「やっぱりちょっと怖いかな……」
夜の学校というのはただそれだけで十分不気味なものだ。加えて明かりはまったくついておらず、誰一人いなくなってしまった状態でならなおさらの事である。
真澄が教室に忘れたと思われるスマホを取りに学校に入ったのが約二分前。一階の鍵が壊れている廊下から進入し、二年四組の教室を今は目指している。月明かりはあるものの、やはりあたりは見づらく、歩くたびに自分の足音が響くことに少し恐怖を感じながら、足早に教室を目指した。
「それにしても、高貴とエイルさんが学校壊したって言ってたけど、全然そんな風に見えないんだよね。さすがに冗談だったのかな」
実際は冗談ではなく、ヒルドのレーヴァテインに穴だらけにされたあげく高貴のクラウ・ソラスによって止めを刺されたのだが、やはり実際見ていない真澄にはイメージしにくいようだ。
しばらく歩いて教室にたどり着く。当然のごとく誰もいない教室に入り、真っ直ぐに自分の机へと向かった。
「スマホ……スマホ……あった!」
スマホは机の中を覗き込むとあっさり見つかった。真澄の思っていた通りに、ホームルームが始まる前に机に入れて、そのまま取り出さずに帰ってしまったようだ。
時刻を確認すると、今は8時19分。電話の着信もメールも来てはいない。しかしやはりこれがないと朝は起きれないし、何よりもスマホは常に持っておきたい。その最大の理由は高貴に買ってもらったストラップだ。
銀の三日月は窓から入ってくる月明かりで微かに光っており、どことなく神秘的な雰囲気をかもし出している。つけてまだ日は浅いが、これは完全に真澄のお気に入りとなっていた。
「たまには役に立つんだよねあいつも。美月さんにも感謝だけど。さて、さっさと帰ろっと」
今からゆっくり歩いたとしても、9時から始まるドラマには間に合いそうだ。スマホを軽く弄りながら扉を開いて教室を出る。そして、扉を閉じて歩き出そうとした時に、妙な事に気がついた。
足音が、どこからか響いてきている。
自分はまだ歩き出していない。なのにどこからか足音が響いてきているのだ。四之宮高校には宿直というものはなく、教師は見回りが終わると全員帰宅する。故に学校に明かりがついていない時は誰もいないということになる。いるとしたら真澄のように忍び込んだりした者だけだ。
どこの誰かもわからないし、顔を合わせるのは気まずい。そう思って足音をなるべく立てずに歩き出そうとした。したにもかかわらず、その足はまったく動かない。
足をつったわけでも、骨折したわけでもなく、まるで下半身の神経が金縛りにもあったかのように真澄の足は動かない。
ゾクリと、真澄の背中に寒気が走った。これに似た感覚を真澄はつい最近経験したばかりだ。四之宮公園でベルセルクを初めて見たときの感覚。しかし、僅かに違う感覚。
あの時のベルセルクは、真澄のことを見向きもしないで高貴とエイルに向かって行ったが、今回のこれはまるで、真っ直ぐに自分が見られている。
かろうじで動く首から上を必死に動かし、真澄は自分を見ている何かを必死に探す。
「ひ……」
月明かりしかなく、闇に包まれている廊下の向こう。その先に。
二つの、紅い光が―――
◇
4分。
それが高貴とエイルが四之宮高校に着くまで掛かった時間だ。いつもならば歩いて15分はかかるのに対して、かなりの速さでつくことができたのは、ヴァルキリーとエインフェリアの身体能力の賜物だろう。
校門をくぐった高貴とエイルは、グラウンドを駆け抜けて校舎内を目指した。
「高貴、はじめに言っておく事がある。今日はクマがいないから、校舎を壊してしまえば治すことができない。なるべく校舎内で戦わないようにするか、もしくは壊さないようにしろ。来い、契約の武装」
走りながらヴァルキリーが唱える。エイルが鎧を身にまとい、ランスを右手に持つ。
「わかってるよ。つーか心配なのはお前のほうだ。鍵が壊れてるところから校舎に入るから着いて来いよ。出て来い、クラウ・ソラス」
高貴も同じようにクラウ・ソラスを召還した。
高貴が先を走り、鍵が壊れている廊下の窓を目指す。無用心だとは思うが、今日はありがたく思うばかりだ。土足厳禁の校舎内に、外靴のままなのを少し申し訳なく思いながら高貴とエイルは中に入った。
入って、妙な事に気がついた。
「……なぁ、グラウンドには何も感じなかったから校舎に入ってきたけど、ベルセルクは校舎にいるのか?」
「ふむ、おかしいな。正直魔力を感じないな。それに独特の嫌悪感も感じない。ん、今何か聞こえなかったか?」
エイルに言われて高貴は耳を澄ましてみた。校舎は闇と静寂に満ちていると思っていたが、それは勘違いだった。
どこからか足音が響いてくる。それもおそらくは走っている音がこちらに近づいてくる。つまり、この校舎の中に誰かがいるということだ。
「《神器》の持ち主か、もしくは一般人か。どうするエイル?」
「……君一人で接触してみてくれ。私はいったん外に隠れていよう。もしも《神器》の持ち主ならば私もすぐに入ってくるし、一般人ならば忘れ物を取りに来たと言えばいいだろう」
「確かに、それが一番だな。わかったよ」
高貴がクラウ・ソラスを後ろのほうに隠し、、エイルはいったん廊下から外へと戻った。最悪一般人にクラウ・ソラスを見られても、壊れた懐中電灯だといえばごまかせる。
足音がどんどん近づいてくる。高貴は警戒を高めてその方向を見据えている。緊張が走る中、闇の中から現れた人影は―――
「え……真澄?」
弓塚真澄だった。
夜も遅いというのに制服姿の真澄が、高貴に向かって一目散に走ってくる。その目は前を見ていない。ひたすら後ろにいる何かに怯えているような、何かから逃げているような空気をかもし出している。
「ッ! こ、高貴?」
距離にして約10メートル。ようやく真澄が高貴の存在に気がついた。だが、走るスピードをまったく緩める事はなく、そのまま高貴に向かって思い切りぶつかって抱きついた。
「ま、真澄!?」
あまりのことに高貴が混乱する。真澄に思い切り抱きつかれるなど初めてのことだったからだ。しかしすぐに真澄の異変に気がつく。高貴に抱きついていた真澄の体は小さく震えていた。制服姿だが鞄はもっておらず、手にはスマホを握り締めている。
「真澄だと?」
外に隠れていたエイルが高貴の声を聞いて中を覗き込む。そして真澄を見て、その様子がおかしい事に気がつくと、すぐさま廊下に入って真澄と高貴に駆け寄った。
「どうした真澄? まさかベルセルクにでも会ったのか?」
「そうなのか真澄?」
高貴とエイルが話しかけるものの、真澄は高貴の胸に顔をうめて嗚咽を漏らすばかりだ。
「よほど怖かったようだな。とにかく外に……いや、ベルセルクも見当たらないし、今日は真澄を送って帰ろう。真澄が心配だ」
「そうだな。ほら、歩けるか真澄?」
小さくうなづいた真澄を支えながら、三人で廊下から外に出る。そのままゆっくりと昇降口に向かって歩き出す。
歩いている間も真澄は顔を下に下げてずっと嗚咽を漏らしていた。話しかけても返事をする事もなく、困ったまま高貴とエイルは歩く。そして、グラウンドのほぼ中心地点まで歩いた所で、背後に何かを感じた。
違和感を感じた二人が振り返る。するとグラウンドに黒い影ができており、その影から一体のベルセルクが飛び出す。公園で見た時と同じような人型のベルセルクだ。
「ベルセルク!」
「真澄が怖がっているのはこのベルセルクが原因か。すぐに倒す、君は真澄のそばにいろ」
エイルがベルセルクに向かって一歩踏み出す。ランスを構え、ベルセルクに攻撃をしようとした瞬間―――
「ち、ちがうよ……」
弱々しい声が、エイルの耳に聞こえてきた。
それは高貴にしがみついて泣いていた真澄の声だ。顔を僅かに上げて、ベルセルクを見ながら搾り出すように真澄は声を出した。
「ちがうよ高貴、エイルさん。わたしが怖がってたのは、わたしが逃げてたのは、あの化け物じゃないよ……」
「……え?」
「どういうことだ真澄?」
「オオオオオオオオ!!」
真澄の声にエイルが振り向いた時、ベルセルクの咆哮が響いた。反射的にエイルがベルセルクに視線を戻し、高貴も真澄を抱き寄せて警戒を高める。
そして、ゾクリと―――凄まじいい殺気が二人に襲い掛かる。
まるで全身にナイフを突き立てられたかのような、体を炎であぶられているようなビリビリとした殺気が、ベルセルクから放たれた。その余りの殺気の強さに、高貴が、そしてエイルまでもが思わず一歩下がる。
刹那―――ベルセルクの胸から、何かが飛び出てきた。同時にベルセルクの咆哮が止み、その動きがピタリと止まる。あまりに予想外の出来事に、高貴とエイルの動きも止まった。グラウンドに一瞬の静寂が訪れる。
「……な、なんだ? エイルなんかしたのか?」
「……いや、私は何もしていない」
高貴とエイルが困惑する。しかし、ベルセルクが止まった理由をエイルはすぐに思いついた。胸から突き出ている何か。紅くて鋭い何か。よく見るとあれは剣の刀身だ。つまり、あのベルセルクが止まった理由はいたってシンプルな理由。
誰かが、あのベルセルクを後ろから突き刺したのだ。
そう、誰かが。
ベルセルクの体がゆっくりと消えていく。そして、そのベルセルクの向こう、すぐ後ろに誰かが立っていた。
恐らくは人間だ。その人物は真っ黒な、本当に夜の闇と一体化しているとも思えるほど真っ黒なコートを身にまとい、フードをかぶっている為表情はまったく見えず性別も判別できない。男物のロングコートを着ていることからおそらくは男性かもしれない。靴も黒。僅かに見えるズボンも黒。よく見ると黒の手袋もしている。そんな中で唯一違う色があるとすれば、その手に持っている剣だろう。
その剣の刀身は紅い色をしていた。レーヴァテインとは違う赤。鮮やかな赤とは違い、どことなく黒に近い紅。形状もシンプルな形で、刀に近い形をしている。
そして―――正体不明の不気味さを感じるその剣。それは間違いなくこの世のものではなく、間違いなく異世界の物。つまりは《神器》だ。
《神器》の持ち主が、信じられないほどの殺気を放って高貴たちの前に立っていた。
先ほどベルセルクから放たれたと思っていた殺気は、この黒コートの人物が発した物だったのだ。黒コートの人物がゆっくりと剣をさげる。その動作で動きが止まっていた高貴たちも再び動き出した。
「エイル……あれって……」
「ああ、間違いなく《神器》だ。どうやらようやく私達は出会えたらしいな」
できれば出会いたくなかった。という言葉を高貴は飲み込んだ。
「あ、あいつが……」
黒コートの人物を見た真澄が、震えながら声を出す。
「あいつが……やっつけた。学校に出てきたあの化け物を、あいつが全部やっつけたの。で、でも……わたしのほうを見て……手に持ってるのを突きつけてきて……こ、怖くて……」
「逃げてきたってわけか。無理もねーって」
クマの言っていたベルセルクは、どうやらあの人物が片付けたらしい。どうして四之宮高校にいるのかはまったくわからないが、恐らくは真澄を助けたわけではないのだろう。そのような人物が、こんなにも殺気を放つとは考えにくい。
止まったまま動かない黒コートに、あくまでも警戒を緩めずエイルがゆっくりと近づく。
「あなたは《神器》の使い手だろう。私はエイル・エルルーン、異世界ヴァルハラのヴァルキリーだ。単刀直入に聞くが、その《神器》を渡してもらえないだろうか?」
黒コートの人物は、何も言わない。
「それは個人が持つには危険すぎる代物だ。本来魔術の存在しないこの世界には、《神器》は存在してはならない。だから私はヴァルハラから《神器》の回収の命を受けている。どうか聞き入れてほしい」
黒コートの人物は、何も言わない。
「……君は何者だ? どうしてこんな時間に高校にいる? 一体なにをしにきた? どうしてコートを着ている? 暑くないのか?」
黒コートの人物は、何も言わない。
「……無理だよエイル。そいつにはなにを言っても無理だ」
これ以上の会話を不毛と感じた高貴が口を開いた。
「だってさ、お前にだってわかりきってるだろ? 俺にだってわかるんだから。そいつはいわゆる―――」
一度言葉を切って、
「殺る気満々ってやつだよ」
言い放った。クラウ・ソラスに魔力を流し込む。見えない魔力は白い刀身となって具現化された。それは夜の闇を照らす白い光。
「……そうだな、わかりきっていた事だ。もっとも、私は最初から戦うつもりだったよ。たとえ《神器》を大人しく渡していたとしてもね」
「気が合うな、俺もだよ。真澄は下がってろ」
やる気満々の高貴が、やる気満々のエイルに並ぶ。
「ま、待ってよ! そいつなんだかやばいってば! 一回逃げようよ!」
「「却下だ」」
真澄の意見を二人が同時に取り下げた。
「悪いが譲る事はできない。私達にはあの男と戦う理由がある。はっきりとした明確な理由がね」
「男なのかなあいつ。だったらなんの遠慮もなしに戦えるんだけど」
「落ち着いてよ! 《神器》って言うのが大事なのはわかるけど―――」
「そうじゃねーよ。今はもっと優先する事がある」
真澄の言葉を高貴が遮る。そう、今は目の前の男が持っている《神器》を回収するよりも大事な用があるのだ。ヴァルキリーとエインフェリアではなく、エイル・エルルーンと月館高貴。この二人だからこそ目の前の男と戦う理由が。
ヴァルハラの《神器》を集めるという任務において人選ミスともいえる二人。その戦う理由。
「な、何なのそれ?」
「簡単な理由だよ。なぁ高貴」
「ああ、本当に簡単な理由だ。あいつは―――」
エイルと高貴が、同時に武器を構えた。放たれる殺気になどもはや気に留めることも泣く、眼前の黒コートの男……いや、明確な敵をにらみつける。
「「真澄を泣かせたッ!!」」
二人が勢いよく地面を蹴った。
そう、それこそが高貴とエイルが今戦う最大の理由。真澄を、大切な友人が泣く事になって、黙っていられるような人間ではないのだから。
「一発ぶん殴った後、タコ殴りにしてやる!」
「コートを剥ぎ取って真澄に土下座させる!」
距離にして30メートルの間合いが一気に縮まる。コートの男はその場から動かない、だたゆっくりとした動作で右手に持つ《神器》を構えた。高貴とエイルは、剣を、ランスを思い切り振り上げ―――振り下ろした。白い刃と鋼のランスがコートの男を襲う。
―――だが。
その攻撃が当たる瞬間、ようやく黒コートが動いた。膝をわずかに曲げて後ろにバックステップ、ロングコートをなびかせながら、しかしフードをなびかせることなく後ろに跳び、約5メートルほどの距離を稼ぐ。その5メートルという距離は、高貴とエイルの武器の間合いにでは届かずに、クラウ・ソラスは空を切り、ランスが地面を叩く。
「俺は突っ込む!」
高貴はさらに前進する。もう一度間合いを詰めて、クラウ・ソラスを振り下ろす。その一撃は黒コートが右手に持つ剣によって防がれた。
がきぃ!! と鋭い音が響き、二つの刃がせめぎ合う。高貴は両手で、黒コートは片手で剣を扱っているにもかかわらず、黒コートはびくともしないで攻撃を受け止めた。
だったら―――連続で!
