐにいなくなるわけではないので、遅刻の心配は流石にない。
ましてやSAO時代の時と違って背中にある翅が尚のこと移動時間を短くしてくれる。
アスナは、かつて駆け抜けた大地を眺め、思い出す。あそこで、Mob狩りをしたことがあるな、と。
あそこではあのモンスターを倒してアレをドロップしたんだった。あそこでは……。
空からアインクラッドを眺めると、記憶が溢れ、どことなく郷愁に似たような心持ちになってしまう。
そうしているうちにすぐ巨大──と言っても当然世界樹(イグドラシル)よりは小さい──樹の生えた小島が見えてきた。
中央に位置する大樹は四方へと長い枝を伸ばし、その存在を小島でアピールしている。大樹へと近寄っていくと、偽物の感覚器である仮想聴覚野が剣戟の音を捉える。どうやらすでに先客が対戦を始めているらしい。
小島に降り立ってみると、意外にも観戦客と思しきプレイヤーがかなりの人数でいるようだった。
中には各種族領の幹部クラスの姿まで見受けられる。こういった半公式的な辻試合では無名の思いがけない強プレイヤーが発掘されるので勧誘を兼ねた下見なのだろう。
ユージーン将軍を下すほどの実力者となれば喉から手が出るほど引き抜きたいに違いない。
「ぬぅぅっ……はぁっ!」
聞き知った裂帛の声が届く。
剣のように鋭く刺々しいいくつもの逆立った赤い髪に浅黒い肌。
歴戦を潜り抜け、強化をほぼ限界値までしているだろう精緻なディティールによって表現されている輝き著しい赤銅色の西洋鎧。
一目で火妖精族(サラマンダー)のハイプレイヤーと分かる挑戦者はやはりというべきか、ユージーンその人だった。
ユージーン程の手練れの、大振りながらそうと思えぬほど早く正確な連撃。このALOに一体どれだけのプレイヤーがあの猛攻を防げるだろうか。
それほどまでに卓越で、完成された剣技はしかし、信じられないことにその全てを受け止めきられていた……黒紫色のストレートヘアを靡かせた《少女プレイヤー》によって。
ゲーム内において体躯は特段強さに影響を及ぼさない。しかし、それを差し引いても彼女は小柄で華奢だった。
彼女の種族は闇妖精族(インプ)らしく、肌が特徴的な薄紫がかった白で、装備はリズベットに近い型をした黒曜石の胸プレートに紫と紺色の中間のようなチュニックとロングスカート。
彼女はユージーンの怒涛の攻撃に対し、それを避けるのではなく凌駕する速度で弾き、斬り伏せ、攻めている。
ユージーンが袈裟斬りに剣を振るうと剣で受けつつ体を滑らせ肉薄し、胴に深々と細い片手直剣を斬り入れる。
「っちぃ!」
しかしユージーンも然るもの、やられてばかりではなく、翻るように剣を回転させて受け止めた少女プレイヤーを弾き飛ばし、距離を取ってからの突進攻撃に移る。
勇猛怒涛のスタイルを貫く彼の戦闘は、戦っている相手を怯ませる程の強力な覇気を感じさせるが、少女に怯んだ様子は見られない。
「ぬ、うああああああっ!」
まだ宙にいる少女への猛烈な突進。空中で体勢を立て直した少女は、それに呼応して自身もユージーン将軍へと突進する。
実に少女らしい「やああああっ!」という高い声を上げて二人のシルエットが交差した。
「!」
驚愕は一体誰のものか。
勝負はその一瞬によって決着を見た。
ユージーンの大振りに見えて繊細な巨刀がブン! と振られる。狙うは少女プレイヤーの右肩部。
その一振りを少女プレイヤーは高速飛行中で正確に見極め、体を僅かに逸らす事で見事回避しつつ、勢いを殺さぬまま渾身の一撃をすれ違いざまのユージーンに深々と斬り入れた。
派手な血の色に似たレッドカラーのポリゴンエフェクトが舞い散り、人を真っ二つにせんとばかりの勢いと威力の一撃は、ユージーンのHPゲージを容赦なく全損させる。
「見事だユウキ……! しかし次こそ貴様を我が嫁……っ!」
ユージーンが全て言い終える前に、その身は赤く燃え尽きるようなエンドフレイムエフェクトに包まれてリメインライトとなり、赤い魂の炎がチロチロと灯される。
途端「ワアアアァア!!!」と歓声が上がった。次々に大きな拍手も湧き起こり、ユウキと呼ばれた少女プレイヤーは「にへへ」と恥ずかしそうに笑うと「ぶいっ!」と指二本を立てたピースサインをユージーンのリメインライトへと向けた。
今の戦闘でも彼女が只者ではないということが分かる……のだが。
「今の……《速すぎないか?》」
キリトの訝しむような声が、アスナに疑問を抱かせる。
確かに彼女は速い。その動きも然ることながら反応速度が尋常ではないように見受けられた。
しかし、それがなんだと言うのだろう。それは単に高いプレイヤースキル……これまでの積み重ねの結果ではないのだろうか。
