一
軽い。あったはずの感触が、重みが、消える。引っ張っていた時に目一杯ゲインしていた筋力が、空を掴む。
瞬時に何が起こったのか理解し、同時に理解できない。いや、理解したくない。振り返りたくない。
目端で捉えるライトエフェクトなど、気付きたくない。
二
まだ話したいことがあった。聞いてほしいことがあった。聞きたいこともあった。
もっともっと時間を共有したかった。まだまだ一緒にいられるものだと思っていた。
明日があると信じて疑わなかった。
三
好きだった。どうしようもなく好きだった。愛していた。一緒にいたかった。一緒にいて欲しかった。
その想いが報われる日が来ないとしても、せめて彼のそばにいることを許してほしかった。
感謝していると言われて、寂しくなくなったと言われて嬉しかった。彼の孤独を埋めたのは自分なんだと彼が教えてくれて、そう思ってくれていたことが何より嬉しかった。
四
伝えたいことがあった。伝えなくちゃいけないことがあった。伝えるべきだった。
彼のたった一つの勘違いを、もっと否定するべきだった。否定しなくてはいけなかった。本当の理由を言うべきだった。
哀れみなどという、そんな感情では決してないこの灼熱の想いを、彼にぶつけておくべきだった。
もう、伝えることができない。会うことができない。話すことができない。触れることはおろか見ることさえ叶わない。
五
……なんだそれは。なんなんだそれは。どういうことだそれは。そんなの……あんまりではないか。あんまりすぎるではないか。
これから先、彼無しで自分はどうすればいい? 一人でここを抜ける? 攻略を続ける? それに……どんな意味がある?
……無い。意味なんてない。たった今無くなった。帰りたくないわけじゃないはずだった。生きていたいはずだった。
でも、彼無しでその願いは成り立たないものなのだと今初めて理解した。意味がない、意義を感じられない。
六
彼のいない世界に残ることに、なんの意味も持つことができない。彼のいない世界に帰ることに、いかほども意味を見出せない。
そうだ。生きていても仕方がない。意味がない。何もする気が起こらない。
宙を舞うライトエフェクト……擬似的な質量さえ持たないすぐに消えるそれに彼がなってしまったのなら。
SAOはおろか、現実世界からも彼がログアウトするのなら……自分もログインしている意味など……ない。
七
《閃光》などといういつの間にか頂戴していた二つ名。だが、その名に恥じぬ突きの威力とスピードを持ち合わせている自負はあった。
今となっては何の意味もないそれ。でも、自分の首にこの細剣(レイピア)を突き刺せばそれこそ《閃光》のような速度で彼のもとへ行けるのではないだろうか。
それはなんて甘美で魅力的な考え。今、これ以上の答えを見つけるのは無理な気がした────そんな時、
音もなく──《隠蔽》(ハイディング)だろう──その人物が現れた。
紅いバンダナを巻いたプレイヤー、クライン。ギルド《風林火山》のリーダー。彼の知り合い。攻略組。一秒にも満たない間に情報が脳内をかけめぐるが、そんなことはどうでもいい……はずだった。
「これを! あいつの名前を言うんだ! 速く!」
八
突き出されたのは卵サイズの虹色に輝く宝石。これがなんだというのだ。自分は今一刻も早く喉に細剣(レイピア)を突き刺しそれこそ《閃光》の速さで彼の後を追おう……などと思っていた刹那。
思考が、目端で捉えたポップされているウインドウの中の名前を見た瞬間、焼き切れそうな程、加速する。
《還魂の聖晶石》
【このアイテムのポップアップメニューから使用を選ぶか、あるいは手に保持して《蘇生:プレイヤー名》と発声することで、対象プレイヤーが死亡してからその効果光が完全に消滅するまでの間(およそ十秒間)ならば、対象プレイヤーを蘇生させることができます】
九
思考が加速する。文字を読むのに、理解するのに、時間は文字通りかからなかった。それこそ《閃光》のように。
今自分がやることは一つ。それは……口を開いて……彼の名を呼ぶこと!
