<このWebサイトはアフィリエイト広告を使用しています。> SS投稿掲示板

SS投稿掲示板


[広告]


No.35117の一覧
[0] ヴァルキリーがホームステイに来たんだけど(魔術バトルもの)[天体観測](2013/03/21 05:10)
[1] 第一章 ヴァルキリー? がやって来た[天体観測](2013/01/05 23:44)
[45] 第二章 死刑宣告を受けたヴァルキリーの友達[天体観測](2013/01/17 16:50)
[46] 悩みは多くて問題も多い[天体観測](2013/01/09 07:11)
[47] 買い物のが終わったら……[天体観測](2013/01/17 16:57)
[48] 情報収集と魔術の特訓は計画的に[天体観測](2013/01/17 17:03)
[49] 戦う理由はシンプルに[天体観測](2013/01/14 16:21)
[50] チョロイ男[天体観測](2013/01/14 16:14)
[51] 第三章 帰ってきたヴァルキリー[天体観測](2013/01/18 08:48)
[52] あ、ありのまま……[天体観測](2013/01/18 17:47)
[53] テストへの意気込み[天体観測](2013/01/26 21:23)
[54] ヒルドの意外な一面[天体観測](2013/01/22 12:09)
[55] 目標に向けて[天体観測](2013/01/25 20:36)
[56] その頃ヒルドとクマは?[天体観測](2013/01/27 05:44)
[57] 《神器》の持ち主大集合?[天体観測](2013/01/28 06:04)
[58] ジャスティス、ジャスティス、ジャスティス![天体観測](2013/02/17 06:54)
[59] 設定がメチャクチャな中二病[天体観測](2013/02/20 17:43)
[60] 中二病の本名[天体観測](2013/02/26 06:44)
[61] そして、一週間[天体観測](2013/02/26 06:46)
[62] 本音をぶちまけろ[天体観測](2013/02/26 06:49)
[63] VS漆黒[天体観測](2013/02/26 17:06)
[64] 中二病というよりは……[天体観測](2013/02/28 06:34)
[65] 理不尽な現実[天体観測](2013/03/04 00:38)
[66] [天体観測](2013/03/08 05:26)
[67] 特別でいたい[天体観測](2013/03/12 16:57)
[68] テスト結果。そしておっぱいの行方[天体観測](2013/03/16 05:21)
[69] 世界観および用語集(ネタバレ少し有りに付き、回覧注意)[天体観測](2013/03/17 05:51)
[70] 第四章 夏休みの始まり[天体観測](2013/03/21 05:11)
[71] 補習が終わって[天体観測](2013/03/24 06:39)
[72] 危険なメイド[天体観測](2013/03/30 23:34)
[73] ご招待[天体観測](2013/04/04 01:32)
[74] わけのわからない行動[天体観測](2013/04/05 23:33)
[75] 戦女神様からのお言葉[天体観測](2013/04/13 06:27)
[76] 人の気持ち[天体観測](2013/04/26 00:21)
[77] 彼女の秘密[天体観測](2013/05/04 05:30)
感想掲示板 全件表示 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

[35117] 第一章 ヴァルキリー? がやって来た
Name: 天体観測◆9889cf2d ID:dfaff5c1 前を表示する / 次を表示する
Date: 2013/01/05 23:44
 拝啓、お父さんお母さん元気ですか? 俺は元気です。
 その光景を見たときに、月館高貴つきだてこうきの頭に何故かそんなわけのわからない言葉が浮かんできた。
 高貴はたった今住んでいる学生寮に帰ってきたところだ。取り立てて珍しいことではない。いつも通り学校に行って、帰宅部の彼は特に残っている用事もなく、加えてバイトの時間も少し先だった為すぐに帰ってきただけだ。
 喉が渇いたので途中の自動販売機で缶ジュースを買い、それを飲みながら学生寮についた。
 高貴の部屋は2階にある。この寮にはエレベーターがないため、階段を登り上に上がる。
 とりあえずゲームの続きでもするか、もしくはこの前発売した本の新刊でも買いに行くか。
 そんなことを考えながら鍵を開けて中へと入る。もちろん一人なので、ただいまなどとは言わない。
 学園の学生寮を高貴はなかなか気に入っている。玄関から入れば右手にはキッチン、左手側には浴室とトイレ。その奥に7畳の分の広さの部屋がある。
 学生が一人で住む部屋というのは、もっと質素だと思っていた高貴にとっては十分すぎる部屋だ。特に風呂とトイレが一緒じゃないのが嬉しい。
 とりあえず着替えようと思い、高貴は居間への扉に手をかけた。
 ここまでが今までの月館高貴の日常。変わらない毎日。変わらないサイクル。平穏で、退屈で、代わり映えしなくて、それでも最高に楽しいと思える毎日。
 高貴は居間に入った瞬間に目を疑った。
 高貴がいつも眠っているベットの上、そこに見知らぬ誰かが立っていたからだ。
 その見知らぬ誰か、おそらくは女性だろう。その人物は、まるでそこにいるのが当たり前とでもいうように、高貴に背を向けてベットの上に仁王立ちで立っている。
 本来ならば大声を上げる場面なのかもしれないが、高貴は驚きのあまりそれすらも忘れて、飲んでいた缶ジュースに口をつけたまま固まってしまった。
 高貴が部屋に入ってきたことには気づいておらず、左手を左耳に当てて、何かを聞いているようにも見える。

「ああ、問題ない。転移は成功した。もしかしたら腕の一本くらいはなくしてしまうかとも思ったが、そんなことはなかったみたいだ」

 突然その人物が言葉を発した。 
 それは明らかに高貴に向かって話しかけられた言葉ではなく、いったい誰に言った言葉なのか高貴にはわからなかった。
 もしかしたら左手の中に携帯でも持っているのかもしれない。
 いや待て、おかしいだろう?
 確か今朝高貴がここを出た時には、ベットの上に乗っていたのはやっていた携帯ゲームだったはずだ。
 よく見ると確かにそれはベットの上にあった。そして見知らぬ誰かも立っていた。
 自慢ではないが、高貴には恋人はいない。生まれてこの方出来たこともない。ならばこの人物はいったい誰なのだろう?

「わかっている。私のやるべきことはしっかりとな。そしてこの任務が極秘だということもわかっているつもりだ。本来ならば私はこの世界ではありえない存在。それがどれだけの影響を与えてしまうかも理解している」

 声の感じからするとやはり女性、いや、少女と言った感じの声だ。ちょうど高貴と同年代くらいだろうか?
 だんだんと落ち着いてきた高貴は、明らかに妙なことに気がついた。いや、帰ってきたらベットの上に少女が仁王立ちで立っていただけで妙なのだが、それ以上に気になることがあったのだ。
 まずその少女の長い髪、腰の辺りまであるであろう長いその髪は、とても美しい銀色をしていた。
 髪を染めたとしたらおそらくここまで綺麗にはならないだろう。ということはこの人物は外国人なのかもしれない。
 もう一つは少女の格好。
 気のせいかもしれないが、この少女はまるで鎧のようなものを身に纏っている。
 後姿、しかも背中の大部分は髪で隠れてしまっているが、まるでゲームにでてくる青い鎧のような服。
 本物だろうか?
 コスプレだろうか?
 どちらにせよ普通ではない。
 さらには右手に白くて長い棒のようなものも持っている。これもまたゲームや漫画で見たことがあるような形をしている。
 すっぽんぽんでベットで寝ている少女というシチュエーションなら、漫画やドラマなどで見たことがあるが、鎧姿の少女がベットで仁王立ちとはいかがなものだろう。
 ベットの上なだけましか? 下じゃなかっただけましか?
 いやいや、やはりおかしいに決まっている。

「了解した。ではエイル・エルルーン。ただいまより任務を開始す―――」

 おそらくは会話が終わって、ベットから降りようとしたのだろう。少女が振り返ろうとした。というよりも振り返った。
 振り返ってそこにいる少年の存在にようやく気がついたのか、少女の言葉が途切れる。
 少年と少女、二人の目と目が合う。視線と視線が交差する。
 振り返ったその少女はあまりにも美しく、一瞬で高貴は目を奪われた。
 流れるような銀の長髪。服装はやはり鎧姿。頭にはティアラのような髪飾り。ところどころ見える肌は雪のように白く、その瞳は空のように青い。
 どこか神秘的な、幻想的な雰囲気をかもし出すその少女は数秒停止し、ふむ、と息をついた。

「君は……誰だ?」

 自分自身が一番言いたかった言葉、その言葉を高貴は先に言われてしまう。まるで自分のほうが場違いにも思えてくる。

「ああ、もしかするとこの部屋に住んでいるのか?」
「そ、そうだけど……あんたいったい―――」
「すまない、少し待っていてくれ。私にとっても予想外の事態に陥ってしまった。よって状況を整理したい。1分ほどでいいから時間をくれないか?」

 ようやく高貴が言葉を発するも、それを遮って少女はなにやら目を閉じて考え始める。同時に高貴も考え始める。一体自分はどうすればいいのかを。
 この少女は何者なのか?
 やはり最初に思いつくのは泥棒だ。自分のいない間に勝手に入ってきたのだから。しかし玄関の鍵はしまっていたし、なにより泥棒ならばすぐさま逃げるだろう。
 次に思いついたのは―――思いつかなかった。
 だいたい帰ってきたら鎧姿の少女がベットの上に立っていたなど普通はありえない。ベットの上で美少女が裸で寝ているのと同じくらいまずいだろう。 
 とりあえずに警察に電話するということを思いついた高貴は、急いでスマホを取り出すと、110をダイヤル―――

「待たせたな、考えがまとまったぞ」

 する前に少女が高貴に声をかけてきた。待てといわれてからまだ30秒ほどしかたっていない。

「まず君の名前を聞かせてはもらえないだろうか?」

 そう少女は言う。
 本来ならば名乗る理由などない。にもかかわらず、高貴は自然と自分の名前を口にしていた。

「……高貴……月館高貴」
「そうか、いい名前だ。では高貴、君に少々頼みたいことがある」

 瞬間―――少女が左手を振るった。
 指を伸ばし、手刀の要領で横一閃。高貴の目の前をその左手が高速で通り過ぎる。

「わぁっ!?」

 いきなり攻撃されたというその事実に、高貴は思わず叫び尻餅をついてしまう。手に持っていたジュースも放してしまい、床に敷いてあるカーペットに中身がこぼれた。
 白と黒のチェック模様のカーペットに、楕円形のシミが広がっていく。
 続けて少女の右手が動く。次の瞬間には、その右手に持っていた棒が高貴の喉もとに突きつけられていた。
 最初は巨大な針かと思ったそれは、よく見ると西洋の槍のような形状をしている。
 というよりまさにそのもの。高貴が好きな狩りのゲームに出てくる武器、ランスだ。

「なに簡単だ。ベリーイージーだ。まさかこの槍を持って戦ってくれなどとは言わない。危険な目にあわせるつもりも毛頭ない。だから―――口封じの為に死んでくれ。安心しろ、せめて天国に送ってやる」

 ニコリと、まるでこんな状況でなければ、見た者を恋に落としてしまうかのような笑顔で少女は言った。
 追伸、お父さん、お母さん。俺はたった今死刑判決を受けました。
 わけのわからない状態で高貴の頭に浮かんだのは、やはりわけのわからない言葉だった。


 槍の切っ先は高貴の喉元に突きつけられたまま離れることはない。
 距離にして約数ミリ。目の前にいる少女があと数ミリ右手を前に動かせば、高貴の喉もとからは血が流れ出し、今度はジュースではなくその血でカーペットが染まるに違いない。
 その恐怖に高貴はまったく動くことが出来ない。首を前に動かせば間違いなく刺さるだろうし、後ろに動かした瞬間に少女が右手を動かしそうで怖い。
 結局高貴は身を震わせることしか出来ないのだ。全身から汗が吹き出してくる。学生服の中にきているYシャツが張り付いてきて気持ち悪い。そしてやはり何よりも怖いのだ。

「高貴、聞いているのか?」

 少女が口を開いた。彼女は手ではなく口のほうを動かしたのだ。
 その声に反応した高貴が視線を上げて少女を見ると、少女はキョトンとした顔で首をかしげていた。

「おかしいな、まさか君は耳が聞こえていないのか? いや、しかし先ほど確かに会話をしたはずだ。ということは言葉が通じていないというわけでもないか。ほかに思い当たる可能性は……ふむ、何も思い浮かばない。なぜ君は何も言ってくれないのだ? やれやれ、人間というのはやはり難しい生き物なのだな」

 この少女は高貴が何も言わないことを心底疑問に思っていたらしい。この少女にとって、高貴が恐怖のあまりに声も出せずに固まっているのだという考えはないようだ。

「お、お、お、……お前は……何なんだよ? 俺の部屋で何してるんだ?」
 
 絞り出すように高貴が声を出す。槍を突きつけられているこんな状態で、よく声を出せたものだと彼は自分で自分を褒める。そうでもしないと恐怖に飲み込まれそうだったから。

「やっと喋ってくれたな。このまま何も喋ってくれなかったらどうしようかと思ったぞ」
「し、質問に答えろよ! 何なんだよお前! そんな変な格好して、変なもんもって! け、警察呼ぶぞ!」
「警察? ……ははっ、そうか警察か。まさかわたしがその言葉を使われるとは思っていなかったよ。私もこの世界でいう警察と少々似たようなものだからな」
「ふ、ふざけんな! お前みたいな変な格好してる警察なんているわけないだろ!」
「変な格好とは失礼な。これは―――おっと、いけないいけない、これは言ってはいけないことだった」

 少女が慌てて口をつぐんだ。

「それより高貴、私が言ったことを覚えているか? 君に頼みがあるといっただろう。もしよければ口封じの為に死んでくれないだろうか? じつは私は極秘任務の最中でな、姿を見られるわけにはいかないんだ。にもかかわらず君に姿を見られてしまった。なのでここは死んでもらうしかないだろう?」
「ご、極秘任務? なんだよそれ」
「それを言えないからこそ極秘というんだよ。覚えておくといい。極秘というのは言わないのではなく言えない事を指す。まぁ死んでくれるのなら喋っても何の問題もないがな」

 殺されてくれるか?
 先ほどと同じようにニコリと笑いながら少女はそう言った。本当にこのような状況ではなかったならば、間違いなく見とれてしまうであろう笑顔。しかし高貴は金輪際この少女の笑顔に見とれることはないだろうと確信する。
 とにかく、とにかくだ。自分は今とてつもなく危険な状況にいるということを高貴はうまく働かない頭に無理矢理自覚させる。
 どうすればこの状況を切り抜けられるのか?
 その答えを必死に導き出そうとするも、情報が不足している今の状態ではそんな答えは導き出せそうにもない。
 この少女は自分に死んでくれと言った。しかしその割には槍を喉に突きつけてはいるが、それ以上は何もしてこない。本当に殺す気などあるのだろうか?
 しかし目の前の槍はおそらく本物だろうと自分の直感が告げている。

「さて、いい加減に答えてくれないか? 私は君に頼みがある。大人しく殺されてくれないかと聞いているのだ」

 銀髪の少女は三度問いかける。それに対して高貴は―――

「そ、そんなの嫌に決まってんだろ! こんなわけのわかんないまま―――わけがわかったとしても殺されるなんて冗談じゃない!」
「そうか、なら止めよう」

 あっさりと、彼女は高貴の喉もとから槍を引いた。
 そのことに高貴は拍子抜けしてしまう。命の危機が去ったというのに、ポカンと口を開けたままだ。槍が離れたのは喜ばしいことだが、どうしてそんなにもあっさりと槍を引いたのかがわからないからだろう。

「……え? ど、どうして」
「なんで驚いているんだ? 君は私に殺されるのが嫌なのだろう? 自分で今そう言ったじゃないか。だから引いただけだよ。それとも私の聞き間違いだったのか?」
「い、いや違う! 間違ってない!」

 もう一度自分に槍を向けようとしている少女を高貴は慌てて止める。

「それにしても困ったな。ダメもとで頼んでは見たもののやはりダメだった。こうなると記憶を奪うくらいしかないのだが、生憎私はアンサズのルーンは得意ではないしな。人格が破壊される恐れがある……よし、高貴。殺されるのが無理なら、せめて私のことを黙っていてくれないか? 何も見なかったということにしてほしいんだ」

 しばらくブツブツと言った後に、少女は高貴にそう言ってきた。先ほどの条件と比べればまさに破格の条件といえるだろう。
 しかし高貴はすぐには首を縦に振らなかった。結局の所この少女が何者なのかはわかっていないからだ。
 もしも先ほど考えたように泥棒ならば、警察に突き出す必要がある。

「話すも黙るも分けのわからないことだらけだ。さっきも聞いたけど、お前はいったいなんなんだ? 変な格好してるけどやっぱり泥棒か? もしもそうなら俺はお前を警察に突き出す」
「ふむ、警察は困る。色々と動きにくくなりそうだからな。そうだな、もしも黙っててくれるというのなら、私のことについて話しても構わないが……どうする?」

 先ほどこの少女は極秘だのなんだの言っていたが、どうやら高貴の対応次第では話してくれるようだ。
 ならば高貴の答えは決まっている。

「……わかった。話せ」

 高貴が取引に応じた。
 このようなわけのわからない状況で、わけのわからない人物が目の前にいるのだから、とにかく今は情報がほしかったのだろう。
 話を聞いてもしも危険だと判断した場合は、警察に通報するなり逃げるなりすればいいのだから。

「ではまず自己紹介から始めよう。私の名前はエイル・エルルーンだ。この世界で言うと、エイルが名前―――いや、ファーストネームと言ったほうが良いか。エルルーンがファミリーネームというものに値するだろう。ミドルネームはない。よろしく頼む」

 なんだかずいぶんとえとるが多い名前だな。
 高貴の第一印象はそんな感じだった。

「……外人なのか?」
「外人か……正しくもあるが間違っているとも言える。私は人間ではない。別の世界からこの世界にやって来た戦乙女ヴァルキリーだ」
「……はぁ? 人間じゃない?」
「ああ、私はヴァルキリーだよ」

 少女の―――エイルの言葉を聞いて、高貴は10秒ほど止まっていた。あまりに突拍子な言葉に思考が追いついてこなかったからだ。
 10秒立っても理解できなかった。
 今目の前の少女はいったいなんと言っただろう。自分は人間ではない?
 そうは見えない。確かに変わった格好はしているが、明らかに人間にしか見えない。
 しかも日本人には見えなかったが日本語がペラペラ。
 人間の少女に違いない。

「お前な、ふざけんなよ。人間じゃない? どっからどう見ても人間だろうがよ。それになんなんだよそのばるきりーってさ」
「ばるきりーではない、ヴァルキリーだ。この世界の発音だと”は”に濁音をつけた”ば”ではなく、”う”に濁音をつけて、小さな”あ”を付け加え、さらにそれをカタカナ表記にした”ヴァ”と書いてヴァルキリーだ」
「そこはどうでもいーよ! そのヴァルキリーとか別の世界とかどういうことだって聞いてんだよ!」
「ふむ、ヴァルキリーとは君の世界での警察のようなものだよ。治安を守ったり、市民を守ったりするのが警察なんだろう? ならば似たようなものだ。ただヴァルキリーには世界のバランスを保つという仕事もあってね、ちょっとしたようでこの世界に転移してきたんだよ」
「…………」

 ポカンとして何の言葉も発することが出来ない高貴に向かって、エイルはさらに言葉を続ける。

「私は元々《ヴァルハラ》という国の住人だ。確かこの世界では北欧神話などという名前で伝わっているらしいが知らないか?」
「……知らない」
「そうか、まぁ知らなくても問題はないだろう。ともかくそういうわけで私はこの世界に転移してきたんだよ。そして転移先が君の部屋だったというわけだ。勝手に入ってしまったことは謝ろう。おかげで土足でベットを踏んでしまった」
「……とりあえず降りろ」

 高貴がそう言うとエイルは素直にベットからカーペットの上に降りた。とは言っても靴を履いたままなので、今度はカーペットが汚れるだけだが。
 先ほどまでは少し見上げるように見なければいけなかったが、同じ床に立ってみると、エイルの身長は高貴より少し低い。
 とりあえず情報を整理してみよう。そう考えた高貴はエイルに少し待つように言った。
 つまりエイルは人間ではないらしい。
 他の世界から来たらしい。
 ヴァルキリーらしい。
 以上。

「ってありえねーだろ! なめてんのかテメーは!」
「なめてなどいない! 私は正真正銘のヴァルキリーだ! ちゃんと戦乙女学校も卒業したんだぞ!」
「だったら証拠見せろ証拠! 他の世界から来たとか言ってたけどどうやってきたんだよ! 魔法でも使ったか? もしそうなら魔法の一つでも使ってみろよ!」

 一気に強気になる高貴、それとは逆にエイルは痛いところを突かれたとでも言うような表情になる。

「それは―――この世界の人間の前ではなるべく魔術を使ってはいけないのだ。この世界には魔力は存在するようだが、魔術の類は存在しないらしいからな」

 しばらく悩んだ末に、彼女はそう言った。その言葉で高貴の中でエイルがどのような人物なのか決定されることとなる。
 つまり、エイルは重度の中二病であると高貴は判断したのだ。
 大方そういう設定で遊んでいるか何かだろう。いや、もしかすると頭に何かしらの障害を抱えているのかもしれない。
 だとしたら大変だ。家出少女などより大幅にたちが悪い。そんなやっかいな人間に関るなどゴメンだ。よって、高貴が思うことはただ一つ。
 こいつ、さっさと追い出そう。
 そもそも男子寮に女性がいるだけで大問題なのだから、泥棒でないのならさっさと帰って欲しいのだ。
 月館高貴が何よりも求めるのは平穏な日常。ただでさえそれが今壊されかけているのに、これ以上この少女に関ったらさらに平穏が壊れてしまう。
 辺りを見てみると、幸い何もあらされた形跡はない。つまり泥棒ではないということだ。だとしたらエイルの言っていた通りに、ここで見た物を全て忘れて、さっさと縁を切ったほうがいいに決まっている。

「高貴、どうした? 急に黙ったりして、もしかしてどこか具合でも悪いのか?」

 急に目の前に整った顔立ちの少女が現れる。それは当然のごとくエイルの顔。彼女は高貴を心配そうに見ている。

「ああ、なんでもないよ。ちょっと考えをまとめていただけ。わかったよ、なんだか大変そうだしエイルの事は黙っておく。誰にも言ったりしないよ」
「そうか、それなら良かった。私はてっきりどこか具合でも悪いのではないかと思ってしまったよ。もしくは病気なんじゃないかとな」
「はぁ……病気なのは―――」

 お前のほうだろ。
 その言葉をエイルに言おうとして、高貴の頭に嫌な考えがよぎる。先ほどふと思ったとおり、この少女はもしかすると本当に病気ではないのかという考えに。
 例えば中二病というレベルでもなく。妄想癖があったり、先ほど考えたように精神の障害を持っていて実は病院に入院している患者とかではないだろうか?
 それが何かの拍子で病院を抜け出して、フラフラと出歩きここに来てしまったのだとしたら―――本当にただの中二病よりもたちが悪い。
 かなり低い可能性ではあるが、目の前の少女を見るとその可能性も否定できない。
 もしもそうならすぐにでも警察か病院にでも連れて行かないとまずいだろう。家族なども心配しているはずだ。

「なぁ、エイル……だったよな。お前ってスマホとか携帯電話とか持ってないか?」
「すまほ? よくわからないが持っていない。携帯電話なら知っているが持ってはいないな。通信ならエオーを使えば問題はないからな。ああ、とは言っても魔術なので君の前で使うわけにはいかないが」

 それは問題ない。魔術になど始めから期待していない。
 しかしスマホや携帯がないのは痛い。もしもそれがあれば身元がわかるし、彼女の親とも連絡が取れたかもしれないが、持ってないのでは仕方がない。

「じゃあなにか身元を証明できるものとか持ってないか?」
「ふむ、身元の証明……ああ、身分証というやつか。残念ながら何も持っていない。戦乙女学校の卒業証書は持ち歩くには不便すぎる」

 ダメだ。話がかみ合っているのかすらもわからなくなってきた。これはもはや警察に連れて行って調べてもらうしかないだろう。
 幸いエイルには特徴が多い。青い鎧(本物かはわからないが)の格好に長い銀髪。きっと家族もすぐに見つかるだろう。
 とはいえ先ほど警察はまずいとエイルが言っていたので、警察に連れて行くといっても素直についてくるとは思えない。
 どうするかと高貴が考えていると、エイルのほうから高貴に話しかけてきた。

「そうだ高貴、一応聞いておきたいのだが、私以外のヴァルキリーを見なかったか? 赤い鎧を着ていて、赤い髪をした、私より少し幼い少女だ」
「ヴァルキリーって……お前みたいなのがもう一人いるのか?」
「ああ、私はそいつを追いかけてこの世界にやってきたんだよ。もし見かけていたら教えてほしいのだが」

 赤い鎧に赤い髪。
 もしもそんな人物を見かけたら必ず印象に残るはずだが、生憎高貴の記憶にそんな人物はいない。ここは正直に知らないと答えようとしたが、その言葉を口にする前に、とあるアイデアが高貴の頭に浮かんだ。
 もしもここで知っていると嘘をつけば、エイルはきっとついてきてくれるだろう。そうなればあとは警察の元に案内するのもたやすいことだ。

「えっと……知ってる……かもしれない」
「本当か!」

 高貴の言葉にエイルが強く反応し顔を高貴に近づけてきた。

「ちょっ、近い近い近い! 何となく見たかもしれないってだけだよ! お前みたいな変な―――変わった格好した奴がいたような気がするってだけだ!」
「十分だ。それでどのあたりで見かけたんだ? できれば場所を教えてもらえると助かる」
「あー……その……口じゃあ説明しづらいし……あ、お前って確かこの世界に来たばっかでここら辺ぜんぜん知らないだろ? だったら俺がそこまで連れて行ってやるよ」
「いいのか? 君は優しい人なのだな。私のことを黙っていてくれるだけではなく、そんなに親切にしてくれるとは」

 高貴の言葉を完全に信じ込んでおり、純粋に感謝しているエイルを見て、高貴の心にほんのわずかな罪悪感が生まれるが、このままにしておくのもまずいだろうという判断を優先させた。
 これで後はエイルを警察にでもつれていけば、あとは向こうでなんとかしてもらえるだろう。 
 幸いまだバイトまでは時間がある。エイルを警察に連れて行ったとしても時間的に問題ない。
 しかし、高貴の頭に新たな問題がよぎった。

「なぁ、お前着替えとか持ってんの?」

 ◇

 扉についている覗き窓から外を見ると、扉の向こうには誰の姿も見えなかった。
 とはいっても覗き窓の視界などたかが知れているので、高貴は耳を澄まして誰もいないことを確認するとゆっくりと扉を開けた。
 響いたのは小さな音のみで、やはり足音などは聞こえてない。

「ふむ、何をコソコソしているんだ高貴。ひょっとして君は何か悪いことでもしているのか?」

 高貴の背後から能天気な声が聞こえてくる。声の主は当然のごとく、高貴がコソコソしなければいけない原因でもある少女だった。

「バカ、静かにしろ。だいたいここは男子寮なんだ。女がいるってだけでも問題になるんだからコソコソするのなんて当然だろ。せっかくなら隣の女子寮に入ってくれればよかったのにさ」

 道路を挟んで向かい側にある学園の女子寮のほうを見ながら高貴が愚痴る。

「ほう、高貴の家は学生寮だったのだな。どうりで高貴以外は誰もいないと思ったよ」

 高貴はもう一度ドアから顔を出し誰もいないことを確認すると、エイルとともにすばやく外に出た。しっかりと鍵をすることも忘れず、急いで階段を下りて寮を出る。
 さて、ここからが勝負どころだ。
 今は午後6時。学生寮から警察署までは歩いて約10分弱。そこにエイルを預けたとして、警察署からバイト先の喫茶店までこれまた10分弱。
 バイトまではあと30分なので十分に間に合う計算だ。
 本来なら自転車で行くのだが、正直エイルと二人乗りはしたくない。
 お金に余裕があるときは、街を走っているバスに乗ってもいいのだが、生憎今は手持ちが心もとないので歩いていくしかない。
 エイルは目立つだろうが、幸い暗くなってきたので、明るいときよりはいささかましだろう。

「それで高貴、右と左のどちらに行くんだ?」
「ああ、左だよ。だいたい10分くらい歩く」

 当然のごとく警察署のあるほう、左側を指差して、二人は並んで歩き始めた。

「それにしても高貴、この格好は必要なのか? 正直言ってかなり暑いんだが」

 エイルがいかにも不満そうに自らの格好を嘆く。今のエイルはロングコートを着ているのだ。
 高貴が冬頃に買った、少し値段が高めの黒いロングコート。小遣いを溜めて買っただけはあって、なかなかに気に入っているそのコートを、今は高貴ではなくエイルが着ている。
 先ほど高貴がエイルに着替えを持っているのかと聞くと、当然のごとくエイルは持ってきていないと答えた。
 いくらなんでも鎧姿のまま連れ歩くのは目立ちすぎてしまうので、仕方なく高貴は自分のお気に入りのコートを引っ張り出しエイルに着せているのだ。
 まぁそのコートからでている足まではさすがに隠せなかったが。
 今の季節は4月。ロングコートを着ていても目立つが、鎧姿よりはましのはず。
 今日は特別暑いわけではないので、多分ギリギリ大丈夫だろうと無理矢理自分を納得させた高貴だが、やはりエイルにとっては暑いらしい。

「我慢しろって。あんな格好で歩いたら目立つだろ。お前がヴァルキリーだってばれたらまずいんじゃないのか? 極秘任務なんだろ?」

 エイルを納得させる為にとは言え、まったく心にもないことを言う。

「それはそうなのだがな。しかしこの国にはコスプレというものがあるのだろう? だったらヴァルキリーのコスプレをしていると言い張れば問題ないようにも思えるぞ。そもそもどんな格好でいようとその者の自由なのだから。裸はまずいだろうがな、たしか公序良俗違反になってしまう」
「一緒に歩いてる俺が嫌なんだよ! 目立つだろ!」

 というよりも公序良俗違反などという言葉を知っているほうが驚きだ。
 あんな格好だったのだから、コスプレという言葉は知っているとしても、簡単なこととは言え法律も知っているとは、中二病にも法律はあるらしい。
 その割には不法侵入などをしていたのだが。

「ふむ、君は目立つのが嫌なのか?」
「ああ、嫌だよ。俺はなるべく平穏に生きたい。普通が一番だ。あ、それと頭につけてるそれもとっとけよ。その位の大きさならコートの中にでも隠せそうだ」

 高貴がエイルの頭についているティアラのようなものを指差す。

「これは一応防具なんだがな。まあいい、君には助けられているし、そのくらいの提案なら呑もうじゃないか」

 そう言うとエイルは右手でそれをはずすと、コートの中にそれを隠す。ついでにコートのフードもかぶせてエイルの頭も隠しておいた。
 エイルの姿もそうだが、その容姿も人目を引くには十分すぎる。長い銀髪に青い瞳の先ほどあんな目に合わされた自分から見ても美しい少女。
 そんな彼女と一緒に歩くというのは、もしもこんな状況でもなかったら恋人のいない高貴にとってはなかなかに嬉しいシチュエーションなのだが、彼女の格好と性格を考えればとても喜べない。
 そこで高貴はおかしなことに気がついた。
 先ほどまでエイルが持っていた槍がなくなっている。あの長さはコートの中に隠すのは不可能なはずだが、今のエイルは何も持っていない手ぶらの状態だ。

「エイル、お前あの槍はどうしたんだ?」
「槍か? あれは異空間に収納できるんだ。ヴァルキリーとして契約した武器だからな。さすがにあれを持って歩いていたらまずいだろう。銃刀法違反になってしまう」

 なんだかずいぶんと現実的な中二病だな。そういいかけた高貴は慌てて口をつぐむ。
 大方部屋にでも置いてきたんだろう。そういえばコートを用意引っ張り出す為に目を離し、次に見たときにはもうもっていなかった気がする。
 自分の部屋は彼女にとって異空間になってしまったらしい。

「どうした高貴、今何かを言いかけなかったか?」
「あ、いや……なんだかずいぶんと法律に詳しいんだなって思ってさ。公序良俗違反とか、銃刀法違反とか。すごいんだなヴァルキリーって」
「それは簡単だよ。この世界に来る前にアンサズのルーンでこの国について学んだんだ。私が日本語を話せるのもその為だ。本来ならばそのアンサズのルーンで君の記憶を奪うのが妥当だったのだが、私はそれは苦手でね。失敗すると全ての記憶の消去してしまうかもしれないから止めたんだ」

 ゾクリと、高貴の背中に寒気が走る。記憶を奪うと言う言葉に対して高貴の頭に浮かんだ光景は、あの槍で頭を思い切り叩かれるという光景。そのあとに頭から血を流して横たわる自分。
 記憶どころか命まで失ってしまうのは間違いないだろう。本当に不得手でよかった。
 あんさずとは危険な魔法のようだ。
 会話が途切れる。幸い人通りは多いほうではないが、やはりコートを着ているのはなかなかに目立つらしく、時々すれ違う人たちはこちらを見ている。
 いや、もしかするとエイルが履いている靴、というよりも具足というものだろうか? それがエイルが歩くたびにガチャガチャと音を立てているからかもしれない。
 目立たないようにとコートを着せているが、どちらにせよあまり効果はなかったようだ。

「それで、君が見たという場所にはあとどのくらいでつくんだ?」
「ああ、あと少しでつく。そいつって知り合いなのか?」
「確かに知り合いだよ。私はそのヴァルキリーを捕まえる為にこちらの世界にやって来た。あ、これも内緒にしておいてくれ。極秘任務なんだ」
「そんな心配しなくても、別に誰にも言ったりしないよ」

 所詮は妄想癖のある中二病のたわごと。だから極秘とか言ってもペラペラと喋ってるんだろう。
 エイルのことをそう認識している高貴にとって、彼女の言葉はその程度のものでしかない。そのもう一人の知り合いとそういう設定で遊んでいるのだろうと位にしか考えない。
 そのまましばらく歩き続けると、ようやく警察署が見えてきた。
 普段はあまり、いや、まったく用事がない場所なだけあって、いつもはただそこにある建物としか認識していなかった高貴だが、そこをゴールとして目指してみると、なかなかの距離を歩いた気がする。
 歩くのがいつもより遅かったのか、10分でつくつもりが15分もかかってしまった。

「高貴、あれはもしかして警察署か?」
「え? あ、本当だ。確かにあれは警察署だ」
 
 エイルが警察署の存在に気づきギクリとしてしまったが、高貴は表情には出さないよう必死でこらえて歩みも止めない。

「本来ならば警察署にはあまり近づきたくはないのだがな……とはいえたとえ相手が国家権力でも私が怯むことなどはありえない。28万8451人の桜の代紋を背負った者達が相手でも、目的の為なら死力を尽くして戦おう」

 お願いだからやめてほしい。
 というよりこいつ他の世界からやってきたとか絶対嘘だ。
 いきなりあばれだしたらどうしよう。
 様々な不安が高貴の頭をよぎるが、今は凶器となりそうな槍も持っていない為大丈夫だろうと判断した。たとえ暴れたとしても一人の少女に警察官が後れを取るとは思えない。
 そのまま歩みを進め、警察署の中にさりげなくエイルを誘導しようと高貴は考え一度足を止めるが、何故かエイルは歩みを止めることなく歩き続けた。

「おい、どこに行くんだよ」

 高貴が呼びかけてもエイルの足は止まらない。仕方なく高貴は小走りでエイルに追いつきその肩を掴んだ。

「おい、待てってばそっちじゃな―――」
「強い魔力を感じたんだ。明らかにこの世界のものではない魔力を」
「はぁ?」

 そういうエイルの表情は先ほどよりも険しいものとなっていた。エイルは少し歩くペースを上げながら口を動かす。

「この世界に魔術は存在しないと私が言ったのを覚えているか? 故にこの世界の全ての人間は自分に魔力があるという認識がない。だからよほど集中しないと魔力を感じることなど出来ない。にもかかわらずはっきりと魔力を感じた。魔術師のいない世界でだ。つまり可能性があるとしたらそれは非現実、この世界に存在しない存在。私が探しているヴァルキリーだよ」
「……あのさ、わけわかんない事言ってないで―――」 

 ピタリと、エイルの足が止まる。慌てて高貴もその歩みを止める。
 エイルが足を止めた先にあったのは広い公園だった。しかし人はおらず、なんだか寂れているような印象を受ける。

「高貴、もしかしてこの公園にはあまり人が寄り付かないんじゃないか?」
「え? まあ確かに。最近都心のほうに新しく公園が出来てさ、そっちのほうか大きいし広いからこっちはもう誰も来ないんじゃないかな」
「そうか……なるほどな」

 エイルがコートのフードを脱いだ。
 そして中にしまっていたティアラを取り出し、先ほどまでと同じように頭につけるとその公園の中に入っていく。
 高貴もそれに続いて公園の中に入っていった。
 公園の中には様々な遊ぶものがある。鉄棒、滑り台、ジャングルジム、砂場。周りには木も生えている。
 滑り台の横を通り公園の中心の位置に二人は歩いていく。

「おい、待てよ。ここにその探してる奴がいるのか? なんでわかるんだよ」
「言っただろう、魔力を感じたんだ。本来ならば魔力で感知されないようにペオースのルーンを使うのが妥当だが、あいつは確かペオースをうまく使えないんだ。だからせめて人目につかないような場所に移動し潜伏しているんだろうな」
「……よくわかんないけど、そいつが見つかったらお前はちゃんと家に帰るのか?」
「ああ、この世界からヴァルハラに帰るよ。元々私はこの世界にいていい存在ではない」
「はぁ、わかったよ。好きにしてくれ」

 どうやら警察に届けるつもりが、本当に探し人のところに連れてきてしまったらしい。しかしそれで大人しく帰るというのなら文句はない。
 それにそのもう一人のほうの中二病の子もほっとくと何かをしでかすような気がしたので、大人しく高貴はエイルに従うことにしたのだ。

(ったく、面倒なことになっちまったなぁ。やっぱりほっとけばよかった)

 高貴が内心そんなことを考えていると、エイルは今更ながらとんでもない一言をさらりと口にしたのだ。

「もっとも、捕まえる前に殺し合いになると思うがな。そろそろ君は逃げたほうがいいぞ」
「え?」

 エイルの言葉を理解する前に、高貴の視界が急に動いた。最初に映ったのは空、次に映ったのはあわてているようなエイルの顔。それと同時に体中に衝撃と痛みが走る。
 その理由は単純だ。高貴はエイルに押し倒されたのだ。

「お、お前! いきなり何を―――」

 その言葉が最後まで発せられる前に、高貴の言葉は目の前をよぎった何かに遮られた。
 もしもエイルが自分を押し倒していなければ、今も自分とエイルがいたであろう場所を、高速で赤い何かが通り過ぎていったのだ。
 高貴にそれが見えたのは一瞬、感じたのはわずかな風とわずかな熱気。暗闇を照らす赤。
 その正体は赤い火の玉。
 まるで爆弾でも爆発したかのような音が響き渡る
 その火の玉は公園の周りに生えている木に直撃し、木に大きな傷跡を残した。
 それだけでは終わらない。その気がだんだんと傾き始める。空へとまっすぐに伸びていたその木は、突如飛来した火の玉により轟音を上げて地面に横たわった。

「高貴! 怪我はないか!?」

 余りの出来事に呆然としている高貴にエイルが声をかけ、彼を立ち上がらせる。しかし高貴はまだ混乱している。状況がまったく整理できていない。
 自分が今見たものが理解できない。

「な、なんだよ今の? 手品か何かか?」
「《ケン》のルーンだ。炎の魔術だよ。まさかいきなり攻撃されるとは思っていなかったよ。すまないな、こうなる前に帰らせるべきだった」
「ま、魔術? まさかお前本当に?」
「《ケン》!」 

 どこかから誰かの声が響いてくる。エイルの声でも高貴の声でもない別の誰かの声。
 寂れた公園に響き渡る少女のような声があたりに響いてくる。

「灰燼と化せ!」

 先ほどと同じ方向から、先ほどよりも大きな炎が高貴に向かって飛んできた。 
 高貴はまだ動けない。思考が現実に追いついてきていない。
 その巨大な炎はなすすべもない高貴を飲み込む―――はずだった。

「高貴っ!」

 エイルの声が響く。先ほどと同じようにエイルは体当たりで高貴の体を弾き飛ばした。
 再び高貴の視界がぶれる。その中で見たものは、巨大な炎がエイルの体を包み込むその瞬間だった。
 響いたのは轟音。
 現れたのは爆炎。
 そして―――不気味なほど真っ黒な黒煙。
 エイルが立っていたその地点は、その黒煙に覆われてしまい何も見えない。
 高貴はしりもちをついたままぼんやりとそこを見ている。そこでようやく高貴の思考が現実に追いついた。

「あ、ああ……なんだよこれ? なんなんだよこれはぁーーーーっ!?」

 思考が現実においていてさえ高貴は状況が理解できない。
 理解できる事実は、自分はエイルに救われたこと。
 そしてエイルはあの炎に飲み込まれたこと。
 その二つだけだ。
 
「うるさいわね、少し黙ってなさいよ」

 突如エイルではない声が聞こえてきて、高貴は反射的にそちらを向いた。
 炎が飛んできたその方向から、一人の少女が歩いてきている。
 エイルと同じような鎧姿。ただし色は赤く、その鎧と同じような赤い色の長髪。
 外見はエイルよりも少し幼い感じがすることから、間違いなくエイルが探していた人物と見て間違いないだろう。

「ねぇあんた、どうしてエイルと一緒にいるわけ? あの生真面目がこの世界で自分から人間に関るわけないし……もしかしてあいつを妄想癖のある中二病とでも勘違いして、警察や病院にでも連れて行こうとしたとか?」
「か、勘違いって……じゃあ、やっぱりあの話って本当に?」

 今まで高貴が信じていなかったこと。
 エイルは別の世界から来たヴァルキリーだということが本当だとしたらこの状況に説明がつく。
 あの木をなぎ倒した炎も、エイルを襲った炎も、他の世界の魔法だというのなら、この滅茶苦茶な状況も納得できる。
 まさにこれが―――非現実だ。

「まぁ死ななくて良かったじゃない。エイルに感謝しときなさい」
「はっ! そうだ、あいつ! あんなもん食らったんじゃ―――」
「はぁ、納得したくないけど、あの程度じゃくたばんないでしょあいつは」
「《ハガル》―――!」

 透き通った声が、黒煙の中から響いてきた。
 同時に、あたりに急に風が渦巻く。
 黒煙の中心から外側に向けて風は勢いよく吹き、その黒煙を勢いよく吹き飛ばした。
 風圧で目を閉じた高貴が再び目を開けたとき、黒煙は完全に晴れ、そこに立っていたのは一人の少女
 もはや疑いようがない、先ほど彼女が言ったことは全て真実。
 目の前にいる彼女は中二病などではなく、精神に障害を持つものでもない。
 まさしくフィクションの世界にしか存在しないであろう異世界の住人。青い鎧をその身に纏った美しきヴァルキリー。

「いい加減に鬱陶しかったから吹き飛ばさせてもらったよ。久しぶりだなヒルド」

 エイル・エルルーンがそこには立っていた。


 薄暗い公園の中にいる人物は三人。
 一人は立ち上がることも出来ずにいる少年。
 一人は真紅の鎧を身に纏いし少女。
 最後の一人は青い鎧をその身に纏いし少女。
 先ほどまでは赤い鎧の少女が場の空気を支配していたが、黒煙の中から青い鎧の少女が現れたことにより、さらに空気が変わった。
 しばらく沈黙が続いていた中で一番最初に口を開いたのは、青い鎧の少女―――エイル・エルルーン。

「こちらの世界に転移してきてからまだ一日とたってはいないが、もうお前を見つけられたことを幸運に思うよヒルド」

 クスリと笑いながら外見上は友好的に話しかけるエイル。しかしその瞳の奥の本心はあっさりと読み取れた。
 絶対にお前を逃がさない。
 エイルの瞳はそう語っている。それを見た赤い少女は不適に笑う。

「あたしは最悪ね。せっかくこの世界に来てのびのびしようと思っていた矢先に、突然見飽きた顔がやってきたんだもの。気分的には合コンでいい男が沢山いたのに一人だけさえない知り合いが混じってたって時くらいへこんだわ。あたしのわくわくを返しなさいよ」
 
 軽口を叩いているような二人だが、そこには明らかな敵対の意志がある。
 エイルが一度視線を高貴に戻した。

「高貴、動けるか? 今から戦いになるのだが、君がいるととても危ない。死んでしまうかもしれないぞ?」
「いや……つーかお前大丈夫なのか? あいつが探してた奴なのか? さっきの火はいったい―――」
「落ち着け高貴。混乱するのはわかるが、そうも一度に質問に答えられない」

 エイルにたしなめられ、何とか気を落ち着けようと高貴は深呼吸を繰り返した。

「一つずつ質問に答えようか。まず私は大丈夫だ、あの程度の魔術でやられるほどやわではない。次に彼女が私の探していたヴァルキリーのヒルドだ」
「ちょっと、勝手に人の名前教えてるんじゃないわよ。プライバシーの侵害で訴えるわよ」

 どこまで本気かわからないその言葉を無視して、エイルは言葉を続ける。

「最後にあの炎はさっきも言ったがルーン魔術だよ。ヴァルハラでもっとも普及している魔術型式だ。さて、質問は以上だったな」

 ゆったりとした動作でエイルが右手を開いて前に出す。

「わくわくを返せと言ったなヒルド。安心しろ、私がお前を連れて帰ればすぐに罰が下るだろう。その内容をわくわくしながら考えればいい。だから大人しくつかまってくれ―――来い、契約の槍!」

 エイルの右手に白い光が集い始める。その光をエイルが握り締めると、そこには先ほどエイルが持っていたランスが握られていた。
 何も知らない高貴にさえ理解できる。体勢をわずかに低くし、ランスを構えたその姿こそが、エイルの戦闘態勢であることを。
 それを見たヒルドもすぐさま右手を前に伸ばした。

