音無静音のSMプレイから始まった夏休み。
あれから三日、高貴はそのとき波乱を覚悟したのだが、実際は思っていたよりもおだやかな毎日を過ごしていた。
静音とはあの日以来あってはおらず、エイル達がいうにはしばらく様子を見るとのことで話が固まっている。高貴としては静音とは戦いたいとは思わないので、なんとか穏便に済ませたいと願うばかりだった。
そして、今日は夏休みだというのにもかかわらず、高貴は四之宮高校に来ている。その理由はもちろん――
「よーし、じゃあ今日はこれまで」
補習である。
担当の教師の声が響き、教室にいた生徒全員が解放されたかのように大きく伸びをした。
「おい、終わったぞエイル」
「数学は……拷問だ」
約一名を除いてだが。
エイルだけは補習が終わった瞬間に、伸びではなく机に突っ伏していた。
今日の補習は物理、化学、そして数学の三つ。物理と科学はそれはそれは楽しそうに受けていたエイルであったが、数学になった瞬間にその表情から笑顔が消えたのだ。
「ほら、帰るぞ。帰ったら借りてきたドラマの続きを見るんだろ?」
「ずいぶんと……君……元気が良いな。私はもう全ての体力と魔力を使い果たしたと言っても過言ではないよ。どうしてよりによって数学なんだろうな?」
「逆に考えろって。今日数学が終わったから、明日からは嫌な教科はないってことだろ?」
「ふむ……そうだな、そういう考え方もあるか。それに君も一緒だから寂しくもないしな」
そういう恥ずかしい事を真正面から言わないでほしい。反応に困ってしまう。
しかし元気を取り戻したのか、エイルは「さて、帰ろうか」と言ってかばんを持って立ち上がった。高貴もそれにならって立ち上がり、ついでに首をコキコキと鳴らす。
高貴は今までの成績は優秀なほうで、補習を受けたのは初めてなので、肩がこったようだ。全教科赤点というのはさすがにまずかったのか、教師から呼び出されたくらいだ。
教室から出て、二人並んで廊下を歩く。
「そういえばさ、鈴木って結局どうなったんだ?」
公園で戦って以来それっきりだったので少し気になったのか、高貴がエイルに向かってたずねる。
「ふむ、もう自宅に帰っているだろう。ヴァルハラに行って、《神器》や魔術の記憶を消し去り、後は今までどおりの生活に戻れるはずだからな。しかしそうなると、また彼はいじめられてしまうかもしれないな……」
「そんなこと気にしなくて良いだろ。イジメなんて結局当人同士の問題だ。冷たいかもしれないけど、何とかしたいなら自分で何とかするしかない」
「ふむ、そうかもしれないな。後は静音の事なのだが……」
エイルが口をつぐむ。エイルと真澄には、三日前のSM騒動は話していない。話すとめんどくさそうだからというヒルドの提案によるものだ。実際話したら何を言われるかわかったものではないので、高貴はそれに承諾した。
「ああ、あの日以来なんの音沙汰もないな。あいつの持っている……アイギスだっけか? なんとか穏便に譲ってくれればいいんだけど」
実際は穏便になど行くはずがない。静音は三日前のような状況に陥っても、まったく《神器》を渡そうとはしていなかったのだから。譲ってくれるのが無理ならば、戦って奪うしかないだろう。もしくは真澄のように協力者になってもらうしかないが、その望みは薄そうだ。
「高貴、静音は公園でアイギスは渡せないと言っていたな。その言葉から察するに、彼女は《神器》に執着しているのだろうか? もしもそうだとしたら、その理由はいったいなんなのだろう?」
「うーん……わかんね。もしかして鈴木みたいに、持ってるだけで人生に有利って考えてるのかも……いや、やっぱ今のなし。完全に予想でしかないけど、俺にはあいつが《神器》を元に人生設計するようには思えない」
「ふむ、それに関しては同感だ。となると……ふむ、本当にどういう理由なんだろうな」
「ただ珍しいからって理由にも思えないし……あ、ベルセルクから身を守る為とかはどうだ? ほら、今までベルセルクに遭遇してて《神器》の力で倒してたけど、ベルセルクは一般人を襲わないっていうことを知らないとしたら、《神器》をなくしたら対抗手段がないと思ってるとか」