「蘇生! キリト!」
彼の名前を呼んだ瞬間、《還魂の聖晶石》が輝き、周囲に散っていた光源……今にも消えそうな、残り僅かだったライトエフェクトを振りまくポリゴン片がまるで逆再生するかのように集まっていく。
みるみるそれは人の姿を形成させていき、次の瞬間には一際大きいライトエフェクトを弾けさせて……ポカンとした表情のままの黒い少年剣士を見事アベントさせることに成功した。
「あ、あ、あ……!」
「あれ? ……俺、えっと……?」
自分の身に何が起こったのか、一瞬理解できないキリトは首を傾げ、しかしそんなキリトにはお構いなしにアスナは彼に抱き着いた。
彼の感触を確かめるように強く強く。空ではない、作り物だろうと実体の、重みのある体を確認するように。それが幻想でないことを確かめるように。
アスナは嗚咽を漏らしながら、そこに彼がいることを深く深く感じ取っていた。
「よォ、キリト」
「クライン……」
「預かりモンを返しに来たぜ」
「預かりもの……?」
「蘇生アイテム、ありゃ、お前のモンだろう」
「あ……いや、あれは……」
「良いんだよ」
子供を諭すようにクラインは優しく言い、その野武士面でウインクしてみせた。それでキリトは自分に起きたことを理解する。
彼に以前渡した、いや、くれてやったクリスマスボスである《背教者ニコラス》からのレアドロップ品、蘇生アイテムである《還魂の聖晶石》が使用されたのだ。
「似合わないぞ」
「うるせい」
「……俺には使わないんじゃなかったのか?」
「なんだよ、助かったんだから素直に喜べってんだ」
「……けど」
「ありゃお前のもんだって言ってるだろ。俺のじゃねぇ、俺のだったら使わなかったさ。そういうことにしておこうや」
「……ありがとう」
「おう」
ニカッとした笑顔をクラインは見せた。彼はその辺の性格が非常にサッパリとしているから後腐れもないだろう。
それがわかっているキリトは、心の中でもう一度礼を言うと、未だ自身にしがみついている少女の背中を軽く二度叩いた。
「アスナ」
「……怖かった」
「……ごめん」
彼女に心配をかけたのは本当に申し訳なかったとキリトは思う。しかし仕方がなかったのだ。
ああしなければ彼女が危なかったし、あの段階では助かる方法は間違いなくなかった。と、そこまで考えてふと疑問が沸き起こる。
「な、なあ、なんで俺蘇生されたんだ?」
「なんでって……そりゃ蘇生アイテムのおかげだろうよ」
おかしな奴でも見るかのようにクラインはキリトを見やる。だがキリトが気になった理由はそこではない。
方法ではなく状態だ。何故なら、
「いや、ここは結晶無効化エリアのはずだろ? なんで蘇生アイテムが有効だったのかなって」
「ああ、そういやそんなこと言ってたな」
「言ってた?」
「おう、そもそも俺がここに来たのは《軍》の奴らに会ったからさ。《軍》の奴らに成り行きを聞いて、慌てて助太刀に来たってわけだ。結晶無効化エリアなら何が起きても不思議じゃねぇしな」
「そうだったのか」
「念の為に俺自身は《隠蔽》で先行して、それでもエンカウントモンスターに見つかった時は他のメンバーにそいつらの相手をしてもらったんだ。何、もう少しであいつらも来るだろ」
「悪いな、今回はかなり世話になった。けど、だとするとやっぱり腑に落ちないな」
「う~ん、そりゃあれじゃね? 蘇生アイテムは聖晶石って書いてたしな、結晶じゃないから、とか」
「まさか。確かに宝石みたいな感じだったけど、こういうアイテムは分類上同じ扱いされるのがセオリーだろ。そもそも結晶と聖晶石の違いってなんだよ」
「俺に聞かれたってわかんねェよ、っていうかここ結晶無効化エリアなのか? 全然そんな感じしねェけど」
「え」
そう言われてキリトはシステムメニューを開くべく手を振る……ことができなかった。アスナはキリトに抱き着いたまま、離れようとしない。
まるで離れればこの存在が消えてしまうと恐れるかのように、彼女は強くキリトにしがみついていた。
「えーと、アスナ? そろそろ離してもらえると助かるんだけど……」
「……いや」
フルフルと首を振ってアスナはキリトの頼みを拒絶する。むしろ絶対に離すものか、とより強く彼の体を抱きしめた。
彼女の首が振られる度に長い栗色のロングヘアーがキリトの頬を撫でる。実体でないはずのアバターはその感触すら無駄に再現していてキリトの顔を紅く染めさせた。
仮想上のデータとは言え、リアルに感じられるそれを、全身で今キリトは感じているのだ。おまけにその相手がSAOでも美人と名高いアスナならばキリトでなくとも照れるというものだった。
