地下道を抜けると、そこは一面の湿原だった。
「ヌメーレ湿原。通称『詐欺師の塒』」
濃い湿気と、それ以上に濃い獣臭さ。
周囲には獣特有の不気味な気配が満ちている。
「十分注意してついて来て下さい。騙されると死にますよ」
受験生たちの顔は一様に重かった。
一次試験、後半戦が始まる。
人面猿が起こした一騒動で、受験生たちはますますその警戒の色を強めたようだった。顔を強張らせ、何時どこから襲われても大丈夫なように気を張っている。
私もまた、然り。
「やはりあの男……危なすぎる」
奇術師ヒソカ。
奴は人面猿が起こした騒動の際、なんの躊躇いもなく攻撃をした。
あろうことか試験官に。攻撃自体は手抜きそのものだが、殺意は本物で。
打算でも何でもなく、そこにあるのはただの興味だったのだろう。
私の今までの経験上、ああいうタイプは快楽主義者だ。それでいて実力は紛れもない本物だというのだからたちが悪い。
出来れば、いや、絶対に相手にしたくない。
だというのに、最悪なのは……
「くっくっくっ……❤」
背中に感じる舐めるような視線。
しくじったと言わざるを得ない。
私はヒソカにしっかりとマークされてしまったようだった。
何のことはない。ついうっかり、というミス。
人面猿が騒動を起こした際のヒソカの攻撃。
そこに込められた背筋を総毛立たせるような殺気に、長年の経験から私の体は意図せず反応してしまった。
吹きあがるオーラと、冷めていく思考。
それが大失敗であったことを悟るのは、ヒソカが頬まで裂けそうな笑みを浮かべてこちらを見つめていることに気付いたときだった。
折角目立たないように「纏」すらも解いていたというのに……全部無駄だ。
いつ背後から攻撃が飛んでくるかと思うと気が気でない。
「ふふふふ……視線よ。視線を感じるわ」
「……」
能天気というのもある種の才能だと思った。
今自分たちが危険にあることを察してくれ……
霧が濃さを増していく中、私とハルカ、クラピカとレオリオは受験生集団のやや後ろを走っていた。
ぬかるみが動きを封じ、走りづらい。
序盤にローラーブレードで体力を温存したハルカも、階段と湿原で相当に疲れているらしく、口数が減っていた。
出来ることならペースを上げてヒソカから離れたいのだが……この分だと難しいか。
「レオリオー!! クラピカー!! ハルカー!! アゼリアー!! キルアが前に来た方がいいってさー!!」
「どアホー!! 行けるならとっくに行っとるわい!!」
……緊張感のない奴らだ。
行けるなら行きたいが、レオリオとハルカは体力的に厳しそうだ。
大声であんなやりとりが出来るあたり、レオリオはまだ余裕がありそうだが。
霧が一段と濃くなっていた。
そんな中、ハルカは何故か後ろをやたらと気にしていた。
「……どうかしたのか、ハルカ? 疲れたか?」
「ん、まぁ、そんなとこ……」
随分と歯切れの悪い答え方だった。
訝しく思って、私も意識を後ろへ傾ける。
殺意の詰まった風船が破裂寸前に膨れているような、そんな嫌な感じがした。
「……ヒソカから離れたいな。ハルカ、ペースを上げられるか?」
「え!? む、無理無理!! 冗談じゃないわ!!」
「な、何故そんな力強く否定を……?」
「と、とにかく! これ以上で走るなんて無理だからね!」
「わ、わかった」
……怪しい。
ヒソカが絡むと、ハルカは―――普段からだが、それ以上に―――挙動不審になる。地下道に入ったときもそうだった。
「……ハルカ、君は何か私に隠していないか?」
「ぅえ!? そ、そんなことはないって!!」
「本当だな?」
「当然!」
まぁ、そこまで言うならば信じるしかないか……
あからさまに怪しいが……無理に聞き出すことも出来まい。
私はハルカとの問答をそこで終わりにして、ヒソカが爆発しないか注意を払った。
ハルカはアゼリアがそれ以上の詰問をしなかったことに安堵していた。
