キリトとアスナは自分たちの敏捷力を最大まで発揮して駆け抜けた。戦闘中もかくや、と思うほどのそれで木々の間をすり抜け、湖の側面を走り抜ける。
女の子が湖に落ちた。僅かな間を置いて女の子が湖面から姿を見せない事に気付いた二人は、弾けたようにそこへ足を向けた。幽霊が湖に落ちるはずがない。ましてや湖面に波紋を広げるはずがない。
SAOでは呼吸を必要としない。息を吸う事は出来るが、無意識呼吸を行うわけではない。よって窒息という概念は幸い無い。だが、生身で水中に居続ければHPを全損しかねない恐れがあった。
彼女に何が起こっているのかはわからないが、このまま放っておけば誰の目にも止まらずに第一層の黒鉄宮、生命の碑の名前に傷が刻まれる可能性も捨てきれない。
キリトよりも敏捷力にステータスを振っているアスナが、彼より若干速く女の子が落ちたポイントへ辿り着く。ジャバジャバと湖に入り、女の子を抱き上げようとして、
「えっ」
掴めなかった。そんな馬鹿な、今彼女の身体をすり抜けなかったか。慌ててもう一度彼女に手を伸ばす。今度はちゃんと掴めた。先程のは余程慌てていたんだろうと自分を納得させる。
幸い、それほど深くないところに女の子は沈んでいた。遅れてきたキリトも湖に入り、女の子の顔だけ湖面から出るようにして抱きあげたアスナは彼にその子を預ける。
「生きてる、よね?」
「ああ、身体が残ってるってことは、まだHP全損にはなっていないはずだ。ゲーム内で死んでいないなら現実世界のナーヴギアも問題なく稼働してると思う」
湖から救出した女の子は、死んだように眠ったままで、ゲーム仕様故に呼吸が無いのが逆に二人に不安を煽る。
その不安を、システム上では大丈夫のはずだ、とキリトは自分に言い聞かせるようにして言葉にし、必死に打ち消す。
「けど、本当に妙だな。この子、カーソルが出ないぞ」
「どうしたんだろう。何かのバグかな」
「かもしれないな。これが普通のゲームならすぐに運営に言って助けて貰うところだけど、このSAOにはそういったGMがいないし……」
「考えてみればシステム的に致命的な欠陥が出ちゃった時、私達じゃ何も出来ないんだよね」
そう。自分たちは与えられた世界、与えられたルール、与えられたシステムに則った行動しかできない。自由度が高いのと、自由、の間には天と地ほどの格差がある。
ではその世界が、あるいはルールが、はたまたシステムが不完全だったならどうなるのだろう。それは既にゲームですらない欠陥世界だ。
いわゆる無理ゲーと呼ばれるようなクリアさせる気のない、もしくは出来ない世界で命をかけて戦うプレイヤーは滑稽でしかないことになる。
そんなこと、あってはならない。少なくともこのリアルデスゲームであるSAOでは。もっとも、キリトは《意図的》にはそういうことが起きることはないと思っている。
ゲームの内容はデスゲームという最低な仕様になってしまったが、それでもキリトの感じる限りSAOはシステム上のフェアネスを貫いているように見えた。
正当なシステムルールのもと、運営は行われている。この世界をどこかで見ているだろう茅場晶彦は、恐らくそういう人間だろうという予感もあった。
だが、人間のすることに絶対は無い。いくらカーディナル・システムによって制御されていようと、それもまた人間の作ったシステムだ。
何らかのアクシデントや不具合が発生する確率はゼロではないだろう。しかしこのSAOではその時の為の通報先が無い。
それが、こんなにも危険なことだとは、二年もSAO生活をしていて気付かなかった。それは逆を言えばこの二年バグらしいバグの発生が公には無かったとも言える。
これまで考えたことは無かったが、それはそれで凄いことだ。どんな大手企業のゲームだろうと正式サービス後のバグは大抵存在するのだから。
「とりあえず、俺たちの家に連れて行こう。風邪を引くことは無いだろうけど、このまま放ってはおけないよ」
「そうだね」