キリトという人間に限って、プレイヤースキルの高さによる嫉妬ということもあるまい。羨みこそすれ、それによる妬みなど彼の嫌いとするところのはずだ。
だというのに彼の声色は単なる感心や羨みとは別種の、疑問という感情が内包されたようなものだった。
「どういうことキリト君? 何か気になることでもあるの?」
「今の攻撃……いや、反応速度は端末、アミュスフィア越しでの限界を超えているような……」
いまいちキリトの言っている意味がアスナには理解できない。
彼の疑問が自分にとっても疑問にならないことに、少しだけ怖くなる。
彼との世界において一部でも隔絶した時間があることはアスナを不安にさせた。
それは仕方のない事だと分かっている一方で、感情としてはやっぱり認めたくない。
しかしアスナはそれ以上長く思考することが出来なかった。
「今キリトって言った?」
「うおっ!?」
「きゃっ!?」
キリトとアスナの目の前に、先ほどまで華麗に戦っていた辻斬り少女プレイヤー……もとい挑戦者求めるチャンピオン少女が立っていた。
少女のくりっとした丸い瞳はアメジストのようなクリアパープルに輝いていて、何かを期待するようにキリトの顔を覗き込んでいる。
「えっと……?」
「んー……おにーさんボクと会ったことない?」
じぃぃぃっと眺めてから、さらに期待を増した眼差しで少女プレイヤーはキリトに尋ねる。
距離がなんだか凄く近い。そのことに気付いたキリトがソソッと後ろに下がるが長い黒髪の少女はその分だけまたキリトに近づいて離れない。
……なんだか面白くない。
突然現れた少女プレイヤーのキリトへの態度が、アスナには快く思えない。
下らない、小さな嫉妬と知りつつも、感情の炎が波立つのを止められなかった。
キリトはなんとか距離を取るようお願いしつつしどろもどろに尋ねる。
見た目は年下だが相変わらず見知らぬ女性への接し方は彼の中では分からないらしく、その挙動はとてもぎこちない。
「え、ええととりあえず……あれ? なんだっけ、名前……えっと」
「ボクはユウキ! んでおにーさんはキリトでいいんだよね?」
「ユウキ、さん? 確かに俺はキリトだけど……ユウキなんて名前リアルくらいにしか知り合いなんて……あれ、待てよ? なんか最近聞いたような……」
ユウキと言えば結城と書いてアスナの名字……が一番身近な名前だ。
チラリとアスナを見たキリトだが、すぐに眉間にシワを寄せて考え込む。流石にこの件についてアスナは関係あるまい。
それになんだか最近聞いたことがある名前な気がしたのだ。あれは何処だっただろうか。
キリトは「確か……」と記憶を掘り起こす。
ユウキユウキ結城ゆうき………………。
何度も名前を頭の中で反芻していると、ふと頭の中に閃く記憶があった。
あれは先日、調査と言う名目の元、別のMMOにコンバートした時のことだ。
『待てー! せめて名乗っていけえ! 今度絶対ちゃんと戦うんだからあ! 絶対、絶対見つけ出すぞお! ボクはユウキ! 忘れるなあ!』
「「あっ!」」
アスナと同時にキリトは声を上げる。どうやら彼女もほぼ同時に思い当たったらしい。
確かGGO──ガンゲイル・オンライン──のPvPバトルロワイヤル大会であるBoB──バレット・オブ・バレッツ──の本戦ラストバトルにおいて現れたプレイヤー、それがユウキという名前のプレイヤーだったはずだ。
あの時は紺色のロングヘアだったが、それ以外は口調といいGGOでのユウキと雰囲気が似ていると言えば似ている気もする。
ユウキ、と名乗ったチャンピオン少女は二人の反応を見て何かを確信したのかギュッとキリトの手を掴んだ。
「やっぱり! 一目見た時からそうじゃないかと思ったんだ! おにーさんがあの時のキリトじゃないかって!」
ブンブン! と勢いよく手を上下に振ってユウキはその嬉しさを表現する。
されるがままになるキリトは苦笑しながら、何故こうなっているのか身に覚えのない現状に内心疑問符を浮かべていた。
「よし! 行こう!」
「へ? どこへ……ってうわっぷ!?」
「ちょおおっと待ったぁ!」
「待ったです!」
ユウキは有無を言わさずキリトの手を取って空へ羽ばたこうとした。
しかしいち早く気付いたリズベットとユイがそれぞれ浮き上がったキリトの右足と左足を掴み、それを阻止する。
結果上下に引っ張られる形となったキリトはみっともない声を上げて悶える羽目になった。地味にHPゲージも減少している。
「キリトを何処へ連れて行こうってのよ!?」
「ボクはこのおにーさんが欲しいんだ」
「……は?」
「……い?」
とんでもない発言に口をポカンと空けるキリト。
同時に、突然のことで頭が真っ白になり固まっていたアスナはようやく現状を理解して沸々とした怒りが込み上げてきた。
キリト君が欲しい? なんだそれは。ふざけないで!
