『パパに、ママを一生支える覚悟がありますか……?』
和人はこの質問をされた時、咄嗟に何か口にすることが出来なかった。
生来から口下手な方ではあるし、割とあがり症なところがあるのは自覚しているが、それでも何も言葉にできない、言葉を発せられないということは実はさほど多くない。
何かしら場を切り抜けるための一言二言を苦し紛れに漏らすのが──それが良い結果を招くことはほとんどないと理解しながら──常だった。
だから意外にも、この時何も言えなかった自分に、和人自身驚いていた。同時に心臓が早鐘を打ち始める。
何故今の問いに即答できなかったのかと。間違いなく自分はユイや明日奈が大切なのだが、その気持ちが軽くみられるのではないかという不安。
アスナやユイにそう勘違いされることは和人には嫌だった。
『……今、迷いましたね?』
ユイの言葉にさらに心臓が跳ね上がる。咎められている、と思った。彼女にとって母親であり、大好きな明日奈に対しての気持ちが軽いのではないか、と。
何故即答できなかったのか。一瞬前のことをいくら悔いても時間は元に戻らないしその答えも出てこない。
だが理由は分かっている。漠然とした未来への不安……そんな取るに足らない、今考えても詮無い事だと分かり切っている恐怖が一瞬よぎったためだ。
なんとなくだが、もしもアスナが今の問いを聞いたなら「はい」と即答してくれたと思う。
そう考えるとますます和人の心に罪悪感が積もり積もっていく。
アスナへの想いを軽く見られたくはない。しかし答えられなかった自分にはそれを否定する材料がない。
いっそこの胸中……頭の中身を全部見てもらえれば話は早いのだがそういうわけにもいかない。
科学はそこまで進歩していないし、進歩してはいけない気がする。しかしそれでは勘違いをされてしまう。堂々巡りである。
和人の焦燥が益々増していった時、聴覚器官である耳へと付けている無線イヤホンから安堵したようなユイの声が漏れた。
『良かった……パパは大丈夫ですね。イジワルな質問をしてごめんなさい』
「え……」
漏れ出た声は自分でも驚くほどか細く、安堵のそれを孕んでいた。薄らとヘルメットが曇る。
まずは勘違いされなかったらしいことが嬉しい。しかし内容が内容だけに聞き流すにしては少々難しい。
「どういうことだ? ユイ」
『ごめんなさいパパ、どうしても聞いておきたかった……いいえ、聞いておかなければならなかったんです。パパの《状態》を確認しておくために』
「……?」
ユイの言っている意味を和人は計りかねた。
ユイが何を知りたかったのか、和人には伝わらない。
ユイはそれも当然だろうと察し、説明……否、事実を付け加えた。
『ママにも同じ質問をしたことがあります』
「……アスナはなんて?」
『間髪入れずにママは答えました。パパを一生支える覚悟がある、と』
「……っ!」
それは予想されていた答えだ。
同時に胸が苦しくなる。彼女の想いに自分は応えきれていないという焦燥がキリキリと身を締め付ける。
しかし続くユイの言葉は和人を糾弾するものではなかった。
『この時、私の中での《最優先事項》が書き換わりました。なんだか分かりますかパパ』
「いや……」
アスナの答えを聞いたせいで頭が働かない、という理由もあるが、それが無かったとしても予想はつかなかっただろう。
ユイが明かす《真実》はそれほどの答えだった。
『落ち着いて聞いてくださいパパ』
「……? ああ」
『──ママは、パパ以上に重症です』
「え……」
『……私の当時の最優先は今もって続いているパパの病んだ精神回復にありました』
過去形となっていることに和人は安堵できなかった。
それほどまでにユイにも心配や迷惑をかけているのかと思うと申し訳ない気持ちで一杯になるが、自分よりも重症という診断をされた明日奈のことが心配で堪らなかった。
『パパは《自覚》があるとおり、精神を病んでいます。回復には相当の長い時間を必要とするでしょう。パパも《重症》と言って良い状態には違いありません』
娘のように思っている子から学校で時折受けるようなカウンセリング染みた回答に胸が詰まる。
ユイは心の優しい子だと分かっているからこそ、そんなことを言わせてしまっている自分が情けなくもある。
本来ユイはとても繊細で、悪意やそれに似た感情、言葉などに対する耐性は高いとは言えない。
一度彼女はそれで自己崩壊を起こしているのだから尚更のことだろう。
『でも悲観しないでくださいパパ、パパは着実に快方へと向かっています。パパの瞬間的な判断力は常人のそれと大差はありません。ですが……ママの方は』
ユイが言葉に詰まる。
優しいユイのことだ。とても言いにくいのだろう。
しかし和人とて聞きたい気持ちと聞きたくない気持ちとがぶつかりあってとてもユイを気遣う余裕は残っていなかった。
『ママ、は……その自覚がとても希薄です。ママは自分の未来……将来のことについて即答できました。……まだ、成人もしていない幼い心で』
ユイが苦しそうに、途切れ途切れに話す言葉を和人は把握しきれなかった。
理解はできるが理解できない。聞いているけど、聞いていない。そんなよくわからない自己矛盾に陥りつつあった。
そんな和人に、ユイはさらなる見解……真実を告げる。
『ママはとても聡明です。ですから、未来に対する不安や障害などは理解できるはずなのです。でも、ママはそれらを感情だけで上塗りできる状態になっています。これは……異常です。ママくらいの年齢なら、ママくらい聡明なら決意は出来ても迷いがあるのは当たり前なんです』
もう聞きたくなかった。
知りたくなかった。しかし、聞かないわけにもいかなかった。
これほどユイが苦しんでいたことにこれまで気付かなかったのだから。
