私は茅場晶彦という名らしい。
名らしいという曖昧な言い方なのは、私自身その名に心当たりがないからだ。
私には別の名前があった筈なのだ。
何処にでもあるような一般的な名前であり、特に見向きもされない平凡なものだったが、茅場などという名ではなかった。
それでも自身が茅場であると決定付けさせているのは、脳裏に浮かぶ強迫観念のようなものがあるからだろう。
自分は茅場晶彦であり、別の人間では断じてないという強い思念を感じるのだ。
そのためだろうか。
私は平凡である筈の自身の名を思い出せていない。
今までのこの身に起きた事は確かに思い出せるのだが、その部分だけがすっぽりと抜け落ちている。
加えて言うならば、私が視認している私自身の姿もそれは以前の私のものではなかった。
白衣を着た20代くらいの男性というべきなのだろうか。
薄汚れたスーツを着ていた筈の私のそれとは正反対で、研究職に従事しながらも清潔感溢れる服装をしている。
顔を触ってみると、そこには疲労によって爛れた表情ではなく張りのある肌やくっきりした目口、そして尖った鼻の感触が伝わった。
それだけではない。
私の頭の中に浮かぶのは数々の数式や理論。
何を目的にしているのかさえ分からない不明な数々の推測が頭の中で勝手に組み上げられていく。
実に奇妙な感覚だった。
身体も思考ですらも私のものではないのに、意識だけが私のものであるという浮遊感と疎外感。
頭の中で緻密に組み上げられていく理論を俯瞰しているような傍観者たる立場。
まるでこの茅場という人物の意識を乗っ取ってしまったかのような感覚だった。
何故、という疑問は確かにあった。
恐怖心が無いと言えば嘘になる。
意識を取り戻した時に全く別人の体になっていたなどとなれば、頬を抓って夢であるに違いないと反射的行動を取りそうなものだ。
しかし私はそれよりも有り得ない光景を目の当たりにし、自分のいる場所を見下ろしていた。
一言で言えば私の眼前に広がるものは巨塔だった。
何階層あるのかさえも不明瞭な巨大な塔を私はその上から、詳しく言えば空から見下ろしている。
無論私の(茅場の)身体は空に停滞したまま、落下する気配はない。
足を動かせばそこにまるで見えない地があるかのような感覚が起きると共に、足の浮遊感は消え、自身の体の重みが伝わってくる。
これが俗にいうファンタジーというものなのかもしれない。
そのようなゲームじみた思考をする事は非常に嫌悪すべきものだったが、それでもこの光景は目を見張るものが有った。
日の光に照らされて更なる幻想的な光を生み出すその巨塔は、これは夢ではないと明確に私の意識へと伝えている。
過去の私からは失われた光のある光景。
先の見えぬ不安よりも確かにある別種の光。
私はもう一度顔面を触り、それから天上から降り注ぐ日の光を見上げた。
この光景も、そして空に浮かんでいるこの状況も、夢ではないというのか。
現状を理解できない中で私は真剣にこの身に起きた出来事を整理しようとしていた。
其処に突如、私の意識の中にとある用語が割り込んできた。
まるで睡眠を妨害されたかのような思考の中断に顔を顰めながらも、私は今まで考えていた事柄を取りやめて意識を集中させた。
何やら重要なものなのだろうか。
先程と同じような強迫観念が、私にこれを理解しろと伝えてくる。
本当に訳が分からない。
走馬灯にしてもあまりに突拍子のないものだ。
仕方なく、流されるままに私は意識の奥底にある別人格の知識を読み取った。
ソードアート・オンライン。
略してSAO。
まず始めに読み取れたのはその用語だった。
後の事は良く分からない。
ネットゲームか何かのようなのだが、部屋に籠りきりだった息子と違って私はそんなものはやった事もない。
ゲーム等という享楽に今まで私は手を染めた事もないのだ。
それでも別人格の様に動く意識は私にそのゲームの詳細を伝達した。
一万人の参加者。
百層もの階層が存在する巨塔・アインクラッド。