「言っとくけど、あたしは大人しく帰る気なんてないわよ。せいぜい自由を謳歌させてもらうわ―――来なさい、契約の剣!」

 ヒルドの右手にも白い光が集い、それを握った瞬間、その手には両刃の片手剣が握られていた。
 それを携え、ヒルドも戦闘の態勢をとる。
 あたりに静寂がやってくる。言葉などもうかわす必要はない。あとは互いに力と力でぶつかるのみ。
 一瞬だけ―――本当に一瞬だけエイルの視線がヒルドから高貴に移る。
 その視線が再びヒルドに戻った瞬間、エイルの足が地面を勢いよく蹴った。
 エイルとヒルドの距離は約20メートル。ランスを携え一直線にヒルドに突っ込んでいく。
 速い。
 エイルの動きは今まで高貴が見たことのあるどんな人間よりも速かった。
 陸上部のクラウチングスタートのダッシュなど比ではない。エイルがたった数歩進んだだけで高貴はそれを理解できた。
 疾風の如くエイルはヒルドとの距離を詰めてく。
 エイルがヒルドに突っ込んでいった理由は二つある。
 一つは戦えない高貴から少しでも離れる為。
 まだ動くことが出来ない高貴の近くで戦うよりも、少しでも離れた所で戦ったほうがいいと判断した。
 もう一つは、エイルは待つよりも自分から行くほうが性に合うためだ。
 一気にトップスピードに乗り、ランスを正面のヒルドに向けてエイルは突っ込んだ。
 いくら鎧を着ているとはいえ、少女の体などやすやすと貫通しそうなその一撃。
 ランスがヒルドに当たる瞬間に、ヒルドは体をわずかに右にずらしてそれを回避する。
 二人の体がすれ違う。交差する視線と視線。
 攻撃がはずれ、エイルはヒルドに背中を向けたような状態になってしまった。

「背中ががら空き!」

 その隙を今度はヒルドが逃がさない。
 その無防備な背中に近づき背後から斬りかかる。
 しかしそんなことはエイルにとっては想定内だ。ヒルドの姿を確認もせず、思い切りランスで背後を薙ぎ払う。
 ヒルドの前進は止まりランスは空を斬ったが、エイルはすかさず自ら間合いを詰めてヒルドに斬りかかった。
 それをヒルドは剣で受け止め、すぐさま反撃を返す。
 鳴り響く鋭い金属音。武器と武器がぶつかる度に火花が散る。
 連続して振るわれるその斬撃を、エイルは手に持つランスで全て防いでいた。
 ヒルドの振るう剣の速度はもはや常人の目に映るものではない。しかしエイルはその高速の剣を全て完璧に見切っている。
 はたから見ればエイルの防戦一方で追い込まれているが事実は逆なのだ。

「このっ! 相変わらず防ぐのだけはうまいわね!」
「お前が私に剣技で勝てたことがあったか? それに―――武器だけに気を取られるのも悪い癖だ!」

 エイルがヒルドの剣を受け止めた瞬間、エイルの右足が動いた。
 動きが止まった一瞬に繰り出されたその右の回し蹴りは、ヒルドの脇腹に入り彼女を吹き飛ばす。
 僅かに声を漏らして吹き飛んだヒルドだが、すぐさま体勢を立て直すと肩膝をついたまま左手を眼前に掲げる。
 人差し指と中指を伸ばすと、その指には赤い光がかすかに灯った。

「このっ、《ケン》!」

 ヒルドの左手が高速で動き、空中に赤い軌跡が走る。空中刻まれたのは《ケン》のルーン。
 するとまるでライターの火でもつけたかのように、自然にヒルドの左手に炎が集いだす。
 炎の創造。 
 それこそが炎を象徴するルーンである《ケン》の力なのだ。
 エイルは慌てることはない。ゆったりとした動作で左手を眼前に構え指を伸ばす。
 するとその指に青い光が灯りだした。

「バカの一つ覚えだな。《ソーン》」

 空中に走る青い軌跡。エイルによって描かれる《ソーン》のルーン。
 ばちっ、とエイルの左手に紫電が走る。ほとばしる魔力は雷光となって世界に具現した。
 雷の戦神トールの意味を持つソーンのルーンで、エイルは雷を創り出したのだ。
 かたや雷、かたや炎。
 種も仕掛けも何一つない、異世界の住人にしか使えないであろう奇跡の業。
 辺りを照らす二つの奇跡。互いに狙うは眼前のヴァルキリー。
 その二人のヴァルキリーの左腕が同時に動いた。

「翔けろ雷刃!」
「爆ぜろ豪炎!」

 声が発せられたのはまったく同時。そして雷刃と豪炎が、雷の刃と炎の弾が放たれたのもまったく同じタイミング。
 放たれたそれは、二人の左手に纏われていたときよりもかなり大きい。まるで枷をはずされた獣のように互いの目標に向かって襲い掛かる。
 エイルとヒルドの中心地点でその二つは激しくぶつかり合った。せめぎ合う雷と炎の衝撃が三人まで届く。

「う、うわああああ!」

 そのあまりの衝撃の余波に高貴が悲鳴を上げるが、その叫び声は魔術がせめぎ合う音にかき消された。
 ヒルドの放ったそれは、はじめの奇襲よりも遥かに強力な炎だったが、エイルの雷も決してそれに負けていない。
 拮抗しあう二つの力はほぼ互角。互いに徐々にその勢いを失っていく。
 しかし、二人のヴァルキリーはすでに次の行動を起こし始めていた。力を失っていく魔術を見るや否や、すぐさま左手を眼前に掲げる。

「《ソーン》、《テュール》!」
「《ケン》、《テュール》!」

 エイルとヒルドの左手が再び動いた。先ほどと同じように中空に舞う赤と青の軌跡。
 しかし決定的に違うのは、二人ともルーンを二つ描いたということだ。
 先ほど自身が描いた雷と炎のルーン以外に、テュールのルーンを同時に描いた。
 それは勝利を意味するルーンであり、自身の魔術を強化する働きがあるルーン。
 故に、先ほどの雷と炎よりもさらに強力な魔術となることは必然である。

「バインドルーン・デュオ!」
「バインドルーン・デュオ!」

 その言葉が鍵となったのか、二つの文字が一つに重なり、一つに溶け合う。
 先ほど放った魔術が相殺し弾け飛んだその瞬間に、エイルとヒルドの互いの左腕で魔力が弾けた。
 世界に具現化する雷と炎。交差する視線と視線。互いに向かって伸ばされる左腕。
 はたから見ている高貴にも、あれはやばいとはっきり感じ取れる。
 もしかするとこの二人のせいで世界そのものが壊れてしまうのではないか。そんな非現実的なことさえ頭に浮かんだ。
 そんな高貴の考えなど気にもせずに、二人のヴァルキリーは同時に動いた。

「響き渡れ《迅雷の咆哮ヴォルトロアー》!」
「その身を焦がせ《焔の鉄槌フレイムハンマー》!」

 エイルは雷を、ヒルドは炎を、再び互いの奇跡が具現化した。
 雷鳴を轟かせながら進む雷。
 熱気を振り撒きながら進む炎。
 雷と炎は先ほどと同じ場所で先ほどと同じように、そして先ほど以上の衝撃で衝突した。
 耳を劈くような轟音。それはまるで空間自体の悲鳴のよう。
 そして肌を焼き尽くすかのような、あらゆる全てを吹き飛ばすような衝撃の余波。
 それにより今度こそ高貴は叫び声を上げる暇もなく吹き飛ばされる。
 十メートルほど吹き飛ばされて何とか顔を上げると、視線の先にはせめぎ合う二つの魔術。

「はあああああああ!!」
「やあああああああ!!」

 互いの魔術の勢いは相殺して弱まっていくどころか、二人の叫びに応じるかのごとくますます勢いを増していく。
 弾ける。
 高貴がそう思った直後に、雷と炎は大きく弾けた。
 轟音が消え去り、あたりに静寂が帰ってくる。
 魔術がぶつかり合った場所の地面には、大きな焦げ跡と傷跡が出来ており、先ほどの魔術の凄まじさを物語っていた。
 しかし、まだ何も終わっていない。
 エイルとヒルドが同時に地面を蹴り、魔術で出来た傷跡の上で衝突、そのまま斬り結び始める。
 静寂が訪れたのは本当に一瞬のみ、鋭い金属音があたりに何度も木霊する。

「いい加減に投降しろ! このまま続けたとしてもお前では私に勝つことは出来ない。それに私たちは本来この世界にいるべきではない存在なんだぞ!」
「冗談じゃないわ! あたしがどうしようと勝手でしょ! あたしの生き方や実力を貴女なんかに決められる筋合いはありません! 羽目をはずして自由を謳歌するくらいいいでしょうが!」
「自由がほしいと思うのは確かにお前の自由だ。しかし―――《神器》を持ち歩くのはやりすぎだ。あれは個人が所有するには大きすぎる力を持っている!」

 エイルが連続で突きを繰り出す。ヒルドは初撃を剣でいなし、バックステップで距離をとった。

「お前にもわかっているはずだ! 《神器》の力の強大さを。そして魔術の存在しないこの世界での《神器》の危険性を。世界のバランスが大きく崩れてしまうかもしれないんだぞ!」
「そんなの……あたしが知るかーーーー!!」

 ヒルドの左手が動いた。《ケン》のルーンが赤い軌跡で刻まれる。

「無駄だヒルド。お前のルーンでは―――」

 エイルの言葉が途中で途切れた。その理由は至極単純だ。
 ヒルドは炎を纏った左腕をエイルにではなく高貴に向かって伸ばしている。
 エイルやヒルドとは違い、高貴は完全な一般人。
 そんな存在がヴァルキリーのルーンをその身に受けてしまえばどうなるかはたやすく想像できる。
 行き着く先は死あるのみだ。

「ちょ、ま、まさか―――」
「爆ぜろ豪炎!」

 赤き焔、その奇跡の業が、無力な少年に向かって放たれた。


 高貴の言葉を遮ってヒルドがルーンを放った。
 かわそうにもかわす事など出来るはずはない。
 月館高貴はただの平凡な少年。魔術に対抗するすべなどもっているはずがないのだから。
 ただその炎を見ていることしか高貴にはできない。
 ここで自分は死んでしまうのか?
 こんなわけのわからないことに巻き込めれて死んでしまうのか?
 嫌だ……そんなのは嫌だ。
 今目の前に起きている現実を否定するように高貴は目を閉じた。
 今ここで、無力な少年の命が炎に飲みこまれる。

「《エイワズ》!」

 ―――はずだった。
 高貴は助かる方法は持っていなくとも、高貴を助けようとするものは存在する。
 せまりくる炎から高貴の前に立ちはだかった人物―――エイルがルーンを刻んだ。
 ヒルドが高貴に狙いをつけた瞬間から、エイルは高貴に向かって走っていたのだ。
 自分が巻き込んでしまった少年。
 本来ならばこのような危険とは無縁だったはずの少年。
 死の問いかけに対して否定の意思を示した少年。
 そんな高貴を死なせるわけにはいかない。

「我が身を守れ!」

 エイルが左手を前に伸ばすと、そこには青い光の壁のようなものが現れる。
 その光の壁が炎のルーンを正面から受け止めた。

「はああああああ!」

 青き壁は壊れない。
 防御のルーン《エイワズ》によって作られたそれは、簡単に言ってしまえば攻撃から身を守るバリアだ。
 エイルを、そして高貴を守るその壁は、炎をその身に受けてもものともしないほどの強度を持っていた。
 やがて炎が力尽き、その存在を完全に消滅させる。それを確認したエイルも《エイワズ》の壁を消し去った。
 再び訪れる静寂。
 それは今度は一瞬では終わることはなく、戦いが終わったことを意味していた。
 高貴が恐る恐る目を開けると、そこには自分に背を向けて立っているエイルの後姿。
 先ほどと同じようにエイルに助けてもらったということはすぐに理解できた。
 エイルは手に持っていた槍を消し去ると、振り向き高貴に話しかける。

「高貴、怪我はないか? 一応魔術は防いだんだが、さっき吹き飛ばされていただろう。どこか打ったとかは大丈夫か?」
 そう言うとエイルは、しゃがんで高貴の体をぺたぺたとさわり始めた。
 それが恥ずかしく思えたのか、高貴は慌ててその手を払う。

「だ、大丈夫だよ! どこも怪我してない。それよりさっきの奴はどうしたんだ?」
「ふむ、逃げられてしまったようだ」

 エイルが先ほどまでヒルドがいた場所に視線を移す。そこにはもう誰も残っておらずエイルの言ったようにヒルドが撤退したことを意味していた。

「ヒルドも本気で君を殺すつもりはなかったんだろうな。私が君を守れるタイミングと威力で炎を放ったように思えるよ。最初から逃げる為に君を利用したんだろう。とはいえ本当にすまなかった。ヒルドと会うということは戦闘になるのはわかりきっていたはずなのだから、君は早く帰らせるべきだったよ。重ね重ねになるが本当にすまなかった」

 そう言うなりエイルは頭を下げる。

「ま、待てよ! 別にいいって! むしろお前は命の恩人なんだからさ。あの炎から守ってくれなかったら俺は死んでたわけだし」

 それに高貴がエイルの言葉を信じてさえいればここまで危険な目にはあわなかっただろう。
 エイルの言うことをありえないと全否定してしまった自分にも少なからず非があるのは確かなのだから。
 なのにそこまで謝られると居心地が悪い。

「それともう一つ、君に謝らなければいけないことがある」

 そういうなりエイルは立ち上がり歩き出した。
 高貴が覚えている限りでは、確か最初に炎を受けた場所までエイルは歩き、何かを拾って再び歩いてくる。
 エイルがだんだんと近づいてくるたびに、彼女が手に持っているそれがなんなのかはっきりと理解できてきた。
 戻ってきたエイルの手にあったのは、ボロボロの無残な姿になった高貴のコート。
 ところどころ穴が開き、黒い色の上からでもわかるくらいにはっきりと焦げ跡がいくつもついている。
 さらに下半分ほどはなくなっており、もはやロングコートとは呼べない代物へと変貌していた。

「その……防御はしたんだがな。少し間に合わなかったというかだな。……せっかく貸してもらったのにすまない」

 エイルはかなり申し訳なさそうな表情だ。
 小遣いの大半を吹き飛ばして購入したコートなだけにさすがにショックは大きいが、エイルには命を助けてもらったのだから文句は言えない。
 高貴はそう自分に言い聞かせて無理矢理納得させることにした。

「あはは……ま、まぁ気にすんなよ。エイルが無事でよかったし……うん」

 そう言ってコートを受け取る高貴、しかしやはり残念な気分は消えることはなかった。

「しかし困ったことになってしまったな。ヒルドがどこに行ったのか皆目見当もつかない。このままでは逃げられてしまう可能性もあるし、なにより放っておくと危険だ」
「危険って……もしかしてあいつそこらの人を襲ったりするのか?」

 高貴が頭にすぐ浮かんだ最悪の可能性を言葉にした。
 あのような危険な少女に襲われたのであれば、普通の人間にはどうしようもない。

「ふむ、それはないだろうな。ヒルドがこちらの世界の人間を襲う理由が見つからない。彼女は元々殺しを楽しむような性格ではないし、君に向かって炎を放ったのも自分が逃げる為であって命を奪う為ではなかった。危険というのは他の世界に逃げられてしまうかもしれないということさ。今はまだ出来はしないだろうが、しばらくすればその可能性がある」
「今は出来ないってなんでなんだ?」
「ふむ、それはだな―――」

 エイルの言葉はそれ以上続くことはなかった。
 突如エイルの目の前に現れた光によって、エイルの言葉は遮られたからだ。
 その光は先ほどエイルとヒルドが宙に刻んでいた文字のようで、エイルの書いていた文字よりも深い青色で《ᛖ》の形をしていた。
 アルファベットのMにそっくりだが、やはりどこか違うように見えるその文字。
 また危ない魔術かもしれないと判断した高貴はとっさに一歩後ろに下がる。
 エイルがその文字に右手で軽く触れると、その文字は光の雫となって弾けて消える。

「聞こえるエイル? それとそこの人間君」

 それと同時に、どこかから女性の声が聞こえてきた。

「え? な、何だよこれ?」

 その言葉は耳から入ってきている感じはなく、まるで頭の中に直接響いてきているかのようにも思える。
 混乱している高貴をエイルは慌ててたしなめた。

「落ち着け高貴、これは《エオー》のルーンだ。君達のもつ携帯電話と同じようなものだと思えばいい。私が君の部屋で使っていたものと同じだよ」

 そういえばエイルを初めて見たときに誰かと会話をしていたことを高貴は思い出した。どうやらそれを自分は体験しているらしい。

「とりあえずヒルドには逃げられちゃったみたいね。けどまぁその内また見つかるだろうからそれはいいわ。それにしても人間君、君は災難だったわね。いきなりこんなことに巻き込まれちゃったんだもの。エイル、あなたの責任よ」
「本当にすまなかった。どんな非礼でも受けよう」

 再び頭を下げてくるエイルを高貴は慌ててせいした。

「さて、こうなってしまったからには色々と準備が必要ね。エイルはこれから私が指定する場所に向かって。そこで今後の指示をまた伝えるから。次に人間君だけど……まぁいいわ、今日のことは綺麗さっぱり忘れなさいな。君だってもうこんなことに巻き込まれたくないし関りたくないでしょ?」
「忘れるって……」

 そんなことはもちろんできるはずがない。
 月館高貴という少年にとって間違いなく今日という日は人生で一番衝撃的だった日だ。
 そんなことを忘れろといわれて忘れられるはずがない。
 しかし、もう巻き込まれたくないと思っているのもまた事実。
 勘違いしていたとはいえ、半ば自分から首を突っ込んでしまったようなものであり、エイルに命を助けてもらっておいて言うのもなんだが、できることならばこんなことはもう避けたい
 忘れることは不可能だとしても、関るなというのならばそれに越したことはない。

「……わかりました。なんとか忘れられるように努力します」
「うん、いい子いい子。お姉さんは嬉しいわ。今日のことは誰にも言わないでね。別に言ってもいいけど貴方が痛い人を見るときの目で見られるだろうからお勧めしないわ。これ以上あなたに関るようなことは多分ないと思うから安心して。じゃあエイル、早速だけどあなたは即行動よ。とりあえず今来た道を戻って」
「了解した」

 エイルはそう返事を返すと高貴に向き直った。

「ではな高貴、本当に世話になった。本来誰とも接してはいけない任務だったにもかかわらずこんなことを言うのは間違っているが、君に会えて本当によかったよ」

 最初に自分に向かって死んでくれと言ったときと同じような笑顔でエイルが言った。
 あの時とは状況が違う今、そうはっきりといわれると高貴としてもさすがに照れくさい。

「いや……そんな……」

 もじもじとそう返すのが高貴の精一杯だった。

「さよならだ高貴。アルバイト頑張ってくれ」

 そう言い残すとエイルは入ってきた公園の入り口へ小走りに向かって行った。
 その入り口から出て右に曲がった所で、もうエイルの姿は見えなくなってしまった。
 取り残されたのは高貴一人のみ。先ほどまではあれだけ騒がしかった公園も、今は完全に静寂に満ちている。

「はぁ……なんつーか……夢じゃないんだよな今の。地面は焦げてるし、コートはボロボロだし」

 現実の痕跡は高貴の周りに確かに残っている。どれだけ信じられないことだろうと、今起きたことは現実以外にありえない。
 なんだか台風のような少女だった。
 突然現れてあっさりと去っていったあたりはまさにそのものだ。
 それに振り回された今の自分はいつもの何倍も疲れている。さっさと帰って風呂にでも入って寝よう。
 そう思って歩き出したときに、高貴はエイルが最後に言った言葉を思い出した。
 そしてすぐさまスマホを取り出して今の時刻を確認する。

―――午後6時25分

 高貴のバイトが始まる5分前。
 バイト先までは歩いて10分。

「……やば! 完全に遅刻じゃねーか!」

 高貴は重い足を無理矢理動かして走り出した。

 ◇

 7分。
 それが公園からバイト先まで高貴がかかった時間だった。
 つまりは6時30分からのバイトのはずが2分遅刻してしまったのだ。
 急いでいるときに限って、この辺りで一番長い信号につかまり、さらにはやはり信じられないことを目の前にしたせいか足が重かったりで、かなり時間がかかってしまっていた。
 本来ならばすぐに入りたかった高貴だが、全力で走って疲れていたため、ドアの前でしばらく呼吸を整える。
 同時に高貴はバイトをしている喫茶店、《マイペース》になんといって入ろうかと悩んでいた。
 と言うのも、今まで高貴は遅刻というものをしたことがない。どんなに遅くとも、バイトが始まる5分前にはマイペースについている。
 故に、店に入ったときの第一声をどうするのかを悩んでいた。
 何事もなかったように店に入り、何事もなかったようにバイトをするか。しかしこれは色々と間違っているような気がする。
 このまま適当に理由をつけてサボるか。ここまで来てそれはないだろうし、なによりマスターに迷惑はかけたくはない。
 とするとやはり、ここは素直に遅れてしまったことを謝るしかないだろう。そうするのが人として一番正しいあり方のような気がする。
 元々マスターは温厚な人だ。誠意を持って謝れば軽い注意くらいで許してもらえるかもしれない。
 そう決心した高貴はマイペースのドアを開けた。
 カランカランとドアについているベルが鳴るのを耳に、高貴はマイペースの中へと入った。

「4分遅刻。罰として今月の給料は無し」

  世界が凍りついた。
 まるでさっきの二人が氷の魔法でも使ったのではないかと思うくらい、そのたった一言で高貴の世界が凍りついた。
 ドアの前には(お客もここから入ってくるのに)一人の少女が立っていて、高貴が店に入ってきた瞬間に先ほどの氷の一言を浴びせかけたのだ。
 エイルと同じくらいの身長、髪はショートカットで活発そうな印象を受けるが……それ以上に今の彼女は、その鋭い眼光で凶暴そうな印象を人に与えることが出来るはずだ。
 まぁ、実際その通りなのだが。
 冷徹な一言とは違い、その少女の表情は怒りに染まっており、高貴は先ほどと同等以上の恐怖に駆られる。
 4分と言うことは、ドアの前で2分ほど迷っていたということだろう。

「いや……その……すいませんでした。でもさ真澄、さすがに給料無しってのはどうかとおもうんだけど」

 高貴がそう言っても目の前の少女、弓塚真澄ゆみづかますみは表情を崩さなかった。
 真澄は高貴と同じくマイペースでバイトをしている少女だ。と言うよりも、通っている学校もずっと同じで、いわゆる幼馴染と言う間柄となる。
 故に高貴は一度怒ってしまった真澄はなかなか機嫌が直らないということを知っているのだ。
 この前機嫌を損ねてしまったときは、ケーキをおごることでなんとかなったが、体重が増えてしまったとか文句を言われて結局また機嫌が悪くなっていた。
 もしまた食料を要求された場合は、低カロリーな物を与えなくては。
 とはいえ今回は主に謝る相手は真澄ではなくマスターだ。真澄に高貴の給料をどうこうする権限はないのだから。

「なに言ってんのこのバカ。遅刻するような奴に払うお金なんてないよ。そうですよね詩織さん」

 真澄はやはり不機嫌そうな表情のまま振り向き、カウンターに立っている女性に声をかけた。
 長い髪を首の後ろで結い、清楚な感じを漂わせたその女性は、大人のお姉さんと言う表現がとてもしっくり来る人物。
 そんな人物こそが、マイペースの店主である加賀美詩織かがみしおりだ。
 詩織はコーヒーを淹れていた手を一度止め、少しばかり苦笑した。

「真澄ちゃん、確かに高貴君が遅刻だなんて珍しいことだけど、いくらなんでも給料無しは言いすぎよ」
「甘いですよ詩織さん。そんなこと言ってると、こいつその内堂々とサボりだすに決まってます。もっと厳しく行かないと。と言うわけで今月分の高貴の給料はわたしがもらいます」
「ふざけんなっつーの! 確かに遅刻したのは悪かったけど、お前に給料全部取られてたまるかよ!」
「だったらちゃんと働け! ……ってあんた、なんでそんなボロボロの布持ってんの?」

 真澄の視線が高貴の持っている(変わり果てた)コートに向いた。反射的にそれを隠してしまう高貴。
 先ほどエイルとヒルドの戦いでボロボロになってしまったコートだが、何となく捨てることが出来ずに持ってきてしまったのだ。
 お気に入りのコートだっただけに、ボロ布呼ばわりされるのは少々辛い。

「いや……まぁ気にすんなって」
「なによ、そんな言い方されたら気になるじゃない。さっさと言いなさい」
「なんでもないって。あんまりしつこいと皺が増えるぞ」
「うるっさいこのバカ!!」

 怒声とともに真澄が高貴の顔目掛けて何かを投げつけてきた。至近距離だったので高貴はかわす事も出来ずにそれを顔で受け止める。
 投げつけられたのは、高貴がバイト中にいつも身につけているマイペースのエプロンだった。
 マイペースには仕事服というものは存在せず、このエプロンをつけて仕事をする。
 つまり私服だろうと学制服だろうと、その上にエプロンさえつければ問題ない。
 それをぶつけて真澄は高貴から離れていったので、高貴は文句を言うことも出来ずにそれを身に着ける。
 店内には客が少なく、ボックス席に2組、カウンターには客はいない。
 あまり忙しいとは言えない状況ではあるが、遅れたことを謝罪する為に高貴は詩織の元へと向かった。

「あの……詩織さん、バイトに送れてしまってすいませんでした」

 頭を下げる高貴だが、それを詩織は軽く制した。

「気にしないでいいわよ。今はそんなに忙しくないし、遅れたといってもほんの数分だもの。それに高貴君が遅刻だなんて確か始めてのことだから、珍しいものが見れて少し得した気分よ」 
「あはは……とりあえずもう遅刻しないように気をつけます」

 バイト仲間とは違い、マスターはすぐに許してくれたようだ。
 真澄に視線を向けると一度目があったが、すぐにそらされてしまった。

「なんか真澄の奴は相当機嫌悪かったみたいですけど……さっきまでは忙しかったんですか?」
「違うわよ。真澄ちゃんは高貴君を心配してたの。高貴君が遅刻だなんて今までなかったから、もしかしたら事故にでもあったんじゃないかってさっきまでオロオロして―――」
「し、詩織さん! 何言ってるんですか!」

 客の注文を受けて戻ってきた真澄が、詩織の言葉を遮るように勢いよくカウンターにオーダーを置いた。

「あら、ごめんなさいね。カフェオレ一つ、今準備するわ」

 クスリとからかうように笑って、オーダーを見た詩織がコーヒーを淹れ始める。
 取り残されたの若者二人のうち、顔を少し赤くした一人がなにやら慌てて叫んだ。

「か、勘違いしないでよね! わたしは別に心配なんかしてないんだから! ただいつも来る時間に来ないから、どこで油売ってるのかなって気になっただけ! わかった!?」
「わ、わかったよ。だから落ち着けって」

 なぜかいささか興奮している真澄をどうにかなだめる高貴。
 付き合いの長い高貴には何となくわかる。真澄はきっと本当に自分のことを心配してくれたのだろう。
 しかしここで礼を言ってしまうとまたすねてしまうかもしれないので、高貴はそれを言うことはない。
 しばらくして詩織がコーヒーを淹れ終わったので、高貴がそれを客の所まで持っていった。
 お待たせしました、と言ってちゃんと失礼のないように差し出したのだが、帰ってきたのは一つの舌打ち。
 あとはあからさまに残念そうな表情。
 おそらくは真澄に持ってきてもらえることを期待したのだろう。その証拠に視線がコーヒーではなく真澄のほうを向いている。
 マイペースには詩織や真澄目当てで来る客も多いので、高貴にとっては初めての経験ではないのだが、ここまではっきりとした態度で示されるとさすがにへこむ。
 しかもその客は男ではなく女だったのだからよけいに怖い。
 ごゆっくりどうぞ、と言う言葉を残して、早々に高貴はそこから立ち去った。

「詩織さん、今のでオーダーアップです」
「そうみたいね、じゃあ私達もコーヒーでも飲みましょうか」

 そう言うと詩織は、鼻歌交じりで高貴と真澄のコーヒーを淹れはじめた。
 マイペースは基本的に客でいっぱいになるということはない。都心からわずかに離れているし、その都心にいくつも喫茶店があるからだ。
 元々は詩織の両親が会社を退職したあとに、セカンドライフとして始めたのが喫茶店マイペースであり、詩織の両親からしてみれば道楽のようなものだったと言う。それを詩織が受け継いで続けている。
 というよりも、詩織は元々パティシエになりたかったらしく、両親から受け継いだあとのマイペースは、ほとんどケーキ屋といっても差し支えはない。
 ケーキのみのお持ち帰りの客がほとんどで、なおかつ昼間時が客のピークなので、この時間帯はほとんど人がいないのだ。

「あの、詩織さん。俺いつも思うんですけど、バイトするときって俺か真澄のどちらか片方だけでもよくないですか? こう言っちゃなんですけど、マイペースはあまり客が来ないし、元々詩織さん一人でも十分回せると思うんです」
「なにあんた、もしかして働くのが嫌になったわけ? ならさっさとやめたら?」
「違うよ、雇ってもらってる詩織さんには感謝してるけど、詩織さんはバイト代とかきつくないのかなって思ったんだ。それに俺たち対して役にも立ってないのにバイト代もらうってのもなんかさぁ」

 高貴の言葉に真澄の言葉が止まった。おそらくは真澄も気にしてたことがあるからだろう。気まずそうな顔をしている二人に、詩織がクスリと笑いながらコーヒーを差し出す。

「まぁ、確かにお店は私一人でも大丈夫ね。実際に二人が学校に行っている時は私一人でやっているわけだし、お客さんでいっぱいになるっていうこともあまりないから」
「じゃあどうしてわたしたちの事雇ってくれてるんですか」
「そんなの決まってるじゃない。私一人なんて寂しいもの。二人がいてくれないと耐えられないわ」

 この人って友達いないんだろうか?
 そんなことを考えた高貴だったが、さすがに失礼と思いその言葉を飲み込んだ。
 まぁ確かに、高貴と真澄の主な仕事内容といえば、詩織の話し相手になることかもしれない。詩織は二人の学校であったことなどの話を聞くのが好きなようだから。

「そういえば高貴君、今日の遅刻の理由はなんなの? 今まで遅刻なんてしてなかった高貴君が、何の理由も無しに遅刻するなんて思えないんだけど」
「そういえば聞いてなかったですね。いったいどこほっつき歩いてたの?」

 二人の言葉に、高貴のコーヒーを飲む手がピタリと止まった。
 そういえば遅刻の理由をどう説明するかまでは考えていなかったのだ。
 まさか正直に言うわけにはいかない。
 家に帰ったら見知らぬヴァルキリーがベットに仁王立ちしてて、中二病か精神障害者かと思って警察に連れて行こうとしたら、そのヴァルキリーが探しているっていうもう一人のヴァルキリーにいきなり攻撃された挙句、その二人の戦いに巻き込まれて遅刻した。
 などとは口が避けてもいえるわけがない。間違いなく痛い人という太鼓判を押され、下手をすれば病院行き。
 あの状況を体験した高貴ですら夢だと思いたい事実(主に二人のヴァルキリーとか)を目にしていない二人が信じられるはずがないだろう。

「あー……別にたいした事なかったんですよ。たまには歩いてこようかと思ったんですが、ゆっくり歩きすぎて遅れてしまっただけです」
「ふーん、じゃああんたがさっきもってきたこれはどう説明するわけ?」

 真澄がいつの間にか手にしていたのは、高貴が持ってきていたボロ布―――もとい、元ロングコート。
 元々黒かったコートだが、焦げのせいでますます黒く見えるそれを、真澄がヒラヒラさせながら高貴を問い詰める。

「あら?、それってなんなの? なんだか焦げ臭いような……というよりも焦げてるわよ」
「これは高貴の冬用のロングコートです。確か去年に小遣いを溜めて買ったとか言って着てましたでも最後に着てたのは三月くらいで、四月にはもう着てなかったよね?」
「お前よくそれがロングコートだってわかったな。それに何でそんなに詳しいんだよ?」
「そ、そんなことはどうでもいいでしょ! 今問題なのは、どうして今このコートがこんなになってるのかってことだよ! あんた最近これ着てなかったでしょ!」

 それを着たヴァルキリーが火の魔法を食らったから、なんて言えるわけねー。
 じゃあなんて言うんだよ。
 そもそも汚れたとかならともかく燃えたとか焦げてるってなんて言えばいーんだよ。
 ダメだ、何も思い浮かばねー。
 これも全部エイルのせいだ。つーかあの火をぶっ放してきた女のせいだ。
 高貴が何とかごまかすいいわけを考えようと、一人で脳内会話をしている間に、真澄と詩織の視線がだんだんとあやしげなものに変わっていく。

「普通はこんなコゲコゲでボロボロになりませんよねぇ、汚れるとかならまだしも」
「そうね、というよりこれって事故で燃えたって言うよりも、燃やしたとか燃やされたって言ったほうがしっくり来るわね。こんなにボロボロだと」
「う……たまたま着たくなって……その……つまり……」
「燃やしちゃったわけ?」
「まさか高貴君……自分で燃やしたんじゃなくて、誰かに燃やされちゃったとか、もしかしていじめられてるの? そういえば格好もどことなく汚れてるような気がするわね」
「ち、違いますよ! いじめられてません!」

 詩織の問いかけに高貴は慌てて否定したが、それはむしろ逆効果だったのかもしれない。自分で燃やさないようなものならば、誰かに燃やされたと考えるのが自然であるからだ。
 実際その通りなわけでもある。
 それに服の汚れについては完全に気が回らなかった。おそらくはエイルに押し倒されたときと、魔法の衝撃で吹き飛ばされたときに汚れたのだろう。

「あんたもしかして本当にいじめられてるの? でも学校ではそんな感じなかったし、そもそもあんた誰かにいじめてもらえるような人間じゃないし」
「今の発言はいじめじゃないのか? とにかく俺はいじめなんて受けてない」
「高貴君、いじめを受けている人は皆同じことを言うのよ。さぁ、お姉さんに話してごらんなさい。何か力になれることがあるかもしれないわ。十人くらいまでならなんとかしてあげるわよ。それ以上だと被害が―――いえ、なんでもないわ」
「何をなんとかしてもらえるんですか? 被害ってなんですか? つまりですね……その……」

 もう本当にダメだ。言い訳なんて思いつくわけがない。でも何か言わないと、いじめを受けていると思われる。
 高貴の頭が真っ白になっていき、口から出て来た言葉は―――

「み、見知らぬ女から火の魔法をくらってコートが燃えちまったんだ!」

 最悪の一言だった。
 よりにもよって事実を言ってしまったのだ。
 それと同時に本日二度目の世界が凍りつく音。自分を冷ややかな視線で見ている二人に気づく。

「ひ、ひのまほう?」
「あ、ああ! なんか指で文字を書いたら火が出てきてさ! もう死ぬかと思ったよ!」

 真澄は軽く引いている。

「み、見知らぬ女って?」
「なんか自分のことを違う世界から来たヴァルキリーって言ってました! 用事があってこの世界に来たとかなんとか!」

 詩織も軽く引いている。

(って何言ってんだ俺! これを言わないようにする為に言い訳を考えてたんだろうが!)

 後悔しようがもはや後の祭り、二人は完全に引いている。
 その視線はかわいそうなものを見るような、はたまたそうではないような視線。

「ち、違うって! 今のはちょっとした冗談だって! つまり―――」
 
 ポン―――と、高貴の右肩を詩織が優しい笑顔で叩いた。

「今日はもういいから、帰って休みなさい」

 ◇

「今日は……散々だった」

 自宅まで強制送還された高貴は、玄関のドアを開けてそんなことをつぶやいた。
 結局自分の誤解は解けず、解こうにしても本当のことを(もう言ってしまったのだが)言うわけにはいかず、とにかく帰りなさいとバイトを切り上げさせられた。
 非現実的なことに巻き込まれて疲れていたので、ありがたいと言えばありがたいのだが、今後のことを考えると素直に喜ぶことも出来ない。
 はぁ、もう今日のことは全部夢だったらいいのに。そうすればこんな悩みとはおさらばなのだから。
 しかし実際はそんなわけにはいかないことをちゃんと高貴は理解している。それに手に持っているボロボロのコートや、カーペットのジュースのシミがキチンと現実だったことを証明している。

「コートは……捨てるしかないよな。ジュースのシミの掃除は……また今度でいいか。とにかく疲れた」

 高貴はコートを床に放り捨て、カーペットのシミを避けて、着替えることもせずにベットの上に寝転んだ。
 風呂は明日入ろう。とにかく今日は疲れたもう眠りたい。
 目を閉じれば今日不法侵入して来たヴァルキリーの姿が見えた。

「どうせならコーヒーの一杯でも飲ませてやるんだったかな。……いや、やっぱあんなのと関わるのはパスだ」

 そんなことを思いながら高貴は目を閉じて、だんだんとその意識は眠りに溶けていった。



  目覚めは極めて平凡だった。
 目覚まし時計代わりのスマホに設定してあるアラーム音の音でいつもどおり高貴は目を覚ました。
 時刻を確認すると、液晶画面には7時10分と表示されており、間違いなくいつも起きる時間。
 ただいつもと違うのは、いつもと違っていた昨日のことを真っ先に思い出したということだ。

「あー……とりあえず風呂入んねーと」

 昨日は帰ってきてそのまま寝てしまったからさすがにシャワーを浴びたい。それから今日は燃えるゴミの日だから、コートの残骸も捨てちまおう。
 そんなことを考えながらベットを降りた瞬間に、彼は妙なことに気がついた。
 昨日カーペットにジュースをこぼしたときに出来たシミが、綺麗さっぱりなくなっている。
 一瞬見間違いかと思い目を疑ったが、何度見てもカーペットは汚れていない。白と黒の模様のどこにもシミなどない。

「あれ? ……だって昨日……もしかして夢?」

 さらに昨日床に置いておいたコートの残骸も綺麗さっぱりなくなっている。もしやと思い、服などをしまっておくクローゼットの中を見てみると、コートは普通にそこにあった。
 高貴はそれを取り出し隅から隅までよく観察したが、こげあとや破れている所は見当たらない。
 それは元に戻っているというよりは、むしろ元以上といってもよく、まるで買ったばかりの新品のようになっている。

「まさか本当に夢オチか? ……だとしたら俺ってなんつー夢を見たんだよ。できるだけ平穏に生きたいだけなのにさ。そもそもあんな非現実的なことあるわけが―――」

 いや、待て。やはり何かがおかしい。
 夢というにはあれはあまりにリアルだったし、何より着ている服は少し汚れている。
 それに昨日の非現実的なことが本当だとしたら、魔法などを使ってコートを直したのかもしれない。
 しかし常識的に考えるのなら、やはり夢と考えるほうが自然だ。
 結局のところ、自分ひとりでは判断しかねる状況であるが、今日学校に行けば嫌でもわかってしまうことだろう。
 学校では真澄と同じクラスで席も近いため、もしも昨日のことが本当だったら、マイペースでの高貴の言い訳に対して嫌味の一つでも言ってくるはずだ。
 夢じゃなかったら正直気は進まないけど、とりあえず風呂入ろう。
 高貴は着替えを持って風呂場へと向かって行った。

 ◇

 学校に着いたのは8時25分。海原高校のホームルームが始まる5分前の時間帯。
 教室のドアを開けると、真澄はすでに登校しており、席に着いてスマホをいじっていた。 
 高貴の席は窓際から数えて2列目で1番後ろの席。黒板は少々見にくいが、教師の真ん前などの席よりはだいぶましだ。真澄の席は高貴の一つ前にある。
 どういう風にして声をかけようかと迷いながら、高貴は席へと向かって行った。取り合えず第一声はいつも通りの一言。
「おはよう真澄」
 いつも通りの挨拶で高貴に気づいた(まぁ教室に入ってきたときに目があったのだが)真澄は、スマホから目を離し視線を上げた。

「……おはよ」

 返ってきたのはそっけない挨拶。別にいつもはそうでないかと言うと、そんなことはなくいつもそっけないのだが、高貴にはいつも以上にそっけなく感じる。
 挨拶を返すと、真澄は再び視線を高貴からスマホに戻した。どうやらゲームで遊んでいるらしい。
 やっぱり昨日のあれは夢じゃなかったのかもしれない。そんなことを考えながら高貴は席に着いた。
 さて、どうするか。ここはやはり昨日の事について話してみるべきか否か。
 聞くこと自体は簡単なのだが、もしも現実だった場合、真澄からどんな罵詈雑言を浴びせられるかわかったものではない。
 しかしやはり聞いてみないことには始まらない。夢だったか現実だったか、はっきりしないと気持ちが悪い。
 それに出来れば夢であってほしい。

「な、なぁ真澄。ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「……なに?」

 高貴が話しかけると、真澄は少し渋ったように振り返った。左手にスマホを持ち、右手を椅子の背もたれにおいて、冷ややかな(心なしかいつも以上に)視線を高貴に向ける。
 おれ昨日変な事言ってなかったか?
 そんな感じで真澄に聞こうかと思った高貴だが、その視線を前にして言葉が喉のあたりで止まってしまった。
 やばい、とにかく何かを言わなくては。だんだんと真澄の視線が怖くなってきている。やっぱり現実だったのかもしれない。
 グルグルと沢山の言葉が高貴の頭をめぐり始める。

「ふ、深田君って今日はまだ来てないのか?」
「……はぁ?」

 廻り廻って出て来た言葉は、まったく関係のないものだった。
 ポカンとした表情になって、いきなり何言ってんのこいつ? といった表情になっている。

(やべぇやっちまった間違えちまったぜんぜん関係ねーこと聞いちまった!)

 自爆、時すでに遅し、後の祭り。言ってしまった言葉は取り消すことなど出来はしない。
 ちなみに深田君とは、高貴の右隣に座っている男子生徒のことだ。

「えっと……今日はまだ見てないけど」

 真澄が深田君の席に視線を向け、少し戸惑いながらそう言った。

「そ、そっか。いつもはとっくにいる時間だから、少しおかしいなって思ったんだ。ほら、10分前くらいにはいつも登校してきてるだろ」
「そういえばだね。昨日はちゃんと登校してきてたし、それに具合が悪そうでもなかったし、何かあったのかもね。……それがどうかしたの?」
「いや、珍しいから何となく気になって。俊樹はまぁいつも通りだけどさ」

 高貴と深田君は、特別仲がいいというわけではないが、席が隣ということもあって話をしたりもする。
 いつもならば居る時間に居ないともなれば、少しは心配にだって当然なる。しかし今は深田君よりも真澄に昨日のことを確認しなくてはならない。 
 今度こそ聞こうと思ったその時、高貴はなんだか妙なものを見つけた。
 その妙なものとは、自分の左隣に存在している机のことだ。
 一見普通の机、二回見ても普通の机、何回見ても普通の机なのだが、問題はどうしてそこに机があるのかということだ。
 高貴の所属している2年3組は全員で39名。それが教室では8列に5人ずつ並んで座っている。
 つまりこの教室には、際に座っている生徒は4人しかおらず、窓際の1番後ろの席は存在しないのだ。
 実際昨日までは存在しておらず、高貴の右隣には机しかなかった。にもかかわらず今は存在しており誰も座っていない。

「……なぁ真澄、俺の左隣に席が増えてるんだけど、これっていったいどういうことだと思う?」
「あ、それなら知ってるよ。なんでも今日から転校生が来るみたい。先生が言い忘れてたんだって。ほら、あの人って見た目どおりどこか抜けてるから」

 テンコウセイガクル?