「あー、うん、ここ結晶無効化エリアじゃねぇな。どれどれ……うおっ!? すぐそこから無効化エリアじゃねぇか! 運がよかったなオイ。お前の言う通り蘇生アイテムが結晶系アイテムに分類されてたら使えなかったかも……ってなァに乳繰り合ってんだてめェ!」
「ち、乳繰り合ってない!」
「説得力ねぇっての。んー、お? もしかしたらやばかったかもな」
「……どういうことだ?」
「んっと、だいたいこのラインだな。こっから向こうが無効化エリアになってる。んで、なんとなくだけど副団長さんが最初にいた位置と復活したお前さんの位置から見て、死ん……消えた時と今ほぼ同じ体勢だろお前」
「えっと、多分……あ」
「今のお前、片足だけ結晶無効化エリア入ったままだ。まぁ、半身以上抜けてんだからどっちにしろ大丈夫だったかも知れねぇけどな」
「そうか……」
「まぁいいじゃねぇか。偶然ギリギリで抜けてたにしろ、聖晶石は無効化エリア対象外だったにしろ、理由はどうあれ今こうやって生きてんだ」
「ああ、そうだな」
もしかしたら、足を部位欠損していたから全身が最後の瞬間、最後のアスナの一歩でギリギリ結晶無効化エリアを抜けていたのかもしれない。
もしかしたら、蘇生アイテムほどのレアアイテムは、聖晶石というだけあってクラインの言う通り結晶無効化エリアで使用不可な《結晶アイテム》に分類されないのかもしれない。
前者なら、キリトが別れなど言わずにとっとと転移結晶を使っていれば貴重な蘇生アイテムの出番はなかったかもしれない。
だが、そんなことはどうでも良かった。今更何を言い、考えたところで詮無いことだ。今生きている。これ以上に、望むことなんて、きっとない。
だから……そろそろアスナに離してほしいと思うキリトだった。いい加減存在しないはずの心臓がマッハでやばい。
「あの、アスナさん……」
「……だめ、なんだからね」
「い、いや~、あの」
「もう、だめなんだから。諦めたら、死んだら、ダメなんだから……!」
「あ……うん」
彼女の震えたまま抱き着いている手が、未だ彼女が恐怖から立ち直っていないことをキリトに教えてくれた。そこで、ようやくとキリトも優しくアスナを抱き返す。
不思議と緊張はせず、恥ずかしいとも思わなかった。つい先ほどまで、あれほどドキドキしていたというのに。
「ん……」
その行為がお気に召したのか、アスナ短く息を吐くと、甘えるようにキリトの肩に額を乗せた。
過剰気味、と言っても今回ばかりは正当な表情をしているだろう顔、フェイスエフェクトを彼に見せるのはまだ抵抗があった。
その程度の乙女的思考ができるほど、アスナも落ち着き始めてはいたのだが、同時に熱が冷めないうちに伝えておかねばならないことがあった。
伝えられない、ということの苦しさを一瞬とはいえ味わった彼女は、もう二度と後悔したくなかった。
「……キリト君」
「うん」
「私、キリト君といるのは……哀れみなんかじゃないから」
「……うん」
「情けでもないし、攻略会議で指揮を預かる身だからとか、そんな打算的なことでもない」
「……うん」
「私、私ね────なの」
「うん?」
「──き、なの。キリト君がサチさんを好きでも、恋人を忘れられなくても、私キリト君が──好きなの、好きになっちゃったの!」
「うん……えっ!?」
わかってる、わかってるよ、というように相槌を打っていたキリトが、頷いて……驚く。突然の告白。文字通りのそれに、彼は咄嗟にどうしていいかわからなくなった。
彼女が自分に近づくのは打算的な目的でないことは理解していた。当初こそギルド勧誘目的疑惑を内心で持っていたが、それは当に払拭されている。
また、彼女のこの心配振りから哀れみでもないという彼女の言葉も信じていた。彼女はそこまで人を低く見積もるような人ではないという理解もあった。
ただだた『まさか』という思いがキリトに渦巻く。だって彼女は、SAOでもトッププレイヤーで、アイドル的存在でもあるのだ。
そんな人がまさか自分なんかに異性としての興味を持つなんて、キリトは思ってもみなかった。いや、“持ってくれるとは”思っていなかった。
「あ、う……その、うん、ありがとう」
「……っ」
何処か所在なさげに視線を動かすキリトに、アスナはもうわかっている返事が来るのを身を強張らせて待つ。
何かを言いづらそうにしているその顔は、彼の優しさの表れだろうけど、どうせならズバッと言って欲しい。全てはそこから始まるのだ。
そうしたアスナの覚悟をよそに、キリトは困ったような、疑問で一杯のような、そんななんとも言えない感情が入り混じった顔で言葉を絞り出した。
「えっと、なんでサチのこと知ってるのか知らないけどさ……」
「うん」
「別に俺、サチと恋人じゃなかったけど」
「うん……って、へっ!? えっ!? ほぁっ!?」
