怒涛の連続だった日の翌日の午後2時。補習を終えた高貴は、マイペースでアルバイトに勤しんでいた。
いつもならばエイルやヒルドも一緒に来るのだが、二人は《神器》を探すために町を歩いている。昨日ロスヴァイセからの連絡を受けてやる気になったのか、はたまた恐れているのかは不明だ。
故にマイペースにいるのは高貴と真澄、そして詩織のみ。
もっともそれは働いている人物(ヴァルキリーたちはそもそも客だが)という意味であり、今日のマイペースにはちゃんとした客も来ていた。
来ていたのだが……その客は高貴にとって、あまり歓迎したくはない客なのだ。
「……今日はもう帰るよ」
その客……赤倉優がカウンターの席から立ち上がる。
1時間ほど前に赤倉はマイペースにやってきて、コーヒーを頼んだきり今日は大人しくしていた。前のように怒鳴ることはなかったので高貴達も何もいわなかったが、やはり高貴も真澄も彼を好きにはなれないらしい。
「今日みたいにコーヒーを飲みに来てくれるならいつでも歓迎するわ」
ニコリと詩織が笑いかけて赤倉を見送った。その優の背中に高貴と真澄は「二度と来るな!」と怨念を送ったのは言うまでもない。
「……はぁ、やっと帰った。あいつがいると店の雰囲気が悪くなる」
「同感。前みたいに怒鳴るんじゃないかってかなりビクビクしちゃうよ」
「二人とも心配しすぎよ。赤倉君は元々温厚な人なんだから」
赤倉のカップを片付けながら詩織が苦笑する。
「確かに今日は大人しかったですけど……詩織さん、あの人わたし達がいないときに来て怒鳴ってたりしませんか? もしそうならわたしたちでやっつけます」
「たしか赤倉君ケンカ強いわよ?」
「大丈夫ですよ。な、真澄」
高貴の問いかけに真澄がうなづく。《神器》持ち主となって身体能力が上がっている二人ならば、確かにケンカが強いという赤倉にも勝てるだろう。
そんなことを考えていると、カランカランとドアのベルの音が響いた。客が入ってきたようだ。
すぐさま高貴が接客に向かう。
「いらっしゃいませ……あ」
入ってきた人物を見て、高貴は思わず接客の対応を忘れそうになってしまう。入ってきたのは高貴のよく知る人物だったからだ。
入ってきたのは、高貴よりもかなり年上の男性だ。昨日あった静音の父よりももう少し年上で、初老と言っても差支えがないかもしれない。スーツを着こなして、眼鏡をかけた落ち着いた風貌の人物だ。
「こんにちは高貴君、久しぶりだね。元気そうでなによりだ」
「はい、里中先生もお元気そうですね」
里中と呼ばれた人物は、高貴に笑顔を返すと中に入ってくる。通いなれたようにカウンターに腰を下ろした。
「やぁ、詩織ちゃんに真澄ちゃん。久しぶりだね。なかなか顔を出せなくて申し訳ない」
「前に来たのって……春ごろでしたっけ?」
「てっきり忘れられたのかと思ってました」
「はは、そんなことはないんだがね。カフェオレをもらえるかな」
詩織がカフェオレの準備を始める。
里中。本名は里中修一。四之宮の住宅街にある四之宮病院に勤めている医者だ。住宅街にある病院は都心にある病院よりも、四之宮に住んでいる人にとっては身近であり、里中自身長く努めているということも会って、住宅街に住む人は里中を知っているものが多い。
高貴達もその一人であり、病院では世話になっている人物だ。
「二人とも、今は学校は夏休みだろう。なのにアルバイトなんて精が出るね」
「まぁ、俺は特にやる事もないんで」
「わたしはここが好きですし」
「そうか、私もマイペースは好きなのだが、なかなか時間が取れなくてね」
「仕方ないですよ。里中先生はお医者さんですし。本当にさっきの医者とは大違い……」
「ん? 誰か医者が居たのかな?」
真澄の小さな声に里中が食いつく。
「赤倉とかいうやつが来てたんですよ。でもなんかあの人苦手っていうか……」
「ほう、優君か。彼は将来優秀な医者になると思うがね」
「知ってるんですか?」
「ああ、彼は元々四之宮病院に勤めて居たんだよ。けど中央病院に移動したんだ。というのも私が推薦したんだけどね。彼はまだ若い。それに向上心もあったから、いろいろと設備の整った中央病院のほうが彼のためになると思ったんだ」
どうやら里中は赤倉の事をかなり評価しているようだ。高貴と真澄は赤倉はともかく里中の事を嫌いではないので、そう言われると複雑な気持ちになってしまう。
「中央病院に行った当初は、こまめに近況の報告をくれたんだが、最近はめっきりでね。彼もやはり忙しいんだろう」
「はぁ? 世話になった里中先生にたいしてどういう態度とってるんですかあいつ」
「やっぱダメですよ。あの人嫌いです」
「い、いや……なにも義務付けているわけではないし、別に構わないんだよ。ただ何かあったんじゃないかと心配でね。中央病院の知り合いとも話したんだが、彼はあまり評判がよくないそうなんだ。真面目だからそんなことはないと思うんだがね……」
「いやー妥当な判断ですよ。あいつ性格悪そうだし。つーか先生に心配かけてる時点でダメっすよね」
高貴の言葉にやはり里中は苦笑いになる。
「エイルとヒルドも居ればよかったんですけどね。先生に紹介したかったですし」
「ん? 聞かない名前だね。それに日本人とも思えないし……外国人かハーフの人かな?」
「外国人ですよ。もし機会があったら紹介します」
今はどこぞをほっつき歩いているだろうから無理だろう。《神器》の手がかりが見つかる事を高貴はとりあえず祈っておいた。
◇
「ネコ、私は思いちがいをしていたのかもしれない」