「て、転校生ね……お、男だよな?」
「女子生徒らしいよ。すごい美少女って話だけど……ふぅん、興味あるんだ」
「きょ、興味なんてねーよ!」

 思わず声を上げて否定してしまった。
 美人の転校生。どうしよう、興味どころか心当たりがありすぎる。もしかしたら昨日出会ったヴァルキリーかもしれない。
 そんなのはゴメンだ。あんな滅茶苦茶な女と関わるなんてもう冗談じゃない。一日―――というよりも数時間で限界だ。
 いや待て、やはりありえないだろう。昨日のことがもしも夢ではなかったのなら、確かあの少女は極秘任務と言っていた。それにもかかわらず学校などくるはずがない。
 確かに美人ではあったが、世の中には美人なんて結構沢山いる。
 そうだ、例えば真澄だってちょっと性格がトゲトゲしているが、ルックスはいいほうだろう。整った顔立ち、さらさらの髪、スタイルは……これからに期待ということで。

「ちょ、ちょっと。なにそんなにじろじろ見てるの? なんだか気持ち悪いんだけど」
「あ、ゴメン」

 どうやら知らぬ間に真澄のことを凝視してしまったらしい。

「なんだか今失礼なこと考えなかった?」
「いや、考えてない。スタイルが貧相だとか―――」

 真澄の右ストレートが高貴の顔に炸裂した。ためらいのなく、まさにお手本のようなその一撃に高貴が顔を抑えて悲鳴を上げる。
 思わず素で反応してしまったことを、高貴はうめき声を上げながら悔いた。

「お、お前なぁ、普通グーで殴るか? 女がグーで殴るかよ!?」
「……もう一発殴られたいの?」
「う……ごめんなさい」

 まるで人を殺せそうな視線を受け、とにかく謝らなければという防衛本能と、何より本人が気にしていることを言ってしまったことから、取り合えず素直に謝る。
 しかしそれで許してもらえるかどうかはまた別問題なのだ。こういうときの真澄はたいてい何かを要求してくる。

「そうね……マイペースのチーズケーキで許してあげる。それで女の傷ついた心が治るんだから安いもんでしょ?」

 マイペースのチーズケーキ。
 つまりは詩織の作ったケーキという事だ。詩織は頼めば高貴と真澄にはいくらでもただで食べさせてくれるのだが、どうやら今回はキチンと払わせるつもりらしい。
 しかし確かに480円で許してくれるのならば安いものだろう。一番高値のいちごどっさりショートよりは200円も財布に優しい。
 その後の体重までは責任を取れないが。

「わかったよ今度おごるから」
「よし、じゃあ許してあげる」

 そう真澄が言ったときに、教室のドアが勢いよく開いた。同時に教室に一人の男子生徒が入ってくる。

「よっしゃ、ギリギリセーフ! あ、高貴、真澄、おはよう!」

 そういうなりその少年は教室に入ってきて、真澄の右隣の席に座った。

「おはよう俊樹、今日もギリギリだったな」
「おう、朝ってどうも苦手なんだよ。あれ、深田君もまだ来てないんだな。いつもならとっくに来てる時間なのによ」
「さっき珍しいねって話してたとこ。あなたも深田君見習ってもう少し速くくればいいのに」
「だから無理だって」

 この少年は植松俊樹うえまつとしき。高貴と真澄のもう一人の幼馴染。この三人は小学校の頃からの幼馴染で、今でも仲の良い友達同士だ。
 三人の中では一番のムードメーカーでもある。

「なぁなぁ聞いたか? 今日転校生が来るらしいぜ! 担任が言い忘れてたとか何とかでさ、スゲー可愛いんだって!」
「なんであんたが知ってんの……って聞くのも愚問か、この女好き」
「別にいいだろ、高貴だって嬉しいよな?」
「あー……微妙」

 ヴァルキリーじゃなかったら嬉しいんだけど。
 などとはもちろんいえない。
 今度は教室の前の扉が開き、担任の教師が教室に入ってきた。相変わらずどこか抜けてそうな顔だ。

「ホームルーム始めるぞー。皆席につけー」

 席を立っていた生徒がその声を聞いて自分の席に戻っていく。

「あ、結局深田君来なかったね」
「そうみたいだ、休みかもな」
「転校生はどこだよ?」

 その会話を最後に俊樹は前を向き、真澄も前を向いてスマホをしまった。
 結局昨日のことについて話すことは出来なかったが、それは後で聞くとしよう。それにもしかしたらもうすぐわかるかもしれない。
 もしも転校生の女生徒というのが、高貴の知るあの人物だったとすれば、昨日のことは間違いなく現実なのだから。

「えー、挨拶の前に少し時間をとる。皆には言うのを忘れていたが、今日からこのクラスに新しい仲間が加わることになった」

 とたんにクラスがざわつき始めた。漫画などでお決まりの、「先生、美人ですか?」のような言葉も沢山飛び交い始める。というか俊樹が言っている。
 その人って人間ですか?
 そう聞きたかったが、確実におかしな目で見られるのでやめておいた。
 しばらくして担任がっ生徒達をたしなめ終わり、ようやく教室が静かになり、約一名以外の全員が転校生の受け入れモードへと移行する。

「それでは入ってきなさい」

 そして、運命の時間がやって来る。
 教室に入ってきたその少女は、一目で美少女と判断できる人物だった。


 教室の前の扉がゆっくりと開き、クラスの全ての視線がそこに集まっていく。
 クラスの期待が高まる中で高貴はひたすらに祈っていた。
 あいつだけは勘弁してください本当にお願いしますつーか夢であってください夢に決まってますよねへんな夢見てごめんなさいだから俺の平穏を壊さないでください。
 開いたドアから一人の女生徒が入ってくる。
 静まり返った教室の中に響くのは、その少女の足音のみ。背筋をピンと伸ばし、綺麗な歩き方という表現がよく似合うその少女は、教壇の前で立ち止まりこちらのほうに向き直った。
 先ほど真澄が言っていたように、その少女はかなりの美少女だ。
 背中まである長い黒髪、フレームレスのめがねをかけ、どことなく素朴で儚げな雰囲気をかもし出している。

「さ、挨拶をしてくれ」
「初めまして、本日転校してきました音無静音おとなししずねです」

 ペコリと、音無静音は頭を下げた。
 とたんにざわざわと教室が(主に男子の声で)騒がしくなる。どうやら(主に男子が)思っていた以上に美人だったからだろう。
 そんななか高貴は声を出すこともなく呆然としていた。
 あれは誰だ? 間違いなく俺は知らない人だ。ということはあいつじゃない。転校生は本当にただの転校生だった。
 だって俺おとなししずねなんて人しらねーし、なんだか妙にえとるが多い感じの名前でもないし。
 つまり、つまりだ。

(よっしゃああああああああーーーーー!! つーことはやっぱりあれは夢だったんだ! きっと間違いない!)

 祝、夢オチ。
 声に出さない変わりに心の中で高貴が叫ぶ。
 はたから見ればボーっとしている状態だが、頭の中はフィーバーモードの高貴を、振り返った真澄が不思議そうに見ていたが、本人がそれを知ることはない。

「音無、何か皆に言っておきたいことはあるか?」
「いいえ、特にありません」

 担任の言葉をやんわりと静音が断った。

「そうか、なら皆のほうから音無に聞いておきたいことはあるか?」

 担任はクラスを見て、生徒のほうが静香に色々と質問したがっていることを見抜き、時間も大丈夫だろうと判断して質問の場を与えた。
 とたんに何人かの男子生徒が勢いよく手を上げる。

「はーい! 音無さんって趣味とかありますか!?」
「彼氏居ますか!?」
「好きな男の人のタイプはどんな人ですか!?」
「付き合ってください!」

 手を上げて勝手に質問をする男子に、担任は失敗したとでも言うような表情になり、慌ててクラスをたしなめ始めた。
 もっとも女子のほうもやはり聞きたいことは多いようなので、手を上げている生徒も少なからずいる。

「あの、先生。言いたいことができましたのでいいでしょうか? やっぱり軽く自己紹介がしたいです」

 その軽い騒乱を収めたのは静音の一言だった。転校生が喋るということで、ようやくクラスが静かに戻る。
 静音は改めてクラス全員に向き直り、大きくはないがよく響く声で話し始めた。

「音無静音です。嫌いな人はうるさい人。嫌いなものはうるさいもの。嫌いな場所はうるさい場所。嫌いなことは人との会話です」

 世界が凍りついた。
 真澄の冷ややかな視線などお遊びと思えるほどの絶対零度の視線。
 まるで機械のように感情のこもっていない淡々とした口調。
 クラス中にケンカを売っているかのように、自分の嫌いなものをひたすらに告げると、最後にもう一度頭をペコリと下げた。
 最初から最後までよろしくとは言うこともなくだ。
 さっきまでお祭りムードだった教室は、まさしく一転してお通夜ムード。誰一人何も喋れない空気が広がっていた。

「先生、私の席はどこですか?」

 そんな空気を作った張本人は、平然とした様子で担任に尋ねた。ある意味では自分のせいでこの空気を作ってしまい、担任は声をかけられても気が気ではない様子だ。

「あ、あぁ。音無の席は月館の隣―――あ、それじゃわからんか、窓際の一番後ろの席だ」
「はい」

 静まり返った教室の中をものともせずに静音は席に向かって行った。もはや生徒全員絶望のどん底へと叩き落されてしまったとでも言うような表情になっている。
 そんな中、妙に幸せそうな顔をしている生徒が約一名。

「なぁ真澄。なんで高貴はあんなに幸せそうな表情してんだろ? 今は全員お通夜ムードなのにさ。もしかしてドMなのかな?」
「そ、そんなことわたしに聞かないでよ。おかしくなったとかじゃないの?」

 そう、月館高貴ただ一人はこの状況を喜んでいた。
 転校生が(普通ではないといえ)人間だったのだから。
 きついもの言い? それがどうした。他の世界から来たとか言わないだけましに決まっている。
 これできっと昨日のことは悪い夢だったと証明されたわけだ。
 普段から平穏を求めているから、きっとたまには非常識な夢を見たかったんだろう。きっとそうに違いない。
 やがて静音が窓際の一番後ろ、高貴の左隣の席に腰を下ろした。すると高貴のほうを向くと、

「用がない限り話しかけないでね」

 絶対零度の口調でピシリと言い放った。
 これが聞こえていた周囲の生徒はますます凍りついたが、やはりただ一人違う男がいた。

「ああ、任せてくれ!」

 高貴が満面の笑みで返事を返す。これには静音も軽く引いてしまっていた。

「おい、本格的にやばいぞあいつ。一回保健室にでも連れて行ったほうがいいんじゃねーか?」
「そ、そうだね。取り合えず次の休み時間にでも」

 真澄と俊樹の会話は高貴の耳にはもちろん届かない。
 なんて無駄な心配をしてしまったんだろう。そもそもこの現代社会にヴァルキリーなんているわけがない。
 さ、今日も一日楽しく過ごそう。一時限目の現代文はあまり好きじゃないけど、今日は少し前向きに受けられそうだ。
 高貴の頭は、昨日のあれが夢だったという安心感で満ち溢れていた。まるで幸せな夢の中にいるかのよう。
 しかし、いつまでも夢の中になどいられるはずはない。目を背けてなどいられるはずがない。
 そうとでも言うように、唐突に、突然に、現実それは何の前触れもなくやってきたのだ。
 静まり返っていた教室に、ガラリと勢いよく開くドアの音が響き渡った。

「失礼する。四之宮高校の2年3組とはこの教室で間違いないだろうか?」

 ドアが開いたと同時に、教室に少女の声が響く。そこには学生服に身を包んだ少女が立っていた。
 あまりにも突然のことだったので、教室内全員の視線が前方にあるドアへと釘付けになる。
 HRを始めようと思っていた担任も。
 鞄の中身を机に移していた静音も。
 そして、教室内でただ一人頭の中がフィーバー状態だった高貴も。

「え、えーと……君は誰かな? 今はホームルームの時間だから、はやく教室に……いや、うちの学校の生徒なのかな?」

 担任がドアを開けた少女に確認する。すると少女は、その者がこのクラスの担任であることを理解したのか、扉を閉め、ゆっくりと彼に近づいていった。
 39名の生徒はこう思った。誰なんだあんた?
 1名の生徒はこう思った。どうしてお前が?
 少女は担任の前で歩みを止める。

「担任の先生はあなたか? 聞いてはいないと思うが、私は界外留学生だ。今日からこのクラスで学ぶことになっている」
「は? 海外留学生? そんな話は聞いていないぞ」
「嘘だと思うなら校長にでも確認してみるといいだろう。ちなみにこれが書類一式、確認してみてくれ」

 そう言うと少女は、鞄から書類のようなものを取り出し担任に手渡した。すぐさま担任がそれを確認する。
 担任がそれを確認している間、生徒の視線は少女に釘付けになっていた。
 突然入ってきたということもあるのだが、何よりもその少女の容姿に驚いたのだろう。
 腰の辺りまで伸びた長い髪は、同姓でも美しいと思えるような銀色で明らかに日本人のものではない。
 瞳は青く、顔立ちは整っており、先ほど入ってきた静音に負けず劣らずの美少女だ。

「た、確かに正式な書類のようだ。何も問題があるようには思えないな。まぁ念のためあとで他の先生方にも確認してみるが……えーと、取り合えず自己紹介をするか?」
「ふむ、自己紹介か。確かにそれはありがたい。ありがたく挨拶させてもらおう」

 そう言うと少女は、クラス全員に向き直り、背筋をピンと伸ばし、堂々と胸を張って、見るものを恋に落としてしまいかねない笑顔で言った。

「界外留学生として来た、エイル・エルルーンという者だ。エイルが名前―――いや、ファーストネームと言ったほうが良いか。エルルーンがファミリーネームというものに値するだろう。ミドルネームはない。みなと仲良く勉学に励んでいけたらよいと思っている。どうかよろしく頼む」

 その一言で、お通夜ムードだった教室の中が再びお祭りムード(静音以外だが)へと変わる。
 かわりにフィーバー状態だった高貴が一転してお通夜ムードになる。

(な、なんでだあああああああああああーーーーーーーー!!!)

 そんな高貴とは裏腹に、再びやって来た美少女(しかも今回は友好的)により、男子が再び騒ぎ出し、俊樹にいたっては「先生、質問タイム質問タイム!」などと言っている。

「すまない、もうすぐ授業が始まってしまう時間なので、質問などがある場合はあとで受け付けよう。みなと交流できるのは嬉しいことだしな」

 先ほどの対応に比べてなんと人間らしい対応だろう。しかし高貴のみはそう思っていなかった。
 いや、おかしいって。なんであいつがくるんだよ?
 さっきの奴よりまともってそんなわけねーだろ。だって冷静に考えてみろよ。
 あいつは他の世界から来たヴァルキリーとか言ってんだぞ。
 ただの中二病かと思ったら、マジでそうかもしれねーんだぞ。
 空中に変な文字書いて電気ビリビリさせるような女なんだぞ。
 外人どころか人外なんだぞ。
 いや、確かに命は助けてもらったけど、最初は殺されかけたし。
 絶対まともなわけねーって。
 高貴の苦悩は誰にも伝わることはなかった。

「しかしそうなると、新しく席を持ってこないといけないな。クラス委員は、空き教室から席を持ってきて―――」
「ふむ、先生。机を持ってくる必要はない」
「え? しかしそれでは机が足りないぞ?」
「問題ない。出席番号29番の深田君が昨日急遽転校したはず、これがその証拠だ。机の中もしっかりと空っぽになっている。故にそこの机を私が使わせてもらおう」

 エイルは再び書類を担任に渡した。  
 おい、ちょっと待て。今日来たお前が昨日深田君が転校したなんて知ってんだよ。俺たちも知らなかったぞ。それに昨日は深田君普通にいたぞ。つーか深田君になにをした?
 高貴の魂の叫びは誰にも届かなかった。

「えー、非常に残念ながら、ご両親の都合で深田君は昨日転校してしまったらしい。ではエルルーン君は深田の席に座ってくれ。場所は……」
「大丈夫だ、自分でわかっている。窓際から三列目の一番後ろだ」

 だからなんで知ってるんだよ。
 エイルは迷うことなくその席に向かって歩き出した。
 近づいてくる。だんだんと彼女が近づいてくる。
 いや、待て。百歩ゆずって昨日のあれが現実だったとしてもだ。確かもう俺とは関わらないとか言っていたような気がする。
 じゃあ安心だ。きっと向こうも知らない振りしてくれるはずだ。ここは美人を直視できないシャイな男を演じて目をそらそう。彼女いない暦=年齢をなめるな。
 そう思って、高貴は視線をエイルからはずす。
 やがてエイルが深田の席、高貴の右隣の席までたどり着き席に着いた。

「やぁ高貴、また会ったな。昨日はいろいろと迷惑をかけてしまってすまなかった。学園というのは不慣れなもので、これからもいろいろと迷惑をかけてしまうと思うがよろしく頼む」
「ってやっぱ普通に話しかけてくんのかよ!」

 エイルは関わる気満々だった。むしろ世話をかける気も満々だった。
 思わず叫んでしまった高貴にクラスの視線が集まり、なんだか気まずくなってしまう。

「なぁ真澄。やっぱり保健室には連れて行こうな」
「そうだね、絶対にね」

 今の高貴には、すぐ目の前で行われている二人の会話さえ耳に入らない。

「さて、一時限目は現代文、その次は世界史だったな。高貴、すまないが教科書を見せてくれないか? 急なことだったもので、教科書類はまだそろっていないんだ」
「……なんで時間割知ってんだよ」

 にもかかわらず何故かエイルの声はよく耳に届く。
 そうだ、俺も深田君と同じように転校しよう。ヴァルキリーのいない世界に逃げよう。
 教科書を取り出しながら高貴はそんなことを考えていた。そんなことは無理だということも同時に悟りながら。
 こうしてエイル・エルルーンは、四之宮高校2年3組に界外留学生としてやってきたのだった。


 一時間目―――現代文

「えー、それでは次からの文を音無さん、読んでみてください」
「はい」

 教師に当てられた静音は、教科書を持って立ち上がった。

「今から一年程前、自分が旅に出て汝水のほとりに泊った夜のこと、一睡してから、ふと眼を覚ますと、戸外で誰かが我が名を呼んでいる。声に応じて外へ出て見ると、声は闇の中から頻に自分を招く。覚えず、自分は声を追うて走り出した。 (※中島 敦 李陵・山月記 (新潮文庫)より引用させていただきました)」
 
 教科書に書かれた文章を、静音は途中で間違うことなくスラスラと読んでいく。
 先ほどの挨拶と同じように、感情がこもっている声とは言いがたいが、転校初日の初授業で当てられたにしては、緊張も硬さもまったくなく見事なものだ。
 もっとも、それは静音だけではないが。

「高貴、次のページに進んだぞ。早くめくってくれないと続きがわからないじゃないか」

 ひそひそとした声で話すエイルの声を聞き、高貴は教科書のページをめくった。すぐさまエイルの視線が教科書へと戻る。
 本当ならばこのヴァルキリーに聞きたいことが山ほどあったのだが、生憎すぐに授業が始まってしまったため何も聞けずじまい。
 教科書のないエイルにこうして教科書を見せる為に、机をくっつけて授業を受ける羽目になっている。
 しかもエイルは普通に、いや、普通以上に真面目に授業を受けているのだから、コソコソと話すのもなんだか気が引ける。
 しかしいったいエイルはなにを考えているのだろう? まぁ、昨日あんなことがあって、その翌日に隣の席に転入してきたということを考えると、あまり良い事を考えているとは思えない。
 やはり話してみようと決心した高貴は、ノートの一部分を破くとシャープペンシルを走らせた。
 授業中でもノートを使った筆談ならば、静かに会話をすることが出来る。それが隣同士ならなおさらのことだ。
 何のつもりだ? 
 たった一言だけかくと、それを教科書を見ているエイルの前に置いた。

「ん?」

 エイルがそれに気がついた。
 しばらくノートの文字を見ていたが、やがて切れ端になにやらペンを走らせ始める。
 書き終わってエイルが紙を戻してくると、高貴はすぐさま文面を見た。
 授業は真面目に受けるべきだ。内心点に響いてしまう。将来就職する時や進学する時、どちらにせよ成績がいい事に越した事はない。

(よけいなお世話だ!)

 思わず叫んでしまいそうになったのを必死でこらえ、代わりに心の中で高貴は叫んだ。
 どうしてヴァルキリーに将来のことを心配されないといけないんだよ。なんで普通に日本語書けるんだよ。つーかなんで俺より字上手いんだよ。
 思い切り不満と疑問をぶつけたかったが、エイルは本当に授業に集中しており、まったく取り付く島もない。
 そういう態度ならこっちにも考えがある。もう話しかけたりしないし一切無視だ。せいぜい教科書を見せてやるくらいだよこの野郎。つーか右隣の奴に見せてもらえ。
 本来なら高貴は、位置的に窓際の一番後ろの静音に教科書を見せる立場なのだが、どうやら静音は教科書をすでに準備していたらしく必要ないらしい。
 エイルよりはましかと思って授業前に確認したところ冷たい口調で告げられた。ちなみにそのときはフィーバー状態ではなかったので、高貴も少しダメージを負った。

「はい、そこまでで結構ですよ音無さん」

 教師に言われて静音が席に座った。

「では隣の月館君、続きを読んでみてください」
「え、は、はい!」

 次に教師に指名された高貴は、教科書を持って慌てて立ち上がる。
 しかし静音がどこまで読んでいたのかを聞いていなかったため、自分がどこから読んでいいのかわからなかった。

「え、えーっと……」

 だんだんと教師の目が疑わしいものへと変わっていく。前の席の真澄が、どこから読めばいいのかを伝えようとしたが、それよりも早くエイルが声をかけた。

「高貴、147ページの三行目からだ。ほら、ここの部分だよ」

 エイルが軽く立ち上がり、高貴の持つ教科書の読み始めの行を指差す。
 昨日は気がつかなかったけど、何だか細くて綺麗な手だな。こんな手で槍とか振り回してたなんて信じらんねー。
 そんな雑念が一瞬頭をよぎったがすぐさまそれを振り払った。

「月館君、授業はしっかり聞いていないと駄目ですよ。隣の席の音無さんと……えーと、エルルーンさんを見習いなさい」

 クラス中から失笑が起きた。俊樹にいたっては「美人二人に挟まれて緊張してんじゃねーの?」などと茶化している。むしろそんな理由だったらどんなに楽だっただろう。

「駄目じゃないか高貴、授業は真面目に受けないと」

 席に着いたエイルに、「お前のせいだ!」と怒鳴るのをこらえた自分を褒め、高貴は教科書の続きを読み始めた。



 二時間目―――日本史。

「では、このページに乗っている歴史上の人物から一人を選んで、その人物が行ったことや特徴などを配ったプリントに書き込んでください。簡単なことでかまいませんから」

 教科書の数ページにわたって歴史上の人物が写真つきで載っている。
 高貴は特に迷うこともなく、日本の初代内閣総理大臣についてでも書こうとプリントにシャーペンを走らせた。

「ふむ……誰を選んだらいいのか迷うな。高貴は誰について書くつもりだ?」
「この人だよ、有名な初代内閣総理大臣の。たぶん後でもっと詳しく調べることになるんだろうけど」
「そうか、ならかぶらないように私は別の人物を選んだ方がいいか。しかし困ったな。私は誰がなにをしたのかなど全くわからない。写真を見せられても知ってる顔など一つも見あたらないな……」

 教科書を見ているエイルの表情がだんだんと沈んでいく。
 エイルはこちらの世界にきたばかり故に、歴史上の人物など誰も知らないのだろう。日本語を読み書きできるだけでもたいしたものといえる。
 仕方がなく自分と同じ人物を書くように言おうとした高貴だが、突然エイルが何かを見つけたような顔になった。

「ん? この男性は見たことがあるな。こっちの女性も……この男性もだ。ふむ、一番沢山見たこの男性にしよう」

 エイルがプリントにシャーペンを走らせ始めた。いったいどんな人物を書いたのか少し気になった高貴は、こっそりとエイルのプリントを覗き見る。

 歴史上の偉人 諭吉先生
 史実 詳しくは知らない
 特徴 人の心を動かせる。買い物ができる。人を金の亡者にする。

「おい、なに書いてんだお前?」

 あまりに予想外のことが書いてあったため、高貴は思わず声に出してツッコミを入れる。

「なにって諭吉先生についてだよ。昨日見た一万円札に描かれていたのをしっかりと覚えている。しかしこの教科書は間違っているな。本名が福沢諭吉と書かれてあるぞ」
「間違ってんのはお前の頭の中だ! 福沢諭吉先生に謝れ!」

 叫んだあとにハッとして辺りを見回すと、再び教室中の冷たい視線を高貴は浴びてしまっていた。

「月舘君、どうかしましたか?」
「あ、いえ……何でもありません」

 再びクラス中から巻き起こる失笑。前の席の真澄も冷めた視線でこちらを見ている

「ふむ、授業中は静かにしなくてはだめじゃないか高貴。教えてくれている先生に失礼だぞ」

 怒りゲージが再び上がってきて叫びたくなったが、やはりそれをこらえた自分を褒め、高貴はプリントにシャープペンを走らせた。



 三時間目―――科学

「それでは各班、アルコールランプに火をつけて水を沸騰させろー」

 担任の声を合図に生徒達はアルコールランプの準備を始めた。科学は移動教室の為、席は自由に座ることになっており、実験の際は自由に班を組んで行う。
 高貴たちの班は、高貴、真澄、俊樹といういつもの三人と、エイルと静音の二人を加えた5名。
 ちなみに静音は他の生徒が誘うのをためらっている所を、エイルが無理矢理誘いこんだ。

「ふむ、やり方がわからない。すまないが私は見学させてもらおう」
「ああ、なにもすんな。そのほうが安全だ」

 俊樹が三脚と金網を用意し、真澄がアルコールランプのふたを開けてそこにセットする。

「よーし、高貴、火つけてくれよ」

 俊樹の言葉に、高貴はすぐには頷けなかった。
 理由は簡単だ。昨日何回か火のせいで死に掛けた為、マッチとはいえ火をつけることにためらいがあるからだ。

「どうしたの? さっさとやってよ」

 真澄も高貴をせかし始める。それでもなかなか高貴の手は伸びなかったが、代わりに他の手が伸びてきた。

「私がやるわ」

 いままでずっと黙っていた静音がマッチ箱を取り、中から一本マッチを取り出した。
 ちっ、っとマッチがこすれる音が響き、マッチの先端に火が灯る。
 それを三脚にぶつからないようにアルコールランプの先端に当て火をつけたあと、手首を振ってマッチの火を消した。

「これでいいわよね?」
「あ、ありがとう音無さん」
「なんでやんなかったんだよ高貴?」
「わ、悪い。音無もごめん」

 静音は「いいわよ別に」というと、水の入ったビーカーを金網の上に乗せた。
 それきりあとは再び黙り始める。どうやら会話は嫌いだが、授業の為の協力なら問題ないようだ。

「ふむ、マッチというのはなかなか便利なものなのだな。箱の側面をこするだけで先端に火がつくのか。火力はさすがに期待できないが、火種としてなら十分だ」

 エイルが呟いた言葉に、思わず高貴が反応した。

「え? お前マッチ見たのって初めてなのか?」
「ああ、今まで見たことも使ったこともない。書物でこういうものがあるということは知っていたがな。しかし百聞は一見にしかずというが、実際見てみると見事なものだ」

 どうやらエイルは軽く感動しているようだ。マッチ一本でここまで感動する人間は見たことがない。
 実際人外らしいが。

「……なーんかさぁ、高貴とエルルーンさんって妙に仲良くないか?」
「……確かに」

 俊樹と真澄の会話が聞こえてくる。

「え? べ、別にそんなことねーって! 普通だよ普通!」
「さっきエルルーンさんのことお前呼ばわりしてたのは高貴じゃない。それにエルルーンさんも嫌がってなかったし」
「それに前の授業のときも二人でコソコソなんか話してなかったか? あとホームルームの時にエイルさんがまた会ったなって言ってた気がするけど」
「ききき気のせいだって! なぁエイル!」
「「もう呼び捨て!?」」

 しまった。ついエイルのことを呼び捨てにしてしまった。これはいろいろと追求されるに違いない。
 根掘り葉掘りと質問されて、芋ずる式に昨日のことまで話さなければいけないだろう。
 しかし、救いの手は意外な所から現れた。

「名前の件は私が高貴に頼んだんだよ」

 エイルが少し慌てたように二人に声をかけた。

「私は界外留学生だから、クラスになじめるか不安だったんだ。だから変に遠慮をしてほしくなかったから、名前を呼び捨てにしてくれないかとさっき高貴に頼んだんだよ。皆も気軽にそう呼んで貰えるとうれしい」
「そうそう! さっき頼まれたんだよ、呼び捨てにしてくれってさ!」

 高貴もエイルの話しに合わせ始める。それによってようやく俊樹は納得したらしく、疑いの眼差しが弱くなっていくが、真澄のほうはまだ疑っている。

「ふぅん……でもいきなり呼び捨ては難しいかも、エイルさんでいい?」
「じゃあ俺はエイルちゃんで」
「ありがとう、真澄、俊樹。それにしてもなかなか沸騰しないものだな」

 アルコールランプは勢いよく燃えてはいるが、びーかーの水はまだ沸騰するにはいたっていない。

「これの火力なんてそんなもんだよ。もっと火が強ければ早く沸騰するだろうけどさ」
「ふむ、もっと強い火力か。なるほどな……」

 ゆっくりと、そして自然な動作で、エイルが右手をアルコールランプの方に近づけた。その右手の人差し指と中指が、心なしか伸びている。
 それを見た高貴はふと昨日のエイルとヒルドの闘いが頭に浮かんだ。
 そういえば昨日、エイルとあの女は魔法を使う時に空中に指で文字を書いてたっけ。もしかして―――
 もしもエイルがヒルドと同じように火の魔法が使えるとしたら。
 もしもエイルがこの場で火の魔法を使って火力を上げようとしているのなら。

「ってバカかお前は!」

 その考えに行き着いた瞬間、高貴はエイルの右手を握って自分のほうに引き寄せた。
 突然のことにエイルにも驚きの表情が浮かぶ。

「い、いきなりどうしたんだ高貴? 私は今何かしてしまったのか?」
「当たり前だろ! こんな所でなにしようとしてんだよお前は! 時と場所を考えろ!」
「それはあんたのことでしょうがああぁぁーーー!!」

 真澄のグーパンチが見事に高貴の顔面にヒットした。うめき声を上げて高貴が椅子から転げ落ち、背中から地面に倒れる。

「なに急にセクハラしてんのよ! 時と場所以前に常識を考えろっての! 大丈夫エイルさん!?」
「あ、ああ。しかしいったいどうしたのだろうな、私はマッチをとろうとしただけなのだが。それにしても見事な正拳だったよ真澄」

 マッチ取ろうとしたのかよ。
 三度クラス中の失笑を受ける高貴は、地面に横たわりながら勘違いした自分を呪った。

「高貴、火が近くにある場合は大人しくするべきだよ。火は危ないからな」
「……ああ、本当にその通りだ。昨日よく思い知ってる」



四時間目―――体育

「それでは少し早いが本日の授業はこれまでにしておく。後片付けは係りのものがやっておくように」

 四時間目の体育の授業が終わり、男子生徒が体育館から次々と出て行く。無論高貴と俊樹もその中の一人だ。
 今日の男子の体育は体育館でのバスケットボール、女子はグラウンドで100メートルのタイムを計るらしい。

「はぁ、昼飯前の体育はきついよな。俊樹、ジュース買い行こう」
「ああいいよ、俺ものど渇いたし」

 二人は自動販売機のある玄関に向かって歩き出した。

「それにしても残念だったなぁ、女子と体育の場所が別々なんてさ。どうせなら一緒だったら良かったのに」
「え、なんでだよ? どうせ別々にやるんだからかわりねーだろ」
「バカかお前? 体操服だぞ体操服、半そで短パンの体操服。今日は転校生二人、しかもどっちも美人が入ってきたんだから、体操服を拝んでおきたかったんだよ」
「ああ、そういうことか」

 とは言っても片方は人当たり最悪の女、片方は界外留学生の人外だけどな。とは言わない。

「しかしなんだか対照的な二人が来たもんだよな。エイルちゃんは人当たりがよくて友好的、静音ちゃんは人当たり最悪。まぁ授業に関係することとかならギリギリ普通になるみたいだけどな」
「ああ、さっきの科学の時間の時みたいにか。自分からやってくれたもんな」

 静音がアルコールランプに火をつけてくれたことを高貴は思い出した。

「エイルちゃんの方には休み時間のとき席に人が集まってたけど、静音ちゃんのほうは壁を作ってる。共通点は二人とも美人だってことぐらいか。肌とか絶対綺麗だぜ! 生足、太もも、二の腕、その他もろもろ見たかったんだよ! お前は見たくなかったのかよ!?」
「……微妙。だって見た目は確かにいいけど、あの二人じゃな」
「ふっ、そんなこと言ってられるのは今のうちだ。俺がこれから言うことを聞いてまだそんなことが言ってられるかな?」

 何故か勝ち誇ったような表情になる俊樹。それが少し気になったのか、高貴が「なんだよ?」と聞き返した。

「いいか、聞いて驚け。俺の個人的な見立てでは、エイルさんの戦闘力はDランクだ」
「!! D……だと? 」

 高貴の顔に衝撃が走る。

「お前は隣にいて気がつかなかったのか? あの素晴らしき戦闘力Dに? これはうちのクラスではトップクラスだぜ」
「そ、そういえば……」

 エイルのもっとも目に付く特徴といえば、やはり腰まである長い銀の髪だろうが、よくよく考えてみればエイルのスタイルはかなりいいほうだ。

「さらにだ……なんとあの静音ちゃんの戦闘力は…………Fだ!!」
「エ、Fだと!? Eを通り越してFだって言うのか?」
「ああ、ただしこれは推定だからな、静音ちゃんに至ってはもう1、2ランク上っていう可能性もありえるぜ」
「マ、マジかよ!? ってことはG!? もしかしてH!?」

 ちなみにもうわかっていると思うが、このバカ二人は胸について話している。
 DだのFだのはエイルと静音のバストサイズ(俊樹の見立て)のことだ。

「そんな巨乳の二人が100メートル走なんかしたら……もうたゆんたゆんだろ!!」
「……やばい、俺二人のことまともに見れねーかも」

 たとえそれが人当たりが最悪の女だろうと。
 たとえそれが人外のヴァルキリーだろうと。
 男はおっぱいには勝てない。 By月館高貴。

「わかったかよ俺の悔しさが」
「ああ、よくわかったよ。ってあれ? あそこの自販機にいるのって真澄じゃねーか?」

 高貴たちが向かっていた自動販売機には、すでに真澄が着替え終えた状態でジュースを買っている。
 真澄のほうも高貴たちに気がつき近くに寄ってきた。

「ちなみに、真澄の戦闘力はギリギリBな」
「本人に言うなよ。気にしてるみたいだから殺される」
「二人ともなに話してたの?」
「「なんでもないなんでもない」」

 見事にハモッてごまかし完了。
 見事にハモッてごまかし完了。
 高貴を見ても機嫌が悪くない所を見ると、科学の授業でのことはもう気にしてないのだろう。
 もっとも、高貴の命がけの言い訳の賜物なのだが。

「真澄もう着替えたのか、女子は俺たちより早く終わったのか?」
「うん、なんだかストップウォッチの調子が悪かったみたいでかなり早く終わったわ」
「え、なにそれ?」
「なんだかエイルさんが走った時に、100メートルのタイムが8.55秒だったのよ。そんなのさすがにありえないでしょ?」
「はぁ? それじゃ世界新だろ。ありえねーって。な、高貴」
「あ、あぁ……そうだな」

 あのバカやらかしやがった。なに平凡な高校の体育の授業で、世界記録作ってんだよ。
 世界の壁を越えてきたのはいいけど、この世界の壁も越えてどうすんだよ。
 エイルの正体を知る高貴は、それはおそらく本当だろうと簡単に理解できたのだ。

「でもエイルさん走るのすごく速かったなぁ」
「そりゃそうだろ、だってあいつは―――っと、なんでもない」
「高貴、ここにいたのか」

 廊下の向こうから着替え終わったエイルが歩いてくる。俊樹が隣であからさまに残念そうな顔をしているのが見えた。

「見つかってよかった、君を捜していたんだ。クラスメイトから一緒に昼食でもと誘われたのだが、もっと重要な用事があったからな」
「重要な用事? 何だよそれ」
「昼休みにちょっと付き合ってほしいんだ。すごく大切な話だから、人目につかないところで二人だけでじっくり話がしたい。昨日のことも関係していることだ。昼休みが始まったら屋上のほうに来てくれ」

 そんな爆弾発言を投下して、エイルは踵を返して去っていった。
 口をあんぐりと開けてポカンとしていた三人だったが、急に真澄がプルプルと震え始める。

「え、えーっと……どうした真澄? 汗が冷えて寒いのか?」
「……昨日のことって……なに? もしかして昨日バイトに遅れた事と関係してるの?」

 ああ、昨日バイト休めばよかった。

「お、俺呼ばれたみたいだからもう行くわ! じゃあ!」

 そう言うなり高貴は二人に背を向けて走り出す。
 後ろから、「こら! ちゃんと説明しろ!」という真澄の声を受けて、高貴は屋上へと向かって行った。

 ◇

 無機質な白い階段を高貴は上っていく。
 あれから高貴は急いで学生服に着替えると、自分を探している真澄に見つからないようにコソコソと、そして迅速に移動した。
 エイルが指定した場所は学校の屋上。しかしそれを伝えられたときには、真澄と俊樹も一緒だったため、もしかすると先回りしているかもしれない。
 もしそうなったらお終いだろうが、そのときはそのときだ。とりあえず今はエイルのところに急ごう。
 階段を上りきると屋上へと続くドアが見える。本来屋上は立ち入り禁止で、いつもこのドアには鍵がかかっているのだが、高貴がドアノブに手をかけるとそれはあっさりと回った。
 扉を開けると風と日光が高貴を包み込む。
 屋上には特になにかがあるわけではない。落下防止のための金網のフェンスが周りを覆っている為、遠くまでは見えるが眺めるときに邪魔になってしまう。
 エイルはその金網の手前に立って、町の風景を見ていた。かすかな風が吹きその長い銀の髪が揺れる。
 しばらくそれに見とれてしまっていた高貴だが、エイルが高貴に気づいたことにより慌てて我に返る。

「来たのか高貴、悪いが鍵をかけてくれ。ここは本来立ち入り禁止だが、もしも誰かが入ってきたらまずい」

 屋上のドアノブには鍵がついていた。どうやら外側から閉められるタイプらしい。
 がちゃり、と鍵を閉めると、高貴はエイルの隣まで歩いていく。その間再びエイルは景色を眺めていた。

「それにしても……ヴァルハラとはずいぶん景色が違うのだな。こうして遠くまで見ていると、ここが別の世界だということを強く理解できるよ」
「……お前の住んでた世界はヴァルハラだっけか?」
「ふむ、世界という言葉を使っていいのかは戸惑うな。まぁそれもおいおい話していこう。しかし屋上には椅子がなかったか、立ったままで疲れないか?」
「ああ、大丈夫だよ。話ってなんだ?」

 エイルは高貴のほうに向き直り、一度ふむ、と息をついた。

「重要な話とたいしたことのない話があるが、君はどちらから聞きたい?」
「重要なほうで頼む」

 高貴は迷うことなく即答する。

「……では逆に君に尋ねよう。君は何が知りたいんだ? 私は君の質問に答えられる限りで答えよう」

 答えられる限りは答える。それは言えない事もあるということだろう。
 それがなんなのかは正直まったく想像出来ないが、とにかく今は、自分の疑問を片っ端からぶつけてみたほうがいい。

「じゃあ……昨日も聞いたけど、お前はそのヴァルハラとか言う世界から来たヴァルキリーって奴なんだよな?」
「その通りだ。しかしヴァルハラという世界から来たというのは少し違うな」
「どういうことだよ? 他の世界から来たんだろ?」
「ふむ、例えば高貴、君たちが住んでいる世界はなんと言う名前かな?」
「え? 日本」

 自分が質問していたにもかかわらず、急に自分が質問されたことに戸惑った高貴だがすぐさま答える。
 しかしエイルは高貴の答えに満足いかなかったような表情になり、首を横に振った。

「それは違うだろう。日本というのは国の名前のはずだ。確かに私達は今日本という国にいるが、それは世界の名前ではない」
「えっと……じゃあ地球? あ、宇宙か?」
「地球というのはこの星の名前、宇宙とは確かに世界かもしれないが、私のいた世界にも宇宙はあるから却下だ」

 宇宙が駄目だって言うんなら……もう何も思い浮かばない。
 高貴は潔く降参の合図を出した。

「降参だ、わからない」
「強いて言うならば私の答えもそれと同じだよ。私がいた世界では、世界に名前などつけてはいなかった。ヴァルハラというのは私が住んでいた国の名前のことさ。この世界では北欧神話という名で残っている。ああ、これは昨日言ったかな。だからなんという世界から来たのかと言われれば、他の世界としか言いようがない。もしくはヴァルハラという国から来たとはいうことが出来るがね。しかしわかりづらいのも確か故、ヴァルハラを世界として説明したほうがいいかもしれないな」

 この世界には国の名前があっても世界の名前がないように、エイルの世界も同じらしい。

「そういえばさ、この世界に伝わってる神話って、お前の世界の出来事が伝わったものなのか?」
「もしかしたらそうかもしれないな。さっきも言ったが、北欧神話という伝承には、ヴァルハラのことが伝わっていたはずだ。しかし確実に私がいた世界の出来事とはいえない」
「なんでだよ?」
「パラレルワールドというのは聞いた事がないか? 世界というものは無数に、そして無限に存在するんだ。例えば君達のいるこの世界と極めて似ている世界というのも存在する。この世界と同じ国があり、この世界と同じ歴史を持ち、しかしながら別の次元にある世界。要するにそれと同じように、私のいた世界と限りなく近い世界があるかもしれないということだよ。もしかしたらその世界の歴史が神話として伝わったのかもしれない」

 平行世界というものだろうか?
 今自分が住んでいる世界に極めて近いが、まったく別の世界。それがエイルのいた世界にもあるかもしれないということだ。

「この世界の北欧神話というものを調べてみたが、どうやらラグナロクという戦争が起きて、オーディン様が死んでしまったりしたらしいじゃないか。しかし私のいたヴァルハラではそんな戦争など起きてはいないし、オーディン様も健在だ。このことから、私達の世界と極めて近いパラレルワールドの歴史が伝わったんだろうと私は考えている」
「じゃあさ、なんで伝わったんだよ? 別の世界の出来事なんてさ?」
「ふむ、すまないがそこのところはわからない。あんがい物好きな誰かが世界を超えて、世間話にでも話したのかもしれないな。魔術の才能があるものが歴史の表舞台に必ず立つとは限らないように、異世界へわたれる吟遊詩人でもいたのかもしれないな」

 そんな理由で他の世界のことが伝わるなんて嫌だよ。
 心の中で高貴がそうつっこんだ。

「ま、わかんないなら仕方ないか……じゃあ二つ目、ヴァルキリーってなんなんだ? 普通の人間にしか見えないけど、ぜんぜん普通の人間じゃなかった」
「ヴァルキリーの特徴はいくつかある。一つ目は元々女性であること。二つ目は人間よりも高い身体能力を持っていること。そして三つ目は―――」

 エイルが右手を前に出した。中指と人差し指、その二本の指を伸ばすと、指先が青く光りだす。それをすばやく動かし、《ケン》の文字を空中に刻む。
 エイルが掌を高貴に見せると、そこには小さな火の玉が現れた。

「このように魔術が使えるということさ。ヴァルハラのヴァルキリーは、ルーン文字を用いたルーン魔術を使う。ちなみにこれは炎を操る事の出来る《ケン》というルーンだ……ってどうしたんだ高貴?」

 エイルが炎を出した瞬間、高貴は勢いよく後ろに向かってダッシュし、20メートルほど離れていた。
 さらにはビクビクしながら肩を震わせている。

「いや……昨日のあれのせいで、ちょっとそれは怖いって言うか。ほら、あの女に思いっきり狙われたし」
「そうか、すまない。見せるにはこれが一番わかりやすいかと思ったんだ。すぐに消すから安心してくれ」

 そういうなりエイルは手を握る。すると握りつぶされたようにその炎はあっさりと消え去った。
 それを見てようやく高貴の肩の震えが止まる。

「ま、魔術って本当にあったんだな。てっきり漫画とかゲームとか、そういうフィクションの中だけかと思ったよ」
「少なくともこの世界にとってはフィクションさ、この世界には魔術師がいないから、本来なら異世界の住人でもない限り魔術は起こりえない。ああ、正確にはこの星には魔術師はいないか」
「ふぅん……魔術ってなんなんだ? やっぱMPとかを消費して使うのか?」
「ははっ、国民的ロールプレイングゲームじゃあるまいし、そんな名前じゃないよ。捻りも何もない《魔力》というエネルギーを使って魔術は使うものだ」

 知ってんのかよ。どれだけこの国について詳しいんだよこのヴァルキリー。
 炎を消したエイルが高貴に近づいてきた。歩くたびにコツコツと足音が響く。

「私たちが使うルーン魔術というものは、ルーン文字に込められている意味を魔力を使って世界に具現化させるものだ。《ソーン》なら雷、《ケン》なら炎といったようにね。魔力は体力と似た様なものだと考えればいい。人は体力を消費して体を動かす。魔術師は魔力を消費して魔術を起こすんだよ」

 なるほど、ってことは使いすぎると使えなくなるわけか。
 体力がなくなると体が動かなくなってしまうのと同じように、魔力がなくなってしまうと魔術は使えなくなってしまうのだろう。

「なぁ、その魔術ってどうやったら使えるようになるんだ? 例えば俺は使えるのか?」
「そうだな、君は魔力を持っているようだし、練習すれば出来るかもしれないな。しかし君は自分に魔力がある事を自覚していないから、まずは魔力があるということを自覚しなければいけないだろうな」
「え? 俺って魔力ってのを持ってるのか? でも魔術なんて使ったことねーぞ」

 冗談半分で言ったことだったが、まさか自分にその魔力というものがあるなどと言われ、さすがに高貴は驚いた。

「実際はほとんどの人間が魔力を持っているんだよ。魔力を持っていない人間などほとんどいない。実際私がこの世界に来て見た人物やクラスの生徒は全員持っていた。しかし自分が魔力を持っているという事実に気がついていないんだ。この世界に住んでいる人々は皆そうさ。魔力があることに気がつかないから、魔力の使い方を知らず、魔術師になることは出来ない」
「その魔力ってのはどうやったら自覚できるんだ?」

 エイルが高貴の目の前にたどり着いた。

「逆に聞きたい。なぜ君は魔力を持っていることを自覚できないんだ?」
「え?」

 そんなことを言われても困る。
 そもそも魔術なんて昨日まではまったく信じていなかったのだ。いきなり自分に魔力があるなんていわれてもわかるはずがない。

「私には、自分には魔力があるとはっきりとわかるよ。これが魔力なのだとはっきりと感じ取れる。いや、感じるというよりも知っているんだ。これが魔力だとな。それは私が魔術のある世界で生まれたからなのかもしれない。幼い頃から魔術を見てきたせいかもしれない。だから、どうやったら自覚できるのかと聞かれても、自覚できるものは自覚できるとしか答えられないんだよ」
「いや……そんなあいまいな表現されてもさ、俺にはさっぱりだ」
「悪く思わないでくれ、本当に説明できないんだ。知っているのに説明できないことなんて沢山あるだろう? 例えばそれは指の動かし方だ。指を動かすという行為は誰でも知っていることで、誰でも出来ることだが、やり方を説明しろといわれても説明などうまくは出来ない。あとは呼吸の仕方などもあてはまるな。生まれたばかりの赤子ですら知っていて、当たり前のように繰り返す行為だが、そのやり方の説明など出来るはずはない」

 ああ、と高貴は納得した。
 確かにそれらのことは高貴には知ってはいても説明は出来ない行為に違いない。
 と言う事は、魔力を自覚できるものにとって、魔力は当たり前すぎる為、どうすれば自覚できるか説明できないということだろう。

「もっとも簡単に自覚できるようにする方法はいくつか存在するがな」
「ってあるのかよ!!」

 思わず高貴は大声で叫んだ。
 エイルのたった一言で全てが片付いてしまったのだから。今までの長くて難しい話はいったいなんだったのか? 