いったん刃を離し、もう一撃。二撃、三撃、連続で剣を振るう。クラウ・ソラスを黒コートは片手に持つ《神器》で全て防いでいた。その攻防は切り結ぶといったものではない。黒コートは必要最小限の動きで、その手に持つ《神器》だけを動かして攻撃を全て防いでいるのだから。
それこそまったく一歩も動くことなく、両足は棒立ちのまま。最小限すら動いていないといってもいいかもしれない。戦いなれていない高貴にすら、はっきりとわかるその力量の差。何度打ち込んでも届く事のない攻撃に、高貴は次第に苛立ちを感じさせた。
「―――ダインスレイヴ」
初めて、微かな声で黒コートから声が発せられた。男性か女性かは確実に判別できないが、どちらかと言えば男性に近い声。しかし高貴が気になったのは声色のことではなく、黒コートが言った言葉のほうだった。
聞いたことがない言葉のはずなのに、どこか聞き覚えのあるその言葉の意味を理解する前に、今度は初めて黒コートのほうから攻撃してきた。左下から切り上げるような一閃を、高貴は剣を縦にしてなんとか防ぐ。
防いだものの、その一撃が凄まじく重い。本当に片手で振るっているのか、どれほどの怪力なのだろうかとも思えるその一撃を防ぎきる事ができず、高貴は後方に大きく吹き飛ばされた。その高貴に追撃を行おうとしたのか、黒コートが一歩踏み出したが、その足はそれ以上は動くことなく止まった。
ばちばちっと、大気を伝わって何かが迸るような音が聞こえてきたからだ。その方向に視線を向けると、銀髪のヴァルキリーが左手に雷を迸らせながら黒コートを見ていた。
ランスが地面につき、勢いを失ったエイルは、高貴に続くことなく逆に距離をとり《ᚦ》のルーンを刻んだ。
相手の《神器》の能力は完全に未知数。しかし刀の形をしているので、おそらく得意な距離は近接戦闘。それを見据えての遠距離攻撃。《ᛏ》で強化しているわけでもない単体の《ᚦ》のルーンだが、心なしか普段よりも雷の勢いが激しい。大切な友人に涙を流させてしまった無力感。そしてその原因たる存在に怒りを込めて―――
「翔けろ―――電刃!!」
その雷を、解き放つ!
夜を斬り裂きながら雷は進む。タイミングから見て回避は完全に不可能。
当たる―――!
その様子を見ていた高貴も直撃を確信していた―――しかし。
「――――――」
黒コートが、無造作に剣を振るう。まるで近くを飛んでいる虫でも追い払うかのようにその手に持つ剣を振るい、あっさりと雷をかき消した。《神器》ならばルーン魔術を打ち消す事もたやすいのだ。それほどの力を持っていて当然の武器なのだから。
ならば、威力を上げればいい。エイルはすぐに次の攻撃の準備に移る。二つのルーンを使用した《迅雷の咆哮》ならば通じるかもしれない。通じなくとも高貴の切り込むタイミングを作れる。その左手の二本の指に青い光が灯る。
「《ᚦ》―――」
青い光が軌跡を描いたのと、、黒コートが行動を起こしたのは同時だった。黒コートが紅の剣をエイルのほうへと向ける。その切っ先がヴァルキリーに突きつけられる。
瞬間―――その刀身が伸びた。
クラウ・ソラスのように真っ直ぐに伸びるのではなく、グニャグニャと曲がりながら、まるで蛇のように、しかしエイルに向かって高速でその刀身が伸びる。
「なっ!?」
まだ《ᛏ》ルーンを書き終えていないエイルは、その行動を中断して右手のランスで伸びてきた刃を叩き落す。ルーンを防ぐ事が目的だったのか、黒コートはその刃をいったん引いた。だが刀身は伸びたままだ。それは刀や剣というよりは、鞭や蛇腹剣と言ったものに近くなっている。
あの《神器》は遠距離でも戦えることをエイルは理解した。クラウ・ソラスと同じように伸びる刀身をもっているようだが、自由自在に曲がるという事はあの剣のほうが応用が利き、遠距離は不利になるかもしれない。
目の前には先ほど描いた《ᚦ》のルーンがまだ浮いている。しかしこれを放っても意味はなく、落ち着いて考えれば強化しても無意味かもしれない。以前レーヴァテインの炎に、エイルの雷は力負けをしているからだ。
ならば―――接近するしかない。
「《ᛒ》、バインドルーン・デュオ! 集え、青き雷光!」
エイルがルーンを刻んだ。《ᛏ》ではなく《ᛒ》と目の前の《ᚦ》と組み合わせ、自らのランスに青い光を宿らせる。
《雷光の槍》。
エイルの魔力の色と同じ光が、雷がその鋼のランスに宿る。
エイルが地面を蹴り、一瞬遅れて高貴が地面を蹴った。白と青の軌跡を描きながら、黒コートに一気に近づく。
バシッと、黒コートが鞭状となっている剣で地面を叩いた。それはまるで「遊んでやる」とでも言っているかのような動作だった。
二対一と言う状況を最大限に利用し、黒コートに連続で攻撃を仕掛ける。しかし、その攻撃でさえ黒コートの体に触れることはない。
さながら鞭をもった猛獣使いが猛獣を手玉に取るかの如く、二対一という不利な状況を全く感じさせず、むしろ余裕すら感じさせる。
黒コートの《神器》は鞭のようになっていても、強度自体は全く変わっていない。エイルが正面で動きを止めて、高貴が背後に回り込んで斬りかかっても、剣の先端が伸びてクラウ・ソラスを防ぐ。武器がぶつかり合う度に、赤、青、そして白い光が周囲に弾ける。
「このっ! 何なんだよこいつ! 全然当たんねー!」
「口ではなく手を動かせ! 思い切り殴りたいならな!」
「わかってる! ってわあっ!」
黒コートが勢いよくその場で回転する。独楽のように回って剣を振り回し、高貴とエイルを引き離した。
まだまだ、もう一回突っ込む!
