逃げた。
暗闇の中、何も見えないまま、闇雲に逃げ惑った。
振り向いてはいけない。
後ろから迫る何かに追いつかれてはいけない。
そんな暇があるならば、逃げろ。
逃げて逃げて逃げて、どこまでも走り続けろ。
けど、その暗闇には出口なんかなくて。
私は行き場もないまま、泣きじゃくりながら足を進めるしかないのだ。
ごめんなさい。
誰に謝っているのかも判らない。
許して下さい。
何を許してほしいのかも判らない。
そんな大切なことが、思い出せない。
きっと、後ろにいるナニカに謝っているんだろう。
でも、私は、何を謝っているんだろうか。
後ろのナニカは、私がそれを思い出さないから、ずっと怒っているのかな?
それを思い出して、しっかりと謝れば、許してもらえるのかな……
振り向くのは、怖かったけど。
その思いつきはとても魅力的で。
私は、勇気を出して振り向いたんだ。
そして、見た。
虚ろな眼窩。
腐敗した足。
千切れた腕。
まき散らされた脳漿。
止まらない血飛沫。
死者の、大軍……
私が、殺してきた……
男がいた。
女がいた。
青年がいた。老人もいた。子供もいた。
元の姿が判らなくなった者もいた。
その口は呪詛をまき散らし、光のない瞳は確かに私のことを映している。
伸ばされた腕は何かを求めるように……何かを捕え、引きずり込むかのように、伸ばされている。
「あ、ああ、あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!!!!!!!!!!!」
悲鳴を上げた。
力の限り、喉が張り裂けるくらい、叫んだ。
そして、逃げだした。
棒のような足を、ひたすら動かして。
縺れるように、無様に。倒れそうになりながらも、必死で。
思い出して、しまった。
見ないようにしてきたものを、知ってしまった。
もう一度眼を逸らすことなんて、出来なかった。
私の罪の具現。罪悪の痕。
許してなんて、言えない。言えるわけがない。
出来ることなんて、眼を閉じて、耳を塞いで、走り続けるしかないのだ。
でも、疲れきった体はいつまでも走ることなんて出来ない。
まき散らされた血の池に足を滑らせて、私は受け身を取ることも出来ず、地面に倒れこんだ。
そこに追いすがる、死者たちの手。
頭を抑え、腕を取り、髪を掴み、首を絞める。死者たちの手が、手が、手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が!!!!
耳をふさぐ手を解かれた。
死者たちの怨嗟の声が耳に入り込む。
瞼を無理やり開かれた。
回りを囲む死者たちの群れは、皆虚ろな瞳でこちらを睨みつけてくる。
私はただ、泣きじゃくって許しを請うことしかできない。
それがどれほど愚かで、意味のないことだと判っていても。許されるはずがないと判っていても。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい―――」
けど、応えは当然、許しの言葉なんかではなくて。
返ってくるのは、私を恨み、呪い、蔑み、否定する悪意。
―――お前が、俺達を殺した
―――許されるなんて思っているのか
―――地獄に堕ちろ
―――ア
―――私たちの未来を返して
―――同じ苦しみを味わえ
―――この人殺しめ
―――リア
―――お前がいなければ……
―――死ね、死ね、死ね、死ね、死ね
―――ゼリア……
「アゼリアっ!!!!!!!」
ドクドクと、心臓が胸を突き破りそうになるほど激しく脈動しているのを感じながら、アゼリアは目を覚ました。
目の前には心配そうに彼女を覗き込むハルカの姿がある。
ワイシャツは冷たい汗でびっしょりと濡れ、体に張り付いて気持ち悪かった。
「大丈夫、アゼリア……? また魘されていたけど」
「あ、ああ……だ、大丈夫だ……」
「そう言って、もう一週間よ……やっぱり、何か―――」
「いや、本当に大丈夫だ、ハルカ。もう落ち着いた」
本当は落ち着いてなんかない。
夢の中の出来事は、現実と勘違いするほどの生々しい重みを伴って、目が覚めても尚憶えていた。
あの日、ギュンター捕縛の任務を終えてから一週間。
私は毎晩、その夢に魘されていた。
しかし、どうすることも出来ない。
原因は判っていても、それを取り除くことなど出来ないのだから。
心配そうに顔を歪めるハルカに申し訳なく思いながらも、私はベッドから起き上がった。
「……シャワーを浴びてくる。このままじゃ風邪をひいてしまうからな。ハルカも、もう少し寝た方がいい。まだ三時だ。起こしてすまなかったな」
「うん、わかった……けどアゼリア、私でも相談に乗るくらいは出来るからね。何でも一人で抱え込んだりしないでね」
「判ってるよ……」
そうして、ベッドに戻るハルカを残して寝室を出る。若干の申し訳なさを感じながら。
私がハルカに相談をすることはないだろう。
ハルカを信用してないわけではない。ただ、この問題はあくまで私の心の問題。誰に相談してもどうなるということでもない。
私自身が克服するしかないのだから……
雑巾のように絞れそうなワイシャツを洗濯籠に放り込み、シャワーを回した。
暖かいお湯が流れ出し、冷えた体を温めていく。ほっと人心地つく瞬間。
しかし、少しでも気を緩めると、幻視してしまう。
自分の手が真っ赤に塗れている様子を。
シャワーから流れる水が、赤く染まる様子を。
物陰から這い出る、腐った手を。