「しかしまぁ、やめておいたほうがいい。君が君のままでいたいのならね」

 心なしかエイルの表情が厳しくなる。それは警告や忠告というよりも、心底高貴の為を思っているかのように取れる。

「心配しなくても聞いてみただけ、俺は魔術を使えるようになんてなんなくていいよ。平凡な人生からは程遠くなりそうだ」
「ふむ、こうしてヴァルキリーである私とこんな話をしている時点で、もう平凡ではないと思うぞ」
「お前が呼んだんだろ!」
「ははっ、そうだったな」

 クスクスと笑うエイルに高貴は少し呆れていた。
 だいたい昨日の今ぐらいまでは、高貴の日常は平凡そのものだったはずだ。それが昨日いきなりベットに立っていたエイルのせいで、隣の席に界外留学生がやって来るという事態に陥ってしまっている。
 それとも警察に連れて行こうとなど思わずに、さっさと部屋から追い出せばよかったかもしれないが、今更言っても後の祭りでしかない。

「じゃあ次は……お前は昨日のあの女を追ってこの世界に来たって言ってたよな? あの女は何者なんだ? 何が目的でこの世界に来たんだよ?」

 エイルの表情がまた少しだけ険しくなった。
 しばらく沈黙が続いたが、やがてエイルが高貴の顔をまっすぐと見て語り始める。

「それを話すには、ヴァルハラで起きた事を話す必要があるな」
「え? お前の世界で起きたこと?」
「ああ……全ての始まりは《神器》というものがなくなってしまったことだったんだ。ヒルドがこの世界に来たのも、そして私がこの世界に来ることになったのもな」


 《神器》。
 エイルが言葉にしたその言葉を、高貴はどこかで聞いたことがあるような気がした。
 しばらく考えて、昨日エイルとヒルドが戦っていたときに、エイルがヒルドに向かって言っていた言葉だということを思い出す。

「《神器》って確か、昨日お前があの女に言ってた言葉だよな? 危険すぎるとか何とか」

 高貴の言葉にエイルは「ああ」と頷いた。

「《神器》というものを簡単に説明すると、とてつもない力を持った武器のことだよ。いわゆる伝説の武器と言ったところかな。巨大な力を持っているが故に、ヴァルハラでは厳重に管理されているものだ。しかしある日突然その《神器》がどこかに消えてしまったんだ」
「は? 消えたって……盗まれたってことか?」
「それは完全に不明だ。わかっていることは、何の前触れもなく《神器》が突然ヴァルハラから別の世界に飛び散ってしまったということだけさ。《神器》には別の世界への扉を開く力が備わっているから、別世界への転移は可能なのだが、なぜいきなり転移したのかはまったく持って不明だ。我々はもちろんそれを探した。そして《神器》の足取りを追った結果、《神器》が転移した世界というのが―――」
「この世界……だったわけか」

 まったく冗談ではない。どうせなら他の世界とやらにいけばよかったものを、よりによって魔術なんてないこんな世界に来るとは、《神器》とは空気を読めないものらしい。

「いや、正確にはこの町だ。日本という国の、四之宮と呼ばれるこの町に《神器》は転移したんだ」
「……なーんでよりによってこの町に来るかな。つーことは隣町にその《神器》が現れてたら、俺って今でも平穏で平凡な毎日だったのか」

 本当に空気の読めない伝説の武器である。

「しかしだな、驚いたことに飛び去った《神器》はヴァルハラのものだけではなかったんだ。他の世界であるケルトとギリシャの《神器》もいくつか消えたらしい。調べたところその全てがこの世界のこの町に現れたようだ」
「おーい、なにそれ? 《神器》っててっきり一つだけだと思ってた。マジで勘弁してくれよ」

 ついでに世界っていくつあるんだろうと少し気になった高貴だった。

「それでだ、三つの世界の神々による話し合いに結果、すぐに《神器》を取り戻すべきだという意見にまとまった。そしてその役目を引き受けたのがヴァルハラだ。それが決まるとすぐに《神器》を回収するべく一人のヴァルキリーをこの世界に派遣した。それが昨日会ったあのヴァルキリー、ヒルド・スケグルだよ」
「って昨日のやつ? お前じゃなかったのか」
「ああ、ヒルドは《神器》を回収する為にこの世界にやって来たんだ。そして《神器》の回収に見事に成功した。そう報告を受けたから間違いない」
「へぇ、やるじゃんか」

 滅茶苦茶そうに見えたのだが、案外仕事は出来るタイプなのかもしれない。

「したのだが……何故かそのまま帰ってこなかったんだ。回収した《神器》は転移を行ったばかりでまだ別世界に行くことは出来ないだろうが、彼女は帰ってくる時のために《神器》をもう一つ持たされている。にもかかわらず帰ってこない」
「はぁ? なんだよそれ? ひょっとしてその《神器》ってのをどっかに落としたんじゃねーの?」
「確かにヒルドは少々バカだが、そこまでバカではないだろう。理由はまったくわからないよ。昨日は自由を謳歌などと言っていたが、それが本当ならば許すことは出来ないな。《神器》は一個人が持っていていいようなものではないのだから」

 少しはバカなのか。
 まぁ確かに一般人に向かって火の玉を打ってくるような女がまともとは言いがたいが。
 エイルはなかなか容赦がない性格のようだ。

「それでそのヒルドってのを連れ戻す為にお前がこの世界に来たってことでいいのか?」 
「ああ、その通りだよ。私はヒルドを捕らえてヴァルハラに連れ帰る為にこの世界にやって来た。故にヒルドを捕まえたらこの世界から去るよ。その為の《神器》もケルトから借り受けている」
「けると? さっきも出て来た言葉だな」
「ああ、他の世界……いや、この世界で言うところの外国のようなものだよ。正式な名称を言う事はできないから、この世界の神話の名で呼ばせてもらう。ヒルドのときはギリシャが貸してくれたのだが、今度は貸してはくれなかったんだよ」
「ギリシャってこの世界にも普通にあったような気がするけど」
「まぁそのあたりは別に知らなくても問題ないさ。とにかくこれが私がこの世界に来た理由だよ。《神器》を回収したにも関わらず帰ってこないヒルドを捕まえる為だ」

 どうやらエイルたちにとって、《神器》というものはよほど大事なものらしい。

「なぁ、《神器》は危険とかって言ってたけど、それってどういう意味なんだ?」
「……《神器》を手にした人間がその《神器》に気に入られれば、その人間は魔術が使えるようになる。さっき言っていた簡単に魔力を自覚できるようになる方法のひとつというのは、《神器》に選ばれることなんだ」
「ふぅん、そうなんだ。でもそれのどこが―――」

 危険なんだ?
 そう言おうとした高貴だが、すぐにその理由がわかった。昨日のエイルとヒルドの戦闘、魔術の力の凄まじさを自分はとっくに知っている。

「……なぁ、その選ばれる確立とかってあんのか?」
「《神器》にもよるが、魔力さえもっていれば基本的には誰でも使うことが出来る。つまりこの町の人間のほとんどは使える資格を持っているよ。あとはその《神器》に気に入られるかどうか、適合率の問題だな。もしも《神器》を手にしたのが邪な考えを持つ人間だった場合、魔術を悪用する可能性も十分に考えられる」
「おいおい、それってやばいんじゃねーの? お前学校なんか来てる暇はあんのかよ」
「そうは言っても探す手段がないんだ。この世界に来た後《神器》の反応は消えている。唯一あった《神器》をヒルドが回収したからな。とは言っても策はあるから安心してもいい。それにそこまで君を巻き込むつもりはないよ」

 とてもじゃないが安心など出来ない。しかし巻き込まれずに済むのは嬉しいことだ。
 ここまでの聞いた話を高貴は頭の中で簡単にまとめ始める。
 まず、昨日起きたことはやはり夢ではなく現実のことであるということ。
 エイルは中二病などではなく、正真正銘のヴァルキリーであること。
 魔術のことはまぁ別にどうでもいいとして、そもそものことの発端は、《神器》とか言うものがこの世界のこの町に転移してきたから。
 それを回収する為に昨日の赤い髪の少女、ヒルドがこの世界にやってきたが、回収したにもかかわらず帰ってこない。
 よってそれを連れ戻す為にエイルがこちらの世界にやって来た。
 簡単にまとめるとこんな所だろう。
 だいたいは理解できた気がするが、むしろこれから聞くことこそが高貴にとっては本題だ。

「じゃあ次だけど……お前何しにこの学校に来た?」

 エイルの表情がほんの一瞬だけ固まった。固まったその表情は戻ることなく、エイルは高貴から視線をそらすと気まずい雰囲気を醸し出して口を開いた。

「なにってそれは……界外留学生として勉学に励むため―――」
「んなわけねーだろ! わざわざ俺のいるクラスの俺の隣にきておいて、俺が無関係とは思えねーよ! つーか深田君はどうした!?」
「それなら心配はいらない。深田君は本当にご両親の都合で夜逃げしただけだ。近々逃げる予定だったらしいから、それが多少早まったにすぎないよ」
「深田くーーーん!! そういえば最近なんか思い詰めた表情してた気がするうぅーーー!!」
「ちなみに私達が最大限にバックアップをしたから、深田家の皆さんは無事に夜逃げを成功させたよ。ただしどこに逃げたのかは教えることができない。それを言ってしまったら夜逃げの意味がなくなってしまう」

 まさかそんなことになっていたとは。しかし無理矢理転校させられたなどの理由ではなく、エイルが危害を加えたという事でもなかっただけましかもしれない。
 グッバイ深田君。

「それで、なんで俺の隣の席に来たんだよ?」
「……ふむ、隠していても仕方がないか。それは―――ああ、ちょうど来たようだから彼女が話すだろう」

 そう言うなりエイルは空を見上げる。それにつられて高貴も上を見上げ―――

「わっ!?」

 見上げた瞬間に高貴の顔面に何かが落ちてきた。軟らかい物のような気がするし、何だか一部分だけ堅かったような気がするそれは、高貴の視界を一瞬だけふさいで地面に落ちた。

「な、な、何だよ今の!?」

 混乱する高貴に対し「落ち着け」と声をかけると、エイルは落ちてきたそれを拾い上げる。
 よく見てみるとそれは、というよりもよく見なくてもそれは愛らしい熊のぬいぐるみだった。大きさはだいたい40センチ。全身が明るい茶色で黒い目と鼻。おそらくは鼻が高貴に当たったのだろう。
 普通のぬいぐるみにしか見えないが、空から降ってきた時点で明らかに普通ではない。

「……なにこれ?」
「見てわかるだろう? クマだ。モフモフすると気持ちいいし、何より可愛いだろう」
「可愛いっつーか……ここは屋上なのに、空から降ってきた時点で不気味なんだけど」
「うわ、人間君ひどーい。私みたいな美人に向かって不気味だなんて。お姉さん傷ついちゃった」
「…………は?」

 何だ今の声は?
 明らかにエイルの声ではなかったし、口調も違っていた。と、言うよりもエイルが持つクマから声が聞こえてきたような気がする。
 思わずじーっとクマに顔を近づけて凝視する。

「いやん、今度は熱い眼差し浴びせられちゃった。若さ故の暴走を、お姉さん受け止められるか不安だわ」

 クマが普通にしゃべりだした。
 というよりも動いている。両手で顔をかくし(手が短くて届かないようなので、頭も下げている)モジモジと恥ずかしそうにしている。
 動く度にエイルが「くすぐったいから動くな」と言っても、クマは全く聞く耳を持たない。
 つーかぬいぐるみが話してる。
 ツーカ、ヌイグルミガ、コトバヲハナシテ、ウゴイテイル?

「ぎゃああああああ!!」

 高貴はものすごいスピードと形相でエイルからクマをひったくると、腕を大きく振りかぶり、すべての力を込めて、落下防止用のフェンスに向かって投げつけた。

「ぎゃあ!!」

 クマがフェンスに激突し、フェンスがギシリと嫌な音をたてて軋む。
 クマは重力に従って地面に落ちそうになったが、その前にエイルがクマを慌ててキャッチした。

「だ、大丈夫か!? なにをするんだ高貴!」
「だだだだってぬいぐるみがしゃべったんだぞ! なんでお前は冷静なんだよ!?」
「今更そのくらいで驚くこともないだろう。君は昨日から様々な非現実的なことを目の当たりにしているのだから」
「驚くっつーの!!」
「さ、流石のお姉さんでも、これは予想外だったわ」

 クマが再び動き出し、エイルの腕から飛び降りる。スタスタと高貴の目の前まで歩いてきたかと思うと、ビシッと右手で高貴を指差した。

「こら! 人間君だめじゃない! 女性はもっと優しく扱いなさい。ときには激しいアプローチも必要だけど、乱暴だけは絶対しちゃ駄目なのよ!」

 どうして俺はクマのぬいぐるみから説教されてるんだろう? つーかなんでクマが……魔術とかいうやつに決まってるか。
 そう結論付けた高貴だが、今クマが自分のことをどう呼んだかということに気がついた。

「も、もしかしてあんた……昨日公園で話した人……ですか?」

 自分のことを人間君と呼ぶような人物(人かはわからないが)を高貴は一人だけ知っている。昨日公園で話した謎の声のことだ。

「だーいせーいかーい! あとでなでなでしてあげる。こうして話すのは二回目ね人間君。私のことは気兼ねなく美人なお姉さまって呼んでね」
「いや……美人って言うかぬいぐるみじゃないですか。」

 愛らしいぬいぐるみには見えても、美人のお姉さまには到底見えない。

「えー、ケチだなぁ人間君は。じゃあクマでいいわよ。ついでにお姉さんだと思ってもいいわ」
「なんでそんなに適当!?」

 極端すぎる人物だ。口調や声色からして女性。自分のことをお姉さんと言っているあたりおそらくは年上に間違いはないが、どこか精神的に幼さを感じる。
 どうやらこのクマは本名を教えるつもりは無いようなので、どちらにせよクマと呼ぶしかないだろう。
 それにお姉さんのような存在ならバイト先にいるから別にいらない。

「まったくもう、いくらお姉さんでも金網に叩きつけられたのは初めてよ」
「す、すいません。ついビックリしちゃって」
「そーれーにー、唇も奪われちゃった。お姉さんファーストキスだったのになー。強引なんだからぁ。でもこれでお姉さんの初めて二つとも人間君に奪われちゃったんだね……キャッ!」
「何わけわかんねー事言ってんですかあんた! つーかぬいぐるみじゃねーか!」
 
 高貴をからかうように話すクマだったが、満足したのかエイルのほうに向き直った。
「それでエイル。いったいどこまで話したの?」
「ふむ、これからヴァルハラの意思を高貴に伝えようとしていた所だ」
「そうなの。じゃあここからはお姉さんが説明するわね。それでは人間君、君の命運を発表します」

 ゴクリと、高貴がつばを飲み込んだ。

「いろいろと知りすぎちゃったみたいだから、できれば君死んでくれない?」

 ……うそん。
 昨日はエイルから死刑宣告を受け、今日はクマのぬいぐるみから死んでくれと頼まれた。俺もしかして大人しく死んどいたほうが幸せかもしんない。
 いや、やっぱ無理。でも逆らえるわけない。俺の人生ゲームオーバー?

「こら、ウソはよくないぞクマ」

 絶望のどん底に落ちていた高貴をよそに、エイルがしかるような口調でクマいった。

「って嘘なのかよ! マジでビビったっつーの!」
「なによぉ、ちょっと場を和ませようと思って粋なジョークを言っただけじゃない」

 笑えねーよ。
 まぁ槍を突きつけられなかっただけましかもしれないが。というよりもエイルもクマの事をクマと呼んでいるようだ。
 確かにクマだが。

「はいはい、じゃあ真面目にやりますってば。……さて、それでは人間君」

 先ほどと同じようにクマは高貴に向き直る。ただ一つ違うのは、クマのまとっている空気が心なしか真面目なものになっているということだ。

「ヴァルハラの上層部はあなたを監視しろとの命令をエイル・エルルーンに下しました。あなたは昨日魔術の存在を知ってしまったため、その存在を漏らすのではないかとヴァルハラは恐れています。よってあなたの監視役として、ヴァルキリーであるエイル・エルルーンを、四之宮高校2年3組へと転入させました」

 まるで先ほどとは別人のような、淡々とした口調でクマがそう言った。
 つーか概ね予想通りの回答ありがとうございます。
 高貴があらかじめ考えていた理由の中で二番目に嫌だった理由でエイルは来たらしい。
 と言う事はこれからは学校ではエイルと会わなければいけないわけなので、とてもではないが平穏に過ごせる気がしない。
 なんとかして追い払えないだろうか? 

「いや……ほら……俺は別に、そんな事誰にも言いませんって」
「私もそう思っているんだがな。高貴は会ったばかりの私の話を信じてくれたし、ヒルドのところにも案内しようとしてくれた。そんな優しい君なら心配はいらないといったんだが、上層部はそうは思わなかったようでね」

 心が痛い。
 実際はエイルをただの中二病だと思っていたし、ヒルドを見たというのも嘘で、警察に連れて行こうとしただけだ。
 ぶっちゃけエイルの方が勘違いしている。
 しかもわざとではないし、信じてももらえなかったが、昨日真澄と詩織に話してしまってすらいるのだから。

「だが私も頑張ったんだ。最初はさっきクマの言っていたように、問答無用で殺してしまおうという結論がでたのだが、それは何とか止めることができたよ」
「……それは想像してた中で最悪のパターンだよ。つくづくお前って俺の命の恩人なんだな。危険の元でもあるけどさ。でもどうやって転校なんてしたんだ?」
「それは簡単です。エイル・エルルーンを四之宮高校に通わせてほしいと四之宮高校の理事長にお願いしました」

 クマがそうは言うものの、さすがに高貴は信じられなかった。いきなりそんなことを言われて許可する理事長がいるはずがないからだ。

「お前さ、なんか変な事しなかったか? たとえば言うこと聞かないと殺すとか」
「む、ひどいな高貴。私にそんなイメージを抱いていたのか。さすがに少し傷ついたぞ」

 あからさまにエイルは不機嫌になる。
 だって初対面で槍突きつけられたんだから仕方ねーだろ。

「いいか高貴。人に頼みごとをするときは、誠意を見せる必要があるんだ。自分の真剣さを相手に正確に伝える必要がある。その気持ちがしっかりと伝われば、きっと相手はいい返事をくれる。だから理事長も私を界外留学生として受け入れてくれた」
「う……そ、そうかよ。変なこと言って悪かったよ」

 エイルが「まったくだ」とでも言うように得意げな表情になる。

「人と人との繋がりとはそういうものなのです。隠し事をせず、誠実に、真摯に、真剣になってキチンと話し、しっかりと頭を下げてお願いをして、諭吉を渡せば思いは伝わります」
「おい、今なんつったバカグマ?」

 気のせいだろうか?
 今クマが語った人と人との繋がりをすべて否定するような言葉が聞こえたのは。

「あー、人間君ひどい。バカって言ったほうがバカなんですよーだ!」

 シリアスモードが解けたクマが怒った様にわめきだしたが、高貴はそれを完全に無視した。

「そんなことどうでもいいんだよ。おいエイル、お前いったい理事長先生になんて言って頼んだんだ?」
「ふむ、クマから渡されたトランクケースを差し出して、明日から四之宮高校に通わせてほしいと言ったんだ。理事長はケースを開けるとすぐに良いと言ってくれた」
「ちなみに中身は諭吉が5千人ほどよ」
「何が誠意だ! 完全に金で解決しただけじゃねーか!」 
「諭吉こそ誠意よ! それに入学金は必要でしょ?」
「それは裏口入学金って言うんだよ!」
「ふむ、私は正面の玄関から入ったぞ。それにしてもあの中身は諭吉先生だったのか」

 つまりはまぁ、金を払ってエイルのことを認めさせたらしい。そのために5千万を用意するなど、クマとは恐ろしい人物なのかもしれない。

「いい人間君、よく覚えておきなさい。世の中のほとんどの問題は諭吉が解決してくれるのよ」
「ふむ、諭吉先生に頼るしかないということか。悲しいものだな」
「テメーら福沢諭吉先生に謝れこの野郎! それからせめて金と言え金と! これ以上諭吉先生を穢すな!」

 福沢諭吉先生のことを、高貴は特別尊敬しているわけではないが、さすがに諭吉先生に対して失礼だと感じ二人に怒鳴る。

「あー、はいはい。わかったわかったわよ。ちょっと静かにしなさい人間君。次で大事な話は最後だから」

 クマが高貴をたしなめる。次で最後ということを聞き、ようやく高貴は静かになり、クマに耳を傾ける。

「エイル・エルルーンがこの世界、正確にはこの四之宮で《神器》を全て集めるまでの間、この四之宮を特殊監視区域とすることが決定したわ」
「とくしゅかんり……なにそれ?」
「あれ? お姉さんに対して敬語じゃなくなってる? まぁいいわ。簡単に言うとね、災害保険みたいなもんよ。本日より四之宮で魔術による戦闘行為を確認された場合、報告をしてもらえればその損害を元通りに直すって事。例えばエイルが学校を粉々に壊しても、ヴァルハラが責任を持って治すって事よ」
「おお、なんだかずいぶんと親切なんだな。やっぱ魔法で直したりすんの?」
「ああ、その通りだよ。私は壊れたものの修理は得意ではないが、ヴァルハラには《ベオーク》のルーンの達人が山ほどいるからな」
「それと同時に四之宮に一種の結界を張ったわ。これにより四之宮に存在する《神器》は、ヴァルハラの許可なしでは他の世界に移動できなくなったの。だってそうしないと逃げられちゃうもんねー。そのおかげで四之宮では《神器》の持ち主同士のバトルロワイヤルが開催されたりするかも」
「……え?」

 今クマは何と言っただろう? 
 《神器》の持ち主同士のバトルロワイヤル?
 それではその危険な《神器》を持った得体の知れない者たちが、四之宮をうろつくということだろうか?

「ちょ、ちょっと待てよ! それじゃ四之宮がスゲー危険になるじゃねーか!」
「確かにそうなるわね、でもこっちだって対抗策は考えてあるわ。エイルに囮になってもらっているから」
「おとり?」
「ああ、私はヴァルキリーだ。《神器》を持つものならば、私の魔力を感じ取ることが出来る。つまり私が普通ではないと知って私を襲ってくるはずだ。危険な《神器》の使い手や、力におぼれた《神器》の使い手は私が《神器》を持っていると思ってそれを奪いに来るだろう。更なる力を求める為にな」
「あ、なるほど……」
「狙ってこない《神器》の使い手は、正直ほっといても無害なのよね。魔術が使えるようになって便利になったくらいにしか考えないでしょうし。ゆっくりと探しても問題ないわ」

 確かにそれなら不安材料は減る。しかしエイルは《神器》を持つものに狙われて常に危険な目にあうということだ。

「お前はいいのかよ? そんな危険な役引き受けてさ」

 高貴の問いに、エイルはクスリと笑う。まるで心配いらないとでも言うように。

「元々私たちの世界の不祥事で四之宮の人々を巻き込んでしまったのだから、これくらいはしないと駄目だ」

 その迷いのまったくない瞳に、高貴は何もいえなくなった。
 いや、何を言おうとしたのだろう?
 自分はいったいエイルに何と言おうとしたのだろう?
 それが彼にはもうわからない。

「さてと、話はこんなところじゃない? というわけで人間君、これからエイルが《神器》を全部回収するまでいろいろと迷惑かけるかもしれないけどよろしくね」
「はぁ、わかったよ……拒否権はねーんだろ」

 今のクマの言葉に少し違和感を感じた高貴だったが、気にしても仕方がないだろうと思い考えるのをやめた。

「学校は戦乙女学校にしか通ったことがないんだ。いろいろとわからないこともあるから、教えてもらえると助かる」

 自分に拒否権はない。
 だったらもう諦めるしかない。抵抗した所で得体の知れない連中に逆らえるはずないのだから。学校での平穏は諦めて、バイトとプライベートの平穏を楽しもうと決意した。
 忘れろ。それが無理なら気にするな。自分には一切関係のない話だ。
 学校でエイルと多少話す位なら別にどうと言う事はないはずだ。
 自己暗示の如くそう強く思い込む。
 自分には一切関係ないと。 

「そういえば高貴、私はさっきまでの授業中で何かおかしなことをしてしまわなかっただろうか?」
「……え? そ、そうだな……まずは先生には敬語を使っとけ。いくら界外留学生っつっても、目を付けられたらめんどいだろ。あと100メートルはもっとゆっくり走れ。今のところはそれくらいだ」
「ふむ、敬語か。そういえば使ってはいなかったな。これからは教員の人たちには使うように心がけよう」

 その時、昼休み終了の鐘が構内に響いた。後10分で次の授業が始まってしまう時間だ。

「ちょうど話も終わったしそろそろ戻ろうか。昼休みはあと少ししかない」

 エイルが屋上の入り口に向かって歩き出したので、高貴も並んで歩き始めた。クマは「歩くのダルイー」などと言ってエイルの肩にしがみつく。

「あ、昼飯食い損ねた。あと10分しかないし無理かもな」
「そういえばそうだな。出来れば学食や購買という場所にも言ってみたかったのだが―――」

 ピタリと、エイルの足が止まった。
 どうかしたのかと思い高貴も立ち止まると、エイルはなにやらけわしい表情になっており、心なしかクマの様子もおかしい。

「エイル、この気配ってもしかして」
「ああ、間違いない。《ベルセルク》だ。しかしどうしてこんな時間にベルセルクの気配が?」
「おい、どうしたんだよ? なんだよそのべるなんとかって」 

 その言葉に返事を返すことなく、エイルとクマは何かを探すように屋上を見渡している。
 いったい何があるのだろうと思い高貴もあたりを見渡すが、そもそも屋上には何も置かれていない。
 ほかに人がいるようにも思えないし、そもそもいたらエイルがそれに気がつくだろう。
 そう思っていたときに、高貴はそれを見つけた。
 屋上の地面のところどころに、黒い影のようなものが出来ている。
 丸く、深い黒い色をした影。しかし屋上には影ができるようなものなど何一つ存在しない。

「な、なぁ。あの黒いのってなんだろう?」
「……クマ、高貴を頼む」
「オッケー任せて。あっちはよろしく。あ、鎧は着ちゃ駄目よ」
「別にかまわないが何故だ?」
「なんでもよ」

 クマがエイルの肩から高貴の肩に飛び移った。エイルが一歩一歩黒い影に近づいていく。 距離にして約5メートルほどまで近づいたとき、影から何かが飛び出してきた。
 出て来たそれは人間の形をしていた。大きさも人間と同じくらいだ。しかし明らかに人間ではないことがわかる。
 全身が黒で覆われ、黒い煙のようなものが体のところどころから漏れている。
 まるで鎧でも着ているかのような、もしくは岩を人の形にでも削ったかのようなそれは圧倒的に異質な存在だった。

「人間君こっちよ! 速く屋上の隅のほうに移動して!」

 クマが先導して高貴を誘導する。高貴はなんとか足を動かして屋上の隅まで移動した。

「な、なんだよあれ!?」
「落ち着いて人間君、あれはベルセルクよ。力を求めた亡者達の成れの果て、《神器》の魔力に当てられてこの世界でも出現したみたいね。ここはエイルに任せましょう」
「だ、大丈夫なのかよ!? なんだか沢山いるし、エイルが危ないんじゃねーのか!?」

 慌てる高貴とは対照的に、クマはクスリと笑った。

「やっぱり君は優しいのね。関わりたくないとか平穏に生きたいとか言っても、君の平穏を壊した原因でもあるエイルを心配してくれるなんて。でも大丈夫よ、エイルの強さは君も知ってるでしょう」

 影からはどんどんベルセルクがあふれてくる。にもかかわらずエイルは全く動揺しているようには見えない。

「悪いが……次の授業まで時間がないんだ。さっさと終わりにさせてもらおう。初日から遅刻というのはしたくないのでね―――来い、契約の槍!」

 エイルの右手にランスが現れ、闘いの姿勢をとる。それが合図になったのか、ベルセルクが一斉にエイルに襲いかかっていった。
 ベルセルクたちがエイルに向かって一歩踏み出した瞬間に、それを迎え撃つようにエイルが走る。
 今のエイルが着ているのは四之宮高校の学生服、履いている靴は普通のローファーにもかかわらず、昨日の戦いと同じように速く走っている。
 このベルセルクたちの動きは遅い。昨日のヒルドに比べたらそれこそ止まって見える。
 勢いを緩めずに突進、そのままランスで正面のベルセルクの右肩を貫いた。
 ばしゅっ、と妙な音が響き、ベルセルクの腕が肩からちぎれ落ちる。その腕は地面に落ちると黒い煙になって完全に消え去った。

「グオオオオオオ……!!」

 ベルセルクが咆える。
 まるで腕を失った苦痛の叫びの様なそれは、どんな生き物の咆哮とも似つかない不気味な叫び。
 恐怖、不安、絶望。そんなものを世界に振り撒いているかのような咆哮だ。
 片腕を失っても、ベルセルクは止まらない。エイルに向かって残った左腕を振り上げた。
 左腕の先端部分が一瞬で変形していく。大きく、そして指先は鋭い爪のように、鋭利な刃物のように。ベルセルクの左腕はもはや人のものというよりは獣のそれとなってしまっている。
 その凶器となった左腕を、ベルセルクはエイルに向かって容赦なく振り下ろす。
 エイルは後ろに飛んでそれをよけた。風圧がエイルの頬を打つものの、爪自体はエイルには届いていない。
 着地したエイルはすぐさま反撃を―――出来なかった。
 ベルセルクは一体ではない。いつの間にかエイルの後ろにまできていた別のベルセルクがエイルに襲いかかる。
 それをかわしてもまた別のベルセルクがいる。気がつけばエイルは6体のベルセルクに囲まれていた。

「ふむ、囲まれたか」

 逃げ場がまったくない。そんな圧倒的不利な状況にもかかわらず、エイルに顔に焦りは見えない。
 ジリジリとベルセルクたちが距離を詰めてくる。そしてタイミングを合わせて腕を振り上げ、一斉にエイルに襲い掛かった。

「エイルっ!!」

 思わず高貴が叫ぶ。それと同時にエイルが勢いよく地面を蹴った。
 ベルセルクが向かってくる六方向のうち、一つの方向に向かって彼女は走る。
 狙うは自分が先ほど右腕を吹き飛ばしたベルセルク。

「ガアアアアア!!」

 隻腕のベルセルクが振り上げていた左腕を振り下ろす。しかしエイルの動きのほうが一瞬早い。

「はあっ!!」

 左腕がエイルにぶつかる前に、エイルのランスがベルセルクの腹部を貫いた。そのまま押し切り六方向からの包囲網を突破する。
 ばしゅっ、と先ほど腕を貫いたときよりも鋭い音が響き、ベルセルクは煙のようにあっけなく消滅した。
 エイルはまだ止まらない。
 包囲網を抜けた彼女は好機とばかりに方向を変え、一番近いベルセルクに向かって水平にランスを振るう。
 自分の身の丈以上もあるランスを思い切り振り回し、遠心力の力を加えたその一撃は、ベルセルクの背中に直撃した。
 がきぃ、とまるで岩を叩いたかのような音が離れて見ている高貴まで届く。あれが人間ならば、背骨が粉々にでもなりかねないその一撃。

「ガアアアアアア……!!」

 しかし―――ベルセルクは人間ではない。
 その一撃はまったくきいていなかった。ベルセルクは何事もなかったかのように振り返り、右腕を振り下ろして反撃をする。
 エイルはランスを盾に、その一撃を受け止めた。

「お、おいクマ! なんで今のきいてないんだよ! さっきは簡単にやっつけただろ!?」

 高貴がクマに向かって問いかける。

「エイルの武器を見てみなさい。答えは自ずと見えてくるわ」

 エイルの武器?
 彼女が使っているのは、身の丈以上もある白のランス。太陽の光を反射し煌めくそれは、特に問題があるようにも思えない。
 実際エイルは、一体のベルセルクをそのランスで見事に貫いて見せた。その切れ味に問題があるとはどう考えても考えづらい。
 いや待て。切れ味だと?
 高貴はようやく気がついた。エイルの持つランスには、切れ味などないということに。
 ランスとは元々突くことを主体に作られた武器であり、先端の突起部分は鋭く鋭利ではあるが、側面の部分には刃などついていない。
 故に、刺突に用いるのなら殺傷能力は高いだろうが、剣のように振るっても斬撃にはならないのだ。せいぜい棍棒などと同じ打撃、もしくはそれ以下の攻撃しか出来ない。
 倒したときの一撃は本来の使い方である刺突。
 倒せなかったときの一撃は本来の使い方ではない打撃。
 それは気がついてしまえば実にシンプルで当たり前の答えだ。

「気がついた? エイルの武器はランス。この世界でも確か存在している武器だけど、主に馬に乗った騎兵とかが使うものなの。そして有効な攻撃方法は刺突だけ、つまりはぶっ刺さないと無理ってことね。だから斬りつけてもベルセルクにはあまり意味ないわよ。だって刃がついてないもの」
「だ、だったらあいつはなんでそんな武器使ってんだよ? 昨日の赤いやつみたく剣を使えばいーじゃねーか!」
「彼女はちゃんと剣も使えるわ。いいからお姉さんを信じて安心して見てなさいな」

 クマに言われてもまったく安心などできるはずがない。エイルは先ほどから攻撃をすることはなく、ベルセルクの攻撃をかわすのみになってしまっている。

「エイル! 人間君が心配してるからそろそろ片付けなさい! それに授業が始まるまであと7分よ!」

 クマの声にエイルの表情が変わった。バックステップでベルセルク達からいったん距離をとった。
 しかし後ろはもうフェンスがあり、これ以上下がることは出来ない。

「やれやれ、出来ればもう少し様子を見てみたかったのだが……授業が始まるのならば仕方がないか」

 エイルが右手を眼前に掲げた。ピンと伸びた中指と人指し指に青い光が灯りだす。

「一気に決めさせてもらおう。《ソーン》、《ベオーク》、バインドルーン・デュオ!」

 中空に走る青い軌跡。描かれたのは《ソーン》ルーンと《ベオーク》のルーン。

「集え、青き雷光―――《雷光の槍ブリッツランス》!」

 一つに溶け合う二つのルーンあお、エイルが左手に持っているランスが青い光を纏った。
 同時に青い雷でも宿っているかのごとく、ばちばちっ、と電気が走っている。
 白から青へと姿を変えたランスをエイルは構え、一体のベルセルクに向かって疾走した。ランスの光によって作り出される青い軌跡を作りながら、エイルは一気に距離を詰める。
 ベルセルクが腕を振り上げる。振り下ろされる先は当然エイルがいる。
 しかし攻撃にしろ回避にしろ、スピードはエイルのほうが上。勢いに乗って突っ込めば、先ほどのようにベルセルクの胴体を串刺しに出来るだろう。
 にもかかわらず、エイルはベルセルクの前で足を止めた。
 これでは自分から攻撃をくらいにいくようなものだが、当然エイルはそんなことを考えてはいない。
 振り下ろされる異形の腕、その腕目掛けてエイルは、ランスを思い切り振り上げた。
 それは明らかに本来の使い方ではない。遠心力や腰の回転も利用した、まるでランスではなく大剣でも使っているかのような振り上げ方。
 振り下ろされる左腕と振り上げられる槍。
 激しく衝突する異形の腕くろランスあお
 瞬間―――異形の腕くろが粉々に砕け散った。

「グウウウウウ……!!」

 片腕をなくしたベルセルクが苦痛の唸りを漏らす。その隙にエイルは次の攻撃の動作に入っていた。
 斜めに振り上げたランスの遠心力を利用して回転、そのままランスをベルセルクの腹目掛けて叩き付けた。
 いや、叩き斬った。
 ばしゅっ、と音を上げ、ベルセルクの体が二つに裂ける。今度は完全に一閃に斬り裂いたのだ。
 真っ二つに斬られたベルセルクは、今度うめき声を上げるまもなく消滅した。

「ガアアアア!!」

 他のベルセルクも腕を振り上げ襲い掛かってくる。
 しかし、もはやエイルには通じない。エイルはせまりくるベルセルクたちの攻撃を全てかわしながら、的確な攻撃で次々とベルセルクを薙ぎ払っていった。
 ポカンとしながらその光景を見ている高貴。本当に自分の心配がただの杞憂だったということを思い知らされた。

「解説がほしい人間君?」
「……あの青い光でパワーアップしたのか?」
「ごめーとー。詳しい説明はめんどくさいから省くけど、ルーンで槍を強化したのよ。よくゲームで合成とかして武器に属性をつけたりするでしょ? あれの雷版。色が青いのは個人個人で違うときがあるから気にしないで。もっとも、ベルセルクは真っ二つになってるけど、本来は人に使っても死なない安全仕様よ」
「でもなんであんな戦い方なんだ? あの槍って突き刺すものなんだろ?」

 なぜランスを使っているにもかかわらず剣術で戦っているのか。そのことが高貴にはどうしてもわからないのだ。
 剣術を使うのなら、昨日のヒルドのように剣を使ったほうが良いに決まっている。

「エイルはね、戦乙女学校で剣術を学んでいたにもかかわらず、武器にはランスを使っているの。ランスを使って剣術の戦い方をすれば殺傷能力は格段に下がる。でもその分命を奪わなくて済むってね。でもランスって突きの威力はすごいけど、それ以外は本当に応用がきかないでしょ? それでベルセルク用と強いやつ用にあれを編み出したってわけよ」

 ひときわ大きな音が響いてきた。エイルがベルセルクの最後の一体を斬り捨てた音だ。
 縦に一刀両断されたベルセルクが煙のように消えると、屋上の上に静寂が戻ってくる。
 しかし、エイルはまだ警戒を解いていない。その視線の先にはベルセルクが出て来た黒い影。あれが消えない限りはまだ次のベルセルクがでてくる可能性があるということだろう。
 そして、その警戒が正解であったことはすぐに証明された。黒い影の中からまるで腕のようなものが生えてきたからだ。
 出て来たそれは、まるで穴の中から這い上がっているかのように地面を掴む。
 次に現れたのは顔、そしてもう片方の腕。
 そこまで現れた次の瞬間、ベルセルクは一気に飛び出して屋上へと降り立った。
 まず、今までのベルセルクとは圧倒的に違うのはその大きさ。先ほどまでのベルセルクは2メートルほどしかなかったが、今回のそれはその約2倍の4メートル近くもある。
 力強く禍々しいその姿はまさしく黒の巨人。

「キシャアアアアア……!!」

 黒の巨人が空に向かって咆哮する。
 それだけでビリビリと肌を焼くような衝撃が走り、大気が振るえ、心の底から恐怖が溢れてくる。
 しかし、エイルは違った。
 先手必勝といわんばかりに地面を蹴り、咆哮をあげているベルセルクの腹をランスで思い切り斬り付けた。
 まるで岩を砕いたかのような轟音が響いたが、やはり大きいだけあって先ほどのベルセルクよりもさらに硬い。ベルセルクは数メートル後ろに下がっただけで、ダメージはまったく負っていない。
 攻守が変わる。黒の巨人が動き出した。
 振り上げられるその豪腕。振り下ろされる黒の鉄槌。
 禍々しき爪による一撃を、エイルは横に飛んで回避した。
 しかし、ベルセルクの腕はそのまま屋上に叩きつけられ、地面のコンクリートがその衝撃に耐え切れずに砕け散った。
 轟音が響き、コンクリートの破片が辺りに飛び散る。地面には大きな傷跡ができている。

「回避は……しないほうがいいかもしれないな」

 これ以上回避すれば、最悪ベルセルクによって屋上が破壊されてしまうかもしれない。そう考えたエイルは足を止めてベルセルクに向き直った。
 回避ではなく疾走。
 ランスを剣の如く持ち、ベルセルク目掛けて斬りかかる。
 それを右手で受け止める黒の巨人。すぐさま返しの左腕を振るう。エイルは青のランスで、ベルセルクは黒の双椀で斬り結び始めた。
 金属と金属がぶつかり合うような鋭い音が何度も響き、槍と腕がぶつかり合うたびに青い残光が弾ける。
 エイルが何度ランス打ち付けても、ベルセルクの腕はまったく壊れることはない。ベルセルクの攻撃はエイルに当たる事はなかったが、このままでは埒が明かない。

「エイル! 後4分で授業が始まるわ!」

 そんな状況にもかかわらずクマがエイルに向かって叫んだ。するとそこで初めてエイルの顔に焦りが浮かぶ。
 その焦りは恐怖ではない。彼女はベルセルクに対して恐怖などしていない。
 彼女が恐れているのは、このまま手間取ってしまい授業に遅刻してしまうことだ。
 故に、この戦いを迅速に終わらせる。そのためにエイルは高貴に視線を向けた。

「高貴! そこから見てグラウンドに人はいるか!?」
「え、グラウンド?」
「そうだ! そこからなら確認できるだろう!?」

 高貴のいる位置は屋上の隅。フェンス越しにグラウンドを見ることは確かにできるが、なぜ今そんなことを聞くのかがわからない。それでもエイルに伝えようと、高貴はすぐにグラウンドを見下ろした。
 幸いなのかはわからないが、グラウンドには誰もいなかった。次の授業が体育のクラスがなかったのか、はたまた体育館でやっているのかはわからないが、人一人見当たらない。

「エイル! グラウンドには誰もいない!」

 高貴がエイルのほうに振り返り叫ぶ。その言葉を聞いたエイルは確かに頷いた。
 しかし、ほんの一瞬。視線がベルセルクから高貴に向いたその瞬間に、ほんの一瞬だけエイルに隙ができる。その隙をベルセルクは見逃さなかった。
 腕を振りおろすのではなく、ラリアットのような動作でエイルに右腕を叩きつける。ぶつかる直前にランスを盾にしてそれを防御するものの、勢いは殺しきることが出来ずにエイルは後ろに吹き飛ばされた。

「エ、エイル!」

 エイルはまっすぐに吹き飛ばされ、このままでは屋上の入り口のドアに叩きつけられる。いや、その少し横の、もっと硬いコンクリートの部分に頭から衝突するだろう。
 俺のせいだ。
 俺があんなタイミングでエイルに声をかけたから。
 高貴は自責の念に押しつぶされそうになり目を閉じたが、ふとエイルの声が聞こえたような気がした。
 ありがとう―――と。

「え?」

 高貴が顔を上げる。
 エイルは吹き飛ばされながら体を捻り、屋上の入り口のドア、その横のコンクリート部分に着地した。

「助かったよ高貴、これで終わりにできる。《ラグズ》―――!」

 重力がエイルの体を地面へと導くよりも一瞬速く、彼女の左手が《ラグズ》のルーンを刻む。
 ピシリと、エイルが足をつけているコンクリートにヒビが走る。次の瞬間―――エイルがベルセルクに向かって跳んだ。
 地面に着地することなく、まるで弓から放たれた矢の如く、ベルセルクに向かって一直線に突進した。
 青の矢と化したエイルはランスを正面に構えてベルセルクを貫くつもりだ。
 ベルセルクは両腕を交差して、それに備えるたえめに防御の体制をとった。
 青と黒が再び衝突、鈍い音があたりに響く。
 しかし、その渾身の一撃でさえ、ベルセルクを貫くには至らない。

「はああああああ!!」

 だが、先ほどエイルが吹き飛ばされたときと同じだ。ベルセルクは勢いを殺しきることが出来ずに、エイルに押されて後方に吹き飛んだ。
 ランスの先端を止めてはいるものの、エイルの突進をかわす事が出来ず勢いよく屋上のフェンスに叩きつけられる。
 がしゃあん! と大きくフェンスが軋む、その勢いと衝撃に耐え切ることが出来ずに、フェンスの一部が勢いよく吹き飛ぶ。
 止まったのはフェンスにぶつかった一瞬のみ、そのフェンスという支えを失い、エイルとベルセルクは空中に放り捨てられた。
 重力に引かれてエイルとベルセルクがグラウンドに吸い込まれていく。
 それでも、エイルのランスはベルセルクを捉えて逃がさない。元々ここまでがエイルの狙いだったのだ。
 重力の力と地面へと落ちる衝撃を利用してこのベルセルクにとどめを刺すということが。

「貫けええええええーーーーー!!」

 落下の勢いは当然ながら弱まることはない。ますます加速したその勢いに乗ったまま、 どおおおん! とまるで岩でも降ってきたかのような轟音を上げて、ベルセルクは地面に叩きつけられる。
 瞬間―――エイルのランスが、ベルセルクをその両腕ごと完全に貫いた。
 ベルセルクの体を貫通したランスの先端は地面にまで達しており、黒の巨人の動きは完全に封じられる。

「グウウウウ……」

 地面に貼り付けにされたベルセルクが唸り声を上げる。
 それが最後の力だったのだろう。ベルセルクは動かなくなり、サラサラと黒い砂のようになって消え去った。
 ベルセルクが完全に消滅した事を確認すると、エイルが地面からランスを引き抜く。

「ふむ、案外時間が掛かってしまったな。フェンスを壊してしまったが……まぁクマに任せるとしよう」

 エイルのランスから青い光が消えると、ランスは光の粒子となって消え去った。
 その光景を屋上から呆然と高貴は眺めていた。

「さすがエイル、思ったよりも早く片付いたわね。いやぁ、お姉さんは鼻が高いわ」
「……なんだよこれ?」

 高貴の漏らした声にクマが反応する。

「なんなんだよこれ? こんなのが当たり前になるってのかよ? この四之宮ではこれから毎日こんなことが起きるっていうのかよ? なぁ、どうなんだよクマ?」
「……さっきも言ったけど、君は別に戦う必要なんてないわよ。戦うのはエイルだけ。だから危害が及ぶことはないと思っていいわ」

 危害が及ばない?
 どうしてそんな言葉を信じられる。大体危害がないとしても、こんな物騒なことが起きる町で暮らしたくなんかない。
 戦うのはエイル一人。じゃあエイルやられちまったら……

「高貴、大丈夫か?」

 声がしたほうをみると、いつの間にかエイルが屋上に戻って来ていた。これだけ早く戻ってきたということは、おそらくは魔術を使ってきたのだろう。

「エイル、あなたこそ大丈夫? 屋上からドスンといっちゃったけど」
「問題ない、私はヴァルキリーだ」

 本当に平気そうにエイルはそう言った後、もう一度心配そうな表情で高貴を見る。

「ふむ、顔色が悪いぞ高貴。どこか怪我したのか?」
「怪我は……してない。でもさ、昨日といい今日といい、やっぱあんなもん間近で見たから……」
「そうか、ならば君は次の授業は休んだほうがいい」
「え?」
「今言ったように顔色が悪い。それにあんな非現実的なものを見せられたんだ。少し心の整理の時間も必要だろう。保健室は―――場所がわからないな。しかし屋上でも休むことくらいはできるだろう。ここには人が来ない。クマ、後は任せても構わないか?」
「ええ、お姉さんに任せておきなさい」

 クマが短い右腕でポンと自分の胸を叩いた。

「では私は行くよ。授業が始まってしまうからね」

 そういい残して、エイルは屋上から出て行った。高貴は何も言うことができず、その背中を見送ることしか出来ずにいた。

 ◇

 空が青い。
 屋上で仰向けに寝転がりながら、高貴はそんなことを考えながらボーっとしていた。
 5時間目の授業が始まりの合図を告げる鐘は、3分ほど前にもうとっくに鳴り終えた。高貴はというと、エイルに言われたとおりに授業を休んで空を見ている。
 正確にはサボったわけだが。
 先ほどのエイルとベルセルクの戦闘は、やはり平穏を望む高貴には刺激が強すぎたようだ。自分は何もしておらず、隅でただ見ていただけなのだが、いまだに思い出すと震えが止まらない。
 自分とエイルとでは完全に住む世界が違うということを今更ながら認識する。

「ねーねー、ちょっと人間君ってばぁ。そんな所で暇してるくらいならお姉さんの事手伝ってよぉ」

 頭の上のほうからクマの声がしてくる。視線をずらすとそこには確かにクマがいた。
 いたのだが……

「人間君ってば聞いてるの? これ重いから手伝って言ってるんだけどー。お姉さんみたいなか弱い乙女に、一人でこんな力仕事させる気? 直すのも楽じゃないのよ」

 何がか弱い乙女だよ。その頭の上に持ってるものはなんなんだっつーの。
 クマはその短い両手を上に上げ、頭上にあるものを持っていた。エイルが先ほどの戦闘で壊したフェンスだ。屋上から落ちた故にところどころフレームが曲がっており、大きさは3メートルはありそうな落下防止用のフェンスをクマは両手で持っていた。
 いや、明らかにおかしい。普通はフェンスの重さに耐え切れなくて、クマの体が潰れてしまうだろう。しかしよく見てみるとクマは両手で持っているわけではなく、まるで超能力でも使っているかのごとく、手から数センチほど浮かせて持っていた。
 まぁ超能力ではなく魔術だろうが。
 もしもクマが自分のほうにフェンスを倒せば、ハエたたきで潰されたハエのようになってしまうだろう。しかしどこからどう見ても辛そうには見えないため、高貴は「頑張れよ」と一言声をかけただけでまたゴロンと空を見上げた。
 だがどうやってフェンスを直すのかが気になり、すぐに視線をクマに戻す。クマはフェンスを外れた場所までもっていきいったん横に置いた。壊れたフェンスと外れた箇所を、腕を組みながら交互に見ている。

「ふむふむ……幸いかなり折れ曲がってるけど、大きな破損はなしっと。螺子とかがなくなってるけど探すのがめんどくさいし、少し鉄を削って代用するとして、まずはフレームを真っ直ぐにして、次に固定と取り付けって事でいいわね。《ベオーク》」

 クマの右腕が動き、空中に茶色でルーンが刻まれた。
 するとフェンスがきしむ音を立てて真っ直ぐになり、ふわりと空中に浮いた。と思ったらもうフェンスは外れた場所に収まっていた。そこには壊れた形跡などまったくなく、むしろ壊れていたはずの一部分だけ新品のようになっている。

「……マジ?」

 つくづく魔術の非常識さには驚かされる。どんな魔術を何回見ても驚かないなんて事はありえない。クマが一仕事終えたと言った感じで高貴の元に歩いてくる。

「見て見て人間君! お姉さんすごくない? ほら、完璧じゃない?」
「……ああ、すげーなクマ」
「はぁ、人間君さぁなんでそんなにブルーになってるの? さっきの戦いでは別に人間君は危険な目にあってないでしょ? ベルセルクは普通の人間は襲わないから問題ないってば」
「ベルセルクって言うのかあれ? いったいなんなんだ?」

 明らかに人にも動物にも、むしろ生物にさえ見えなかった黒い存在。あえて言うとしたらあれは……

「幽霊や亡霊……みたいなものよ」

 当たりかよ。

「ベルセルクは《神器》をもった存在とヴァルキリーを襲ってくるの。人間君でも聞いた事があるような表現を使えば、その地に眠る怨霊とかが身体という器を手に入れた存在ね。でもさっき言ったように普通の人間を襲う心配はないわ。だってベルセルクの目的は強い魔力を持った存在と戦うことだもの。普通の人間なんて相手にしない、いえ、相手にしてもらえないわよ」 
「そういえば、あいつら俺のほうは見向きもしなかったな。エイルだけを集中して狙ってた。でもそうなると《神器》を手に入れた人間は襲われちまうんじゃ……」
「《神器》を持ってる人間はベルセルクなんかに負けたりしないわよ。ベルセルクは勝ち目がなくても戦う。戦うことしか考えられない狂戦士。しかしこの世界にも出てくるなんて驚きね。早速《神器》がこの世界に影響を及ぼしているのかしらね。まぁ妙なのはそれだけじゃないけど」
「どういうことだよ?」
「ベルセルクは本来なら昼間の時間帯には出てこないのよ。でてくるとしたら太陽が沈んだ夜の時間帯だけ。それに標的以外の人間、例えば今回の場合は人間君ね。それがいるときもでてきにくい。だから私達はベルセルクの危険性ははずしてたんだけど……まぁ遭遇しても逃げてさえくれれば問題ないんだけどね。それどころかケンカ売って殴りかかったとしても無視されるのが関の山。意外とベルセルクって紳士なのかも」

 紳士が女を襲ったり、屋上壊したりしねーだろーよ。それにもっと優しい表情してるんじゃね?

