「どうして私の想いは空回りばかりするんだろうな……」
四之宮高校に登校して、朝のホームルーム前。エイルは憂鬱そうな表情でポツリと呟いた。見ようによってはそれは、まるで恋わずらいにでも陥っている少女のようにも見えるが、当然エイルの悩みは恋ではない。
「高貴、どうして私のこの気持ちは実らないのだろう?」
「バカだからだろ」
即答する高貴に、エイルが机に突っ伏す。
鈴木との戦いから三日がたった。つまり今日は、四之宮高校の夏休み前の実力テストの日だ。今日と明日で全てのテストが終わり、土日をはさんで月曜日に答案が返される。
高貴は幸い大きなケガなどはなく、ネコの《ᚢ》のルーンで一日ほどで完治した為、テスト勉強にはそれほど影響が無かった。
何より静音があの日の戦いの事など無かったかのように普通に振舞っており、高貴のテスト勉強もこれまでどおり見てくれていたのだ。借りを返すためなのか、はたまた別の理由があっての事なのかは判断できなかったが、高貴にとってはありがたい話だ。
今も隣で教科書を開いている。
「エイル……まだ始まってないんだから、そんなに気を落とさないでよ」
「……私はこう思う。若者達の夢を無残に踏みにじろうとする悪意が、数学というものにはこめられているんだ。この拷問のせいで、一体どれほどの未来ある若者が夢をあきらめる事となったのだろう。私は数学を許せそうに無い」
「お前がバカなだけだっての。その数学のおかげで点数稼げる奴も世の中にはいるんだからさ」
そうエイルに返すと、エイルは恨めしそうな顔で高貴をにらめつける。
「ずいぶんと……君……冷たいじゃないか。君はいいだろうさ、静音に手取り足取り教えてもらえて楽しかっただろうさ」
「お前うるさいから帰れって言われてたろ」
「ま、まぁ頑張ろうよ。ほら、俊樹も――」
真澄が隣に座っている俊樹を見ると、彼は凄まじい形相で教科書やテスト範囲のプリントを見ていた。まさに鬼気迫るといった様子であり、真澄の声が届いたのかも定かではない。
「俊樹はやる気に満ち溢れているな」
「珍しいね。いつもは平均点行けば満足って言って、ちょこっとやるくらいなのに」
「……そうだな」
まさか詩織の胸を揉む為にがんばっているなど、エイルと真澄に言える訳がない。それは高貴も同じこと。今回のテストで全て95点以上取れば、詩織の胸を触ることが出来ると思うと、自然とやる気が満ちてくる。
というよりもそのために静音のお願いしてまで頑張ってきたのだから。
「はぁ……私はなんてダメなヴァル……女なんだ……これでは夏休みに一人だけ補習を受けなければいけない」
にもかかわらず、隣のゾンビのようなヴァルキリーを見ると、そのやる気がどんどんと下がっていく。気持ちはわからないでもないが、いいかげんにしてほしい。
「エイル、いい加減に腹くくれよ。勉強はしたけど、出来なかったんなら仕方ないだろ」
「そうは言っても、夏休みに私一人だけ補習だぞ? みんなが楽しく遊んでいる時に、私だけ拷問を受けなければいけないとは悲しすぎる」
《神器》はどうした《神器》は? こいつ絶対に人選ミスだろ。
「ふふ、笑うと良いさ。この憐れなヴァルキリーを。どうせ私は勉強が好きなのにテストでは万年赤点のヴァルキリーだよ」
「訂正する元気も無いみたい……」
「そんなに補習が嫌かよ? まぁ、俺も嫌だけどさ。お前勉強自体は好きなんだろ?」
「ふむ、確かに好きだが、数学の補習もあるからな。それに一人で補習だなんて寂しいじゃないか。せめて誰かと一緒なら――」
その言葉が最後まで言われる前に、教室の前のドアがガラガラと音を立てて開いた。
「よーし、席に着け。これから実力テストを始めるぞ」
担任が中に入ってきて、生徒達が急いで席に着く。
「エイル、頑張ってね」
「はは……補習……補習か……」
「…………はぁ」
思わずため息がこぼれた。まったくなんて情けない顔をしたヴァルキリーだ。しかし気にしている余裕は無い。全教科95点以上取らなければいけないのだから。