しかし、高貴の動きが止まった。手に持ったクラウ・ソラスに、なにやら紅い線のようなものがついている。黒コートの男の《神器》が、蛇のようにクラウ・ソラスに巻き付いていた。
「やば―――」
気がついたときにはもう遅かった。黒コートは剣を振り回し、高貴の体は地面から離れて宙に浮かび上がる。メリーゴーランドのように振り回した高貴をなんども振り回した。
「このっ! 離しやが……れ?」
離した。
黒コートは勢いよくエイルめがけて、高貴を放り投げた。攻撃するわけにもよけるわけにもいかずに、エイルは飛んでくる高貴を受け止める。
「くっ―――!」
「わ、悪りぃエイル、大丈―――」
大丈夫か、と言ってくる高貴の背後から、黒コートの《神器》が伸びてくるのをエイルは見た。エイルからは正面だが、高貴からは背後なので、彼はまだ気がついていない。《ᛇ》を刻んでも間に合うタイミングではなく、仕方なくエイルは高貴を左に突き飛ばした。
高貴が状況を理解できないままこちらを見ているが、これで高貴は大丈夫だ。しかし剣はエイルの顔目掛けて勢いよく伸びてくる。それが当たる直前、エイルはわずかに顔を右にずらす。
瞬間―――高貴とエイルの間を剣が突き抜けた。そして、赤い鮮血が僅かに飛び散る。
「エイルっ!!」
高貴がクラウ・ソラスを振り上げる。鋭い音を上げて伸びてきた刃を弾き飛ばした。はじかれた刃が元の長さへと縮んでいく。
「おいっ! 大丈夫か!?」
高貴が慌ててエイルに駆け寄るも、エイルはすでに立ち上がっていた。左の頬がわずかに切れており、その血が飛び散ったのだろう。
「問題ない、かすり傷だよ。唾でもつければ治る。なんなら君が舐めてくれ」
「舐めるか!!」
「冗談だ。いったん下がろう」
エイルの指示に従って黒コートから距離をとる。すると真澄が二人に駆け寄ってきた。
「ふ、二人とも大丈夫!? エイルさん、血が出てる!!」
「落ち着け真澄、それにしても予想外の強さだ。このままでは土下座どころか、殴ってやる事も出来そうにない」
「とろあえず―――どうすっかな。真澄は下がってろよ」
黒コートの動きに警戒しながら高貴が言う。黒コートは何故か動かない。ジッとしたまま立ち尽くしている。いや―――そのフードの奥の目は、おそらく真っ直ぐにエイルを見ていた。
今までは高貴とエイルにはなんの興味もなさそうだった存在がエイルを見ている。そのフードの奥に、ギラリと二つの紅い眼光が光る。その光に呼応したかのごとく、手に持っていた《神器》が紅く、そして不気味に輝きだした。
「―――出て来い」
ボソリと黒コートが何かを呟き、剣を逆手に持った。それを振り上げ、地面に勢いよく突き刺す。
同時に、地面に紅い亀裂が駆け抜けた。まるで地割れでも起きたかのようにグラウンドに紅い光が走る。
「なんだよこれ!?」
「わからない、警戒を怠るな!」
紅い光が、少しずつ黒に変わっていく。いや、赤と黒が混ざり合った不気味な色へと変貌していく。地面を走る光は段々とその形を変えて、赤黒い影のようなものがいくつも浮かび上がっている。
「ま、まさか……」
高貴とエイルは、それとよく似た物を知っている。頭の中に一つの可能性が浮かび上がる。そして、その可能性は現実のものとなった。
赤黒い影の中から何かが這い上がってくる。高貴たちのよく知る漆黒の肉体に、紅い亀裂のようなものが走っている存在。
それは―――ベルセルクだった。
最初の一体が出てきたかと思えば、すぐに次のベルセルクが現れる。気がつけばあっという間に高貴たちはベルセルクに囲まれていた。
「……おいおい、なんか嫌な奴らがいやなタイミングで出てきたんだけど。ここは一時休戦して共闘でもするべきか?」
「ふむ、心なしか―――いや、確実にあのベルセルク達は私達だけを見ているよ」
「わかってるけどな、少し現実逃避したかっただけで。それにあいつと共闘なんてしたくない。じゃあ改めて―――どうする?」
高貴たちを囲んだベルセルクは、動くことなく立ち尽くしている。いつもならばすぐさま襲い掛かってくるだけに、それはかなり不気味な行動だ。
不気味な理由はそれだけではない。このベルセルク達は、今まで見たベルセルクとは少し違っている。ベルセルクは全身が黒、まさしく夜の闇のように真っ黒にもかかわらず、このベルセルク達はところどころに紅い亀裂のようなものができている。そんなものがある心当たりは、高貴たちには一つしかない。
目の前の黒コートの男が持つ《神器》。その色は紅。何よりもこのベルセルク達は、黒コートが《神器》を地面に突き刺した事によって現れたということを考えると、答えは一つしか考えられない。
「おそらくあの《神器》は、ベルセルクを操る事ができるのだろう」
「あ、そうだ。さっきあいつがボソッと呟いてた気がするんだ。ダインスレイヴって」
「ダインスレイヴ……まさか昨日調べたダーインスレイヴか? 一度鞘から抜かれれば、血を吸うまでは止まらないという魔剣。そういえばあの剣は紅いし、血を連想させるものがあるな」
「じゃあ間違いないだろ。鞘はないけどあの《神器》はダインスレイヴだ」
高貴とエイルが黒コートの持つ《神器》である剣、ダインスレイヴを見る。血の色をした禍々しきその剣は、今は鞭の形から刀の形に戻っていた。黒コートはまだ動かないが、そのフードの奥には紅い双眼が妖しく光っている。
「……このままでは真澄が危ない。ひとまずなんとかして真澄を逃がそう」
「逃がすったって……周りは完全に囲まれてるけど。なんで動かないのかはわかんないけど、動けないってわけじゃなさそうだし」
高貴とエイルが思考をめぐらせている間、真澄はひたすら自分の無力を嘆いていた。公園での戦いを見る限りは、自分さえいなければ高貴とエイルはベルセルクを簡単に倒せる。しかし自分がここにいるから二人の足枷になってしまっている。そんな自分を真澄は許せない。しかし、何もできない。
「考えてても埒が明ねーな。向こうから仕掛けてくる前にこっちから仕掛けるしかない。エイル―――」
「……わかった。タイミングはそちらに合わせる」
高貴が黒コートに聞こえないようにエイルに策を伝えた。
周囲に再び緊張が走る。誰も動かず、言葉も発さず、聞こえるのは微かな夜風の音のみ。その静寂を破ったのは―――
「よし! 第2ラウンド開始だ!」
月館高貴だ。
クラウ・ソラスを水平に構え魔力を走らせると、その刀身が一気に伸びた。その直線状にいたベルセルクの腹部を光の刃が貫通する。それが合図となったかのように、全てのベルセルクが高貴たちに向かって襲ってくる。
「《ᚱ》! 真澄、掴まれ!」
ベルセルク達が接近するよりも早く、エイルが《ᚱ》のルーンを刻む。身を縮めていた真澄も、反射的にエイルの声に従ってエイル腕を掴んだ。
そして、跳んだ。
真上に向かって垂直跳び。《ᚱ》の力を利用しているので、30メートルは一気に飛んでいる。真澄が叫び声をあげなかったのは、あまりに突然の事にわけがわからなかったからだろう。
これで、真澄とエイルに危険はなくなった。高貴がクラウ・ソラスに力を込める。刃の長さはもはや40メートルほどまでに達していた。その長さは、全てのベルセルクを倒せる間合い。高貴が攻撃に移ろうとした刹那、黒コートが動いた。今までの動きとは段違いなスピードで、高貴に向かって走ってくる。
構うな、振りぬけ!
イメージ。周りにいるベルセルクたちを、黒コート事一気に全て斬り裂くイメージ。
全て―――斬り裂く!
「《光刃円舞》―――――――――ッ!!」
思い切り、力任せに、振りぬいた。最初に刃が突き刺さっていたベルセルクが真っ二つに切り裂かれ、円を描くように振るわれる刃の進行上にいるベルセルクがどんどん真っ二つになっていく。そして、約百八十度のベルセルクを一掃し、正面の黒コートにクラウ・ソラスが―――
「――――――!」
当たらない。
ばちぃっ! と何かが弾ける音が鳴り響く。クラウ・ソラスの伸びた刀身を、黒コートはダインスレイヴで正面からまともに受け止めたのだ。
クラウ・ソラスはそれ以上動かない。今高貴が繰り出した攻撃、《光刃円舞》は、校舎すらたやすく真っ二つに斬り裂く巨大な光の光刃。それをたった一本の剣で、黒コートは真正面から受け止めてそれを止めた。
「こ……の――――――ッ!!」
クラウ・ソラスに高貴がさらに力を込める。それにより黒コートがさすがに力負けしてきたのか、地面についている二本の足が少しずつ押されて横にずれていく。だが、そこまでだった。
「高貴!!」
上空からエイルの声が耳に響いてきた。エイルと真澄が高貴のすぐ横に落下して来ている。いかに《ᚱ》のルーンで高く跳んだとしても、それは跳躍であり空を飛んでいるわけではない。重力に逆らうことができずに、二人は当然のごとく落下しているのだ。
「くそっ! 半分だけかよ!」
このまま力任せに振り切ったとしても、エイルと真澄を斬ってしまうかもしれない。そう判断した高貴は、クラウ・ソラスの刃をいったん消し去った。それに一瞬遅れてエイルと真澄が地面に着地する。
「――――――」
黒コートが突進してきた。高貴と真澄には目もくれずに真っ直ぐにエイルに向かって襲い掛かる。その動きを止めようとしたエイルが、《雷光の槍》を振るい青い衝撃波を飛ばしたものの、ダインスレイヴでたやすくかき消されてしまいまったく効果がない。
「私があの男の相手をする。君はなんとか真澄を守りながらベルセルクの相手を!」
「わかった、気をつけろ!」
エイルも自ら黒コートに向かって走る。高貴と真澄から15メートルほど離れた所で両者が激突し、そのまま切り結び始めた。
その間ベルセルク達は高貴に襲いかかっていった。一対一ならば問題ないだろうが、なにぶん数が多く、しかも後ろには真澄がいるため、ヒットアンドアウェイもできない。その結果、高貴は攻撃を防ぐだけで精一杯になってしまっていた。
「こ、高貴……」
真澄の弱々しい声が高貴の耳に届いた。とにかく真澄を逃がさなくてはならない。なんとかしてこの包囲網に穴を作る事が必要だ。周りをよく観察、まずは一体ターゲットを決める。当たり所さえよければ一撃で倒せる事はさっき証明されているのだ。連続してくる攻撃の僅かな隙、そこを―――見つけた。
「そこだ!」
右斜め前のベルセルク、腕を振り下ろそうとしていた。そのベルセルクが攻撃するよりも早く、高貴が懐に入り込んだ。振り下ろされる腕を掻い潜って、横一閃でベルセルクを斬り裂く。包囲網に、穴が開いた。
「真澄、こっちだ!」
「う、うん!」
穴が開いたところから真澄が包囲網を突破した。これで戦いに真澄を巻き込む事はなくなる。
なくなるはずだった。しかし、完全に予想外の事が起きる。
包囲網をから抜けた真澄を、ベルセルク達が視線で追っている。そして、明らかに目標を真澄に定めている。
「なっ!?」
ベルセルクは普通の人間を襲わない。それがエイルから教わったベルセルクのルール。しかしこのベルセルクは黒コートがダインスレイヴを使って何かしらの方法で呼び出したものだ。ならば、その常識が通用しないかもしれないという事を、高貴は考え付かなかったのだ。
「真澄ッ!」
それに気がついた高貴が真澄に向かって走った。名前を呼ばれた真澄が振り返り、真後ろにいるベルセルクの存在に気がつく。
近づいても間に合わない。助けられる手段は一つしかない。しかしそれは大変危険を伴う方法だ。
それでも―――やるしかない。
いいからさっさと剣を振れ、グダグダ迷って手遅れになる前に!