「あ、そういえば、エイルが屋上から飛び降りたときに、教室とかから誰かが見てたりしなかったのか?」

 エイルの最後の一撃の時、グラウンドには人がいなかったものの、飛び降りているときは教室から丸見えだったはず。どこかのクラスの生徒が外を見ている可能性は十分にありえる。

「安心なさい、さっき私がこの学校の全ての人間にルーンをかけたわ。エイルがここから飛び降りてから、ここに戻ってくるまでのわずかな時間の記憶を消しておいたから。軽いど忘れみたいになってると思うけど、数分だから問題はないはずよ。お姉さんにぬかりはないわ」

 いったいいつの間にそんなことをしたのだろうか? そういえばいつの間にか屋上の地面の傷なども綺麗さっぱりなくなっている。
 屋上が元に戻った事を理解した高貴は、今度こそゆっくりしようとゴロンと横になった。

「ふぅ、お姉さんも休憩しよっと」

 その横にコロンとクマも横になる。この年になってぬいぐるみと一緒に並んで寝ているなど、誰かに見られたら恥ずかしさで死んでしまいたいくらいだが、ここには人が来ないので問題ないだろう。
 空は本当に青い。
 屋上は心地よい風が吹いており、こうして寝転がっているだけで落ち着いてくる。このままボーっとしていればだいぶ落ち着いてくることだろう。

「ねーねー人間君、暇だから何か話そーよー。お姉さんたーいーくーつー」

 ……クマさえいなければ。
 無視しようにも腕で顔をモフモフと何度もつつかれては、うっとおしくてさすがにそうもいかないので、高貴は仕方なく体を起こした。

「はぁ、わかったよ。つっても何の話をするんだ? 俺はもう聞きたい事なんて何もねーぞ」
「そうねぇ、じゃあ今回の件について、いち一般市民としての人間君の意見を聞かせてくれない? 思った事なら何でもいいわよ」

 ふむ、と高貴はしばし考えた。

「……正直な所、どんなに詳しく説明を聞いてもあんまり理解できない。つーかわかりたくもないし関わりたくもない。《神器》とかヴァルキリーとかどうでもいいから、さっさと帰ってくれないかなっていうのが俺の正直な気持ちだよ」
「あらら、ずいぶんと手厳しいのね。あとは?」
「それだけだよ」
「え? 本当にそれだけなの?」
「それだけだよ。だって本音を言えって言ったのはクマだろ。本音なんて二つもありゃしないって。だからこれだけ」
「でもさっきはいいもの見れたでしょ?」
「いいものってなんだよ?」
「エイルのパンツ」
「ぱ、パンツ!?」

 あまりにも予想外の事を言われたので、高貴は度肝を抜かれてしまった。

「お姉さんの目はごまかせないわよ。さっきエイルがフェンスを壊したときに、人間君はエイルのパンツを見たはずよ。さぁ、何色だったか言いなさい!」

 白でした。
 しかしまて、あれは不可抗力だ。エイルの事を視線で追っていったら、屋上から落ちるときに見えてしまっただけでわざとじゃない。

「み、見てねーよ! とにかく本音はさっきいったとおりだ!」
「ふーん……さっき言ったとおりねェ……」

 どこか含みのある雰囲気でクマが高貴を見ている。それがなんだか気に入らなかった高貴は、さらに言葉を続けた。

「だいたいさ、エイルと会ってまだ一日、つーか24時間もたってないのに、昨日といい今日といい信じらんねーものばっか見てるんだよ。こんなのが日常的な事になっちまうのは嫌だ。俺はもっと平穏に生きたいんだ。特別な事なんてしなくてもいいし、特別なものなんかに関わらなくてもいいから、何事もなく普通に生きたい」
「でも人間君、それって楽しいの? 特別がないって事はいつも同じ毎日の繰り返しでしょ? そんな日々を平凡にすごして、そんな人生を楽しいなんて言えるの?」
「言えるよ」

 間髪入れずに高貴がそういった。あまりにもはっきりとした物言いに、クマのほうが少し驚いている。

「朝起きてさ、学校に行く準備をして登校する。教室に入って、前の席の真澄におはようって言う。ホームルームが始まるほんの少し前に俊樹が教室に入ってきて急いで席に着くのを見て朝のホームルーム。嫌な授業を眠いのやだるいのを我慢して受けて、好きな授業は楽しみながら受ける。友達と一緒に昼飯食って、前の日に見たテレビとか、ゲームや漫画の話、他にもいろんな話をして残り二つの授業を受ける。バイトのある日はマイペースにいって、ない日は家でゴロゴロして、後は夕飯食って風呂は行って寝る。で、また朝起きる。これが今の俺の日常で変わらない毎日だよ。何回同じ事を繰り返しても、何も変わる事がなかったとしても、特別な事なんて何もなかったとしても、俺はそんな平穏で平凡な日々がすっげー楽しいんだ」

 本当に。
 他人には退屈だと思われるような日々でも、高貴にとっては最高に楽しい日々なのだ。

「変わらない日々ね……」
「もちろんずっと変わらないままでなんていられないのはわかってる。高校を卒業して、大学行くなり就職するなりで進路は別れるだろうし、そうなると今みたいに毎日顔を合わせる事も出来なくなる。だからこそ変わらない内は、その平凡や当たり前を大切にしたいっつーかさ……つまり……えーと」
「わかったわよ人間君。あなたがどういう人間なのかはお姉さんにはだいたい理解できました」

 だんだんとうまく説明する事が出来なくなっていた高貴の言葉をクマが打ち切った。

「ま、危険に巻き込むつもりはないけど、自分から危険に首を突っ込む分には止めないから気をつけてね」
「自分から危険にって……そんなのありえないって」

 そう、ありえない。自分から危険に関わろうとするなど自分にはありえないはずだ。高貴は強く自分に言い聞かせる。
 すると緊張が解けてきたのか、意識がだんだんと眠りに吸い込まれてきた。

「はぁ、それにしてもめんどくさい考えを持った子供ね。自分の事なのに自分の事を半分しか理解してないじゃない。思春期だからかしら?」

 クマが何かを呟いた気がするが、その言葉が高貴には届く事はなく、高貴はゆっくりと目を閉じた。



 やってしまった。というよりも眠ってしまった。
 屋上で見事に爆睡をしてしまった高貴が目を覚ますと、時刻はもう最後のホームルームの終わる5分前の時間だった。
 今から行ってもどうにもならないだろうと判断した高貴は、仕方なくホームルームもサボろうと思い、屋上で少しだけ時間を潰して、今教室に戻っているところだ。

「はぁ、先生まだいたらどう言い訳すっかな……それ以上にサボったなんて知られたら真澄になんて罵倒されるかわかったもんじゃねーし。だいたいクマはどこいったんだよ。あいつが起こしてくれればよかったのにさ」

 高貴が目を覚ましたときには、クマはどこかに行ってしまったらしく屋上から消えていた。
 どこに行ったのかなど見当もつかないが、来たときも空から降ってきたので、案外屋上からでも飛び降りたのかもしれない。
 まぁ、ぬいぐるみなので死にはしないだろうが。むしろぬいぐるみが壊れても死ぬのかもあやしいが。
 教室の扉の前に立つ。少し入りづらいが、もうホームルームも終わっていることだしさっさと帰ろう。
 それから今日はバイトがないので家でゆっくりしよう。そんなことを考えながら高貴はドアを開けた。
 教室ではほとんどの生徒が帰る準備をしていたが、エイルのいる机周辺には人が多く集まっていた。休み時間も集まっていたし、かなり時間の取れる昼休みは屋上だったので、まだ沢山エイルに聞きたい事などがあるのだろう。もしくは美人の界外留学生と仲良くしたいだけなのかもしれない。
 高貴の席はエイルの隣、あそこに近づくのはなかなか厳しそうだが、鞄がおいてあるため取りに行かねばならない。
 エイルはまだ気づいていないようなので、その視界に入らないようにとこっそり……

「あ、高貴。あんた今までどこ行ってたの?」

 行こうとしたのだが、真澄にあっさりと見つかってしまう。真澄は心なしか、少し心配そうな表情で高貴の所に近づいてきた。
 が、距離が近くなるたびにその表情は不機嫌そうなものへと変わっていき、高貴の元に来る頃には完全に不機嫌になっていた。

「授業二つもサボってどこ行ってたの? 保健室に行ってもいなかったみたいだし、エイルさんは気分が悪いと言っていたとは言ってたけど」
「あー……悪りぃ。ちょっとボーっとしてた」
「なにそれ? わけわかんないんですけど。授業サボるいいわけくらい考えとけっての」

 そんなのは考える暇もなかった。というよりも眠ってしまっていたわけだが。まさかエイルとベルセルクの戦いを見て、びびったから落ち着きたかったなどとは口が裂けてもいえない。
 ぶっちゃけ言って楽になりたい気もするが。
 しかしもっと激しく罵倒されるかと思っていた高貴にとっては、この程度の小言で済んだのは嬉しい誤算だ。

「それで帰らないの?」
「いや、帰ろうと思って鞄取りに来たんだけど、なんか近づきにくかったからさ。少し人が減るのを待とうかと思ってたんだ」

 高貴がエイルの席を指差すと、そこにはまだ人が溢れている。それを見た真澄は「なるほどね」と納得した様子で頷いた。

「まったく、スゲー人気だなあいつは。明日生徒会長にでも立候補すれば当選するんじゃねーか?」
「それは仕方ないって。エイルさんすごい美人だし、それになんかかっこいいし。それに話してみたらすごくいい人だったよ。クラスにももうなじんできてるみたい」
「それはなにより……なんだろうな。ところでもう一人の転校生のほうは……」

 その時、ちょうど帰り支度を終えたらしい静音が、高貴と真澄の横を通って帰ろうとしていた。エイルとは違い、静音に声をかけようとするものは誰一人いない。転校初日から思い切り壁を作っているのが原因だろう。

「あ、音無さん、さよなら」

 真澄が声をかけるものの、一瞬視線を移し「さよなら」と聞き取れるか聞き取れないかわからないほどの小さな声で返事をし、さっさと教室から出て行ってしまった。

「本当に正反対だな」
「う、うーん。授業中はちゃんと手伝ってくれたから、仲良くなれるかと思ったんだけど……」
「見た感じでは無理っぽいんじゃね? まぁそういう人もいるだろうし、無理強いはよくないって」
「そっか……と、ところで高貴。今日って確かバイト休みだったよね?」
「ああ、そうだけど」
「だ、だったらちょっと―――」
「高貴、戻ってきていたのか」

 クラスメイトと話し終わってたのか、エイルが高貴に気がつき声をかけてきた。それによって真澄の言葉が遮られてしまう。高貴の元に近づいてくるエイルは、何故か高貴のかばんも持って来ている。

「ああ、すまない真澄。高貴と何か話していたのか?」
「は、話してない話してない! こんなやつと口聞いた事すらないよっ!」

 ガキの頃から数えきれないほど口きいてるよ。一応幼馴染なんだからさ。

「そうか、ならばよかった。高貴はもう気分のほうは大丈夫なのか? 気持ち悪いとかそういうのはないのか?」
「あ、ああ。もう大丈夫だよ。むしろ―――」

 お前のほうが大丈夫なのか?
 そう聞こうとした高貴だが、エイルはどこからどう見てもなんともなさそうだったので、それを聞くのをやめた。

「そうか、ならばよかった。君は確か部活をしていなかったし、鞄もここにあったから待っていたんだよ。じゃあ帰ろうか」

 ポン、とエイルが高貴に鞄を手渡した。

「……いや、帰ろうかって……確かに俺は帰るけど、お前ん家ってどこ?」

 できれば一人で帰りたいという本音を隠しつつエイルに質問した。

「ん? 言ってなかったか? 今日から私は君の家にホームステイする事になっているのだが……そういえば言い忘れていたな」

 教室中の空気が完全に凍りついた。
 エイルがサラリと吐いた爆弾発言は、四之宮高校2年3組の教室の時間を10秒ほど停止させた。

「……はい?」

 いま、このヴァルキリーは、なんと、いったんだろうか?
 今日カラ、私ハ、君ノ家ニ、ホームステイ?
 ホームステイッテナンダッケ?

「いや、先ほど屋上で重要な話をしただろう? そのおかげでたいした事のないほうの話をするのを忘れてしまっていたよ。今日から私は君の家でやっかいになる事になった。よろしく頼む」

 いま、このヴァルキリーは、なんと、いったんだろうか?
 キョウ、カラ、シバラク、キミ、ノ、イエデ、ヤッカイニ、ナル?
 ……マジデ?

「……初耳なんだけど」
「ふむ、だから今言ったじゃないか」
「……俺の家っつーか、学生寮なんだけど」
「大丈夫だ、理事長の許可は取った」
「……男子寮なんだけど」
「問題ない。私はヴァ―――ではなく、理事長の許可は取った。まぁ本人以外には内緒にしておいてほしいとは言われたがな」
「ココ、キョウシツ、ナンデス、ケド」
「……あ」

 しまったと言った表情でエイルが辺りを見回す。しかし教室に居たもの全員が、今の二人の会話を聞いていたようだ。

「あ、あ、あ、あのねエイルさん。それって駄目なんじゃないかな? ほら、同棲って言うんじゃないかな?」
 真澄が汗を大量にかきながら絞り出すように声を出した。

「ふむ、同棲ではない、ホームステイだ。しかも最初から言葉が通じるのだから安心だろう?」

 不安しか感じねーよ。
 そう言い返してやりたいのだが、何故か声を出すことが出来ない。エイルはエイルで「失敗した」と言った表情になっている。

「あー……では帰ろうか高貴」

 場の空気に耐えられなくなり、エイルは高貴の襟首を掴むとすぐさま教室を飛び出した。

「ちょ、ちょっと待てコラ! 戻って言い訳をさせろ! せめてもう一回教室に戻ってうそだって言って来い!」
「いや、きっともう無理だろう。ここはあきらめて帰ろうじゃないか。人生諦めが肝心と言うのだろう?」
「ふざけんな! つーか俺は聞いてねーぞ!」
「そうは言っても、君を監視するのも私の任務だしな。それに断るというのならヴァルハラは君の命を奪うかもしれないぞ。これが最大限の譲歩だったんだよ」
「あーーー! もう嫌だ! ヴァルキリーの居ない世界に行きてーーーー!!」
「コラ! そんなことをこんな場所で、しかも大声で言うな!」
「テメーに言われたくねーんだよおおお!」

 エイルに引かれて歩きながら高貴は思った。
 自分の平穏は完全に壊れてしまったと。

 ◇

 ズルズルとエイルに引っ張られ、高貴は結局なんの抵抗もできぬままに学生寮に着いてしまった。
 エイルがあまりにも強引に引っ張るので、下校途中の生徒に奇妙な目で見られてしまったが、そんなことは全く高貴は気にしていない。
 そもそも抵抗とて出来なかったのではなく、正確にはしなかっただけ(出来たとも思えないが)だ。
 こいつ、どうやって追い出そう。
 考えていたのはそれだけ。その目的を達成する為だけに、高貴は下校中に頭をフル回転させてきた。

「どうしたんだ高貴? 早く鍵を開けてくれないと部屋の中に入れないじゃないか」

 エイルに言われて高貴は鍵を取り出した。しかしそれをドアに差し込む前にいったんエイルのほうに振り返る。

「なぁ、ちょっと部屋の掃除してきていいか? 散らかってるから少し整理しておきたいんだよ」

 作戦その一、部屋に入れない。
 このまま自分ひとりだけ部屋に入ってエイルを放置しておけば、きっとそのうち諦めて帰るだろう。少々心が痛むが、自分の平穏には変えられない。

「ふむ、昨日見たときには、男性の一人暮らしの割には整理整頓がしっかりされていると思ったのだが……まぁ君がそういうなら構わないよ。私はしばらくここで待たせてもらおう」

 よし、作戦の第一段階は成功だ。高貴は鍵を開けて扉を開けると、外にエイルを残してすばやく部屋の中へと入った。そして作戦の第二段階である鍵を閉める行動に移る。
 ドアについている鍵をゆっくりと回していく。ゆっくりと、ひたすらにゆっくりと。
 外のエイルに鍵を閉めたということを気づかれないように。鍵の回る音がしないようにゆっくりと鍵を回していく。
 およそ1分の時間をかけて、ようやく高貴は鍵を閉め終えた。最初から最後まで完全に音のしなかった施錠。これからの人生でこんなに静かな施錠は二度とできないであろうと言ってもいいほどの改心の施錠だった。
 ようやく肩の荷が下りた高貴は、靴を脱ぐと部屋の中に入っていった。
 とりあえずジュースでも飲みながらゆっくりしよう。それとこの前俊樹から借りた漫画まだ読んでなかったからそれも読もう。高貴はそんなことを考えながらリビングのドアを開いた。

「あ、お帰り人間君。思ったよりも早く帰ってきたわね」

 クマがいた。
 正確にはクマのぬいぐるみが漫画を読みながらベットに寝転んでいた。
 いや待て、おかしいだろう?
 昨日もまったく同じ事を思った気がするが、それでもやっぱりおかしい。
 なんでこのクマがここにいる? 部屋の鍵はかけて出て行ったし、帰ってきたときも鍵はちゃんとかかっていた。昨日は鎧を来たヴァルキリーがベットに仁王立ちしていたが、今日は喋るクマのぬいぐるみがベットを占領している。
 どっちもタチ悪りー。

「……何でここにいんの? つーか鍵かかってたのにどうやって入ってきたんだ?」
「お姉さんを甘く見ちゃ駄目よ。人間君の部屋の合鍵なんて、鍵穴を見れば作れちゃうんだから。まぁ入ってきたときはドアを壊して元通りに直したんだけどね」
「せめて合鍵作れよ!」
「そんなことより人間君、この漫画の続きないの? 今結構盛り上がってるんだけど、主人公のお兄さんが死んじゃった所で次の巻に続くってなっちゃってるの。お姉さんもう気になって気になって仕方がないのよ」

 そう言いつつクマが高貴に見せてきた本は、ちょうどこれから読もうと思っていた俊樹から借りた本。結構楽しみにしていたそれを、何の前触れもなく思い切りネタバレされてしまったのだ。
 高貴は無言でクマの顔を右手で掴むと、そのまま握りつぶしそうなほどの(まぁぬいぐるみなので無理だが)力を込める。手の中で「人間君なにするのー?」などとクマがわめいているが、それをも完全に無視して窓を大きく開けた。

「出てけバカグマァァーーーー!!」

 そう思い切り叫びながら、高貴はクマを窓の外へと放り投げた。

「きゃああああ!! たーすーけーてーーー……」

 クマの悲鳴が空へと響き、その姿は完全に見えなくなる……わけはなく、窓から見える道路の真ん中辺りにクマは落下した。
 いっそのこと車に轢かれればいい。
 まったくもって最悪だ。おかげで楽しみにしていた漫画も読む気がうせた。

「仕方ねーな。とりあえず着替えてテレビでも見るか」
「だったらお姉さんが昼間に録画した昼ドラ見ましょ。ドロッドロの人間関係をエイルに見せてあげるのもいい事だと思うのよねー」
「ふむ、昼ドラというものは見たことがないな。もしよければ私も見てみたい」

 声がしたので振り返ると、そこにはヴァルキリーとクマがいた。エイルは多少遠慮がちだが、クマは先ほど投げ捨てられた事などなかったかのように、平然とDVDをセットしている。

「……おい、なんで入って来てるんだ?」
「だってお姉さん合鍵持ってるもの。余分に作ったからエイルにも渡しておいたわよ」
「もう掃除は済んだのか? クマが入っていいと言ったので入って来てしまったのだが……ふむ、綺麗に片付いているじゃないか。やはり君は綺麗好きなのだな」

 エイルがそう言うなり鞄を置くと、クマの後ろにしゃがんで、DVDプレイヤーを珍しそうに見ている。マッチを見たときと同じような目で見ているので、おそらく初めて見たものなのだろう。
 というよりも二人は完全にくつろぎモードに入っており、追い出すことなど出来そうにない。
 いやいや諦めるな。元から作戦は一個だけじゃない。まだまだ俺の挑戦は終わらない。

「人間くーん、お姉さんのど渇いちゃったからジュースかなんかちょーだーい。できればりんごジュースがいいなー。エイルは?」
「私は居候の身だ。特に気を使ってもらう必要はないよ。と言うよりもクマは飲めないだろう?」

 無視しようとも思ったが、ここは飲み物の一つでも出したほうが話しやすくなるだろう。次の作戦では話しやすいほうがうまくいく可能性が高い。

「わかったよ、ちょっと待ってろ」

 ◇

 コトン、とジュース入りのコップを、折りたたみ式のテーブルの上に置くと、クマが勢いよくそれに飛びついてきた。

「わーい! お姉さんが一番にもーらった。あ、しかも本当にりんごジュースだ。気がきくわね人間君」
「こらクマ、お前が飲んでしまったらぬいぐるみにジュースが染み付くだけだ。給水できない分は床を汚してしまうだろうからやめておけ」

 エイルがクマの首根っこを掴んでヒョイと持ち上げた。同時に高貴もテーブルに置いたコップを下げる。
 それによって諦めたのか、ようやくクマは大人しくなり、高貴は今度こそ自分の分とエイルの分のコップを置いて、エイルの正面に座った。

「ほら、遠慮しないで飲んでいいから」

 これで話し合える形になれた。作戦の第二段階に移る事が出来る。
 作戦その二、常識を説く。
 そもそも一つ屋根の下に若い男女が一緒に暮らすというのはあまりにも非常識すぎる。その事をしっかりと話せば、真面目そうなエイルは諦めてくれるはずだ。
 つーか諦めろ。

「あのさ、エイル。本当にここに住むつもりか?」
「ああ、心配せずとも迷惑はかけないよ」
「でもさ、よく考えてみてくれよ。ここは男子寮で、女子の寝泊りは禁止されてるんだ。それ以前に若い男女が同じ屋根の下っていうのはやっぱまずいだろ。そこらへんを考慮してもう一度考えてみてほしいんだよ」

 エイルはジュースを一口飲むと、「ふむ」といったん考えるような仕草を取る。

「やーねぇ人間君。同じ屋根の下じゃなくて同じ床の上の間違いよ」

 クマがうるさかったので、高貴は顔を掴んで床に押し付けた。わめきながら、それでも声がはっきりと聞こえてくるところを見ると、クマの声は口から出ていると言うわけではなさそうだ。
 やがて考え終わったとでもいうようにエイルが高貴のほうを向く。

「問題ない。私はヴァルキリーだ」

 いや、それもっと勘弁してほしい。

「で、でもさ。いくらエイルがヴァルキリーって言っても、見た目は人間の女と変わりないんだからさ。そこのところも考えると―――」
「そりゃそうよ、エイルも元々は人間だもの」
「……は?」

 顔を床に押し付けられながらも、クマは言葉を続けた。

「ヴァルハラでは、ヴァルキリーの資格を持っている人間をもう人間とは呼ばないだけで、エイルは人間の女の子よ。体の構造とかも人間とまったく一緒」

 ……つまり、ヴァルキリーは人間だと言うことだろうか?
 目の前にいるのは人外ではなく正真正銘の人間でしかも女の子。

「ふむ、言ってなかったか?」
「聞いてねーよ! 昨日思いっきり私は人間ではないとか言ってたじゃねーか! え、つーことはなに? お前って人外とかじゃなくて普通の人間?」
「生物学上では人間の女性になる。ただしさっきもクマが言ったように、戦乙女学校を卒業してヴァルキリーの資格を取ったものを、人間とは呼ばなくなるんだよ。まぁ女性とは呼ぶがね」
「だったらなおさら問題だろ! お前少しは身の危険とか考えねーのか!? 俺は男でお前は女! 一つ屋根の下なんて間違いが起こるかも知れねーだろ!」

 高貴のストレートな物言いに、エイルはしばらくポカンとした表情になっていたが、突然声を上げて笑い出した。

「ははっ! 間違い? なにを言ってるんだ高貴。私のようなヴァルキリー、いや、君の言うとおり女だとしようか。私のような女を抱きたいと思う人間などいるわけがないよ。君は面白い冗談を言うのだな」

 心底そう思っているように見えるエイルに対し、今度は高貴がポカンと口を開けたまま何も言えなくなってしまった。そんな高貴の耳元に、いつの間にかクマが上って来て耳元でささやく。

「あのね人間君。わかったと思うけど、エイルって自分の容姿について自覚がないの。自覚があったらあったでムカつく性格の女が多いから別に良いんだけどね。この前似たような事を話したときも、私が美人だと言うのなら恋人が出来ているはずだよとか言ってたもん」
「……バカだなこいつ」
「エイルを襲うとか夜這いを仕掛けるならお姉さん止めないけど、殺されないように気をつけてね」
「襲わねーよ!」
「ほら、やっぱりそんな気はないんじゃないか。私をからかおうとしても無駄だよ高貴」

 そう言いつつジュースを飲むエイル。本当に心の底からそういうことの危険性を考えていないようだ。
 しかし、まだ終わっていない。高貴はまだ諦めてはいない。

「まて、この部屋にベットは一つしかないし、ほかに布団なんて持ってない。やっぱり無理だ」
「なにを言っているんだ。一緒に寝ればいいじゃないか」
「駄目に決まってんだろうがあああぁぁーーーー!!」

 渾身の切り札を、たった一言の非常識な言葉で覆されてしまった。いったいこのヴァルキリー、いや、この女はどこまで無防備なのか?
 そもそもエイルと一緒のベットになど入って眠れる自信があるはずがない。ついでに理性も持たないだろう。

「ふむ、そこまで嫌なら仕方がない。私は床で寝るから―――」
「待ちなさい!」

 二人を挟むテーブルの上にクマが飛び乗る。

「エイル、あなたは忘れたの? 昨日この世界に転移してきたときに、あなたは人間君のベットを土足で踏みつけたのよ。その責任を果たしてベットはあなたが使いなさい」

 ビシッとエイルを指差し、クマがそういった。と言うよりもそんな責任の取り方は聞いた事がない。

「ふむ、ならばあれか? 男は床下か天井裏で寝ろ、と言うやつか?」
「いやいやいやいや無理だから! 床下も天井裏もすでに使用中だから!」
「仕方ないわね、こんな事もあろうかとお姉さんはちゃんと準備してるのよ」

 ピンポーンとインターホンが鳴り響いた。

「あ、きたみたい。はーい、今行きまーす」

 それを聞いたクマが一目散に玄関のほうに向かって走っていく。

「っておい! テメーは出るんじゃねえ! こらクマ!」

 高貴もすぐさま玄関へと向かった。



「では、このあたりにおいてよろしいですか?」
「いえ、できればすぐに持ち帰ってほしいんですけど」

 きっぱりと言う高貴に対して、業者の二人は困惑していた。
 簡潔に言うと、ドアを開けると、そこには宅配業者の成年二人がいた。どうやら注文の品を持ってきたらしいが、当然ながら高貴は何も頼んだ覚えはない。
 業者が持ってきたのは二人がけのソファ。それを狭いドアからなんとか部屋の中に入り、リビングの開いたスペースに置いた。
 テレビの正面の位置で、いつもなら高貴が寝転がって漫画を読んだりテレビを見たりする位置にそのソファがおかれる。

「それでは、判子はすでに押されていますので、私達はこれで失礼します」
「いえ、ですから持ち帰ってほしいんですけど」
「え? ですがすでに代金のほうはいただいておりますので」

 そう言って業者の二人はさっさと出て行ってしまった。ポカンとしている高貴をよそに、今まで動かなかったクマが急に動き出すと、テーブルから飛んでソファにダイブした。

「きゃー! 見て見てエイル! これふかふかよ! ほら、人間君も!」
「……テメーの仕業か?」

 クマを両手で掴み、首を思い切り絞めながら高貴はそう聞いた。

「ま、待って人間君。これはお姉さんからのプレゼントよ。これって背もたれを倒すとベットになるタイプなの。だからこれで人間君が寝ればオールオッケーでしょ?」
「テメーらがこれもって出てけばオールオーケーだ」
「ふむ、しかしこれはなかなか寝心地がよさそうだぞ」

 エイルがマニュアルを確認しながら、ソファの背もたれを倒してベットに変形させた。座るように進めてくるので、高貴はクマを絞めたままソファに腰を下ろす。

「む、確かにいいソファだなこれ」
「当たり前よ。高かったんだから。正直人間君が今使ってるベットよりも寝心地がいいわよ」

 悔しいがその通りだろう。それほどまでにこのベットがいいものだと高貴にもわかる。そもそも学園の理事長に五千万も払うような連中なので、相当いい物を買ったのだろう。
 というよりも完全にまずい。なんだか流れに流されるままに、エイル(とクマ)がここに住む流れになってしまっている。防ごうにも作戦は使い尽くした為もう何も出来ない。
 いっその事力づくで追い出すか? いや、自殺行為に違いない。ヴァルキリー相手に喧嘩を売るなど無駄な事だ。

「ねぇねぇ人間君、そんなにお姉さんとエイルがここに住むのは嫌? お姉さん達すっっっっっごく困ってるんだけど」

 クマがソファではねながら高貴に向かってそう言った。

「困ってるってなにをだよ? 金には困ってなさそうだから、その気になればいくらでも住むとこなんて用意できるだろ。なのになんでわざわざ俺の部屋に転がり込んでくる意味がわかんねー」
「だから言ったじゃない。監視する為だってば」

 それもどこまで本当かわからない。そもそも監視などしなくても、記憶を奪う魔術を使えば、昨日と今日の事を完全に忘れさせることが出来るはずだ。
 昨日出会ったばかりのエイルが、記憶を奪うとかなんとか言っていた。
 あの時はまだ、エイルを中二病だと勘違いして信じていなかったが、今思えばあの言葉は本当だったということがわかる。実際に今日クマが、学園の人間の記憶を消したと言っていた。
 なにより今日クマがそれを使っていた。ならばなぜ自分の記憶を消さないのだろう?
 そうすれば監視など必要なくなり、《神器》とやらを探すのに集中する事が出来るはずだ。それなのにこの二人はそれをしない。
 もしかすると屋上で言った冗談が本当で、自分の事を殺すつもりだろうか?
 いや、それはおそらくない。もしもそう考えたのなら自分はもうとっくに殺されているはずだ。
 相手は他の世界から来たヴァルキリーでこちらはただの一般人。殺すのに1秒もかからないだろう。だとしたら本当にこの二人はどうしてここにいるのか。

「ねぇ人間君。じゃあこうしましょうよ。これから一週間だけお姉さんとエイルをここに住ませて。それでもしも人間君が出てけって言うのなら、そのときはここを出て行くから」 
「一週間?」
「そ、いわゆるお試し期間ってやつ。それに一週間位ここにいて、人間君が魔術とかの情報をばらしたりしなかったら、上にも問題ないって報告できるわ。そうしたら人間君の監視も解かれて、エイルがここにいる意味もなくなる。どうかしら? 悪い話じゃないと思うけど」

 確かに悪い話ではない。今から一週間だけ我慢すればこの二人はいなくなり、加えて自分は放置していても問題ないと判断してもらえる。むしろここで逆らえば、ますます目を付けられてしまう可能性が出てきたわけだ。
 もしそうなのなら、今クマが言ったように一週間だけ我慢したほうがましなのかもしれない。しょうがない、このままずっと居座られるよりは、ここはその提案に乗るのが最善か。

「わかったよ。だったら一週間だけだ。それで俺の平穏が帰ってくるなら我慢する」
「本当か? それはよかった。これで上に君を放っておいても問題はないと報告できるよ。そうすればここを出て行くから安心してくれ」

 むしろ絶対に誰にも話さないから、すぐにでも出て行ってほしい。

「はぁ、俺ちょっとトイレ。DVD見るんなら好きにしろよ」

 高貴はため息をつきながら立ち上がる。

「わーい! エイル、昼ドラ見ましょ昼ドラ!」
「ふむ、それは構わないが……」

 これから一週間もこの二人と一緒ということを考えると、胃が痛くなってくる思いになりながら高貴はリビングを後にした。

「……いい、エイル。一週間よ。その期間でなんとかしなさい」
「ああ、わかっている。それだけの時間があれば十分だよ。絶対に彼を殺―――」

 エイルとクマのその会話は、リビングを出て行く高貴の耳には届く事はなかった。

 ◇

「というわけで、覗きに行くわよ人間君!」
「死ね」

 高貴は何のためらいもなくクマを踏み潰した。しかし残念な事にぬいぐるみの為、潰れる事はあっても壊れる事はなく、クマは変わらずわめいている。

「ちょっと! 普通に考えなさいよ! お風呂に入っている女の子がいるのなら、壁を乗り越えて覗きに行くのが礼儀でしょうが!」
「犯罪だ。死ね」
「ちょ、人間君、ギブギブ! これ以上はお姉さん綿が出ちゃうから! 腸が飛び出ちゃうから!」
「そうか、なら死ね」

 高貴は踏みつける力をいっそう強くした。しかしながらやはりクマは潰れる事はあっても壊れる事はない。どうにかしてこのクマを黙らせる方法がないものかと思考を働かせるも、残念ながら何も思い浮かばない。やがて足が疲れてきたので、いやいやながらクマを開放する。

「なーんーでなーのよー。人間君ってひょっとして男の子のほうが好きなの? ガリガリ派? ショタ派? それともマッチョ―――じょ、冗談だから人間君! そんな怖い表情ではさみを持ちながら近づくのはやめて! お姉さんバラバラのスプラッタとか苦手なの!」

 どうやらクマは、バラバラにされるのは嫌らしい。今度からクマを黙らせる用に、ハサミを持ち歩くことを彼は固く決心した。
 結論から言ってしまえば、エイルとクマは案外静かだった。あれからすぐに二人は昼ドラを見始めて、面白かったのか珍しかったのか、それをまじめに見続けていた。
 その間の二人は静かなもので、部屋の中にはテレビの音しか響いておらず、高貴が想像していたよりもかなり楽だった。
 おかげで高貴もベットに寝ころんでゆっくり漫画を読むことができたし、多少気まずかったものの、我慢できないと言うほどではなく、夕食をクマがどこかから買ってきたらしい弁当ですましたところまでは順調だったのだ。
 しかし、これまたクマがいつの間にか準備していた風呂に、エイルに入るように言った後、しばらくしてクマはこう言った。
 のぞきに行こうと。
 そして現在に至る。クマをようやく静かにさせたところで、高貴はソファに座って一息ついていた。心の内では、エイルが入った後の風呂はなんか入りづらいと思いながら。

「はぁ、一週間なんて言ったけど、やっぱやめとけばよかった」
「そんな事言わないでよ人間君。ほら、想像して御覧なさい。今聞こえるシャワーの音は、エイルがシャワーを浴びてる音なのよ。いつも人間君が使ってるシャワーを今はエイルが使ってるのよ。エイルが入ったお風呂に人間君がはいるのよ」
「想像させんじゃねーよ! だから俺が先に入るつもりだったんだよ! なのにテメーがいつの間にかエイルを風呂に入れてたんだろ!」
「またまたぁ、嬉しいくせに」

 実際は嬉しいというよりもひたすらに戸惑っている。高貴は生まれてこの方彼女も出来た事がないので、こんなシチュエーションは経験した事がない。シャワーを浴びてくるヴァルキリーをどんな顔で待てばいいのかなどわかるはずがないのだ。実際誰も知らないだろうが。
 そんなことを考えていると、ふとシャワーの音が止まった、少しして浴室の扉が開く音聞こえてきた。エイルがシャワーを浴び終わり、おそらくは着替えているのだろう。

「あ、エイルあがったみたいね。次は人間君入っちゃう?」
「……そうする、さっさと入って今日はもう寝る」

 高貴は立ち上がると着替えの準備をし始めた。いろいろと考えるのはやめにして、とにかくもうさっさと寝よう。明日以降の風呂は自分が先に入るか、俊樹のとこでも貸してもらおう。そう思っていたその時。

「高貴、少しいいか? 相談したい事がある」

 エイルの声が背後から聞こえてきた。着替えるのが早いな、などと思いながら相談ごととはなんだろうと振り返る。振り返った瞬間その目を疑った。
 そこには体にバスタオルを巻いただけのエイルが立っていたからだ。

「…………」

 思わず言葉を失ってしまった。白のバスタオルを巻いただけの姿。俊樹の言っていたようにエイルはスタイルがよく、戦闘力Dや体のラインが綺麗に出ている。風呂上りのためか、見える腕や足などはほんのりと桜色に染まっており、長い銀髪はしっとりと濡れて、一言で言ってしまえばかなり扇情的な光景だ。

「な、な、な、なんつー格好ででてくんだよこのバカ!」

 たっぷり十秒ほど視線を釘付けにされ、ようやく我に返った高貴が慌てて後ろを向いた。

「なぜ後ろを向くんだ?」
「そんなの決まってるじゃない、恥ずかしくなったのよ。人間君はエイルの胸に釘付けだったもんね。その立派なおっぱいに」

 立派なおっぱい。自分の胸を指差されてそういわれたエイルは困ったような表情になってしまう。

「そんなことを言われても、私のおっぱいに罪があるわけではないだろう? むしろこれは罰だよ。こんな脂肪の塊は大きくても邪魔になるだけだ」
「バカ野郎! 巨乳は最高だろうが!! ……はっ! そうじゃなくてなんでそんな格好してんだよ!!」

 一瞬本音が漏れた。
 そんな高貴を不思議に思いながらもエイルは言葉を続ける。

「今気づいたのだが着替えがない」
「……は?」

 キガエガナイダッテ?