そして一階層毎に配置されるボスや特定のモンスター達。
まるで、ではなく本当にゲームか何かのような設定だった。
意識の中に無理矢理全てを入れられた倦怠感を感じ、私は集中していた意識を元に戻した。
いよいよ本当に分からなくなってきた。
これは夢なのか、はたまた現実なのか。
私はSAOというあまりにも信じられない事実を突きつけられて、ここで目が覚める前の事を思い出した。
端的な話、私は死んだはずなのだ。
誰かに殺されたわけではなく自ら死を選んだ、所謂自殺である。
電車を止めて多くの人達に迷惑をかける事は承知の上だったのだが、溺死は苦しむため出来ず、飛び降りもあと一歩の勇気がいるため出来ず、結局勝手に轢いてくれる電車による轢死を選んだのだ。
自殺に至る経緯を語る事はそう難しい事ではない。
疲れた、の一言に尽きる。
部屋に籠りPCでゲームばかりしている息子。
三十に近いというのに定職にもつかず、部屋から一歩もでない毎日。
そして少しでも声を掛ければ獣のように怒り狂い私に手を出す始末。
これはもうどうする事も出来ない。
妻も今では不甲斐ない私に愛想を尽かして愚痴を続けている。
碌に食事もつくらず、掃除もせず、炊事洗濯は疲れ切った私がする仕事だ。
寝床につけるのは何時もきまって深夜で、大きな寝息をたてる妻の傍で寝るため全く寝付けない。
そのため別の場所で寝ようとすると、次の朝に妻が意味不明な言葉で捲し立ててくる。
そっちがそのつもりなら、実家に帰るなどと言いだすのだ。
別に帰ってもらっても全く構わないのだが、本人はそんなつもりはさらさらないようだ。
ただ不満をぶちまけているだけなのだろう。
そんな中で陰鬱としたまま職場へと赴くが、そこでも同じような事ばかりだ。
疲れの為にまるで仕事に手がつかず、新人達に実績を追い抜かされ、比べられた上に上司からも脅迫まがいの愚痴を言われ続ける。
何時になったら辞めるんだ君は、もういらないなどと言われ続け、それでも必死にしがみ付いていた。
生きるため、それだけが私の生きている意味だった。
しかしそれが長年続いてしまうと、感情が死んでしまいどうでも良くなり、生きている意味もないような気がして、結果死を選んだ。
妻や息子がどうなろうが最早知った事ではなく、路頭に迷ってしまえばいいとそんな気持ちさえあった。
私が情けない死に様の中で最期に思ったのは、そういったこの世の不満と幸せそうにしている人間への嫉妬だった。
そんな私がこんな子供じみた夢を見るのもおかしな話だ。
死ぬ直前の光景を思い返し、もう一度巨塔・アインクラッドを見下ろす。
私はこのような光景に夢を馳せたつもりはなく、ただひたすらに強者の足に縋り付く毎日を送っていただけだ。
そこに夢や希望などある筈がない。
しかしそういうある種の無意識の願望があったのかもしれない。
私は現実逃避の末、自然と目の前の光景を受け入れつつあった。
どうせ死んだ身。
これは三途の川の手前で見る白昼夢みたいなものなのだろう。
夢であろうが現実であろうが、もう関係は無い。
生きる事を諦めて死んだ私にとってはどうでもいい事だ。
茅場というこのエリート然とした身体も、恐らくは私が想っていた将来の姿なのだ。
ならば死ぬまでの片道切符、せいぜいこのふざけた世界を堪能させてもらう事にしよう。
そう思い立ち、私は無意識の内にアインクラッドの最上階へと転移した。
転移は思った以上に簡単なものだった。
どうなるものかと危惧したが、念じると勝手に思考が演算処理を始めて私を導いてくれる。
問題は特にない。
全くファンタジーにも程があると思いながらも、心の何処かで納得はしていた。
ここは夢想の世界なのだから、私の思う通りに万物が動いてくれる。
つまり念じれば、大抵の事が出来るに違いない。
後方に聳える紅玉宮と呼ばれる奇妙な建物を背にして、私は背きかけていたこの世界に関して把握しようとする。
するとまた勝手に思考がソードアート・オンラインの重要事項をまとめ上げ、意識の中に流れ込んできた。