にもかかわらず、エイルの沈んだ表情が頭から離れない。もはや彼女は補習から逃げられないのだから気にしても仕方がないというのに。
「はい、高貴」
「……あ、うん」
前の席の真澄からテスト用紙が渡される。一時間目は現代文だ。
集中……集中……集中……出来そうにない。やはりエイルの事が気にかかる。
……ったく、しょうがねーな。本当にお前は俺の疫病神だよ。
「それでは、始め」
担任の声が教室に響き、実力テストが始まった。
◇
テストが終わって月曜日。
四之宮高校のテストが終わり、そして答案用紙が返された。その結果はというと……
「真澄、君はどうだった?」
「聞いてよエイル! わたしこんなにいい点数取れたの初めて。全部平均点以上! これもヒルドのおかげだよ!」
真澄の結果は中々のようだ。二人の視線が隣にいる俊樹に向かう。
「俊樹は何点?」
「ふむ、俊樹はだいぶ頑張っていたから、私も気になるな」
「……これ」
俊樹が二人に答案を見せてくる。それを見た瞬間に、二人が唖然とした表情になった。
「こ、これ! すごいじゃん!」
「……確かに、自慢してもいいな」
俊樹の答案はほとんどが満点に近いものだった。98点や97点など、あと少しで満点だったものなども沢山ある。間違いなく学年全体でも一桁台の順位に入る点数だろう。
「……で、なんでそんなに残念そうなの? マジですごいけど」
「……数学……94点。全教科95点以上じゃないと、詩織さんのおっぱい触れない」
「……なに?」
「だから、全教科95点以上で、詩織さんが胸揉ませてくれるって言ったんだ。だから頑張ってたのに……ちっくしょおおおお!! 数学のせいだ! なんで数学はいつもいつも若者の夢を奪い去っていくんだよおおおおっ!!」
無念そうに涙を流して悔しがる俊樹をよそに、エイルと真澄は彼に冷たい視線を送っていた。
「で、エイルは――」
「聞かないでくれ真澄……」
「……ご、ごめんね」
その一言と、エイルの表情だけで、真澄は全てを理解した。
一方高貴はと言うと、先ほどからテストの答案を一人で眺めている。エイルたちとの会話にも参加することなく、全てのテスト用紙を確認していた。
ふと視線を感じると、静音がこちらを見ている。
「テストの結果、聞いてもいい?」
静音のほうから高貴に話しかけてくるなど初めてのことだった。おそらく家庭教師をした手前、高貴のテスト結果が気になるのだろう。
世話になった手前、キチンと話しておくのが義務か。
そう判断した高貴は、クスリと笑いながら、テスト用紙を静音見せる。
「…………え?」
「高貴、君は何点だったんだ?」
静音が驚いたのと、エイルが声をかけてきたのは同時だった。高貴はまだ驚きの表情を隠せない静音のほうに向けていたテスト用紙を、エイルのほうに向けた。
◇
「さて、今日はバイトもないし、ゆっくりすっかな」
下校。
高貴はエイルと真澄と一緒に寮に下校した。今日はマイペースのバイトも無く、この前《神器》を見つけてひと段落着いたところなので、部屋でゆっくりしようと思って、とりあえず彼はソファーに座る。ヒルドは買い物でも行ってるだろうし、ネコはブラブラしているのだろう。
一緒に帰ってきたエイルは、いつものようにベットに座ることなく、ジッと高貴を見下ろしていた。
「どうしたエイル?」
言葉を投げかけると、エイルは不服そうに言葉を返す。
「……それはこちらの台詞だ。君、あのテストの結果は一体どうしたんだ?」
「どうしたって、見たまんまだろ」
「だから信じられないんだ。君のテストは全て赤点だったじゃないか」
そう、高貴のテストの結果は散々なものだった。普段ならば全教科平均点以上。今回の目標は全教科95点以上。しかし結果は、全教科平均点以下。それどころか補習の対象となる赤点だったのだ。
「真澄も俊樹も驚いていた。それに静音もだ。君も俊樹と同じくやる気に満ちていたじゃないか。なのに一体どうしたんだ?」
