「ふにゅ……ん」
むくり、と白い影が起き上がる。ユイだ。ユイは目をぱちぱちと瞬きさせるとベッドから飛び降り寝室を出た。
すると、部屋ではキリトが二刀を携えて空を切っていた。ビュウン! と風を切る音は速い。
「ん? ユイ、起きたのか」
「うん、起きた。ママは?」
「そっか、ママは今ユイのために美味しいもの買いにいってるからな。すぐに帰ってくるよ」
キリトはユイに微笑むと、剣をアイテムストレージに仕舞い、アスナにメールを打っておく。
「ユイが起きたよ」と。すぐに返信メールが届いた。「もうすぐ村を出るから」と書かれたメールを見て、キリトは笑う。
自分も大概だが、アスナもそうとうユイを気に入ったらしい。出る前にアスナは「暗くなる前には戻るね」と言っていたが、本当にそうなりそうだ。
彼女の敏捷力を持ってすれば不可能ではないが、それはもう買い物ではなく常時戦闘中のような敏捷力ゲインの仕方だろう。
「ユイ、ママはもうすぐ帰ってくるってさ」
「わかった! 待ってる!」
ユイはアスナが帰ってくると聞いて喜び、家のドアを開け放って外に出た。なんとも微笑ましい。
もうすぐ、と言ってもそんなにすぐじゃないぞ、と思いながらキリトはユイの後を追う。
この時、キリトは油断していた。
ここ二十二層はフィールドにモンスターが自然湧出(オートポップ)しない。
故に危険は無いと踏んでいた。忘れていた……いや、頭に無かったのだ。
モンスターが出なくとも、家を一歩出ればフィールド、圏外だということを。
「きゃぁあああ!?」
「ユイ!?」
ユイのただならぬ声にキリトは即座に最大敏捷力をゲインし外に躍り出る。
そこで見たのは、自分の知る顔であるプレイヤーがユイを捕まえ、剣を喉元に突きつけている姿だった。
「お前……! クラディール!」
「久しぶりだなぁキリトさんよぉ……!」
長髪を後ろで縛り、紅白の金属鎧に白いマントを付けた、かつてデュエルで対決したことのある《血盟騎士団》のプレイヤー、クラディールがそこにいた。
アスナの元護衛である彼は、キリトとのデュエルに敗北した後も、納得のいかない様子でキリトを憎々しく睨んでいたことをキリトは覚えていた。
「何のつもりだ! その子を離せ!」
「ヒャッハッハッハ! それが人に物を頼むときの態度かよ。え? お尋ね者の《ビーター》野郎が!」
「お尋ね者……?」
「まさか、知らなかったのか? こいつは傑作だな! お前さん、《血盟騎士団》の中じゃ今やお尋ね者だぜ。我らが副団長を誑かし、誘拐したってな!」
「なっ!?」
アスナは超人気プレイヤーだ。彼女がギルドを抜けてまで誰かと一緒になるということはそれ相応の問題が発生するとは思っていたが、まさか事態がそこまで進行しているとは思わなかった。
だが、あのヒースクリフがお尋ね者などという無法じみた手法を使うとは思えない。彼とは長い付き合いではないが、なんとなくの性格は理解しているつもりだった。
「ヒースクリフの指示か?」
「団長? 団長の言葉はこうだ。『彼女の脱退をそうやすやすと認めるわけにはいかない。そのうち交渉に行くことにする。皆も探して交渉するというのなら構わない』だとさ」
「……」
キリトは舌打ちする、ヒースクリフらしい物言いだが、それではこうやって自分たちの良いように解釈した奴らが動き出すことは十分に考えられる。
それがわからない彼ではないだろうが、ヒースクリフ自身も思うところがあるのかもしれない。
(アスナは人気だからな……)
それもしょうがないことか、と思いつつキリトはクラディールを睨む。だからと言って今やっていることが正当化されるわけではない。
ユイは無関係なのだ。
「事情はわかった。だがその子は関係ないだろ、離せよ。それに今アスナはいないんだ」
「何言ってんだお前? 馬鹿じゃねぇのか? 言っただろうが! それが人に物を頼むときの態度かってな!」
「……どうすればいい?」
「装備は……してねぇな。都合が良いぜ、そこを動くなよ」
キリトは言われた通り棒立ちのまま動かない。それを見ながらクラディールはユイに剣を突きつけたままキリトににじり寄っていく。