「伸びろ―――ッ!」
クラウ・ソラスを一気に伸ばした。真澄の距離まで10メートルほど、ベルセルクまでの距離も10メートルほど。そのギリギリの距離で、ベルセルクだけを斬り裂くしかない。下手をすれば自分が真澄を斬ってしまうかも知れないと言う恐怖を伴いながら、それでも方法はこれしかないと自分に言い聞かせ、高貴は思い切り剣を振るった。
ベルセルクが腕を振り上げる、真澄が身を屈めて悲鳴を上げる。その悲鳴ごと、クラウ・ソラスの光刃がベルセルクを斬り裂いた。
真澄は自分の約10センチほど前、顔に当たるスレスレの目の前の距離で、光刃が通り過ぎたのをはっきりと見ていた。
ペタンと地面に尻餅をつく真澄に、慌てて高貴が近づく。今の高貴には真澄の安否しか頭になく、今の攻撃で何体かのベルセルクを巻き込んで倒せた事にも気がつかないほどだった。
「大丈夫か!? つーかごめん、ケガ無い!?」
「……し、死ぬかと思った……二つの意味で」
真澄の無事を確認できた高貴がほっと一息をつく、ついてしまった。それは高貴の性格上仕方のないことといえる。本当に彼は真澄しか見えていなかったのだから。だからこそ、背後から別のベルセルクが迫っている事に気がつくのが遅れてしまったのだ。
それに気がついた時にはもう遅い。ベルセルクは腕を大きく振り上げている。迎撃が不可能ととっさに判断した高貴は、とっさに真澄を抱えて横に飛んだ。飛んだというよりは転がったという表現に近い。地面を転がりながらも真澄が傷つかないようにきつく抱きしめる。
一瞬遅れてベルセルクの豪腕が地面に叩きつけられた。まるで大木が倒れたかのような轟音が響き、グラウンドに大きな傷跡が刻まれる。
「高貴ッ、真澄ッ! 貴様、そこをどけ!」
エイルが二人を助けに行こうとしても、黒コートを振り払うことができない。エイルを逃がすつもりなどまったくないとでも言うように、切り結ぶ手を休めなかった。
3メートルほど転がって、高貴と真澄は起き上がる。高貴の体には無数の擦り傷ができており、服もところどころ破れている。真澄は高貴にかばわれたおかげでどこも怪我をしていなかった。
「こ、高貴、大丈夫!?」
「な、何とか……真澄は大丈夫だよな」
「う、うん。わたしは大丈夫―――あれ? スマホがない」
真澄がお守りのように強く握り締めていたスマホが、いつの間にかその手から消えていた。今転がった時にどこかに落として転がっていったのだろう。そしてそれは思いのほかすぐに見つかった。高貴たちから大分離れた所、そしてベルセルクの足元に真澄のスマホは転がっていた。
「見つけた!」
真澄がすぐさまそれに駆け寄ろうとするが、高貴が慌てて真澄を止めた。
「おい、バカかお前は! ベルセルクがいるんだぞ!」
「でも! あれは大切なの! あれにはあのストラップも―――」
言葉が、途切れた。
ベルセルクが一歩前に踏み出そうとしている。右足を上げて、その右足を下ろそうとしている。その先には、真澄の大切なストラップがついたスマホがおちていた。
「ダメええええぇぇ―――ッ!!」
真澄が手を伸ばして叫んだ。前に進もうとするその体は、高貴によって抱きとめられて前に進む事はない。ベルセルクが、その足を、踏み出した。
そして―――二人の耳に入ってきたのは、バキッ、という何かが壊れる音だった。
どうなったかは見えないが、恐らくはスマホもストラップも粉々に砕けてしまっただろう。
「あ―――」
真澄の伸ばされていた右手がだらりと落ちる。前に行こうとしていた体が止まる。
「おい、真澄! ボサッとすんな! おい!」
高貴が話しかけるものの、真澄は下を向いたままなんの反応も示さない。ベルセルクが再び一歩踏み出した。まるで自分が今何かをふんだ事すら気がついてないようだ。しかし、そのベルセルクが、青い軌跡の元に背後から一閃に斬り捨てられた。
黒コートを振り払ったエイルが、ベルセルクを背後から《雷光の槍》で斬り裂いたのだ。なにが起こったかわからないと言った様子でベルセルクが消え去る。
「二人とも大丈夫か!?」
「いや、真澄が―――」
ハッと高貴が顔を上げる。残っているベルセルクは3体。そのベルセルク達が、高貴たちに向けて両手を伸ばしているのが見えたからだ。
「やばい! エイル、防御!」
「くっ、《ᛇ》!」
エイルと高貴がすかさずルーンを刻んだ。高貴は自分自身を、エイルは自分と真澄を守るように防御壁を作り出す。
「ガアアアアア!!」
ベルセルク達が吼えながら、両手から赤黒い弾丸を放ってきた。その凄まじい弾幕に、高貴たちは身動きがまったく取れなくなってしまう。
「これじゃ動けねーよ! なんとかして真澄だけでも守らねーと!」
「今はひたすら耐えるしかない。下手に動けば弾に当たってしまう。真澄、動けるか? 怖いのはわかるが、隙を見て離れて―――」
「……ざけ……」
ボソリと、下を向いたまま真澄が声を漏らした。
「え? 今なんか言ったか?」
真澄がゆっくりと顔を上げて、
「ふざっっっっっっけんなああぁ――――ッ!!」
思い切り、大声を上げて、空に向かって叫んだ。
すぐ隣にいる高貴とエイルの鼓膜を破るかのような怒声。怯えていたと思っていた少女が突然叫びだした事で、こんな状況にもかかわらず、高貴とエイルはポカンとった表情になってしまった。
そう、怒声だ。今真澄の目に浮かんでいるのは、恐怖ではなく怒りだ。圧倒的なまでの怒りで満ち溢れている。
「ま……真澄さん? 突然どうされたんですか?」
自分に降り注ぐ黒い弾丸よりも遥かに恐怖を感じながら、高貴がおそるおそる声を絞り出した。帰ってきたのは人を殺せそうな視線だ。
「どうしたもこうしたもない、わたしは怒ってんの! 何なのあの化け物! さっきから襲ってくるわ人のスマホ壊すわいったい何様!? あの趣味の悪い黒コート野郎も、エイルさんの顔に傷つけるし、女の顔に傷つけるなんてありえない!」
今までたまっていた鬱憤をすべて吐き出すように真澄は叫んだ。
「お、落ち着け真澄。確かに君の言うとおりだが、今は―――」
「だいたい! わたしは二人にも怒ってるんだからね!」
「いや……その……」
「エイルさんは命を懸けて高貴を守るなんて言ってるけど、わたしはエイルさんの事だって心配だよ!! 高貴を守ってエイルさんがけがしたらわたしは嫌! もっと自分を大切にして! 高貴は巻き込みたくないし心配させたくないからから記憶を消せなんて言ってるけど、友達なんだから心配くらいさせてよ!」
真澄の目からは先ほどまであった恐怖も悲しみもすべてが消えていた。力強く目を見開き、腹の底から声を出している。
「で、でもさ真澄。現に今だって危ない目にあってるだろ」
「高貴は嫌じゃないの? 友達が知らないところで危ない事してて、自分は心配すら出来ないなんて嫌じゃないの?」
「ふむ……嫌だな」
「おい、エイルまで」
「ずっと……言いたかった。二人がやらなくちゃいけないことなのはわかるけど、無茶だけはしないでって。話を聞いたときからずっと言いたかった。だけどわたしは魔法なんてつかえないから、なんの力も持ってないただの足手まといだから、なにも言えなかった。実際に今もわたしは二人の邪魔になってるから、迷惑だって思われるのもわかってるけど、何もできないわたしにこんなこと言われてもムカつくだけだろうけど、心配くらいさせてよ。もっと自分のことも大切にしてよ。わたしは、なんの力にもなれないけど、せめて二人の心配くらいはしたいよ」
真澄のその言葉は、最後のほうが再び声がかすれてしまっていた。
今までの真澄は、高貴とエイルの力になれない無力さを、心配すらできない理不尽さに嘆いていた。そして今、嘆くのをやめて理不尽さに怒った。大切な友人を傷つける存在に、そして自分を心配して大切に思ってくれてはいるが、自分自身をまったく大切にはしていない友人達に。
怒りを、ぶつけた。
今、足手まといになっているにもかかわらず、迷惑をかけているにもかかわらず、それでも真澄はそれを言葉にした。
不意に弾丸の雨が止まった。このまま続けても意味がないと判断したのか、ベルセルクが高貴たちに近づいてくる。
「……わかった。君の気持ちはよくわかったよ。わかりきっていた事だが私達は君に対して、とても残酷な事をしようとしていたことを改めて理解できたよ」
「心配かけたくなかったんだけど、真澄は心配かけてほしかったのか。とりあえず―――」
高貴とエイルが《ᛇ》の壁を消し去り、ベルセルクに向かって走る。
「少しはタイミングを考えろ! なんであんな状況でそんなこと言うんだよ!」
ベルセルクが右腕を突き出してくる。高貴はそれを剣で受け止めて弾き、肩口から腕を斬り落とした。そのまま今度は下から切り上げて、ベルセルクを真っ二つにする。
「しかし、まさかそこまで心配してくれるとは思っていなかったよ。純粋に嬉しく思う。しかし君は一つ勘違いをしている」
エイルは勢いを緩めずに突進、ベルセルクの顔面を青い槍で貫いた。
残り一体。高貴とエイルが同時に残ったベルセルクへと向かう。走る白い軌跡と青い軌跡。その先には異形の怪物。
そして―――白と青の軌跡が十字を作った。高貴とエイルに同時に斬られたベルセルクが、4つに割れて消えていく。
ベルセルクを全て倒し終えて、二人が真澄に振り返る。
「いいか真澄、俺もエイルもお前の事を迷惑だとか、足手まといだとか思った事ねーよ。むしろ昨日の事とかエイルの服のこととかかなり助かってる」
「それと、心配はかけたくないと思っているが、心配してもらえれば嬉しいと思うよ。これからもずっと覚えていてほしいとさえ思えてくる。そんな優しい君だから私達は守りたいと思っているのだが、どうやらそれだけでは駄目なようだな。いいか高貴、真澄だけではなく自分自身もしっかりと守れ、自己犠牲など考えるな」
「同じ言葉をそっくりそのままお前に返してやる。つーか魔術の守秘義務はいいのか?」
「何とかごまかす、私はヴァルキリーだ」
「気が合うな、俺もそう思ってた。なにはともあれこれでベルセルクは片付いたから―――」
高貴とエイルが、それぞれ白と青に光る武器を持ち上げ、黒コートに向けた。
「次はテメーだ。真澄を泣かせた借りはまだ返してねーからな」
「不思議と、力がみなぎるようだよ。今の私達は先ほどの倍は強いぞ」
黒コートに向けて言い放ち、再び同時に地面を蹴った。それに応えるかのように、ダインスレイヴを鞭状に変形させた黒コートも地面を蹴る。
互いの武器をぶつけ合う三人を、真澄は手を合わせて祈るように見つめている。どうか無事ですんでほしい。もしくは《神器》も仕返しもどうでもいいからもう逃げてほしい。そんな気持ちを胸に抱きながら。
「お願い神様……二人を……守って!」
その時、何かが繋がった。自分と何かが繋がった感覚に真澄は陥った。
―――神様なんて誰も守ってくれないわ。誰かを守りたかったら自分で守るしかないもの。
真澄の頭の中に、女性らしき声が響いてくる。明らかに耳から入ってきた音ではなく、屋上でクマと話した時と同じような感覚。一体なにが起こったのかという真澄の疑問は、次に起きた現象によって打ち消された。
突然、何の前触れもなく、何もなかった地点のグラウンドに、一つの光の柱が生まれたからだ。
「光?」
「こんどはなんだよ!?」
黒コートと切り結んでいる高貴とエイルもそれに気がついた。しかし黒コートのほうは気にもしていないようで、攻撃の手を休めない。
光の柱は白い、いや、どちらかと言えば銀色をしている。その光の柱の中に、なにやら小さいものが浮いていた。それは真澄にとって見覚えのある形、そして先ほど失ったと思っていたばかりの形。
「あれって……わたしのストラップ?」
それを見て真澄は気がついた、光の柱が上っていた地点は、先ほど真澄のスマホがベルセルクによって踏み潰された場所だったことに。一体なぜ壊れていないのか。その疑問の答えを出す前に、三日月形のストラップが、真澄目掛けて凄まじい速さで飛んでいき―――
「え?」
真澄の体を、貫いた。
「真澄ィ――――ッ!」
高貴の叫びは真澄に届くことなく、三日月に貫かれた真澄の意識は遠のいていった。
◇
次に真澄が意識を取り戻した時、彼女は夜のグラウンドとは違う場所にいた。そこは真澄のよく見知った場所、ついさっきまでいたはずの場所。
「ここって……マイペース?」
そう、マイペースの店内に真澄はいた。店内のボックス席に、いつの間にか座っている。
「えーっと……あれ? 何これ? マジで何これ? わたしさっきまでグラウンドにいたはずなのに……」
いくら思考をめぐらせても、自分が今ここにいる理由がまったくわからない。それにおかしなことはまだある。ここがマイペースだとしても、本来ならばいるはずの詩織の姿も見当たらない。
「……あれ、ちょっと待って。冷静に、冷静にならなきゃ」
目を閉じて真澄が考え始める。まずマイペースを出てから、学校にスマホを取りにいった。そこで黒いコートの男を見て、一目散に逃げ出した。そのあと高貴とエイルにあって、闘いがはじまった。そして―――
「こんにちは、相席いいかしら?」
思考が中断される。突然誰かに話しかけられたからだ。誰かと思って目を開いて顔を上げると―――なんとそこには自分自身が立っていた。
「え?」
「相席、いい?」
「は、はい……ええっ!?」
思わず頷いてしまったあと、事の異常さに気がつき真澄は思わず立ち上がって叫びだす。そんな真澄を気にも留めないで、もう一人の真澄はクスリと笑いながら正面の椅子に座った。
「ちょ、わ、わたし!? そっくりさん!?」
「あはは、面白いわねあなた。ほら、とりあえず落ち着いてコーヒーでも飲みましょ。ブラックとミルク入りどっちが好き? それとも紅茶かしら? いろいろあるわよ。緑茶はないけど」
「てゆーかあなた誰!? もう一人のわたし!?」
「落ち着いて、今からちゃんと説明してあげるわ。ブレンドコーヒーにミルクとガムが一つずつで良かったわよね」
いつの間にか目の前のテーブルに二人分のコーヒーが置かれている。いつも真澄に詩織が用意してくれるコーヒーと同じ色だ。もはやがわからなくなった真澄は、とりあえず座る事にした。
「あの、もしかしてわたし死んじゃったとかですか?」
「違うわよ。ここはあなたの心象風景。あなたの心の世界ってところね」
「わたしの心の世界? それがどうしてマイペースなんですか?」
「それはこの場所があなたにとって大切だと思える場所だからじゃないかしら。このコーヒーもあなたの記憶の再現。心象風景っていうのは、大切なもの、衝撃的なもの、それからトラウマなんてのも反映されるから。あ、それとこの姿は話しやすいようにあなたの姿を借りただけ」
「……じゃあ、あなたは誰?」
「《神器》よ」
目の前の自分―――《神器》が放った何気ない一言は真澄を唖然とさせるのには十分だった。言葉を失っていると「飲まないの?」と《神器》がコーヒーを勧めてくる。しかしコーヒーを飲むような気分ではない。
「あなたに興味がわいたの。ついこの間までは違う人にくっついてたんだけど、なんだか好みじゃなかったのよ。その点あなたならなんだか楽しそうだなって思って。どう? 私の持ち主になってみない?」
コーヒーを片手に、まるで遊びに行こうとでも言っているかのような調子で《神器》はそう言った。
「……一つだけ聞かせて」
「なに?」
「あなたの持ち主になれば、高貴の力になれるの?」
「もちろんよ」
その短い言葉は、真澄の心を決心させるのには十分な言葉だった。
「じゃあ、わたしに力を貸して」
「早いわね、もう少し考えるかと思ったんだけど。てゆーか本当にいいの? 私を持ち歩くって事は、ベルセルクに襲われる危険性が常にあるって事なのよ。さらに言えば、他の《神器》の使い手とも戦いになるかもしれない。今の趣味の悪い黒コート来てる奴とかね。あなたは本当にそんな非現実に足を踏み入れる覚悟があるの?」
「もちろん」
一瞬も迷わずに、真澄は即答した。
「危ない合うのはもちろん嫌、だけどもうすでに危ない目にあってる人が目の前にいるのに、黙って見てるだけなんてもっと嫌だから。だから―――力を貸して」
「……なるほど、友達は大切……か。いいわ真澄ちゃん、じゃあ乾杯しましょうか。ルービじゃないけど」
「ルービって……まぁいいけど。」
目の前に座る《神器》がコーヒーの入ったカップを目の高さまで上げる。それにならって、真澄も苦笑しながら目の前にあるコーヒーを視線の高さまで上げた。
「私の名前はもう知ってるわよね。その名前を呼ぶのが私流の契約なの。さぁ、契約が済んだら夢の時間はお終いよ。夜の闇と身の危険、さらには未知なる恐怖のフルコースが待ってるわ」
「でも、あなたも力を貸してくれるんでしょ」
「もちろんよ」
カップとカップが近づいていく。目の前にいる《神器》の名前を呼べば契約は完了。それはいつの間にか知っていた名前、ついさっきまで知らなかったにもかかわらず、生まれた時から一緒に居るかとも思えるような不思議な感じがする響き。
「それにしても、弓塚真澄ちゃん、それにあの男の子は月館高貴君か。これも不思議な縁なのね。これからは楽しく過ごせそうだわ。よろしくね真澄ちゃん」
「うん、よろしくね―――《星弓アルテミス》」
二つのカップが重なり―――キン、という音が鳴り響いた。
◇
「《星弓アルテミス》―――!!」
銀の光に貫かれた真澄が、突然その言葉を叫んだ。目の前で浮いている三日月のストラップが銀色の光を放つ。
真澄の意識が夢から現実に帰って来る。現実時間ではほんの一瞬で数秒もたっていない。はたからそれを見ていた高貴たちには、真澄の身にいったい何が起こっているのかわからなかった。いや、瞬間的に、直感的に理解した。
「ま、まさか―――」
「《神器》か?」
―――熱い!