SAOでは風邪をひかない。どれだけ濡れ鼠になって放っておいても体調を崩すことはない。それはゲームの中だからであり、現実の身体に不調を来すほどのものではないからだ。
濡れてもすぐに渇かすことが出来るし、それでなくともシステムが勝手にハイスピードで渇かしていく。
天候によっては雨の日もあるが、雨の中にどれだけいようと装備や衣類が濡れて不快感を催したり動きに影響がでることはほとんどない。精々が視界を妨げられるのと足場が悪くなる程度だ。
ゲーム故の仕様で、たった今湖に入ったばかりの二人も、眠ったままの女の子も、すぐに乾燥し始める。
それがわかっているキリトは「よっと」力を入れて女の子を抱き上げ、家へと歩き出す。アスナもキリトに並んで歩き始め、家に着くまで心配そうにちらちらと眠り姫の様子を確認していた。
家に着いても彼女は目覚めなかった。とりあえず寝室のベッドに寝かせて、二人は寝室を出て行く。
アスナがオリジナルブレンドのお茶を入れ、それを受け取ったキリトは席について一口含むと、難しい顔をして考え込んでいた。
「大丈夫かな、あの子」
「大丈夫、だとは思うけど、目を覚ましてから話を聞いてみないことにはなんともいえないな」
「そうだね」
「ただいくつか気になる点がある」
「え? 何?」
「あの子に何があったのかはもちろんわからないし、カーソルの件もあるけど……いくらなんでもあの子は幼すぎる」
「あ……」
「確かSAOには年齢制限があったはずなんだ」
「うん、十五歳くらいだっけ?」
「ああ、でもあの子は見るからに十歳よりも下だ。規定に合わない。まあ守らない子もいるけど……でもここまで小さい子がやるゲームかっていうと……」
「そうだね、そういえば私の知っているプレイヤーでもあそこまで幼いプレイヤーはいないよ」
「俺もだよ、シリカでもギリギリのように感じたからなあ」
「……シリカ?」
また女性プレイヤーらしき名前である。彼は知り合いが少ないと思っていたが、その少ない知り合いの殆どは実は女性プレイヤーだったりするのではないだろうか。
だとすると一抹の不安を持ってしまう。
「あ、うん。前に知り合ったビーストテイマーの子でね。彼女が運悪くモンスターの群れに襲われて、彼女のテイムしていたモンスターを失ってしまう所に居合わせたんだ。それで《思い出の丘》に行くのを手伝うことになってさ。その時俺が受けていた依頼を達成するのにも無関係じゃなかったし」
「ふぅん……《思い出の丘》ってあの別名《フラワーガーデン》と呼ばれてる四十七層の?」
「ああ、そうだよ。無事に《プネウマの花》を手に入れて彼女の相棒は生き返った」
「むぅ」
「……アスナ?」
「ずるいなぁ、あそこは恋人が行くスポットじゃない。私も誘ってくれれば良かったのに」
四十七層の《フラワーガーデン》と言えば有名なデートスポットの一つだ。実はアスナもあそこに一度はキリトと行ってみたいと思っており、だいぶ前にそれとなく誘ったことがあったのだがあえなく断られたことのある経緯があった。
何だか少しだけ胸がモヤモヤする。アスナはすっくと立ち上がってキリトの背後に回り首を両腕で緩く絞める。
そんなアスナにキリトは慌てたように弁解し始めた。首を絞められることは気にならないが、彼女が勘違いしてしまうといけない。
「い、いやまだそんなに仲良く無い頃だったから……」
「キリト君が避けてたんだよ。何度もお茶に誘ったのに断られたし」
「そ、そうだったかな」
「うん。その度にへこんでたよ……」
「……そっか。じゃあさ……今更だけど、今度一緒に行こう」
「……うん」
キリトのその優しさに心が温かくなる。言わせてしまっている、という自覚はあったが、それでも言ってくれるというのがアスナは嬉しかった。
そして彼女の好きになった少年は、彼女の不安や杞憂をいつも簡単に吹き飛ばしてくれる。
「それでさ」
「うん?」
「げ、現実でも、そういう所に一緒に行こう」