「……っ!!」
今も、見てしまった。自分の手が赤く紅くアカく染まっているのを。
私は両手をシャワールームの壁に叩きつけて、力いっぱい目を閉じた。
「くそっ……私は、一体いつまで……」
何時になったら、こんなものから解放されるのか……
だが、それが一生背負わなければならない十字架だと判っているから、私は嗚咽を噛み殺すしかなかった。
通いなれた道を進むと、そこにはすっかり馴染みになった花屋がある。
店主は流石に慣れたもので、言わなくとも既に花束を一束作ってくれていた。
「ほいよ、ねーちゃん。今日は春の新品ばかり入れといたぜ。四千ジェニーな」
「ああ、ありがとう」
もうお決まりになったやり取り。いつもと違う点があるとすれば、財布を開いた私が凍りついたことだろうか。
「―――どしたの?」
隣のハルカが怪訝な視線を向けてくる。
とりあえず、もう一度財布の中身を数えてみた。
千ジェニー札が、いち、にぃ……三枚。
小銭も合わせて、計3215ジェニー也。
「……不覚」
金が足りないとは……情けないというか、恥ずかしいというか……
横から財布を覗き込んだハルカと目が合った。
なんていうか、呆れたような視線を向けられる。
「……ま、ここは私に任せて」
ハルカは私にだけ聞こえるように小声で言うと、店主の方に向き直った。
「ぬし様」
ハルカの一風変わった呼びかけに、店主は何事かとそちらを見る。
ハルカはコホンと咳払いをし、精一杯威厳を取り繕うかのように胸を張ったのだった。
―――で、数分後。
「……意外だ」
「ん? 何が?」
「君が交渉術なんか持っていたことだ。そんな風には見えなかったがな」
結局ハルカが値切り、ところどころに脅迫っぽいカマカケだの交渉術だのを織り交ぜていった結果、二割引でのお買い上げとなった。ぎりぎり手持ちで足りる値段だ。
ハルカは意外と強かなところがあることは知っていたが、どこでそんな経験を積んだのだろうか。交渉術なんて学校では習わない。
そのことを尋ねてみると、ハルカは肩を竦めて答えた。
「そういう小説もあるのよ。後はイメトレね」
「……ある意味凄い才能だな、それは」
イメージトレーニングと創作だけでそんな技術が持てるなんて……
理不尽な努力の放棄に肩を落とした。
まったく……そういった技術を身に付けるのに私がどれほど苦労したと思っているのだろうか……
なんとなく恨めしい気持ちになってしまったので、軽く頭を振って話題を変えた。
「それと、さっきの妙な喋り方はなんだ? どこの方言だ?」
ハルカは交渉の最中普段とは全然違う口調だった。値切りを渋った店長の首を縦に振らせた言葉は、「わっちの可愛さに免じて、もう少しまけてくりゃれ?」だった。
そう聞くと、ハルカはニヤリと不敵に笑った。
「あれは北の国の神様の喋り方よ。商人を口説くならあの口調で間違いないわ」
「……なんだそりゃ」
相変わらず言ってることはよく判らない。だが自信に満ちたハルカの様子に、彼女の頭に狼の耳がはえているような気がした。なんとなく。
まぁ、金が浮いて助かったことは確かなんだ。それ以上追及しようとも思わない。
軽く肩を竦めて話の終わりを告げると、私はその花束を大切に抱いて、ハルカとともにエル病院の方へ向かった。
カーティスから病院に行く許可が下りたのは昨日の晩。ネオンに占ってもらった一週間後のことだった。
任務を終えた日から毎晩のように悪夢にうなされていた私だが、頭の中はその占いのことでいっぱいだった。
何度見なおしても、それが意味するところはただ一つなのだから。
『箱庭に眠る愛しい天使を林檎の毒が襲い
天使は永遠に目覚めぬ眠りについてしまう
迷い子の天使を伴いなさい
真実への鍵が見つかるかもしれないから』
箱庭に眠る愛しい天使―――言うまでもなくヴィオレッタのことだろう。
林檎の毒というのが何かはわからないが、何かが襲いかかり、ヴィオレッタが死ぬという予言。
これを見てから、私は気が気でなかった。
四週目のいつこの予言が起こるのかは判らないが、もしその日が今日ならば? 明日ならば? そう考えると焦りばかりが募り、幾度となくカーティスに許可を求めた。
だが―――となりを歩くハルカを見る。
それも今日で一息つける。
あの予言は警告さえ守れば、悪い占いは回避されるらしい。
迷い子の天使。これはきっと、ハルカのことだ。
彼女を伴って病院に行けば、最悪の事態だけは回避される。それがどういう過程なのかは判らないが。
ハルカを連れて病院に行くのは初めてだ。
どのようにハルカが影響するのかは判らない。だが、助けてほしい。心の底からそう思う。
縋るように彼女を見ていると、目があった。
「なに? アゼリア」
「……いや、なんでもないよ」
「そう? また調子が悪くなったとかじゃ……」
「ありがとう。だが本当に大丈夫だ。考え事をしていただけだから」
ちょっと疑わしそうな顔で、ハルカはそのまま引き下がった。
どんどん保護者っぽくなっていくハルカに苦笑する。だが今は本当に考え事をしていただけなので、嘘はついていなかった。
ハルカには予言のことを知らせていない。
予言を知らせることでハルカに余計な負担をかけたくないし、心配しすぎかもしれないが、そのことでさらに未来が変わってしまうのではないかと不安だったのだ。
そして、考え事といえば、気になることが一つ……
占いの四行目―――真実への鍵。
「真実」とは、一体……?