今度はアスナが驚く番だった。信じられない、とばかりに口をポカンとあけて、肩に乗せていた顔を持ち上げてキリトを見つめる。
キリトは首を傾げながらアスナを見返した。心底不思議そうなその顔は、とても嘘をついているようには見えない。
「え、いやだって……」
「誰かからそう聞いたのか? クラインもギルド名くらいしか知らないはずだけど……今もあいつらの事を……あの時のことを知ってる人がいるのか」
「あ、違うの!」
「……?」
アスナは言ってから後悔した。でも、不思議そうな顔をしているキリトにこれ以上嘘はつけない。彼女は全てをキリトに話した。
以前にドロップしたアイテム、《盗賊のピアス》のことを。最初はキリトも驚いていたが、信じてくれた。
「つまり、それで俺の部屋に来たサチを見た、と」
「う……」
「まぁ確かに褒められたことじゃないけど……でも違うよ。彼女とは、そういう関係じゃなかったんだ」
「そう、なの……?」
「何て言うんだろう? 傷を舐めあう関係、って言うと変だけど……サチは怖がりでさ、安心したかったんだよきっと。逆に俺は誰かに頼られ、守ることで自分を保ってたところがあったんだ」
「そう、なんだ……」
「まぁ、あのまま一緒にいれば、もしかしたらそういう関係になってた、のかもしれないけど……」
「む……」
「俺が今好きなのは、────アスナだから」
「………………ふえっ!?」
ボンッと音が鳴るくらいの勢いでアスナの顔が紅くなった。予想外、振られることを前提で告白した彼女は、まさか彼に逆告白を受けることなど想定していなかった。
胸の中で彼の言葉が何度もリフレインされる。夢のような、彼の言葉。
「え、あ、う、ウソ……?」
「いくらビーターでも、こんなことで嘘を吐くほど落ちぶれてはいないつもりだけど」
「……うん」
頷いて、涙が零れた。彼の顔を急に見られなくなる。胸がトクトクと早音を打つのがわかる。そこに本物の心臓が無いとは、今日ばかりはとても思えなかった。
もう一度彼に抱き着いて、彼の体を、実体を感じる。単なるアバターにすぎなくとも、確かにある温もりが彼女の心を蕩けさせた。
どれほどこうなることを望んだだろう。どれほどこうなることを願っただろう。それが叶う日など来ないと、どれだけ胸を痛めただろう。
彼という大事な人の、重みを失うという最低最悪の体験をしながら、彼と思いが通じると言うSAO生活の中で最高の出来事が一日にして起こった。
もし、少しでも何かの歯車が噛み合わなければ、この結果は起きなかったかもしれない。彼が今こうやって生きていられるのは奇跡に等しいのだから。
そこでハッと気づく。彼を助けてくれたクラインに、お礼を言わなければ。そう思って、しかしキリトから離れる気にはなれず、首だけで彼を探すと、背を向けてちらちらとこちらを伺うクラインの姿がほんの数メートル離れた位置にあった。
目が合い、クラインは気まずそうに言う。
「あー、ゴホン。青春してるとこ悪いんだが……俺しゃべっていいか? それとも帰った方がいい?」
わざとらしい咳を一つしてから、クラインは後頭部をガリガリとかく。それでキリトはクラインがそこにいることを思い出したのか、慌ててアスナを抱く手を緩めるが、残念なことにアスナの方は離れる気がさらさら無かった。
混乱するキリトに、アスナはクスリと笑ってから顔だけクラインに向けて、頭を下げた。
「ありがとう、ございます。キリト君が生きてるのは、貴方のおかげです」
「いや、それはいいんだけど……その、まあ、なんていうか……」
アスナのお礼に、クラインは気まずそうに視線をずらした。なんだかおかしい。《血盟騎士団》副団長として培ってきたアスナの勘が、雲行きが怪しくなってきたのを感じ取る。
キリトもそんなクラインに気付いたようで、視線で「どうしたんだ?」と尋ねていた。こんなところを見られて「どうしたんだ」もない、と思わないでもないが、普段から飄々としているクラインのらしからぬ態度に、流石のキリトも心配になったのだ。
それに気付いたクラインは「パンッ」と両手を合わせて「すまねぇ!」と頭を下げた。
「いやぁ、まさかこんなことになるとは思ってなくてだな」
「なんだよ?」
「《軍》の奴らに言われて、っつーか頼まれてさ」
「何を?」
「まぁ俺も最低限それくらいの責務はあるなと思って安請け合いしちまったんだが」
「だから何の話だよ」
「これ、なんだかわかる……よな?」
そう言ってクラインが見せたのはライトグリーンに輝く八面柱型のクリスタルだった。録音結晶だ。
これは声を録音・再生できるという、ただそれだけのアイテムである。何故それが今ここに録音モード起動中で存在しているのか。
待て。録音モード起動中、だと?