エイルは四之宮公園のベンチに座ったままため息をこぼした。その膝の上にはネコが座っており、エイルの手は優しくネコを撫でている。
「なーにがぁ? よくわかんないけどお姉さん的には気にしなくていいと思うわよ」
ネコはあくび交じりに返事をする。撫でられているのが気持ちがいいのか、心なしかうれしそうな表情だ。
「私は高貴とすごして、彼のことを少しは理解できたつもりでいたんだが……それは間違いだったのかもしれない。彼のご両親が亡くなっていたということを、私は昨日初めて知ったんだ。ヒルドですら知っていたようなことにもかかわらずだぞ。どうして付き合いの短いヒルドは知っていて私は知らなかったのだろう?」
「会話の流れとかで言っちゃったんじゃないの? そんなの気にしなくていいじゃない。《神器》探すのに身が入らないのもそれが理由?」
エイルのネコを撫でる手がピタリと止まる。その動きはすぐに再開されたが、ネコの指摘が正しい事を意味していた。
「ふむ……私はヴァルキリーなのに、こんな事ではダメなんだがな。しかし高貴のことといい、そして昨日の静音のことといい、私はもう少し他人を理解したほうがいいのかもしれない。昨日高貴は巌さんの話を聞いて不審に思ったらしいが、私は何も思わなかった。そして静音の気持ちも考えずにアイギスを回収しようとしてしまったからな」
「ヴァルキリーとしては正しいんだけどねそれ。《神器》が最優先。まぁ四之宮の市民の安全と魔術の隠蔽も優先事項だけど。《神器》探しに身が入らないのもそれが原因なの?」
「ふむ……確かにそうだ。しかしこれではサボっているのと同じようなものだな。ヒルドに申し訳がない」
「ヒルドだったら都心で買いものしてると思うわよ。ほしいものあるって言ってたし」
「……今日は攻められないな」
もう一度ため息をついてエイルは空を見上げる。空は雲ひとつない晴天だ。真夏の太陽の日差しがかなりきつく、うっすらと汗もかいてきている。
「はぁ……静音はどうして《神器》を手放したくないのだろうな……」
「猫に向かって話しかけるなんて、はたから見たら不審者以外の何者でもないわよ」
「「…………え?」」
重なる疑問符。その声は唐突に聞こえてきた。エイルの声でもなく、ヒルドの声でもない声が、すぐ近くから聞こえてきたのだ。
そして、変化も唐突に訪れた。自分の座っているベンチ、そのすぐ横が蜃気楼のように揺れているのだ。
「な、なんだ!?」
「魔力!?」
エイルとネコが慌ててその場から離れる。蜃気楼がゆっくりと収まっていき、今までそこには居なかったはずの人物が、ゆっくりとその姿を現した。
「……し、静音?」
そう、音無静音だ。制服姿の彼女は、ベンチに座ったまま本を読んでいる。
「い……いつから……」
「最初からよ。私がここに座って本を読んでいたらあなた達が来たの」
「魔力……感じなかったけど」
「アイギスの結界よ。動けないけど魔力を完全に隠して、なおかつ自分の姿を隠せる。もっとも使ってる間は動けないけど」
エイルとネコの疑問に淡々と静音が答える。静音の指にはアイギスがはめられており、魔術を使っていたと言うのは本当のようだ。
「ここはあまり人が来ないから私のお気に入りなのよ。でも最近はよく人が来るわ。今日のあなた達、この前の月館君たち……それに弓塚さんを守ってベルセルクと戦ってたりもしたわね」
「真澄を……もしかして真澄に魔術の存在がばれてしまった時か? ではあの時私が感じた見られているような感じは君だったのか」
「それに……ベルセルクはよくここに出没してたみたいだけど、もしかしたらおっぱいちゃんが居たからかもね」
「どうかしらね」
そうはいうものの、静音は肯定しているようなものだ。しかしまだ謎は残っている。
「静音……どうして私たちの前に姿を現した? 無視することも出来たはずだ」
「……時間がないからよ」
パタンと、静音が本を閉じる。
「本当は昨日で最後だと思っていたわ。アイギスをあなたたちに回収されてね。でも昨日の月館君のおかげでもう少しだけ時間ができたみたいね」
「時間とはどういう意味だ?」
「……あなたならわかるでしょう? 同じことをしたのだから」
「ふむ、すまないがわからな――」
瞬間――静音のアイギスに光が灯る。それだけではなく、静音の魔力が高まっていく。
身の危険を感じたエイルは、とっさに一歩後ろに下がった。
「エイル!」
「わかっている。来い、契約の槍!」
反射的にエイルが槍を手にする。同時にネコも動いた。長い茶色の尻尾、その先に茶色の光が灯る。
「《ᛟ》、《ᚺ》、《ᛈ》、バインドルーン・トライ――《おぼろげな世界》」
描かれた三つのルーンが、地面と空中に溶けていく。四之宮中学校の時と同じように、この公園一帯に人払いの結界を張ったのだ。
「――戦うつもりか?」
エイルが静かに静音に言い放つ。
「ええ――そのつもりよ」
静音も静かにそれに答える。
「ふむ、理由がわからない。私としては君とは戦いたくはない。それに戦う理由自体――」
「私にはあるわ」
言葉は遮られた。静音の顔には一切の迷いがない。そして、明確な敵意がエイルに向けられている。普段は表情を崩さず、感情を表に出さない静音が、明確な敵意を、はっきりとした怒りをエイルに向けている。
「私は君に恨まれるような事を何かしてしまったのだろうか?」
「……いいえ、特には。ただ――」
静音がゆっくりと、右手を前に伸ばした。
「あなたのした事が――気に入らないのよ!」