「……うん、うん。ありがとうキリト君。絶対に行こうね! 約束だよ!」
首を絞める、もとい抱く腕に力を込める。密着した身体は、仮想上のものと言えどお互いの温もりをしっかりと伝え合ってくれる。
キリトがポンポンと二回アスナの二の腕を叩く。苦しかっただろうか? と思いアスナは彼に抱き着く手を緩めた。
「きゃっ!?」
瞬間、キリトはアスナの腰を持ち上げて自分の膝に乗せる。よく考えれば呼吸を必要としないここでは苦しいということはありえない。
また家の中は圏内なので間違ってもHPが減ることは無い。謀られた? と思ったが、彼はこういうことにおいては直球タイプだ。単純にこうしたかっただけだろう。
先ほどまでとは逆に、後ろから抱かれるようにしてアスナはキリトの膝の上にいた。
「も、もう……一言言ってくれれば……」
「ごめんごめん」
「だーめ、よいしょ、っと」
「わっ、ちょっ!」
アスナは無理やり体勢を変え、膝の上に座ったままキリトを正面に見据える。やっぱり彼の顔を見られる方がいい。
ゆっくりと彼の首に手を回し体を密着させる。彼の頭が丁度胸のあたりに来るが、構わない。
「お、おい! 当たってるんじゃ……」
「当ててます」
「あ、う、い、う……!」
キリトが何か言おうとして言えない様をクスクスと笑う。この人は本当にそういうところも可愛い。
ただあんまり続けると拗ねるので、ここらが潮時と体を離す。キリトが顔を真っ赤にしながら安堵している様子がわかる。
そんなところも可愛いな、と思いながらふと思い立った疑問を彼にぶつけた。
「そういえばその時に受けてた依頼って?」
「え? あ、ああ……オレンジギルド《タイタンズハンド》って知ってるか?」
「聞いたことはあるわ。結構巧みにPKを繰り返すグリーンの混じったグループだって。でもいつの間にか黒鉄宮に送られてたみたいで……ってまさか」
「ああ、あいつらを送ったのは俺だよ」
「……そんなこともやってたんだね」
「いや、普段からやってたわけじゃない。ただ、最前線で泣きながらに自分の仲間を殺したあいつらを黒鉄宮に送ってくれって頼んでるプレイヤーを見て、どうしても手を貸したくなったんだ。《タイタンズハンド》を“殺してくれ”ではなく“黒鉄宮に送ってくれ”って頼むあの人は、どんな気持ちだったんだろうな」
「……そうなんだ」
「で、その時たまたまさっき言ったシリカが《タイタンズハンド》のリーダーに目を付けられたみたいでね。彼女の相棒を生き返すアイテムを手に入れたら案の定出てきたから、まとめて回廊結晶で送ったよ」
「……キリト君」
「……ん」
「キリト君はもう一人じゃないんだからね」
「……ああ」
「今度そういうことがあったら必ず私にも言うこと! 手伝うから。隠し事はナシだよ」
「わかった。そうするよ」
「うん、約束。さってと、それじゃあ今日はもう寝よっか!」
アスナはぴょんとキリトの膝の上から降りると、両手を絡めて上に伸ばし、体をほぐす。ここSAOでは意味のない行為。
それでも、現実世界の日常は抜け落ちないらしい。キリトも腰を上げ、しかし思い出したように言う。
「あ、でもベッドは一つあの子が使ってるだろ? 俺は揺り椅子で寝るからアスナはベッド使っていいよ」
「何言ってるのよ、昨日もう一緒に寝たじゃない」
「い、いや確かに寝たけど」
「今更恥ずかしがってもしょうがないし、一緒に寝ようよ」
「い、一緒に寝るって、そ、そんなあんな小さい子がいる隣で……」
「え……も、もうバカ─────ッ! そのままの意味だよ!」
「あ、ああ! そ、そうだよな!」
「キリト君のエッチ」
「ち、ちが……!」
またも顔を真っ赤にして首をぶんぶんと振るキリトにアスナは笑いが込み上げる。過剰気味のフェイスエフェクトも自分の物でなければ微笑ましい限りだ。
アスナには彼にそういうつもりが無かったのはわかっていた。むしろ少しはそういうつもりでも良かったのだけど、と思いながら彼の手を取りベッドへ連行。