「お、おい……クライン。まさかお前、今の会話……」
「ああ、録音されてる」
「え、えええぇぇぇえ!?」
キリトの嫌な予想にクラインがその通りだと答え、アスナが驚きの奇声をあげる。一世一代とも言えるあんな恥ずかしい告白を物理的……電子的に残されているなど、録音された方は溜まったものではない。
だいたい何故今そんなものを使っているのだ。
「アスナさんって言ったら、やっぱ最悪の場合、《血盟騎士団》に報告の義務が発生するだろ? その際にできるだけ確かでライブな情報を提供するよう言われてさ。あいつらも保身に必死だったんだろうな、既に転移した《軍》の奴は俺が録音してるのをKoBに伝えているはずだ。これはそいつのだからそいつが《血盟騎士団》に渡すことになってる」
「どうでもいいから消せよ!」
「悪い! 俺も自分の身が大事なんだ! 《KoB》や《軍》に目を付けられるのは御免でな」
「お、おい! お前それ《血盟騎士団》に渡すつもりか!?」
「……スマン!」
「……俺はたった今PKする覚悟を決めたぞクライン」
「おいおいおい! 俺は命の恩人だぜ!?」
「あれは俺のアイテムだって言ったのお前だろ!」
「け、《血盟騎士団》副団長として命じます! そ、それを渡す必要は……」
そんな問答を続けていると、《風林火山》のメンバー達がようやくゾロゾロと姿を見せた。クラインは一人も欠けることのない彼らの姿にホッと胸を撫で下ろすとすぐに号令をかける。
「まずい!」と思ったキリトが止める間もなく、「悪いな、全員撤収!」の一言で我先に転移結晶を使い迷宮から姿を消してしまった。続くメンバーも次々に消えていく。
あっという間に二人は取り残されてしまった。
「あわわわわ、どうしよう……告白までしちゃったのみんなに聞かれちゃうよ……!」
「いや、これはその……なんていうか、どうしよう?」
流石のキリトもこれには妙案は浮かばず、自身の告白の記録を公開されることを想像して恥ずかしいやらむず痒いやらわけがわからない。
オマケにアスナは人気が高い。ただでさえ可愛い上に、《血盟騎士団》の副団長という高ポストにいるのだ。各所からの嫉みも相当なものがあるに違いない。
迷宮の攻略などよりもずっと難易度の高い降って湧いた案件にキリトは頭を悩ませた。こういう時、得てして度胸があるのはいつも女性だったりする。
「……うん、決めた」
「え? 何を?」
「私《血盟騎士団》抜ける、ソロ……ううん、キリト君とコンビ組む」
「え、えええぇぇぇぇぇぇええええ!? 大丈夫なのかそれ!?」
「あ、あんなこと言ったのがギルドにばれてるのに今更ギルドに戻れないよ」
「いや、だけど……そんな簡単に……」
「……それに、離れたく無いし」
「アスナ……」
彼女のいつまで経っても離れる気の無い抱擁に、キリトもその気持ちの重さを改めて認識した。
同時に、彼自身もまた彼女と離れがたいと思っている内心にうっすらと気付いていた。
「もう勝手に死ぬなんて許さないから」
「……それはこっちの台詞だ。君は死なせない。絶対に」
「ふふ、私は死にません絶対に」
「なんで絶対なんて言いきれるんだよ」
「キリト君がいれば、その自信があるから」
「……う、じゃあ俺が死んだら?」
「私も死ぬ」
「はああああああ!? 何言ってんだよ!」
「だって……キリト君がいないなんて、意味ないもの」
慌てるキリトに、しかし、フッと感情を失ったような顔で躊躇わずにアスナは言った。
その姿に、危ういものをキリトは感じずにはいられない。彼女なら、本当にやりかねないと何故かそう思えた。
「ア、アスナ……」
「責任重大だからね、キリト君。これでキリト君は簡単に命を諦められなくなったんだから」
すぐに元の明るさを取り戻した口調でアスナは笑う。その顔を見て、キリトはこれ以上何かを言うのをやめた。
同時に、決意する。彼女を守らねばならない。彼女を守るためには、自分も守らなければならない、と。
今日みたいなことが起これば、彼女が自らの命を絶つような最悪な事態を招きかねないと彼の直感が告げていた。
いや、もしかしたら今日だって危うかったのではないか、と事実に近いところまでキリトは想像する。
「……重いな、それはすごく重い」
「……もし、キリト君が嫌なら……」
キリトの漏らした言葉に、アスナはシュンと顔を伏せる。アスナも自分がどれだけ重たいことを言ったのか理解していないわけではなかった。
ただ、それだけの覚悟がある、と彼女もどうしても伝えておきたかったのだ。二度と、もう伝えられない……なんていうあの時の感情を味わいたくは無かった。
後悔するのは……一度で十分だ。だから、それをキリトが重たいと思うのはしょうがない。
それで嫌われるなら、それもまた仕方のないこと……アスナはそう言うつもりだったのだが。
「でも俺は、そういう重荷があったほうが、生きてるって実感できるみたいだ」
「あ……!」
キリトはアスナを抱えたまま立ち上がる。アスナも彼を離さなかった為に、抱かれたまま、手だけを首へと回した。
現実世界ならこんな真似ができるほどパワフルではないが、ここでのキリトは筋力にばかりステータスを割り振ったトップ剣士だ。
