目覚めは極めて平凡だった。
目覚まし時計代わりとしてスマホに設定してあるアラーム音の音で、いつもどおり高貴は目を覚ました。時刻を確認すると、液晶画面には7時10分と表示されており、間違いなくいつも起きる時間だ。
ただ一つ違うところがあるとすれば、エイルの寝ているベットの上にハンモックが取り付けられており、そこにヒルドが寝て―――
「……あれ?」
いない。ハンモック自体はかけられている。昨日クマが取り付けたものだ。正直紐が切れないか心配で、高貴にはとてもではないが使用できそうにない。しかしきっと大丈夫なのだろう。昨日はそこにヒルドが眠っていたにもかかわらず、今は姿がどこにも見えない。体にかけていたであろうタオルケットが乗っているだけだ。
ふと、台所のほうでなにやら物音がしていることに気がついた。もしやと思いリビングのドアを開けると、ヒルドはすでに起きておそらくは朝食の準備をしている。高貴に気がついたヒルドと視線があう。
「目覚まし見たいな音が鳴ったと思ったらやっと起きたのね。朝ごはんもうすぐできるから、あなたも運ぶの手伝いなさい」
「……おはよう。つーか何時に起きたんだ?」
「6時半よ。ついでに冷めないうちにエイルも起こして―――ああ、そういえばエイルは寝起き悪いのよね」
「あいつの寝起きの悪さ知ってんだな。俺できれば近寄りたくないんだけど。最近は《ᛇ》で防いでるんだけど、この前なんて槍出して突き破ろうとしてきたんだよ。」
「……あたしだって被害を何回も受けたわ。こんなか弱いヴァルキリーに寝起きの猛獣の相手をしろっていうの?」
猛獣扱いかよ。間違ってないけど。
しかし確かにヒルドのいうことも一理ある。以前は抱きついてくるだけの役得、もとい迷惑な行動だけだったが、最近は《ᛇ》の壁を破ってでも抱きついてこようとする場合も多い。ヒルドがか弱いとは思えないが、朝食を作ってもらったにもかかわらず、エイルを起こす役まで任せるのは気が引ける。起きるまで待とうにも、朝食が冷めてしまうかもしれない。
「……ここは間を取って二人で行こう」
「いやよめんどくさい。あなたが行きなさい。別にエイルと二人で朝からサカってもあたしは気にしないわ」
「いや、そんなことしないから」
「……もしかしてあなたって不能なの?」
「ちげーよ!!」
「はぁ、いいわよもうあたしが起こすから。だいたい抱きつかれるくらいで喜んだりするほど子供じゃないし」
「俺だと性別的な問題があるだろーが。まぁ任せた」
ブツブツと文句を言いながらヒルドがコンロの火を落とした。一度手を洗い、かけてあるふきんで手を拭いてからエイルの寝ているベットに向かう。
「だいたいアラームなったのになんで起きないのよこいつ。普通はあれだけ大きな音が鳴ったら起きるでしょうに。エイル、起きなさい。てゆーか起きろ。朝ごはんが冷めるでしょ」
エイルの体を揺すりながらヒルドが何度も呼びかける。
「こいつ、頭に水でもぶっ掛けてやろうかしらね」
「いや、部屋が水浸しになるから―――」
やめてくれ、と高貴がヒルドに言おうとした瞬間に、突然エイルが飛び起きた。あまりにも一瞬の事で、ヒルドはかわすこともできずにエイルに思い切り抱きつかれてしまう。
「こ、こらあっ、もう!!」
「ヒルドおはよーっ! きょーもあいかわらずちっちゃいねー。きゃはははは」
「ブッ殺すわよ! てゆーかあんた寝た振りしてたわね!」
「ちがうもーん、いまおきたんだもーん。こーきもおはよー」
「ぱ、パジャマ! ちゃんと着ろ! 肌が! 谷間が!」
エイルの着ているパジャマはやはりいつも通り着崩れており、高貴はエイルを直視できない。
「いいから離れろっつーのこのねぼすけ! あとさっさと顔洗ってきなさい、ご飯が冷めるわ」
「ごはん? うん、エイルおかおあらってごはんたべる。こーきてつだって」
「顔ぐらい一人で洗え!」
「ちがうもん。おきがえ」
「一人でやれ!」
「じゃあと―――」
「一人でやれ!」
最後の一つはなにを言おうとしたのかは気かないほうがいいだろう。何だか大切なものを失ってしまう気がするからだ。ヒルドが力づくでエイルを引き剥がすと、エイルは「みんなけなんだからぁ」などと言いながらしぶしぶ顔を洗いに洗面所へと向かって行った。その途端に今までまったく動かなかったクマのぬいぐるみが動き始める。