アスナの胸の内に広がる感情の黒い染みがブワッと広がる。
嫉妬と言い変えても良いそれはアスナをとうとう行動へと突き動かした。
アスナはキリトの背中をグッと掴んで引っ張る。さすがに三対一は辛かったのか易々とキリトは地面に降ろされ……、
「わぷっ!?」
……どすん! と叩きつけられた。
メラメラと黒い炎が背後から立ち上っている……ように見えなくもないアスナにこれは流石にマズイとリズベットも直感する。
瞬間、この場をうまく収めるために破れかぶれの提案を彼女は思いついた。
「悪いけどね! キリトが欲しいならウチのアスナを倒してもらってからじゃないとやれないわよ!」
「それじゃあお姉さんを倒したらボクはおにーさんをもらっても良いってコト?」
くりっとした瞳で浮かんだままのユウキはきょとんと尋ねる。
意外にも話に乗ってきた彼女にリズベットは焦った。まさか本当に勝負に乗ってくるとは思っていなかったのだ。
実際にデュエルしたこともある経験から言ってこの子は決して悪い子ではないと理解していた。
だから無理やり他人の恋人を奪うような真似はしないと踏んでいたのだが、当てが外れたか。
いや、というよりもしかすると自分は何かとんでもない勘違いをしているのかもしれない。
よく見ると彼女……ユウキの瞳はどう見ても《恋する乙女》のそれとは思えないからだ。
欲しいという言葉を使った為にとんでもない誤解を生んでいるんじゃ……という冷静さがリズベットにも戻ってきたところで。
「キリト君は渡さない!」
じゃりぃぃん! と腰のレイピアを抜いたアスナが立ちはだかった。
あ、ダメなパターンだこれ。またも直感が働いたリズベットだが、彼女が制止する前にそれは起こってしまった。
「ようし、じゃお姉さんを倒せばいいんだね!」
チャリン、とアスナの前にはデュエル申請のシステムウインドウがポップアップし、迷うことなくアスナはデュエル了承とばかりに《全損決着モード》をタップする。
こうなってはもう誰も彼女を止められない。リズベットは胡坐をかいてポカンと座っているキリトの肩に手を置いて諦めたように言った。
「逃げるんじゃないわよ、景品の色男」
「おいおい、散々煽っておいて……」
キリトの困ったような顔に笑いを堪えながらリズベットはリーファを手招きする。
それだけでリーファは意図を理解しリズベットとは反対側の肩に手を置いた……否、力をかけた。
「お兄ちゃん、アスナさんを信じよう?」
「そうですよキリトさん」
最後にシリカがキリトの背中を押さえつけるように掴む。
……詰みである。
「お、お前ら……!」
キリトは身動きが取れない。
いかにSTR──筋力ステータス振りのキリトでも流石にプレイヤー三人分のSTRを跳ね除けるだけの力は持ち合わせていない。
おかげでキリトの得意かつ困ったときのスタンダード選択肢《にげる》が使用不可となり、成り行きを見守ることになってしまった。
目前では既にカウントがどんどん減っていき、開始のファンファーレが今まさに鳴らんとしているところだ。
ユウキが剣を中断に構える。その剣もまた半透明の黒曜石のような黒い輝きを放っており、そのポリゴンテクスチャの《重み》から相当のランクの武器だと窺える。
SAOやALOでは同じ武器でも強化を重ねるごとにその武器のディティールには少しずつ変化が見られる。
慣れてくると一目見ただけで強化度がおおよそわかるようになってくるもので、アスナの勘が自身の垂直に構えたレイピアとほぼ同等のランクにある武器だと告げている。
つまり、装備の上では状況はほぼイーブン。だが、アスナにとってはそんなことよりも……彼女の発言とその《恰好》が問題だった。
キリトが欲しいという彼女の言は見過ごせない。黙っているわけにはいかない。
そして何よりもアスナの心を掻き乱すのは、謀ったわけではないにしろ、彼女の服装カラーが……キリトに似ていることだった。
それが何故かアスナの胸をザワつかせる。あるはずがないのに、まるで二人には何らかの繋がりがあるように感じてしまう。
(絶対に、負けたくない!)
