「わぁ、良い場所だね!」
あれから二日後、アイテムに買い手がついたので目標数のコルが溜まり、アスナとキリトは二十二層へと引っ越して来た。
エギルは寂しそうにしていたが、最後は笑顔で送り出してくれた。本当に彼には感謝してもしきれない。
キリトの選んだログハウスは南端の外周部近くで、窓を開けると空が一望できる位置にあった。主街区──と言っても小さい村があるだけなのだが──からも離れているので喧噪もなく、石畳の天井も無い。
この層にフィールドモンスターはおらず、緑豊かな針葉樹林と湖面が広がるその様はまさに擬似的な自然の宝庫だった。
データ上の作り物と言えど、そこに虚しさは微塵も感じない。むしろ、アスナはこれからの生活に胸が躍る思いだ。
「おーい、少しレイアウト手伝ってくれ」
「あ、うん!」
キリトはいくつか買い込んできた家具をアイテムストレージから出していた。これからそれらを自らのセンスによって配置していくわけだが、そういったセンスにキリトは自信があまりなかった。
その点、アスナはセルムブルグで見事なカスタマイズ化されたプレイヤーホームを所持していた。彼女のセンスなら、ここも今よりさらに良い空間ができるに違いない。
キリトのそんな期待に、アスナは照れながら「うーん」と顎に手をあててしばし考える。部屋は二つのみ。小さめの家なので寝室と居間の二つだけだ。
寝室には備え付けのベッドが二つあるし、カスタマイズはさほどいらない。小物をいろいろ置けば良いとして、問題は居間の配置だ。
彼女の中ではすぐにいくつか配置の候補が上がるが……それらを何度も修正する。何故なら最初に浮かぶのはどうしても自分一人の趣味、一人暮らしの構図になりがちだからだ。
例えば、彼女の中で一個の椅子を置くなら部屋のあそこ、とすぐに決められたが、それを即座に修正する。二人いるのだ。なら椅子を一個だけ置くような考えは捨てたい。
かといってそこに二つ置くのはちょっと恰好悪いし可愛くない。それに、せっかくなのだから全てを二人用の配置に染め上げたい。
椅子なら二人用のソファーを部屋の隅に置いて座るときはいつでも肩を並べられるようにし、テーブルの周りには物をなるべく置かずに二人で席につけるようにする。
家具、家財、その他もろもろをペア思考でそれぞれ染め上げていく工程は、それだけでアスナを楽しませた。
「よし!」とおおよその形を決めると、ある程度の指示を彼に出して自分は寝室のカスタマイズに取りかかる。
「……と、こんな感じで良いかしらね」
やや時間を要してからアスナは「ふぅ」と息を吐き、出来たばかり寝室を見渡した。全てをペアで染め上げたその空間は中々に満足のいく出来だ。
アイテムストレージはこれから共通になるから良いとして、他のそれぞれの家具はほとんどがペア使用を前提として配置した。
ベッドも少しカスタマイズして、たった今寝室の壁紙も変えた。地味に値が張ったが、貯蓄内で十分カバー出来る金額だった。
「お疲れ様」
「キリト君もね」
アスナが居間に入ると、彼女の指示通りに居間のカスタマイズを終えたキリトが丁度ソファーに座ったところだった。
居間は最初のがらんとしたテーブルに二組の椅子があるだけの空間……ではなく、現実のそれを思わせるような生活感溢れる空間へと様変わりしていた。
言われた通りにしか動いていないキリトだが、終わってみればたいした変わりようだと彼女のインテリアプランナーぶりに舌を巻く思いだった。
アスナは「えへへ」と笑いながら、二人用ソファーの中心を陣取っていたキリトの隣に無理矢理お尻をねじ込み──キリトが慌てて横にずれてスペースを空ける──彼に張り付くようにして隣に座った。
「私達の部屋、出来たね」
「ああ、そうだな。流石アスナ、良いセンスしてるよ」
「そうかな?」
「うん。なんか、ホッとするっていうか、帰ってきたって思える場所になった気がする。おかしいよな、まだここには来たばかりで、カスタマイズも終わったばかりなのに」
「ううん、そんなことないよ。それに、そう思ってもらえて……嬉しい」