その顔は楽しくて仕方がない、という表情で染められていた。
「パ、パパ……怖い……この人、怖い、いや……!」
「大丈夫だユイ」
キリトはユイを不安にさせないよう、優しく声をかける。大丈夫だよ、と。
その会話を聞いていたクラディールが面白そうに言う。
「パパだと? ガキ作ったのかよ? そもそもガキなんて作れるのか? まあいい、本当に大丈夫だといいなあオイ!」
クラディールは腰から小さい短剣を取り出した。刀身には薄緑の粘液が塗られているようだった。
キリトはそれに見覚えがあった。クラディールは楽しくて堪らないとばかりに口端を釣り上げてキリトにその短剣を突き刺した。
「ぐっ! お前……それ、麻痺毒、か……!」
「流石によく知っていやがるなァ《ビーター》さんはよォ」
クラディールのカーソルがオレンジに変わる。対プレイヤーに危害を加えた証明だ。
だがクラディールは構うことなく、捕まえていたユイを突き飛ばすと動けないキリトの太股に大ぶりの両手剣を突き刺した。
「ぐっ!」
不快感がキリトを襲う。ペイン・アブソーバによって薄められている痛覚はキリトにその痛みを正確には伝えない。
しかし酷く感触の悪い、異物が体内に混入されているかのような痺れる感触は気持ちのいいものではない。
加えて、キリトのHPバーが徐々に減少していく。
「おま、え……カーソルがオレンジになってるぞ……!」
「ヒャハハ! 今の《血盟騎士団》ならお前を殺してきたって言えば英雄扱いされるぜ!」
「英雄、ね……その割には楽しそうだな……居るところがおかしいんじゃないのか……?」
「ほぉう? 流石は目の付け所が違うな、いいぜ、見せてやる」
クラディールはそう言うと、腕の一部の装備……ガントレットを解除した。そこに……《黒いタトゥー》が現れる。
カリカチュアライズされた漆黒の棺桶。蓋には笑う口と眼が描かれ、ややずれた棺桶の隙間からは白骨の腕が飛び出ている。
キリトはそのエンブレムに見覚えがあった。忘れたくとも忘れられるものではない。
「それは……《笑う棺桶(ラフィン・コフィン)》……!」
《笑う棺桶(ラフィン・コフィン)》。犯罪者ギルドの中でもトップを誇る最低最悪のギルドだった。そのあまりの卑劣さと勢力から大規模な討伐隊が攻略組から組織されたほどで、キリトもその討伐には参加している。
最低最悪の戦いだったことは間違いない。キリトはそこで、やむなく名前すら知らない二つの命をその手にかけていた。それは今なお、彼の胸の奥で昏い火を灯している。
だが、これでクラディールの《手慣れたPKまがいの戦い》に合点がいった。普通なら、ここまでやるプレイヤーはそういない。
ギルド内でそういう風潮になっていようとも、だ。オレンジプレイヤーを英雄扱いしたギルド、というのは悪評に外ならない。
仮に《血盟騎士団》ではそれを正義と掲げたとして、他のすべてのギルド、プレイヤーが同じ考えを持つかと言えば、そうとは言い切れない。
それほど、一般プレイヤーが持つオレンジカーソルへの忌避感は強い。そして、大ギルドと言えど集団心理に逆らうことは難しい。
トップギルドだろうと、全プレイヤー数から見ればその割合はごく僅かな人数だ。周り全てを敵に回してやっていけるほどこのSAOが甘くないことは二年も生活しているプレイヤーならほとんど理解している。
「言っておくがラフコフの復讐とかそんなダセェ真似のためにお前を狙ってるんじゃねェ、《血盟騎士団》の為でもねェがな! ただお前は気に入らねェ……恥かかせやがって……!」
それは以前のデュエルのことを言っているのだろう。完全なる逆恨みだが、この手の人間には何を言っても無駄なことはわかっている。
クラディールは太股から剣を抜くと、今度は右腕に突き刺す。グリグリと捩じり、体重をかけることで、通常ダメージに加えて発生する貫通ダメージに上乗せを図る。
キリトのHPバーがじりじりと減っていく。既にイエロー、注意域にまでバーは落ち込んでいた。
(くそ、どうにか毒が抜けるまで時間を稼がないと……!)