アスナは決意と共に《DUEL》の文字が輝いた瞬間、地を勢いよく蹴り飛ばした。
最大速度で二連撃の刺突をお見舞いする。ソードスキルではない通常の剣技なため、速度はソードスキルほどではないしダメージは少ないが、その分より正確性(アキュラシー)は高い。
左右に振るように放った刺突はどちらかに避ければどちらかに掠るだろう。運よく避けきれたとしても体勢を崩し、三撃目には耐えきれない。
そう思っての攻撃だったが、絶剣ことユウキは思いもしない攻勢に打って出てきた。
予想もしなかった高鳴る金属音。ユウキはアスナの刺突、その二撃目をなんとパリィしてのけたのだ。
「っ!?」
揺れ動くように見えた剣線は揺らめく煙のようにしかアスナには捉えきれなかった。
ただ彼女のこれまで培ってきた経験と《システム外スキル》が彼女の姿勢を低くさせた。
チリチリと感じられる相手の殺気……狙いのポイント。一瞬僅かに合ったアメジストの瞳がアスナにうなじ部分、首の回避行動を余儀なくさせた。
体を捻るようにしながら身を屈め、同時に全仮想体重を右足一本に集中し、爆発させる。
黒曜石の剣が胸元を掠め、顎上をビュン! と通過して僅かにアスナのHPゲージを散らすも、飛び跳ねるようにしてアスナは距離を取ることに成功した。
姿勢を低くし追撃に備えるが即座の追撃は無いようだ。分かってはいたことだが、彼女は強い。
(だからこそ、負けられない)
アスナは必死に自分をクールダウンさせ、光速で思考を働かせる。
今の攻防で分かったことがいくつかあった。一つは彼女が速いこと……正確には反応速度が尋常ではないこと。
キリトも言っていたことだし、戦う前から分かってはいたことだが、実際に相対してみるとその凄さが肌で感じられる。
彼女は自他共に認める猛者である。故に自分の強さにある程度の自信はあった。
それは決して驕りではなく、実際問題レイピアでの突きの速度に関してはSAOやALOでも随一だったはずだ。
キリトでさえアスナの全力の突き攻撃を正面からのパリィなどそうやってのけられるものではない。
そもそも刺突攻撃の剣線は線ではなく点なのだ。正確にそれを狙って見切ることなど、人間の反応速度では不可能に近い。
しかし、ユウキという少女は驚いたことにそれを実際にやってみせた。得意気になるでもなく、息を乱すでもなく、楽しそうに。
彼女の自然体なその姿が、何処か昔アインクラッドで見た彼の姿に被って見える。
ぎりり、と歯を噛みしめたその時だった。今度はユウキの方からアスナへと肉薄する。
彼女の突進力、そのスピードはアスナがこれまで戦ってきたことのあるどの相手よりも速く感じられた。
アスナは剣を構え、引き絞った。途端ユウキは急ブレーキをかけるようにピタリと止まる。《ソードスキル》を警戒したのだろう。
見事な制動にこれが敵でなければ賛辞を送りたいくらいだ。アスナは息を二、三度整えるとそのまま通常剣技で再びユウキに攻撃した。
一瞬ユウキは反応が遅れるも、先の攻防でその程度の遅れは取り戻してくると分かっているアスナは決して手を休めない……と同時にソードスキルは使わない。
ソードスキルはその一撃こそ強力無比ではあるがその分隙も大きい。何より使用後の硬直時間は如何ともしがたいものがある。
彼女の強さは本物だ。万一ソードスキルを防がれたら硬直した隙に手痛い反撃を受けることは目に見えていた。
ソードスキルを使うならどうにか決定的な隙を作らねばならない。その為にはギリギリまで通常剣技でお互いのHPを少しずつ削り合い、隙を作る必要があった。