『そして何よりも問題なのは……パパと違って自覚はもちろん、《他覚症状》がほとんど表れていないことなんです』
和人は、他覚症状が顕著だ。みんな《無表情》というキリトの心的傷痕の表面症状を感じ取り理解することができる。
だが、明日奈はそうではなかった。彼女は日常生活においてその《異常性》が表面化しない。
それがどういうことなのか、和人はユイに説明された。
『症状が表面化しないということは、周囲からの理解を得られにくいんです。有体に言えば、症状を判断できずに他人の協力を求められないということです。よくテレビなどでも見たり聞いたりする言葉の中に《何故あの子が》といったような話があります。今のママがまさにそれに近い所にいます。周りや本人でさえ気付かないストレス……心の病巣が膨らみ、ある時ふとした瞬間に爆発して取り返しのつかないことへと発展する……私はママにそうなって欲しくありません』
ユイの声は少しだけ涙声となっていた。
どれだけ気丈なようでもユイはやはり精神的にも幼い。
ユイの潰れそうな声を聴いて和人は逆に少しだけ冷静になれた。
自分がしっかりしなければ、と。
「ごめんなユイ、今まで気付いてやれなくて……」
『パパが悪いんじゃありません。もちろんママが悪いわけでもありません。私が、もっとしっかりしていれば……!』
「そんなことはないぞ、ユイは精一杯やってくれた。だからこそ、俺も明日奈もこうして現実世界に帰還して一緒にいられるんだ」
『パパ……!』
それから、ユイはしばしイヤホン越しに嗚咽を漏らしていた。
和人はそれをしっかりと聞いた。深く深く胸に刻み込むように。
しばらくして、やや落ち着いたユイはアスナの回答を聞いた時にアスナの治療こそを急ぐべきと判断したのだそうだ。
つまるところ、今の彼女の最優先は《アスナの治療》だった。
和人/キリトは絶剣ことユウキとアスナの戦闘を見て、ユイとの会話を思い出し、何処か納得した。
人のことなど言えない。それでも、アスナが《領域》を踏み外し始めていることが感じられた。
ズキン、と頭の中の一部に痛みが奔る。
ここはALO──アルヴヘイム・オンライン──の中、つまり仮想世界なわけで、システム的に痛覚などといったものは緩和・遮断されている。
しかし錯覚などではない頭痛と呼び換えて良い感覚が確かに今、キリトの脳に《直接》与えられたように感じた。
これは前に何処かで感じたことがあるものだ。この痛みを感じると《何かに気付かなければいけない》といった強迫観念にも似た焦燥が胸に広がる。
最早警鐘と呼んでもいいのかもしれない。もしくは、何かのヒントなのだ。この頭痛が《どんな時に発生するのか》は大体理解しつつある。
その辺に、答えはきっとある。
それよりも今は目の前の……アスナに僅差で敗れた少女のことだ。
今のデュエルではアスナが勝利こそしたものの、《反応速度》という点においては自分もアスナもあの少女に及ばない。
それはキリトの目から見て確固とした事実だと感じられた。もちろん今アスナが勝ったようにVRMMOにおける《プレイヤーの強さ》や勝敗の結果はそれだけに左右されないが、強いというのは傍から動きを見ていてよく理解できた。
ただ彼女は些か《強すぎる》……否、《速すぎる》。
VR世界における反応速度は当然個人差が存在する。しかしあらゆることに言えることだが、ある程度の個人差は練度によって覆すことが可能だ。
練習は嘘をつかない、という言葉がある。特にスポーツ系の部活に参加しているわけでもないキリトだが、それについては同意せざるを得ない。
VR世界での動きも、現実とは似て非なるものである。いくら現実でのプロスポーツ選手でも、VR世界初心者ならば同じようなスポーツをVR世界でやった時、スポーツ素人なVR世界経験者が勝利することは考えられないことではなくむしろ必然とも呼べるのだ。
それだけ現実と仮想世界では体の動かし方や補正が似ているようで違う。
アスナのVR経験はおよそ二年。これは自分から望んだ結果ではないとは言え、かなり長い部類に入る。
SAOに囚われた二年間、ほぼ切断されることなくVR世界に身を置いた生還者(サバイバー)達のログイン時間は総ログイン時間世界選手権でもあれば上位ランキングを占める割合で存在するだろう。
そんな中でも指折りと言って良いほどの速度をアスナは持っている。キリトの知る限りアスナの細剣のトップスピードを超えられるプレイヤーはSAOに存在しなかった。
アスナがそう望んでいなくとも、彼女はその時点で《VR世界最速》と言っても過言では無かったのだ。
その彼女を超える速度を見せるプレイヤー、ユウキ。
キリトの直感が確かなら、彼女は《チート使用者》ではない。
速度や自身を違法強化するプレイヤーを見たことがないわけではないし、かつてSAOで戦ったこともある。
その時の経験から言って、ユウキの動きはシステムのオーバーアシストを受けているようには感じられない。
むしろ、あれは彼女自身のスペック……プレイヤースキルによるものだと感じられた。
しかしそれでは辻褄が合わない。アスナ以上の速度をプレイヤースキルで出そうと思ったら、アスナと同じかそれ以上長くフルダイヴし続けていないと難しい。
咄嗟に思いついたのは同じSAO生還者(サバイバー)であることだったが、即座にその可能性は切り捨てる。
あれほどの強さを持つ少女が攻略組に居ない筈がない。いくら人の顔と名前を覚えるのが苦手と自負するキリトでも攻略組のメンバーくらいは頭に入っている。
それに……あれだけの反応速度を捻り出せるプレイヤーなら《二刀流》は彼女が獲得していてもおかしくなかった。