キリトの言葉に、アスナは本当に胸が一杯になった。アスナはこの部屋を作っている時、ある一つの場所を思い浮かべていた。
それは幼少の頃に行った、母方の実家。外部も含めた雰囲気が、ここに少し似ていたのだ。アスナは父方の由緒ある大きい実家より、母方の実家を好んだ。
暖かいと思える何かが、そこには確かにあったのだ。それを、キリトも感じてくれた気がして、嬉しかった。
アスナの手が、キリトの手を掴む。自然とキリトも握り返し、やがて指を絡めあってお互いの温もりを感じた。肩を寄せて、お互いの存在を確かめ合う。
時が、穏やかに過ぎていく。今、自分たちはデスゲームに巻き込まれているなど信じられぬほど、心が落ち着いていた。
(ずっと、こうしていたいな)
叶わぬ願いとわかっていても、そう願わずにはいられない。
「お、おおおお……! なんか今日の夕飯は凄くないか……? 二人じゃちょっと食べきれないぞ」
「しょ、初……日だからはりきって、みた……の」
アスナは一瞬何故か言葉に詰まった後、言葉尻が段々小さくなっていく。代わりに、チラ、と何かを訴えるような目でキリトを見つめた。
その、絶妙な上目使い加減にキリトは不覚にも精神的クリティカルダメージを当てられてしまった。既に心の防壁はレッドゲージ……危険域である。
思わず胸に手を当てて顔を背けた。あまりの可愛さに見ていられない。これ以上見ていると圏内なのにHPが減りかねない。圏内では絶対に減ることが無いとわかっていても減る、いや死ねる。
そうキリトが思ってしまうほど、今のアスナの可愛さは突き抜けていた。そもそも、その恰好がいけない。
「は、初めて見る服だけど、それも、か、可愛いな」
「えっ」
本当のことを言えば、エプロンで全容は見えない。しかしそのエプロンこそがイイ。そういえば、と記憶を辿るが、今まで彼女がエプロンをしている姿をキリトは見た覚えが無かった。
このSAOでは《汚れる》という概念が無いため、本来その必要性は無い。しかし、だがしかしだ!
(エプロンがアスナの体に張り付いて、プロポーションがくっきりわかる……)
彼女の体型がエプロンという薄布を付けるだけでくっきりはっきり強調される。オマケに彼女が今着ている服はワンメイクものだ。
アシュレイ、というSAOでもっとも速く裁縫スキルを完全習得したカリスマお針子の手がけた最高級のレア生地オンリーによるオーダーメイド品。
圏内事件以来、流石にキリトもそれだけ有名になった人の手がけた作品だけはわかるようにしていた。
対して、アスナは口をポカンと開けて驚いていた。「え、そこ驚くとこ?」と逆にキリトは首を傾げる。
しかし、驚きの内容には双方ちょっとしたズレがあった。
「そんなに驚かなくても……俺だってさすがにアシュレイブランドを見分けられるくらいにはなってるさ」
「あ、ううんそうじゃなくて……今、《それも》って言った?」
「うん? ああ言ったよ。前にさ、迷宮区から帰って宿屋に行った時も着替えてただろ? あの服も思わずドキッとするくらい可愛いと思ったよ」
「あ、あのねえ! そ、そういうことはすぐに言ってよ!」
「???」
キリトは意味がわからない、とばかりに疑問符を浮かべる。逆にアスナは急に恥ずかしくなってきた。彼はその辺がすごく鈍感だと思っていたのだ。
確かに気合いは入れたが、それは別の意味で気合いを入れるためであって、まさかこんな先制パンチを食らうとは予想もしていなかった。
というかあの時もそう思っていたならちゃんと言ってほしかった。あの日、自分が何も言ってもらえなかったことにどれだけ落ち込んだと思っているのだろうこの人は。
「も、もう!」
アスナはこれ以上話すと墓穴を掘ると思い、頬を膨らませて席に着いた。キリトは未だ首を捻りながら対面に腰を落ち着ける。
いけない。これでは折角の《記念日》が百パーセント楽しめなくなってしまう。アスナは自分の羞恥を無理やり胸の奥に押し込めて、努めて冷静に、明るく勧める。
「そ、それじゃあどうぞ召し上がれ」
「あ、待った」
だというのに、この黒いお方はその辺の空気を全く読んでくれなかった。「酷いよキリト君……」と口の中だけで不満を漏らす。