キリトはやられながらも頭を働かせていた。もとより今できることはそれ以外にない。
幸いクラディールは饒舌だ。興味のあることならペラペラ喋るだろう。
「お前、なんでここがわかったんだ?」
「ああ? そりゃお前、情報屋のリストにも載ってないとんでもねぇレアアイテムをドロップしちまったからよ」
「とんでもないレアアイテム?」
「お? お前自分がこれから殺されるってのにレアアイテムの事が気になるのかよ! ゲーマーの鏡だな。良いぜ、特別に教えてやるよ」
クラディールは笑いながら左耳を見せる。そこにはキリトも見覚えのある金色のピアスがあった。
《盗賊のピアス》だ。効果はアスナから聞いている。あれがあればどこに誰がいるのか調べるのは、ましてや今みたいにタイミングを計るのはたやすいだろう。
そう、キリトの本当の目的、知りたいことは、どうやってここに来たのか、ではなく、《何故アスナのいないタイミング》で来られたのかというものだった。
一応まだ《血盟騎士団》の正装をしているからには、この男は《血盟騎士団》を名乗り所属しているはずだ。でなければ隠蔽ボーナスの恩恵を得られない派手な《血盟騎士団》の正装をしているメリットが無い。
目的はわからないが、この男にはまだ《血盟騎士団》に未練があると思われる。アスナがここに居合わせたなら、《血盟騎士団》との縁は切れると言っても過言ではない。
だから、どうやってこのタイミングで現れることが出来たのか知りたかったのだが、それは意外にもあっけなくわかってしまった。
時間稼ぎも含めていたキリトとしてはよろしくない誤算だ。
「こいつはな、《覗き見》……早い話が透視することができるレアアイテムなのさ。これでこの層に来たときお前らを見つけたってわけだ」
「……? この層に来た時?」
「目撃証言を辿ってきたからな。一応怪しい層は一通り調べてここに行きついた」
少しだけ、キリトは眉をひそめた。アスナの言っていた機能を使えばもっと速く、楽に見つけることも可能だったはずだ。
何故それをしなかったのか。あるいは出来なかったのか気付かなかったのか。そういえばアスナもその機能に気付いたのは偶然だと言っていた。
「さて、あんまり時間をかけて毒が切れてもやっかいだしな。それじゃそろそろ死ぬか? お?」
クラディールとて馬鹿ではない。キリトの時間稼ぎの意図には気付いていた。それでも彼は口数を減らすことは無い。
あのデュエル以降、この時の為に、この時を夢見て彼は歯をくいしばって耐えてきた。彼にとっても傷つけられたプライドと失った自尊心をたっぷりと返してもらわなければ割に合わなかったのだ。
その様を離れたところで見ていたユイが、いやいやをするように首を振る。
「パパ、パパ……!」
「っ、ユイ……」
「本当にこのガキはなんなんだ? SAOでガキを作れるってのは聞いたことがねぇが……ヤればできんのか?」
ユイの泣きそうな顔を見て、キリトは一つの事を思いだしていた。それは……彼女の言葉と、交わした約束だ。
「もう勝手に死ぬなんて許さないから」と言われたそれはまだ記憶に新しい。そう、彼女は自分の死を許さない。
何より、自分が死ねば「私も死ぬ」と言った彼女の言葉に偽りはあるまい。ならば自分は諦めるわけにはいかないのだ。
『責任重大だからね、キリト君。これでキリト君は簡単に命を諦められなくなったんだから』
(アスナ……!)