彼女は恐らく、SAO生還者(サバイバー)ではない。しかし、SAO生還者(サバイバー)よりも総ダイヴタイムが長いのではないか……というのがキリトの直感から来る見解だった。
そんなことは通常考えられないのだが、しかしそれ以外にしっくりくる結論も今は出せない。
そうこうキリトが悩んでいるうちに、アスナがユウキへと声をかけた。
「私の勝ち、だね?」
「……あ、うん」
ボケーッと信じられないものでも見ているかのようにユウキはアスナを見上げていた。
アスナはユウキが敗北を認めた事を確認してからニッコリと微笑んで手を伸ばす。
遅ればせながらその意味を理解したユウキは照れたように後頭部をかきながら手を掴んで起き上がる。
「あーあ、ボク負けちゃったなあ……どうしよう」
ユウキのしょんぼりとした表情に少しだけ胸を痛める。
しかしこれだけは譲れないのだ。
「ごめんね、キリト君だけはその……私の大切なひとだから」
「そうなの? あ、もしかして二人は恋人同士? うわあ! ボク恋人関係の人って初めて見たよ!」
急にユウキは目を輝かせてアスナとキリトを交互に見やる。
その目は乙女にありがちな他人の恋事情を楽しそうに聞きたがるそれで……ちょっと待ってほしい。
ここに来てアスナもようやくと違和感に気付き始めてきた。
「え、あれ? えっと、ユウキもキリト君が好き、だった、んじゃ……」
「へ? ボク? なんで?」
「だってキリト君が欲しい、って言うから」
「……」
「……」
「……!?」
ユウキはアスナと見つめ合うこと数秒、かぁっと頬を真っ赤に染めて首をぶぅんぶぅん! と勢いよく振った。
うん、なんだか途中からそんな気はしていた。アスナも自分の勘違いに恥ずかしくなってくる。
「ち、ちちち、違うよ! ボ、ボク、そんなつもりじゃなくて、うひゃあ! あわわわわ!」
ユウキは慌てふためき頬を両手で包みながら首が取れるんじゃないかと思うくらいブンブン振って弁解を続ける。
そんなつもりじゃなかったんだ、と。
「GGOでBoBの後二人を探していたら、ボクがクリアした弾避けゲームをクリアしたのがキリトって人だって聞いて、益々これはその強さが期待できるって思って……!」
「弾避けゲーム?」
「そう! ホラ、あのガンマンの撃つ弾を避けてガンマンに触ればプール金が全額もらえるっていう……」
「ああ、そういえばそんなものもあったわね……って、あれ、もしかして、そういうこと!?」
アスナは今日まで不思議に思っていることがあった。
キリトはあの弾避けゲームで大金を手にしたはずで、そこまでクレジット……つまりGGO世界での通貨に困らないはずで、だからシノンの言う《集り》については何かの間違いかそうたいした金額ではなかったのだろう、と。
しかしその割にはシノンの怒り方は酷いし、キリトもあまり否定しない。瞬間、アスナの中に閃光が奔る。
もしかすると先にゲームをユウキにクリアされてしまった為にキリトはそこまでクレジットを手に入れることが出来ず、結果シノンの知り合いである男の子からゲーム内とはいえ少々用立ててもらうことになったのでは。
そう言えば言っていたではないか、あのゲームをクリアしたのは《女の子》だったと。てっきり女の子みたいなキリトがクリアしたからそう言われていたのかと思ったのだが……違うのかもしれない。
ジロリとアスナがキリトに視線を向けるとキリトは明後日の方向を向いて口笛を吹く素振りをしている。……図星のようだ。
今日まであのゲームで大金を稼いだのは彼だと思っていたが、どうやらそれは間違いだったらしい。
実際はここにいる彼女、ユウキこそがそうだったのだ。ゲーム内で一度それとなく聞いたことがあったのだが、あれは考えの行き違いになっていたのだと今更ながらにアスナは気付かされた。
「キ~リ~ト~く~ん……!」
アスナが肩をいからせてキリトに近寄っていく。
キリトは「やばい!」と脱出を試みるが……、哀しいかな、彼を押さえつける三人の少女は未だ健在であった。
「んふふ~」
「えへへ~」
「あはは……」
三者三様それぞれ笑顔を浮かべながらしかし決してその手の力は緩めない。
キリトが覚悟を決めた……その時。
「し、信じて! 本っ当にボクそこのキリトさんを好きとかそういう気持ちなんてないから! 本当に違うんだ! そもそもよく知らないし! 暗いし! ボクの好みじゃないし!」
ユウキは必死にアスナの手を掴んでうっすらと涙さえ浮かべて自身の身の潔白を訴える。
同時にキリトはガックリと頭を落とした。
キリトにも気があったというわけではないが、しかしいくら知らない人とはいえ、好意を全否定されるのはガラスハート持ちのキリトとしてはブロークンするのも時間の問題だった。
「わ、わかったから落ち着いて、ユウキ、さん……」
「ユウキでいいよ!」
「わかったからユウキ」
「あ、姉ちゃ……っ」
アスナは優しくユウキを撫でて宥める。一瞬また彼女の口から「姉」という単語が飛び出てきた。
彼女には姉がいるのだろうか。まあ、それは置いておくとして。
(なんか、この子……誰かに似てる……)
アスナはユウキを落ち着かせながら、ユウキがビクビクと怯えつつ辺りに視線を巡らせている事に気付いた。
時折情けなさそうな表情で気まずそうにこちらの感情を窺おうとする。
(あ、わかった。この子……)
アスナはキリトを見やる。
キリトは自分に向けられた視線に気付いて辺りを見回し、それが間違いなく自分に向けられていることを理解すると気まずそうにアスナを見つめ返した。
……確定である。
(最初も思ったけど……この子、キリト君に似ているんだ……)
アスナから見たユウキは何処かキリトに似ていた。