ナーヴギア。
レベルとスキル。
パーティーや騎士団。
しかし何とも言えない言葉の羅列に、一度は理解しようとした私の思考が再び拒否反応を示す。
こういうノリは本当に駄目だった。
決められている数値や計算によって人を無意味に判断する世界観。
不甲斐ないあの引き籠もりの息子がこういうゲームをしていたのかと思うと、無性に腹が立ってくる。
何故このような遊び感覚のゲームに私が付き合わなければならないのか。
痛くもない頭に手を触れ、ゆっくりと首を振った。
どうせならもっと現実味のあるものにしてほしかったものだ。
こんな浮ついた雰囲気では楽しめるものも楽しめない。
そう思って、私は再び思考を中断しようとした。
デスゲーム。
しかし突如思考の中に飛び込んできた不穏な言葉に思わずハッとする。
この幻想的な世界に似つかわしくない死の文字。
それはまさしく今まで望んでいた現実味のある力を秘めていた。
親近感を抱いた私はすぐさまその要項に付いて理解し始める。
楽しめそうなものが有るのではないか、と直感に従った結果だったとも言える。
すると意外な事が次々と分かってきた。
この世界には一万人もの人間がいるようなのだが、その人達はどうやらゲーム感覚でこのアインクラッドに乗り込んでいる。
そしてアインクラッドは仮想空間、即ちネットゲームという設定らしい。
言わば一万人の彼らはゲームを遊びに来た享楽者達という事になるのだろう。
そういった者達を、この世界はデスゲームという過酷な状況へと追いやっていくと言うのだ。
何も知らない彼らには生命力を数値化しているグラフがそれぞれ与えられており、傷を受けるとそのグラフが段々と減っていく。
グラフが減る規則は敵からの攻撃等が当てはまり、人体の欠損と何ら変わりはないようだ。
それからその残量が0になると死亡、文字通りの死を迎える。
どのような死を迎えるのかは説明が凝り過ぎていて良く分からなかったが、一言で済ませると脳が焼き切れるらしい。
他人事ながら恐ろしい話である。
そんな状況下でデスゲームに強制参加された一万人の人々は、最上階を目指す事になる。
最終目的は私が立っているこの百階の制圧、つまりはアインクラッドの攻略らしい。
それが達成されれば今までで生き残っている者たち全員が解放され、無事に生きて帰れる。
そういう事らしい。
私は何となくその一万人の者達の素性を知りたくなり、彼らの様子が見えるように念じる事にした。
同時に眼前に奇妙なモニター画面が現れ、望んでいた光景が瞬時に映し出される。
モニターに映し出されていたのは狼狽える一万人もの参加者達。
何処かのホールなのだろうか、その一か所に集められている彼らは今から起きる事を不可思議に思いながら周りの者達と話し合っている様子だった。
そのどれもが私よりも歳の低い者達ばかりで、私の息子と同じ印象を受けた。
「成程…」
ストーリーを大まかに理解した私は無意識の内に声を漏らしていた。
それは関心からくる言葉ではなく、名状しがたい激情によるものだった。
あの者達はきっとゲームを楽しんで此処にいるのだろう。
息子と同じように、ゲームや一人でいる事が堪らなく好きなのだろう。
更にはモニター内で不安そうに声を上げる女の姿。
あれは口やかましい妻の姿によく似ている。
叫んでしまえばどうとでもなると思っているのだろう。
そう思うと、腹が立ってきた。
どうしようもない腹の立ちようだった。
私の今までの生き方が全て否定されているような気がしてならなかった。
苦労している人の傍でぬくぬくと生きている者達へと嫉妬が私の全身を支配しようとしていた。
デスゲーム。
成程響きのいい言葉だ、と私は笑った。
自分勝手、大いに結構。
所詮ここは白昼夢。
現実として存在するかもわからない不安定な世界であり、死んだ私にこそ与えられた最後の夢だ。
ならば彼らにも死の意味を知ってもらわなければならない。