確かに責任重大だ。ソロプレイをしていた頃ならとっくに諦めていたかもしれないこの状況。
しかし今諦めるわけにはいかないことをキリトは自覚した。
「お、おお……!」
「ん? なんだ? やっぱ死ぬのは怖いか? 嫌か? そうこなくっちゃなあああああああ!!!」
クラディールの顔が狂気に染まる。キリトが必死になるのをむしろ待っていたかのように。
それでこそ殺しがいがあると言わんばかりに。クラディールはキリトの体の中心に剣を二度三度突き立て、グリグリと動かす。
それでキリトのHPバーはレッド、危険域にまで落ち込んだが彼は諦めない。
麻痺中はシステムメニューを開けない。動かすことが出来るのは肘から下の左手と口だけだ。右手は動かせず、右手でなければシステムメニューを開けない。
大抵は既にオブジェクト化したアイテムをポーチの中などに入れておいて緊急時に使うが、今キリトはそういったものを何も用意していなかった。
前線よりはるか下という奢りがあった。モンスターの湧出(ポップ)が無いと油断していた。それがこの結果を招いた一因になっている。
現状は万事休す。打つ手はない。それでも、彼は諦めるわけにはいかないのだ。何故なら彼の肩には、アスナの命までもかかっているのだから。
そんな必死になるキリトを見て、ユイは願う。強く願う。思う。強く思う。
通常、それだけで何かが届くことはありえない。ましてやここは電子の世界。
非科学的なことは起こりえない。もしそれが起こるとすれば、それは──必ずどこかに科学的ロジックが存在する。
だが、今はそんなことは関係ない。考える者もいない。一つ言えるのは、届くはずのないそれが、《届いた》ということだけだった。
(ママ、ママ……! パパを助けて……! イヤァァァァァ!!!)
アスナがそのユイの声を聞いたのは偶然だったのか。
だがユイの緊迫した声にただ事ではないことを悟ったアスナはそれまで最大だった敏捷力を、《極限》までゲインした。
最大と極限。そこに数値的なものでの変遷は無い。だが、心のありようと動きには多大な差が発生する。
アスナの言う最大は、自分が自分でいられる、いわゆる安全マージンを取った状態での能力使用を指している。
緩めるときは緩め、木々にぶつからぬよう考えて行動する。しかし、極限状態は違った。
主に、ボス戦での彼女は極限と化す。考え、避けるとはしない。アクセルは常にフルスロットル。
ぶつかるなら壊す、壊せないなら反動を利用してでも先へ。もっと先へ。コンマ一秒すら惜しい。後退を考えない。考えられない。
思考を、二つ名の通り《閃光》のように加速させる。速く、もっと速く。悪く言えば捨て身とも取れる、前進のみの突撃体勢。
バックアップを完全信頼してこそできる芸当。普段はやろうと思ってもなかなかできることではない。それだけの緊迫した状況と集中力を必要とする。
恐らく、ボス戦以外でアスナが《極限化》するのはこれが初めてだ。その必要が無かったし、狙ってできることではない。
しかし、彼女の中の何かが、そうしなければならないと囁いていた。
(キリト君……!)
彼の名前を意識するたびにその囁きのような不安は増大していく。
そうして、アスナは恐るべきスピードでその場へ登場することに成功した。
自身が所属していたギルド、《血盟騎士団》のクラディールが愛する人を殺そうとしている現場に。
駆ける足は止まらない。止められない。止められるわけがない!
「!? な、あ、アスナさ……まっ!?」
驚愕で染まるクラディールを、アスナは問答無用で吹き飛ばした。無茶苦茶なやり方の《体術スキル》に該当するタックルだったが、クラディールは数メートル程吹き飛んだ。
だがアスナの興味にクラディールはミジンコ一匹分たりとも存在しない。すぐにキリトに駆け寄る。
「生きてる!? 生きてるよねキリト君!?」
「あ、ああ……」
「待ってて……!」