最初こそ勘違いから彼女のその類似部分が自分の知らない二人だけの繋がりのようで胸の裡がムカムカとしていたが、そうでないとわかった今、アスナの脳裏には別の考えが浮かんでいた。
(女の子版キリトくん……! 可愛い! そういえばGGOの時着せ替えしたかったのにそんな暇なかったし)
「え、ちょ、ねえちゃっ……うわっぷ!?」
いつの間にか恍惚とした笑みでアスナはユウキを抱きしめていた。
もはやアスナの頭の中にはユウキ=女版キリトである。
突然のことにジタバタと暴れるユウキだがアスナはがっしりとユウキを掴んで離さない。
圏外な上に同性な為なのかハラスメント防止コードは発動しなかった。
「ふぇえええええ……たぁすけてぇ~……」
ユウキの求める助けに応える者はいない。
眼福眼福とばかりにギャラリーは頬を緩め、アスナの知り合いは皆、それがキリトを相手にしている時の彼女のそれだと気付いて一歩引き下がる。
手に負えないからだ。つまりはああなったアスナは打つ手なしなのである……キリトも含めて。
と、途端にアスナは抱擁からユウキを解放し、肩に手を乗せたまま真剣な眼差しで口を開いた。
「とりあえず、何から着よっか?」
「何の話なのさー!?」
まったくアスナの意図を掴めないユウキは彼女の真意がわからない。
ユウキのツッコミでギャラリーたちはドッと大笑いしたのだった。
「あの、ボクいつまでこうしていれば……」
「待って! あともうちょっと!」
「アスナ、こっちのコーデの方が可愛いんじゃない?」
「良いですねリズさん、あ、ここの設定はこうした方が……」
「いいねいいね、そうだここをこうすれば……!」
「おおぉ~!」
「あ、あの……」
「もうちょっと!」
場所はALO内に浮かぶアインクラッド、その二十二層にあるログハウス……つまりはアスナとキリトのプレイヤーホームだった。
アスナは問答無用でユウキを拉致……もといプレイヤーホームへと招待し、その意図を悟ったリズベット、シリカ、リーファが彼女を手伝いだした。
一人が髪の設定を弄れば一人は着用する服を選び、ともすれば装備する可愛いアクセサリーをテーブルの上にごっちゃりとオブジェクト化。
誰が持っていたのか大きな縦鏡まで出し始め女性陣はあーだこーだと楽しそうに騒いでいた。
「あのぉ~」
「もうちょっと!」
「……悪いな、諦めてくれ」
既に何度目になるかわからないユウキの虚しい抵抗の声はこれまた何度目になるかわからない制止の声で掻き消される。
キリトはソファーで縮こまっている彼女の隣に座って苦笑しながら代わりに謝罪を口にした。
「そう思うなら止めて欲しいんだけど」
「悪い、無理だ」
キリトは即座に白旗を上げる。
今のあの三人に逆らった日には、その矛先が自分に向きかねない。
それだけは絶対に御免である。明日は我が身とはよく言ったものだ。
ユウキは女性陣に着せ替え人形のごとく着替えさせられ既に何度お色直しを行ったのか記憶が定かではない。
キリトはややウンザリ気味のユウキに同情しながら……迷っていた。聞くべきか聞かないべきか。
先の戦いでの恐ろしいまでの反応速度。一体どれほどの総ログイン時間を彼女は誇っているのか。
キリトにその質問を躊躇わせるワケはいくつかあった。
一つはリアル情報の開示を求めるのは重大なマナー違反であることだ。
些細なことではあるが、そういった物は聞かれて嫌がる人も少なくない。リアルを特定されるされないに関わらず、リアルに近しい情報は開示すべきではないし求めるべきでもない。
会ったばかりのプレイヤーなら尚更である。
もう一つは、本当にSAO被害者よりもログイン時間が長い場合……それは《一般人》としては考えにくい。
ヘビーユーザーである可能性も捨てきることは出来ないが、彼女の立ち居振る舞いや考え方からその線はあまりないと思われる。
よって、総ログイン時間が長い場合、可能性的にはなんらかの事情でログインを維持し続けなくてはならない状況下にあることが想定された。
SAO事件が終わった今、似たような事件は報告されていないしシステム的にも難しい。
となればその結果は事件に巻き込まれたわけではなく自身の意志によるものの方が可能性としては高い。
しかしそこまでダイヴし続けるのは自分の意思だけでは不可能に近い。大抵は先に体が根を上げ、最悪の場合栄養不足などから死に至る。
この問題は実際社会問題の一つになってしまっているほどポピュラーだ。
そうならない為にはSAO被害者の時並の環境が求められる。はたして個人でそこまでするだろうか。よしんばしたとして、そこまでやる人間がこんなところで油を売ったりするだろうか。
SAO並の環境、と考えてからふと以前調べたことのある知識が脳裏に浮かぶ。
フルダイヴシステムを医療用に応用した機械が存在することを。ざっとしか覚えていないが、活用されれば寝たきり患者ともコミュニケーションを取れる画期的な夢マシンとの触れ込みだったはずだ。
もしも、重篤患者にそれを使用したならダイヴ時間は長くなる事もあるのかもしれない。
同時に、その患者は長くダイヴし続けなくてはならないほど大病という解が導き出されるが。
もし仮に、もう起き上がることさえ出来ない人がその機械を使って仮想世界にいるのなら。
その人にとっての《現実》は《仮想世界》ということになるのだろうか。
なんとなく、脳をスキャニングしたという茅場晶彦のことを思い出す。
彼にとっての現実は既に仮想……ネット世界なのかもしれない。
だとしたらその機械を使っている人にとっては、その機械で見る世界こそが現在の住む世界、なのか。
キリトは一瞬、声が出そうになる。
(もしかして君は、完全にこの世界の住人なのか?)