憔悴し死を選ぶしかなかった私の無様な生き方を、幸福の下に成り立つ苦労している者の叫びを知ってもらおう。
盛大にそして残忍にやってやろうではないか。
デスゲームという死に最も近い場所で、今度は私が彼らを見下ろしてみよう。
私はデスゲームというゲーム感覚の設定をより過酷にするため、別人格である思考にその設定づくりを任せた。
勿論私一人ではそんな構成を練れるはずもない。
ゲームという言葉ですら嫌悪感を抱いてしまうこの身に設定を考えろなど無理な話だったのだ。
ただ私が念じたのはこの遊び感覚のアインクラッドを更に過酷に、そして熾烈を極めるものにしてほしいという強烈な願望だけだった。
そんな醜い欲望が別人格たる思考に伝わったのか。
或いはこの別人格の思考こそが本来の茅場晶彦のものだったのかもしれない。
短時間で出来上がったデスゲームへのプランが私の意識の中に流れ込んでくる。
私はそれを読み取った上でどんな結末を迎えるのかを想像した。
まだ若干不備がある設定のようにも思えるが、今のところは構わないだろう。
この提案をあの一万人の参加者達に言い放つだけで、強い強制力を持つようになる。
後は彼ら次第だ。
私にとって他者のアインクラッド制覇など興味はない。
ただ理不尽な状況に追いやられた楽観主義者達の心の動きや動向を観察したいのだ。
それだけで鬱憤とした毎日を過ごしてきた私への冥土の土産になるだろう。
疑心の果てに自滅するか、はたまた参加者同士で殺し合うのか、この高みから面白おかしく楽しませてもらう事にしよう。
モニターを掻き消した私はシナリオ通りの展開を進めるため、勝手に事を進める茅場の思考に身を任せて彼らのいる最下層へと転移した。
最下層である一階に集められた一万人もの参加者達は鐘の音に乗じて強制テレポートされた事に酷く驚いていた。
今まで何不自由なく遊べていたのだから、その奇妙な転移に何かしらの不具合を思わざるを得なかったのだ。
加えて本来あるべきログアウト項目が消失している点。
ゲームという状況下もあり自身に何が起きているのか理解できず、困惑し又は不満の声を上げている者もいた。
「どう、なってんだ…?」
隣にいるクラインという名のプレイヤーの言葉を耳にしながら、同じゲームの参加者であるキリトも疑念を感じずにはいられなかった。
このような強制テレポートは以前プレイした時には存在しなかった。
ログアウト項目もその時には確かに存在し、自発的にこのゲームを降りることが出来る筈だった。
無論何かしらのセレモニーだと思い込みたいが、辺りに湧き上がる不穏な気配がそう思わせてはくれない。
あまりに雰囲気が重すぎる。
更に言うならば、辺りは一万人の参加者を除いて完全に沈黙している。
まるでゲームの世界自体がここにいる参加者を呑み込まんとしているようにも感じられる。
これはセレモニーなどでない。
キリトは直感ながらもそれを理解しつつあった。
何ももっと重要な、自分たちの命に関わるような事が起きようとしている気がしてならなかった。
「あ、上…」
そんな中、参加者の誰かが素っ頓狂な声を上げる。
それに従って辺りの者達が視線を上げると、空中に赤く点滅しているWARNINGの文字が浮かび上がっていた。
現実味を帯びているアインクラッドとはあまりにかけ離れた機械的な文字。
不吉なその文字を誰もが見つめる中、突如それがキリト達参加者を覆うように拡散した。
今まで美しかった世界が赤黒く塗りつぶされ、喚き立てていた者達もその光景に言葉を失っていく。
すると立て続けに文字の間から赤黒い液体が零れ落ち始める。
まるでどす黒い血のようだった。
ドロドロと零れ落ちる大量の血が空中で凝固していき、新たな姿を形どっていく。
そうして出来上がった姿は紅いローブをすっぽりと羽織った人型だった。
大きさは巨人の如く、キリト達の身体の何倍にも値する。
表情はフードによって覆われている為目視できないが、その威圧感溢れる姿に此処に集められた参加者達は、この人物こそがアインクラッドのゲームマスターなのだと理解する。