高貴の意見に、エイルはしばらく考えるように顎に手を当てる。
「……いや、おそらくそれはないな。ベルセルクに遭遇していたとしたら、きっと《神器》がベルセルクについて詳しく教えてくれるだろうからな」
「……《神器》ってそんなに便利なのか? 俺クラウ・ソラスから何も教えてもらった記憶無いんだけど」
「君、やはり《神器》に嫌われているんじゃないのか?」
「いや……それはないと思うよ。力は貸してくれるし」
そうは返したものの、不安になってきた高貴は、とりあえず心の中でクラウ・ソラスに呼びかけてみた。
――当然の事をわざわざ聞くな。そもそも好かれる要素がどこにある? もっとも、こんなことを言っても貴様の記憶に我の言葉は残らないがな。
なにやらぼんやりと声が聞こえた気がするが、うまく聞き取れない。しかし返事を返してくれたということは、きっと嫌ってはいないのだろう。
おそらく……だが。
「実際にあって話してみるしかないかもしれないな。なんだったら今から静音のところに行って見るか? 静音の住所は学校に乗ってあるから、ネコが調べてくれたようだしな」
「マジで? ちなみに音無ってどこに住んでんの?」
「ふむ、四之宮高校に登録されてある住所は、都心にあるフェザープレイスというマンションだよ」
「ふーん……って、都心?」
エイルの言葉が意外だったのか、高貴の表情に疑問が浮かんだ。しかし、その理由がエイルには理解できない。
「ふむ、何かおかしいのか?」
「いや……四之宮にはさ、二つの高校があるって前話したよな。俺達の通う四之宮高校と、都心のほうにある四之宮中央高校」
「四之宮中央高校……ああ、あの娘達が通っている高校か」
「ああ、中央高校のほうは、確か十年位前に出来た歴史の浅いとこだけど、四之宮高校よりもいろいろと設備とかが充実してて、大学の進学率や就職率が高いんだ。ぶっちゃけむこうの方がいい高校だし、住宅街から中央高校に通うことはあっても、都心からわざわざ四之宮高校に通うメリットはないと思うんだよなぁ……」
都心に住んでいるのならば、金銭的な問題とも考えにくいし、そもそも静音ほどの学力(学年一位)があれば、推薦も取れるだろう。
「そういえば……静音は転校生だったな。もしや君の《神器》を手に入れようとしたのか?」
「それもないと思う。音無が転校して来たのは、お前と一緒の日だ。しかもエイルはその前日に四之宮に来た。エイルが四之宮高校に通うなんて音無には知りようがないし、たとえ知る事ができたとしても一日で転校なんてしてこれないだろ」
「ふむ、言われてみればそうか……と言う事は静音が転校してきた日と、私が転向して来た日が重なったのは、あくまで偶然という事か」
そもそも静音が以前どこにいたのかも高貴たちは知らない。転校してきたとは聞いたが、《神器》が散らばっているのはこの世界で四之宮のみ。よその町から四之宮に来た瞬間に《神器》に選ばれたのか、もしくは元々四之宮に住んでいたのか。それすらもわからない。
そんなことを話していながら歩くと、あっという間に下駄箱までたどりついた。
「そういえば高貴、君はどうしてその中央高校のほうに行かなかったんだ? 君ほどの学力ならば問題なく入学できるだろうし、平穏に過ごしたいのなら、進学率や就職率の高いほうへ行くような気がするのだが。やはり真澄と俊樹がいるからか?」
下駄箱を開けて、靴を取り出しながらエイルが高貴にたずねる。
「ああ、もちろんそれもあるけどさ。一番の理由は――」
ふと、高貴の言葉がそこで止まった。
下駄箱を開けた瞬間に、中から何か紙のようなものが落ちてきたからだ。高貴の足に当たったそれは、乾いた音を上げて地面に落ちる。
「ん? なんだこれ?」
気になった高貴がそれを拾い上げた。それはピンク色の可愛らしい封筒であり、可愛らしい文字で月館高貴君へと書かれている。
……え?