幸か不幸か、キリトがそれを口にすることは無かった。
何故なら女性陣の次なるコーディネイトが終了したからだ。
「よし! ユウキ、次はこれお願い!」
アスナがストレージに次々とオブジェクト化した装飾品やら服やらを入れていく。
二、三度タップしてそれぞれの装備品のプリセットを完了。ユウキはウインドウを受け取ると溜息を吐きながらそれをタップ。
数瞬のうちにユウキの体は光の粒子に包まれ、その身は純白のノースリーブに包まれた。
大胆に脇を露出させてはいるがあまりいやらしさは感じられない。ノースリーブの紐が首の下でクロスしているのもワンポイントである。
さらには同色のフレアスカートを履いて、ほっそりとした白い足がにゅっと伸び、これまた白が基調となるパンプスを履いていて、足首には銀色のリボンが巻かれていた。
頭にはユウキが付けていたヘアバンドの代わりに白いティアラが装着され、前髪から横に伸びる髪は大きく編み込まれている。
髪の毛先はピンクのリボンで結ばれ、その余帯は三十センチ以上残されていた。
「可愛いよユウキ!」
「いやぁ、素材は良いと思っていたけど予想以上だったわねえ」
「素敵です!」
「うんうん!」
女性陣のおおはしゃぎにキリトはついていけない。
確かに今のユウキは可愛いと思うが……。
「どうかした? キリトくん」
嬉しそうなアスナに「いや」と返して首を振る。
まさかユウキよりも楽しそうな笑顔を浮かべるアスナに見惚れていた……などとは恥ずかしくて言えやしない。
「ボク何やってるんだろ……仲間を探していたはずなのに」
「仲間?」
「うん、少しの間一人だけ強い人に助けを借りたくて……」
「ならアスナ、協力してあげれば?」
「え? 私?」
「だってアンタ、勝っちゃったわけだし」
「協力してくれるの!?」
ユウキがバッとアスナに近寄る。
その目は若干潤んでいて、期待を内包した眼差しだ。
なんだか助けを求めているキリトのようで放っておけない。
つい、アスナは応えてしまった。
「う、うん、まあ少しなら、いいかな」
「ありがとう! じゃあ早速行こう!」
「へ? 何処に……ってきゃっ!?」
ここに来る時とは逆に、アスナはユウキに引っ張られるようにしてあっという間にログハウスを後にした。
残されたメンバーはポカン、と間を空けた後、同時にあることに思い当たる。
代表するかのように、その思いをリズベットが口にした。
「あの子、着替えないで行っちゃったわね……」
『パパ? そろそろ眠らないと本当に体に障りますよ?』
「ああ、わかってる。あともうちょっとだけ」
『……』
この回答はすでに都合三回目となる。
現在時刻午前三時。暗い部屋の中、ディスプレイの光だけがキリト/和人の顔を映し出していた。
素早く手元のキーボードを叩いては視線が左右上下に動いていく。
アスナが連れて行かれた後、メンバーは解散となり、それぞれ現実世界へと帰還した。
それ以降、和人は気になっていたユウキのことについて調べ始めていた。
以前記憶にあった医療機器……今はコードネーム《メディキュボイド》と呼ぶらしい。
もし和人の予感が正しければ、彼女はこれの被験者となっているのではないだろうか。
「日本では臨床試験をやっているのも一か所だけ……か」
横浜港北総合病院。
そこまで調べてから和人は首を軽く振った。
こんなことを調べて一体どうするんだ、と。
そもそも彼女がここにいる保証はないし、いたとしても突然会いにいく理由も無い。
そして何より。
「終末期医療……」
現在この機械の使用目的は《もう助かる見込みの少ない患者》への最終手段とされていた。
その理由や考えは……想像に難くない。
もし本当にそうなのだとしたら、これは会ったばかりの他人が踏み込んで良い領域ではない。
和人は自身の携帯端末を手に取ってタップ、スライドさせる。
すぐにアスナからのメッセージが呼び出された。
【ユウキって《スリーピング・ナイツ》って言うギルドのリーダーだったんだ。どうしても自分の仲間達だけでアインクラッドのフロア攻略、迷宮区のボスを突破したいんだって。これまでの何度か挑戦したけど負けちゃって、すぐ別のギルドにクリアされちゃったらしくて、協力者を探すことにしたみたい。少し迷ったけど、今回は私がお手伝いすることにしました! 明日早速ボス部屋に挑戦しに行ってくるね! それから仲間にシウネーさんって人がいて、彼女もユウキの可愛さをわかってくれて……】
アスナがニコニコとした笑みでメッセージを打ち込んでいる姿が目に浮かぶ。
そのことに若干頬が緩むが少しだけ、アスナが彼女と付き合う事に不安も覚える。
もしかしたら、悲しい思いをすることになるかもしれない。
和人はここで一度目を瞑って再び首を振り、思考を切り替えた。
決めつけるのは早計だ。そんな保証や証拠、何処にもないのだから。
だが、彼女のメッセージによるとユウキたちのギルド名は《スリーピング・ナイツ》と言うらしい。
そう考えると妙に意味深に感じてしまう。和人はもう一度、首を振って思考を掻き消した。
すぐにキーボードの打ち込みを再開し、現在のALOにおける最前線の情報について目を通す。
当時とは攻略戦もガラリと様変わりしていてデスゲーム時代の知識は信頼度としては既に四十パーセントを下回るほどと言われている。
現在の最前線は二十七層。キリト達はアップデートされたその日に向かった二十一層のボス攻略を最後にボス攻略戦には参加していない。
目的は二十二層のログハウスだったし、そうと取り決めたわけではないが、経験者としてはボス部屋解放の栄誉は出来るだけ新しいプレイヤー達が成す方が良いだろうとの考えもあった。
かといってこれまで情報を仕入れていなかったわけではない。
「……ん?」
和人は何かに引っかかり、検索範囲を広げる。
現在の最前線の一つ前ともう一つ前。すなわち二十五層と二十六層のボスを倒したレイドは現在攻略組として名を馳せている巨大ギルドのようだ。
それ自体は珍しい話ではないのだが。
「随分期間が短いな」
ここまでの大型ギルドだと動くのにも時間がかかりそうなものだが。
ふと、先のアスナのメッセージが頭をよぎる。
ユウキのギルドが挑戦したすぐ後にクリア、か。