「ほら……あれだよ。勉強しすぎて、一周して成績悪くなったんだよ。今度からは程々にしておく」
「……もしかして、私のせいか?」
高貴の表情が僅かに変わったのを、エイルは見逃さなかった。
「テスト前に私は、ひとりで補習を受けたくないと言ってしまった。まさか君はそれを気にして、わざと全ての教科を赤点にしたのか?」
「……そんなわけねーだろ。どんだけお人よしなんだよ俺は。今回はたまたま悪すぎただけ。次のテストで挽回するよ」
苦し紛れの言い訳だ。もちろんこんな言い訳がエイルに通じない事はわかっている。しかし正直に言うのもなんだか照れくさい。
本当は95点以上を目指したかったのだが、テスト中もエイルの沈んだ顔と、一人で補習と言う言葉がリフレインされては、こうするしかないだろう。
が、当然エイルは納得しない。
「私のせいで君の成績が下がってしまったとしたら、私は君に何かお詫びをしなければいけない」
「お詫び? いいよんなもん。つーか偶然だって」
「しかし、それでは私の気がすまない! なにか――」
エイルがソファーに座る高貴の正面に行こうと歩き出した。しかし、気が動転していたのか、足元がおろそかになってしまい、テーブルの足に指を思い切りぶつけてしまう。
「いつっ!」
「お、おい!」
そのままバランスをくずし、ソファーに座る高貴目掛けて、エイルは勢いよく傾く。
高貴はなんとか受け止めようとしたが、あまりにも突然の事で反応できず、とっさに手を前に出すだけで精一杯だ。そのまま――
「わああっ!!」
「うわっ!!」
エイルが高貴に向かって倒れた。思わず目を閉じてしまい、体に衝撃が走る。
ふにょん。
……ん? なんだこれ? 右手に、なんか柔らかいものが当たってるんだけど。
ふにょん。ふにょん。
あれ? 左手にも当たってる。なんかもっと触ってたい気分だ。つーかそろそろエイルどいてくれねーかな? 視界が遮られて何も見えないんだけど。
それに男女がこうして重なり合うのはいろいろと問題があるだろう。こうして何もしないでいるだけでも、高貴の理性は着々と溶かされているのだから。
「ちょ、エイル。どいてくれよ。この体勢はまずいだろ」
「あぅ……あうぅ……」
声をかけてもエイルから帰って来るのは、わけのわからない呟きのみだ。いつまでたっても彼女は高貴から離れようとはしない。
「エイル、どけって」
「その……な、なんだ。つまりだな。き、君は……」
「はぁ、いいよ。自分でどかす」
ふにょん。
「ひゃあっ!!」
力をこめた瞬間に、エイルがなにやら悲鳴を漏らす。両手に当たっている柔らかい何かが少し潰れた気がしたが、高貴はそのままエイルの体を押した。
「…………あ」
押して、理解した。そしてやめればよかったと後悔した。
高貴の右手と左手にあった感触は、それぞれエイルの左の胸と右の胸。そして高貴はそれを押してエイルの体をどかした。
つまり、エイルの胸に手を当てたまま、彼女の体を押したという事となる。
そのあまりの事実に、高貴の体が硬直してしまう。もちろんエイルの胸を触ったままで。エイルは膝立ちになって、顔をこれでもかというほど真っ赤に染めてアワアワと口をパクパクと動かしていた。高貴はソファーに座ったまま、相変わらずエイルの胸に手を当てていた。
「…………」
「…………」
無言の沈黙が続く。そんな中思考が停止していた高貴の脳が、ようやく稼動し始める。そして――
ふにょん。
誘惑に耐え切れずに、両手の指をもう一度動かしてしまった。
あ、俺死んだ。
「きゃあああああっ!」
それでエイルもようやく我に返ったのか、慌てて高貴から離れると、両手胸の前で交差する。
「あ、いや、その、これはつまり……」
あ、無理だ。確実に俺はここで殺される。だってあのエイルがきゃあああっ!! なんて極めて女らしい悲鳴まで上げたんだから、相当恥ずかしかったに違いない。