真澄の体の中で何かが燃えている。まるで全身に炎が走っているように熱い。今まで感じなかった何かを全身に感じる。そして、はっきりと夢の中で契約した《神器》の存在を感じることができる。
目を見開き、夜を照らす銀の三日月を、真澄は左手で掴んだ。
三日月がその姿を変えていく。掌に収まるほど小さかったその三日月が、段々と大きくなって、真澄の手では覆えなくなる。そして、ひときわ強く光ったかと思えば、次の瞬間には真澄の左手には弓が握られていた。
それはまさしく夜空に浮かぶ三日月のような神々しい姿。星のような宝石をその身にちりばめた《神器》。
《星弓アルテミス》が世界に具現化した。
突然の《神器》の出現。しかも真澄の手にそれがあるということに、高貴とエイルは驚きを隠せない。そんな中で黒コートだけはすばやい動きで、いったん二人から距離を取った。それを好機と見て、高貴とエイルも真澄の元に近づいていく。
「真澄、それって―――」
「……コーヒー、飲み損ねた」
「は?」
「あ、なんでもないよ。こっちの話だから。それよりこれ《神器》なんだって。《星弓アルテミス》っていうの。わたしこの《神器》に選ばれちゃったみたい」
「え、選ばれたって……マジで?」
「本当……らしいな」
つい1分ほど前までは、なんの力を持っていなかった少女が、今は戦う力を持っているということに、さすがエイルは驚きを隠せない。それは自分もそうだったであろう高貴も同じようだ。
「しかし真澄、いきなり《神器》を扱えるのか?」
「えっと……うん、大丈夫っぽい。なんか自分でもよくわかんないけど、弓矢の使い方知ってるから」
「なにそれ、《神器》が教えたってことか?」
「うん、アルテミスのおかげかもね」
高貴はエイルと契約の印をおこない、その剣技の一部を記憶に叩き込まれたが、真澄の場合は《神器》であるアルテミスそのものが真澄に対して戦う術を教えたようだ。
「でもそんな《神器》いったいどこに―――」
「ほら、そんな話は後。あの黒コートの奴またとんでもない事してる」
真澄に言われて、高貴とエイルが黒コートのほうを向く。黒コートは再びダインスレイヴを地面に突き刺し、多数のベルセルクを呼び出していた。黒い闇の中でもなお目立つ赤黒い巨体が、グラウンドにどんどん生まれてくる。
「ふむ、これではきりがないな」
「ああ、なんとかしてあの黒コートを―――」
その高貴の言葉を遮って、一陣の風と光が駆け抜けた。高貴とエイルの間を縫うように銀色の光が走り、前方のベルセルクの内の一体、その顔面に突き刺さる。よく見るとそれは銀色の矢だ。その存在を視認で来た瞬間―――銀の矢が、そしてベルセルクの頭が弾け飛んだ。頭を失ったベルセルクは、そのまま動くことなく黒い煙となって消滅した。
あまりに突然の出来事に、ぽかんとした表情のまま高貴とエイルが振り返る。そこには真澄が左手にアルテミスを持ち、弓道で言う所の残心の形、つまりは撃ち終わりの形で止まっていた。そのたたずまいは明らかに素人のそれではなく、むしろ熟練の粋にある雰囲気を思わせている。
ポカンとしている二人を見て、真澄はふと肩の力を抜くと、クスリと笑った。
「うん、結構簡単みたい。ほらほら、二人もボサッとしてないで。わたしも―――わたしも一緒に戦うから!」
そう言うなり真澄は再び弓を構える。それを見た高貴とエイルも笑いあって、ベルセルクの群れに向き直った。
「さーて、こりゃ負けてらんないよなエイル」
「ああ、真澄にまかせっきりになってしまわないように―――行くぞ!」
二人が、地面を蹴った。ついさっきまで恐怖に身を震わせていた真澄が、その日本の足でしっかりと立ち、その二つの瞳で現実を見て戦っているのだ。それなのに、自分たちが何もしないわけにはいかない。二人は先ほど以上に身を奮い立たせた。
突っ込んでいく二人をよそに、真澄はゆっくりと右手に左手を重ねる。するとただの三日月だったその《神器》に、光の弦が形成された。知らなかったはずなのに今は知っている魔力の扱い方、それにならって右手に魔力を込め、光の弓をイメージ。そのまま右手を手前のほうに引くと、今度は光の弓が形成される。矢尻から羽まで全てが銀の光で形成されているその矢は、まったく重さを感じない。
光の弦に光の矢を当てて強く引き、弦の弾力を右手で押さえ込む。左手をピストルの形にしてベルセルクに狙いをつけた。小さいころはジャンケンでピストルの形を出し、高貴と俊樹に無理矢理勝っていた事を思い出した真澄は、こんな状況にもかかわらずクスリと笑ってしまった。
しかし、今は遊びではない。ピストルの弾ではないが、アルテミスの力によって矢を放つことができる。弓を限界まで引き、弦の軋む音をその耳に感じながら、
「せー……のッ!」
右手を離した。銀の矢が一直線に突き進んでいく。放たれたそれは、勢いを失いことなく高貴が戦っていたベルセルクの右足に突き刺さった。刺さった瞬間、矢が弾けてベルセルクの足を破壊する。バランスを崩したベルセルクは、目の前にいた高貴のクラウ・ソラスによって一刀のもとに斬り捨てられた。
高貴が一瞬真澄のほうに振り返る。交差する視線と視線。それだけで言いたいことが伝わったのか、二人は何も言わずに別々の敵に狙いを定めた。
「ガアアアアアア!!」
一体のベルセルクが真澄に狙いを定めて突っ込んで来た。その事に真澄だけではなく高貴とエイルの二人も気がつく。しかし、高貴とエイルは真澄を助けに行こうともせずに、それぞれ別のベルセルクに向かって行った。それを、真澄は何よりも嬉しく思う。
二人は真澄を見捨てたわけでもほっといたわけでもない。真澄を信じているのだ。ついさっきまでは守られているだけだった自分が、今はこうして信頼してもらえているという事実に真澄は喜びの感情を隠せない。
距離は約8メートル。普通に狙いを定める時間などまったくない。それでも真澄は大丈夫だと確信している。
弓道八節という言葉がある。スポーツにおける弓道において、弓の撃ち終わりまでの、足踏み、胴造り、弓構え、打起し、引分け、会、離れ、残心の八つの動作の事だ。
これにおいては弓を放てる形にいたるまで、会までの六つの手順をふまなければいけない。そして七節目の離れでようやく矢を放つことができるのだ。しかしこれはスポーツではなく、命がけの戦い。真澄は五節までの全ての動作を省略し、一気に弓を放てる体勢を作った。
狙いをよくさだめる必要などまったくない。どうせ向こうのほうから近づいてきてくれているのだから、当たる確率は先ほどよりも高い。今必要なのは威力だ。接近されているという事は、一撃で倒さない限り反撃を食らう可能性がある。
「アルテミス、さっきよりも強くするよ」
4メートル。右手に掴んでいる矢に魔力をさらに込める。銀の矢がその光をどんどん増していく。
3メートル。ベルセルクが腕を振り上げた。真澄はその腕にはまったく見向きもしない。
2メートル。ベルセルクの腕が振り下ろされる直前―――真澄が矢を放った。最初に撃破したベルセルク同様に、顔に突き刺さった矢が弾ける。真澄に傷をつける事もできずにベルセルクが消え去った。
「うん、バッチリ! わたしすごいかも。あとは……」
真澄が周りを見渡した。高貴とエイルはそれぞれベルセルクを順調に倒している。元々高貴は《神器》をもっているし、エイルは異世界のヴァルキリーなのだ。真澄が戦えるようになった今、ただのベルセルクに負けるような心配は無い。
だがベルセルクの数は一向に減る様子がなかった。その原因はもちろんそれを呼び出している黒コートだ。黒コートは高貴とエイルから少し離れた所で、ダインスレイヴを地面に突き刺したままベルセルクを呼び続けている。もはや自分が戦うつもりはないのか、一向に動く気配はない。
「あいつを、倒せば!!」
真澄が狙いを変えて黒コート目掛けて矢を放つ。しかしベルセルクを貫く銀の矢も、同じ《神器》には通用しないのか、ダインスレイヴによって打ち消された。真澄がもう一度矢を放とうとしたその時、黒コートが行動を起こした。なにを考えているのか、自分のすぐ近くにいたベルセルクを、ダインスレイブで貫いたのだ。
「なにやってんだあいつ? あいつにとっては味方じゃねーのか?」
「確かに―――高貴、よく見てみろ!」
エイルに言われて高貴はダインスレイヴに視線を送る。そして気がついた。ダインスレイブからベルセルクに向かって、何かが流れている事に。ダインスレイヴの刀身が、まるでポンプのように動きベルセルクに何かを送っている。それを受け取るたびにベルセルクはどんどんと巨大化し、その体にある紅い亀裂が大きくなる。
「キシャアアアアアアア!!」
大きさは五メートル強。黒の巨人を呼ぶのに相応しい禍々しき姿のベルセルクへと変貌した。
「あれは……以前屋上で戦ったベルセルクと同じタイプか?」
「え、じゃあ屋上のベルセルクってもしかしてあいつが送り込んできたのか? 昼間には出ないはずのベルセルクが昼間に出てきたのもそれが理由か?」
「かもしれないな……あの時よりもやっかいそうな相手だ」
「シャアアアアアアア!!」
ベルセルクが地面を蹴った。他の固体とは明らかに桁違いのスピードで高貴とエイルへの距離を一気に詰める。二人も一瞬遅れてそれに反応したが、やはりベルセルクのほうが速い。その赤黒い豪腕がまずは高貴を襲う。何とかクラウ・ソラスで受け止めるものの、あまりの巨体に受け止めたまま動く事ができなくなってしまった。
さらには防御力もなかなか高いようで、この腕にはクラウ・ソラスの刃もまったく通らない。