空気を変えて、いや、戻して楽しく《記念日》を……と思ったアスナの小さな努力を壊しかねないタイミングだった。
だが、そんな少しの不満など、彼の次の行動で全ては帳消し、どころか有り余るほどの幸福に変えられた。
「こ、これを、受けとって欲しい」
「え……? こ、これ、いつの間に……!」
彼がやや震えながら出した掌の上には二つのマリッジリングがあった。それの意味するところは、アスナが実は今朝から待ちわびていたことだ。
彼の言葉は、「家が見つかったら……け、結婚しよう」というものだった。それから二日後に家を購入したわけだが、この家を目星としたのは実は翌日のことだった。
アスナとしては、その時点で彼からいつ「結婚しよう」と言われ、結婚の手続きを取るかドキドキし続けていた。来るか、来るか……? とずっと身構えていたのだ。
しかし、そんな予想に反して家を購入してからも彼からは結婚の話は一切出てこなかった。実は忘れているんじゃ、と少しだけ弱気になり、そのせいもあってアスナは少しばかり過剰気味にキリトに触れたがっていた。
彼に触れ、その温もりを得ることで、その不安を和らげていた。その彼が、とうとう言ってくれたのだ。予想だにしていなかった指輪アイテムまで用意して。
SAOの結婚は、案外そっけない。一方が相手にプロポーズメッセージを送り、相手がそれを受諾すればそれで終了だ。しかしそれだけではあまりに忍びない。
そう思っていたキリトはアスナに内緒で指輪を購入していた。おかげで、そのサプライズはアスナの涙腺をたやすく崩壊させた。
「っ、うう……良かった、良かったよぉ、キリト君、何も言わないから、結婚するってこと忘れてるんじゃないかって……」
「そ、そんなことあるわけないだろ! た、ただどう言えばいいかずっと悩んでて……結局、何も恰好良いこと言えなかったし」
「良いよそんなの。ただ、キリト君がいてくれれば」
「その、えっと……ありがとう、アスナ。嵌めていいか?」
「うん」
お互いに微笑み、これでようやく結ばれるな、とキリトはアスナの左手を取った。そのままそっと薬指に指輪を嵌めようとして……出来なかった。
え? とお互い驚く。何事かと思えば、アスナにはハラスメント防止コードが見えていた。端的に言って、この行為はシステム的にはハラスメントに該当し……《まだ》許可されていないこと示していた。
顔を見合わせ、次の瞬間にはクスッと笑い合う。お互いシステムメニューからコマンドをタップ。数秒で終わるそれにはやはり味もそっけもない。
でも、キリトの震えるような手で持った指輪は、今度こそアスナの細い薬指に嵌められた。
ややあってから二人はアスナが腕を振るった夕食を食べていた。これまでは何かしら食事中も会話していたが、お互い夫婦になったことで緊張しているのか、普段ほど口数は多くなかった。
しかし、食事が終わるとアスナは「よし!」と気合を入れ直して立ち上がった。キリトはそんなアスナの気合いの入りっぷりに首を傾げる。
彼女も自分みたいに何かサプライズを用意しているのだろうか? そんなことを思っているとアスナはそのまま手を振ってシステムメニューを呼び出し、家の照明をあらかた落とす。
薄い光源のみを残したその状態は大抵眠るときにする設定だが、寝るにはまだ早いのでは、とキリトは思う。だがアスナはお構いなしに次の操作に移った。
月光……のような何かが窓から幻想的に入り込んでくる。それを浴びている彼女は、下着以外の武装……アバター装備をすべて解除した。
「え……?」
思わず漏れる声。キリトの予想をはるかに上回る事態に、脳の思考パルスが追いつかない。今の思考加速率はあのバッドラックと戦った時よりも高い自信がキリトにはあったが追いつかない。
システム上の夜闇を照らす明かりは、キリトの目に薄ぼんやりと胸を隠す、つい先ほど正式に妻になった女性プレイヤーの肢体を映し出す。
たとえそれが仮想上のデータだとわかっていても、その美しさは筆舌に尽くしがたい。彼女の左手薬指がキラリと僅かな光を反射した。
「わ、私はもう、準備いいから……キ、キリト君も準備してよ」