アスナはすぐにアイテムストレージからピンクの結晶をオブジェクト化すると、キリトの胸に当てて「ヒール!」と唱える。
すぐにキリトのHPは残り数パーセントの状態から全快にまで回復した。それを見て、アスナは心底安堵し……クラディールへと振り返った。
その顔は怒気に染められ、殺意さえ相手に与えていた。
「っ! ア、アスナ様、探しましたよ! さぁ、団員が待っています、帰りま───っ!?」
クラディールはアスナの突然の登場に驚愕していたが、すぐニヤリと笑うと彼女に寄りながら口を開いた。
しかし彼は言葉をすべて紡ぐことが出来なかった。不快感さえ醸し出しているアスナの細剣(レイピア)による刺突が彼の口を切り裂いたからだ。
顔面は被ダメージが特に大きい。今の一撃で死にはしないだろうが、クラディールのHPがごっそり削られたのは間違いなかった。
「こ、このア──」
「うるさい」
クラディールは再び言葉を紡ぐことを許されなかった。《閃光》……その二つ名は伊達ではない。
再び口を切り裂かれ、尚も激昂したクラディールはしかし、アスナに防戦一方……もとい防戦すらできないでいた。
彼女の剣速が速すぎる。クラディールが一つ武器防御する間にアスナは三回攻撃している。レベル差から敏捷力の差があるといっても、それは驚嘆に値した。
すぐにクラディールは青ざめていく。ここまで差があるとは思っていなかったのか。彼の知る彼女よりもはるかに今の彼女は速かった。
無理もない。キリトでさえ、目で全ては追いきれない程の速度が出ている。彼女は今、二年のSAOプレイ中最速を叩きだしている所ではないだろうか。
クラディールのHPバーはみるみる減少していき、注意域をすぐに超え、危険域にまで達した。残りは二割程度だ。
勝てないと悟ったのか、クラディールは剣を投げ捨て平伏して命乞いを始めた。
「わ、悪かった! 殺さないでくれ! お、俺だって副団長が心配だったんだ! 《ビーター》に誑かされてると思って──がっ!?」
クラディールの言葉を聞き終わらないうちにアスナはクラディールを蹴り飛ばした。また少し、彼のHPが減る。
彼の言葉の中に出てきた《ビーター》という言葉が何故か酷くアスナの勘に障った。何よりその《視線》が気に入らない。
スタスタと歩いて、細剣(レイピア)を逆手に持ち、クラディールにトドメを刺そうと構える。
「わ、わかった! もう嘘はつかねェ! あんたらの前にも現れねェ! だ、だから……死、死にたくねェェェッ!」
頭を抱えて蹲るクラディールに、ピタリ、とアスナは剣を止めた。別に彼を殺すことに躊躇ったのではない。
今のアスナに憐みの気持ちはほとんどない。先日、キリトを一瞬とはいえ失った恐怖が、彼女の中に未だ根深く残っている。
自分が死にたくなるような喪失感と哀しみ。彼の質量を失う恐怖。一度あれを知ってしまってから、アスナの彼を失いたくないという気持ちは既にオーバーフローしている。
その彼の命を奪いかねなかった相手の命を取ることに、アスナは躊躇を感じなかった。それが初めてのプレイヤー殺しになろうとも、構わないと思った。それほどまでに、彼が大事だった。
だから、そんな彼女を止めたのはクラディールという一人の人間を殺すことへの躊躇いなどではない。
「…………」
一対の瞳が作る、小さい視線。それがアスナを押しとどめた理由だった。
ユイが見ていた。アスナの灼熱しきった負の感情が織りなす暴風がごとき様の全てを。
その目は、哀しみと恐怖が渦巻いていた。彼女に、これ以上そんな顔をさせたくなかった。
ユイに、自らが殺しをする様を見せたくなかった。
だが、クラディールはそれを殺人への躊躇いと勘違いした。
「甘ェェェ──────ンだよ副団長サマ!」
起き上がったクラディールはアスナに飛びかかり、全身で彼女を抑え込んだ。
アスナは敏捷力に多大なステ振りをしているが、そのせいで筋力はさほどでもない。