「はぁっ!!」
エイルがベルセルクの隙だらけの側面から斬り付ける。がきぃ!! と鈍い音が響いたが、ベルセルクをその一撃をものともしないで立っている。屋上で戦ったベルセルクよりも、かなりレベルの高いタイプだとエイルは判断した。
「こ……のぉっ!!」
高貴がベルセルクと斬り結び始める。スピード自体は高貴が上だ。クラウ・ソラスはベルセルクの体に何度も当たっている。しかしダメージを与えることがまったくできない。たとえ光刃円舞を当てたとしても斬り裂ける自信が高貴にはなかった。
さらには他のベルセルクも高貴とエイルの周囲に集まってくる。いくら簡単に倒せるといっても、巨大なベルセルクだけでも手一杯なのだから相手を出来る余裕はない。幸い黒コートは動くことなくベルセルクを呼び出しているだけだが、いつ動き出すかもわからない。
側面から高貴に近づいていた2体のベルセルクが、真澄の矢によって撃ち抜かれた。
「高貴、エイルさん、ちょっとこっち来て!」
真澄の指示に従って高貴とエイルはベルセルク達を牽制しながらいったん下がる。
「冗談じゃねーよ。黒コートだけでも手一杯なのに、でかいベルセルクとかまで出てくるし……白光烈波なら何とか倒せるかな。エイルはどう思う」
「ふむ、ベルセルクのほうなら確実に倒せる切り札がある。しかし少し時間が掛かるぞ」
「マジで!? やっぱお前スゲーや」
「当然だ、私はヴァルキリーだ。とはいえ今言ったように時間が―――」
「その点なら心配しなくていいよ」
エイルの言葉を、自信満々の表情で真澄が遮った。
「二人が時間を稼いでくれたおかげで、わたしの切り札の準備は整ってるから」
「……スゲー頼もしい」
「ふむ、では時間稼ぎは真澄に任せよう……しかし、また囲まれたか」
高貴たちの周りをまたもやベルセルク達が取り囲んでいた。正面には強化されたベルセルクも存在しており、隙や抜け道はまったく存在しない。
「ちっ、とりあえず俺がまたまとめて斬っとくか」
「待って高貴、やめた方がいいよ。黒コートがさっきみたいに止めると思うから。それに言ったでしょ、わたしの切り札の準備は出来てるって」
「ふむ、では頼んだぞ真澄」
「任せて。二人とも、絶対に動かないでね。やるよアルテミス!」
真澄の声に応えるように、アルテミスが銀色に輝く。まさに夜に浮かぶ三日月のようなその弓を、真澄は天に向かって構えた。当然のごとく空には敵などいない。なのに真澄はどうして弓矢を空へと向けるのか? その答えを、高貴は直感的に理解できた。
「《月光の陣形》―――展開」
真澄が光の弦を引く、すると五本の矢が扇状に広がって具現化された。ギリギリと弦を引く手に力がこもる。アルテミスに魔力が迸っている。その魔力に引き寄せられるかのように、ベルセルク達が襲いかかってくる。がむしゃらに突っ込んでくるわけではなく、陣形を少しずつ狭めるように、決して高貴たちを逃がさないように迫ってくる。
高貴の目に僅かに焦りが浮かぶが、真澄はやはり空を見ていた。彼女の視線の先には何もない。あるのは空。雲が浮かんでいる空。そして、夜に光り、世界を優しく照らす月。その月目掛けて彼女は―――
「《降り注ぐ月の涙》!!」
矢を、解き放った!
まるで打ち上げ花火のように五本の矢は天高く上る。銀の光が段々と空に溶けていき、そして―――
「弾けろ――――――ッ!!」
夜空に五つの花火が弾ける。銀の花火は重力にしたがってその全てが地面に向かって落ちてくる。その一本一本がアルテミスの作り出した矢だ。
空から矢が降ってくるという光景に、高貴とエイルは焦りを覚えたが、真澄の言った動くなという言葉を信じてその場からまったく動く事はなかった。そして、降り注ぐ矢はなんの遠慮もなしに高貴たちの周りを取り囲むベルセルク達に突き刺さった。
一本一本はたいした威力ではないとはいえ、雨のように降り注ぐ矢をかわすすべを持たないベルセルクは、体に無数の矢を浴びてどんどん消滅していく。矢は決して高貴とエイルには当たる事はない。そこまで計算されて放たれていたのだ。
しかし、黒コートと強化されたベルセルクだけは例外だった。黒コートはダインスレイブで襲い来る全ての矢を払い落とし、ベルセルクは防御力が高い為、アルテミスの矢もまったく通らない。動きを止めるだけで精一杯だ。だが、時間は十分に稼げた。
「さて、次は私の番だな」
銀の雨が降り注ぐ中、銀髪のヴァルキリーが左手を眼前に掲げた。
「高貴、真澄。魔術の授業の続きだ。ルーン魔術は複数の文字を同時に書くことができ、これをバインドルーンと呼ぶ。私が最もよく使っているのは、この《雷光の槍》か《迅雷の咆哮》のどちらかだろうな」
「え? いや、そんなこと今はいいから、さっさとその切り札を―――」
「そしてこれが―――私の切り札だ!」
ヴァルキリーの左手に青い光が灯った。
「《ᚦ》―――!」
一つ目のルーン。エイルの最も得意とする雷を操るルーンである《ᚦ》。
「《ᚱ》―――!」
二つ目のルーン。移動や跳躍力などを高めるルーンである《ᚱ》。
「《ᛏ》―――!」
そして、三つ目のルーン。他のルーン魔術の能力を高める事ができるルーンである《ᛏ》。
エイルの目の前に三つのルーンが青い軌跡で描かれた。高貴と真澄は驚きを隠せない。今までエイルは二つのルーンを同時に使うことはあっても、三つのルーンを同時に書いたのは初めてのことだ。そして、ヴァルキリーは鍵となるその言葉を、凛とした声で響かせた。
「バインドルーン・トライ!!」
瞬間―――エイルの目の前に浮かぶ三つのルーンが光り輝く。それぞれの文字が青い光で結ばれていき、《ᚦ》の文字を頂点に、《ᚱ》を右に、《ᛏ》を左にして、三角形の形が作られた。空に浮かぶ星を結んだかのように作られたそれは、エイルの眼前に広がってさらに輝きをましていく。
変化はそれだけではなかった。大三角形の光が増していくにつれて、段々とエイルの体も青い光に包まれていく。まるで全身に《雷光の槍》の輝きが宿ったかのようなその姿。夜の闇を優しく、しかし激しく照らすそのたたずまいは、神々しさを感じさせるものだった。
形こそ違えど、まるで火の輪潜りのようにエイルの目の前に展開された大三角形。その向こうには強化されたベルセルクが覗いて見える。エイルが体勢を低くした。槍を正面の大三角形に、そしてその先にいるベルセルクに向ける。
しかし―――その視界が遮られる。時間をかけ過ぎたのか、強化されているベルセルクを守るかのように、エイルとの射線上に別のベルセルクが数体割り込んできたのだ。これではエイルの言う切り札も、ターゲットに届くことなく終わってしまう。
終わってしまうはずだった。しかしエイルは何も気にした様子はない。ベルセルクが割り込んできた。それがどうしたとでも言わんばかりに彼女は、青い光を纏ったヴァルキリーは―――
「全てを―――貫く!! 《道を突き進む者》!!」
地面を、蹴った!
眼前の大三角形を潜り抜けた瞬間―――エイルの姿が消えた。
エイルの姿が消えたのと、エイルの正面にいたベルセルクが砕け散ったタイミングはほぼ同時だった。その後ろにいたベルセルクも、さらにその後ろのベルセルクも、一瞬のうちに消滅する。そのあまりのスピードに、高貴と真澄は一瞬なにが起こったのかわからなかった。
エイルがした事自体は簡単だ。三つのルーンを組み合わせて使用しただけである。《ᚦ》のルーンで攻撃力をあげ、《ᚱ》のルーンで跳躍力、つまりは速度を上げて、《ᛏ》のルーンでその二つのルーンの効果を高めただけだ。言ってしまえば《道を突き進む者》とは、雷をまとっての高速突撃である。
しかし、そのスピードが尋常ではない。スピード=パワーという事、さらにはエイルの持つランスの本来の使用方法である刺突と一致したこの攻撃は、シンプルゆえに強力な攻撃となっているのだ。故に、かわすのは困難であり、それは強化されたベルセルクであろうと同じ事だった。
エイルは射線上に存在していた4体のベルセルクを一瞬で貫き、その後ろに存在していたベルセルクの胸部にそのランスを突き刺した。
しかし―――
「キシャアアアアアアア!!」
ベルセルクはなんとその一撃を正面から受け止めたのだ。エイルの渾身の一撃であっても、このベルセルクを倒すまでにはいかない。
「止められるものなら……止めてみせろ!!」
―――はずがない。
今のエイルをとめられる存在はいない。エイルの勢いが弱まったのはほんの一瞬のみ、ベルセルクがエイルの突進の勢いに負け、その両足が地面から離れた瞬間。もはや勝負は決していた。
「はあああああああ!!」
エイルはベルセルクにランスを突き刺したまま、起動をほんの少し上に変えてなおも突き進む。ベルセルクにはもはやなすすべはない。突き進み、突き進み、背後に高く聳え立つ校舎に、ベルセルクの肉体をたたきつけた。ランスと校舎の壁により、サンドイッチのような状態になってしまったベルセルクになおもランスは深く突き刺さっていくが、それでもエイルの勢いはまだまだ止まらない。
ベルセルクの体よりも校舎の壁のほうが早く限界が来てしまい、そのまま校舎の壁をどんどん突き破っていった。校舎の壁を破壊するたびにその衝撃でベルセルクに深くランスが突き刺さっていく。
止まるな、決して止まるな。自分の目の前にある壁は―――全て貫け!
そして―――最後の校舎の壁が破壊された。校舎から飛び出してきたのはヴァルキリーとベルセルク。残る壁はたった一つ。その障害をエイルは、
「貫けええええええ――――――ッ!!」
一気に―――貫いた!