「ふぅ、助かったわ。お姉さん今日はエイルのタオルにならなくてすみそう」
「クマ……テメー見てみぬ振りしやがって」
「人間君はしっかり見てたわよね、いろいろと」
「う……」
「やっかいごとは片付いたし、ご飯運ぶわよ。クマはハンモック折りたたんどいて」
クマが「はいはーい」と返事をしてハンモックを片付け始めた。エイルの事を見てみぬふりをした手前、今はヒルドには逆らえないようだ。
「よくあんな不安定そうなので眠れるよな。俺だったら怖くて眠れない」
「慣れれば平気よ。むしろあたしは慣れすぎてベットのほうが落ち着かないくらい」
「ふーん……」
「わすれものーー!」
突然エイルが叫びながらリビングに戻ってきた。幼児化が解けていないところを見ると、おそらくまだ顔を洗っていないのだろう。なので相変わらずパジャマは着崩れており、慌てて高貴は視線をそらした。
「どうしたのよ? 早く顔洗ってきなさい」
「エイルわすれものしたの。たおるもってくのわすれたの」
タオルは洗面所にかけられているのだが、エイルは見つけられなかったのだろうか。その疑問はすぐに解けた。エイルはベットの上のハンモックをはずしているクマに背後から近づいていき、その首根っこを右手で掴んで捕獲した。
「くまちゃんたおる! エイルね、いつもこのたおるでおかおふきふきしてるの」
「え、エイルちゃ~ん、お姉さんはタオルじゃな―――」
「じゃあしゅっぱ~つ」
クマを捕獲したエイルは、満足げな表情でもう一度洗面所に向かって行った。哀れクマ、きっとこれからもエイルのタオルになる運命なのだろう。まぁ、別に気にするほどの事でもないので、高貴はとやかく言うつもりはない。
「なぁ、純粋な好奇心で聞くんだけどさ、ハンモックって夏場はタオルケットでも大丈夫だろうけど、冬とか寒い時期になったら毛布と布団をかけて寝るのか?」
「基本的に冬場にハンモックは使わないわね。体が冷えやすくなるから。使うにしても普通の毛布や布団だと寝にくいから、そこのところは工夫が必要よ。でもあなたが冬の心配なんてする必要はないわ」
「なんでだよ?」
そう聞き返す高貴に対して、朝食を運びながら済ました顔でヒルドは声を響かせた。
「冬になるころには、きっとあたしもエイルもこっちの世界にはいないからよ」
◇
授業が全て終わり、ホームルームの挨拶もたった今終わった。今日はマイペースでのアルバイトはなく、エイルと真澄はすぐに下校した。ヒルドは学校には通うことはないと言っており、エイルが学校に行っている間は家でドラマを見ているか、今まで《神器》や魔力の反応があったところを回っているらしい。今も外を出歩いているようなので、二人はヒルドに合流すると言っていた。
アルバイトはないと言っても、高貴は今日は図書委員の仕事がある為にすぐに帰る事はできない。教室でエイル達と別れて、高貴は俊樹と一緒に職員室へと向かって行った。俊樹は図書委員ではないが、図書室で勉強をするらしい。その前に各科目の教師に、どこを重点的に勉強すればいいのかなどをダメもとで聞いてみるそうだ。
「にしても珍しいな、俊樹が図書室行って勉強なんてさ。別に家に帰ってでもできるだろうに」
職員室に向かう道中、高貴が横を歩く俊樹に話しかける。俊樹は時間が惜しいのか教科書を手に持ち、それに視線を落としたまま応えた。
「家に帰ると誘惑が多いんだよ。漫画とかゲームとか部屋の掃除とか。だから学校でやっておこうかと思ったんだ」
「ふぅん、そうなんだ。まぁ確かにその気持ちはわかるかな。テスト前って部屋の掃除がはかどるし」
「高貴はそれでいつも点数がいいよな。俺にも少し分けてくれよ。今回のテストは絶対に全部95点以上とらなくちゃあいけねーんだ」
「……詩織さんとのアレか?」
ハッとしたように俊樹が教科書から視線を上げて高貴を見る。
「ま、まさか……高貴もか?」
「ああ、俺もだ。男には命を懸けてでもやらなくちゃいけないことがある……お互いがんばろうな」
「……OK、揉む時は一緒だぜブラザー」
「いや、俺は一人でじっくりがいい」
「確かにな」
そう言いながら俊樹は再び教科書に視線を落とす。そこまで一生懸命になってでもその頂きをつかみたいという気持ちは高貴にも理解できた。しばらく歩いて、二人は職員室の前にたどり着いた。
「じゃあちょっと行って来るから待っててくれ」
「ああ」