お互いラフな格好──と言っても流石に昨日のような恰好ではない──に着替え、もといアスナが設定し、キリトをベッドに押し込んでから自らもベッドイン。
キリトはあんまり時間を置くと何かしら理由を付けて本当に揺り椅子で一人眠ってしまいかねない。
(そんなの、寂しいもの)
夫婦になったのだから、何を躊躇うことがある。そうアスナは自分にも言い聞かせ、高鳴る仮想の心臓に「鎮まれ」と念じる。
何も感じないようにキリトを誘ったアスナだが、実は結構な羞恥と勇気で一杯だった。それでも、彼をあそこで一人寝かせるのは嫌だったのだ。
せっかく二人でいるのに、それではあまりに寂しすぎる。アスナはシーツの中でキリトの手を握る。
キリトも握り返し、すぐにいつものように指を絡めあって、視線が合う。キリトは恥ずかしがってすぐに背を向けてしまったが、そんな彼の背中を見ながら眠るのも悪くない。
この手さえ繋がっていれば、アスナは満足だった。
(おやすみ、キリト君)
「……う……ん」
柔らかな木管楽器の旋律がアスナの意識を少しずつ覚醒させていく。アラームが、起きる時間だと彼女に教えていた。
時刻は七時五十分。結婚したことによって見ることが可能となったキリトのステータスを何気なく見ていて、彼の起床アラームが八時になっているのに気付いたアスナはこっそり自分のアラームをその十分前に修正した。
ちなみに修正前は何時だったのかは乙女の永遠の秘密であり謎である。それは例え茅場晶彦だろうと知ることは憚られる。
アスナは暇ができるとよくよくキリトのステータスを見るようにしていた。そこに彼の辿った軌跡が見えるような気がして、彼をもっと知ることが出来るような気がして。
ただそういった理由から見始めたはずの彼のステータスは、もはや一日でただの趣味と化しつつもあった。単に和むのだ。
彼の状態を見ているというだけで、心が安らぐ。そうとう自分はやばいのかもしれない、なんてアスナは自己の行動に苦笑しながらムクリと上半身を起こした。
隣ではまだ穏やかに眠っている愛しい人がいた。目を閉じて、素の顔をさらけ出すその顔はいつみても幼い。
いつか感じた《守ってあげたい》という思いは、今尚……いや、より強くなっていて、アスナの心の割合を彼でほとんど埋め尽くしてしまう。
アスナは彼と結婚してから前にも増して寝ても覚めても彼のことばかり考えていた。
「本当に、キリト君はずるいなあ」
彼のせいではないとわかっていながらも、そう思わずにはいられない。自分の意識を掴んで離さない彼は、罪作りなほど愛おしい。
たぶん、この人以上に人を好きになることなんてないだろう。生まれてまだ二十年も生きてない自分が言うと説得力に欠けるのかもしれないが、そういう確信はあった。
それほど、自分は彼に惹かれている。彼を失いたくないと思っている。あるいは、彼が自分の手から零れ落ちるように消える瞬間の、質量が失われていくような感覚がトラウマになっているのかもしれない。
でも、理由はどうでも良かった。彼の事が大事で、好きで、彼も自分をそういう人間として見てくれるなら、それ以上に望むものなんてきっとない。
アスナは静かに彼の顔へと近づいていくと、彼が起きないのを確認してから唇を短い時間重ねた。
「えへへ……」
寝ている彼の唇ゲットだぜ、と寝起きの妙なテンションでアスナは頬を染める。少し卑怯かもしれないが、それが許される関係なのだから大目に見てほしい。
不思議と、穏やかな彼を見ていると唇を重ねたくなるのだ。昨日のボートでもそうだった。
と、そこまで思ってから昨日のことを思いだし、慌てて振り返る。隣には幼い女の子が寝ているベッドがあるのだ。
「……」
「……あ」
一対の視線が交差した。ぱっちりと目を開いている黒髪ロングヘアの少女は、真っ直ぐにアスナを見つめていた。
どう考えても今この瞬間起きた顔ではない。と言うことは……、
(み、見られたぁ!?)