「じゅ、準備……?」
彼女の言っている意味がわからない。いやわかるけどわからない。だめだ混乱している。キリトは網膜に焼きついた本物ではない彼女の姿に見惚れて、正常な思考を行えなかった。
そんなキリトに業を煮やした彼女は、「もう!」と怒ったように言うと左手で胸を隠したまま右手でシステムメニューを開き、キリトの装備を外していく。
結婚した二人は、アイテムストレージが共通化している。お互いのステータスも見られるし、干渉できる。SAOでの結婚とはそういうものなのだ。
ゆえにデスゲームであるSAOでは結婚までするカップルは少ない。どれだけ仲が良かろうと共通化されるアイテムストレージでのトラブルは絶えないからだ。
呆然としたままのキリトは、すぐにパンツ一枚にされてしまった。そこでようやく彼は我に返った。彼女は本気なのだ。これから本気で夫婦にのみ許されたある行為を行おうと考えている。
そのことにキリトは遅まきながら心底を驚き、それを察したアスナが恥ずかしそうに言った。
「な、何よ……し、初夜って、そういうものなんでしょ……?」
「な……!」
絶句する。いや、彼女の言い分は間違いではないのかもしれないが。でもそれは……飽くまで現実世界での話ではないのだろうか。
少なくともキリトはこれまでそう思っていた。いや、そもそも、
「え、えっと、SAOって、その、できるのか?」
「知らないの? オプションの凄い深い所に倫理コード解除設定があって……」
「……マジか」
「……うん」
「……あのさ」
「……うん」
「……その」
「……うん」
「……なんでそんなこと知ってるの?」
「っ! ギルドの子に聞いたの!」
「あ、ああそっか! そ、そうだよなハハハ!」
「……今キリト君私が誰かと関係持ったことあるのかもって疑ったでしょ」
「い、いやそんなことは……」
「そういうキリト君はどうなの?」
「お、俺!? そんなコードがあることさえ知らなかったよ」
「そうじゃなくて、誰かと付き合った経験とか。……そう、例えばサチさんとはどこまでいったの?」
「……前にも言ったろ? 本当に何も無かったんだ」
「そっか……ちょっと嬉しい、かな」
「え?」
「キリト君がSAOで初めて恋してくれたのが私で、嬉しい」
「……それを言ったら俺だってそうだよ。ってアスナは誰かと付き合ったことは……」
「な、無いよ! なんでここにきてそんな可能性を考えるの!?」
「いや、前に結婚を申し込まれたことがあるとか言ってたから……」
「キ、キリト君が好きなのに申し込まれたって断るに決まってるでしょ!」
「え」
「あ」
「つ、つまり、そんなに前から思ってくれてた、と……」
「~~~~~~~っ!」
羞恥で顔が真っ赤に染まる。これがただのフェイスエフェクトだろうと、そんなことは関係ない。
暗闇だろうとキリトにもハッキリわかるほどの紅潮は既に感情を隠す云々以前の問題だ。
「も、もう知らない!」
ぷいっと顔を逸らし、スタスタと寝室に行ってしまうアスナ。キリトは少しばかり悩み、そのまま服を着ずに彼女の後を追った。
寝室に入ると、彼女は先の下着姿のまま、ベッドに腰かけて心配そうにキリトが寝室に入ってくるのを見ていた。
どうやら今回は失敗しなかったようだ、とキリトは内心で安堵の息を吐いてゆっくりと彼女のそばに寄って行った。
アスナは既に怒っている様子は無く、少し迷っているようだった。空回りしすぎたのかもしれない……そんな思いを胸に抱いているのだろう。
キリトは苦笑すると、ギシッ、と軋む音だけがする、実際には完全なる耐久値のベッド……アスナの隣に腰かける。
彼女が何か口を開く前に、彼女の手を取り、その甲にそっと口づけをした。彼女の息を呑む気配を感じる。それで、お互いの気持ちは固まったのだった。
アスナはこの夜にあったことを絶対に忘れない。キリトもこの夜にあったことを絶対に忘れないだろう。
それほど、この夜のことは思い出深く、大切な記憶となることは間違いようがなかった。
アスナは、彼が眠る前に聞こえるか聞こえないかの小さい声で囁く。
「今度は、現実世界で、しようね」