「考えてみれば、私は鎧か制服以外の服を持っていない。裸ではさすがに怒られるのではないかと思い、今はバスタオルを巻いている。制服は明日も着るから着て眠るわけにはいかないので、何か服を貸してはもらえないだろうか?」
「バスタオルだけでも駄目だっつーの! つーか入る前に気がつけよ! おいクマ、なんとかしやがれ!」
「えー、いいじゃないバスタオルでも。そんな女の子と同じ床の上で眠れるなんて、男みょうりに尽きるってやつじゃわかったから人間君すぐに用意するから速攻でなんとかするからだからはさみでお姉さんをスプラッタにしようとか考えないで!」

 今にも自分の腕を切り落としかねない表情の高貴を見て、クマはふざけるのをやめてエイルのほうに近寄っていく。

「とりあえず着替えを用意するから、人間君はお風呂入ってきたら? 上ってくる頃にはもう大丈夫だから」
「そ、そうか。じゃあ俺は風呂に―――」
「まて、高貴」

 なるべくエイルの体を見ないように視線をさげながら這い這いで進む高貴に、二本の足が立ちはだかった。どこからどう見てもエイルの足である。

「風呂場にはタオルが一枚しかなかった。私が使って濡れてしまったが、これがないと君は体をふけないだろう? 風邪をひかれても困るし、このタオルを今返すから―――」

 そういいながらエイルはバスタオルをほど―――

「うわああああああ!! いいからさっさと着替えやがれええぇーーーーーー!!」

 ほどけるよりも早く、高貴はリビングを飛び出して風呂場へと向かって行った。



 大丈夫だ。俺はなにも見ていない。白い足なんて見てない。膝から上はまったく見てないからセーフのはずだ。まるで呪文のようにそう繰り返し、風呂から上った高貴はリビングの扉の前に立った。

「おい、入っても大丈夫か?」

 もう同じ轍を踏むつもりはない。中に入る前にしっかりと中にいる二人に声をかける。

「だいじょーぶよー。入ってきなさい人間くーん」
「エイル、お前ちゃんと服着てるのか?」
「ああ、クマにパジャマを用意してもらったよ。これなら君が怒る事もないだろう」

 クマの言うことを信じられなかった高貴は、一応エイルにもしっかりと確認する。ここはエイルの言葉を信じて、高貴はリビングへと入っていった。
 エイルは確かに服を着ている。別になんの問題も見当たらない青色の普通のパジャマだ。彼女はベットの上に座って髪を拭いており、クマのその膝の上に座っている。エイルの髪は長いのでいろいろと大変そうだ。

「タオルがなくて大丈夫だったのか高貴?」
「もう一つしまってあったから。にしても大変そうだなその髪」

 ソファに座りながら高貴がたずねた。

「ああ、この髪か。確かにその通りだな。正直言って長くて邪魔になるときもあるし、私としてはバッサリと切ってしまってもかまわないんだよ。しかしそう言うともったいないとか言われるんだ」
「そりゃそうだろ。そんなに長くて綺麗な髪なんだから、バッサリ切るのはもったいないって」

 もっともエイルならば、きっと短くても似合うだろうとは思ったが、高貴は口にしなかった。

「ふむ、私の髪は綺麗なのか。自分ではあまりわからないが……そういわれて悪い気はしないよ。ありがとう高貴」

 やがて拭き終わったエイルが、自分の髪をひとなでする。するとその銀髪は、まるでテレビのコマーシャルのようにサラサラな状態になっていた。

「さて、今日はもう寝よう。明日も学校だからな」
「いや、それはいいんだけどさ、本当にお前が俺のベットで寝るのか? お前がこのソファ使ったほうがいいんじゃねーの?」
「それは駄目だよ高貴。私は土足で踏みつけてしまったこのベットに対して責任を取らなければいけない」

 そんなことはしなくていい。なんか恥ずかしいんだよ。

「はい、人間君。これ布団ね」

 いつの間にかエイルの膝の上から消えていたクマが、これまたいつの間にかどこかからか持って来た布団をソファの横に置いた。もはや何もいうまいと悟った高貴は、ソファをベットの形に変形させ、その上に布団をかける。
 エイルもベットに横になり、布団を体にかける。するとクマが、「電気消していーい?」と二人に確認を取ったので、高貴とエイルはそれに頷いた。

「じゃあ消すわね、ポチっとな」

 クマがジャンプして、壁についてあるスイッチを押した。とたんに部屋の中は暗闇に包み込まれる。

「ふむ、便利なものだな」
「なぁ、眠れなかったらいつでも交換するからな」
「あー人間君のエッチ。エイルの残り香をクンカクンカする気ね」
「ふむ、私の匂いなどしないと思うぞ。高貴のにおいならばするが」
「嗅ぐな! テメーらさっさと寝ろ!」
「はいはい、お休み二人とも。明日が超楽しみね」
「ああ、お休み、高貴、クマ」
「……お休み」

 それ以降は会話はなかった。エイルと同じ部屋で眠る事が出来るのかどうか不安だった高貴だが、今日も疲れていたのか、眠気はすぐにやって来て、彼を夢の中へと誘い始めた。



 目覚めは極めて平凡だった。目覚まし時計代わりのスマホに設定してあるアラーム音の音でいつもどおり高貴は目を覚ました。
 ただいつもと少し違うのは、自分が寝ているのがベットの上ではなくソファの上だということ。それと自分が昨日まで寝ていたベットの上には、ヴァルキリーが寝ているということだ。
 エイルはアラームが鳴っても起きる気配はなく、スヤスヤと寝息を立てている。あまり見るのも悪いかと思った高貴は、取り合えずテーブルの上に横たわっているクマを手に取った。

「おい、クマ。起きてるなら返事しろ。てゆーかお前って寝るのか?」
「はぁ、人間君さぁ、起きてすぐにベットの美少女じゃなくてクマに話しかけるって変じゃない? ひょっとしてクマフェチ? クマのぬいぐるみお姉さんじゃなきゃ駄目だとか?」

 とりあえず思い切り床に叩きつけ、その後に思い切り足で踏んでおいた。ぬいぐるみはいくらやっても壊れないからいい。もしかしたら癖になってしまうかもしれない。

「ま、待って人間君。大切な話があるの。エイルについて大切な話があるの。だからお姉さんの話を聞いて」
「はぁ、なんだよその大切な話って」
「……ん―――んぅ……」

 そのとき、ちょうどエイルが目を覚ました。目をこすりながら起き上がり、あくびをしながら軽く伸びをすると、ボーっとしたままベットの上で動かなくなってしまった。
 パジャマが少し着崩れており、高貴は慌てて立ち上がり後ろを向く。

「お、おはようエイル。取り合えず俺は風呂場のとこで着替えるから、エイルはここで制服に―――」

 ふにょん。
 なにやら柔らかいものが高貴の背中に当たった。そして青いパジャマを着た腕が二本、首に回される。なんだろうこの背中に当たっているスポンジのようなものは? スポンジよりももっと柔らかくて、なんだがフニフニしていてすごく気持ちがいい。
 ふにょん。ふにょん。ふにょん。ふにょん。

「えっとちょっとまってくださいよこれってまさかあれですかおれみたいなかのじょのいないれきいこーるねんれいのやろうにはまったくえんもゆかりもそんざいするはずのないじょせいのにくたいのいちぶぶんにそんざいしているぼせいのしょうちょうともいうべきあのやわらかいものですか?」
「エイルのおっぱいだよー」

 背後から能天気な声が聞こえてくる。もはや間違いない。エイルの持つ戦闘力Dが高貴の背中に押し付けられているのだ。というよりも背後からエイルに抱きつかれているらしい。

「なにしてるんですかエイルさーーーん!?」

 感触で我を忘れていた高貴が慌ててエイルを振り払おうと暴れだす。しかしエイルはまったく離れない。

「おいこら! お前そんなことするキャラだったのかよ!? どっちかっていうとこういうことすると破廉恥な! とか言う真面目キャラだと思ってたんだけど!」
「キャハハハ、こーきおーはーよー! きょーもげんきにがんばろー! キャハハハ!!」
「……は?」 

 誰こいつ? 本当に誰こいつ?
 背後から抱きついていた人物は、どこからどう見てもエイルだったが、どこからどう見てもエイルではなかった。

「んー? どーしたのかなこーき。エイルがおはよーっていったんだがら、こーきもおはよーでしょ。はい、おはよーございまーす」
「お、おはよう……じゃなくて! おいエイル! お前寝ぼけてんのか!?」
「ねぼけてないもーん。エイルおきてるもーん。ねーくまちゃーん。ってくまちゃんなんかつぶれてるー。キャハハ、おかしいんだー!」
「おいクマ! これってどういうことだ! つーか誰だこいつ!」

 エイルのせいで動くこと出来ない高貴に踏み潰されたままのクマに問いただす。

「だから大切な話があるってお姉さん言ったじゃない。エイルはすごく朝が弱いのよ。どのくらい弱いかっていうのは見ての通りよ」
「いやこれ弱いとかそういう次元じゃないから! 完全に別人だから! 幼児化してるから!」

 高貴がクマに抗議しているうちに、「てやー!」とエイルが体重をかけ、高貴をソファの上に押し倒した。そのせいで完全に身動きが取れなくなり、エイルの胸もさらに強く高貴の背中に押し付けられ、エイルの髪からはいい香りがしてくる。

「こーき! きょうのあさごはんはなににするの! エイルにする? えいるにする? それともE・I・RU?」
「全部同じじゃなーか! ちょっ、どけバカ野郎! 背中に当たってるって! 戦闘力はDでも破壊力はSなんだっつーの! クマ、なんとかしろ!」
「えー? でも人間君幸せそ―――」
「バラバラにするぞこの野郎!」

 ふにょん。ふにょん。ふにょん。ふにょん。ふにょん。ふにょん。ふにょん。ふにょん。
 柔らかい感触に理性がどんどん削れていく。何故か時々硬い部分が当たっている。そんな中プツンと、高貴は自分の中で何かが切れる音がした。

「さっさと顔でも洗ってきやがれこのバカヴァルキリーがああああーーーー!!」

 無理矢理エイルを引き剥がすと、「はいはい、エイルちゃん、お顔洗いに行きましょうねー」とクマがエイルを洗面所に連れて行った。

「うん、エイルおかおごしごしするー。くまちゃんもいっしょにー」
「エ、エイルちゃーん。お姉さんでお顔フキフキはやめてね?」

 ◇

 そして、あわただしく朝は過ぎていった。

「さぁ、今日も学校に行こう。学生は勉学に励むべきだ」

 完全に元通りになったエイル。もはや朝の面影はどこにもなく、制服を着て鞄の準備も完璧である。。

「それにしても私はいつ起きたのだろう? 気がついたときには洗面所で顔を洗っていて、なぜかクマで顔を拭いてしまっていたし……よく覚えていないな。すまないな高貴、私は朝が弱いんだ」
「……いや、まぁ、うん、別にいいよ」
「気がついたと思うけど、エイルは何も覚えてないから。まぁ今回はいい思い出来たって事で許してあげて人間君」

 確かに忘れられない感触だった。しかし高貴は、これから一週間もこの生活が続くのかと思うと、全てを捨ててでも逃げたしたいとまで考え始めていた。



 繰り返しになってしまうが、月館高貴は何よりも平穏と平凡を求めている。
 そんな彼にとってやはりヴァルキリー、いや、彼女でもないブッ飛んだ少女(とクマ)との同棲など耐えられるはずもなく、わずか1日限界に達した。幸い昨日のエイルが教室で言ったホームステイ宣言は、クマが記憶を消してくれたことが唯一の救いだろう。
 とはいえ昨夜と今朝の事もあり、何となくエイルといるのが気まずくなった高貴は、学校が終わるとクラスメイトに囲まれているエイルをおいてすぐさま下校した。なんとかエイルにばれずに抜け出すことに成功し、取り合えず何となく都心のほうへと向かって行った。
 特に意味はない。強いてあげるとすれば、家から遠くに離れたかったからかもしれない。エイルとはなるべく関わりたくない。
 にもかかわらず、今日の夕飯は二人分だけどどうしようなどと考えてしまっている自分もいる。もしかしたら夕飯を買いに都心に来てしまったのだろうか?
 とはいえ高貴は料理などはしないし、いつも通りコンビニの弁当でいいだろう。エイルの分は買わなくてもいいかもしれない。金には困ってなさそうだ。
 ひとまずこれからどうするかを考える。今の時刻は午後5時。夕飯にはまだ早いので、もう少し時間を潰してから帰ったほうがいいだろう。

「とりあえず……喫茶店でも入って時間を潰すか」

 都心には喫茶店がいくつかあるので、そこでゆっくりして時間を潰そう。そう考えた高貴が、ちょうど目の前にある喫茶店に入ろうとしたときだった。

「いいわね喫茶店、やっぱり落ち着いて話をするときはコーヒーでも飲みながらってのが相場よね」

 背後から、おそらくは自分に向けられたであろう女の声が聞こえてきた。振り返ってみると、そこには中学生くらいの少女が立っている。
 その少女は明らか高貴を見ているのだが、高貴はその少女にはまったく見覚えがない。

「……なっ!?」

 いや、あった。思い切りその少女を見たことが高貴にはあった。その少女の赤い髪を見た瞬間に、高貴は何の予備動作もなくその少女に背を向けて走りさ―――

「待ちなさいって。せっかく見つけたのに」

 ―――れなかった。少女は高貴の襟首を掴んで逃がそうとはしてくれない。

「は、離せよ! な、な、なんでお前がこんな場所にいるんだよ!?」
「ああ、もう! 少しは落ち着きなさい! いい? 今からあたしが言う事をしっかり聞くのよ? この前は悪かったわよ。お詫びになんか奢ってあげるわ」

 背後の少女―――ヒルドは高貴に向かってそう言い放った。

 ◇

「お待たせしました。ごゆっくりどうぞ」

 ウェイトレスが注文したアイスコーヒーとカフェオレを置いて去っていった。ヒルドはすぐに自分のアイスコーヒーに手を伸ばす。

「ほら、あんたも飲みなさい。せっかくあたしがおごってあげるって言ってるんだから」
「…………」

 どうしてこうなった。いくら考えても明確な答えを高貴は導き出すことが出来なかった。ただ流されるままにヒルドと喫茶店に入ってしまった。まぁ喫茶店に入った理由はたった一言で説明がつくのだろう。
 相手がヴァルキリーでは自分に拒否権はない。
 そんなことを考えていると、「冷めるわよ?」とヒルドが言ってきたので、高貴はカフェオレを一口飲んだ。客が多く入っている喫茶店の割には、詩織の淹れたコーヒーのほうが美味い。

「それで……何の用だよ?」

 ヒルドはストローから口を離すとコップを置いた。カラン、と中の氷が音を上げる。

「別に、この町をぶらぶらしてたら、ただ単に見かけたから声をかけただけよ。今日はずっと店とか見て回ってたの。ここら辺は店が多いからいろいろと買い物が出来ていいわね」
「はぁ? 声をかけただけって……」
「この前はあたしも悪かったから。ほら、思い切り炎飛ばしちゃったでしょ。だから謝ろうと思ったのよ。で、そのお詫びに奢ってあげようと思ったわけ。それでの件はチャラ、なんか文句ある?」
「い、いや……特にはないけど」

 カフェオレ一杯でチャラというのはどうかとも思ったが口には出さなかった。
 しかし意外だ。まさかそんなことを思って自分に声をかけてきたとは。しかも自分が謝罪を受けるとは思ってもいなかったので、思わず高貴はポカンとしてしまった。

「あれ? そういえばその服って買ったのか?」
「ええ、いくらなんでもこの世界で鎧姿で歩くほど非常識じゃないわ。結構似合うでしょ?」

 ヒルドの格好は、前を開けたパーカーにショートパンツといったシンプルな格好だが、確かによく似合っていた。靴もブーツになっているので、おそらくはそれも買ったのだろう。

「ああ、よく似合ってるよ。でも金なんて持ってたのか?」
「覚えておきなさい。世の中にはググっても出てこない諭吉の稼ぎ方なんていくらでもあるのよ」

 間違いなく高貴には一生出来ない稼ぎ方だろう。というよりもエイルといいヒルドといいこちらの世界の事をよく知りすぎではないだろうか?
 あとせめて金の稼ぎ方と言え。
 しかし敵意がないのなら高貴としてもいい機会かもしれない。ヒルドには聞きたい事は山ほどある。

「あのさ、お前がなに考えてんのかわかんねーけどさ、大人しく帰ったほうがいいんじゃねーの? この前だってエイルにやられかけてたし」
「やられてないわよ!」

 急に大声を出してヒルドが否定した。店の中の視線が一気に集まるが、ヒルドは気にした様子はない。というよりも気づいていない。

「あたしがあいつにいつ負けたって言うのよ! ちょっと相手にするのがめんどくさくなったから逃げ―――見逃してあげただけ! 次に見つけたらボッコボコにしてやるわ!」
「わ、わかったから落ち着け! ここは店の中だ!」

 高貴にたしなめられ、ようやく周りに気がついたヒルドは不機嫌そうにストロー摘み、氷をからからと回し始める。

「ったく。だいたいどこにいるのよあのド天然は」
「いや、俺のとこにいるけど」
「……はぁ?」
「いや、だから俺の部屋にいるって。なんだかしばらくホームステイするとか言って無理矢理居座り始めたんだよ。あと学校にも転校してきた。俺が魔術の事をばらすんじゃないかって思ってるんだとさ……てっきり知ってて声をかけてきたんだと思ってたけど」
「ホームステイ? そんなことあたしが知ってるわけないじゃない。えっと、じゃあなに? あんたのとこにエイルがいるって事?」

 高貴がコクリと頷いた。

「何それ? そんなの《アンサズ》で記憶を奪えばいいだけじゃない。ヴァルキリーや魔術師相手ならともかく、ただの人間なら簡単に出来る。そうすれば監視なんてする必要はないわ。なのにそれをしないって事は……」

 ヒルドが何かを考えるように目を閉じる。今ヒルドが言った事は、高貴が考えていた事と同じなので、だんだんと高貴に不安が襲ってくる。やがてヒルドが目を開いた。

「ねぇ、あんたもしかして殺されるかもよ」
「……は?」

 思わず口を開けてポカンとして表情になってしまう。

「あ……いや、確かに何回かそう言われたよ。でも俺を監視するって事で落ち着いたって―――」
「だから、監視なんかしなくても記憶を消せばいいだけだって言ってるでしょ。学校にまで行くなんて手間かけるよりよほど効率がいいわ。なら考えられる可能性は―――あ、もしかしてこうなる事を予想したのかもしれないわ」
「こうなること?」
「《神器》を持つあたしがあんたに接触するかもしれないって事よ。あんたもしかして囮代わりに使われてるんじゃないの? 現にこうしてたまたまとはいえあたしはあんたに接触した。そのときを狙ってあたしを捕らえようとしたのかも。あ、そうなると殺さなくてもその後記憶を奪うだけでもいいか。エイルは今どこ?」
「学校か……もしくは俺の住んでる寮かな」

 高貴の言葉に、ヒルドは少し呆れ顔になった。

「そう、もし本当だとしたら、これって掌の上で踊らされているようでムカつくわね。だったらこっちから仕掛けてやるわ。ねぇあんた、今日の夜エイルをあんたの高校に来るように言いなさい」
「え? な、なんで?」
「あたしって逃げるのは好きじゃないの。この前は遅れをと―――見逃してあげたけど、今日はそうは行かないわ。向こうだってあたしを探してるんだろうしきっと乗ってくるはずよ。あんたの高校ならエイルでも場所がわかるだろうし安心ね。よし、決定よ!」
「ちょ、ちょっと待てよ! そんなこと勝手にきめんなって!」
「あのね、よく考えなさい。エイルは間違いなくあんたに何かを隠しているわ。そんなやつをあんたは信用するの? それにあたしやエイルなんかと関りたくないんじゃない? あんたはこの世界の一般人。あたしが言うのもなんだけど、公園のときみたいな危険はもう嫌でしょ? だったらさっさと縁を切ったほうがいいじゃない。あたしの居場所を教えたら、もしかして記憶を消してもらえて元の生活に戻れるかもしれないわよ。殺す必要がなくて記憶を奪うだけで済むなら、極力殺さないと思うし」

 それは、高貴にとっては願ってもない言葉だった。元の平穏な生活に、エイルに会うまでの当たり前の生活に戻れる。それ以上の甘い誘惑を今の高貴は知らない。
 何より話してみれば、ヒルドは自分に敵意があるようには思えない。なぜ《神器》をもって逃げたかなど、正直高貴にとってはどうでもいい。むしろエイルの言葉よりもヒルドの言葉のほうが納得が出来る。

「……わかった。帰ってエイルに伝えておく。四之宮高校でいいんだな?」
「そう、念のため聞いておくけど、宿直の教師とかはいないわよね?」

 コクリと頷き、高貴はヒルドに四之宮高校の場所と住所を伝え会計に向かった。料金は本当にヒルドがおごってくれるらしく、ここはヒルドの好意に甘えて二人は喫茶店を出た。

「さて、じゃあさっさと帰ってエイルに伝えなさい。あ、忘れる所だったわ。時間は夜の9時くらいにしましょう。そのくらいならもう人は残ってないと思うから。それと当たり前の事だけどあんたは来るんじゃないわよ。間違いなくヴァルキリー同士のマジバトルが始まるから、巻き込まれてしまうかもしれないわ」
「大丈夫だよ、俺は平穏に生きたいんだ。わざわざそんな危険に首を突っ込みたくない」
「あっそ、まぁ身の程をわきまえてる奴は嫌いじゃないわ。じゃあちゃんと伝えなさいよね」

 そう言うとそのまま振り返り、ヒルドは去っていった。おそらくは四之宮高校に向かったのだろう。

「はぁ、なんだか思ったよりも早く平穏が帰ってきそうだ。さっさと帰ろう」

 心なしか気持ちが軽い。都心に来るときは曇っていた心がいささか晴れたからだろう。
 これでいい。これで元に戻れる。もしも俺を囮として使っていたのならば、あいつの場所を教えればエイルはきっと出て行く。だからこれでいい。
 高貴は自分にそう言い聞かせながら岐路に着いた。

 ◇

 喫茶店でヒルドと別れた高貴は、コンビニで今日の夕飯代わりの弁当を買って、その後は寄り道することなく帰宅した。
 ヒルドからエイルに学校に来るように言えと言われたが、エイルとは学校で別れており、連絡する手段もないため、エイルが戻ってきている事に期待しているのだ。
 ドアノブに手をかけると、がちゃりと音を立てて回り、鍵がかかっていないこと意味している。中にエイルかクマがいる事を理解した高貴は、すぐさま中に入った。

「高貴!」 

 入った瞬間に、玄関で声をかけられた。正確には玄関には、心配そうな表情のエイルがクマを抱いて立っていた。

「大丈夫か! 帰ろうかと思って探したらどこにもいないのでビックリしたぞ。携帯電話の番号もわからないし、君は《エオー》も使えないから連絡も取れないし、仕方がないので先に帰っていたんだよ」
「そーよまったくもう。お姉さん達に心配かけていったいどこに行ってたのよ?」

 いったいなにをそんなに心配しているのだろう? しかしどこに行っていたかという質問にならば簡単に答えることができる。きっとこの二人も知りたがっていることだろうから。

「この前あったあの女、ヒルドだったよな? あいつに会ってた」
「なっ……ヒルドだと!! それは本当か!?」

 絶句するという言葉がもっとも適切な表現だろう。高貴の言葉を聞いたエイルの表情はまさにそれだった。それとは反対に、心なしかクマの雰囲気が冷たいものに変わっていく気がする。

「だ、大丈夫だったのか! 痛い事やひどい事をされたとかはないのか!? ヒルドはそんなことはしないとは思うのだが、何か怖い思いをしなかったか!?」
「してないよ、喫茶店でコーヒー奢って貰っただけだ」
「……奢ってもらった?」
「人間君、ちょっとお姉さん達に詳しく聞かせてくれない?」
「都心のほうに行ったらあいつから声をかけられたんだよ。今日は町を見て回ってたらしくて、たまたま俺を見かけたから声かけたんだってさ。で、この前の侘びって事でコーヒー奢ってもらった。それと伝言、今日の夜9時くらいに四之宮高校に来いってさ。なんだか戦う気満々だったみたいだよ」

 無表情で淡々と高貴は話し続ける。その違和感をエイルは見逃さなかった。

「高貴、君が無事なのは嬉しい。ヒルドの事を教えてくれたのも助かった。しかしどうしたんだ? なんだか様子がおかしいような気がするのだが……」
「そんなことねーよ。いいからさっさと行って来れば? ああ、つってもまだ早いか」
「ねぇ、人間君。喫茶店に入ったって言ってたわよね? そこでヒルドとどんな話をしたの? なんかへんな事でも言われた?」

 ああ、確かに言われたよ。別に隠すことじゃないか、あいつが見つかればこいつらにとって俺は用済みだから。

「疑問に思ってたんだよ。なんで記憶を消せる魔法が使えるのに、俺の記憶を消さないのかってさ。お前らが俺の事を監視する事になった事をあいつに言ったら、俺はもしかして囮に使われてるんじゃないかってあの女は言ってたよ。そうでもなけりゃ、さっさと記憶を消すなり殺すなりしたほうが手っ取り早いに決まってるからな。で、俺にあいつが接触してエイルに居場所を教えれば俺は用済みになるんじゃないかって話になった」
「……お、囮? 私たちが、君をか?」
「ああ、用済みになった俺は殺されるか記憶を消されるかはわかんねーけど、多分平穏な生活に戻れるかもしれないってさ。ほら、あいつは学校だよ。場所はわかるだろ? だったらさっさと俺の記憶を消してどこかに行ってくれると助かる」
「あらら、そこまで嫌われてたなんてね」
「……高貴、ヒルドは高校にいるんだな?」
「ああ、信じる信じないはかってにどーぞ」
「信じるさ、君の言葉だからね」

 そうはっきりと断言するエイルに対し、高貴は何故かその目を見る事ができずに視線をそらしてしまった。

「もう囮も必要ねーだろ? 《神器》だかヴァルキリーだかなんだかしらねーけどさ、俺には関係ないんだからよそでやってくれ」
「ちょ、ちょっと待ってよ人間君。君は誤解してるわ。エイルは―――」
「いいんだよクマ」

 クマの言葉をエイルが遮る。

「ヒルドの居場所がわかったんだ。それにこうして高貴がヒルドに会って戻ってきたという事は、きっともうなんの問題もないことなんだと私は思うよ。だったらもういいじゃないか」
「そ、それはたしかにそうだけど―――」
「だからいいんだ。高貴、君にはいろいろと迷惑をかけたり嫌な思いをさせたりしてしまったな。本当にすまなかった。では私はもう行くよ。ああ、それからこれも返しておこうか」

 エイルが制服のポケットから鍵を取り出した。おそらくはクマが作ったものであろうその鍵を、エイルは高貴に手渡す。

「さよなら高貴。本当にありがとう」 

 ニコリと笑いながらエイルはそう言った。笑っているにもかかわらず、その表情はとても悲しそうに見えた。
 しかし、エイルはそれ以上何も言うことはなく、クマと一緒に外へと出て行った。
 それを見送った高貴は靴を脱いで部屋へと入る。買ってきた弁当をテーブルの上において、ベットにゴロンと寝転んだ。
 これでもうエイルが自分に関わる事はない。おそらく学校からも消えるだろう。その事実について、心の底から喜んでいる自分が確かに存在している。にもかかわらず、無性にイライラしている自分も確かに存在している。

「なんだっけかな……あいつに何か言い忘れてる気がするけど……まぁ、いいか。どうせもう会う事もないだろうし」

 平穏は思ったよりも早く帰ってきたという喜びと、自分でもよくわからない苛立ち、そしてベットから伝わってくる安心感を感じながら高貴は目を閉じた。



 どうやら眠ってしまっていたらしい。最近は眠るつもりがなくても寝る事が多いようだ。時刻を見ると、午後8時40分。あたりはすっかり暗くなっている。
 それに腹が減っていることに気がついた高貴は、帰って来る途中に買ったコンビニ弁当がある事を思い出しす。起き上がって部屋の明かりをつけると、テーブルの上においてあった弁当を取り出した。

「あ……」

 袋の中には弁当が二つ入っていた。どうたら自分でも無意識のうちに、エイルの分を買ってしまったらしい。無駄にするのもなんだから明日の朝に食おう。

「わー、おいしそうなお弁当。お姉さんにくれるの?」

 突然テーブルのしたから声が聞こえてくる。高貴が下を覗きこむよりも早く、そこからクマが姿を現した。

「や、人間君久しぶり。コンビニ弁当って侮れないわよね、値段とボリュームがなかなかのバランスになってて」
「……なんだよ、もう俺には用はないだろ」
「まぁ、そういわないで。あ、ちなみにエイルは学校よ。もうすぐヴァルキリー同士のマジバトルが始まるだろうからお姉さん一人で来たの。それとお姉さん真面目な用件で来たのよ。人間君の望みどおり、君のエイルに関する記憶を綺麗さっぱり消してあげるわ」
「え?」 
「本当は殺したほうが確実なんだけど、エイルの希望でここ数日の記憶の一部分を消すことにしたの。これで君の中でエイルに関する記憶はまったくなくなる。《神器》や魔術に関してもね。と、言うわけで《アンサズ》」

 クマの右手が動き、《アンサズ》のルーンを刻んだ。空中に書かれたその文字は、消えることなくそこに浮いている。

「その光に触れなさい。無理矢理消すよりも、君自身が協力してくれたほうがうまくいくのよ。あ、だけどその前にお姉さんのお話に付き合ってくれない?」
「話ってなんだよ? どうせ俺の記憶を消すんだろ。だったらそんなの意味ねーだろ」
「そう言わないで。どうして私たちが君の記憶を消さなかったのか教えてあげるわ」

 その言葉に高貴は強く反応した。ヒルドとの会話で、てっきり囮としてでも使われているのだろうと思っていたが、明確な理由は聞いていない。しかしどうせ理由を聞いてもすぐに忘れてしまうだろう。
 けれどそれでもいい、どうせちょっとした気まぐれだ。それでクマが満足するなら、話を聞く位はかまわない。

「わかったよ、さっさと話せ」
「じゃ、いきなり理由を言っちゃうけどね、君の記憶を奪わなかったのは、君の安全を守る為よ」
「……はぁ?」

 今クマはなんといっただろう。自分の安全を守る為?

「順番に説明しましょう。エイル・エルルーンとヒルド・スケグルが公園で戦い、あなたと別れた後に、私は一つの可能性が頭に浮かびました。もしもヒルド・スケグルがあなたを殺しにくるという可能性にです」
「……ちょ、ちょっと待てよ。あの女が俺を殺す? お前たちじゃなくて?」
「はい、自分の姿を見られたヒルド・スケグルが、あなたを殺しに来る可能性です。異世界において、自分の正体を知るものは少ないにこした事はありません。加えてヒルド・スケグルは《アンサズ》が得意ではない為、あなたを殺すのが手っ取り早く済むと私は考えました」
「で、でもさ、さっきもあいつにあったけど、俺を殺そうだなんて思ってなかったぞ」
「そのようです。つまりは私の判断ミスということになります。そして私はヒルド・スケグルが、あなたを殺しに来るかもしれないという仮説を、エイル・エルルーンに話しました。彼女はヒルド・スケグルがそんなことをするようには思えないといっていましたが、万が一の事を考えてあなたを護衛すると言い出したのです」
「護衛……」
「はい、学校に転校したのも、自宅にホームステイしに来たのもなるべく近くであなたを守る為です。記憶を奪わなかったのは、ヒルド・スケグルの記憶を奪ってしまえば、彼女の顔がわからなくなり、なんの抵抗も出来ぬまま殺されてしまうかもしれないと考えたからです。顔を覚えていれば、逃げようと思うぐらいは出来たでしょうから」

 ちょっと待て。じゃあ本当に俺を守る為だったのか。確かにあいつに会ったときに最初は逃げようとしたけど……

「……なんでだよ? 俺なんてほっとけばよかったろ。むしろ俺を囮にしてあの女を捕まえたほうが良いに決まってるじゃねーか」
「私もそう提案しました。《神器》は世界を揺るがすレベルの存在です。それを持つヒルド・スケグルを人間一人の命で捕らえられるなら安いものですから」
「だったら何で―――」
「エイル・エルルーンがそれを拒否しました。あなたは彼女の「死んでくれないか?」という問いかけを拒否したようですね。「死にたいと思っている人間ならともかく、死にたくないと思っている人間を死なせたくない」そう彼女は言いました。故に彼女はあなたに近づいたのです」

 目の前が真っ暗になっていく。あんな一言を言っただけで。あんな当たり前の一言を言っただけで、エイルは自分を守ろうとしてくれた。

「なんでだよ……俺はあいつの事をやっかいなやつとか、鬱陶しいやつとかしか思ってなかったのに……最初に会ったときも、話ぜんぜん信じてなくて、ただの中二病だと思ってさ」
「それは私も彼女に伝えました。あなたはヒルド・スケグルの場所など知らず、エイル・エルルーンを精神的な障害者だと勘違いしてを警察につれて行こうとしただけなのだと。その事について彼女はあなたにお礼を言ってましたよ」
「お礼?」
「はい、普通ならばそんな人間を見たら関わろうとせずに追い出して終わりです。しかしあなたはエイル・エルルーンの身を案じて、身元を調べさせる為に警察に連れて行こうとしました。そんなあなたを優しいと彼女は言っていましたよ。きっと嬉しかったのでしょうね」
「そ、そんな……だってあいつはヴァルキリーなんだろ? 世界のバランスを守るとか、ベルセルクとかいうのを倒すとか……そういう普通じゃなくて、非現実的で、特別なやつで―――」
「確かにその通りです。エイル・エルルーンはヴァルキリーです。世界のバランスを守るため今は《神器》の回収が最優先、あなたなどにかまうなどもってのほかです。ですが―――」

 クマの言葉がいったん途切れた。

「エイルだってね、人間の心を持った普通の女の子なのよ」

 その言葉は、高貴にとって本当に予想していなかった言葉。いや、きっと目を背けていた言葉だ。

「君に気を使ってもらって、単純にエイルは嬉しかったのよ。だからそんな君を死なせたくなかった、《神器》よりも君を優先した。そんな優しい女の子がエイルなの。君だってわかってたはずよ。じゃなきゃ殺されるかもなんていわれたのにエイルの前に顔を出せるわけがないもの。エイルは自分を殺したりしないって君は無意識のうちに信じてたのよ」

 ああ、その通りだ。自分でもよくわからないけど、初対面であんな事をされたにもかかわらず、エイルが俺を殺すだなんて信じられなかった。じゃあ本当にあいつは、全部俺のためにやってくれてたのかよ。万が一に備えて俺の身を守る為に。

「さて、話はこれでお終い。ヒルドが君に害をなさないってわかったから、君の記憶を消しても大丈夫と判断できるわ。当然今の話も忘れるけど、お姉さん的にはどうしても言っておきたかったの。じゃあ記憶を消すからこの文字に―――」

 その言葉が終わる前に、高貴は立ち上がって走り出した。《アンサズ》の文字には目もくれずに、一目散に部屋から飛び出して行く。

「え? ちょ、ちょっと人間君!」

 取り残されたクマはポカンとした雰囲気でその背中を見送る。しばらくしてため息を一つつくと、右手を振って《アンサズ》の文字を消した。

「はぁ、お姉さんどうなっても知らないからね。それにしても本当にめんどくさい子ね。あの性格じゃ平穏に生きるなんてやっぱ絶対無理だわ」



 自転車を出し、それにまたがった高貴はすぐさまペダルをこぎ始めた。行き先は当然四之宮高校だ。今の時間は8時50分。急いでも9時には間に合いそうにないが、それでも高貴は立ちこぎでペダルをこぎ続けた。

「ったく……一体何やってんだろうな俺は!」

 本当にわけがわからない。クマに記憶を消してもらえば、明日からは平穏な毎日だったというのに。
 それもこれも全部エイルのせいだ。だいたいヴァルキリーなら大人しく世界でも守ってろ。俺みたいな人間なんてほっとけよ。正義の味方でも犠牲が出るのは仕方ないだろ。
 本当にさ。部屋に転がり込んできたり、学校の隣の席に来たり、本当に滅茶苦茶なやつなのにさ。何故か俺はあいつの事を心から嫌いになれない。その理由がようやくわかった。
 教科書読んで授業受けたり。諭吉先生の事を間違って覚えてたり。マッチ見て軽く感動したり。100メートル走で記録破ったりして滅茶苦茶なやつだけど。
 俺にはあいつが普通の人間に見えてたんだ。
 ヴァルキリーだろうと、魔法が使えようと、怪物と戦ってようと、人外なんかじゃなくて、やっぱり心を持った人間だと俺は思ってたんだ。
 しかもとびっきり良い奴だった。すごく優しいやつだった。
 何となくわかる。あいつのとこにいけば俺は絶対後悔する。嫌な予感が止まらない。
 それでも駆け出せ、ごちゃごちゃ考えて手遅れになる前に。
 どうせ後悔するっていうんなら、とことん思い切り後悔するつもりでいけ。

「そうだ、俺は言わなきゃいけない言葉があるんだ!」

 今はまだ記憶を消されるわけにはいかない。その言葉を伝えたらいくらでも記憶消して良いから。この言葉だけは直接伝えなきゃいけないんだ。
 だから―――駆け出せ。

 ◇

 辺りがすっかり暗くなった夜に、四之宮高校の屋上に一人の少女が足を踏み入れた。その少女、ヒルドはキョロキョロとあたりを見回しながら屋上を歩き続ける。

「呼び出しておいて自分のほうが遅く来るというのはおかしくはないかヒルド?」

 屋上のフェンスのほうから声が聞こえてくる。視線を向ければそこには鎧姿のエイルが立っていた。

「悪かったわね、学校を見て回ってたのよ。なんか面白いものでもあるかと思ったけどぜんぜん期待はずれ、なんだかつまんなさそうな学校ね」
「私はそうは思わないがな。戦乙女学校とはまったく違っていて、とても新鮮で楽しかったよ」
「ああ、そういえば学校に潜入したんだったわね。あの男を囮にでもするつもりだったの? ―――来なさい、契約の鎧」

 エイルに近づきながら、ヒルドはその身に鎧をまとった。エイルも警戒を高めていく。

「いや、お前が高貴を襲うかもしれないとクマが言っていたからな。しかしいらない心配だったようだ」
「なによそれ、失礼なこと考えるわね。あんな一般市民をむやみやたらに殺すほど腐ってないわよ」

 エイルから約20メートルほどの距離を開けてヒルドが立ち止まる。

「ならばヒルド、お前はどうして《神器》を持ち去ったまま帰ってこない。力に溺れた訳ではなく正気を保っているのなら、戻らない理由が見つからないんだ。まさか本当に自由を謳歌したかったなどとは言わないだろうな?」

 エイルの問いかけにヒルドはしばらく黙っていたが、やがて静かに口を開いた。

「頭の固い連中に、《神器》の管理なんて不可能よ。だからもう少しだけあたしが預かろうと思っただけ」
「何だと?」
「話は終わりよ。あたしは話に来たんじゃない。この前やられた借りを返しに来ただけ。だから―――」

 ヒルドがゆっくりと右手を前に伸ばす。瞬間、周囲の空気がはっきりと変わった。

「初っ端から全力でいかせてもらうわ!」

 ヒルドの右手に炎が灯った。それは空気中の見えない導火線に火を付けたかのごとく急速に周囲に迸る。《ケン》のルーンを刻んだわけではない。にもかかわらず、ルーン魔術以上の火力を持った炎の出現に、当然ながらエイルは困惑する。

「……そうか、こらえ性のない奴だ。以前のように使う前にかたを付けるという作戦は失敗のようだな」

 炎が出現した理由を知り、落ち着きを取り戻したエイルだが、理由がはっきりした分警戒を今まで以上に高める。迸る炎が一箇所に集まっていく。ヒルドの右手に集っていくそれはだんだんと何かの形を成していった。
 迸る魔力が、激しく燃え盛る炎が、一本の剣にへとその姿を変えていく。ヒルドがその剣を掴んだ瞬間に、周囲に燃え盛っていた炎が弾けた。
 あれほど激しく燃えていた炎は全て消え去り、代わりにヒルドの右手には今までなかった剣が握られている。まるで燃え盛る炎にそのまま形を与えたかのような姿。赤く、荒々しき形状のその片刃の剣がエイルに向けられた。

「この町に飛び散った《神器》の内の一つ《炎剣レーヴァテイン》。この前は使えなかったけど、今日はなんの遠慮もなしにこの力を使わせてもらうわ」

 ヒルドの纏っている空気、魔力、威圧感、その一つ一つがエイルに見えない重圧をかける。
 公園ではヒルドは撤退したが、エイルとヒルドの実力は元々ほぼ互角に近い。しかし今回のヒルドの武器は、ただの剣ではなく《神器》であるレーヴァテイン。そのただ一つの事実で、エイルは圧倒的に不利な状況にいる事となる。そんな状況でエイルは。

「来い、契約の槍!」

 様子見などする事もなく、自分からヒルドに向かって駆け出した。右手にランスを召喚し、20メートルの間合いを一気に詰める。エイルはヒルドの実力、そしてレーヴァテインの能力もわずかだが知っている。戦いにおいて相手の情報というものはかなりの武器になるが、その情報を元にエイルは最善の行動を取った。
 レーヴァテインは炎剣の名の如く炎を操る剣。その炎を使わせずに剣技のみで勝負をつけるというのがエイルの狙いだ。至近距離で炎を使えば、ヒルドは自分の身をも焦がしてしまうので《神器》の力も半減される。

「真紅の焔!」

 だが―――遅い。エイルが自分の攻撃の間合いに入る前に、ヒルドがレーヴァテインを振り上げた。ルーン魔術とは違って《神器》の力の発動は、空中にルーンを刻む必要がなく、発動までのタイムラグが極端に短い。ヒルドがレーヴァテインで炎を出すのを防ぐには、20メートルという距離はあまりにも遠すぎた。
 レーヴァテインの刀身が焔に包まれる。それを振り下ろすと、焔は火球となってエイルに襲い掛かった。あたる直前に、エイルは右にステップしてそれを回避する。目標を失った火球は屋上のフェンスに直撃し、轟音を上げてそれを破壊した。当然一発で終わるはずがなく、ヒルドはエイルに向けて連続して焔を放つ。それをエイルが避けるたびに屋上が破壊されていく。

「これでは近づけないな―――《ソーン》」

 襲いくる炎の回避を繰り返しながらエイルがルーンを刻んだ。ランスを持っていない左手に雷が迸り、炎を回避した瞬間にそれをヒルド目掛けて放つ。雷刃は無数の炎を掻い潜りヒルドの元へとたどり着く。それをヒルドはレーヴァテインを振るってかき消した。
 その瞬間、炎の嵐が一瞬だけ止んだその瞬間に、エイルが再び距離を詰めた。間髪入れずにランスでヒルドに向かって斬りかかり、それをヒルドがやすやすと防ぐ。

「この距離なら私の剣技のほうが上だ」
「その上から目線がムカつくのよ。とはいえ、あなたにあわせてあげる義理もないわ」

 ヒルドが距離をとろうとするが、エイルはそれを許さなかった。ピタリとヒルドに張り付いて連続でヒルドに斬りかかる。純粋な剣技ならばやはりエイルに分があるのか、ヒルドの表情がだんだんと曇っていく。

「そこだ!」

 わずかに体制が崩れたところにエイルの渾身の一閃。何とかそれを受け止めるも、ヒルドは派手に後ろに吹き飛ばされた。
 エイルにチャンスが訪れた。ヒルドが体勢を立て直すよりも早く、とどめの一撃を食らわせればエイルの勝ちだ。勝負を一気に決めるべく、エイルがヒルドに向かって一歩を踏み出す。
 そしてエイルは見た。レーヴァテインの刀身が今まで以上に激しく燃え盛っているのを。そして吹き飛ばされ体勢が崩れながらも、はっきりと自分を見ているヒルドの姿を。ヒルドはただ吹き飛ばされたわけではなく、エイルの攻撃を利用して自ら吹き飛ばされたのだ。

「燃えろっ!」

 先ほどよりも大きな火球がエイルに向かって放たれた。
 もしも先ほどの一歩を踏み出しておらず、最初から回避行動を取っていればそれをかわす事は出来たであろう。しかしエイルが取っていたのは攻撃の為の行動であって、必然的に炎を回避するのは不可能と言うことになる。
 それでもなんとかダメージを減らすべくエイルは、ランスを大きく振り上げ火球に向かって叩き付けた。轟音を上げて火球が破裂する。視界が塞がれ、破裂した炎と熱気が全身に襲い掛かってくるが、エイルはなんとか体を動かしてその場を離れようとした。

「なっ!?」

 しかし、ヒルドのほうが速い。エイルが動き出すよりも一瞬早くヒルドが接近し、レーヴァテインを振るう。なんとかランスで防御したが、勢いを受けきることができずに今度はエイルが後方に向かって吹き飛ばされた。
 まずい。このまま吹き飛べば屋上から落ちてしまう。体勢を崩したまま落ちるのはさすがにヴァルキリーといえど無傷というわけにはいかないからだ。なんとか体勢を立て直そうとしたが、それは出来なかった。
 ヒルドがエイルに向けて追撃の炎を放ってきたからだ。
 エイルの戦闘経験、炎の破壊力、そしてなにより本能が「防御しろ」と告げている。あれを今受けたら確実にまずいと。このまま体勢を崩しながら落下するよりも、せまりくる炎への対処を優先させたエイルはすぐさまルーンを刻んだ。

「《エイワズ》、我が身を守れ!」

 炎がぶつかる瞬間、青の障壁がエイルの前に現れる。やはり以前受け止めたヒルドのルーンと比べてその炎は圧倒的で、エイルには重く感じた。
 せめぎあった二つの魔力は相殺され、なんとかエイルはヒルドの攻撃を防いだ。しかし爆風によって吹き飛ばされ、屋上から空に向かって飛ばされてしまう。ベルセルクを突き落としたときとは違い、今度は落とされてしまったため、エイルはなんとか体勢を立て直す。

「甘い!」

 そう、甘かった。屋上から落とされた故に、エイルはヒルドの追撃が終わったと判断してしまったのだ。しかし現実は違っており、ヒルドはエイル目掛けて自ら屋上から飛び降りたのだ。レーヴァテインを振り上げ、刀身を炎で包み、エイルに直接炎を叩き付けるつもりだろう。

「《エイワズ》、《テュール》、バインドルーン・デュオ!」

 考えるよりも早くエイルの右手が動いた。刻まれた。二つのルーンあおが一つに溶け合い、エイルの眼前に強化された《エイワズ》の障壁が展開される。

「そんなので―――ふせげるかああーーー!!」
「防いで―――みせる!」

 空中で再び炎と障壁が邂逅する。レーヴァテインの刀身が《エイワズ》の障壁に叩きつけられた。
 瞬間―――炎が爆ぜた。
 爆弾でも爆発したかのような爆発と爆風により、近くにあった校舎の窓が音を上げて割れていく。その様はまるで校舎が悲鳴を上げているかのようだ。火の粉とわずかなガラスの舞うグラウンドに、ヒルドは優雅に着地した。それに一瞬遅れてエイルもなんとか両足で着地する。
 着地した瞬間にエイルが前のめりに崩れ落ちた。エイルの障壁ではレーヴァテインを防ぐ事は出来ず障壁が破られてしまい、かなりのダメージを負ってしまったからだ。

「この世界の言葉ではヴァルキリーは詭道なり、だったかしらね。別に近くだろうとレーヴァテインの炎は普通に使えるわよ。さっきは使えない振りしてただけ」
「……すでにわかりきったことをペラペラと……ずいぶんと余裕なのだな」
「余裕にもなるでしょこの状況じゃ。あたしの勝ちね。悪いけどレーヴァテインは諦めてもらうわ。とは言っても―――」
「ふざ―――けるな」