羞恥に顔を染め、両頬を抑える。あたふたと何か言い訳を考えているうちに「ううん……」とキリトが起きる気配を感じた。
ますます慌てたアスナはシーツを引っぱり潜り込む。ムクリ、と横でキリトが起きあがる気配がした。
「ん……おはよう、アスナ……ってどうしたんだ?」
「……な、なんでもない」
シーツにくるまったまま、顔半分だけ出してキリトの顔を覗き見る。キリトは目を擦りながら首を傾げ……すぐにハッと表情を変えた。
アスナの背中の向こうに、もう一つのベッドがあり、昨日終ぞ目覚めなかった眠り姫がぱっちりと目を開けていることにキリトも気付いたからだ。
「アスナ! あの子起きたみたいだ!」
「そ、そうだね」
「どうしたんだ?」
「な、なんでもない」
「……?」
再びシーツに潜ってしまうアスナにキリトは首を傾げつつベッドから降り、女の子に近づいた。
女の子は口を開かず、ぱっちりと開いた目だけがキリトの動きを追っていた。
「良かった、目が覚めたんだね。昨日何があったか覚えてるかい?」
「……き、のう……? わから、ない」
少し間を置いてから、少女は起きあがって首を振る。長い黒髪がふわりと揺れた。
彼女は本当に覚えていないようだった。キリトは質問を変えてみる。
「そうか、じゃあえっと……君のお名前は?」
「……ゆ、い……ユイ」
「ユイ、か。じゃあユイは誰か知り合いがいたりはしないのかい?」
「わから、ない」
「……うぅむ」
お手上げだった。元来こういう対人関係がキリトは苦手だった。何を話していいのかわからないし、何て言ってあげていいのかもわからない。
ここはやはり同性の力を借りるべきだろう。そう思って振り返るとアスナもそう察したのかようやくベッドから出てユイの隣に腰掛け、優しく声をかけた。
「ユイちゃん」
「……?」
「ユイちゃんのお父さんかお母さんはいる?」
「……わからない」
「そっか、それじゃあユイちゃんは何か好きなものはある?」
「好きな、もの……?」
「うん。食べ物でもいいし動物でもいいよ」
「好きなもの……わからない」
「うーん、わからないかあ。じゃあ嫌いなものはある?」
「嫌いなもの?」
「そう、例えばお化けとか」
「ぷっ!」
「こら! キリト君笑わないの!」
「だってそりゃアスナのことじゃないか」
「い、良いでしょ!」
「嫌いなもの……嫌な気持ちとか、悲しい気持ち、恐いこと、嫌い」
「っ! ユイちゃん……!」
アスナはユイを抱きしめた。この子は、きっと何か嫌な思いをしたに違いない。そう直感したのだ。
嫌いなものと聞かれて、嫌な気持ちになるのが嫌い、と《具体例》を出さずに答える子が世にどれだけいるだろう?
《具体例》を出せないほどの何かが彼女の身に起こった、起こり続けていた、そうとも考えられると思うとアスナはそうせずにはいられなかったのだ。
その様子をキリトも複雑な気持ちで見ていた。考えはアスナと同じで、彼女に一体何があったのか、考えるだけでも胸が痛くなる思いだった。
「あ……好きなものできた」
「ん? あった、じゃなく出来た、なの?」
「うん……好きなもの……今、この時」
「……!」
アスナは彼女を抱く力を強めた。この子は、この子は……一体どれだけの経験をしてきたのか。
そう思えば思うほどアスナの彼女を抱く力は強まる。ユイはそんなアスナに首を傾げ、しかし微笑んだ。
キリトはそんなユイの頭を撫でる。
「そうか、良かったなユイ」
「……うん!」
「お、元気も出てきたな。良いことだ。俺はキリト、そんで今ユイを抱きしめてるのがアスナだ。よろしくな」
「えっと……」
「言い難かったから好きなように呼んでいいよ、ユイちゃん」
「…………」
ようやく抱く手を緩めたアスナは、少し考え込むようにして黙ってしまったユイに優しく助け船を出した。
彼女は今、見た目よりもさらに幼い印象を受ける。なら言いやすい言い方で構わないと思ったのだ。
「……わかった。あうな……あーな……なーま……なぁま……まぁま……まま……ママ……ママ!」
「………………………ふぇ?」
しかし、ユイの呼び方は彼女の予想の完全斜め上を突き抜けていた。言い方が変化していったのだろうが変化していくにしてもその方向性はちょっとおかしい。
ギギギ、と油の切れたブリキの玩具のように首をキリトの方に向けるとおかしくてたまらないとばかりにキリトはお腹を押さえていた。
だがすぐにキリトは笑いを抑えるとユイに歩み寄る。
「そうか、アスナはママか。じゃあ俺の事はパパでいいぞ」
「パパ!」
「おお! 良い子だな」
「えへへー」
「ちょ、ちょっとキリト君!?」
慌てるアスナだが、キリトはウインクをアスナに一つ向けるとユイをぐっと抱き上げた。
ユイは嫌がる素振りもなく、されるがまま、持ち上げられてすぐにキリトの頭にしがみついた。
「ユイ、お腹空いてないか? ママに何か作ってもらおうな」
「うん!」
「アスナ、頼むよ」
「う、うん……わかった」
一転、元気になったユイに面食らい、アスナはキリトの考えを何となく察して言葉を飲み込んだ。
とりあえず、今は彼女の好きなようにさせてあげるのが一番だろう。
だから、キリトに抱き上げられて「キャッキャッ」と笑っているユイが羨ましいとか、そんなことはない。絶対にない。
(べ、別に嫉妬なんかしてないんだから!)