彼女の重みなど、そうたいしたことはなかった。お互い、ありったけのアイテムを渡した後だというせいもあるだろう。
「行こう、アスナ」
「うん」
いつまでもここにいても仕方がない。アスナとキリトはクライン達に遅れること数分、転移結晶で迷宮区から抜け出した。
輝くライトエフェクトの後には、迷宮の静寂が残された。
「で、俺のところに来た、と」
「悪いな、他に思いつかなかったんだよ」
キリトがやや申し訳なさそうに言う。もっともこの相手も怒っているわけではなかった。
第五十層、アルゲードにある故売屋の主、エギルは突然の来客に嫌な顔を見せることは無かった。
「まあいいさ、キリトはお得意様だからな。それに正しい選択だっただろう。ほれ」
「なんだよ、新聞?」
先日見たお祭りイベントの司会ほどではないにしろ、外人の血が入っているのがわかるスキンヘッドに筋骨隆々とした出で立ちのエギルは、号外と書かれた新聞をキリトに渡した。
一番の見出しは74層のボスが攻略された、というものだった。
【ボスの情報を収集していた壁仕様(タンク)プレイヤー達が、情報収集中に突如ボスの攻撃力やラッシュが減ったことに気付いた。不審に思いながらも同行していた少数の攻撃特化仕様(ダメージディーラー)プレイヤーが攻撃を重ねて様子を見ると、それまでよりも攻撃が通り安くなっており、このままいけば怒り状態時の変動パターンの確認もできると思われた。しかし、意外なことに青い悪魔のグリームアイズ《輝く目》は予想に反してそのまま押し切ることが出来てしまい、調査の段階で思いの外あっけなく攻略してしまった。このボスは当初攻撃力とラッシュスピードが高かったことから今までは見受けられなかった《スタミナ》の裏パラメータがあったのか、誰かが例の化け物ボスである《地獄の蠍》を倒したのではないかと言われているが、まだ詳細は掴めていない。今回のケースは非常に稀と思われるので、各プレイヤーは今後のボス戦において決して油断しないようにしてもらいたい】
「……へぇ、ボス倒したのか」
その可能性は確かにあった。《The Hell Scorpion》を倒せば何故かその層のボスは弱体化する。今までにも何度かあった例ではある。
ボス攻略が楽、ということ自体は全くないわけではないが、調査の段階で倒してしまうことは稀だ。というより、これまで無かったかもしれない。
ならばバッドラックを誰かが倒したかも、と思うのは当然でもあった。
「お前らがヤツを倒したおかげだろうな。でも本当に申告しないのか?」
「誰かに認められたくてやったわけじゃない」
「……まあ、どっちにしろすぐばれるだろうがな。下の記事を読んだか?」
「……ああ」
記事は他にもいくつかある。ただ、その記事の内容はあまり見たいものではなかった。
主に精神的にという意味で。
【《軍》の大部隊が壊滅。無事生還した部隊と《軍》の№2との間で論争が起こっている。我々の取材に対し、№2であるキバオウ氏は部下の報告から黒の剣士《ビーター》が迷宮での攻略を邪魔し、MPKをしかけてきた為に損害を被ったと返答、主張した。しかし我々は偶然部隊の生き残りからも話を聞くことに成功し、彼らによると黒の剣士こと《ビーター》のキリトと《血盟騎士団》の副団長アスナに助けられたと言っている。相手はかのバッドラックの象徴だったらしい。尚、このことについてキバオウ氏は部下に「余計なことを言うな」という箝口令を敷いたという情報が入っており、現在我々は事の真偽について調査中である】
間違いなく上の記事と照らし合わせれば事実は見えてくるだろう。実際にボス攻略されたことから見ても、キバオウの発言は信憑性に欠けていた。
すぐに事実が明るみに出るのは間違いあるまい。同時に少しホッとする。記事にはまだ録音結晶のことについて触れているものは無かった。
時間の問題だろうがそれだけが今は救いだ。もっとも、アスナはつい先ほど顛末を添えたギルド脱退願いを団長に送信したそうなので、その波乱もすぐに一面を飾る記事となることだろうが。
「今日来た客の話だと、《血盟騎士団》への問い合わせに行ったヤツやセルムブルグへ情報屋が押しかけてるって話だ。多分お前のねぐらも似たようなものだろうな」
「そんなことになるだろうと思ったよ」
キリトはそれを予想していた。だからこそ彼のところにひとまず転がり込むことにしたのだ。騒がしいのは好きではない。
ましてこれからの事を思えば、彼女にも無用な火の粉がかかりかねないのだ。
「まぁ俺はかの《閃光》の完全習得された料理を食べられることだし、お前らにはいつまでもいてもらっても構わんがな」
「恩に着るよ。でも、そこまで長居はしないつもりだ」
それだけ言うと、キリトは二階に足を向ける。二階には居住スペースがあり、そこをエギルに少しの間借りる約束をしていた。
そこまで広いスペースはないものの、人が二人暮らすには十分な空間だ。アスナはベッドに座って足をブラブラさせながら待っていた。
「話終わった?」
「ああ。それとさっき新聞見たけど、おおよそ予想通りだったよ」