俊樹が元気良く「失礼しまーっす!」と声を出して職員室に入っていった。高貴は壁にもたれかかって俊樹を待ち始める。テスト範囲は公開されているが、その中でもさらに少しでも絞り込めるなら自分も教えてもらいたいくらいだ。
成績は平均よりも上とは言っても、全ての教科で95点以上というのはかなり厳しい。さらに帰ったら、誘惑というよりもヴァルキリーが二人とぬいぐるみもいるので、勉強できる自信などまったくない。そうなると俊樹と同じように、図書室で勉強するしかないだろう。図書当番をしながらでも勉強はできる。
しかしそうなると《神器》探しのほうがおろそかになってしまう。今日は図書当番があるとはいえ、エイルたちに全て任せきりになってしまっているのだから。ヴァルハラから急かされているわけでもないが、早く集め終わったほうがいいのは確かだろう。平穏がその分早く帰って来る。相変わらず悩みは多いが、取り合えず目の前のことからやっていくしかないだろう。まずは図書当番だ。
「失礼しました」
職員室の扉が開いて誰かが出てきた。しかし俊樹にしては速すぎるし、何よりも声は女のこのものだ。誰かと思って視線を向けると、そこには沢山の本を両手で抱えて……抱えすぎていて顔が見えない誰かが出てきた。その人物を見たことのある女性の教師が心配そうに見ている。図書室の司書をしている山本先生だ。
「だ、大丈夫音無さん? やっぱり手伝うわよ」
「いえ、平気です。扉だけ閉めてください」
「そ、そう。じゃあお願いね」
そう言って山本先生は職員室の扉を閉める。出てきた少女は、どこかフラフラした頼りない足取りのまま、しかもおそらく前も見えないままゆっくりと歩き出す。その様子を高貴はポカンとした表情で見ていた。というよりも、今の声には聞き覚えがある。
「今の……音無か?」
高貴と同じクラスで、さらには隣の席で、さらには委員会も同じ図書委員の音無静音。今でてきた少女はおそらく、いや、間違いなく彼女だ。いつもは機械のように正確に歩く彼女だが、今の足取りは転んでしまいそうなくらい危ない。そもそも前が見えていないだろうから、まともに歩けるわけがない。いくらなんでも本を高く積みすぎなのだ。足だけではなく腕も僅かに震えている。
体がゆらゆらと揺れ、長い黒髪がゆらゆらと舞い、手に持つ本はグラグラと崩れてしまいそうだ。
「ったく、あれじゃあぶねーだろ」
高貴はもたれかかってた壁から離れると、少し足早に静音に近づいていった。
「音無」
名前を呼ばれたためか、静音の足が止まった。その隙に正面に回りこみ、静音の持つ本の山を上から8割ほど有無を言わさずに奪い取る。本の向こう側で少し驚いたような表情の静音と目があったが、そのフレームレス眼鏡の奥の目はすぐにいつもの無表情なものへと変わった。
「手伝う」
「結構よ、本を返して」
「あのさ、一人であれだけ本を持つのって危ないから。前見えてなかっただろ?」
「平気よ」
「本落として破けたらどうするんだよ」
「……今日はやけに押しが強いわね」
「山本先生に頼まれたんだろ? 忘れてるかもしれないけど、俺も図書委員だからな。仕事はしっかりしねーと」
「……」
静音がいったん言葉を切った。高貴と静音は特別に仲が良いわけではない。むしろ隣の席にもかかわらず、図書委員の仕事に関する会話意外話すこと自体ほとんどない。それは静音があまり他者と関わらないように生活していることを高貴が理解しているからで、無理矢理仲良くなろうとは高貴は思わないからだ。そんなものはラブコメの主人公にでも任せておけばいい。
しかし委員会の仕事となると話は別だ。図書委員である静音がやっていることなのだから、自分にもやる責任はある。というのが半分の理由で、単純に女の子一人で運ぶには大変そうだったからという理由は言わないほうがいいだろう。静音は他人と関わらないタイプだが、他人に迷惑をかけるタイプではなく、クラスの仕事や委員会の仕事はキチンとこなしているため、委員会の仕事だから手伝うといったほうがいいだろう。
「……はぁ、わかったわ。図書室までよ」
「オッケー、行こう」
ようやく折れたのか、静音がため息を一つついて歩き出した。その隣を高貴が歩き始める。
「ところで、かっこよく本を沢山とったのはいいけれど腕が震えているわよ。少し持ちましょうか?」
「……よ、よゆー」
この本重っ!!