「アスナ?」
「あ、ごめん。すぐに作ってくるね」
不思議そうな顔をしたキリトにもう一度呼びかけられ、アスナは慌てて朝食の用意に取りかかった。
「パパ、それ美味しいの?」
「む? これか? これはユイにはちょっと辛いぞ」
アスナが用意したサンドイッチをキリトとユイは頬張っていた。キリトのはアスナの手作りマスタードによるサンドイッチだ。
キリトは比較的濃いめの味が好きだったりする。現実では濃すぎるものばかりは身体によくないが、ここでそれを気にする必要は流石に無い。
「むぅ、パパと同じのがいい」
「そうか、それならほら」
キリトは自身が口を付けていたサンドイッチをユイの口元へ持っていく。ユイは目をキラキラさせてそれにかぶりついた。
ばくん。むしゃむしゃ……はむはむ……ごっくん。
その様を対面で見ていたアスナは少し頬を膨らませる。「いいなぁ」などと小さく呟きながら。
しかしすぐにはそうも言っていられなくなった。じわ、とユイが涙を零し始めたのだ。
「からい……」
「だから言ったろ?」
「うぅ……ママぁ!」
ユイは涙目になりながらとてとてとアスナの方へ走ってきた。アスナは慌ててお茶を飲ませてよしよしと頭を撫でる。
ジッとキリトを睨むと「ごめん」と軽く彼も謝ってきた。そんなやり取りをしていると、今度はユイがアスナの前にあるフルーツサンドに興味を示し始めた。
「ママ、それ美味しい?」
「これ? うん、甘いよ。食べてみる?」
「うん」
アスナはキリトがやったようにユイの口へと食べかけのフルーツサンドを持って行く。ユイはまた迷わずかぶりついた。
ばくん。むしゃむしゃ……はむはむ……ごっくん。
飲み込んだ直後、ユイは「ぱぁぁぁぁ」と音が聞こえそうな程笑顔になり、「美味しい! ママ!」とアスナに抱きついた。
「そう? 良かったねユイちゃん」
「うん。パパおかしい。ママ美味しい」
「ちょ、ちょっと待ってくれユイ、いやそりゃ確かにだな……」
「ママー!」
ユイはサンドイッチの件が効いたのか先程までとは一転、アスナに甘えだした。キリトの弁明する余地がない。
アスナはそれにクスクスと笑いながらユイを抱き上げた。甘えてくる彼女に、愛おしさが込み上げてくる。
「良い子ね、パパの言うことをなんでも聞いちゃ『メッ』だよ」
「うん」
「おーいアスナぁ」
しょぼん、としてキリトは肩を落としテーブルに突っ伏す。何もそこまで言わなくても、と。
アスナは笑いながら「ほら、パパを励ましてあげて」とユイを解放して背中を軽く押した。
ユイは素直にキリトの元へトテトテと歩き、テーブルに突っ伏したキリトの頭を小さな手で撫でる。
「パパ、良い子良い子~」
「うう、ユイは優しいなぁ」
ユイのナデナデパワーで復活したキリトは起きあがるとユイを抱き上げた。すぐに「キャッキャッ」という楽しそうな笑い声が上がる。
それを、アスナも穏やかな気持ちで見ていた。先程、ユイが自分を頼ってきたせいかもしれない。彼女を本物の娘のようにさえ思ってしまう。
(子供、かぁ)
子供が出来たらきっとこんな感じなんだろうな、とアスナは思い、ふと一昨日の夜の出来事を思いだして赤くなる。
いつか、将来……現実世界に帰って、彼との間にもきっとユイのような子供が出来るだろう。なんとなく、その時は今みたいになるんだろうという予感めいた何かがアスナにはあった。
「うー」
「お、眠いかユイ?」
「らい、じょーぶ……」
ユイはそう言いながらも舟をこぎ始め、うつらうつらと頭が揺れていた。食べたばかりな上にはしゃいで疲れたのだろう。
キリトはユイを寝室のベッドへ連れて行く。ユイをベッドで横にさせると、糸の切れた人形のように彼女は動かなくなった。
SAOでは呼吸をしない。眠っているとわかっていても、その様は少しだけキリトを不安にさせた。