 ゆっくりとエイルが起き上がった。ダメージによっていう事を聞かない自らの体を無理矢理奮い立たせ、ランスを杖代わりにしてなんとか肩膝をつく。弱々しいその姿とは裏腹に、まだ諦めていない瞳でヒルドを見る。

「まだ終わっていない。何度もいうが、本来《神器》のような強力なものは個人が所有していいものではない。必ず返してもらう」
「人の話を最後まで聞きなさいよ。それにこれ以上なにをするって言うの? 見た感じ打つ手無しって感じよ。もしかしたらヴァルハラに帰る時のために《神器》を預かって来てるかもしれないけど、ここまで追い込まれて使わないってことは、その《神器》との適合率低くて使えないって事でしょ?」
「く―――」
「《神器》を使ったヴァルキリーと《神器》を使えないヴァルキリーじゃ話にならないわよ。まぁ知り合いのよしみで殺したりはしないけど、しばらくの間動けなくなるくらいのケガでもしてもらうわ。心配しなくても《神器》は悪いようにはしないから」

 レーヴァテインが再び炎に包まれる。エイルはまだ動くことが出来ない。ルーンを刻んだとしてもレーヴァテインの炎を防ぐことは不可能。まさしく絶体絶命の状況まで追い込まれてしまっている。

「じゃ、そういうことで。しばらくの間さよならエイル」

 決定的な敗北。それを悟ったエイルは視線を伏せた。今回は負けてしまったが、次こそは必ずヒルドを捉えるという誓いを胸に、少しでもダメージを軽くしておこうと《エイワズ》のルーンを刻む準備を始める。ダメージを軽くしたということをなるべくヒルドに悟られないように、炎がぶつかる直前に発動させるつもりなのだ。
 しかし妙だ。いつもで立ってもヒルドは炎を放ってこない。不思議に思っているエイルの耳になにやら奇妙な音が聞こえてくる。明らかにヒルドが炎を放った音ではないが、不審に思ったエイルはさげていた視線を上げた。

 そこには―――彼がいた。

 ここには来る筈のない彼が、いるはずのない彼が、自転車と呼ばれる二輪車にまたがってそこにいた。

「高貴?」

 エイルが彼の名前を呼ぶ。
 彼は―――月館高貴はエイルのほうに視線を向け、

「やべぇ、もう来るんじゃなかったって後悔してるよ俺」

 心の底から思っているような情け無い表情で銀髪のヴァルキリーにそう言い放った。
 突然現れた高貴という存在により、場の空気は完全に高貴に支配される。
 はずはなく。自転車にまたがったまま青い顔をしている高貴に向かって、レーヴァテインを下ろした呆れ顔のヒルドが口を開く。

「あんた何しに来たの? せっかくあたしが親切で来るなって言っておいてあげたのに」
「えーと……あれ、俺何しに来たんだっけ? なんか大事なことだった気がするけど、ここに来るまでに忘れちまった」

 そういうなり高貴は自転車から降りてエイルに駆け寄った。しかし駆け寄った高貴がエイルに声をかけるよりも早く、エイルのほうが口を開く。

「高貴、君は本当になにをしに来たんだ? クマが君の記憶を消しに行ったのではないのか? ああ、そんなことはもうどうでもいい。それよりも早く逃げろ。ここは今世界でもトップクラスに危険な場所だ」

 そんなことはわかっている。エイルはボロボロにやられているのが一目でわかるし、対照的にヒルドは無傷。しかもそいつの手に持っている剣みたいなのはメラメラと燃えていて、危険だなんてわかりきっている。本来ならばこんな所からは一刻も早く逃げ出したいとも思っている。
 にもかかわらず体は逃げ出そうとしない。視線はエイルの傷の具合の確認をするばかり。本当に自分はどうしてしまったのだろう。そんなはっきりしない高貴に対して、痺れを切らした人物が一人。
 ヒルド・スケグルだ。

「あのさぁ、巻き込まないであげようってあたしの優しさを無視した挙句、自分でもなんで来たのかわかんないって顔してるけど、あたしそういうのが一番嫌いなの。身の程をわきまえてる男は嫌いじゃないけど、はっきりしない男は大っ嫌いなのよ。なんなら―――死んでみる?」

 レーヴァテインの炎が強くなった。人間一人など簡単に焼き尽くしてしまいそうなその炎。しかしおかしい、そんな危険な炎よりも、やはりエイルの容態の方に意識がいってしまう。

「お、おい、大丈夫か? この前は勝ってたから、こんなにやられてるだなんて想像してなかったんだけど」
「情けない限りだよ。ヒルドが《神器》を使っているとはいえこの様だ。それよりも君は早く逃げ―――」
「無理だ」

 エイルの言葉は、最後まで言われる事はなく遮られた。

「足がさ、動かないんだよ。お前に駆け寄る事は出来たのに、逃げようと思うとまったく動かないんだ。自分でも本当にわけがわかんねー。こんなとこには居たくなくて、とっとと記憶を消してもらって平穏な毎日に帰りたいって思ってるのにさ。どうやっても足を動かせないんだ」
「……君は―――」

 ふと、エイルはヒルドがレーヴァテインを振りかぶっているのが目に入った。
「あたしを無視して、なに話してんのよ! いい加減にしろっての!」

 火球が飛ばされる。一直線にエイルに向かってそれは飛来してきた。完全な直撃コースの炎に、とっさにエイルは《エイワズ》を刻む。

「エイル!」

 しかし、魔力の壁が出現するよりも早く、エイルの前に何かが現れた。月館高貴がエイルをかばうように彼女の目の前に立ちはだかった。
 おそらく一番驚いたのは高貴自身だろう。あれほど動かなかった両足があっさりと動いて、エイルを守るように両手を広げ壁代わりになっているのだから。

「《エイワズ》!」

 その高貴の目の前に青い障壁が現れた。ヒルドが威力を抑えていたのか、火球は障壁にぶつかるとあっけなく消え去った。

「《ラグズ》」

 ヒルドが次の行動に移るよりも早く、エイルが次の行動に移る。刻まれたのは《ラグズ》のルーン。移動を表すそのルーンが青い軌跡で描かれる。

「跳ぶぞ高貴!」
「は?」

 エイルは高貴の右手を掴むと、そのまま校舎に目掛けて跳んだ。普通ではありえない数十メートルクラスの垂直跳びで、先ほどヒルドの一撃で割れた校舎の窓から、夜の校舎へと一時撤退したのだ。

「逃がすか!」

 エイルと高貴が逃げ込んだ窓目掛けて、一瞬送れてヒルドが炎を飛ばす。轟音が響き、大きく校舎がえぐれたが、エイルの姿が確認できない。おそらく逃げられた事を理解したヒルドは、取り立て急ごうともせずにゆっくりと歩いて校舎に入っていった。



 暗い校舎の中を、エイルの手を引いて高貴は走っていた。窓から入った瞬間にいきなり炎が飛んできた時はさすがに驚いたが、エイルに引っ張られていたおかげでなんとか無傷ですんでいる。

「こ、高貴、いい加減にしろ。ここは危険だから早く逃げろと言っているだろう」
「だから今逃げてるんだよ! 少し黙ってろ! それよりお前は知って大丈夫なのか?」
「それは問題ない、私はヴァルキリーだ。この程度の傷では―――ではなくてだな、一人で逃げろといってるんだ。私といる限りヒルドは私の魔力を追ってくるぞ。校舎に中に入ったとしても逃げられない」
「それでも少しは時間稼ぎぐらいにはなるだろ! だいたいそんなボロボロなんだから少しは自分が逃げることくらい考えろよ!」
「いや、それはこちらの台詞―――ああ、もう、《ペオース》!」

 走りながらエイルが左手でルーンを刻む。いったいなにをしたのかはわからないが、特に何も起きないので気にしないことにした。
 叫びながら走っていると体力の消費が大きいので、まだ何か言っているエイルの言葉を無視して高貴はひたすら走り続ける。とにかく今は逃げる事だけを考える。頭の片隅で「こんな奴ほっといて逃げろ」ともう一人の自分が言っているが、その言葉を振り払ってエイルの手を離さないでひたすら走る。
 走り続けて、やがて2年3組の教室、つまり高貴たちのクラスの教室の前までたどり着いた。無意識のうちなのか、日ごろの習慣によるものなのかは不明だが、高貴は教室の中へと入っていった。当然ながらそこには誰もおらず、ヒルドも姿を現さないため、ここなら一息つけるだろう。

「おい! 本当に君はなにをやっているんだ! 下手をすれば君までヒルドに目を付けられるぞ」

 少しでも体力を回復させようとした矢先に、エイルが高貴に向かって声を荒げてきた。その表情は明らかに怒りに染まっており、今にも胸ぐらを掴まれそうな勢いだ。

「だから言っただろ。自分でもよくわかんねーよ。クマの話を聞いて、気がついたら自転車に乗って学校に向かってた」
「なぜそのまま記憶を消してもらわなかった? そうすれば君は今までどおりの平穏でなんのトラブルもない日常に戻る事が出来たんだぞ。君は平穏をなにより望んでいると私に言ったな。私にはそれが嘘とは思えなかった。心の底からそう思っているように思えた。しかし今の君の行動はその本心と明らかに矛盾している。平穏がほしいというあの言葉は嘘だったのか?」
「嘘じゃないよ。今でも心底そう思ってる。頭の中でお前なんかほっといて逃げろって今も響いてる。なのに逃げようとすると体が動かないんだ。だけど―――だけどお前が心配だって思うと体が動く。お前を助けたいって思うと体が動くんだ。本当に自分でもわけがわかんねーよ」

 その言葉にエイルが驚いたような表情になった。そしてしばらく止まっていたが、なにやら諦めたようにため息をつく。 

「とにかく、もう逃げようなどと思っても手遅れかもしれない。ヒルドも君に対して怒っていたからな。だったらなんとかしてヒルドを倒すしかないか。……正直な所、君を守りぬく自信などないのだが、せめて私から離れていれば少しは安全かもしれないぞ」
「言っただろ。そう考えると体が動かないんだよ」

 こんな状況にもかかわらず、軽く苦笑しながら高貴はそう言った。それにつられてエイルも笑う。高貴はすぐさま頭を切り替えた。
 考えろ。この状況をどうやったら打開できるかを。エイルはボロボロ、自分は戦うこと等出来ない。力の差は歴然。この圧倒的不利な状況で何か逆転の一手はないだろうか。いや、あるはずだ。必ず何かしらはある。

「なぁ、さっき《神器》を遣ってるって言ってたよな。だったらその《神器》をなんとかして使えなく出来ないのか?」
「ふむ、単純に使用者の魔力が切れると使えなくなるだろうが、ヒルドもそこはわかっているだろう。戦いの最中に魔力切れを起こすということは考えないほうがいい」
「そうか、武器さえ押さえればこの前はエイルが勝ってたから、いい線いくと思ったけど……あれ? そういえばお前も《神器》ってのを持ってるんじゃなかったっけ?」

 屋上でエイルは言っていた。ケルトから《神器》を借り受けていると。ケルトというのがなんなのかは知った事ではないが、持っているのならそれを使えばいい。しかしエイルはなにやら気まずそうな表情になるばかりだ。

「すまない、確かに《神器》は持っているが、私はその《神器》を扱うことが出来ないんだ。それに気に入ってもらうことが出来なくてね。そもそもこちらからヴァルハラに帰るときに使うだけの予定のものだったからな」
「マジかよ、絶体絶命だな……」

 頭の中の逃げろという声が大きくなった。その言葉を無視して高貴はさらに思考を働かせる。そして、特に思考を働かせるまでもなく、ごく当たり前の疑問に高貴は行き着いた。しかしその言葉を言ってしまっていいのか? それは平穏と平凡という自分の生き方の全てを否定してしまうかもしれない一言だからだ。
 本当に聞くのか? やはりやめるのか? おそらくはエイルもその可能性には気づいている。しかし高貴を必要以上に巻き込まない為にあえて何も言わないのだ。ああ、本当に彼女は優しい。そんな彼女だから、きっと自分はここに来たんだろう。

「なぁ、その《神器》って俺にも使えるのか?」

 だから、高貴はエイルにそう聞いた。
 エイルの表情が一瞬固まった。それは聞いてほしくない事を聞かれたという表情だ。

「エイルは言ってたよな、俺にも魔力があるってさ。だったらお前の持ってるその《神器》を俺が使えるかもしれない。そうすればあいつの武器にも少しは対抗できるんじゃないのか?」

 エイルは顔を下げたまま何も言わない。しかしその沈黙はおそらく肯定だということを高貴は理解している。やがてエイルが顔を上げて口を開く。

「君は今なにを言ったのかわかっているのか? 《神器》を使うということは魔術師になるということだ。つまり戦いに巻き込まれるということだぞ。下手をすれば死んでしまうかもしれない戦いにだ。一時の気の迷いで判断していいような事じゃないんだ。平穏な日々も壊れてしまうぞ。後できっと後悔する、だからやめておいた方がいい」
「後悔は……うん、きっとするだろうさ。だってさ、さっきも学校に来た瞬間にはもう後悔してたんだから。だから明日の朝にはきっと後悔してると思う。だけどさ、自分でもよくわからないけど―――いや、ちがう」
「ちがう? なにがだ?」
「俺はお前を助けたいんだ。平穏を望むとか、平凡に生きるとか、巻き込まれたくないっていう本心と同じくらい、エイルを助けてやりたい、エイルの力になってやりたいっていう気持ちが確かにあるんだよ。だからきっと俺はここに来たんだ。だからさ、お前の仕事の《神器》を集めるっていうやつ、俺にも手伝わせてくれ」

 そう言う高貴の瞳にはなんの迷いもない。その言葉は月館高貴のはっきりとした本心だ。

「……君が確実に《神器》を扱えるという保証はない。扱えたとしてもきっと辛い日々になるぞ。死んで天国にでも行ったほうがましだと思えるくらいの地獄の日々になるかも知れない」
「死んで天国に行くくらいなら、地獄で生きたほうが千倍ましだろ」

 間髪いれずに高貴は言う。エイルにももうわかってるはずだ。この少年の決意は揺るがないと。

「……高貴、私は君に聞いていないことがあったよ」
「なんだよ?」
「君は平穏に生きたいと言っていたな。しかし今までの君の人生は平穏だったのか?」

 エイルのその言葉に、高貴は少し苦笑しながら口を開いた。

「……ここだけの話な、自分でもよくわからないけど、何かとトラブルに巻き込まれるんだよ。無意識のうちに首を突っ込んでるってのも結構あるみたいだ。もっともヴァルキリーとのトラブルはさすがに初めてだけどさ」
「……そうか、ならばもう何も言うまい《ジュラ》、《マンナズ》、バインドルーン・デュオ」

 エイルが右手でルーンを刻んだ。二つの文字が一つに溶けあい、空中に青い光が生まれる。

「これは契約の印エインフェリアルとよばれる魔術だ。《神器》を持っただけではヒルドには対抗できないから契約を行う。この光に触れる事で君は私の《エインフェリア》となる」
「エインフェリア?」
「ああ、簡単に言えば魔術師になるということさ。《神器》以外で簡単に魔術師になる方法の一つがこれだ。この契約により、私の戦いに関する知識も僅かながら知識として植えつけられるはずだ。君は残念ながら私の持つ《神器》に選ばれたわけではない。もしもそうなら、とっくに私の手から離れて君の元に現れているはずだからな。だから《神器》に選ばれて魔術師になるのではなく、魔術師になって《神器》と対話してくるんだ。そして《神器》に選ばれれば、君は《神器》を扱えるようになる」
「その《神器》と話してくるって事か。ってことは……エイルは対話して失敗したわけか?」
「その通りだ。どんな事を話したかは覚えていないが、《神器》が私の力になってくれていないことがその証拠だ。だから私は持ってはいても扱う事は出来ない。契約と同時に《神器》を君に明け渡す。それで対話が出来るはずだ」
「これに触れればその《神器》ってのと話せるのか」
「ああ、つまりは―――この光が地獄行きの片道切符だ。もちろん途中下車は受け付けていない」

 地獄行きの片道切符。つまりはこの光に触れてしまえばもう逃げる事は出来ない。今までの日常は砕け散り、信じられないような非現実で生きていかなければいけない。彼はそんな毎日を、当然受け入れられるはずがない。にもかかわらず右手がその光に向かって伸びていく。
 ああ、多分どっちも本心なんだ。関わりたくないって言うのも、エイルの力になりたいって言うのも。後悔だってまたすぐにするだろう。でもいいや、まだ若いんだからいくらでも後悔していいはずだ。
 後悔は後で後悔するほどするとして、今は後悔しないうちにエイルの力になろう。
 高貴の右手がゆっくりと光に触れた。その手を正面にいるエイルの左手が掴む。恋人たちがするような貝殻繋ぎだ。本当に戦いとは無縁とも思える小さなエイルの手に、青い光は吸い込まれるように消える。
 特に何も起こらない。そう思っていた高貴に、少しだけ頬を染めながらエイルが言った。

「私も初めてだ、許せ」

 どういうことだと聞き返す暇もなく、エイルが高貴を引き寄せる、視界がエイルの顔で多い尽くされる。
 次の瞬間には、高貴の唇がエイルの唇でふさがれていた。
 柔らかい、という感触を意識した後、ようやく彼はエイルにキスされたのだと気がついた。
 そして、自分の体に何かが入ってくる感覚を感じながら、高貴の意識は真っ白になっていった。

 ◇

 白、限りない白。
 気がつくと高貴は果てしなく広がる白い空間に立っていた。いや、立っているという表現はおかしい。足は地面についているような感覚ではなく、まるで宙に浮いているような感覚。体験した事はないが、これが無重力というものかもしれない。
 いったいここはどこだろう。確かエイルにキスされて、それから視界が真っ白に染まったはずだ。エイルとキスした事を思い出して、少々取り乱したが、《神器》と対話すると言う事を思い出した高貴は頭を切り替える。

「にしても……《神器》ってどこにいるんだ? ここにいんのか?」

 周りを見渡しても、ただただ白い空間が広がっているだけで何もない。

「おーい! 《神器》とかいう奴! 出て来いよ! ちょっと用があるんだけど!」

 とりあえず思い切り叫ぶ。声が反響しない所を見ると、ここは果てしなく広いのか、それともそういう場所なのか。そして、その呼びかけに答えたかのごとく高貴の目の前に何かが現れた。
 何もない白い空間から、そこに存在しえなかった手が生えてくる。手、腕、胴体、足、そして顔。目の前には学生服を着た少年が突然現れた。驚いた。突然出てきた事もそうだが、その少年は高貴とまったく同じ姿をしている。今朝鏡で見た顔もこんな感じだったから間違いないだろう。

「まったくいちいち騒ぐな。別に呼ばれなくても出てきてやる」

 少年が口を開く。自分の声と違う感じがするのは、自分自身の声は他人には違う声に聞こえるというやつだろうか?

「お、お前は―――」
「誰だ。などというう無駄な質問は省かせてもらう。我があの青いヴァルキリーの持っている《神器》だ。貴様が話しやすいようにこの姿を使ってやったのだ。ありがたく思え」

 話しづらい。それでもこの真っ白な空間に話しかけるよりはましなのかもしれない いや、今はそんなことはどうでもいい。今はそんなことよりも優先することがある。

「なぁ、お前はスゲー力を持ってるんだろ。あのヒルドってのが持ってた剣みたいにさ。だったらお前の力を俺に貸してくれ。エイルを助けるのに必要なんだ」
「断る」

 たった二文字。それほどまでに短い言葉で《神器》は断った。

「な、なんで?」
「そもそも貴様を気に入ったのなら、我のほうから貴様に呼びかけている。契約の印エインフェリアルで魔術師になり、わざわざ我に会いに来ても無駄なことだ。レーヴァテインは赤いヴァルキリーに力を貸しているようだが、我には貴様に力を貸す理由がない。貴様にもわかるような言葉を使うとしたら、メリットがないといえばわかるか?」
「メリット?」
「そうだ。元々我は青いヴァルキリーの帰り道を開くという役割のみをこなす為に、ケルトよりヴァルハラへと貸し与えられたのだ。青いヴァルキリーや貴様に力を貸せなどとは言われておらんし、頼まれようが断らせてもらう」

 武器がメリット求めんなよ。つーか取り付く島もない。しかし諦めるわけにはいかない。なんとかしてこの《神器》を説得しなくては。

「じゃあさ、お前にメリットがあればいいんだろ? 俺に出来る範囲でなら何かするよ」
「我の望みをかなえるというのか?」
「ああ、試しに言って見てくれ」
「では言わせてもらおう。我の望みは、人間が苦しみ、もがき、後悔し、絶望し、足掻いていく、醜い、そして無様な姿を見て、それを嘲笑うことだ」
「…………」

 もうやだこいつー。
 この《神器》はとことん性格が悪い。人格が破綻していると言っていいだろう。《神器》とはこんな存在ばかりなのだろうか?
 エイルもどうせ借り受けるなら、もっと性格のいい《神器》を借りてくればよかったろうに、これでは選ばれなかったというのも納得できる。むしろエイルのほうから断りそうだ。

「……貴様は我の人格が破綻していると思ったろう?」
「お、思ってない!」
「しかし我からしてみれば、貴様のほうがよほど人格が破綻している」
「え、どういうことだよ」
「青いヴァルキリーと共にあった我は、今までの貴様の言動をいくつか聞いている。その中で貴様は心から平穏を望んでいるといったな。それは間違いなく本心だった。しかし青いヴァルキリーの助けになりたいといったこともまた本心だ。おかしいとは思わないか? 本心というものが複数存在している。しかも互いに矛盾しあっている本心がだ」

 《神器》の言葉に高貴は何も言えなくなる。それは自分でも不思議に思っていたからだ。エイルに関わりたくないという気持ちと、エイルの助けになりたいという本心が自分の中に同時に存在している。

「その理由がわかるか?」
「……お前はわかるのか」
「無論だ。答えは至極単純。貴様は平穏を確かに望んでいる。しかし関わった存在や、気にかかった存在とは、納得するまで付き合いたいという自我も存在しているのだ」
「気になった存在?」
「そうだ、一種の二律背反といってもいいかもしれないな。簡単な自己矛盾だ。関わった存在が例えばなんの問題もない人物ならば平穏に過ごせるだろう。しかし問題を抱えた存在と関わってしまったらどうなる? 貴様は関わりたくないと思いつつも、同時に関わりたいと思い―――」
「やっかいごとに巻き込まれる。ちょうどこんな感じにか」
「その通りだ。もっとわかりやすく言えば、困っているものを放っておけない。お人よし過ぎると言ってもいいだろう。そうでなければ、青いヴァルキリーと初めて出会った時に、警察とやらにつれていこうなどとは思わない。普通ならば追い出して終わりだ」
「…………」
「貴様は平穏に過ごすには優しすぎる。平穏とは優しさだけでは手に入らない。故に、貴様は平穏には過ごせない」

 まったく、返す言葉もない。優しいなどと言われて、はいそうですかと受け入れるほうもどうかと思うが、なにを言っても言い返されそうだから無駄だろう。
 けど、おかげで希望が見えた。散々好き勝手言いやがって、今度はこっちが言い返してやる。

「そうか、お前の言うとおりかもな。つーか話がそれすぎてる。だったらやっぱりお前は俺に力を貸せ、そうすればお前の望みは叶う」
「なにをバカな、先ほども言ったが我の望みは―――」
「俺は必ず平穏な生活を手に入れる」

 《神器》の言葉は、高貴の言葉に遮られた。そのあまりにもはっきりとした物言いに、思わず《神器》は黙ってしまう。

「エイルの手伝いをして、《神器》を全て集めて、全部終わらせて俺は平穏を必ず手に入れる。お前はさっき、俺は平穏は手に入らないって言ってたな? だったら意地でも平穏で平凡な毎日を手に入れてやるよ。俺と一緒にいれば、無理な事に無謀にも挑んでるバカの姿がいつでも見れるぞ」
「……苦しむ姿」
「どうせこっちはあの非常識なヴァルキリーに振り回されてるんだ。苦しむ姿だってきっとさらす」
「もがく姿」
「日々平穏を目指してもがくだろ」
「後悔」
「お前が力を貸すって言った瞬間にきっとする。しなかったら明日の朝あたりかな」
「絶望」
「平穏が手に入らないっていつもするかもな」
「そこまでわかっていて―――貴様は足掻くのか?」
「ああ、もっともお前が力を貸してくれればだけどな。きっと力を貸してくれなかったら今度こそエイルを見捨てて逃げるかも」
「醜い、そして無様だな」
「ほら、早速一個叶った。だからさ、俺に力を貸せ。俺の《神器》になれ。エイルの力になる為にはお前の力が必要なんだよ」
「…………」

 まぁエイルを見捨てて逃げるというのはありえないだろうが、高貴はあえて黙っていた。《神器》が黙りこむ。言える事は全て言った。これで駄目だったら―――また他の手を考えるしかない。今回は決して諦めるわけにはいかないのだから。
 やがて《神器》がため息を一つついた。

「いいだろう、貴様に少しだけ興味がわいた。我の力を少しだけ貴様に貸してやろう」
「ほ、本当か!? って少しだけ?」
「ただし、見限る事はいつでも出来るという事は忘れるな。貴様の醜態を見飽きたら、我は力を貸すのをやめる」
「……おい、それって俺に常に恥をかき続けろって事か?」
「やれやれ、帰り道を開くだけのはずが、とんだ見当違いだ。せいぜい我を退屈させないように心がけるのだな」

 《神器》がそういい終わると、《神器》から溢れんばかりの光が発せられた。その余りの眩しさに、高貴は《神器》を直視できずに目を手で覆い隠す。

「お、おい! 待てよこの野郎! まだ話は終わってねーぞ!」

 その言葉に《神器》はもう答えなかった。しかし、確かに「力を貸す」という言葉を高貴は聞いた。

「まぁ、生き地獄でせいぜい苦しみ続けろ」

 ああ、やっぱりもう後悔してる。これでもしも駄目だったら、もしかしたらまだ引き返せたかもしれないのに、これでもう本当に戻る事は出来ない。しかし、確かな喜びもあった。これでエイルの力になれる。少しでも助けてあげられる。
 そこでやっと気がついた。俺は気に入らなかったんだ。《神器》の回収とか、世界のバランスを保つとか大層な事を、たった一人の女の子だけに押し付けるのは。
 だから―――だからこそ、俺はエイルの力になりたかったんだ。



 目を開けば白い世界は消えうせ、あたりは薄暗い教室の中、目の前にはエイルの顔が見えた。彼女は心配そうな表情で高貴を見ていたが高貴が目を開けるとすぐさま声をかけてくる。

「高貴! 大丈夫か!?」
「……えっと、俺寝てたのか?」
「時間的には数秒だ。それでどうだった? 《神器》自体は君の中に送り込んだが、うまく対話は出来たのか?」
「……あれ、何も覚えてない。でもスゲー嫌な気分だ。それにとんでもねー事言っちまった気がする」
「それは……もしかすると失敗かもしれないな。私も対話を終えた後に、何故か腹ただしい気分になっていたんだよ」
「いや、多分―――」

 どおおん!! と突然轟音が響き、教室のドアが爆炎によって吹き飛んだ。とっさに高貴をかばうようにエイルが前に出る。爆炎による煙が晴れると、そこには不機嫌そうなヒルドの姿があった。

「見つけた!」
「くっ、教室では戦えないか。高貴、廊下に出るぞ!」
 ヒルドのいる黒板の近くの入り口ではなく、後ろのほうの入り口から二人は廊下に出た。出た瞬間にヒルドも廊下に出て炎を撃ってきたが、すかさずエイルが《エイワズ》で防御する。その爆炎と爆風により、窓がどんどん砕けちる。
「こんのド天然! 《ペオース》なんてめんどくさいもん使って魔力を隠してんじゃないわよ! おかげで探すのに手間取ったじゃない!」
「誰が天然だ! そもそも身を隠すときは《ペオース》で魔力を隠すのが基本だ。お前が戦乙女学校で真面目に授業を受けていなかったのが悪い」
「なんですってええ!? もうあったまきた! そこの男ごとぶっ飛ばしてあげるわ! やるわよレーヴァテイン!」

 ヒルドがレーヴァテインを掲げると、凄まじいまでの炎が迸る。

「高貴、失敗したというのなら下がっていろ。いくらエインフェリアになったとはいえ、ヒルド相手に素手では―――」
「は? エインフェリアですって?」 

 ヒルドがポカンとした表情になる。そんな中ゆっくりと、高貴がエイルの前に出た。そう、今の自分にははっきりとわかる。自分の中に存在する魔力という力の存在をはっきりと感じ取る事が出来る。
 別にそれは目に見えるわけではない。本当にエイルの言っていたとおりだ。高貴からも魔力を感じると言った。これが元々自分が持っていた魔力だというのなら、どうして今まで気づかずにいることが出来たんだろう? それほどまでにはっきりと魔力があるのがわかる。
 そしてもう一つ。自分の持つ魔力とは違うもう一つの何か。自分自身の持つ魔力など、足元にも及ばないであろう力を持っていそうなその何か。これがきっと《神器》だ。
 ふと、頭の中に声が響いた気がする。よくわからない言葉の羅列。しかし、おそらくそれは自分の中にある《神器》の名前。

「出て来いよ」

 高貴が右腕を前に伸ばした。その動作に二人のヴァルキリーが反応する。高貴の右手に凄まじい魔力が集まっているからだ。

「君は、認められたのか?」
「ちょっと、まさかあんた」

 そうだ、出て来い。今はただエイルの力になってやりたいんだ。だから、力を貸してくれ。

「出て来い、《クラウ・ソラス》!!」

 少年が、自らの《神器》の名を呼んだ。その右手に白い光が迸る。薄暗い廊下が、まるで昼にでもなったのかのごとく光で照らされていく。
 熱い。右腕が燃えているかのように熱かった。そして何も握っていなかったはずの自分の右手に、何かが触れている事に高貴は気がつく。
 それを、彼はしっかりと掴んだ。
 瞬間、光が全て弾け飛ぶ。彼の手には、剣が握らていた。
 まるで雪のように白く曇りのない刀身の両刃の剣。柄には水晶のような透明で小さな宝石がちりばめられたその剣。《クラウ・ソラス》が高貴の手に握られていた。

「まさか本当に《神器》を渡したっていうの!? なんて信じられないことするのよあんた! しかもそれもしかしてヴァルハラの《神器》じゃなくてよそからの借り物じゃないの!?」
「仕方がないだろう! 非常事態だ! 《神器》を持ったまま逃げたお前には言われる筋合いはない!」

 騒ぎ出す二人のヴァルキリーをよそに、高貴はクラウ・ソラスをじっくりと見ていた。魔力を感じ取れるようになった今ならばはっきりとわかる。この剣はヒルドの持つレーヴァテインに負けないくらいの凄まじい力を持っていると。

「エイル、俺はなにをすればいい? 戦いなんてやったことないから指示を出してくれ。二人であいつをぶっ倒そう」

 高貴の言葉にようやくエイルは状況を思い出した。

「あ、ああ。戦い方はわかっているな? エインフェリアとなったときに、私の剣技の一部も知識として君に流れたはずだ」

 言われて気がついた。確かに今の自分は、剣の使い方を知っている。剣道や剣術などはまったくやった事のない高貴だが、確かにその知識を持ち合わせている。

「しかし一人で戦おうだなどとは思うな。二対一という状況を最大限に利用しろ」
「了解だ」

 そして、二人は構えた。

「……ったくもう、《神器》どころかエインフェリアにまでしちゃうなんてなに考えてんのよ。こうなったら―――この前の借りを返すついでに二人まとめてぶっ飛ばしてあげるわよ!」

 ヒルドもレーヴァテインを構える。それが戦いの再開の合図となった。
 高貴がヒルドに向かって距離を詰める。クラウ・ソラスの影響なのか、体が信じられないほど軽い。今ならばきっと100メートルの世界記録を出せるだろう。

「おおおお!!」

 知識として植えつけられた剣の使い方。剣を振り上げ、振り下ろす。その単純な一連の動作を、素人とは思えないほどの速さ、そして正確さで高貴は実行し、クラウ・ソラスでヒルドに斬りかかった。
 ヒルドがレーヴァテインでそれを防ぐ。クラウ・ソラスの曇りのない白い刀身が、レーヴァテインの荒々しく赤い刀身に叩きつけられた。
 響き渡る鋭い金属音。そして―――時間が止まった。

「……マジ?」
「……なに?」
「……はい?」

 実際に時間が止まったわけではない。しかし、高貴、エイル、そしてヒルドの時間が止まってしまったのだ。その理由は、戦いの最中にもかかわらず、思わず呆然としてしまうような事が、三人にとっては信じられないことが起きたからだ。
 響き渡った鋭い金属音。というよりも嫌な金属音。それはまるで最後の断末魔。
 レーヴァテインにぶつかったクラウ・ソラスが、あっさりと砕け散ってしまったのだ。


 パラパラと音を立てて、クラウ・ソラスの粉々に砕けた破片が廊下に落ちた。その場にいた三人はその事実に唖然とし、いまだに動けないでいる。
 武器が砕け、カウンターを受けそうな高貴も。高貴の初撃に続いて、追撃を行おうとルーンを刻んでいたエイルも。武器を失った相手が目の前にいて、本来ならば圧倒的チャンスであるヒルドも。
 クラウ・ソラスという《神器》が砕けたという事実に対して、その思考が完全に停止しているのだ。
 いや、ちょっと待て。いくらなんでもおかしいだろう伝説の武器。普通はここから反撃開始って流れだろう。なのにどうしてこんな簡単に壊れてんだよ。

「ちょ、ちょっとあんた……なに壊してんのよ!」

 状況を把握したヒルドが高貴に向かって叫ぶ。間近での大声だった為、その声は高貴の耳の奥まで響いてきた。

「いや、その……」
「わかってんの!? これって国際問題よ! あんたは今、この世界で言う所の世界遺産を壊しちゃったようなもんよ!」
「そ、そんなこと言われても―――」

 刀身が完全に砕け、持ち手だけになってしまったクラウ・ソラスを見ながら慌て始める高貴。そんな中、二人をよそに行動を開始していたエイルの声が響いた。

「バインドルーン・デュオ! 集え、青き雷光!」

 エイルが刻んだ《ソーン》と《ベオーク》のルーンが一つに溶けあい、エイルのランスに青い光が宿った。ベルセルクをも一閃する威力を誇る雷光の槍ブリッツランス。それを携えヒルドに斬りかかる。
 それをヒルドはバックステップでやすやすと回避した。

「下がれ高貴!」

 エイルはそのままランスを振り回す。天井に向けて虚空を薙ぎ払うようにランスを振るうと、ランスから青い光が放たれ天井を破壊し、それは瓦礫の雨となって眼前に降り注いだ。

「逃げるぞ高貴!」
「あ、わ、わかった!」

 その隙にまたもや二人は撤退を開始する。

「ちょ、待ちなさいよ! さっきから逃げてばかりでいいかげんにしなさいっての!」

 ヒルドのそんな声を当然無視し、高貴とエイルは走り出す。廊下を走り抜け、階段を上ってまた廊下を走る。どこかから時々爆発音のようなものが聞こえてくるが、そんなことも気にしている余裕もなかった。

「お、おい! なんかこれ壊れたんだけどなんでだよ! 《神器》ってスゲー力持ってるんじゃねーのか!?」

 走りながら高貴はエイルにたずねた。

「私に聞かれても困る! そもそもそのクラウ・ソラスはケルトの《神器》で、私は名前は以外は詳しく知らないんだ! クマなら知っているかもしれないが……そうだ、クラウ・ソラスと対話は出来ないのか!?」

 そう言われてもやり方などわからなかったが、とりあえず刀身のなくなったクラウ・ソラスに高貴は意識を集中させてみた。がしかし、当然のごとく何も反応は返ってこない。

「無理だ! もしかして死んだんじゃねーのか!」
「《神器》だぞ! 甘く見るな!」
「あっさり壊れたんだけど!」
「それは―――」
「つーか生きてて返事しないんだとしたら、こいつどんだけ性格悪いんだよ! これもう捨ててもいいか!?」
「性格の悪い《神器》などあるものか! ひとまず戦いやすい屋上にいこう。君はまだルーン魔術までは使えないだろうから、邪魔にならないように下がっていてくれ。さっきも言ったが、今のヒルド相手に君を守りきれる自信はない」

 おいおい、これじゃあまるっきり足手まといだ。
 せっかく平穏を捨ててまでエイルの手伝いをすると決めて、《神器》まで手にしたというのに、これではなんのために決断したのかわかったものじゃない。エイルの力になるなど笑い話もいいところだ。
 
 ―――無様な姿だ。

 ふと、頭の中でそんな声が聞こえた気がした。エイルを見捨てて逃げろという声がせっかく止んだというのに、今度はそれ以上に不愉快な声が聞こえてくるのに加えてこの絶望的状況。いったいどうすればヒルドを倒せるというのだろう。
 階段を駆け上がりひたすら屋上を目指し、二人はなんとかヒルドよりも先に屋上にたどり着いた。この学校の屋上はここまでボロボロだったのかと疑問に思うほど変わり果てていたが、間違いなくヴァルキリーが原因だろうと高貴はすぐさま理解する。

「はぁ……はぁ……ど、どうすんだよ。この剣がこんなに役立たないとは思ってなかったから、このままじゃ俺って本当に役立たずだよな」
「ふむ、一応常人以上の身体能力は備えているはずだ。たとえば屋上から飛び降りても死ぬ事はないだろう。しかしルーン魔術は理解しやすいものでも、実践で使うには三日はかかる。それに加えて《神器》がそれでは―――」
「なんのお役にも立てないってか。ったく、本当になんなんだよこのガラクタ」
「と、とにかくだ、君はクラウ・ソラスに呼びかけてみてくれ。その間は私がなんとか戦おう」
「いや、呼びかけるったって―――」

 その言葉が最後まで発せられる前に、屋上の地面が轟音を上げて吹き飛んだ。あまりに突然の事により、高貴とエイルはとっさに爆発点から距離をとる。二人の立っていた数メートル先に大穴が開き、その穴の中からヒルドが屋上に入ってきた。

「見つけた! 結局ここに戻ってきちゃうんじゃないの。もう諦めてあたしにぶっ倒されろっての!」
「どこまでメチャクチャなんだよこいつは! どんだけ学校壊す気だよ!」
「うるっさいわね! この町はどうせもう災害保険に入ってんでしょうから明日には元通りよ! 《神器》は保険きかないんだからあんたよりはまし! 真紅の焔!」

 ヒルドが火球を飛ばしてくる。高貴に向けて放たれたが、エイルが高貴をかばうように前出でると、雷光の槍ブリッツランスを振るいそれをかき消した。

「高貴、もしも無理なようなら私に構わず逃げろ!」

 エイルがヒルドに向かって走り出すと、それを迎え撃つようにヒルドも前に出た。二人のヴァルキリーが互いの武器で舞でも踊るかのように斬り結ぶ。互いの武器がぶつかり合う度に、青い光と赤い火の粉が周囲に弾け飛んだ。
 純粋な剣技ならばエイルが上に違いないが、蓄積されたダメージにより、エイルの動きはいささか鈍いものになっていた。ヒルドの攻撃に押されて、エイルが少しずつだが屋上の縁に追い詰められていく。そして、猛攻を防いでいたエイルにとうとう隙が出来た。ヒルドの斬り上げにより体勢が崩れ、腹部ががら空きの状態になってしまったのだ。

「爆ぜろおぉ!」

 ヒルドの渾身の横一閃、そして爆炎が弾けた。エイルがそれをもろに受け吹き飛び、ランスを手放して力なく屋上にうつ伏せに倒れる。エイルは倒れたまま動く事はなかった。

「エイル!」

 瞬間、高貴がヒルド目掛けて駆け出す。武器もなく、魔術も使えないにもかかわらず、エイルの逃げろという言葉を無視して。いや、考えるよりも早く体が動いていた。右拳を振り上げ、ヒルドの顔面目掛けて思い切りその拳を振り切った。
 しかし無常にもその拳は、何事もなかったかのようにヒルドの左手に阻まれた。いくら力を込めてもヒルドは平然と高貴の拳を受け止めている。自分より体格も小さい細腕のヴァルキリーはつまらなさそうに右足を振り上げた。

「がはっ!」

 回し蹴りが腹部に直撃し高貴が吹き飛ぶ。手に持っていたクラウ・ソラスも乾いた音を立てて手から零れ落ちた。

「ま、所詮はその程度よね。エインフェリアって言ってもなりたてで、《神器》持っててもすぐ壊しちゃうような男じゃ。やっぱあんたなんて殺す価値もぶっ飛ばす価値もないわ。見逃してあげるから感謝しなさい」

 そういい捨てるとヒルドはエイルの元に歩き出す。エイルはうつ伏せに倒れたまままだ動く事は出来ない。手元から離れたランスに向かって必死に手を伸ばしている。
 一歩一歩ヒルドはゆっくりと近づいていく、それはまるで敗北までのカウントダウンのようだ。高貴はそれを見ていることしかできない。これで終わりなのかもしれない。《神器》なんてたいそうなものを手にしても結局自分には何も出来なかった。
 これで終わり。自分は見逃してもらえるからそこは安心か。そもそもこんな非常識な事は最初から無理だったんだ。だからもう大人しくしていよう。このまま倒れたままで、

「いいわけ―――ねーだろ!」

 おいコラ、いい加減にしろよこの平穏主義者。お前に言ってんだよお前に。テメーは自分から平穏をあっさりと捨てて、自分から生き地獄に飛び込んだんだろうが。それが女の蹴り一発食らっただけでもう諦めてんのかよ。エイルを見ろ。あいつは俺よりボロボロなのにまだ諦めてない。必死に武器に手を伸ばしてる。
 なら俺が諦められるわけねーだろ。どんなに後から後悔する事になっても、一度決めた事が最後までやれよ。エイルを助けたいんだろ、力になりたいんだろ。どうすればいいのかとかぜんぜんわかんねーけど。
 それでも立てよ、ごちゃごちゃ考えて手遅れになる前に。
 高貴がクラウ・ソラスに右手を伸ばし、それをしっかりと掴んだ。刀身が完全に砕け散っており、もはやなんの意味も成さないその剣を持ち、ゆっくりと彼が立ち上がる。それに気がついたヒルドが、いったん足を止めると高貴に向かって振りかえる。

「はぁ、やっぱりただ蹴っただけじゃダウンしないか。でもどうする気? 壊れた《神器》じゃあたしには勝てないわよ。あなたには何も出来る事なんてないわ」
「そんなこと知ってるよ。それでも簡単に諦めるわけにはいかねーだろ。自分から首を突っ込んで、一度やるって決めたんだから」
「……気に入らないわね」

 ヒルドがレーヴァテインを掲げた。その刀身が焔に包まれる。

「まずい……高貴、もういい逃げろ……!」

 エイルが必死に高貴に向かって叫ぶも、彼にはもう逃げるという選択肢はどこにもない。

「つーか、お前は自分の心配してろっつーの。そんなボロボロなんだからさ……」

 守ってくれるものはおらず、守るべき術もない絶望的な状況で、高貴はひたすらにクラウ・ソラスに語りかけた。

「クラウ・ソラス。エイルを助けたいだなんて思ってて、こんな他人任せなのは情けないけどさ。もしも壊れてないのなら俺に力を貸してくれ。俺はもうお前に頼るしかないんだよ。だから―――力を貸してくれ!」

 その祈りが通じたのか、それともただの気まぐれなのか。クラウ・ソラスから声が聞こえた気がした。

 ―――口だけは達者で自分はなんの力も持たないとは本当に無様な奴だ。まぁ、この状況で口が出るだけましか。少しだけヒントをやろう。これが我の、《光剣クラウ・ソラス》の力の一部だ。

 そして、右手に何かが集まりだした。いや、エインフェリアとなった今ならばはっきりとわかる。自分自身の魔力が、右手に集まってきている。そしてその魔力がクラウ・ソラスに流れ、白い光に包まれていく。

「これで寝てろ!」

 ヒルドの持つ炎剣が振り下ろされ、火球が放たれた。エイルの目が大きく見開かれる。おそらくまともに食らえば致命傷は避けられないだろう。しかし、高貴の視線は炎ではなく自らの手にある剣に向けられていた。
 魔力が集い、光が形を成していく。クラウ・ソラスから光の線が真っ直ぐに伸びる。
 これは―――剣?
 クラウ・ソラスの砕けた刀身の変わりに、白い光で新たに刀身が作られた。白、限りない白。どこかで見たことがあるように果てしなく白い光の刃。

「おおおおお!!」

 反射的に高貴の体が動いた。自らにせまりくる火球目掛けてクラウ・ソラスを振るう。手ごたえなどない、何かに当たった感触などまったくなかったにもかかわらず、白の光刃は赤い火球を簡単に斬り裂いた。二つに裂かれた炎が力なく爆ぜる。

「は? なによ今の……」

 レーヴァテインの放つ炎をあっさり真っ二つにされたことにより、ヒルドの表情がわずかに変わった。エイルも信じられないという表情になっている、しかしそれ以上に驚いているのは、炎を斬り裂いた高貴自身だ。クラウ・ソラスを見ると、光の刀身はすでに消えており、またただのガラクタ同然の代物になっている。

「い、今……なにしたんだ俺? なんか光の剣みたいなのが……」

 確かに今クラウ・ソラスから光が伸びて、炎を斬り裂いた。

「クラウ・ソラス……《光剣クラウ・ソラス》……光の剣? じゃあもしかして今のがこいつの本当の力なのか?」

 もしもそうだとしたら、刀身が砕けたことなどなんの問題にもならない。むしろ邪魔な部分がなくなったようなものだからだ。もしも今の力がクラウ・ソラスの力で、もう一度今の刃を出せたのなら、この状況をひっくり返せるかもしれない。しかしいったいどうすれば―――