ベルセルクの巨体、その胸部に大穴が開けられた。完全にそれを貫いた事によって、ようやくエイルの勢いが弱まっていった。体から青い光が消え去り、重力に引かれて地面に落下していく。
「キシャアア……アアアアア……!」
ベルセルクが空中で最後の断末魔をあげる。エイルが地面に着地した瞬間、空中にいたベルセルクが赤黒い光となって爆散した。
エイルが背後を振り返る。そしてベルセルクを完全に撃破したことを確認すると、ため息を一つついた。
「ふぅ、かなりやっかいなベルセルクだったな。これで残るはあの男のみだが……」
エイルが視線を上に上げるその視線の先には自分が出てきた場所、つまり今の攻撃で開けてしまった校舎の大穴が存在していた。今はクマがいないこの状況でエイルは、
「……後で考えることにするか」
取り合えず後回しにする事にした。
◇
エイルがベルセルクと共に校舎に消え去るのを、高貴と真澄はぽかんとした表情で見ていた。今はクマがいないにもかかわらず、こんな大穴を開けてしまうなんてなに考えてるんだあのヴァルキリーは。こんなのさすがにごまかしきれるわけがない。
「……後で考えよう」
とりあえず後回しにして、高貴は無理矢理頭を切り替えた。まだ戦いは終わってはいないからだ。銀の雨は止み、ベルセルクは全て消えたが、まだ黒コートの男はグラウンドに残っている。先ほどはエイルに目標を定めていた黒コートは、やはりエイルが気になるのか、エイルとベルセルクが突撃した校舎のほうに視線を向けている。
こちらを見ていない今が好機。
黒コートとの距離を一気に詰めて斬りかかる。それに気がついた黒コートは高貴に向き直って応戦した。高貴の瞳と、フードの中の紅い双眼が交差し、両者は正面から切り結ぶ。
高貴が振るうクラウ・ソラスを、黒コートは全て的確に防いでいた。それだけではなく、時には正面から防ぎ、時にはのれんのようにいなし、僅かにできる隙を逃さずに高貴を攻撃している。その紅い刀身が、高貴の体に少しずつだが触れていき、エイルと同じように頬に僅かに傷がついた。
やはり純粋な剣技では向こうのほうが上手だ。しかしそれがどうした。そんな状況は初めてクラウ・ソラスを手にした時に経験しているし、そもそも自分より剣を扱えない敵となど戦った事がない。それでも何とかなったのだから、このの状況も何とかなるはずだ。
ちらりと一瞬真澄のほうに視線を向けると、真澄はアルテミスを構えたまま歯がゆそうにこちらを見ていた。アルテミスは弓の《神器》であり、遠距離からの攻撃をおこなうものだ。しかし高貴は近距離で切り結んでいるので、下手をすれば高貴にも当たる危険性があり、真澄は黒コートに矢を放つことができないのだ。
「――――カーディナルか」
「は?」
ボソリと小さな声がフードの中から聞こえてきた。一体何を言ったのかはまったくわからなかったが、ダインスレイヴの刀身が赤く輝き、黒コートの攻撃が段々と激しいものへと変わっていく。
「高貴ッ!」
真澄が慌ててアルテミスの矢を放つ。しかしその矢は見当違いの方向に飛んでいくばかりで、黒コートに当たる事はなく、何度放っても見当違いの方向に飛んでいくばかりで意味を持たない。
高貴はじわじわと追い詰められていく。エイルはまだ戻ってきてはくれない。そもそもエイルと二人がかりでも傷一つ付けられなかったのだから、自分ひとりで傷を付けることなどできないのかもしれない。それでも必死であがこうとする高貴の耳に一瞬妙な声が聞こえてきた。
それは笑い声、小さな笑い声だ。一体誰が笑っているのだろう。自分はこんなピンチで笑えるほどマゾではないし、真澄も笑っている様子はない。となると残る可能性は一つ、目の前の黒コートの男だ。
顔の見えないフードの奥から、小さな笑い声が聞こえてくる。それは、まるで絶対的な力の差を楽しんでいるかのような、もしくは目の前で自分に手も足も出ない少年をあざ笑っているかのような声。本当に、愉快そうな声だ。
ダインスレイヴとクラウ・ソラスが激しくぶつかり合い、高貴が後方に吹き飛ばされた。受身を取ることもできずに背中から地面に叩きつけられ、クラウ・ソラスの光も消え去ってしまう。言う事を聞かない体を無理矢理動かして、何とか肩膝をついて高貴は体勢を立て直したものの、黒コートは一直線に突進してきている。一気に止めを刺すつもりだ。
「……いつまでも」
光を失ったクラウ・ソラスに魔力を流し込んだ。これまでの戦いの影響か、自分に残っている魔力が少ないのか、体の力が一気に抜けていく感覚が高貴を襲う。それでも、構わずにその剣にありったけの力を込めた。
「調子のってんじゃねーよ!!」
叫んだ。そして光が溢れ出る。今までとは比べ物にならないくらいに強く、荒々しいその光を目の前にして、心なしか黒コートの男が動揺している。その証拠なのか、高貴に突進していたその足を止めた。それとは逆に今度は高貴が前に出た。
剣技では勝てる見込みはない。だったら―――
「《白光烈波》!!」
ありったけのパワーをぶつけるのみ。
溢れ出る光は、もはや刃と呼べる形をしておらず、荒々しい光が吹き出ているといった感じだ。目の前の気にらないムカつくコートやろう目掛けて、高貴は思い切りクラウ・ソラスを叩きつける。
「―――ふっ」
しかし、黒コートは不適に笑う。あざ笑うかのように小さく笑う。
攻撃が当たる直前に黒コートがダインスレイヴを地面に突き刺した。すると地面から赤い壁のようなものが出現し、高貴と黒コートの間に聳え立った。約二メートルあまりのその壁は、高貴の視界を塞ぎ、黒コートをその身の向こう側に消してしまう。
それがどうした。エイルだって壁どころか学校を壊したんだ。俺だって学校を斬った事がある。そんな小さな壁で―――防げるかよ!
思い切り、光のエネルギーをたたきつけた。
耳を劈く轟音。ドリルで金属に穴を開けているかのような音が夜に木霊していく。目の前に存在する壁のせいで黒コートの姿は見えないが、この向こう側にあいつは必ずいる。この腹立たしい魔力の感じは二度と忘れられそうにはないからはっきりとわかるのだ。
段々とクラウ・ソラスの光が弱くなっていく、しかし同時に紅い壁も削れていく。その証拠に白い光に混じって紅い欠片のようなものが周囲に散っているからだ。
もう少し、本当にもう少しだ。削れ。もっともっと削れ。削って削って削りまくって―――このまま一気にぶち壊せ!
「う……おお――――っ!!」
がしゃあん!! と、ガラスの砕けるような音があたりに響き渡った。紅の障壁は白き光によって粉々に砕け散り、その向こうに黒コートの男が立っている。
それは破壊というよりは、相殺という表現が正しい。赤い壁が砕け散るのと同時に、クラウ・ソラスの光も消え去ってしまったからだ。高貴の体からさらに力が抜けていく。全ての力を、そして魔力を使い果たしてしまったかのような感覚だ。あと一撃。あと一撃あれば目の前の男に攻撃が届くのに。
表情はわからないが、はっきりと確信できている。黒コートは今驚いていると。きっと自分の出した壁が壊されるなんて少しも思っていなかったのだ。
ざまぁみろ、一泡吹かせてやった。でもせめてもう一撃。まだ真澄を泣かせた分をやり返していない。けどもう力が残っていない。もうここまでか。
「え……?」
そう思った時、体の内から力が溢れてきた。ほんの僅かだが、魔力が体の内から沸いてくる。いや、流れてきている。この感覚を高貴は知っていた。以前も絶体絶命のピンチに陥ってしまった時に、こうして力を貸してくれた存在がいる。
そうだ、俺にはヴァルキリーがついている。
「もういっちょおおおお――――ッ!」
クラウ・ソラスに再び光が宿り、白い光が溢れ出す。《白光烈波》。先ほどよりは威力が弱まっているが、剣を振りおろしていたその体制から、今度は一気に切り上げる。
その一撃を、黒コートはダインスレイヴで受け止め―――
「―――!」
受け止めきれない。衝撃をまったく殺す事ができず、黒コートは後ろに吹き飛んだ。ロングコートの裾の部分が僅かに吹き飛び、膝を地面につきながらなんとか着地する。
「くそっ! これだけやっても無傷かよ」
高貴もその場に肩膝をついた。クラウ・ソラスの光も完全に消えている。高貴の全身全霊を尽くしても、目の前にいる男に肩膝をつかせるのが限界だった。
そう、それが限界だったのだ。高貴一人の力では。
「《土星の陣形》―――展開」
声が、周囲に響いた。
それは今までの激しい戦いとはまったく無縁の、場違いとも思える優しい声。しかし明確な意思を持った力強い声が高貴の後ろから響いてくる。
それと同時に黒コートの男を取り囲むように、無数の銀色の矢が次から次へと出現していく。それはまさに土星の輪のような形に広がり、あっという間に黒コートを包囲して逃げ場を塞いだ。
ああ、そうだった。俺にはヴァルキリーと……スゲー頼りになる幼馴染がついてるんだ。
高貴の後方で弓塚真澄がアルテミスを構えていた。ギリギリと矢を引き、すでに発射の態勢に入っている。
「おあいにく様、矢の雨は地面に落ちても消えたりしない。こういう使い道が残ってるんだから。てゆーか……わたしは自分の受けた借りは自分で返すタイプなの!!」
黒コートは周囲を見回すも、どこにも逃げ道は存在していない。《降り注ぐ月の涙》とは違って、全ての矢が、それも全方位から黒コートに向けられているので回避は不可能。
「言い忘れてたけど、真澄は怒らせるとスゲー怖いんだよ。テメー運がなかったな」
安全圏まで退避した高貴が黒コートに向かって言い放つ。そして―――
「《崩落する土星の輪》!!」
真澄が、黒コート目掛けて矢を放った。それが引き金となったのか、周囲に浮いている銀色の矢が雨霰の如く黒コートに向かって降り注ぎ―――銀の光が弾けた。
光と衝撃の余波を手で遮りながら、そのあまりの光景に高貴は思わずポカンとしてしまう。
「こいつ絶対に俺より強い」
その銀の光の中に、微かに黒い影が蠢いている。しかしそれが見えたのは一瞬のみで、すぐに光に溶けてしまった。やがて銀の光が消え去って、グラウンドに静寂が戻ってくる。光のあった場所には何も残っておらず、黒コートの姿はどこにもない。
「……あれ? コート野郎はどこ行ったのかな?」
真澄が高貴のそばに近づいてくる。
「多分……逃げられた。一瞬黒い影みたいなのが見えたんだ。きっとベルセルクだと思う。きっとベルセルクを呼び出して自分の身代わりにしたんだ」
「マジで? せっかくボコボコにしてやろうと思ったのに」
「まったくだ。まだ一発も殴れてなかったのに……あ、エイルだ」
校舎のほうを見てみると、エイルが高貴たちのほうに向かって歩いてきていた。黒コートがいないという状況をすでにわかっているらしく、急いで歩いている様子はない。高貴と真澄もエイルに向かって歩きはじめた。
「エイル、あのベルセルクは?」
「……ああ、倒したよ」
「エ、エイルさん。何かすっごく疲れてるように見えるけど……」
「あ、もしかして俺のせいか?」
黒コートに対する最後の一撃のとき、高貴は確かにエイルの魔力が流れてくるのを感じた。ヒルドの時もそのせいでエイルが眠そうにしていたことを高貴は思い出した。そしてそれは正しかったようで、エイルが高貴に非難のまなざしを向けている。
「君、いくらなんでもがっつきすぎだ。こんなに激しいのは私も初めてで壊れてしまうかと思ったよ」
「変な言い方すんなよ!! だいたいお前だって俺の魔力使ってるだろ」
「私は君のように考えなしに求めたりはしない」
「だからへんな言い方すんなって! しないでくださいお願いします! 真澄もその冷めた目はやめてくれ!」
「……二人とも、仲いいんだね」
二人のやり取りを呆れながら見ていた真澄がため息を一つついた。
「あ、そうだ。黒コートには逃げられた。まだ一回も殴ってないし、土下座もさせてねーのに」
「ふむ、やはりそうか。しかしあれだけの相手を前にして、全員が無事だった事を考えると私は良かったと思うよ」
「けどやっぱムカつくよなあの黒コート。決めた、家にあるあの黒いコート捨てる。エイルのときといい今のことといい嫌な事しか思い出せない」
高貴の言う黒いコートとは、エイルと初めて会った時に鎧姿を隠す時に着せたコートだ。結構値段も高かったのでお気に入りだったものの、あのコートのせいで高貴はエイルとヒルドの争いに巻き込まれてしまった。さらに今の戦いのコンボで、もうあんなものは見たくもない。
「うーん、でもやっぱり残念だよね。あいつ《神器》持ってたし。二人は《神器》を集めてるから、あいつのもってる《神器》も当然必要だったんでしょ」
「「……あ」」
真澄の言葉に高貴とエイルが数秒考え込み、同時に何かに気がついたような声を発した。
「え、どうしたの?」
「……いや……そういえばあいつ、当たり前だけど《神器》持ってたんだよな」
「ふむ……そう……だな……そうだった」
「なに当たり前のこと言ってんの二人とも?」
「いや、ぶっちゃけるとさ……《神器》の事忘れてた。あいつを殴る事しか考えてなかった」
「……は?」
「私もだ。とにかく真澄に土下座をさせることで頭がいっぱいで、《神器》を取り返すことなどすっかり頭になかった」
高貴とエイルの言葉に真澄が呆然としてしまう。そもそもこの二人の役割は、この町に散らばった《神器》を全て回収する事だ。その《神器》が目の前にあり、にもかかわらずその存在を忘れて真澄のためにこの二人は戦ったという事だ。
嬉しいような、呆れて言葉も出ないような、複雑な気持ちの真澄は、とりあえず深くため息をつくことにした。
「……ま、まぁ過ぎてしまった事は仕方がない。それよりも私達には大きな問題が残っている」
「ああ、確かに」
「そうだよね」
戦いが終わり、全員が無事に済んだにもかかわらず、まだ残っている大きな問題。それは当然あれしかない。三人は一斉に校舎のほうに視線を送る。そこには見事な大穴が開けられていた。呆然とする三人の中で、とりあえずヴァルキリーはこう切り出した。
「これをどうやってごまかすか考えよう」
◇
「あのさぁ、こう見えてお姉さんすっごく忙しいのよ。マジなのよ。不眠不休なのよ。そこんとこ二人ともわかってる? なのになんで学校壊したりしちゃうわけ?」
「……ご、ごめんなさい」
ヴァルキリーが正座でクマのぬいぐるみに説教されているというシュールな光景が、四之宮高校のグラウンドでおこなわれていた。結局のところ、エイルが直せない以上学校の破損をごまかす事などできるはずがなく、できることといえばクマに直してもらう事ぐらいだった。しかしクマは今ヴァルハラに帰っており、こちらに来るには《神器》の力を使うしかない。しかしそれはむやみにやっていい事ではないらしく、予定では明日帰って来るはずが、一日早まっただけなのだが、それでも大目玉を食らってしまったらしい。
「だいたいどうしてよりによってエイルが壊すわけ? この学校はぶっ壊れる宿命にでもなってるの? どうなの死ぬの? なんでお姉さんがいちいちレーヴァテインのご機嫌取りしなくちゃいけなかったの?」
「……ごめんなさい」
うわぁ、エイルが敬語で謝ってる。つーかクマ怖い。背後に本物のクマのオーラが見える。
「挙句の果てに、《神器》をとり返すのを忘れてたって、一体なんのために戦ったわけ?」
「ふむ、それはあの男が真澄を泣かせたから、土下座させようと思ったんだよ……思いました」
「あの……クマさん? そのことについては、あまりエイルさんを攻めないであげてください。元はといえば二人はわたしのせいで目的を忘れてしまったんですから」
さすがにエイルが不憫になってきたのか、真澄がエイルのフォローに入った。
「気にしないでいいのよ人間ちゃん。あなたはこの件に関しては完全に被害者……ってわけでもなくなっちゃったのよね」
「あ、そうですね。これがありますから」
真澄が右手に持っているものをクマに見せる。それは真澄のスマホについていた三日月のストラップ、《星弓アルテミス》だ。先ほどまで弓の形になっていたものだが、戦いが終わって今はストラップの形に戻っている。
「てゆーかそれが《神器》だったのかよ。いくらなんでも予想外すぎだろ」
「うーん、今は特別な魔力どころか、魔力自体を感じないわ。冬眠状態とか、仮死状態みたいなものかもしれないわね。ちなみにそれはどこで手に入れたの?」
「えっと、知人のお店で買ったんです」
「……は?」
「いえ、ですから。お店で買ったんです。380円で」
唖然。それ以外のどんな言葉で今のクマの気持ちを表現できるというのだろう?