「そっか。あ、もうあれ出回ってるの?」
「いや、それは大丈夫みたいだ。時間の問題だろうけど」
あれ、とはもちろんクラインの持っていた録音結晶のことである。幸いまだ内容は公開されていないようだが、それもいつまで続くかわからない。
公開されたらファンに殺されるなぁ俺、とキリトは内心で怯えながらアスナの横に座る。コテン、と彼女は頭を彼の肩に預けた。
「これから……どうするの?」
「どうしよう、かな。アスナはどうしたい?」
「私は……」
アスナはそれ以上は口に出さずに、ギュッとキリトの手を握った。一緒にいたい、そういうことだろう。
キリトに反対する気持ちはなかった。むしろ同じ気持ではある。キリトも彼女の手をギュッと握り返した。
なんとかなる、なるようになる。同じ思いで、二人はお互いの手の温もりを感じていた。
翌日の新聞にも、キリトとアスナの告白が録音された結晶の話は載らなかった。もしかするとクラインはああ言ったものの、本当は録音内容を渡さなかったのかもしれない。
彼なりの気遣いで、あの場を二人きりにしてくれたのかもしれない、とここにきて二人は思い始めた。
だとすると、ギルド脱退メールは少し早まったかもな、と言うキリトにアスナは首を振る。キリトと一緒にいるためなら、彼女にとってもうギルドの席はいらなかった。
そんな彼女を見て、キリトは「見せておきたいものがある」と言い出した。システムメニューを開き、両の手に剣を装備する。ボス戦で見せてくれたものだ。
「一年くらい前かな、気付いたらスキルの中にあったんだ。エクストラスキル《二刀流》だよ。出現条件は……わからない」
「そ、それってユニークスキルってこと? す、すごいじゃないキリト君、団長以外にもユニークスキル発現者がいたなんて……」
「でも、知られたらいろいろ面倒が起きる。だから、黙ってた。出現条件がわかれば公開してたけど、ユニークスキルなら、悪意あるプレイヤーに会うこともあるから……」
「そう、だったの……」
「でもさ、これから……アスナを守るためにこれを使うのを躊躇わない。そう決めたんだ」
「キリト君……」
キリトは素早く二刀を振って見せる。ライトエフェクトを宿らせたそれは間違いなく専用のソードスキルだった。
アスナはその頼もしい姿と言葉に胸を打たれるのと同時、先日の映像がフラッシュバックした。敵を突き刺し倒れる彼。
HPバーが減っていく彼。一瞬、空を掴んだこの手。ブルッと震え、キリトを背中から抱きしめる。
「アスナ……?」
「ねぇキリト君、もう、消えないよね……」
抱きしめられる手に、力が籠もる。彼女の中で、あの戦いはトラウマになりつつあった。彼が消える感触を、無くなるという感触を、思い出したくなかった。
彼の《二刀流》を見た時、そのことが思い出され、怖くなった。このまま彼が戦えば、また同じことが起こる気がしてならない。
「怖いの。また、キリト君が消えちゃうんじゃないかって」
「……アスナ」
「ごめん、どうしようもないのはわかってるの。でも……怖い。キリト君がいなくなったらって思うと……立っていられない」
本当に崩れ落ちそうなほどガクガクと足を震えさせているアスナを、キリトはそっと抱き寄せた。彼女の中にある、芽生えてしまった恐怖は予想以上に根深い。
キリトはそれを彼女の体の震えから実感した。
「きっと、疲れてるんだよアスナ。これまで、戦いっぱなしだったから」
「そう、かな……うん、そうだね……そうかもしれない」
「言ったろ? 俺みたいないい加減なやつとパーティ組んで、偶には息抜きしたって罰はあたらないってさ」
「キリト君は、言うほどいい加減な人じゃないよ。それに、もう偶に、じゃないでしょ?」
アスナの、恐る恐るというような上目使いが、キリトに意図を掴ませた。
そういえば、これからはコンビを組んで、一緒に頑張っていくという約束をしたばかりだった。
キリトは小さく頷いて彼女を抱く手に力を込めた。これからは、ずっと一緒にいよう。そう決めたのだ。
それからしばらく無言で抱き合っていた二人だが、ポツリと漏らしたアスナの言葉が、静寂を破った。
「ねぇ」
「うん」
「少し休んじゃ、ダメかな」
「休む?」
「うん……迷宮攻略とかボス戦とか……」
「前線から離れたいってことか……?」
「そうじゃないけど……でも、結局そうなのかも。キリト君の言う通り、疲れたのかも……」
「…………」
「ごめんね、変なこと言って。困るよね、そんなこと言われても」
「……そういえばさ、アスナの家って四千Kコルくらいだっけ?」
「……? うん、だいたいそれくらいだけど」
「そこまでは無理だけどさ。あのボスからのレアドロップ品売れば、そこそこの纏まったコルは手に入ると思うんだ」
「……?」
キリトが何を言いたいのか、いまいちアスナはわからなかった。家にかかった費用、それがなんだと言うのだろうか。
急に変えられた話に、アスナは内心で疑問符を浮かべていた……のだが。
「そしたらさ、一緒に住む家、買わないか? そこで、しばらくは、二人で過ごす、ってのは……」
「え……そ、それって……!」
「その、ええと……まぁ、うん」