二人が、甘いひと時を過ごした夜。この夜で、アスナがギルド脱退メールを出してから三日経っていた。
しかしアスナは気付いていなかった。それがどんなことをもたらすのか。自分と彼の今の状況がどんなものになるか。
あるいはギルドに関するステータスをよく確認すれば気付いたのかもしれない。だが幸せに浸る彼女に、そのような思考は無かった。
考えようとすらしなかった。故に、彼女は気付かぬまま、彼女がSAO生活最高の一日と称したこの日に、《問題》は動き出していた。
翌日の空は快晴だった。実に外出日和である。新婚の初夜が明け、二人は目を覚ましてお互いの顔がすぐそこにあることに驚き、次いですぐにクスリと笑った。
起きあがってすぐ、アスナは自分の格好の事を思いだし慌てて着替える。ふと振り向くと目を擦りながらも一部始終を見ていたキリトと目があった。
アスナはみるみる恥ずかしくなり拳にライトエフェクトを奔らせて体術スキルをキリトの顔面にお見舞いする。
幸いなことに、家の中は圏内なので犯罪防止コードが働き、キリトは寝起き一発目から新妻の拳をもらうという憂き目には合わずに済んだ。
やや不機嫌になったアスナをキリトはたっぷり数分を要して宥め、朝食にする。食事を終える頃には今日はどうやって過ごすか話し合っていた。
「とりあえず散歩でもしようか」
「散歩?」
「うん、ほらこの層は家を一歩出ればモンスターの出ない圏外フィールドだろ? 圏内村も小さいし攻略も三日で終わっちゃったからよく知らない面白いことがあるかもしれないし」
「なるほどね」
「それに折角良い天気だしな。あ、そういえば村にいる木工職人(ウッドクラフト)プレイヤーがボートを造ってたっけ。そんなに高くないなら買ってきて湖をボートで漕ぐのも良いんじゃないかな」
「良い天気だし、か……。変わらないなぁキリト君は」
「ん?」
「なんでもない。うん、そうしよっか」
話が纏まると、アスナはテーブルを二秒で綺麗に片付ける。こうやって片付けが楽なのはゲームの良いところなのかもしれない。
手早くお昼の為にお弁当を用意し、ランチボックスに詰めてアイテムストレージへ。この辺もゲーム故に通常より簡単な作業となっているが、アスナとしてはそこは満足できない所だった。
料理というのは時間をかければかけるほど改良の余地があり、美味しく楽しく出来る。それが手軽さを求めるあまりに省略されてしまうのは少し詰まらなかった。
キリトは武装せず、黒いシャツの姿でドアの前に立ち、アスナを待っていた。それに気付いたアスナは少し悩み、ササッと寝室に入ると手早くシステムメニューから装備、アバターの服装を変える。
以前に何も言われなかった、しかし可愛いと思ってくれていたと昨夜本音を知った服。もう一度彼にこの姿を見てもらって、直接感想を言って欲しかったのだ。
「お待たせ」
「ああ、じゃあ行こうか」
「……」
「アスナ?」
「もう……!」
今度こそ期待したのに! とアスナは頬を膨らませてキリトより先に家を出る。後ろから慌ててキリトが追いかけてくる気配がした。
突然機嫌を悪くした彼女にキリトはどうすれば良いのかわからない。何か気に障るようなことをしただろうか、と横に並んで恐る恐る彼女の顔をキリトは覗き込む。
アスナはそんなキリトにクスッと笑った。この彼のやや情けなさそうな顔を見て、一体誰が攻略組でもトッププレイヤーである、黒の剣士《ビーター》だと思うだろう。でもこれこそが、きっと彼の素なのだと思う。
だが急に微笑んだアスナに、キリトとしては益々混乱を深めるしかない。どうしたものか、と悩んでいると、ふっとアスナから手を握られた。
「ごめんねキリト君、別に怒ったわけじゃないの」
「えっと、どうしたんだ一体」
「昨日、この服も可愛いって言ってくれたから。それでちょっと、期待しちゃっただけ」
「あ、ああ……! そ、そうか。そういうもんか」
「キリト君ってそういうところは鈍いよね」
「面目ない……」
「良いよ。むしろ鋭かったらどんどん女の子寄ってきそうだもん」
「いや、そんなことは無いだろう」
「どうだかなあ、キリト君、優しいから」
「そうかな」