残念なことに、クラディールの方が筋力は勝っていた。両腕を掴まれ、地面に叩きつけらたアスナは細剣(レイピア)を振れない体勢へ追い込まれた。
「甘ェ甘ェ甘ェ! これだから甘ちゃんはよォ! ヒャハハハ───!」
ギラついた目で自分が馬なりになった相手、アスナをクラディールは見やる。だがアスナは、全くもって落ち着いていた。
舌なめずりしながら、クラディールは笑う、いや嗤う。
「流石は我らが《血盟騎士団》副団長サマ、ってか? こんな状況でも澄ました顔していやがんな。状況わかってんのか? え?」
「……貴方こそ状況わかってるの?」
「あァ、アンタが俺から逃げられねェってことはわかっているぜェ!」
楽しくて仕方がない、というようにクラディールは嗤う。その嗤いが酷くアスナの神経に障る。
一分一秒でも、こいつの傍にはもういたくなかった。だから、
「そう、じゃあいいわ、さよならクラディール」
「はぁ? おいおい何言って……」
「一つだけ教えておいてあげる……あなた、視線がいやらしいのよ!」
アスナが人差し指を動かし《タップ》する。それで全ては事足りた。彼女は一瞬、《そうなった理由》……彼の耳についている《金のピアス》を見た。
クラディールが「え?」と驚いた顔をする。しかし、それがすぐに何を意味するのかわかった。
ハラスメント防止コードによる強制転送。SAOではハラスメント行為を行ったプレイヤーには行われたプレイヤーがOKボタンをクリックするだけで黒鉄宮の監獄エリアへ飛ばす仕様が採用されている。
クラディールはそれ以上、何かを言う前にその姿をライトエフェクトに変えられ、消えた。監獄エリアに犯罪者として転送されたのだ。
アスナは戦いを終えるとキリトの元に駆け寄った。ちょうどキリトは麻痺毒が解けて動けるようになったところだった。
アスナはキリトに抱き着いてその質量、仮想なる実体を確認する。
「キリト君、キリト君!」
「大丈夫だよ、ごめん、アスナ」
「ううん、生きててくれれば、それで良いよ」
確かに彼がここにいる、それが全てだった。彼に触れ、彼が確かにそこに存在している証を体一杯に感じる。
キリトが彼女の頭を撫でる。栗色のストレートヘアーがさらさらと揺れ、アスナにキリトの感触を与えていく。
それで、ようやくアスナは安心することが出来た。
「そうだ、ユイは?」
「あ……!」
キリトに言われ、すぐに周囲を見渡す。ユイは少し離れたところにぺたんと腰を下ろしていた。
アスナがユイに駆け寄ろうとして、止まる。
「……っ!」
ユイの目が恐怖を孕んでいた。哀しみの表情をしていた。どことなく、アスナを拒絶しているように見えた。
近付きたいのに、近付けない。そんな壁を一瞬にして感じる。
無理もないのかもしれない。先ほどまでの自分はさぞ怖かったことだろう。代わりにキリトがユイに近寄り、そっと彼女を抱き上げる。
「大丈夫か、ユイ」
「う、う……!」
泣きそうな声を上げるユイ。その声を聞けば聞くほどアスナの胸も痛んだ。その声を出させているのは自分のせいでもある、と。
キリトはユイの頭を撫でながら、優しく言う。
「ありがとうユイ、アスナと……ユイのおかげで俺は助かったよ」
「……?」
「ユイがアスナを呼ぶ声が聞こえたんだ。そうしたら、アスナが来てくれた。ユイがアスナを呼んでくれたんだ」
「!」
「う、うぅ…………うぅぅぅぅうううう!!」
ユイは涙をぼろぼろと零し、キリトにしがみついて泣いた。だがすぐにキリトに降ろして、と言って降ろしてもらう。
そんな姿をアスナは胸を痛めながら見ていると、ユイが今度はアスナに駆け寄り、ばふっと抱き着いた。
「ママ、ママぁ!」
甘えるように泣くユイに、アスナはいろんな感情が無い混ぜになって湧きあがってくる。
怖くないの? 私にも甘えてくれるの? 大丈夫? 怖いの? 私でもいいの? 良いの?