「これって……」
「……ラブレターではないのか?」
ラブレター!?
この今まで女っ気なんかまったくなくて、彼女すら出来た事もない俺にラブレター!? マジで!?
いやマジだ!
いきなりの事に高貴は混乱してしまうが、それでも喜びのほうが勝っているのか、顔が自然と緩んでしまう。
「ずいぶんと……君……にやけているな」
「うわっ!!」
それとは正反対に、果てしなく不機嫌そうな声が耳に響く。隣に立っているエイルが、声色と同じく不機嫌な顔で手紙を見ていた。
「え? なんでお前怒ってんの?」
「怒ってなどいない! 私はヴァルキリーだ!」
「いや、ヴァルキリー関係ないって。それにお前怒った時あるだろ」
「君の気のせいだ。ほら、さっさと中身を確認したらどうなんだ? 私の事は気にしないで確認するといい。ああ、すれば良いじゃないか」
ますます不機嫌になるエイル。高貴はわけもわからずに言われたとおり手紙を開いて中身を確認した。そうしないとエイルがますます怒り出しそうだったからだ。
ピンクの封筒に入っていたのはピンクの紙だった。二つに折られたその紙には――
「屋上で待っています……これだけ?」
「ふむ、それだけのようだな」
「お前も見るのかよ……」
高貴の後ろから覗きこむ様にエイルが手紙を見ている。
書かれているのがこの言葉のみで、他にはなんの用件も書かれていない。ラブレターというにはあまりにも寂しい代物だ。
「……ふむ、君は行くのか?」
「そうだな……行ってみるか。用件はなんだかわからないけど、来いって書かれてるし」
「君、やっかいごとに関わりたくはないというわりに、なかなか好奇心旺盛なのだな」
「いや、だって本当にラブレターだったら……ほら、考えるし……ヒッ!」
ゾクッと、背筋が凍る。エイルから冷たい殺気のようなものが零距離で放たれる。
エイルはニコニコと笑ったまま、それはそれは素晴らしいほど眩しい笑顔で、いつぞやの黒コートレベルの殺気を高貴に放っていた。
「そうか……では、私にはなんの遠慮もなしに行ってくるといい。ああ、私の事は気にしなくて良い。一人で帰れる」
「あ、あのさ……なんで怒ってんの?」
「怒ってなどいない! 私はヴァルキリーだ!」
「いや、どうみても――」
「怒ってなどいない!」
ムキになって否定し続けるエイルに、高貴はもはや何も言えなくなってしまう。
「では私は帰る。帰るからな!」
エイルは最後まで不機嫌なまま、さっさと靴を履き替えると凄まじい勢いで帰っていった。ポツンと残された高貴は、
「行くしか、ないか」
取り合えず靴を履き替えることなく、屋上に向かって歩き出した。
◇
屋上の入り口まで来て置いて今更なのだが、屋上とは本来立ち入り禁止の場所である。
エイルは何故か鍵を持っていて、立ち入る事ができるようだが、本来は常に鍵がかかっているため、普通の生徒は入ることが出来ない。にもかかわらず屋上に呼び出すということは、もしかして普通じゃない人なのかもしれない。
もしも本当に告白されたらどうしよう。多分断るだろうけど、まぁ会って見てから判断しよう。
高貴はそんなことを考えつつ、屋上の扉に手をかけた。キィと軋んだ音を立てて、ゆっくりとドアが開く。
本来ならば誰もいないはずの屋上に、一つの人影が見える。おそらくはあの人物が高貴を呼び出したのだろう。
「来ましたか」
そこに立っていた女性が高貴に気が付いた。その女性を見た瞬間に、高貴はここに来た事を後悔した。