「ちょ、ちょっと待って。店で買った? なにそんなゲームの鉄の剣みたいな感じで買えるわけ? しかも380円? ヴァルハラでは《神器》に値段なんて付けられないのに……そ、そもそもどうしてそのお店の売り物になってたの?」
クマの質問に「少し待ってて下さい」と言って真澄が目を閉じた。おそらく心の中で《神器》と対話をしているのだろう。しかしそんなに簡単にできるのだろうかと高貴は疑問に思っていた。自分はいつ試してみても、クラウ・ソラスは何も応えてはくれないのだから。
「えっとですね。美月さんのお店に売り物になったのは偶然だそうです。前の持ち主の所から逃げ出してきて、適当にさまよってたら美月さんの小物入れの中に入っちゃったみたいで、それを美月さんがストラップにして売り物にしたみたいですね。と言っても紐をつけただけみたいですけど」
案外あっさり対話できたらしい。
「もしかして美月さんって《神器》の持ち主なのか」
「いや、それはあまり考えられないな。わざわざ手に入れた《神器》を売り物などにして手放すとは考えにくい。しかも380円でね。待てよ、もしくは《神器》だということに気がつかなかったという可能性もあるか」
「ちょっと待ってね……美月さんは多分《神器》の存在なんて知らない一般人だってアルテミスが言ってる。《神器》の中にはアルテミスみたいに、休眠状態のときに別のものに変化するものもあるみたいです。使用者の呼びかけに応えて戦闘状態に移行するらしいよ」
「アルテミス? それって確か実在する女神の名前ね。もしかしてその弓ってアルテミスの弓なのかしら?」
「……そうみたいです。自分の名前は女神アルテミスが自分の名前とってつけたと言ってます」
「ふーん、その女神ってどんな女神なんだ?」
「ふむ、ギリシャに実在する月の女神だよ。ギリシャの法律に一妻多夫制を付け加えた事で有名だな」
「その法律を自分自身で体現する為に、男を囲って暮らしてるって話よ。しかも子沢山ですって」
ただのビッチじゃねーのか?
「って待てよ、じゃあそれってギリシャの《神器》なのか? だったらもしかして……」
高貴が何を考え付いたのかエイルとクマも理解したらしく、二人そろって真澄の顔を見上げる。
「真澄、アルテミスを以前持っていたという人物が誰だか聞いてみてくれないか。それはもしかして私達の探していた《神器》かもしれない」
「え、いいけど。……その……身長とおっぱいの小さいヴァルキリーらしいけど……」
「あいつだ」
「ヒルドだ」
「ヒルドね」
コンマ一秒のずれもなく三人だ同時に口を開いた。特徴としては十分すぎる証言だ。と言う事は、ヒルドがなくしてしまったギリシャの《神器》というのは、今真澄の手にある《星弓アルテミス》で間違いないということだろう。エイルが笑顔を浮かべて、正座をしながら喜びだした。
「クマ、早速連絡しよう。ヒルドの失くした《神器》が見つかったから、ヒルドのお仕置きを軽くしてほしいとな」
「いーけど、なんか思ってたよりもあっさり見つかったわね。こういうのは残り一日になってギリギリで見つかるってのが定番じゃないの? 空気読んでよ人間君」
「テメーは最悪だな」
人の命を何だと思ってるんだこのクマは。つーかエイルはその事を知らないんだからむやみやたらに言ってんじゃねーよ。
「さて、とりあえず人間ちゃん、今はまだアルテミスを持っててもいいけど、多分ギリシャから申請が来ると思うから、その時は悪いけどアルテミスを返してもらう事になると思うわ」
「あの……その事なんですけど、私もエイルさんと高貴を手伝っちゃ駄目ですか?」
真澄の言葉に一瞬だけクマの身にまとう空気が変わった。高貴とエイルの表情もいささか険しいものとなる。
「ねぇ人間ちゃん、それ本気で言ってるの? これからも危険に巻き込まれるって言う事なのよ。その覚悟があるの?」
「はい、あります。アルテミスにも同じような事を言われました。でも友達が危険な目にあってるのに、何もできないなんて嫌なんです。友達とは同じ所に立っていたいじゃないですか。それに―――」
「それに?」
「……こう言ったらなんですけど、この二人に任せとくのが不安になってきたんです。いつまでたっても四之宮が危険なままになるんじゃないかなって」
「おい、なに言ってんだ真澄!」
「わ、私はヴァルキリーだぞ!」
「実はお姉さんも同じ事思ってたのよ。ギリシャの許可が下りたら、アルテミスはそのまま使ってもらって構わないと思うわ」
「クマ! テメーもか!」
「私はヴァルキリーだぞ!」
高貴とエイルがどんな反論をしても、真澄とクマの意見はまったく変わらないらしい。そもそも《神器》の持ち主が目の前に現れたにもかかわらず、回収する気がなくて戦っていた等と言ってしまっては仕方がないだろう。しかしそこが高貴とエイルのいいところであることもちゃんと真澄は理解している。
「今聞いた趣味の悪い黒コートの男については、こっちでもいろいろと調べてみるわ。といっても反応はすぐに消えたし簡単にはいかないだろうけど。ダインスレイヴのことも一応調べられるだけ調べてみないといけないし……あ、その前に学校修理しないといけないわね。はぁ、お姉さんマジで忙しい。少しはお姉さんを癒してよ人間君」
「悪いけど俺ぬいぐるみの癒し方とか知らないから」
「思いっきり踏んでくれるだけでいいわ!」
しばらくクマに触るのはやめておこうと高貴は固く誓った。
「まぁ、あれだよな。そんなに忙しいにもかかわらず、学校直すためにすぐに来てくれたことにたいしては感謝してるよ」
「ぶっちゃけちゃうとめんどくさかったんだけどね。でも極力この世界を優先するようにって言うのが上の判断なのよ。そうでもなかったらこの町全部焼け野原にしてでもさっさと《神器》を集めたほうがいいに決まってるわ。それでもいいのなら上のほうにそう提案するけど」
「「やめてください!!」」
高貴と真澄の必死の言葉に「そうでしょ」とすました顔? でクマが答える。しかし今いった事を実行すれば、《神器》は簡単に回収できるにもかかわらず、それを実行しないということは、ヴァルハラは四之宮の事を確かに優先的に考えてくれているようだ。
ふと真澄のほうを見てみると、彼女はなにやら考え込んでいるような表情を見せている。
「真澄、どうかしたのか?」
「え? あ、別になんでもないよ。ただアルテミスって月の女神なんだなって思って」
「ああ、そうらしいな」
「うん、月の女神……月の女神かぁ……なんだか悪くないね」
なぜだか知らないが、真澄はどことなくうれしそうな表情になっている。別に自分が女神になったわけでもないのに、どうして喜んでいるのかが高貴にはわからなかった。そもそも真澄は月の女神だなんて呼ばれても喜ぶとは思えないのだが。そんなことを考えていると、何故か真澄とは対照的に不機嫌そうな表情でエイルが高貴を見あげている。
「どうかしたのかエイル? 正座が辛くて不機嫌ならそろそろ立ってもいいと思うけど」
「……なんでもない」
「いや、そうは見えないけど」
「なんでもないと言っているだろう。月館高貴君」
「なんでフルネーム?」
相変わらず正座のまま不機嫌そうにしているエイル。そんなに辛いならさっさと立てばいいのに。そんな二人のやり取りを、なぜだか楽しそうにクマが見ていることに高貴は気がつかなかった。
「よし、じゃあ帰るか。あ、夕飯の弁当も買ってかないと……財布もって来てねーや」
「任せろ高貴、私のおっぱいの谷間には常にブラックカードがはさんである」
「コンビニでそんなもん使うな! つーかそんなところにしまうな!! バカかお前は!?」
「バカではない、私はヴァルキリーだ」
「……エイルさん、それ好きだね。てゆーか見たいドラマがあったのにもう始まってるかも。こんな事なら録画しておけばよかった」
真澄がため息を一つついた。ついさっきまで生きるか死ぬかのレベルの戦いをしていたにもかかわらず、そんな日常的なことを気にする事ができるとは、真澄は案外大物なのかもしれない。
「真澄、9時からのドラマなら私が録画をしている。何ならこれから家に来て一緒に見るか?」
「え、いいの? 行く行く」
「おい、俺んちだからな」
「細かい事気にしないの、お姉さんも学校直し終わったら家帰るから、お菓子の準備でもして待っててね」
「だから俺んちだからな!」
もはや完全に高貴の部屋を自分の部屋だと思い込んでいるヴァルキリーとクマに、高貴の声はまったく届く事はなかった。もはや半分諦めムードで、せめてもの仕返しに高い弁当でも買ってもらおうなどと考えながら高貴は校門に向かって歩き出す。真澄もその後ろに続いたが、エイルは正座したまま一向に立ち上がる気配はない。
「エイルさん、どうしたの?」
真澄が声をかけると、エイルは少し照れるように苦笑した後、弱々しく口を開いた。
「……足が痺れてしまったらしい」
――――――ヒルド・スケグルの処刑まであと三日(まだ報告していない為)