アスナ渾身の右横薙ぎから返す刀の上段斬りは初撃を躱され二撃目を剣で弾かれる。
そのまま黒曜石の剣線が斜めに疾ってくるのをアスナは体を逸らして回避し下から斬り上げる。
ユウキは超反応でその攻撃を避けるが僅かにプレートに赤い剣線の跡が入り、僅かに耐久力を上回ったアスナのレイピアの攻撃力がユウキの緑ゲージを削る。
右上上段から腹に向けての袈裟斬りを受け止め、斬り返し、左下斜め下段から斬り上げる剣閃をステップで回避して突き刺し、間を取って次の瞬間には激突して鍔迫り合う。
迫り合った剣が斜めにズレて行き、下方に向かったところで一歩後退、追いかけるように入る刺突が僅かに肩に突き刺さりまたHPゲージが少しずつ削られていく。
お互い一歩も引かぬ攻防を繰り返し、僅かずつHPゲージを減らして《その時》を見定めていた。
互いに中々これといったダメージを与えられないまま、息つく暇もない数分が経ったところでそれは起きた。
何度目かの鍔迫り合いで、アスナが踏みしめた地面には短い草が生えていてアスナ渾身の移動にブーツの摩擦が耐えきれなかった。
ズルリと滑りガクンとその身を落とす。しまった! と思った時には遅く、この機を逃すまいとユウキは黒曜石の剣に青紫色のライトエフェクトを宿した。
アスナが狙っていたようにユウキもまたアスナへとソードスキルを確実に当てられる隙を作ろうとしていた。
アスナの苦し紛れに横薙いだ一撃はユウキのプレートを掠めるものの彼女のソードスキル発動を防ぐには威力が足りず、発動を許す。
「やあああっ!」
気合いの入った彼女の声と共に左肩へ異物感。
ペイン・アブソーバによって緩和されている痛覚は違和感としてそれを認識させる。
そのまま斜め右下へと下がって行くように刺突が続き、ぐいっとHPゲージバーが減少する。さらに続く剣尖をどうにか躱すアスナだが四撃目がアスナの脇腹に突き刺さりまたもHPが減少。
五撃目をその軌道から予測してなんとか剣の横っ腹に当てパリィしたところで……驚愕。
ソードスキルのライトエフェクトがまだ消えていない。見たことの無いソードスキルだとは思ったがまさかこれはオリジナル・ソードスキルなのか。
続く六撃目に慄きながら……瞬間的にアスナの脳裏には昨夜のペーパーがフラッシュバックした。
このまま負ければ……キリトが連れていかれてしまう。そうなれば……嫌な想像が現実になってしまう気がした。
「っ! ああああああっ!」
アスナも気合いの入った声を上げるとそのレイピアにライトエフェクトを宿した。
ユウキの剣が今度は右肩を貫く……が、今度はアスナの剣も確かにユウキを捉えた。
小さな星形の頂点を辿りながら渾身の突き技が黒いプレートへと吸い込まれていく。
対してユウキのソードスキルも先とは真逆に右肩から左下へと五発の刺突が繰り出され、五撃全てをアスナはその身に受けた。
アスナが繰り出したのは自身が生み出した五連撃のオリジナル・ソードスキル《スターリィ・ティアー》で、こちらもユウキに遅れることコンマ数秒でその五撃全てを彼女に叩きこんだ。
HPゲージは……二人とも残っている。アスナは先に五連撃受けたせいもあってか危険域(レッドゾーン)、それも残量はポリゴン数ドット……数字にして多くても二桁台だろう。
逆にユウキはギリギリ危険域前の注意域(イエローゾーン)で踏みとどまっていた。
と、ユウキの剣が再び大きく引き戻される。なんとまだその剣のライトエフェクトは消えていなかった。
アスナは直感する。これが彼女がBETしている噂の十一連撃OSS(オリジナル・ソードスキル)なのだと。
このままでは……負ける?