「うう、ユイちゃん……!」
アスナはユイを強く抱きしめた。彼女が自分にも抱き着いて泣いてくれたことが、嬉しかった。
ユイと同じように、彼女もまた涙を流していた。
泣きつかれたユイを寝室で寝かせた二人は、今日のことの情報整理をしていた。
アスナはキリトからクラディールの話を聞き、それまで見ることをほったらかしていた自身のギルドに関する情報を久しぶりに確認する。
驚いたことに、彼女は脱退したことになっておらず、副団長として《血盟騎士団》に所属したままになっていた。
「嘘……」
「まあ、KoBからすると、アスナは失い難い存在だからな」
「ごめんキリト君、私がもっとちゃんと気付いていれば……」
「アスナのせいじゃないさ」
アスナはどうせ引き止められるだろうと思い団員からのメールはある程度ブロックしていた。
フレンドリストもギルドの中でだけの付き合いの人、とりわけやたらと自分を神聖視するような相手は削除していた。
引き留められる予想はしていたのだ。だが、折角の新婚生活に水を差されたくないと思ったアスナは、いずれ前線に戻るから、ごめんね……と少しの間のつもりでギルド関係から来るであろうパイプラインをほぼカットしていた。
それを責める気はキリトにもない。自分でも同じことをしただろうし、事実チェックしてみれば半数はキリトの悪評をつらつらと綴ったもので、他には戻ってくださいというような引き留める内容のものばかり。
意外なことに雑事についての質問や問い合わせは一つ二つ程度だった。それもアスナの目から見れば自分に確認を取らなくてもよいものだ。
「今度、ギルドに抗議しに行くよ私」
「いいのか?」
「うん。きちんとけじめをつけないと。クラディールのこともあるし」
「わかった。《血盟騎士団》のことについてはアスナに任せるよ。でも、無理はしないでくれ」
「うん」
「あ、そういやちょっと気になったんだけど、最後なんでハラスメント防止コードが使えたんだ? 俺には何が起こったのかよくわからなかったんだけど」
「ああ、そのこと。キリト君もクラディールが《盗賊のピアス》を持っていたのには気付いた?」
「ああ」
「彼、私が現れてからあれでずっと私の服を透視してたみたい。私はキリト君のこととそれのこともあったせいでかなり頭にきたんだけど」
「……は?」
「私が吹き飛ばして起き上がった後は、ずっと透視してたのよ彼。私にはハラスメントウインドウが見えてたけど、クラディールの様子から相手には見えてないんだなって思ったわ。恐らくあのピアスで起きたハラスメント事象は起こした方には警告コードを感知できない仕組みになっているんじゃないかしら?」
「俺にも見えてなかったぞ。いやそうじゃなくて」
「あ、そうなの? じゃあハラスメントを受けた人にしか見えないのかな? かなりのチートアイテムだけどそう考えると知らずに使った途端ハラスメント転送もありうるのね。何それ怖い」
「そうだな。いや、だから問題はそこじゃなくて」
「前にちょこっとキリト君見た時実はやばかったのかも。でもSAOって男性から女性へは結構厳しいハラスメント張ってるけど逆はそうでもないのよね」
「……いやいやいや、ちょっと待て、一番大切なことを確認させてくれ」
「ん? 何?」
「じゃあ何か? あいつアスナの下着姿か裸を見てたのか?」
「多分……」
「…………俺ちょっと黒鉄宮行ってくる。大丈夫だ、相手はオレンジカーソル、何をやっても俺がオレンジになることはない。せいぜい生命の碑にある一つの名前に傷が刻まれるくらいだ」
キリトが久しぶりに完全武装したのを見て慌ててアスナは止める。流石にもうそこまでの必要は無い。
だが、キリトのその思いは純粋に嬉しかった。
「もう……私も人のこと言えないけどキリト君も冷静になってよ。それに大丈夫、ほとんど見る暇がないように連撃をお見舞いしてたんだから」
「ああ、それで……」
どおりで速すぎると思ったのだ。あのアスナの剣戟はいくらなんでも些か速すぎた。だが確かにあれではそんな暇はあるまい。
いや、もしくは最初にいやらしいことを考えていたからクラディールは二度も顔面に攻撃を食らったのかもしれない。
再び背中の剣にキリトは手を伸ばすが、二秒ほど柄を掴んでからぐっと堪えて手を離す。落ち着こう、と思ってふと好奇心が湧いた。
「ちょっと使ってみていいか?」
「使うって何を?」
「《盗賊のピアス》だよ」
「まさかキリト君……」
ジロリ、とアスナに睨まれる。キリトは慌てて弁解した。クラディールのような使い方をしたかったわけではない。
単純に気になったのだ。
「違う違う! ただあいつ、前にアスナが言ってた《過去の覗き見》って気付いてなかったみたいだから。それに透視ってのがどんふうになるのかも少し興味あったし。べ、別に誰かの服を透視したいとかそんな理由じゃないよ!」