「そうだよ」
「でも……そうか。感想は言うようにしないとダメか……そういえばスグもそんなところあったな」
「むぅ……言った傍から女の子の影があるよキリト君。誰その人?」
「妹だよ」
「妹かあ」
「良くできた妹でね。俺は二年で辞めた剣道を未だに続けてて、全国大会とかにも出るようになったほどだよ」
「へぇ! それは凄いね」
「でもなあ、スグはともかくアスナに感想を言うとなると……」
「な、何……? 私ってそんなに変かな?」
「いや、会うたびに可愛いって言わなくちゃいけないなあ、と思って」
「ッッッ!」
天然ジゴロ、とはこの人のことだ。間違いない、とアスナは思った。先ほどまでの内心ちょっとだけ拗ねていた心などあっという間に解きほぐされる。
思ったことは言ってほしいが、それは時と場合と量による、とアスナはこの時初めてわかった。同時に彼は今のままで良いと確信した。
そんなやりとりをしながら、ゆっくりと歩いていく。針葉樹林帯の隙間から日差しが漏れ、《作られた天然》が美しく映える。
エンジェルラダー……天使の梯子とも取れそうなそれは、作り物だろうと心を豊かにしてくれるには十分だった。
二人はいつの間にかお互いが指を絡め合うように手を繋ぎ、同じ歩幅で進む。現実世界ではあまり馴染みのない、緑溢れる空間。
全てが作り物の世界。だが、二人の中にある気持ちだけは本物だという確信があった。
第二十二層の主街区である《コラル》で、アスナがいくつか食材を見繕って買っている間に、キリトはボートを売ってくれる木工職人(ウッドクラフト)プレイヤーかNPC店舗を探した。
運良く、この近辺で木材を回収している木工職人(ウッドクラフト)プレイヤーと知り合い、格安で手漕ぎボートを譲ってもらえることとなった。
「いやぁ、ボートとか作ったはいいけど売れなかったから丁度良かったよ」
「そうなんですか」
「うん、逆にありがとう」
「いえ、こちらも上手く手に入って良かったです」
「この辺の木材は質が良いから耐久力も大丈夫なはずだよ」
「へぇ」
「あ、そうだ。東の方に行くなら気をつけた方がいい」
「何かあるんですか?」
「何でも……幽霊が出たらしいんだ」
「幽霊……?」
「そ、仲間うちの木工職人(ウッドクラフト)が見たんだけど、なんでもその相手はカーソルが出ないらしい。白い服を着た女の子だってさ」
「カーソルが出ないって、見間違いってことは……」
「ここがSAOである限りあんまりないと思うけど。でも幽霊ってのもSAOである限り信じがたいよね」
「ええ」
「仲間が言うにはその少女は半分体が透けたって言うんだ。なにかのイベントかと思ったけどクエストログもないし。奇妙だろ? ここじゃ死にたくなけりゃ変なことには首を突っ込まない方がいいから、みんなそれ以来あっちには行かないようにしてる。行くな、とは言わないけど気を付けて」
「ご親切にどうも」
これはアスナに面白い土産話ができた。そう思ったキリトはアスナと合流するとさっそく聞いた話をしたのだが。
アスナはビクリと震え、辺りを見回し、キリトの腕に抱き着いた。
「お、おい?」
「わ、私幽霊とか苦手で……」
「え、そうなのか? 意外だな。デモニッシュ・サーバントとか楽に倒してたじゃないか」
「あ、あれはキリト君もいたから……」
「う……そういうこと真顔で言わないでくれ、ずるいぞ」
「キリト君には言われたくないよ」
「うん?」
「なんでもない」
「……? まあいいけど。でも確か六十五層や六十六層はホラー系迷宮だっただろ? あの時はどうしたんだ?」
「……笑わない?」
「……? うん」
「実はね……あれこれ理由をつけてその二層の攻略には参加しなかったの」
「え」
「え、えへへ……怖くて、サボっちゃってました」
「えええええ? いや、ボス戦で……あれ? そういえばいなかった、か?」
「あ、あはははは……」
アスナの意外な一面にキリトはやや面食らうが、そんな怖いものもある彼女のほうが、より愛しいと感じた。
攻略ホリックだった時の彼女を知る身としては、「お化けが怖い」という理由だけで彼女が攻略をサボるなど到底考えられない。