「イメージしろ!」

 試行錯誤している高貴の耳にエイルの声が届いた。

「先ほどの光の形をイメージするんだ! 魔力をクラウ・ソラスに流し込み、それを自分のイメージで形にしろ! その剣はきっと、君しだいでどんな形にもなるはずだ!」
「イメージ……」

 知識として植えつけられた魔力の扱い方、それに従って高貴は魔力をクラウ・ソラスへと流し込む。頭に思い浮かべるのは光の刃。限りない白、穢れのない純粋な白い光。
 イメージしろ。今まで見てきた漫画や昔見たアニメとかで、似たようなものを見たことがあるはずだ。現実の常識ではなく、非現実の非常識で考える。その非現実を、今この現実に具現化させるイメージ。すると白い光が段々と集い、再び光の刀身が構築されていく。

「で、できた!」
「っ! このぉ!」

 魔力の高まりを感じたヒルドがすかさず炎を放った。しかし、もはやそれは高貴には通じない。先ほどと同じく、炎は刃によって斬り裂かれる。今度は光の刀身は消えることなく、その輝きを保ったままだ。

「よし、これなら!」

 高貴がヒルドに向けて一歩踏み出した。クラウ・ソラスを携えて、間合いを一気に詰めていく。今のこの剣ならば、いくら炎を飛ばされようとも恐れる事はない。廊下での最初の一撃と同じく、剣を振り上げて振り下ろす単純な動作。輝きを増したその刀身が、レーヴァテインに叩きつけられた。
 鋭い金属音のようなものが響く。今度はその刀身は砕ける事はなかった。

「こんどこそ反撃開始だ! 今までの借り全部返してやる!」
「このっ、調子に乗ってんじゃないわよ!」

 そして、少年とヴァルキリーの剣舞が始まった。



 夜の校舎、その屋上。そこは今、学生の学び舎としては相応しくないほどにボロボロになってしまっている。落下防止用のフェンスはへこみ、吹き飛び、地面は焦げ跡や大穴がいくつも開いている。そしてその場で行われているさらに非常識な光景。光の剣を持つ少年と炎の剣を持つ少女がそこで剣戟を交わしていた。

「こいつッ! なんでここまで……」
「うおお―――ッ!」

 高貴の叫びにヒルドがわずかながら気圧される。つい数分前まではただの少年だった高貴が、今自分と互角に剣を結んでいるのが信じられないのだ。その動揺が無意識のうちに彼女の動きを鈍くしている。

「エインフェリア……あのド天然、なにやってくれちゃってんのよ!」

 月館高貴はエイルのエインフェリアとなった事で、エイルの剣技をわずかながら引き継いでいる。しかしそれは達人になったというわけではなく、扱うことが出来るといったレベルであり、ヒルドに及ぶようなレベルではない。
 高貴自身もその事に気がついているからこそ、攻撃の手を休めるわけにはいかない。ヒルドが動揺しているうちに、勢いに乗って一気に勝負を決めるしか彼には勝機がないからだ。攻める、ひたすらに攻め続ける。それ以外に高貴に出来る事など何もないのだから。
 しかし、ヒルドの戦闘経験は高貴とは比較にならない。落ち着きを取り戻しつつある彼女はまずは防御に徹し、高貴の剣戟を全て防いでいる。そして彼の攻撃方法がそれのみだということを確信した時点で、ヒルドは完全に落ち着きを取り戻した。

「剣振り回すしか能がない男が、いつまでも調子乗ってんじゃないわよ!」

 クラウ・ソラスを受け止め、高貴の動きが止まった一瞬の隙をついて、ヒルドが高貴の足を払った。足元には意識を回していなかった高貴は、あっけなく尻餅をつく。間髪いれずにレーヴァテインの燃え盛る刃が振り下ろされた。

「うわっ!」

 反射的にその場から離れ、レーヴァテインをなんとか回避する。しかしその一撃により爆炎が起こり、風圧で高貴は吹き飛ばされた。体中に襲い来る衝撃と肌を焼くような熱気。数メートルほど吹き飛ばされた彼は、すぐさま視線をヒルドに向けた。しかし、ヒルドはすでにレーヴァテインを振り上げていた。
 レーヴァテインが燃えている。そしてその上で、まるで小さな太陽のような火球が勢いよく燃えている。戦闘経験が皆無な高貴にすら、直感であれはやばいと理解できた。

「《焼き尽くす紅玉バーンスフィア》!!」

 ―――よけれない!
 その思考とクラウ・ソラスを振り上げたのは同時だった。せまりくる火球を無我夢中で斬りつける。しかし、斬り裂けない。力が拮抗している。ヒルドがより多くの魔力を込めたのか、その炎は先ほどまでのそれとはまるで違う。炎に質量などないにもかかわらず、このまま押しつぶされてしまいそうなほど、その炎は強力なものだった。

「う……わあ――――――ッ!!」

 力を込め、魔力を込め、そして―――太陽が弾けた。その爆発でクラウ・ソラスの光刃が砕け、光の粒子となって空気中に溶ける。直撃こそしなかったものの、その爆発は高貴の体に確実にダメージを残していた。さらに爆発のときに生じた爆煙で、高貴の視界が塞がれており、ヒルドの姿も確認できない。

「くそっ、どこだよあいつ!」

 その時、爆煙を突き破って、ヒルドが一気に間合いを詰めてきた。反射的に刃を再び展開させたものの、間髪いれずにレーヴァテインが振るわれ、先ほどとは逆に高貴が防戦一方となる。ゾクリと、間近に炎の剣があるにも関わらず背筋に寒気が走った。
 怖い、心の底から怖い。この炎が、この剣が、そして目の前にいるこのヴァルキリーが。高貴の心が恐怖で塗りつぶされていく。心の中に迷いが生まれる。それを表したかのように、クラウ・ソラスの光の刀身が、心なしか弱々しいものになった。
 その弱くなった光の刃に、ヒルドは当然のごとくなんの遠慮もなしにレーヴァテインを叩きつける。

「ほらほら、どうしたの。ビビッて力が下がってるわよ。所詮は素人って所かしらね」

 ギリギリとクラウ・ソラスとレーヴァテインがせめぎ合う。燃え盛る炎に包まれた力強い刃に比べて、白の光刃は段々とその勢いを失っていく。それはまるで高貴の心情をそのまま表しているかのようだ。
 しかし、もしもこのまま光が消えたら、この熱そうでスゲー痛そうな剣が俺にもろに当たる。そんなの―――

「冗談じゃ―――ねぇよッ!」

 その身に感じる恐怖すらも、高貴は力へと変える。クラウ・ソラスの光刃が再び輝きと力強さを増した。そのまま力任せにクラウ・ソラスを振り切ってヒルドを弾き飛ばす。ヒルドは体勢を立て直しても、突っ込んでくる事はなく様子を見ているので、高貴も自ら向かっていく事はなかった。
 代わりにエイルに向かって走る。エイルはランスを手に取り、それを杖代わりにしてようやく立ち上がっていた。

「エイル、大丈夫か?」
「……この程度なら大丈夫だ。君に頼りきりで申し訳がないよ」
「そんなの気にすんな。それよりどうするよあいつ」

 このままでは埒が明かない。というよりも段々と追い詰められている。ただ攻めることしか出来ないと思っていたが、どうやらただ攻めているだけではヒルドを倒せそうにない。
 明らかに自分は決め手に欠けている。例えるならば技を持っていない。なにかしらの特別な攻撃方法でもない限り、自分一人ではヒルドには届かないだろうが、高貴には技など何も知らない。

「だったら……一か八かだな。出来なかったらゴメンなエイル」
「なに?」

 イメージしろ。クラウ・ソラスの光の刀身。エイルの言葉を信じるならばきっとできるはずだ。

「何をするのか知らないけど、もうそろそろお終いよ。レーヴァテイン、全力でいくわよ。二人まとめてぶっ飛ばす!」

 そのヒルドの叫びに答えるかのごとく、レーヴァテインが今まで以上に激しく激しく燃え盛る。おそらくは次の攻撃で勝負を決めるつもりだろう。単純な強い力で、魔力で、二人が防げないであろう攻撃をヒルドは行うつもりだ。

「うわぁ……あれ食らったら終わりだな」
「ならば話は簡単じゃないか。食らわないようにすればいいだけだ。《ソーン》、《テュール》、バインドルーン・デュオ」

 エイルが二つのルーンを刻んだ。公園の時に見せた迅雷の咆哮。その右手に雷が弾ける。

「高貴、私の雷ではレーヴァテインの炎を防ぐことなど到底出来ない。せいぜい数秒勢いを弱める程度だらう。だからその間になんとかしてくれ」
「なんとかって言っても……」
「できるさ、君はクラウ・ソラスに選ばれたのだからな」

 簡単に言ってくれる。この《神器》はあまり自分に対して協力的とは思えないというのに。しかし、そこまではっきりと言われてしまったからには、その期待に応えたくなってしまう。

「わかったよ、なんとかしてやる」
「出鼻をくじく、後の事は任せた」

 エイルが、雷を纏った右手をヒルドに向けた。

「響け、《迅雷の咆哮ヴォルトロアー》!!」

 ヒルド目掛けて、一直線に雷が放たれた。正真正銘エイルの全力の魔術。まるで落雷のようにヒルド目掛けて突き進む。

「全力の……《焼き尽くす紅玉バーンスフィア》!!」

 それに対して、ヒルドも紅玉を解き放つ。高貴に放ったそれよりも、いっそう強力で巨大なヒルドの全力の炎が屋上を削りながら向かってくる。夜に響く迅雷の咆哮と、全てを焼き尽くすかのごとく紅玉が激突した。
 しかし、無常にも迅雷の咆哮は炎の勢いを僅かに弱くしただけで、簡単に飲み込まれてしまった。雷をかき消した炎はなおも突き進む。その先にはヴァルキリーの少女とそのエインフェリアの少年。
 絶体絶命だ。クラウ・ソラスで斬り裂こうにも、光刃の長さも力も確実に足りない。それでも、高貴はクラウ・ソラスを振り上げる。剣道でいう所の上段火の構え。もちろんそんなことばを高貴が知っているはずはないが、この構えが一番いいと判断した。
 大丈夫だ。きっとできる。エイルの言葉を信じろ。この剣は、クラウ・ソラスはきっと―――
 俺の望むままに姿を変える。

「うおお――――ッ!!!」

 夜に少年の咆哮が木霊する。そして、クラウ・ソラスの刀身が勢いよく伸びた。普通の剣と同等の長さしかなかった光の刃が、まるで天に突き刺さる柱の如く5メートル近くにまで伸び、力強さも増している。
 それを、高貴は縦に真っ直ぐと思い切り振り下ろした。伸びた光の刃が紅玉を受け止める。ギリギリと拮抗しあう光と炎。受け止める事は出来たものの、斬り裂くにはまだ力が足りない。あと少し。本当にあと少しの力さえあれば―――。
 段々と炎が光の刃を押してきている。このままでは押し切られてしまう。ここまでかと高貴があきらめかけたその時、自分の中に何かが流れてきた。
 自分の魔力でもクラウ・ソラスの魔力でもないその何か。それはとても力強く、そして暖かな力。知っている、この魔力はエイルの魔力だ。ふとエイルのほうを向くと、クラウ・ソラスを持つ手に彼女の手が重ねられる。

「私も力を貸そう。魔力を一気に開放しろ!」

 自らに流れてくるエイルの魔力をクラウ・ソラスに全て送り込む。

「「いっ……け――――ッ!」」

 高貴とエイルの声が重なった。光の刃が燃える紅玉をどんどん押し返していき、紅玉が一閃の元に斬り裂かれた。

「な……」

 斬り裂かれた炎の向こうに、驚愕の表情をしているヒルドが見える。チャンスは今しかない、たたみかけるなら今しかない。もっと強い刃。もっと強い光。イメージ、全てを切り裂くイメージ!

「エイル、伏せろ!」

 高貴が叫んだ。その理由を聞き返すよりも早く、反射的にエイルが足を曲げてしゃがむ。高貴の手からエイルの手が離れた。それでも繋がっている。手ではなく、言葉では表現できない何かがエイルと繋がっているおかげで、エイルの魔力はまだ流れてきている。

「伸びろ―――ッ!」

 クラウ・ソラスの刀身がさらに延びる。10メートル、20メートル……40メートルほどまで一気に伸びた。それを水平に構える。もはやその刀身は屋上には収まりきらない。そんな巨大な刃を―――

「《光刃円舞ライト・サークル》!!」

 頭に浮かんだその言葉を叫びながら、横一閃で全てを薙ぎ払った。刃がエイルの頭上を通り過ぎる。屋上のまだ無事だったフェンスも、屋上に入るための入り口も、高貴を中心に360度、全て水平に斬り裂かれた。全てを斬り裂いた刃は、役目を終えたかのように弾けて消える。いや、斬られていない例外があった。ヒルドだけは刃がぶつかる直前に身をかがめ、その一閃をかわしていた。
 ヒルドの額に冷たい汗が流れる。もしも高貴がエイルに伏せろといっていなかったら。もしも今の一撃を食らっていたら。ゾッとする考えを振り切って、今度こそとどめを刺すためにヒルドが間合いを詰めた。しかし―――高貴の攻撃はまだ終わっていなかった。一瞬で光の刃が再び現れる。

「もういっちょおおおお――――ッ!」

 イメージ、全てを斬り裂くイメージ!
 今度は横ではなく縦に。上からではなく、ゴルフスイングのように。そして、自分の下にある校舎ごと斬り裂いて、ヒルド目掛けて斬りつける。巨大な校舎を、クラウ・ソラスの刃はやすやすと斬り裂いていく。先ほどよりも長くなっているのか、おそらくは地面にまで達しているだろうその刃を力任せに振り切る。

「こいつ……信じらんない!」

 刃があたる直前、ヒルドは左に飛んでそれをかわした。しかし、かわして着地した瞬間に世界が傾いた。単純な話だ。高貴が校舎を斬り裂いた事によって校舎が傾き、校舎が崩れ始めたからだ。校舎がものすごい勢いで崩れていく。おそらくはヒルドが校舎内で暴れたことも原因のひとつだろう。轟音を上げ、瓦礫と化しながら崩れていく。ヒルドも足場が崩れて空中に放り捨てられた。
 自分に降り注ぐ瓦礫をレーヴァテインで破壊しながらヒルドは地面に落ちていく。そんな中、ひときわ大きな瓦礫がヒルド目掛けて落ちてきた。ヒルドよりも遥かに大きく、簡単に潰されてしまいそうなほど勢いよくされは振ってくる。

「レーヴァテイン!」

 しかし、所詮は瓦礫に過ぎない。難なくそれをレーヴァテインで破壊する。だが、その破壊した瓦礫の裏に、光る刀身の剣を持った少年が身を隠していた。

「なッ!」
「これで……最後だ!」

 瓦礫を破壊した事により、ヒルドには一瞬だけ隙が出来ている。その一瞬を逃さない為に、高貴は自ら瓦礫の降り注ぐここに来た。
 イメージ、あいつをぶっ飛ばすイメージ! これで完全に全て終わらせる!
 その時、また頭の中に言葉とイメージが流れてくる。クラウ・ソラスの刀身がまたもや変化した。それは剣というよりも、扇のような、球体のような形。溢れる光が、弾ける魔力が吹き出ている。

「終わりだ! 《白光烈破フォトン・ストライク》!!」

 その光をヒルド目掛けて叩き付けた。

「このっ、なめるなぁ!」

 ヒルドが、レーヴァテインでその一撃を受け止めた。
 瞬間―――光と炎が弾けた。高貴とヒルドが光と炎に飲み込まれていく。そして、瓦礫の雨と崩れ逝く校舎の中へと消え去り―――
 もう一度、弾けた。

 ◇

 四之宮高校は完全にその原形を失っていた。
 まるで工事現場の取り壊しが済んだかのような光景が高貴の目の前に一面に広がっており、これを自分がやってしまったのかと思うといろいろと怖くなってくる。

「これ本当に大丈夫なのかな。昨日のフェンスとかとは規模が違いすぎるし……つーかばれたらどうしよう」

 まぁやってしまったものは仕方がない。どちらにせよ腹をくくるしかないだろう。そう思いながら自分の横に倒れている少女を見下ろした。ヒルドは気絶して地面に横たわっている。最後の一撃によるものなのか、身に着けている鎧はところどころが砕けており、レーヴァテインも手放していた。かなりボロボロの状態だが、胸が上下していることからなんとか生きている事がわかる。
 ようやく終わった。それを意識した途端に体中の力が抜けて、ぺたんと地面に尻餅をついた。クラウ・ソラスを地面に置き、両手を後ろについて空を見上げる。曇っているのか星はまったく見えない。それでも自分の心は多少晴れ渡っているような気がする。
 多少は、だが。

「高貴!」

 背後から少女の声が聞こえてきた。声のした方向を向くと、瓦礫だらけの足場の悪い中、こちらに向かってくるエイルの姿が見える。彼女は心配そうな表情で高貴に駆け寄った。

「大丈夫か高貴! 痛いところはないか? どこかケガでもしていないか? 気分が悪かったりしないか?」

 そう言いながらエイルが体をペタペタとさわってくる。以前もこんな事があった気がするので、もしかしたらこれはエイルの癖なのかもしれない。心配してくれるのは悪い気がしないが、いろいろと恥ずかしいので高貴は慌ててそれを振り払った。

「だ、大丈夫だよ。少し制服が少しボロボロになった位で大きな怪我とかはないよ」

 本当は体中あちこちが痛かったのだがそれは黙っておいた。それを言ってしまえば下手をすれば服を剥がれるかもしれないからだ。

「本当に君は……滅茶苦茶だな。言っている事は滅茶苦茶で、行動も滅茶苦茶で、この光景も滅茶苦茶だ。あげくに《神器》を持ったヒルドに勝ってしまうのだからさらに滅茶苦茶だよ」 
「いや、それはむしろエイルのおかげだろ。この剣あまり協力的じゃなかったし、なんでかわかんないけどムカつくんだよな」
「ああ、エインフェリアの契約をしたからね。私たちはお互いの魔力をお互いに渡すことが出来るんだ」
「へー、すごいんだなエインフェリアって……」

 そこまで言って高貴はふと先ほどの事を思い出した。エインフェリアとなった時にエイルとキスしてしまったことだ。あの時はあまり意識していなかったが、こうして落ち着いてくるととんでもない事をしてしまったような気分なり、顔が段々と赤くなってきていることに気がついた。

「ふむ、どうかしたのか高貴。なにやら顔が赤くなってきているようだが」
「な、なんでもねーよ! そ、そうだこれ!」

 話をそらす為に、高貴が慌ててそばに落ちてあるものを手に取った。それは気絶しているヒルドの手から離れたレーヴァテイン。

「ほら、まずは一つ目だ。あと何個あるか知らないけど、この調子なら案外早く全部集まるかもな」
「あ、ああ。ありがとう」

 エイルがレーヴァテインを受け取る。

「本当にありがとう。私一人では間違いなくこれを取り戻す事はできなかったよ」

 そう言ってエイルは笑った。その笑顔は自宅の玄関で見た悲しそうな表情ではなく、心からの笑顔だと
簡単に理解できた。それに照れてしまい、高貴は思わず視線をはずす。

「とにかく……やっと終わった……」

 座ったまま高貴はもう一度空を見た。やはり曇っていて星など見えなかったが、やはり心のほうはいささか晴れ渡っているようだ。

「でさ、どうするんだこいつ?」

 横たわって気絶しているヒルドを指差しながら高貴がエイルにたずねた。

「ふむ、なぜ《神器》をもって逃げたのかの理由を詳しく聞く必要があるな。その後はヴァルハラに強制送還されてたっぷりお仕置きだろう」
「お仕置きって……」

 卑猥な想像をしてしまう自分が情けない。しかしどうして《神器》を持ち帰らなかったのかは興味がある。それに話を聞けば戦っているときの違和感の正体もわかるかもしれない。そんなことを考えていると、眠っていたヒルドが目を覚ました。

「う……ん……あれ? あたしは……」
「気がついたかヒルド」

 ヒルドはまだボーっとしていたが、エイルと高貴の顔を見るやすぐさま状況を理解した。そしてエイルの手にあるレーヴァテインを見るなり勢いよく起き上がった。

「このド天然泥棒ヴァルキリー! レーヴァテイン返しなさいよ!」
「誰がド天然泥棒ヴァルキリーだ! 良いからもう少し寝てろ!」

 エイルがヒルドの体を倒す。ダメージが大きいのか、ヒルドはあっさりと地面に横たわった。

「まったく、高貴に感謝するのだな。普通は死んでいてもおかしくない攻撃だったんだ。彼が無意識のうちにお前を殺したくないと思ったからこそいきているようなものだ」

 そういえば最後は斬るというよりもぶっ飛ばすというイメージだった気がする。クラウ・ソラスの刀身も剣じゃなくなっていた。

「どうだか。思春期の童貞の妄想が爆発して、鎧をひん剥いてあたしのワガママボディを見たかったんじゃないの?」
「何だとこの野郎!! ってワガママボディ?」

 高貴がヒルドを見る。たしかに鎧がところどころ砕けているが……

「あー、うん……なんつーか……元気出せよ」
「哀れみの目であたしを見んなーッ!!」
「気にするなヒルド、幼児体系の方が喜ぶ人間はいるらしい。確かロリコンとかいう―――」 
「ブッ殺す! エイルブッ殺す!! てゆーか幼児体型ってほど小さくないわよ!」

 なんというか、緊張の糸が一気に切れていく。こいつってこんな性格だったのか。いまだに騒いでいる
ヒルドを無視して、エイルが強引に話を進めた。

「さて、早速だが話を聞こうか。お前はどうして《神器》を持ったまま帰ってこなかった? 頭の固い連中に《神器》の管理は不可能とはどういうことだ?」

 エイルがそう問いかけるも、ヒルドはそっぽを向いたまま何も話そうとしない。少々幼さが残るその外見のせいで、まるで子供が意地になっているかのようだ。

「はぁ、話す気はないか。どの道ヴァルハラに連れて行かれれば嫌でも話すしかないというのに。しかし他の世界に高飛びするよりも早く捕まえる事が出来て本当によかった」
「そのことなんだけどさエイル、こいつって本当に他の世界に行くつもりだったのかな?」

 高貴の言葉にエイルはキョトンとした表情になった。

「ふむ、私はてっきりそうだとばかり思っていたのだが……」
「だってさ、もしも本当に違う世界に高飛びするつもりなら、《神器》を手に入れた瞬間にどこかに行けばよかったわけだろ。それこそこの町に結界なんかが張られる前にさ。それにこいつはさっき戦ってるときに、結界の事なんて一言も言ってなかった。あと俺と喫茶店で話したときも」
「……そういえば私も聞かれていないな」
「だからさ、こいつは他の世界に高飛びする気なんかなかったって思うんだよ」
「ならばどうしてわざわざ私を呼び出したんだ? てっきり結界の解除法を聞き出そうと考えていると思っていたのだが」

 それを言われて高貴も首を捻った。確かに結界の解除法を聞き出す以外で、ヒルドがエイルに接触してくるとは考えにくい。ヒルドの持つレーヴァテインをエイルは狙っているのだから。

「もしかして……公園でエイルに追い詰められて逃げたのが悔しくて、その仕返しをするためだったとか? 次ぎ会ったらボコボコにするって言ってたしさ」
「それはいくらなんでもありえないよ高貴。そんな子供じみた理由で自分を追っている者の前に姿を表すものなどいるわけがない」
「うーん、それもそう……か……?」

 語尾が頼りなくなってしまった。その理由は、地面に横たわっているヒルドの表情が余裕のないものに変わっていたからだ。まるで自分の考えをピンポイントで当てられて、なおかつその考えがあまりにも子供じみていてバカらしい理由だと言われてどんな顔をしていいのかわからない意地っ張りな子供のような顔になっている。
 エイルもヒルドの変化に気がついた。高貴とエイルはお互いの顔を見てアイコンタクトを取る。

「いやー、さすがにそんなわけないよな。俺がバカだったよ」
「まったくだよ高貴、もっともその理由が本当ならもっとバカがいるということになるがね」
「いやいやそんなのいないって、どんだけバカなんだよ」
「ふむ、それで返り討ちにあってしまえば本当にバカだな」
「バカバカしいっつーかなんつーかなぁ」
「バカのバカさ加減はバカバカしくて―――」
「だ――ッ!! 悪かったわね! どーせあたしはバカよ!」

 我慢できなくなってとうとうヒルドが叫んだ。よほど悔しかったのか、その目にはうっすらと涙が浮かんでおり、さすがに悪乗りが過ぎたのかもしれないと高貴は反省した。エイルも同じような表情をしている。

「しかしヒルド、《神器》を持ち出した理由は結局なんだったんだ? 別に教えてくれてもいいだろう」

 涙目のままムスッとした表情のヒルドだったが、やがて諦めたようにため息をひとつつく。もしくは意地を張るのがバカらしくなったのかもしれない。

「《神器》に意志が宿ってるのは知ってるわよね」
「ああ、もちろんだ」

 言われてみて、戦いの最中にクラウ・ソラスから声が聞こえてきた事を思い出した。よく覚えてはいないが、あれがおそらくはクラウ・ソラスの意思なのだろう。

「《神器》にはね、それぞれの意志があると同時に、それぞれの願いがあるのよ。そこの男だってその剣から願いを聞いたでしょ?」
「そうなのか高貴?」
「……ごめん、何にも覚えてない」

 僅かに覚えているのはとても白い場所にいたような気がするということだけだ。

「こんな奴にあたしが負けたなんて……本当にムカつくわね。この世界に来てレーヴァテインを見つけて手にしたとき、あたしはレーヴァテインと対話したの。レーヴァテインの願いは自由がほしいって言ってたわ」
「自由……?」
「ヴァルハラに限らず、ケルトもギリシャも、《神器》を管理してるとか言ってるけど、それは同時に《神器》を束縛するって事と同意義なのよ。《神器》を牢獄に閉じ込めてるようなものなの。他の《神器》はどう思ってるのか知らないけど、レーヴァテインはそれを苦痛と感じてるみたい。あたしがレーヴァテインを持ち帰ったら、こんな事が二度とないように封印でもされるかもしれない。そんなのってあんまりじゃない。だからあたしは少しでもレーヴァテインに自由をあげたかったのよ。それに今つれて帰ったら暴れるとか言いだしてたし」

 淡々とヒルドが語る。ようするに、レーヴァテインの自由になりたいという願いを少しでもかなえるために、ヒルドはヴァルハラを敵に回してまで逃げていたということだ。

「なんつーか……こいつって良い奴じゃねーのか? むしろ俺たちのほうが悪者に聞こえてくるんだけど」
「その……なんだ……わ、私もそんな理由だとは思っていなかったから……そういえばヒルドは昔から優しかったな」
「う、うるさい! そんなんじゃないわよ!」

 今度は照れ隠しをするようにヒルドがそっぽを向いた。真相は意外だったが、高貴はどこか納得できてしまった。ヒルドが喫茶店で謝罪と詫びをしてきた時に、彼女は悪い人間ではないとなんとなくは思っていたのだから。ヴァルキリーというのは、お人よしの集まりなのかもしれない。

「あたしだってずっと逃げてるつもりじゃなかったわよ。レーヴァテインと話をして、しばらくの間この町を見て回るくらいで話をつけたわ。だから今日だって町中歩いて見物してたら見たことある顔を見つけちゃうし……はぁ、災難ね」
「待てヒルド、そこまで考えていながらどうして私に何も言わなかった? その話を聞けば私とてヴァルハラにそう伝えていたぞ。そうすればお前は追われる事などなかったはずだ」
「確かに」
「……かったから」
「ん? よく聞こえないよ」
「なんか言いづらかったから。バカみたいな事してるって思われるかもしれないし……」
「……それだけか?」
「うん」

 ヒルドの答えにエイルが呆然とした表情になった。ということはつまり、たったそれだけの理由でこの二人は戦う羽目になってしまったという事だ。さらに言えばそんな理由で高貴は巻き込まれたという事になる。

「……くだらねー」
「……そう言えば昔からヒルドはバカだったな」
「にゃ――ッ! ブッ殺す! あんた達ブッ殺す!」

 暴れだすヒルドをエイルが再び取り抑える。

「はぁ、とにかくいったんヴァルハラに帰れヒルド。ちゃんと事情を説明すれば罰も軽くなるだろう」
「……えっと、その……」
「どうしたんだよ。まだなんかあるのか」

 高貴の言葉にヒルドはうなづいた。

「だったらはやく言っちまえよ。どうせこれ以上驚く事なんてないだろうしさ」
「そうだな、何か心残りがあるのか?」
「心残りっていうか、《神器》を失くしちゃったのよ。ほら、帰り道を開く時用にギリシャから借りたやつ」

 エイルが固まった。高貴はその言葉の意味が理解できなかったが、すぐに屋上でのエイルの言葉を思い出した。ヒルドは帰ってくる時のために《神器》をひとつ預かっているという言葉を。

「な、失くした?」
「ええ。レーヴァテインを手に入れたときには気がついたらもうなかったの。多分この町の誰かから適合者を見つけて、そいつのところに行ったんだと思うわ。もしくはどこかに落としたとか」

 軽い調子でヒルドは答える。そのすぐそばでエイルがプルプルと震えていた。

「バカかお前は!? あれはよその国からの借り物だぞ! それを失くすなど言語道断だ!」
「うるっさいわね! あんたなんて自分からこの男にあげちゃったじゃないの! しかもエインフェリアにまでしてるし、なに考えてんのよこのド天然!」
「そ、それは……所在がわかっているだけましだ!」
「あたしだって必死で探したわよ! だから怪しいやつ探してて、公園で魔力を感じる怪しい奴を見つけたと思ったらあんただったのよ! なんで今の時期に真っ黒のロングコートなんて着てたのよこのバカヴァルキリー!」
「ちょっと待て」

 ヒルドの言葉を高貴が遮った。今なかなか聞き捨てならない言葉が聞こえたからだ。

「い、今さ、コート着てたから攻撃したって言ったか?」
「当たり前よ。この時期にロングコートなんてあやしいでしょ? しかも強い魔力まで感じたんだから。もしもエイルだってわかってたら逃げて―――見逃してあげたわよ」

 そういえば、あの時はあたりが薄暗くて、顔を出していたとはいえ遠目ではエイルの顔までは確認できなかっただろう。長い銀髪を外に出していればまだ判別できたかもしれないが。つまりはあの時エイルがコートを着ていなければ、あの時の戦いは避けられていたものであり、ある意味での原因はコートを着せた高貴にあるということになる。

「……嘘だろおい。じゃあエイルにコート着せなかったら俺は今でも平穏に過ごせてたってことか?」
「だいたいなんであんたエイルにコートなんて着せたのよ? ヴァルキリーのコスプレしてますって言い張れば別に問題なかったでしょうに」
「ふむ、私の言ったとおりじゃないか高貴」
「俺が悪いのかよ!? 俺は常識的に考えて行動したつもりだったんだけど!」

 自己嫌悪に教われる高貴を見て、ヒルドがため息を一つついた。

「あのね、私達は非常識な存在なのに、常識でものを考えてどうするのよ」
「そうだぞ高貴、私はヴァルキリーだ」
「悪かったな信じてなくてよ! ただの中二病だと思ってたんだよ!」

 めまいと頭痛が同時に高貴を襲う。あきらめるしかないだろう。きっと運が悪かったんだ。ベットの上にヴァルキリーが立っていた時点で、きっと避けられない呪いみたいなものだっんだ。

「はぁ、それにしてもどうしたものかな。ギリシャの《神器》が無くなったとなれば、最優先でそれを探さなければいけない。となると―――」
「はいはいストップ。三人ともお疲れ様」

 エイルの言葉が能天気な声に遮られる。声のした方向を向くと、そこにはいつの間にかクマが立っていた。

「話は聞かせてもらったわ。ここはお姉さんにまかせなさい」
「お前いつ来たんだよ。それに任せろったって何を任せるんだ?」
「壊れた学校を直す事とか。このままでも良いけど人間君が困るでしょ?」
「よろしくお願いします」

 一瞬の迷いもなく高貴が頭を下げた。

「とにかく、ヒルドはいったんヴァルハラに帰りなさい。エイルと人間君はヒルドのなくした《神器》の捜索を最優先にして。見つからなかったらへたすれば死刑よ死刑。主にヒルドが。というわけでハイ解散。お姉さんは後始末とかするから、エイルと人間君は帰って良いわよ」
「ちょっと、誰よあんた? ヴァルハラにいるヴァルキリー? だいたいなんであたしがぬいぐるみの言う事なんて―――って死刑!?」
「当たり前じゃない。だってこれ国際問題だもん。とりあえず詳しい罰はヴァルハラで課せられると思うから、さっさとヴァルハラに帰りましょ。見た感じレーヴァテインはとっくに転移出来るみたいだし。あー……その前にお姉さんがちょっと個人的にお仕置きしちゃおっかなー。エイル、レーヴァテイン置いてってね」
「あ、ああ」

 エイルがレーヴァテインをクマの横に置いた。もしかしてヒルドに奪われてしまうのではないかとも高貴は考えたが、真っ青な顔になっている彼女を見る限り問題はないだろう。

「はぁ、滅茶苦茶疲れた。あとよろしくなクマ。そういや飯も食ってなかったから腹も減ったしとっとと帰ろう」

 座っていた高貴が立ち上がる。しかしエイルはしゃがんだまま立ち上がる事はない。

「どうしたエイル?」
「そ、その……私は……」

 高貴がハッとする。エイルは高貴と共に来ていいのか迷っているのだ。玄関で高貴に言われた事をいまだに気にしている。だが、今のエイルには高貴の部屋以外に帰る所などないということは明らか。だから彼女は立ち上がれない。
 ならば話は簡単だ、こちらから手を差し伸べてやればいい。

「……ほら、帰るぞ」

 高貴がエイルにそういいながら右手を差し出した。エイルはその手を取ることなくただ見つめている。

「し、しかし……私は……君の邪魔になるから……」
「……コンビニ弁当」
「え?」
「夕飯のコンビニ弁当! 間違って二つ買っちまったんだよ! 賞味期限が過ぎるから、お前が来ないと無駄になる。そんなの勿体無いだろ……」

 何故か声が大きくなり、最後のほうは小さくなった。しばらくエイルは黙ったままだったが、やがてクスリと笑う。

「それは確かに勿体無いな。ではお言葉に甘えよう」

 高貴の手をしっかりと握り、エイルが立ち上がった。

「ではクマ、後を頼むよ。ヒルドも元気でな」
「お姉さん任されましたー」
「フンッ! 次に会ったら今度こそブッ飛ばすから」

 気楽な返事と憎まれ口をその背に受けて、二人は廃墟となった足場の悪い地面を歩き出す。家に帰ったら弁当のラベルをすぐにはずして捨てなきゃな、なんてことを高貴は考えていた。

 ◇

 拝啓、お父さんお母さん元気ですか? 今日二つの奇跡が起きました。

 高貴はそんなこと似合わない事を考えながら岐路についていた。
 今日起こった奇跡は二つ。一つはヒルドとの戦いで生き残れたこと。そしてもう一つの奇跡は、校舎が取り壊し現場の如く悲惨な状態だったにもかかわらず、高貴の乗ってきた自転車が無事だった事。
 本当に奇跡としか言いようがない。自転車はどこも壊れておらず、ただ横に倒れていただけですんでいたのだから。もっともあと2メートルほど校舎に近づけてとめていれば、粉々になっていただろうが。戦いで疲れていたにもかかわらず、帰り道が歩きというのは高貴的にはきつかったのだ。
 そんなわけで高貴は自転車に乗って岐路につくことにした。しかし高貴が自転車にもかかわらず、エイルを歩いて帰らせるわけにもいかず、

「ふむ……自転車に乗ったのは初めてだが……なかなか楽しいものだな」
「楽しいって……ただ乗ってるだけだろ」
「なら私が前に座ろうか?」
「それは駄目だ」

 後ろにはエイルが乗っている。正確な呼び方は覚えていないが、荷物など載せるアレにエイルが座り、高貴の腰に腕を回している。服装は鎧姿から四之宮高校の制服に戻っており、二人乗りをしていても変に思われる事はないだろう。
 ただ問題があるとすれば、エイルが必要以上にくっついてきている気がするということだ。わざとなのか無意識なのか、背中にいろいろとまずいところも当たっている。

「高貴……なんだか黙ってしまったがどうしかしたのか?」 
「え? ああ……自転車の後ろについてるあれ、エイルが今座ってるやつの正確な名前なんだったかなと思ってさ」

 いきなり話しかけられたので、とっさに話題をそらした。

「確か……そう……リアキャリア……だった気がするよ」
「なんでお前が知ってんの?」
「当然だ……私はヴァルキリーだ」
「理由になってねーぞ……」

 エイルの胸がますます背中に押し付けられてきた。それだけでなく、体重を預けられているようにも思える。さすがにこれ以上はバランスが悪く危ない。

「エイル、体重かけすぎだよ。これじゃ運転しにくい」
「ああ……すまないな……なんだか眠ってしまいそうなんだ」

 命の危機だった。

「おい! あぶねーって!」
「そうは言っても、自転車に揺られるというのはなかなか心地がよくてね。疲れてしまったし、このまま―――」
「起きろ!! 寝たら怪我するぞ!!」
「私はヴァルキリーだ」
「それは万能の言葉じゃねーよ!! とにかく寝るな!!」
「じゃあ何か話をしてくれ。そうすれば目がさえてくるかもしれないからね」
「話っつっても……じゃあとりあえず、二人とも無事でよかったよな」
「まったくだ。しかし、本当に驚きだよ。まさか君が自分から手伝わせてくれなんていってくるとはね。最初からそのつもりでここに来たのか?」
「それなんだけどさ、なんか違うような気がしたんだよな。ここに来るまでは手伝う気なんかなかった気がする。来て見たらエイルがボロボロだったから驚いたけど……俺なんで来たんだっけか?」
「ふむ、私に聞かれても困る」

 少しは目が覚めたのか、エイルの重みが少なくなり、声もはっきりとしてきている。それを少し残念に思っている自分がいた。
 だが本当に来た理由はなんだったろうか。手伝いに来たわけでないのは確かで、なんだかあまりたいした理由ではなかったような気さえしてくる。

「あ、思い出した。俺さ、エイルに言いたいことがあったんだよ」
「言いたい事? ……あ、もしかして文句が言い足りなかったのか? だとしたら今からいくらでも―――」
「違う違う、そんなこと言うつもりはないって」

 エイルの声色が一瞬だが暗くなった為、高貴が慌ててその言葉を遮った。

「あのさエイル」
「ふむ、なんだ?」
「……ありがとう」
「……なに?」
「だからありがとうって言ったんだよ。クマから聞いたよお前は俺の安全のために学校に来たりホームステイしたりしてくれたんだろ。なのにちゃんとお礼を言ってなかったと思ってさ。だから俺はエイルにありがとうって言いにここに来たんだよ」
「……そ、それだけか?」
「うん。つーかお前この前は楽勝みたいな感じだったろ。なのにあんなボロボロにやられてるなんて予想外だったんだよ。だから手伝えたらいいなって思って」
「つまり君は、私にありがとうと言う為だけに来たわけか? 私とヒルドが戦っているこの危険な場所に」
「ああ」

 そう答えると、エイルはそれきり黙ってしまった。もしや本当に眠ってしまったのかと思い、高貴はいったんブレーキを握って自転車を止めた。

「おい、エイル」

 慌てて振り返ると、そこにはポカンとした顔のエイルがいた。すぐ後ろに座っているのだから当然の事だが、あまりに顔が近いためなんだか恥ずかしくなってくる。

「どうした高貴、いきなり自転車を止めたりして」
「あ……いや、急にエイルが黙ったから寝たのかと思ってさ」
「寝ていたのではないよ、ただ……」
「ただ?」

 エイルはいったん言葉を切った後、笑いながら口を開いた。

「ようやくわかったよ、君はバカなんだな。でもありがとう」

 お前に言われたくはないと言い返してやりたかったが、高貴は何も言わなかった。目の前のエイルの笑顔を直視する事ができなかったからだ。初めて会った時にエイルの笑顔に見とれる事などないだろうと思っていたが、どうやらそんなことはないらしい。
 再び高貴がペダルをこぎ始める。学生寮まではもうすぐだ。

「あと少しでつくから、絶対に寝るなよ」
「ああ、努力するよ。しかしそもそもの原因は君にもあるんだがな。さっきの戦いで、君は私の魔力を大分使ったじゃないか。だから私は眠いんだよ。魔力を大量に消費すると眠くなるからね」

 言われて高貴は、校舎を斬った時のクラウ・ソラスの力を思い出した。あの時確かに自分の中にエイルの魔力が流れ込んできていた。そのせいでエイルが眠くなったということは、間違いなく自分のせいだろう。

「えっと、悪かったよ」
「まったくだ。あれだけ激しくしたにもかかわらず眠らせてくれないとは、君はあれか、ドSなのか?」
「へんな言い方するんじゃねーよ! お前ってそんなこと言うキャラだったのかよ!」

 眠くなっているからなのか、もしくはこれが素のエイルなのだろうか? そんなことを考えていると、ようやく学生寮についた。

「ほら、ついたぞエイル」
「ああ、わかったよ」

 自転車置き場に自転車を止めると、エイルが先に降り、そのあと他の自転車と同じように自転車を並べた。

「はぁ、さっさと飯食って寝よう。なんか最近そればっかり言ってる気がする」
「ね、寝るのか!?」

 高貴の何気ない一言に、どうしてかエイルが焦り始める。

「いや、だって疲れたし。なんでそんなに焦ってんだ?」
「それはねー、ふかーい理由があるのよ」

 自転車の鍵をかけ終えた高貴がエイルにそう聞き返すと、何故か自転車の籠のほうから声が帰ってきた。気がつけば、いつの間にかそこには見慣れたテディベアの姿がある。

「あ、クマ。後始末は終わったのか?」
「もちろんよ人間君。ヒルドとレーヴァテインはヴァルハラに送ったし、学校の改造―――じゃなくて修理も終わったわよ」
「おい、今変なワードが入ってなかったか? まぁいいか、それより深いわけってなんだよ?」
「ふっふっふ、エイルと人間君はエインフェリアの契約をしたでしょ。あれってね、ヴァルハラでは結婚と同意義なのよ」
「……は?」

 イマ、コイツ、ナンテイッタ?

「け、け、け、けっこんんーーーー!?」
「……あ、そういえば言ってなかったな」
「言えよ! そういうのはきちんと言えよ! 何でお前はそういう大事な事を言わないんだよ!」
「それでね、夫婦で寝るっていえば……わかるでしょ?」

 もちろん知っている。知らないわけがない。その意味を頭に浮かべると、自分の体温がかなり上昇していくような感覚に襲われた。

「もうキスは済ませちゃったし、問題ないわよね」
「いや、でもさ。あの時はそうするしかなかった訳であって、いきなりそんなこと言われても困るって。エイルだってそうだろ?」

 そうに違いない。エイルなら、「仕方ないだろう、非常事態だったんだ」とか済ました顔で言ってくれそうだ。そう思いながら高貴はエイルに向けた視線を向けたが、その期待は粉々に砕かれてしまう。
 エイルは顔を赤らめ、長い髪を弄りながら、少し照れているような表情になっていた。

「そ、その……あ、あまり気にしてくれなくていい……うん……非常事態だったからな」

 台詞と表情があっていない。確実に彼女は意識してしまっている。

「さ、さぁ! とにかく君の部屋に入ろう。へ、変な意味ではないぞ! 今日は早く休んだほうがいいと思うからだ。さ、行こう!」

 そう言うなりエイルは高貴の手を引いて学生寮に入っていく。照れながら手を引くエイルと、呆然としながら手を曳かれる高貴の後ろをクマがトコトコとついていった。

「そういえば高貴、君は今日帰って来たとき、私とクマに言うことがあったんじゃないか?」
「あ、そう言えばそうね。お姉さんショック」

 階段を上る。ドアの前まであと約5メートルの距離。

「え? なんかあったっけ?」
「わかっていないのか、じゃあやり直しだ。クマ、鍵を貸してくれ」
「はいはい、スペアキーならいくらでもあるわよ」

 ドアの前にたどり着き、エイルがクマから鍵を受け取った。てゆーかまだ持ってたらしい。エイルが鍵を開けて「高貴は少し待っていろ」と言い残したまま、クマと一緒に入って行ったので、今はただ待つしかないだろう。

 追伸、お父さん、お母さん。俺にヴァルキリーのお嫁さん(仮)が出来ました。
 けど正直な話、責任を取る気なんてサラサラありません。てゆーか出来ません。俺はまだ高校生で、一人では生きていけないにもかかわらず、責任を取るなんて事は言える筈がないからです。責任が取れるようになるまで待っててほしいなんて言葉は、男として最悪の言葉だとも思ってるんで言えません。
 だからエイルにも、犬にかまれたと思って忘れて、いつか良い男でも捜してほしいというのが本心です。……うん。

「高貴、入ってきていいぞ」

 ドアの向こうからエイルの声が聞こえてきた。それを聞いた高貴がドアを開ける。部屋の中は明かりがついており、エイルは靴を脱いで玄関に立っていた。その腕にはクマも抱かれている。その姿は、まるで家族を出迎えるような、夫を出迎える妻のようにも思える。そこで高貴は、エイルが何を言っていたのかにようやく気がついた。
 エイルは何も言う気配はない。これはきっとそちらから言えという合図なのだろう。何を言えばいいのかはわかっているが、少し困らせてみたい気もする。しかしエイルの表情が不安に染まっているのを見て、高貴はすぐさま口を開いた。

「ただいま、エイル」

 そして、言い忘れていたその言葉をエイルに告げた。
 その言葉を聞いた銀髪のヴァルキリーは、眩しいくらいの笑顔になり、言えなかったその言葉を口にした。

「おかえり、高貴」





  第一章終了


前を表示する / 次を表示する
感想掲示板 全件表示 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

SS-BBS SCRIPT for CONTRIBUTION --- Scratched by MAI
0.095402002334595