彼の言いたことを察して、アスナは息を呑んだ。彼は一緒に住む家を買おうと言った。それは決してギルドホーム用のものではないだろう。
この状況で二人で住むプレイヤーホームを買おう、となれば目的や用途は一つしか思い浮かばない。
「家が見つかったら……け、結婚しよう」
アスナに、頷く以外の選択肢は思い浮かばなかった。
***
夕食を食べてから、キリト君はエギルさんと商談を始めた。例のボスモンスター、《The Hell Scorpion》からのドロップ品についてだ。
キリト君のアイテムストレージにはいくつかそのボス特有のアイテムの他に、なんと73層……今回倒した《地獄の蠍》とほぼ同じ強さであるフロアボスからしかドロップできないはずのアイテムが混じっていた。
なんとなく、そういうことか、とも思う。僅かな救済措置を兼ねたボスモンスター。それがあいつなんだ。
ただそのリスクは非常に高いものがある。出現率が低いのも難易度を高くしているし、ボス攻略を目的としたパーティじゃないと倒すのは困難だ。
今回だって、《二刀流》を持つキリト君だから勝てたようなもので、他の人には無理だっただろう。可能性があるとすれば……ヒースクリフ団長くらいかもしれない。
ただ、低確率とは言え根気よく狙えばいけるのかもしれない。でもそうなると攻略組プレイヤーが集団でずっとエンカウントを待たなくてはならず、低確率なそっちに手を回し始めれば本攻略が遅れると言う本末転倒になりかねない。
やはり、あのボスは基本撤退がセオリーに変わりはないだろう。だがそうなれば、その品の価格、レア度は跳ね上がり、プレイヤー間での取引は高額になる。
キリト君はそれを見越していて、ある程度の金額が溜まったら先の宣言通り家を買うだろう。二十二層の南西エリアに静かでいいところがあると言っていた。そうなれば……私は彼と結婚する。
結婚、なんてことはこれまで深く考えたことなどなかった。なのに、その相手が彼だとなると自然とそうなることに違和感を覚えず、ただ幸福感が湧き出てくるだけだった。
世の夫婦はみなこんな気持ちなのだろうか。いや、恐らくそんなことはない。それがわからないほど私も世間知らずじゃない。
だから、こんな気持ちにさせてくれるキリト君に、彼と出会えたことに、私は心から感謝していた。SAOというデスゲームに囚われて二年。
幸せ、という感情に満たされる日がゲームの解放以外に来るなど予想もしていなかった。そう思える私はとても運が良いのだと思う。
話を終えたキリト君はエギルさんにアイテムを渡し、全てを託すと、二階に上がっていた。それを見届けてから、私はエギルさんに話しかける。
「あの」
「うん?」
「ごめんなさい、無理を言って」
「いや、構わないさ。逆にこっちが儲かっちまうくらいの話だしな」
それは確かに事実なんだと思う。キリト君も私も家を買えればいいと思っているし、少しの蓄えはある。
それに最前線に近いボスのレアドロップ品とくれば目標金額に届くのはそう難しい話では無いことくらい予想はできた。
それでも、申し訳なさはある。自分たちの我が儘に他人を巻き込んでいるのだから。
「そんな顔をするなって。俺もキリトには世話になってる。信じられるか? あんな子供に、大人の俺が何度も助けられてるんだ。これぐらいしないと……いや、これでも足りないくらいさ。アイツに面と向かっては絶対言ってやらないけどな」
だと言うのに、彼は笑って私たちの背中を押してくれた。この人はきっとクラインさんと同じなんだと思う。
キリト君、意外に人望あるじゃない……などと少しだけ失礼なことを思い、だからこそ惹かれたんだと納得する。
多分ここにいるのもあと数日あるかないか。私はもう一度頭を下げてお礼を言うと、二階のキリト君の後を追った。
木造二階建ての家の階段は、定期的なミシミシと鳴るサウンドとは裏腹に、頼りなさは微塵も無い。これもゲームらしいところ、と言える。
すぐに階段を上り切ると、呆れたことに彼は揺り椅子に座って目を閉じていた。お話したかったのに。
少し不満に思いながら彼の傍に寄って寝顔を見つめると、穏やかそうなそれはすぐに私の尖った心をほぐしてくれた。
以前盗み見た彼の純粋なる顔。今は見ることが許されるそれは、どこまでも私に幸福感を与えてくれる。
ギシ、と音を立てて揺り椅子が揺れる。だがすぅすぅと眠る彼に起きる気配は無い。軽く額を撫でると、くすぐったそうに笑って、また寝息を立てる。
その姿を見ていると、不思議と心が温かくなって、安らかな気持ちになって……瞼が重くなってくる。
彼の眠っている姿は、私に不思議なほどの安心感と……同じ眠りに誘わんとばかりに睡魔を呼び寄せる。
あ、だめだ……これ。寝ちゃう。そう思った私は、揺り椅子で眠る彼の体に折り重なるように乗り、頭を首筋に預けて……目を閉じた。
定期的な呼吸がまだ彼が眠っていることを教えてくれる。とても、暖かい。なんだか今日は幸せな夢が見れそうだ。全ての事は明日に回そう。
まどろみの中、そんなことを思いつつ、私は彼という揺り椅子の上でこれ以上の思考を手放すことにした。