それができるのは、結局心に余裕ができたおかげだろう。その余裕の一端を、少しでも自分が担っていたなら嬉しいものだ……とキリトは思う。
「さて、じゃあさっそく行こうぜ」
「えーと、どっちへ?」
「東」
「ええええぇぇぇぇぇええええ!? 意地悪!」
「冗談だよ。でもあっちの方がちょうど良い湖もあるんだ。そこまで深入りしなければ大丈夫さ。今は昼間だしな」
「うぅ……わかったよ」
キリトのちょっとした意地悪な笑みに、涙目になりながらもアスナは渋々頷く。
今日のデートは始まったばかりだ。
「わぁ! この湖綺麗! 凄く透き通ってるね!」
「皮肉だよな、仮想世界……作り物の方が現実よりも綺麗だなんて。でも、それが仮想世界の良い所でもある」
「そうだね。こんなデスゲームじゃなければ、きっとたくさんの人がいろんな楽しみ方をして過ごしていただろうし」
「そうだな……」
目的の湖に着くと、二人は湖の透明度に舌を巻く。現実ではそうそうお目にかかれない綺麗さに思わず見入ってしまうほどだ。
人の手で作られた、人の手が入っていないような自然。いや、仮想自然と呼ぶべきか。人工の天然は、それをそうだと思わせない何かがあった。
しばし見惚れていた二人は、我に返ると早めの昼食を摂ることにした。シートを草原の上に敷いて腰を下ろし、アスナが今朝作ったランチボックスを取り出す。
アスナはその中から大きめのサンドイッチを取り出すと、ワクワクしながら待っているキリトにそれを手渡そうとして、急に持ち上げ、やめた。
「え」
キリトは目を丸くした。まるで何が起こったのかわからないというような顔だ。何せ、これまでアスナはキリトにそんなイジワルをしたことなどなかったのだ。
まさかとは思うが東を選んだことを根に持っているのだろうか。失敗したかな、とキリトは自分の行動を反省する。
受け取ろうと手を出した目の前で「やっぱやーめた」とサンドイッチを持ち上げられてしまってはそう思うよりなかった。
しかし、よくよく事態はキリトの思考の上を行く。
「はい、あーん♪」
「え、ええっ!」
アスナは改めてサンドイッチをキリトの目の前、口元に差し出した。「あーん♪」などという言葉付きで。
食べることに比較的心血を注ぐキリトだが、さしもの彼もこの状況には照れざるを得なかった。
「あ、い、いや自分で……」
「あーん♪」
「う、あ、あーん……」
アスナの満面の笑みを見て、キリトはこれを絶対回避不可能攻撃と判定した。この世にはあるのだ、絶対にダメージを食らうことが前提となる攻撃が。
なるように身を任せ、キリトはアスナの持つサンドイッチにかぶり付いた。
「おいしい?」
「ングング……ん、美味い」
「良かった」
アスナは照れたように顔を下に向ける。彼女も実は結構恥ずかしかったらしい。ならやらなければ良いじゃないか、とも思わないでもないが、この場は引き分けにしておこうとキリトは決めた。内心で決めた。
風に揺られて原っぱの草が宙を舞う。しかし、草が抜けるエフェクトは見えない。恐らく生えている草が実際に抜けるのではなく、空中で自然生成される飛ぶためだけの草オブジェクトがあるのだろう。
それでも、その風景はのどかで、現実となんら変わらないと思えるほど自然だった。
「さってと」
キリトは食事を終えると、湖に近づいていき、アイテムストレージからボートを取り出して湖面に浮かべた。実はこれ、結構な重さで相当の筋力パラメータが無いと持ち運べない。
幸いにしてキリトの筋力は相応に高かったので問題なかったが、売ってくれたプレイヤーの言う通り、これを実用的に買う物好きはそう多くは無いだろうな、とキリト自身も思ってしまった。
しかしそのおかげでこれが安く手に入ったのだ。そこはラッキーだったと思うことにして、さっそく使うことにする。
「アスナ」
「うん」
シートを片付けた彼女がキリトの手に掴まる。キリトは先に彼女をボートに乗せ、次いでやや勢いを付けて自分が乗り、オールを漕ぎ始めた。
ゆっくりと、湖面を流れるようにボートが動き出していく。ギィコギィコと一定のサウンドを鳴らしながら進むそれは、仮想物とはとても思えない。