和人は最近のギルド情報について洗ってみた。
「……あんまり良い状態じゃなさそうだな」
どうやらアインクラッドの迷宮区攻略は、ギルド間でのトラブルが増えているらしい。
特に大ギルドの管理が横行しているようだ。そういった話を見ると当時を思い出す。
人が実際に死ぬゲームの中でさえ、似たような事はあったのだ。今更そのことに驚きはしない……が。
「注意する必要はありそうだな。えっと……」
『パパ? もう四時ですよ?』
「もうそんな時間か。ごめんなユイ、もうちょっとだけ……」
『……』
ユイの心配そうな声に、和人は空返事で答えつつ検索の手を休めない。
忙しなくキーボードを叩き、調べ物に没頭する。
ユイは、それ以上何も言わなかった。
結局、キリトはこの日眠らなかった。朝の十一時まで調べ物を続け、アスナを見送るためにALOへとダイヴする。
事情を聞いたリズベットやシリカ、リーファも集まり、アスナに協力するかのごとく手持ちのポーションアイテムを持てるだけ提供した。
「ありがとうみんな、行ってくるね!」
「あ……」
「どうかした? キリトくん」
「……いや、頑張れよ、アスナ」
「うん!」
キリトはそれ以上何も言わず、手を振って転移門に消えるアスナを見送る。
ユウキについての可能性を一瞬言うべきか迷ったが、やはり口は噤んだ。
憶測で語る段階ではない。ましてやこれから攻略戦なのだ。
アスナを見送ったキリトはログハウスの揺り椅子に座ってギィコギィコと椅子を揺らす。
ユイはそんなキリトの膝の上で丸くなって眠っていた。
そんなユイとは正反対に徹夜をしたはずの彼の頭は不思議な事に睡眠を要求しない。いつもなら五分と立たずに眠りの手が伸びてくるのだが。
そうして、椅子を揺らしだけの時間が一時間ほど経過した頃だろうか。
コンコン。
プレイヤーホームの戸がノックされる。
キリトの目の前には侵入を許可するかの確認ウインドウが立ち上がっていた。
ウインドウにはフレンド登録者【クライン】と書かれている。キリトは許可のボタンをタップした。
ガチャリ、と戸が開かれ見慣れた野武士面に赤いバンダナを巻いたいつもの出で立ちのクラインが入ってくる。
「よぉキリの字、邪魔するぜぃ」
「今日は仕事じゃないのか? クライン」
「あ~……まぁ休憩時間中なんだよ」
「おいおい、いいのか」
「サボリってワケじゃねェし、ここ数日インしてなかったからよ」
「そういえば数日間クラインのログインが確認できなかったな」
いや、あれは確かユイとデートをした日から、だっただろうか。
まあクラインはこれでも社会人である。なかなか頻繁にログインできない事は仕方のないことだろう。
「まァな……なあキリトよ、ユイちゃんの最近の様子はどうだ?」
「ユイ? 別におかしなところはないと思うけど……なんでだ?」
クラインはキリトの膝で眠るユイを愛おしさと、心配さが織り混ざったような眼で見つめている。
キリトはクラインの質問に首を傾げながらユイの艶のある黒髪を撫でた。
んぅ、と可愛らしい寝息が聞こえ、猫のようにキリトの膝に頬を擦りつけて嬉しそうに微笑んだままユイは目覚めない。可愛い。
「いや、いつも通りならいいンだ」
「お前、もしかしてこの前何かしたのか?」
「い、いや! してねえって! ……と思う、たぶん」
「多分ってなんだ多分って。あともう少し声のトーン落とせ」
「……なんかこの前の最後のユイちゃんがよ、ちょっと様子がおかしかった気がしてな、俺の勘違いってンなら全然良いんだ」
「……ふぅん」
キリトに思い当たる節は無かった
しいて言うなら、ここの所ユイはシステムメンテナスと称して引き籠る時間が増えたことと自分やアスナに今まで以上に甘えるようになったことくらいだ。
だがキリトの目から見てもそれは誤差の範囲内と思えた、特段気にするレベルではない、と。
この時はそう思っていたのだ。
「しっかし俺が言うのも何だけどよ、平日のこんな時間に仮想世界でノビノビしていられるってのは学生サマの特権だなオイ」
「クラインにもはるか昔にそういう時代があったんだろ?」
「おうよ、ってそこまで昔でもねえよ! にしてもさっきギルドの大隊を見かけたがありゃこれから攻略にでも行くんかね? よくも平日の昼間にあれだけ人を集められるモンだ」
「……おいクライン、そいつらもしかして盾に横向きの馬がエンブレムのギルドじゃなかったか?」
「ン? おおよくわかったな、アリャここンとこ攻略成功を重ねて名を上げてるギルドチームだろ?」
「!」
キリトはガタッと椅子から立ち上がった。
いつから起きていたのか、ユイも危なげなくキリトの横に浮いている。
「なンだ? どうしたよキリの字」
「アスナの話、聞いてるか?」
「ワンレイドでのフロア攻略戦に行くンだってな、なンつーか無謀っつうか、昔なら考えられねー話だよな」
「その攻略戦でそいつらと揉めるかもしれない、俺は行く!」
「ちょ、おい待てって!」
キリトが走り出し、クラインは慌てて黒い背中を追いかける。
説明しろ、というクラインにキリトは手短に自身の持っている情報と推測を説明した。
アスナが知り合ったメンバーはワンレイドでのフロア攻略を目的としていること。
既に何度か挑戦したこと。《偶然》挑戦した数時間後にフロアが踏破されていること。
踏破したギルドは毎回同じで、そのギルドによるフロア攻略管理が度を超し始めている噂があること。
「もしかしたら今回アスナちゃんが付き合うことにしたメンバーが知らないうちに偵察させられているってコトか?」
「百パーセントの確証があるわけじゃない、けど俺はそう思う。《盗み見(ピーピング)》でも使って攻略情報を得られれば自分たちは余計な時間やアイテム消費をせずにすむ」
「なンだそりゃ! ズリィじゃねえか! ヨッシャ、俺様も手伝うぜ!」
「頼む」
「任しとけ! って……」
安請け合いしたクラインだが、気付けば、キリトの背中は先よりも遠い。
ぐんぐん彼はスピードを上げてクラインを突き放していく。
「お、ちょ……」
迷宮区に入って既に四つ目の角でキリトの背中を見失う。
どちらへ向かっているかはなんとなく分かるが、恐るべきスピードだった。
(速く……速く!)