「眠っちゃった?」
「ああ、疲れたんだろうな」
「そっか」
寝室に顔を見せたアスナは、忍び足でベッドまで近づくと、眠っているユイの額を優しく撫でる。
瞬間、心なしかユイの表情が綻んだように見えた。それを見て、何となく安堵する。
「……どうしよう、キリト君」
「そうだな……」
ユイについての処遇をどうするか思い悩む。一緒にいてやりたいという気持ちはこの僅かな時間で驚くほど膨れあがっていた。
しかし、そういうわけにもいかない。いずれは攻略に戻るつもりだったし、仮に戻らなければその分SAOからの解放は遠のいてしまう。
速く元の世界へ返してあげようと思えば攻略に参加する方がいい。自分たちの能力……とりわけキリトのそれは攻略組でも上位に位置するとアスナは分析していた。
彼が攻略に参加していない現状は、恐らくこれまで彼を《ビーター》と罵っていた人達にとってもどれだけの痛恨時か分かっている頃だろう。
マッピングは確実にいつもより遅れているはずだ。だが、参加すればこの子はどうなるのか?
「とりあえず、この子の知り合いを捜そう。見たところ、本当に何もわかっていない様子だし、こんな小さい子が一人で居るのも不自然だと思う」
「うん……」
「明日にでも始まりの街へ行こう、あそこには攻略に参加していないプレイヤーが殆どいるはずだ」
お互い、思っていても口には出さない。彼女が、SAOというデスゲームに巻き込まれた恐怖によって精神的にダメージを受けている可能性を。
考えたくなかった。口にすればそれが事実になってしまいそうで言いたくなかった。しかし、彼女の最初の言葉が嫌でも浮かんでしまう。
『嫌いなもの……嫌な気持ちとか、悲しい気持ち、恐いこと、嫌い』
彼女に何かがあったのは間違いない。しかしそれを根掘り葉掘り調べたり聞いたりしようとは思わなかった。ただ、出来るなら手を差し伸べてあげたい。
戦闘中のような《接続》でなくとも、二人の気持ちは同じだった。
「さて、それじゃあ私、買い物に行ってくるね」
「買い物?」
「うん、ユイちゃん用に甘いものとか、作れる材料買ってくるよ。こんなこと予想してなかったからキリト君好みの材料しか用意してないし」
「俺好みって……そういや俺の好きなものばっかりよく作ってくれるけど、俺好き嫌い言ったことあったっけ?」
「さて、どうでしょう?」
アスナは微笑んではぐらかす。実は彼が心を許してくれるまで、数少ない彼との食事の機会の際に彼の好みを密かにチェックしていた、というのは恋する乙女だったころの永遠の秘密だろう。
それを言って今更何が変わるわけでもない。しいて言うなら、その努力もあって気持ちが通じた。それでいいとアスナは思っている。
キリトの「俺も一緒に行こうか?」という甘美な誘いを断腸の思いで断り、アスナは一人で新居であるログハウスを出て行く。
ユイが目覚めた時、一人では寂しいだろうと思ったのだ。
(速く買い物を済ませて帰ろう)
アスナは自身の高い敏捷力を最大までゲインして《コラル》へと向かった。
この時、アスナは知らなかった。そんな自分が見られていたことに。
気付かなかった。その《狂気》に。
だがそれも仕方の無い事。なにせ相手は、遥か遠くにいたのだから。
分厚い紅と白の入った金属鎧を身に纏い白いマントを付けた男性プレイヤーがニタァと笑う。カーソルはグリーン。出で立ちからして、間違いなく《血盟騎士団》のそれだろう。
彼の長髪はだらしなく垂れ、目は厭らしいほど釣り上がり、口からは涎を垂らしていた。もっとも、SAOの仕様故に、その涎は地面に落ちる頃には消えて無くなっている。
「見つけたぜぇ……! ヒャハハ───!」
下卑た笑みが森に木霊する。常軌を逸したような顔で笑うその《血盟騎士団》と思われる男性プレイヤーの耳には、《金色のピアス》が付けられていた。