静音は今高貴がもっている量よりも少し多めに持っていたはずだが、ひょっとするとかなり力持ちなのかもしれない。しかし、一度持ってしまった以上静音に返すのは男としての沽券に関わる。だが図書室まで運べないかもしれない。故に高貴は少しズルをすることにした。
集中。意識のスイッチで魔力を切り替える。
魔力を開放することで、今の高貴の身体能力は比較的に跳ね上がっている。それは当然腕力も上がっており、重かった本も今では片手で持てるだろう。もっともちゃんと両手を使って抱えてもってはいるが、腕の震えは止まった。魔術を見せたわけではないし、これくらいなら使っても構わないだろう。
「意外に力持ちなのね」
「まぁ男だから」
「そう、素敵ね」
そんな無表情で言われても怖いだけだよ。そのまましばらく黙って二人は歩く。高貴は沈黙が苦手ではない。静音と一緒に図書当番をしているときなどは、教室と同じように隣に座っているにもかかわらず、会話はまったくと言っていいほどないが、特に気にならない。しかし静音とこんなに話したこと自体が初めてで、どうせならもう少し話してみたいという事もあって、あえて高貴は話題を振った。
「そういえばこの本ってどうしたんだ?」
静音は高貴のほうを向かずに前を向いたままだ。五秒ほどの間隔をあけて静音が口を開く。
「授業で使っていたのを返し忘れたらしいわ。それで図書委員で戻しておいてくれだそうよ」
「山本先生は?」
「ほかにも資料の整理があるそうよ」
「ふーん……あのさ、委員会の仕事だったらちゃんと手伝うから言ってくれよ」
「わかったわ」
こいつわかってねーな。
「それにしても、これで月館君にまた借りが増えたわね」
「え? 俺音無に何かしたっけ?」
「前に図書室でエルルーンさんを追い払ってくれたでしょう」
「……ああ、あの時か」
確か《神器》の事を調べに休みの日に図書室に行った時の事だ。あの時の静音はイヤホンをして音楽を聞きながら本を読んでおり、いかにも話しかけるなというオーラを出していた。しかしそんな音無バリアーをたやすく壊す存在が空気を読まないヴァルキリー。静音に平然と話しかけ、無視し続ける彼女に対して脇をくすぐろうとまでしていた。その後何とか高貴がエイルを連れ去ったのだった。
「あれって借りっていえるのか?」
「私にとっては大きな借りよ」
そこまでして静音は一人で居たいようだ。
「借りが二つになったからそろそろ返さないといけないわね」
「え、いいよそんなの」
―――胸でも揉ませてもらったらどうだ? この娘の乳房はよく実っているではないか。
ん? 何か聞こえた気が……気のせいか。
「私の気がすまないのよ。さっさと借りを返させなさい」
「それある意味脅迫だぞ」
仕方なく高貴は何か考え始める。しかし静音にしてほしいことなど特には思いつかない。そもそも借りの貸し借りを気にするほど親しくもないのだし、やはり気にしないでもらいたいのだが、それは静音が納得しないだろう。もうジュースでも奢ってもらって終わりでも……いや、待て。一つだけあった。
「じゃあさ……」
「なに?」
「……その……勉強教えてくんない? 時間あるときでいいから」
覚悟を決めて言い放つ。静音は知的な見た目に比例して頭がいい。それはこれまでの授業や小テストで判明している明らかな事実だ。そんな静音に教われば、もしかするとテストで目標点にいくかも知れない。
しかし、いくら借りを返してもらうと言っても、そんなに親しくもないただのクラスメイトの勉強など進んでみたいなどとは思わないだろう。だから言葉にするのがためらわれたのだ。静音は前を向いたままずっと黙っている。これはもう無理かと思い、やっぱりいいと言おうとしたその時、
「私は厳しいわよ」
「……え?」
「図書当番なんてやることほとんどないし、今日からでもみてあげられるわ」
「……マ、マジで? ありがとう!」
「廊下は静かにして」
「は、はい」
自分でも予想外だったが、静音の協力はかなり心強い。図書室に着いたらさっそく勉強を見てもらおう。
遠い平穏よりも目に見えるおっぱいをつかむために、必ず目標点を取ろうと高貴は硬く決意した。
◇
「失礼しました!」
職員室から勢い良く俊樹が飛び出してきた。そのあまりのハイテンションぶりに、廊下にいる何人かの生徒は軽く引いている。
テストの重点的なところはいくつか教えてもらえた。普段は勉強をしようとしない俊樹があまりにも必死に頼み込む為、その態度が何人かの教師の心を打ったようだ。
「高貴! 教えてもら―――あれ?」
周りを見渡す。待っててくれるといった友人の姿はどこにも存在しない。
「……あれ?」
嬉しいことがあったにも関わらず、どことなく切ない気持ちになってしまった俊樹だった。