「プレイヤー諸君。私の世界へようこそ」
素肌の見えない人物から発せられた言葉は、感情が死んでいた。
聞くだけで心の奥底を揺さぶるような恐ろしく冷たい声だった。
隣で立ち竦んでいるクラインがその冷淡な声に思わず身震いをする。
キリトも同様で、異常事態に現れた異常な人物に対して身体の震えが起き始めていた。
「私の名前は茅場晶彦。今やこの世界をコントロールできる唯一の人間だ」
茅場晶彦。
その名を聞いた者達が驚きと感嘆の声を上げる。
此処にいる参加者ならば知らぬ者はいない、ナーヴギアとソードアート・オンラインの開発者。
その頭脳は若くして天才と評され、SAOを知らぬ一般人ですらも名を聞けば一様に頷く程の人物だ。
誰もが憧れを抱く天上に位置する人間。
そんな人物が何故この場にいるのか。
周りの参加者達が口を揃えて疑問の声を上げ始める。
「プレイヤー諸君は、既にメインメニューからログアウトボタンが消滅している事に気付いていると思う。しかしこれはゲームの不具合ではない」
しかしそんな声に耳を貸す事無く、茅場と名乗る人物はログアウト画面の真意を口にした。
キリトだけでなく、クラインを含めた参加者達もその言葉の意味を理解しかねていた。
不具合でなければ何だというのか。
ここは仮想空間であり、自由に現実世界と行き来できる世界なのだ。
仮想空間に孤立される事など有り得ない。
この場は所詮、現実という名の遊び場なのだ。
だがその安易な想像を否定するように、目の前の巨人は恐ろしく冷たい声で言葉を紡いでいく。
「繰り返す。不具合ではなく、ソードアート・オンライン本来の仕様である」
そこから悪夢のようなチュートリアルが始まった。
HPゲージが尽きれば文字通りの死を迎える残忍なシステム。
ナーヴギアに配備されたマイクロウェーブによる脳の破壊。
極めつけは事実を裏付けるように提示された、現実世界でのソードアート・オンラインの死者の続出。
始めの頃はただの虚偽だと思っていた者達も、ここまでくると恐怖に身を震わせる事しかできないようだった。
キリトもまた、仮想空間である筈の場が生き死にを掛けた戦場になるとは露程にも思ってはいなかった。
生きて帰るには百層ある階層を全て攻略するのみ。
その重荷を受け、キリトは人の命を踏みにじる茅場に対して初めての怒りを抱いた。
「さて。長々と説明したが、諸君らにはこれに加えて更なる追加事項を加えようと思う。なに、恐れる必要はない。このアインクラッドの世界をより享受する為の規約、と思ってくれて構わない」
だがチュートリアルはまだ終わらない。
泣き言を喚く一部の参加者など構いもせず、茅場は更なる追加要項を設定した。
「先ず一つ目。これよりアインクラッド全域に安全区域と危険区域を設定する。安全区域に設定されている場はプレイヤー諸君には何の害もない区域だ。安心してゲームを続行してくれたまえ。しかし危険区域なる場所に侵入した場合、ゲーム続行を放棄したと見なし、諸君らのHPゲージを強制的に0へと変更させる。即ち死のエリアだ。圏内であろうと何処であろうと、回避する方法は認められない。侵入した瞬間に作動する罠と考えてくれてもいいだろう」
危険区域。
その名称にキリトは思わず自身のHPバーを確認した。
現状ではそのパラメータに異常はないが、茅場の言う危険区域に侵入した瞬間、否応なくこのゲージが0へと変更される。
武器や防具そしてスキルの問題ではない、完全なる強制退場だ。
例外は存在しない。
そんな特例を茅場は与えはしないだろう。
危険区域の提示に既に否定する気力のない者達は辺りですすり泣き、または筋の通らない怒号を出す。
キリトは彼らの姿を見て焦燥を感じながら、これから先に待ち受ける試練を想像した。
エリア内に配置されている敵だけでない。
至る所に存在する危険区域も念頭に入れて行動をしなければならないのだ。