病室はいつも通り。何も変わることなくそこにあった。
窓から射し込む光も、机の上の写真と人形も、無骨に存在感を示す医療器具も、何も変わらない。
部屋の住人もまた、いつも通りの姿でそこにいた。
あんな予言の後では、ただそれだけでもホッと安堵する。
「懐かしいな……四か月ぶりかな」
花瓶の花を取り替えていると、後ろでハルカがそう呟くのが聞こえた。
古い花束を取り出して、先ほど買ってきた花束を花瓶に挿す。華やかな香りが部屋を満たしていく。
胸いっぱいにその香りを吸いこむと、心の中まで澄んでいく気がした。
「ハルカはここに来たことがあったのか?」
「うん……ほら、アゼリアと会ったころ、私が酷いこと言ってロフトを飛び出したことあったじゃない。あのときに」
「ああ……あったな、そんなことも」
あの頃はハルカの言動にいちいち悩まされたものだ。
今でもそういうことはあるのだが、それでもハルカは以前よりも大分成長したのではないだろうか。少なくとも、お金のことで私が頭を悩ませる必要がなくなった。
食事も作ってくれるし、家賃も払ってくれるし、割と助かっている。
「ああ、髪がサラサラ。気持ちいい~。これはもう萌えね。特A級の萌えね」
「萌え?」
ハルカがよく口にする言葉だが、「萌え」ってなんだろう。
萌え……ハルカが萌えと言っていた時のことを思い出す。
―――クロロ萌え~、イルミ萌え~、ヒソカ萌え~
……共通点、危険人物?
「謎だ……」
ヴィオレッタにその要素は欠片もなかった。
それとは違う共通点があるのか?
腕組みをして考えるが、さっぱり判らないので、ひとまずそのことは置いておくことにした。
「ハルカ、ヴィオレッタの体を拭くから手伝ってくれ」
「あいあい」
ヴィオレッタの入院服を脱がし、濡らしたタオルでその体を拭いていく。
肌を傷つけることが無いように、宝石を磨くような慎重さで。同時に関節が固まることのないように、体を動かして関節を解していく。これらはみんな看護師さんたちが毎日やってくれていることだ。本当に頭が上がらない。
そして体を冷やさないように、乾いたタオルで濡れた体を拭きとった。
「ハァハァ……ひ、貧乳っ子……これはもう、国宝指定かしら……」
……ちょっとハルカは黙らせた方がいいかもしれない。
何かぶち壊しだった
とりあえず、軽く引っ叩いておく。ハルカから隠すように、手早くヴィオレッタの服を戻した。
「アホなことを言うな。私は医者のところに行ってくるから、しばらくここに居てくれ」
「はーい」
やれやれ、と肩を竦めながら、私は部屋を出た。
ちなみに全くの余談だが。
ハルカは体格もまたヴィオレッタにそっくりで、胸の平坦さもいい勝負なのだった。
午前中の回診を終わり、デスクでコーヒーを飲んでいた。
最近は夜間の急患が多く、仮眠は取っているものの寝不足だ。同僚の顔にも疲れの色が濃い。
けど患者の前ではそんな様子を見せるわけにはいかない。思いきり濃いコーヒーをミルクも砂糖もなしで飲みほして、あまりの苦さに顔をしかめるのだった。お陰で目は覚めたが。
そんなことを考えていると、デスクに置かれた電話が鳴った。
「はい、こちら脳外科」
『あ、パスカル先生ですか? こちら受付です。アゼリアちゃんが来てるんですけど、今お時間よろしいですか?』
「アゼリアちゃんですか。ええ、今は大丈夫です。取り次いで下さい」
『はい。それでは第一応接室にお通ししますので、よろしくお願いします』
ああ、もう一月が経つのか。
アゼリアちゃんが見舞いに来るのはおよそ月に一度なので、彼女の来院の度に時間の流れを知らされるのだった。
私はもう一杯コーヒーを一気に飲み、軽く身だしなみを整えると応接室に向かった。
「やあ、アゼリアちゃん。元気……じゃ、なさそうだね」
応接室に座っていた彼女の顔は、明らかに不調だった。
寝不足と疲労、栄養失調。それは肌の様子などからも判る。
だが、どこか思いつめた感のある彼女の様子からは、原因は別にあるのではと考えられた。
「いえ……最近、ちょっと寝つけないだけですよ。先生の方こそ、お忙しいようで。お邪魔でなかったですか?」
「邪魔だなんてことはないよ。君ならいつでも相談に乗る」
やんわりと追及してほしくないと態度で示されて、私はそれ以上問うことが出来なかった。
「それでは、先生……伺ってもよろしいですか?」
「うん、なんだい?」
彼女は一瞬躊躇うように口を噤み、意を決したように口を開いた。
「あの、妹の……最近の様子はどうでしょうか。特に今週のことで、何か変わったことはありませんでした?」
「ん……依然、変化は無しだね。脳波、脈、呼吸、血圧、その他もろもろのデータを見ても、以前から変わりはない。恥ずかしい限りだが、回復の兆しも今のところは……」
自らの無力を思い知るのはこうした時だ。
医者は、医学は万能などではない。日進月歩の発展を遂げ、不断の努力を繰り返してはいるが、それでも尚、救えない命がある。取り戻せない笑顔がある。それを思い知るとき。
それが嫌で、つい弁明めいたことを言っていた。
「でも、このまま治療を続ければ病状が悪化するってことはないから、そこは安心してくれていいよ。この病気は―――」
「いえ、そういうことではなくて……気を悪くしないで戴きたいのですが、何か、毒……のようなものは……」
毒……?