目前にモンスターのポップエフェクトが立ち上る。
キリトは迷うことなく背中の剣を抜き放ちソードスキルのライトエフェクト一閃。
その勢いを殺さぬまま敵の姿も確認せずに突き進む。
恐らく倒しきってはいないが、確認する暇も倒す暇も今はその一切合切の時間が惜しい。
(速く……速く!)
速く、速く、速く!
さっきよりも速く。今よりも速く。もっと速く。
先へ。この先へ。もっと先へ。何処までも先へ。はるか先へ!
ギアを上げろ。ロウからセカンド、サードからトップ、ハイトップへ。
限界なんて知らない。そんなものはない。壁があるのなら超えろ。超えられない? なら壊せ。
頭にチリチリとした不快感、痛み似た警告がアバターを刺激する。関係ない。
視界が黒く狭窄していく。関係ない。赤い明滅がALEATアラーム信号を発している。関係ない!
走れ。止まることなく走れ。止まる必要は無い、ただ、ただ……加速しろ、何よりも速く、加速し続けろ!
(見えた!)
赤く明滅する視界。
狭窄し半分以上闇に染まりつつある前面には多勢のプレイヤー。ギルドタグ……確認。全てがそうではないが、それだけで、十分。
索敵スキル、発動。人の合間を縫うようにして……見慣れたトルマリンブルーのロングヘアを持つ彼女を確認。健在、それだけで十分。
彼女が健在である、それ以上に十分な条件など、ない。最低条件のクリア。
加速距離、十分。不十分でも十分。出来る出来ないではない。やる、ただそれだけ。
キリトはプレイヤー数ざっと三十、その《人壁》を超えるべく走る対象を床から徐々に壁に寄り、そのまま壁を蹴り飛ばして《走り続ける》。
《壁走り(ウォールラン)》と呼ばれる軽量級妖精の共通スキル。もっとも、キリトはSAO時代からこの手の《トンデモ技術》をシステム外スキルとして会得しているが。
人混みを超えきったところで壁を力強く蹴り飛ばして滞空すること数秒、踵を床にこするようにして火花を散らしつつ制動。戦闘は始まっていない。間に合った事に安堵。
ボス部屋の前におおよそ二十名程度、その後ろにワンレイドであるアスナ達七名。そのアスナ達を挟み込むようにして近付いて来ていた三十余名のプレイヤーの前に、キリトは躍り出た形となった。
「悪いな、ここは通行止めだ」
背中の剣を床へと突き刺し、宣言する。ようやくと狭窄していた視界が解放されていき、明滅していたレッドスクリーンにカラーが戻ってくる。
深呼吸を一つ。ここから先へ今彼らを行かせるわけにはいかない。
一瞬だけトルマリンブルーのロングヘアを持つ彼女……アスナへと振り向き、頷いて見せる。
それだけで彼女は察してくれた。アスナは他の六人へ檄を飛ばし、扉前の二十人余りのプレイヤーへと突貫を開始する。
その時、増援だと思われる三十人余りのプレイヤー側の後方から、仲間の援護とも取れる炎属性魔法が撃ち放たれた。
《単焦点追尾(シングルホーミング)》型の火球が七発。この魔法をアスナ達の元へ行かせるわけにはいかない。
キリトは突き刺した剣を引き抜いて右肩に構えるとその刃に深紅色のライトエフェクトを宿させた。
七連撃のソードスキル《デッドリー・シンズ》による《魔法破壊(スペルブラスト)》を成功させる。
エクスキャリバークエスト以降、キリトはほぼ完全にこの技術を確立させていた。
増援部隊が《魔法破壊(スペルブラスト)》にあっけにとられている隙に、後方ではソニックブームに似た大きい衝撃音と共に極大の光が放たれた。
振り向くまでも無い。今のはアスナの最強技の一つ、細剣用最上位ソードスキル《フラッシング・ペネトレイター》だろう。
これでアスナは彼らと無事にボス部屋へ入ることが出来るはずだ。クラインもいつの間にか合流して後方で戦ってくれているようだし自分の役目はここまでだ……と思っていたのだが。
「くそっ! あのオンナ共ぶっ殺してやる!」
その声にキリトの動きがピクリと止まる。
後方ではギギィ……とボスの部屋が閉まる音が聞こえた。ミッションはコンプリート。
「……」
ALOに限らず《女性狩り》といった行為や《報復》といった行動は珍しくない。
だから今の台詞は特段気にすることのない単なる八つ当たりや毒舌、感情の発露でしかない。
取るに足らない、本気にする者さえほとんどいない……そんなストレス発散のための悪口。
だが。
「っ! パパだめ──」
───スパン!