嘘に嘘を重ねていくと、そのうち自分でも判らなくなり自滅することがありうるからだ。
勘付かれるような振る舞いは―――まぁ、あったかもしれない。気をつけないと。
―――これからの未来を知っているなんて、流石にアレだしね。
ハルカは心の中でそう呟く。
彼女は基本的に原作の流れに沿おうと考えている。ゆえに、そこにイレギュラーが介入して流れが変わるのを望まない。自分やアゼリアがいる時点でズレが発生しているかとも思うが……それは進んでみなければわからない。むざむざリスクを高める必要はないだろう。何故ならそれは自分の最大のアドバンテージが失われることを意味するからだ。
もしもそうなったとき、原作の世界観から考えれば、半端な力しかない自分ではあっさりと死んでしまいかねない。そう考える程度には彼女は自分の力量を自覚していた。
だからこそ、その情報は自分の胸のうちに秘めておく。
勿論、自分の望む未来になるように、かつ大筋に影響が無いように多少の介入はしていくつもりだが……
ヒソカとゴンの湿原での争いは、ゴンがヒソカに目をつけられる最初のイベント。
勿論、あのイベントがなくてもいずれはゴンの才能にヒソカは眼を付ける筈だが、おそらくは重要イベントであろうそれを逃す理由はない。ヒソカ見たいし。どうせなら興味をもって欲しいし。
受験生たちの中でも念使いは少ないのだから、殺されるということはないだろうと考えている。
だからそれをアゼリアに教えたりしない。彼女のことだ。ヒソカが暴れだすなんて知ったら、速攻で私たちの手を掴んで逃げ出すに決まっている。それでは意味が無い。
イベントが起こるのはもうすぐだろうか。ドキドキしながらその時を待つ。
そして、悲鳴が聞こえた。
いつの間にか別の場所に誘導されていた後方集団が湿原の生物たちに襲われて、阿鼻叫喚のパニックに陥った。
周囲から聞こえる無数の悲鳴。どうやらレオリオ、クラピカ、ハルカは無事のようだ。
「ぎゃっ!!」
「ぐっ!!」
そこに混ざる苦痛の悲鳴。
飛来する何かを察知した私は、「円」を広げ、私とハルカを襲う全てをキャッチした。
それはトランプ。不吉なことにその数十三枚。
来たか―――!!
「ってぇーーー!!」
その中に混じる、レオリオの苦痛の声。
攻撃を受けそこなったのか、レオリオの左腕にはトランプが一枚突き刺さっていた。
「てめェ!! 何をしやがる!!」
怒声。
答えるのは、本当に愉しそうな声で。
「くっくっくっ♦ 試験官ごっこ❤」
視線の先。
霧の向こうから、道化師の装いをした死神が現れた。
受験生たちの波状攻撃は、しかし奇術師相手には刹那の時間しかもたなかった。
天才的な身のこなしで、僅か一枚のトランプを用い次々に死体の山を築いていく。
空しく空を斬る受験生たちの攻撃。それを最小限の動きでこなし、一閃。鮮血が大気を濡らす。
返す刀でさらに一閃。倒れ伏す誰か。
腕を振る数だけ、死体が積み重なる。
「くっくっくっ……あっはっはァーーーーァ❤」
哄笑しながら佇むその姿は、童子のようでも悪鬼のようでもあった。
なんて、圧倒的な暴力……!
「ちっ……三人とも! 奴が他の連中に構っているうちに逃げるぞ!!」
「お、おい!! あいつら見捨てるのかよ!?」
「優先順位の問題だ!」
あんな奴の相手をしていたら、命がいくつあっても足りない。
見知らぬ誰かの命と、自分たちの命。
そんなもの、秤にかける必要すらないだろう。
「急げ! 大体の方角は判っている!」
ヒソカに向かって行った受験生たちの既に半分ほどは首を掻き斬られ絶命している。
撤退することを躊躇っていたクラピカたちもそれ以外の選択肢はないと理解したのか、振り向くことなく駆けだした。
「♣」
背後から感じる気配が一つ、また一つと消えていく。
残る猶予は何秒だ? その間にどのくらい距離を稼げる?