一体どういうことだろう。そんな心配をするなんて……
だが彼女の顔を見れば、冗談でそんなことを聞いているわけではないと判る。
私は慎重に言葉を選んで、彼女の不安を取り除こうとした。
「……ない、と思う。無い筈だ。ヴィオレッタちゃんのお見舞いに来る人は少ないし、彼女に勝手に食物が与えられるなんてこともない。この病院はセキュリティが万全とまでは言わないが、それでも不審者に対応できるように警備されている。可能性があるとすれば投薬のミスだが、彼女の投薬をしているのは十年以上の経験ある者だけだし、使われた薬はきちんと確認して記録されている。その可能性は低い。それにもし毒が体内に入り込んだりすれば、毎日の検診で見つかっている筈だ」
「そう、ですか……」
「何か、思い当たる節でもあるのかい?」
「いえ……」
アゼリアはそれっきり口を噤んでしまった。
そのことが無力感を加速させる。
全てを話してほしいとまでは願わない。全てを受け止められると思うほど自惚れてもいない。
けど、少しでもその重荷を背負わせて欲しい……力になりたい、そう思うのに、彼女は全てを自分で解決しようとしているように見えてしまうのだ。
「……ああ、ところで、この前ヴェルンハイム大学の外科部長と話をしてきたんだけどね―――」
これは欺瞞なのだろうか。
ただ自分が彼女の助けになっていると思うことで、罪の意識から逃れようとしているだけではないのか。
そんな考えが頭の片隅に引っかかりながらも、私は友人の伝手を頼り、奔走し続けるのだった。
病室に戻ってみると、ハルカはいなかった。どこかに出かけているのだろうか。
だが、ある意味では好都合だ。今は一人で情報を整理したかった。私はベッド脇の椅子に腰かけると、考えを纏め出した。
パスカル先生に聞いてみたが、毒と思われるものがヴィオレッタに与えられたとは思えない。
事実彼女の現状には変化が無いのだ。
ならばヴィオレッタが毒を受けるのはこれからということか。
ヴィオレッタが襲われる理由なんて、考えるまでもない。
私は死ぬほど恨みを買っているからな。
仕事で証拠を残したつもりはないが、それを絶対と言い切るほど自惚れたつもりはない。
私とヴィオレッタの関係は組の方がある程度の情報操作をしているらしいため、繋がりが簡単に判るとも思わないが、実際私はこうして見舞いにも来ているのだし、どこからか情報が漏れないとも限らないのだから。
「……結局、私が撒いた種ということか」
手を見る。
ところどころに傷が残り、ナイフの握りすぎでマメが潰れて硬くなっている。
人殺しの、手。
それは少しでも気を緩めると、赤い血がべっとりと付いているように見えてしまう。
ヴィオレッタに触れるのを躊躇ってしまうくらい、汚れている。
そう、悪いのは私だ。
私は悪人。それは論ずる余地すらなく、確かなことだ。
いずれ私を打ち倒す「正義」が現れる。そして私はきっとそこで朽ち果てるのだろう。
―――だが
軽く頭を振ってその考えをかき消す。
だが、ヴィオレッタに手を出させはしない。
如何なる聖人が私を責め立てたとしても、他の全ての人間を敵に回したとしても、護る。護ってみせる。
だから―――
「必ず、捕まえてやる……」
「あ? 誰をだよ」
「っ……!」
不覚……! 接近されるまで気付かないなんて……!!
ベルトの後ろに仕込んだナイフに手を掛け、戦闘状態に思考を切り替えて振り向く。
危険度、距離、ともに許容範囲内―――排除? 否、ここは病室、場所の移動を―――
どこまでも冷たく冷えていく思考で十七通りの対処法を導き出す。それと同時に敵の観察。
縦にも横にもでかい肉体。無骨な筋肉にその体は覆われている。そしてその顔はまるでゴリラのようで―――
「って……フェルナンデスか?」
「お、おう。な、なんだよ、いきなり殺気立ちやがって……」
そこにいたのはコンビニの袋を片手に持ったフェルナンデスだった。
安堵か、失意か。条件反射で戦闘態勢を取りかけた体は同じくらい簡単に力が抜け、ナイフから手を離す。
こいつが犯人なわけがないか。
気が抜けて椅子に座りこみ、私は小さく溜息をついた。
「……入室を許可した覚えはないがな。大体、何故お前がここにいる」
「ノックは何度もしたぜ? いや、俺はちょっと友人の見舞いに来てたんだがよ、あんたの姿が見えたからちょっと追ってきたんだ。妹の見舞いか?」
「何故妹と知っている?」
「あ? 部屋の前に張ってあるじゃねーか。ヴィオレッタ=クエンティって。ファミリーネームが一緒だ」
「……そうだったな」
どうやら本調子には程遠いらしい。やはり連日の寝不足で鈍っているのだろうか。聞くまでもないことだっただろう。それにノックの音にも気づかなかった。
「ならば、見ての通り見舞い中だ。早急に出ていってもらおうか」
「ま、そう言うなよ。なんだ、妹さんってあんたに似てるの―――」
フェルナンデスは近づいてきて……ヴィオレッタの顔を見て、絶句した。
その顔に浮かぶのは、驚愕だろうか。
いや、それだけではない……
歓喜。それがわずかに読み取れるような気がした。
「……なぁ、あんたもう一人妹いるのか?」
「何故そんなことを聞く?」
「い、いや、こないだ町でこの子にそっくりな子を見かけてよ。それで吃驚したわけさ」
ああ、ハルカのことか。
そういうことならば、フェルナンデスの驚きにも納得がいった。
どう答えたものか一瞬悩む。だが、すぐに答えは出た。
「ああ、そうだな……その子は私の妹だ」
こう答えても構わないだろう。