ならば状況が混乱している今の内にいち早く狩場でレベルを上げ、最短でこのゲームをクリアする必要があるだろう。
幸いキリトはベータテスト時に幾つかの層の状況判断を終えている。
他にも同じような境遇の人間は必ずいる筈だ。
ならばその者達と情報を交換し合い、恐怖心により戦えない者は一層に残し、それ以外の者が攻略に従事する事こそが最善の策のようにも思えた。
「そしてその範囲だが、最も上階に到達している者の階層から10を引いた数値までを安全区域とし、それ以降の階層を危険区域とする。仮に最も上階に到達している者のいる階層が50層である場合、その値から10を引いた40層から50層までが安全区域となり、それ以降の1層から39層までが危険区域となる」
だがその考えは呆気なく崩される。
危険区域の範囲は想像以上に広範囲だった。
即ち百層を目指すにつれて、危険区域は段々と広がりを見せていくのだ。
まるで上階へ逃げようとする参加者達の後を追うかの如く、ゆっくりとアインクラッド全体を侵食していく。
恐怖心により足が竦んでいる者達は全員用済みであるという事なのだろうか。
デスゲームという名の本来の意味をキリトは戦慄しながら理解した。
「そして二つ目。諸君らの中には全員が一層で待機していれば危険区域に陥らないのではないか、という安易な考えを持つ者もいる筈だ。そのためその考えがいかに無謀であるかを示す為に、新たなアイテムを授けようと思う。受け取ってくれたまえ」
途端、手鏡を受け取った時と同じ原理で新たなアイテムがキリト達の前に提示される。
名称はタイムリミット。
無言のままそれを受け取ると自動でそのアイテムは展開され、とある光景が目の前に浮かび上がる。
「それは諸君らが現在到達している層の滞在時間を数値化したものだ。見ての通り初期状態の数値は334時間、つまりは一週間となっている。タイマーは現実時間と同じように時を刻んでいき、値を減少させていく。そしてそれが0になる、言わば一つの層での滞在時間が一週間を過ぎた瞬間、危険区域と同じようにゲームを放棄したと見なし、諸君らのHPバーを強制的に0へと変更する。予め言っておくがそのアイテムは放棄したところで意味はない。万一捨てたければこのゲームをクリアするか、死を選ぶかに限られる」
キリトはいつの間にか静まり返っていた周囲に気付き、顔を上げる。
すると殆どの参加者がタイマーを呆然とした表情のままで見つめていた。
仮想空間である筈の世界が死の世界へと変わった最悪の状況を、皆が完全に理解できていないのだ。
恐らく簡単に受け入れる者などいないだろう。
キリトもこんな馬鹿げた規則など大概にしろ、と一蹴してしまいたかった。
だがそれは出来ない。
目の前にいる茅場という存在がそうさせてはくれない。
「タイマーを初期化する方法は上階へ上がる事だ。それ以外の方法は認められない。そして一度初期化したとしても、タイマーが停止する事は無い。当初の334時間の状態に戻るだけであり、以前と変わらず諸君らの命の時を刻み続ける。故に一層に留まるといった逃避は許されない。安心したまえ。諸君らの行く手を阻む階層のボスはうまく此方で調整を行っている。強敵ではあるが万全の体制を整える事が出来れば、倒せないという事態には陥らないだろう」
デジタル型のタイマーは334時間と表示されたまま動かない。
今はチュートリアル時なので計算には含まれないのだろう。
だがそれが終了した時、この数値は死に向かって刻々と歩み続ける。
そのためタイマーが0にならないように防ぐ為には上の階へと上がらなければならない。
そうでなければ待ち受けるのは死。
ナーヴギアによって自身の脳を破壊されるのだ。
誰であれ例外は許されない。
今この場にいる一万人に近い参加者がそれを理解せざるを得なかった。
「最後にアインクラッドを制覇できる定員を言い渡しておく。これは百層に到達した者達が何千人もいては話にならないという持論の為だ。そのための処置と思ってくれ」