「ふぅん、まあいいわ。でもクラディールは気付かなかったのね。まあ私も偶然気付いただけだし」
「そうそう。前にもそんなこと言ってたよな? あの時はいろいろ聞く暇なかったけど……それってどういうことだ?」
「うーん、使ってみてもらった方が早いかも。装備してみて」
「わかった」
キリトはアイテムストレージから《盗賊のピアス》を装備する。すぐにキリトの左耳に金色の輪が現れた。
そのままキリトは壁を注視する。それで、壁が透けていくのがわかった。
「透視はそのままでも使えるの。だから《覗き見》って書いてるスキル一覧はそれのことだって思ってたんだけど……えっ?」
「あっ?」
アスナの説明中に、金のピアスは音もなく崩れ去った。二人が驚いて顔を見合わせる。
二人の目の前にはシステムウインドウがポップアップした。
【このアイテムの《使用制限》を超えました】
「使用、制限……?」
「そういうことか……」
アスナが首を傾げていると、キリトは納得したように頷いた。
アスナはキリトにどういうことなのか尋ねる。実は彼女はゲームをあまりしたことがない。それ故いくつかある《王道》ルールを知らなかったりすることがあった。
「このアイテムには使用制限があったんだよ。《使える回数》かもしくは《使用総時間》かな。アイテムによってはそれのリミットがランダムになってるものもある。大抵この手の凄いアイテムのリミットは少な目に設定されているものだから、今回は逆によく持った方なんじゃないかな」
「へえ……」
「耐久力とは別だろうな。恐らく修理や制限延長は不可。消費装備アイテムだったんだこれは。益々使いどころが難しいな」
このアイテムはかなりのレアドロップだ。情報屋にも載っていないことからそれはわかる。アスナが手に入れたのでさえ偶然だったのだ。
クラディールも偶然による産物だろう。たまたま比較的近しい人物同士が手に入れたという運命の巡りあわせだったが、本来そうありえることではない。
加えてこの制限がランダムな時間制なら装備して一分後に崩壊、という可能性もあった。それではあまりに割に合わない。
この手のチート級アイテムには大抵落とし穴があるものだが、まさかこんなものだとは。
いつ壊れるかわからない。オマケに使って誤ってハラスメント行為を行ってしまった場合、自分ではそれでハラスメント警告が出ていることがわからない。
諸刃の剣というレベルを超えている。高過ぎるリスクがあるアイテムだ。費用対効果はいいとは言えない。かなり運に左右されるアイテムと言えるだろう。
「これじゃあもう使えないな……」
「そうだね、これからシステムスキル欄にあるいろいろな設定をやるんだったんだけど……見ないと流石に私でもどんなのだったか覚えてないよ」
使ったのはたった一度。見たのも合計で二度。しかもきっちり見たわけではないので記憶には残っていない。
手元にももう無いのだから、これ以上は話していても意味がない。
「仕方ない、無いものの話をいつまでもしていてもしょうがないし、明日に備えて寝ようぜ」
「明日?」
「忘れたのか? 明日はユイの為に始まりの街へ行くんだろ?」
「あ……!」
そうだった、と思い出す。同時に、キリトが明るく笑った理由を悟った。
今日の事は早く忘れよう、とキリトは暗に言っているのだ。確かに今日あったことはいい思い出にはならないだろう。
そんな彼の気遣いには、いつも心を温められる。だから……、
「ねぇキリト君」
「ん?」
「大好きだよ」
「……っ、ああ、俺もアスナが好きだ」
「今日は……ユイちゃんもいるし《倫理コード》は無理だけど、キリト君の胸の中で寝たい……いいかな」
「ああ、良いよ」
だから、どんな嫌な思い出も良い思い出に変えられる魔法を使う。剣の世界であるソードアート・オンラインには本来魔法は存在しない。
でも、アスナにとって彼は魔法そのもののような存在だった。
寝室のベッドでお互い横になる。隣のベッドではユイが一人で眠っていた。
キリトは昨日とは違い、背を向けずにきちんとアスナを正面から抱きしめる。アスナも彼の胸のシャツを優しく掴んで目を閉じた。
ここが、このデスゲームと化したSAOでもっとも安らげる場所。アスナだけに許された場所。
そこに確かな温もりを感じながら、二人は一緒に眠りへと落ちた。
この日、アスナはクラディールを殺さずに監獄へと送った。
この時はまだ、アスナはまさかこれが後々《そんなこと》を招くことになるとは思っていなかった。
クラディールをこの時《殺しておけば良かった》と思う日が来るなど──それが可能だっただけに──考えもしなかった。