ハルカのことを、私は妹のように大切に思っているのだから。
「そうか、そうか……」
「……どうした?」
「いや、なんでもねえよ。俺は失礼するぜ」
「ああ、そうだったな。さっさと出て行け」
「わかったよ、邪魔したな。あ、これ食うか?」
フェルナンデスがコンビニの袋から取り出したのは林檎だった。
「いらん」
「ま、そう言うなよ。買ったはいいけど、別に誰も食わないから困ってたんだ。ほらよ」
「いらんと言っておるに……」
しかし林檎はすでに投げ渡されており、私はそれをはじき返すでもなく受け取るのだった。
物に罪はないからな。
そしてフェルナンデスはすぐさま部屋を出ていった。
「……林檎、か」
今はあまり見たくない果物だ。
占いの詩の一行目を思い出す。
『林檎の毒』
これは一体、何を暗示しているのだろうか……
「……まさかこの林檎じゃないよな」
あまりに馬鹿馬鹿しい考えだったので、すぐにそれを打ち消す。
だが、一応ヴィオレッタに触れることが無いよう、遠い場所に置いておいた。
悩みばかりが増えていく。
答えが出たときには物事は取り返しがつかない。起こりうる全ての解に対策を打っておかねばならない。
「たっだいまー!」
そんな重苦しい悩みを、溌剌とした声で吹き飛ばしたのはハルカだった。
「お帰り、ハルカ。どこに出かけていたんだ?」
「んー、ちょっと昼ごはん買いに。コンビニパンだけど、アゼリアも食べる?」
「ああ、貰おうか」
ハルカが取りだしたのはチョコが中に詰まったパン、チョココロネだ。
受け取り、食べだす。
ふと視線を感じると、ハルカがじっとこっちを見ていた。
「ねえアゼリア、チョココロネってどこから食べる?」
「……どっちからでもいいのでは?」
別に気にしたこともない。
「……バカ! それじゃあチョココロネの頭がどっちかの議論まで行かないじゃない!」
「な、何を怒っているんだ?」
なんていうか、ハルカがいるとどうにも真剣さというか、シリアスさというか、そういうものが欠けていくなぁ。
ある意味ではその明るさに助けられている部分もあるのだが。
私は苦笑いをしながら、こなたとつかさがー、と語っているハルカに耳を傾けるのだった。
走り出したいのを堪えた。
いまだに歪んだままの鼻が熱を持って疼く。不快な筈のその感覚に、今だけは口元が釣り上ってしまう。
―――見つけた
すれ違う人々が怪訝な視線を向けてくるが、今はそれすらも気にならない。
怒りと暗い歓喜が混ざり合うと、こんな不思議な気分になるのか。
悪くない気分だ。
―――見つけた
気がつくと目的の場所まで着いていた。
ノックもなく入る。どうせこの病室は知り合いしかいない。そんなことを気にする奴らでもないだろう。
―――見つけた!!
「おう、フェルナンデス……って、どうしたんだ、お前?」
ベッドの上でグラビア雑誌を広げて暢気な出迎えの挨拶をしたロックも、俺の表情を見て何かを察したのか。
俺は歓喜に声が震えるのを抑えきれず、声を抑えて告げた。
「見つけたんだよ、ロック、アゼル……俺のナイスな鼻をこんなにしてくれて、お前らを寝たきりにしてくれたあの小娘をよ……」
「……っ!!」
部屋の空気が変わる。
ベッドの上から未だに起き上がることのできないロックとアゼルはその瞳に昏い炎を灯し、声をひそめた。
「……いたのか?」
「いや、まだ姿は確かめてねえ……だが、そいつの手がかりは掴んだ」
「クソッ……あいつが……!」
アゼルは悔しげにベッドを叩いた。
薄れてきていた恨みが、再び鎌首を持ち上げたのだろう。
だがそれも無理はない。その女のせいでアゼルとロックは退屈な病院生活を強いられているのだから。
四か月前、俺たちが町で遊んでいるとき、走ってきた女にぶつかられた。
生意気なことを言うので、慰謝料としてちょっと付き合わせようとしたが、その女はあろうことか俺達を殴って昏倒させて逃げだした。
後で判ったのは、俺たちが負けたのはその女が念能力者だったからなのだが。
その女に殴られたせいで俺の鼻は複雑骨折。アゼルとロックも重傷を負い、こいつらは念能力を身に付けることが出来なかったためダメージが大きく、入院せざるを得なかったのだ。
「あの女……絶対に、この借りは返してやるぜ……」
「だが、一つ問題があってな。そいつ、俺の組の化け物みたいな殺し屋の妹なんだよ。下手に動けば俺たちの方が消される……」
「あ? びびってんのかよ、フェルナンデス」
小馬鹿にしたようにアゼルは鼻で嗤った。
あいつの化け物っぷりを見てないから言えるんだ、と毒づく。
「なーに、どんな化け物でも四六時中張り付いているわけじゃねーだろ。それに、方法はいくらでもあるさ。例えば―――人質、とかな」
その言葉で、すぐさま一人頭に思い浮かんだ。
なんとも丁度いい人質が一人、さっきいたじゃないか……
「そいつは、ナイスなアイデアかもな、アゼル」
「だろう?」
「だが、やるのはあくまで慎重にだぜ。俺はあいつに殺されたくないからな」
「判った判った。そんな怖い奴だっていうなら、俺たちもしばらくは待つよ。殺されたくないのは俺たちも一緒だ。ロックもそれでいいよな」
「ああ」
ロックは深く深く頷いた。
「この恨みを晴らせるなら、な」
それは、その場にいた全員の気持ちを代弁していた。
病室に西日が射しこみ、空が茜色に染まる時間になったが、結局ヴィオレッタの体調に変化はなかった。
これが占いの警告を護ったから未来が変わった結果なのか……それとも、「毒」が襲いかかるのは今日ではないのか。