「え」
プレイヤーの首筋に、赤いポリゴン裂傷が出来る。
瞬間、プレイヤーは爆散してチロチロと燃えるリメインライトと化した。
何が起こったのか、分かった者はごく少数。リメインライトとなった彼は自身に起こったことがわからなかったに違いない。
ゆらり、とゆっくり動く黒い影の主は、キリト。
ALOには部位欠損ダメージというものが存在する。欠損した部位は高価なポーションもしくは高位魔法でなくては瞬時の回復には至らない。
時間経過によって欠損部は自動的に再生されるが、大抵はその前に壊滅(ワイプ)するか撤退するか、回復するかの三択だ。
さらにその部位が首となれば、ダメージ量は何倍にも膨れ上がり、基本は一撃死と言われている。実際斬られた彼は即死だったようだ。
ユウキがアスナとのデュエルで最後に動けなかったのもそのためである。
しかし、Mobモンスターならともかくプレイヤーの首を狙うことは決して容易ではない。
同時にそれだけはやる方もやられる方も忌避する傾向にある。
首を斬られるという感覚は通常ありえるものではない。その恐怖は想像を絶するものがあるし、行う方も擬似的な人殺しに近い。
無論システム的に許されているのだから違法行為ではない。単なる暗黙のマナーであって、それすら絶対というわけではない。
中には《首切り(ネックショット)》を極めんとするプレイヤーも確かに存在する。しかし……それが好まれないのは事実だった。
「こ、こいつ《首切り(ネックショット)》しやがった!」
「この野郎!」
「やっちまえ!」
三人に囲まれ、三方からキリトは斬りかかられる……より速く、キリトの背にはもう一本の剣が生成されていた。
黄金色のロングソード、《エクスキャリバー》。その柄を掴んでクロスさせたところに三者からの攻撃が被せられる。
ガキン! と鈍い金属音が奏でられキリトは膝を付く、がダメージはない。そのままキリトは……呟いた。
「STAR BURST STREAM」
キリトの持つ《二刀》の剣に眩いライトエフェクトが宿る。
キッとキリトの睨みつけるような瞳に、一人が怯んだ瞬間、右手の中断切り払いによって一人が吹き飛ぶ。
間を開けずに左の剣を一人に突き入れ、右の剣がもう一人を切り払う。僅かな時間で三人に特大のダメージを与えたが、キリトの動きは……止まらない!
四、五、六、七……!
七回を超えたところで三人のHPゲージは吹き飛んだ。三人分の爆散エフェクトを伴ってキリトは未だライトエフェクトが宿る剣を残りのプレイヤーへと振り続ける。
「な、なんだよこれ……なんだよこれええええっ!」
僅か数分。
実に十七名のプレイヤーがチロチロと燃えるリメインライトと化していた。
その数実に半数以上。流石に残りのメンバーも茫然自失としている。
十七名のうちに何人かは首を一刀両断され、抗うすべなくリメインライトとなった。
「まさか、これが噂の《二刀流》……!? でもALOにそんなスキルなんて……!」
ALOに二刀流スキルは《プリセットシステム》としては存在しない。
故に、キリトが使用したのは純粋なかつての二刀流スキル、ではない。
しかし、この世界にはOSS──オリジナル・ソードスキルシステムが実装されている。
最初は興味本位だった。試してみる……それだけのつもりで完全再現に成功している二刀流のプリセットを試みた。
結果は、現状が答えを物語っていた。考えてみれば必然なのかもしれない。
無理のない動きであるならソードスキルとしての登録が可能なのがOSSである。
実装されていなくとも、《存在したことのある剣技》なのだから、システムが認めることは十分に考えられたのだ。
二刀流スキルのOSS化は。
『未練が無いと言えば嘘になるけど、護る力が必要とされないのなら、その方が良い』
かつて、外でもないキリト自身がそう言った。
その考えは今もって変わらない。しかし……それは《護る力が必要とされない時》の話だ。
「お前たちが、アスナを殺すって言うなら、俺がお前たちを……《殺す》」
表情の無いキリトの顔が、残りのプレイヤー達に恐怖を与えた。
殺す、とハッキリ口にされたその言葉は、デスゲームを生き抜いてきたもの故なのか、《本物の殺意》を孕んでいるかのようで、残りのプレイヤーの戦意を恐怖によって根こそぎ奪い去っていた。
ユイはそんなキリトの事を今にも泣きそうな顔で見ていた。
制止は間に合わなかった。こうなることを全く予想できなかったわけではなかった。
キリトもまた精神的に重病なことに変わりは無い。外見的に症状が見られない《完治》に似た状態になったとしても、ふとした弾みで再発・爆発する可能性は消せはしない。
ただユイでさえキリトへの禁句(タブー)を正確に把握していなかったのだ。
《アスナの死》、という禁句(タブー)を。
ここまで影響するとはユイでさえ予想していなかった。
ユイは自身の小さな手を強く握る。自分の力が、足りなかった。痛いほどに、震えるほどに力が入る。
無力感に苛まれながら、涙さえ零しながら、しかしユイはキリトが悪いとは思っていない。
些かも父のことを好いている気持ちに揺れは無い。
悪いのは自分なのだと戒め、キリトの肩に乗って必死にキリトを宥め、落ち着かせようと奮闘する。
体の震えは、止まらない。彼女の流れる涙も、止まらない。
「ユイちゃん……」
そんなユイの孤軍奮闘している姿に、クラインは初めてにして仲間内で唯一、気付かされたのだった。