その女性はどう見ても年上だ。しかも来ているのは四之宮高校の制服ではなく、何故かメイド服だったのだ。白と黒の二色で、ロングスカートのメイド服。コスプレの写真を前に俊樹に見せてもらった事もあるが、それよりも上品な感じがする。頭にはしっかりとカチューシャもしている。
女性にしては長身で、髪はショートカットでそろえられている。スレンダーな感じのするお姉さんと言った感じだ。そのお姉さんが極めて有効的な笑顔で高貴を見ている。なのにどうして高貴は後悔したのか。それは極めて簡単で、自分勝手な理由だ。
目の前の女の人からは、確実にやっかいごとのにおいがする。ここ最近高貴はやっかいごとのにおいにビンカンなのですぐにわかるのだ。が、結構な美人なので、やはり期待も3割ほどは混じっている。
メイド服の女性は、ゆっくりと高貴に近づいてくる。
「お初にお目にかかります。白峰菜月と申します」
「は、はぁ……月館高貴です」
あったことはないと思っていたが、やはり初対面だったらしい。なのにどうして呼び出されたのだろうか?
「あの……それで、なんか用ですか?」
「その前に確認させていただきたいのですが……本当にあなたは、月館高貴さんですよね?」
「はい、そうですけど。この学校には、他に月館高貴って名前の生徒はいなかったと思います」
「そうですか、あなたが……」
確認が取れたことを喜び、菜月の表情が笑顔になる。高貴の期待ゲージが4割ほどに上がった。
「実は……少し前から、あなたにお会いしたかったのです」
「何でですか?」
そう言いつつも、期待ゲージは7割ほどまで上昇し、
「あなたは……三日前、拉致したお方を覚えておいでですか?」
一気にゼロになった。
それだけではない。三日前にあの見知らぬ罪を押し付けられそうになったことを思い出し、顔が青くなってしまう。
「な、なんのことで」
「覚えている……ようですね……」
菜月の体がプルプルと震えている。下を向いているため表情がよくわからない。
何なんだこの人? 音無の知り合いか? でもなんでメイド服なんて着てるんだ? 音無の家って金持ちなのか?
様々な事をめぐっている高貴の頭に――
「おい、お嬢様にあんなことしておいて、生きて帰れると思ってねーよなぁ?」
……は?
何、今の声?
それは先ほどまでの声とは違って、ドスのきいた恐怖心を覚える声だった。発している人物はもちろん菜月だ。
その菜月の表情からは、完全に笑顔が消えており、もはや親の仇を前にしたような顔つきになっている。
「あ、いえ、ち、違うんですよ! あれは俺がやったんじゃなくて――」
「言い訳してんじゃねーぞクソガキがぁ!」
「ひぃっ!!」
怖っ! このお姉さん超怖っ!
「お嬢様を辱めたクソガキに、このあたし、白峰菜月が判決を言い渡す。当然……死刑だこの野郎!」
菜月がスカートの中に右手を入れる。そしてその右手に握られていたのは、なんと一振りの日本刀だった。
それだけではない。菜月の体から何かを感じる。普通ならありえない何か。それは非現実に生きるものたちの証。
「ま、魔力!?」
そう、菜月の体から、強い魔力を感じる。と言う事は――
「あ、あの刀って《神器》か? つーかお姉さんって《神器》の持ち主?」
「グダグダ言ってんじゃねー! 良いから黙って刀の錆になりやがれ!」
菜月は高貴の質問に答えることなく、その場で刀をブンッと振るうと、
「行くぞコラアアアアッ!!」
高貴に向かって、地面を蹴った。