「警告を守れば、予言は100%回避される」ネオンはそう言っていた。ならば、ハルカを連れてきたことがどういう影響を及ぼしたのか判らないが、前者であると考えるのが自然だ。
だがもし万が一、後者であったならば最悪だ。次の面会許可が下りるのが何時になるか判ったものではない。その時、何もすることが出来ないだなんて……考えただけでもゾッとする。
しかし時間の流れは止まってくれず、静かなノックの音とともに看護師さんが入ってきた。
「アゼリアちゃん、もうすぐ面会終了の時間なんだけど……」
「ええ、判りました……」
ヴィオレッタの顔を見る。
いつまでも変わらない、いつもどおりの寝顔。
そこに苦しげな様子はない。
「……仕方ないか。行こう、ハルカ」
「うん。それじゃあ、またね、ヴィオレッタ……」
ヴィオレッタの頬をそっと撫で、そこに触れるだけのキスをする。
ありったけの親愛の情を籠めて別れを告げ、私は病室を出た。
面会終了のこの時間、見舞客たちが揃って帰っていくので、病院の入口はちょっとした混雑になる。
人が多いからと理由を付けて、私はハルカとともに待合室のベンチで少しの間待つことにした。こうしている間にもヴィオレッタの身に何かが起きるのでは、と不安に思いながら。
「あら、アゼリアちゃん。来てたの?」
「あ、エルマ先生。こんばんは」
その私たちを目聡く見つけて声をかけてきたのは、小太りで人のよさそうなおばさんのエルマ先生だった。
心臓外科に所属するエルマ先生はヴィオレッタの病気の担当医だ。長い間お世話になっている。
私が立ちあがり一礼すると、エルマ先生は笑ってお辞儀を返して、ハルカのことをじっと見つめた。
「あなたがハルカちゃん? パスカルに話は聞いていたわ。こうして見ると、本当にヴィオレッタちゃんにそっくりね。初めまして、ヴィオレッタちゃんの担当医のエルマです」
「ど、どうも。ハルカ=アヤセです」
「いやー、あなたが来た時は病院中騒ぎだったらしいわね。私はその日宿直明けで寝てたから気づかなかったんだけど、受付の子たちが凄い噂してたわ。私もその時に会いたかったなー。宿直なんて医者からするといいことないわ。寝不足でお肌に良くないし、厄介なケースが多いし、時間の感覚ずれるし。でも患者さんは待ってくれないから仕方ないのよね。そういえばアゼリアちゃんも最近寝不足なんですって? パスカルが心配してたわよ。しっかり寝てくれって。あなたも年頃の女の子なんだから、そういうところにはちゃんと気を遣わないと。なんだったら私がメイクの仕方とかから教えてあげましょうか? アゼリアちゃんたらいつも化粧っけないんだもの。いつもどこかから見られてるってつもりで構えていないと。あなた元がいいんだから、少し綺麗にすれば見違えるわよ。ああ、それと―――」
止まらないマシンガントーク。私たちは口を挟む暇もない。
エルマ先生はとてもいい人なのだが、一度口を開くと止まらないのが唯一の難点だった。
「……なんていうか、大阪のおばちゃんみたいな人ね」
「大阪というのは知らないが……エルマ先生はいい人だぞ」
こっそりと耳うちしてくるハルカに、私もまた小声で返す。
エルマ先生はそんなことは気にも留めず、私の「無防備さ」について指摘していた。
ていうか、大きなお世話です、エルマ先生……
「―――それにね、アゼリアちゃんは少しは服も選んだほうがいいと思うの。あなたいつもそのスーツでしょ? 別にスーツが悪いって言ってるわけじゃないし、キャリアウーマン見たいでかっこいいからそれはそれでいいんだけど、もう少し女の子っぽい服装をしてもいいっていうか……スカートくらい持ってるでしょう? そうすれば町の視線を独り占めよ? ああ、でもあんまり露出が多いのはやめたほうがいいかもしれないわ。アゼリアちゃんたら無防備にも程があるんだから。もう少しね、あなたは恥じらいってものを―――」
耳の痛い話ばかりで、そろそろ簡便してほしかった。
ちなみにスカートなんて持ってません……
そんな私の想いが通じたのか、院内放送を告げるアナウンスが流れた。
『パスカル先生、エルマ先生、至急713号室にお越しください。パスカル先生、エルマ先生―――』
そしてその放送を聞いた瞬間、私の顔が強張った。エルマ先生もまた、同様に顔を強張らせていた。
だって、713号室……そこは、ヴィオレッタの……!!
「先生!」
「……いいわ、アゼリアちゃんたちも着いてきなさい」
それだけ言い残すと、エルマ先生は素早く身を翻してエレベーターに向かった。
病院内で走ってはいけない。私は全力で駆け出したいのを必死で堪えながら、出来る限りの早足でエルマ先生の後に付いていく。
エレベーターに乗り込み、七階を押す。エレベーターの進みは亀のように鈍重に感じられ、一分に満たないその時間が一日のように感じられた。
そしてようやくドアが開く。エレベーターから降りれば、ヴィオレッタの病室はすぐそこだ。
「何があったの!」
「え、エルマ先生! ヴィオレッタちゃんの様子が急変しました!! 脈拍が乱れています。呼吸も不安定です!!」
「原因は!? 投薬のミスはないのね!?」
「原因は今調べています! ですが今日の分の薬は問題ありませんでした!」
「一体何故……!!」
医者たちが原因を究明しようと慌ただしく動く。
私はその様子を震えながら見ているしかなかった。
恐れていたことが、現実に……
苦しげに歪んだヴィオレッタの顔。
十年間、見てきた。笑うことも、泣くこともなく、常に変化のなかったその表情。その初めての変化が、苦しみだなんて……!!