アスナの脳裏にはまたも昨夜のペーパーがフラッシュバック。
最後の一突きをしてしまったアスナはこの後覆しようのない技後硬直が課せられ動けなくなる。
最後の一撃をもらい、HPを全て散らして……彼を奪われる。
嫌だ。
嫌だ嫌だ嫌だ。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ……!
全身全霊をかけて、声を大にして、そんな未来は嫌だと叫びたい。
アスナは左拳をギュッと握る。伸びきった自身の右腕を敵のように睨みつけた。
この動かなくなる右腕が憎い。動いてくれないと困るのに。自分自身の体の一部なのに、嫌悪さえ感じてしまう。
システム? そんなことは知らない。いいから動けと脳から命令──ERROR。その命令は受け付けられない。自分の体なのに言うことを聞かない。
なら、オマエはイラナイ。
アスナはそこで自身の右腕など無いものとして意識を《切り捨てた》。
握った左拳に命令する。
私の体。
お願い動いて。
──いいえ、動きなさい!
「えっ」
ユウキの驚愕した声が漏れる。
ソードスキルを放った、いや放ち終わったはずのアスナが、グググッと動き出した。
まるで腰だめに引き絞った左拳を突きだすように……否、信じられないことに技後硬直によって動けないはずのアスナは左拳を突きだしてきた。
その手はソードスキル特有のライトエフェクトを伴っている。ALO……いや、SAOについての知識が浅いユウキは知る由もなかった。
素手で発動できる《エクストラスキル》……《体術》スキルの存在を。いや、知っていたとしても予想はしえなかっただろう。
何故なら、今の彼女は本来《システム的に動けない》はずなのだから。
この《体術》スキルはノーム領首都の修練場で体得できる《拳術》スキルとは違い、素手でも対象へのダメージが発生する。
しかしユウキはそれでも慌てていなかった。アスナの拳は真っ直ぐユウキの剣の頂点にぶつかり合うように向かってきている。
このまま衝突すれば、いかにソードスキル同士のぶつかり合いと言えど素手であるがゆえにアスナにはダメージが通るはずだ。
そうなればあと僅かになったアスナのHPは全損される。その時点で勝ちは確定……するはずだった。
──ガキンッ!
「んなっ!?」
再びの驚愕がユウキを襲う。
鳴らない筈の金属音が鳴り、鍔迫り合いのようにお互いの攻撃が拮抗し合っていた。
一体何故……と思ったユウキは息を呑んだ。
アスナの左拳……何も無い素手だと思っていたそこには一か所だけ金属があった。
薬指の本当に僅かな部分。銀色に輝く指輪がそこには嵌められていて、寸分違わぬ正確さでユウキの十一撃目を迎え撃っていた。
ユウキは知らない。それがアスナにとってどれだけ大切なものなのかを。いつも装備枠を一つ潰してまで付け続ける彼女の想いを。
そして、彼女がかつてのデスゲームで最強ギルドと謳われたギルドの副団長を務め、その速さはもちろん……正確さ(アキュラシー)においても攻略組随一の存在だったことを。
驚愕したせい、というわけでもないのだろうが、ユウキの最後の一撃はアスナ渾身の左ストレートと「はあああっ!」という裂帛の気合いに競り負けた。
ユウキは強いノックバックにより尻餅を突く。
瞬間、勝負は決着した。
「あ」
尻餅を付いたユウキの前にはニッコリと微笑むブルートルマリンのロングヘアを靡かせるアスナが、一切ブレることのないレイピアの切っ先をユウキの首筋に当てていた。
このゲームには部位欠損ダメージ判定というものがある。いくつかの部位は攻撃によって欠損し、しばらく使用不可になるというものだ。
SAO時代からあったそれは時間経過で回復するものの、すぐに治療する為には高価なポーションを使うかハイレベルな治癒魔法を唱える必要があった。
同時に、昔からのゲームには非常に多いことだが、頭部、もしくは首部に強力な攻撃を受けると場合にもよるものの、ダメージは何倍にも跳ね上げられ、結果ほとんどが一撃死と言えた。
逆に言えばそれだけ狙うのが非常に難しい部位なのだが、如何せんこうなってしまうといかな超反応を持つユウキと言えど避けられるものではない。
それはギャラリーだけではなく、ユウキ自身にも理解できていたが、ユウキの中に去来したものはそんな《事実》よりも別のことだった。
「姉、ちゃん……?」
ふと漏れた言葉は、発したユウキ本人が誰よりも驚いているようだった。