そんな中、茅場は両手を広げて脱出が可能な定員を提示する。
一万人の参加者全員が一致団結する状況を回避しようとしているのかもしれない。
しかし既に彼の言葉を妨げる者はいない。
参加者の大半が反抗する気力を無くし、只管に茅場の言う言葉を耳にしているだけだったのだ。
「五人。アインクラッドを脱出できる人数は一万人中五人のみとする。これは百層を制覇した者達から先着順で決めさせてもらう」
「ご、五人…!?」
そして最悪といっても過言ではない狭き門が現れ、辺りから誰かの悲鳴が聞こえ始める。
一万人中五人、つまりは二千分の一。
その数値が何を示しているのかキリトはおぼろげながらも理解する。
これは争奪戦だ。
脱出が可能な五人という僅かな数値を求めて、一万人の参加者が争う椅子取りゲーム。
最早階層にいるモンスターだけが敵ではない。
アインクラッドの設定にはPKというプレイヤーが他のプレイヤーを攻撃できるシステムが確かに存在する。
そのためここにいる一万人もの参加者達が生を渇望しているのならば、その全員がキリトの敵になり得るのだ。
一刻の猶予も安堵も許されない。
最上階をめざし、皆が血眼になって他の参加者を蹴落としていくだろう。
キリトは仮想空間では決して感じない筈の身体の発熱を実感し、反射的に左手で胸を押さえた。
「追加事項は以上。これにてソードアート・オンライン正式サービスのチュートリアルを終了する」
瞬間、今まで原形を保っていた茅場の姿が泥のように変貌していく。
手は腐ったように崩れ落ち、身体全体から赤黒い空気を発散させる。
恐らくこれで彼の言うべき事は全て語り終えたのだろう。
彼は一万人の者達が恐怖し怯える様を高みから見物するつもりなのだ。
誰も何も言葉に出せないまま、茅場は段々と赤黒く染まる世界に溶けていく。
「プレイヤーの諸君、全てを失った私に最後の夢を見せてくれ。健闘を祈る」
その言葉を最後に茅場はこの場から退場した。
赤黒く染まった景色も彼が消滅したと同時に色を取り戻す。
後に残るのは景色の戻った今まで通りのアインクラッドと、沈黙する一万人の参加者だけだった。
だがそれも束の間の沈黙だった。
場の制圧していた茅場が退場していた事により、感情の行きつく先を失った者達の悲鳴と怒号が瞬時に世界を塗り替える。
「お、おい…ふざけんなっ!五人って…どういう事だよっ!」
「死ぬのか…?ゲームオーバーになったら、俺は、本当に死ぬのか…!?」
「いやぁあああっ!誰かっ!此処から出してぇっ!」
喧騒を超えた混乱の最中、キリトは眼前にあるタイマーが刻々と時を刻んでいる事に気付いた。
無情にもタイムリミットは近づいている。
一層に留まれる時間は残り一週間を切っており、もうゲームは始まっているのだ。
生きたいのならば、生き残りたいのならば、自分の力で最上階へと到達するしかない。
キリトの脳裏には父と母、そして妹の直葉の姿が思い浮かんでいた。
「な、なぁ…キリト…」
背後から男の声が聞こえてくる。
慌ててキリトが振り返ると、そこには今まで共に行動していたクラインが立ち竦んでいた。
皆が恐怖に怯え錯乱している中で、彼は苦しそうに呻きながら口を開く。
「こんなの嘘、だよな?此処にはこんなに人がいるんだ。俺だけじゃない。皆こんな仮想空間の中でも、しっかりと生きているんだぜ?…なのに、五人だけしか生き残れないなんて、そんな、馬鹿みたいな話…」
「クライン…」
クラインの言葉にキリトは心を痛めた。
確かに生き残るためには最上階を目指さなくてはならない。
しかしそうなると、クラインを始めとする仲間達と敵対する可能性もある。
言い換えれば他の参加者達を見捨てる事と同義なのだ。
生きて帰るという覚悟は出来ても、他人を殺すという覚悟までは一般人であるキリトには到底出来ない。
それは此処にいる参加者達も同じ筈なのだ。
「俺は一体…どうすればいいんだ…」
収まる事のない喧騒に、キリトの呟きは無残にも掻き消されていった。