私は何も出来ない。
殺すことしかできないこの手では、ヴィオレッタを救えない。
私は、無力だ……
祈る。
神に? 悪魔に? そんなことは知ったことではない。彼女の苦しみを取り除いてくれるなら、どちらでも構わない。
私には祈ることしか出来ないのだから。相手なんて選んでいられない。
「……まさか」
すぐ傍から聞こえたその声で、彼女の存在を思い出す。
詩に書かれていた警告。迷い子の天使。彼女なら、救ってくれるのではないか……?
藁にも縋るような気持ちでハルカを見ると、ハルカは「凝」をしていた。
ヴィオレッタの体調が急変した。
苦しげに歪む顔。心電図は不安定な波を描き、素人眼にもその状況が良くないことが判る。
医者たちが集まりヴィオレッタに必死の治療を試みているが、原因すら判らずに困惑しているようだ。
苛立つ。
胸のざわめきを抑えきれず、心の中で罵声を浴びせる。
原因も判らないなんて、悪い冗談でしょう?
あなたたちは医者なんだから、そのくらい判りなさいよ……!!
病気以外の原因でもあるっていうの―――
「あ……」
その時、私は以前この病室に来た時のことをふと思い出した。
ヴィオレッタの胸に浮かんだ、赤い髑髏。
すぐに見えなくなり、気のせいだと考えたあの不吉。
それが気のせいではなかったなら……
もし、あれが原因だったならば……?
その予感は力強く私の胸に降り立った。
もしもそうなら、医者たちには何も出来ない。
「……まさか」
「凝」で目にオーラを集中。何も見落とさないように、細心の注意を払ってヴィオレッタを「視る」
予感はどんどん強くなり、確信に近いものになっている。
根拠などない。
ただあの日、私の心をざわめかせた不吉な悪寒。あの時は気のせいだと自分に言い聞かせたが、そんなはずがない。
あれほど嫌な感じが、気のせいなわけないじゃないか……!!
だというのに―――
「なんで……!?」
見えない。診えない。視えない……!!
彼女の胸にそんなものは無い……!!
異常などなく、ただ白い肌が露わになっている。
それは本来なら安堵すべきこと。
あんなものが彼女の胸にあるなんてゾッとする。
だというのに、私の不安は増していく。
直観が、予感が、それこそが正解なのだと警鐘を鳴らす。
見えないことが、逆に不安を煽るのだ。
「どうして……どうしよう……」
焦りばかりが増していく。
不安が暗い雨雲のように胸に立ち込めていく。
私はヴィオレッタのことをあまり知らない。
けれど、アゼリアが彼女のことをどれほど大切に思っているかはよく知っている。
彼女に不幸があったらアゼリアが悲しむ。
だから私も彼女を守りたい。助けたい。
なのに―――私に何が出来るのか……
助けを求めるように、辺りを見渡す。
誰でもいい。彼女を救ってくれるなら……
救いの主がどこからか現れることを期待しているのか。存在しない誰かを探して、私は視線を左右に走らせた。
その時ふとアゼリアと目が合った。
普段の凛とした様子からはかけ離れた、怯え、不安気な様子。
青ざめた顔は病人のようで、救いを求める子羊のような眼を向けてくる。
その眼を見て私は急に落ち着いた。
そうだ。
今一番不安なのはアゼリアなんだ。
彼女は今にも泣き出しそうなほどに怯えている。
強くあらねばならなかったこの少女を支えてあげたいと、そう思ったんじゃなかったのか?
ならば、うろたえている場合じゃない。私は私に出来ることをしないと。
どうせ私に出来ることなんて限られている。
医学の知識なんてない。
病気のことなんて知らない。
それでも、思い当たることがあるんだから。
集中する。集中する。集中する。
万に一つ、億に一つの見落としもないように、「凝」視する。
オーラを、体中のオーラを目に集める。足りない。まだ足りない。
もしも原因が念能力だとしたら、医者たちには何もできない。
だから、よく視ろ! もっと深く、もっと鋭く、もっともっともっと……!!
「―――視えたっ!!」
それは、髑髏ではない。
アカい、糸。
それがヴィオレッタの左胸―――まさに心臓のある場所に絡み付き、触手のように揺らめきながら、手に、足にゆっくりとその先端を伸ばし、オカしていく。
そこに感じる不吉の匂いはあの髑髏と一緒。
冷水をかけられたように悪寒が走り、否応なしに確信させられた。
あれこそが原因……!!
「ちょ、ちょっと君……!」
「ハルカ、何を!?」
医者やアゼリアが慌てた声をあげるが、応えている暇はない。
あれさえ消せれば! あの糸を断ち切れれば、きっと!!
「君、待ちたまえ、一体何を……!!」
「おい、そっちを押さえろ!!」
うるさい……!! 集中してるんだ。こっちは必死なんだよ!! 邪魔しないでよ!!