だって制服の上からとはいえ、胸触っちまったんだから仕方ないか。制服の上からだって言うのにスゲー柔らかかったな。硬かったのは下着か? それとも……いや考えんな。
この前音無のおかげで命拾いしたけど、やっぱり俺は殺される運命にあったらしい。きっと槍で前進を串刺しにされて、そのあと雷で黒焦げにされるんだ。
グッバイ俺の人生。せめて彼女ぐらい作って、童貞卒業したかった。
「………………」
しかし、エイルは動かない。顔を伏せて、胸を隠し、その場にジッとしているだけだった。
「え、エイル……その……ご、ごめ――」
最後まで謝る前に、その言葉は止まってしまう。エイルが下げていたその顔を上げたからだ。
エイルの表情は怒りに染まってなどいない。ただひたすら、ひたすら恥ずかしそうに、顔を赤くしていただけだった。
そして――
「ずいぶんと……君……エッチだな……」
かすれた声でそう言うと勢いよく立ち上がる。
「あ、頭を冷やしてくる」
そういい残すと、エイルは風のように走って部屋から出て行ってしまった。ポツンと高貴は一人取り残される。
……おい、どうすれば良いんだこの状況? 思いっきりぶん殴られたほうがまだましだった。
なんであんな表情……あんな、すごく可愛い顔してくるんだよ。反則だろ。
自分の顔も真っ赤になっているのを感じる。両手にはエイルの胸の感触がまだはっきりと残っている。
とりあえず、自分も頭を切り替えようと思い、高貴は補習に備えて勉強道具を机の上に広げた。エイルにお詫びをしてもらう必要などない。偶然の事故とはいえ、とんでもないものを貰ってしまったのだから。
◇
「ただいま戻りました」
どこかの建物、どこかの一室。おそらくは四之宮のどこかだろう。その部屋に入ってきた人物は、四之宮高校の制服を着た音無静音だからだ。彼女は今、町全体に張られている結界により、四之宮からでることはできない。
部屋にある窓から、外はもう暗くなっている事がわかる。見晴らしがいいところを見るに、ここはかなり高い位置にあるのだろう。まるでドラマなどに出てくる社長室のような場所だ。
「来たか」
いかにも高級そうなデスクに座っていた人物が、部屋に入ってきた静音に気が付く。その男性は高級そうなスーツに身を包んだ40代半ばほどの男性だ。
静音がその男性のデスクの前まで歩いていき、その足を止めた。数秒ほど沈黙が流れたが、それを打ち破ったのは、男性の一言だ。
「上着を脱げ」
「はい」
一言。たった一言言われただけで、なんのためらいも無く静音は制服のリボンを解いた。そしてブレザーを脱ぎ、Yシャツも脱ぎ捨て、上半身は下着一枚になってしまう。
年相応以上に育ったその肉体があらわになるも、男性はそんなものは興味がないとでも言うような表情だ。静音にも羞恥心はまったく見受けられない。
男性がゆっくりと右手を伸ばし、静音の胸元を指差した。すると静音の白い肌、その胸元に、今までは見受けられなかった、灰色の文字のようなものが浮かび上がる。
はっきりと、静音の胸元に《ᚾ》のルーンが浮かび上がっている。
「わかっていると思うが……何度でも言う。お前は私には逆らえない。それを肝に銘じておけ」
「……はい」
静音が返事を返す。しかしその返事には、心なしか悲しみがこめられている。
頭に浮かぶのは、今日知らされた自分のテスト結果ではなく、他人のテストの結果。月館高貴のテスト結果だ。
どうして彼はあんなにもひどい点数を取ったのだろう? 確実に平均点以上は取れたはずなのに、まったく持って謎だ。
そして……もうひとつ。彼の持つ謎。エインフェリアル。
彼はいったいどんな気持ちであの印を受け入れたのだろう?
そもそもどうして受け入れたのだろう?
彼は知っているのだろうか?
ちゃんとわかっているのだろうか?
あの呪われた契約の意味を。
第三章終了
お知らせ
オリジナル版で投稿させてもらおうと思っていた小説が黒歴史になったので、投稿するのをやめにしました。
なのでたぶんですが、第四章からオリジナル板のほうに移動させていただきます。