「わぁ、なんか良いね」
「ああ、本当に水の上にいるみたいだ」
揺れるボートはきちんと波に沿っており、下手をすると転覆するんじゃないかと思うほどリアルに揺れた。
これがシステム上に定められた乗船なら、恐らく落ちる、転覆する、という類は起きないよう守られているような気もするが、そんなことはどうでもよかった。
ボートの上では頬を撫でる風までもが変わったように思え、ゆっくりトプントプンと波打つボートはリアルに湖面を感じさせてくれる。
今、二人は間違いなく湖面をボートで渡っていた。湖の中心近くまで来たあたりで、キリトは漕ぐ手を休める。
「現実世界だったら、こういうレジャーは周りにも一杯ボートがあるだろうけど、ここは私たちの貸し切りだね」
「ああ、そうだな。それだけは感謝しても良い気がする」
キリトはそう言うと背中をゆっくりと倒し、仰向けになった。両手を後頭部に回して目を閉じる。ゆらゆらと揺れる水の気配を体感する。
風も気持ちいい。これは思わぬ良スポットだった、そう思いながら目を開くと、そこにはこちらを覗き込むアスナの顔があった。
いつの間にそんな体勢になっていたのか、アスナはじっとキリトを見つめていた。アスナの瞳にキリトが映っている。
アスナの見るキリトの瞳にも自分が映っているのがアスナにはわかった。黒い、吸い込まれそうな黒曜石の瞳。見ているだけでぐんぐん引き込まれていく錯覚を覚える。
いや、錯覚ではない。確かに真っ黒の瞳が、僅かずつ近づいていくのがわかる。だが彼は両手を枕代わりにして後頭部を船首に付けたままだ。
ということは、この吸い込まれそうな瞳に寄って行っているのは自分自身か。アスナは何処か他人事のようにそう思った。
キリトはやや戸惑いの表情を見せ始めるが、それすらもアスナが引き寄せられる引力を増加させる仕草に思える。
ギシッと僅かにボートが軋みを上げる音がして、
二人の距離はゼロになった。
アスナは吸い込まれるように彼の唇へと、自分のそれを重ね合わせていた。
どれだけ経っただろうか。しばし唇を重ね合わせた後、そのままボートが流れるに任せ、アスナはキリトの上に覆いかぶさったままでいた。
不思議と羞恥は無かった。むしろ自然にそうしたいと思えて行動していた。じゃあ今やれ、と言われても多分できない。
彼女にとってはそういう雰囲気だったのだ。それをキリトも責めるような真似はしない。当初こそ驚いた顔をしたものの、すぐに彼女の背中に手を回して受け入れていた。
ずっと続いてほしいような甘美な時間。しかしそろそろ日が暮れるというのが空に輝くオレンジ色の光源で嫌でも教えられる。
二人はどちらからともなく起き上がり、またキリトがギィコギィコとオールを漕ぎだした。不思議なことに、結構な時間湖面に浮いて動いていたと思ったボートは、湖面の中心に位置したままだった。
二人に会話は無い。ただ、その沈黙は決して重いものではなく、和やかなものだった。
やがて岸に着くと、ゆっくりと着岸させ、先にキリトが降りて彼女に手を差し出す。アスナはその手を取ってぴょんと跳ねるようにボートを降りた。
キリトはボートをアイテムストレージに収納しようとシステムメニューを弄りながら、一言だけ呟く。
「……良い買い物したな」
「……うん」
アスナも、心から同意した。
やがてボートが収納され、さあ完全に暗くなる前に帰ろう、と思ったところで……《それ》はボートを収納するために湖を見ていたキリトの視界に映った。
「え」
「……? どうかした?」
キリトのあまりに驚いたような声に、アスナは首を傾げる。
しかしキリトは何も言わずに対岸を見ていた。訝しがりながらアスナも彼の視線の先……対岸を見て、息を呑む。
「白いワンピースの……女の子」
それは、今日村で聞いた幽霊の特徴と一致していた。やや遠目だが、その少女は黒い髪に白いワンピース姿だった。
だが何より、
「カーソルが、見えない……」
その異常さに二人が硬直していた時、それは起こった。
──ボチャン。
「あっ!?」
アスナの驚いたような声が上がる。
突如として、少女が湖に落ちてしまったのだ。