「ハルカ、待て! どうするつもり―――」
ごめん、アゼリア。
後で説明するから。だからちょっと静かにしてて。
意識からすべての物音を閉めだす。
世界に私とヴィオレッタの二人だけになる。
そして、私は。
振り上げた右手に念を籠めて、それを振った。
ヴィオレッタの胸に向けて。
「うー……眼が痛いわ……『眼が、眼がぁーーーーっ!』って感じね」
夕日が射すこの時間。だがハルカの眼が痛むのはそれが原因ではないだろう。
よほど眼が痛むのか、ハルカはしきりに眼を擦っている。
しかし私にはそれを気遣うだけの余裕がなかった。
「……一体、何をした?」
私は病院前の花壇に腰掛けて、腕を組みながらそう尋ねた。
今私の胸を満たすのは、純粋な疑問と、安堵。
ハルカが何故あんな行動をとったのか、何故あれでヴィオレッタが救われたのか、私には判らなかったのだ。
あのあと、私たちは病室を叩きだされた。
病人の胸を殴る―――そうとしか見えなかった―――などという暴挙を犯したハルカは退室を命じられ、たっぷりと医者の説教を受けたのだが、その間にヴィオレッタの体調が急に回復したことが病室内から聞こえてきた。
「何か、視えたのか? 「凝」をしてヴィオレッタを見ていただろう? だが私も「凝」で見てみたが、異常など一つも見つけられなかった……一体、何を見つけた?」
尋ねると、ハルカは眼のまわりをマッサージしながら、なんとか口を開いた。
「赤かったのよ」
「……赤?」
ハルカの説明は要領を得ない。
聞き返すと、ハルカはようやく痛みが落ち着いたのか、眼を擦るのを止めた。
「まず、私が四か月前に私がヴィオレッタのところに行ったとき、帰り際、視えたのよ。髑髏が……」
「髑髏、だと?」
なんだ、それは。
私は長い間ヴィオレッタを見てきたが、髑髏なんて見たことは一度もない。
「言わなくてごめん。ただ、すぐに見えなくなっちゃったから、私も気のせいだと思ったのよ。で、その時はそこまで気にしなかったんだけど、赤い髑髏が一瞬だけ視えて、嫌な感じがしたの」
「……それで?」
「ヴィオレッタの状態が悪化したのは、それが原因じゃないかって思って……それで「凝」で見てみたの。けど、最初は何も見えなかった」
「……」
「それでも、その髑髏が原因じゃないかって思えてしょうがなかった。だから、もっともっと注意して見てみたの。絶対に見落としたりなんてしないように……そしたら、視えた。心臓に絡み付く赤い糸が」
「なにっ……!!?」
頭の中でガンガンと鐘が鳴る。
動悸が激しく、破裂しそうになる。
導き出された考えに視界が明滅する。
だって……だって、心臓は、ヴィオレッタの病気の患部だ……!!
「つまり……ヴィオレッタは、誰かの念能力の攻撃を受けていた?」
そう告げると、ハルカは深く頷いた。
「そうだと思う……だから私は、そのオーラを吹き飛ばした。出来るのか判らなかったけど、オーラをぶつけてその糸を切った。それがさっき私がしたことよ。結果は、見ての通り……」
ハルカは自分の話せることは全て話したとばかりに口を噤んだ。
聞こえるのは夕焼け空を横切る鴉たちの声だけ。それすらも思考に埋没していくにつれて消えていく。
「くそっ……」
何故気付かなかった。
何故判らなかった。
病気の原因が念能力だと……!!
私も「凝」でヴィオレッタのことを見たことが何度となくある。
けれどハルカの言う髑髏なんて見えたためしがない。
何故、何故何故何故何故何故!!
「―――リア! ちょ、ちょっと、手!! アゼリア!!」
グイッと勢いよく手を引かれて思考が遮られ、世界に音が戻ってきた。
脇に抱え込むように私の手を取ったハルカの慌てように驚き手を見ると、骨が透けて白く見えるほどに握りしめられた右手からは血がぼたぼたと零れていた。
けれどそんな痛みなど気にもならない。
それ以上の強い思いで胸がいっぱいだったからだ。
不思議な力が湧いてくる。
なんだろう、この気持ちは。
先の見えない闇の中で、行くべき道筋を示されたような想い。
なんて呼べばいいのか判らない。
しかしその思いの源泉ははっきりと判った。
愛しい妹を苦しめた敵の存在を知れたこと。
きっとこれこそが「真実への鍵」
「真実」が何かは判らない。けれど必ず尻尾を掴み、引きずり出してやる……!!
ああそうか、思い出した。
この感情の名を。
久しく抱いたことのない、忘れかけていたこの想いを何と呼べばいいのか。
―――敵意、だ。
そしてこの気持ちが形になったとき、私は一つの決意をしていた。
「……ハルカ、私はその能力者を捜し出す」
そう、絶対に……
私の妹を苦しめた償いはしてもらう。
けれどそこには一つの不安が残る。
そのために、一つの決意を。
「だが、それには私一人の力では足りない」
今回、私は何も出来なかった。
異常に気づくことも出来ず、ただ震えているだけだった。
だから―――
「力を貸してほしい」
ハルカを巻き込む覚悟を。
それに彼女は―――
「あったり前よ!!」
ハルカの声は力強かった。
迷い無く応えてくれたその一言。
それがどれほど私の支えになっているか……
私はさっさと帰路につこうとするハルカの背に黙って頭を下げた。
ちらりと見えたその横顔が赤く見えたのは、きっと夕日のせいだろう。
そう思うことにして、私もそのあとを追った。
長く伸びた影が二つ、寄り添うように進んでいった。
〈後書き〉
少しハルカが活躍。
そろそろシリアス分はお腹いっぱい。なので次からはもう少しゆるくなると思います。
表現力という分厚い壁に苦しむ日々。骨組みは出来て、デザインも出来ている。なのにいざ作り出すとイメージとずれてしまう。難しいものです。
もう少し精進したいと思います。
それでは、次の更新の時に。