逃走が成功する確率を計算し、戦闘に至った場合に取るべき手段を数十通り瞬時に考え―――
「つれないなァ❤」
―――凄まじい速度で追いついた死神に、その考えは霧散させられた。
立ち向かってきた男たちの最後の一人を斬り捨て、ほんの少ししか退屈が紛れなかったことにがっかりした。
受験生なんていってもこんなもの。自分の前では障子紙よりも容易く切り捨てられる。悲しくなるほどに手ごたえがない。
まだまだ遊び足りない。もっともっと楽しみたい。
逃げだした集団に目を向ける。
一人で逃げ出した男は、さっきトランプを投げて殺しておいた。闘っても面白そうな相手ではなかった。
だが、もう一方の四人組。
あの四人は、なかなか面白そうだ。
使える人間も二人ほどいるようだし……
―――遊ぶか♦
鍛え上げられた大腿部は驚異的な瞬発力を生み、即座にトップスピードまで加速する。
大地が爆ぜるほどの踏み込みは己の体を四人のところまで容易く運び、正面に回り込ませた。
「つれないなァ❤」
嗚呼……見れば見るほど美味しそうだ。
どれもこれも、まだまだ熟しきっていない、青い果実。
思わず食べてしまいたくなる。だが、イケナイ。まだまだ高く積みあがる。しっかりと熟れるまでガマンガマン。今は味見だけ……
「逃げたのはいい判断だね♦ そこは褒めてあげよう♣ けど、寂しいじゃないか❤ 折角の舞台だ♠ デートくらいしてくれてもいいだろう?」
「え、デート? なら私―――むがっ」
名乗りをあげようとした小柄な少女の口を、スーツ姿の少女が慌てて抑える。
ああ、そういえば試験の始まる時に大声でボクの名前を叫んだ子だったな。どこかで会っただろうか……?
……覚えてないや♠ まあ、そんなことは大した問題じゃない♦ 大切なのは、彼女が遊び相手として面白いかということ♣
見たところ肉体の研磨も念能力も並程度、といったところ。もう少し熟さないと美味しくなさそうだ♣
今殺すには勿体ない、というほどでもないが……年齢の分将来に期待してみよう。
今は他に楽しそうな子が何人かいるみたいだし❤
「へっ……ちょうどいいぜ……」
一人一人、じっくりと物色していたら、上半身裸の男が左腕の傷をネクタイで縛り、こちらを睨みつけた。
足元に落ちていた棒きれを拾い、構える。
「ムカついてるとこだったんだ……やられっぱなしで我慢できるほど、オレは気ィ長くねェ……!!」
大上段に振りかぶり、突進。その攻撃はボクから見れば遅い。
狙いも、軌道も、あまりに見え透いている。
ああ、それでも美味しそうだ……!!
その青さが! 将来熟した時の甘味を考えるだけで!!
「レオリオ!?」
「馬鹿ッ!! 止めろ!!」
交差する瞬間に見えた顔は、とても真直ぐで。
見ているだけで勃起してしまいそうだった。
「ん~、いい顔だ♦」
いいね。実にいい。
―――合格❤
レオリオの攻撃はあっさりと空を切り。
背後から叩きつけた掌打で吹きとんだ。
「がッ!!」
地面に叩きつけられ、ゴムボールのように弾み、また叩きつけられる。
かなり手加減をしたから殺してないはずだ。彼は合格だから♣
「貴様ッ!」
少年とスーツ姿の少女が敵意を露わにする。
先ほど追いついたせいで、逃亡という選択肢は無駄だと悟ったのだろう。
「くっくっくっ……安心しなよ♦ 彼は殺しちゃいない♣」
惜しみなくぶつけられる敵意は、それだけでいきり勃ってしまいそうなくらいステキだが、これ以上興奮すると我慢できなくなっちゃいそうだ。
今ここで殺すのは勿体ない。だから自重の意味も込めて、相手の敵意を和らがせてしまうような勿体ないことを言う。
もうそろそろ遊んでいられる時間も少ないだろう。
遊べるとして、あと一人くらいか。
三人をじっとりと物色する。
今遊ぶとしたら、この中で一番楽しそうなのは―――
「どうだい? 少しボクと踊らないかい?」
「……私か?」
スーツ姿の少女に決めた。
才能や将来性ならば少年の方が上だが、現在の実力なら彼女の方が遥に上のようだ。
少しの間遊ぶだけなら、こちらの方が楽しいだろう。
「キミが遊んでくれるなら、他の二人は見逃してあげよう❤」
「なっ!?」
「アゼリア、ずるい!」
驚愕し、同時に心が揺れている少年。
そして何故か羨ましがる少女。
まぁ、少女の方はこの中ではあまり美味しそうでないので、放っておくことにする。
しばしの逡巡の後、彼女は強い意志を込めて問うた。
「……嘘じゃないな?」
「モチロン❤」
「―――クラピカ。ハルカを頼んだ」
「本気か!?」
「一番生き残る確立が高い」
その考えは正しいだろう。
彼女は念能力者であるということを除いても、肉体的な研鑽、実戦経験、全てがクラピカと呼ばれた少年よりも上だ。
足手まといとなる二人がいなければ、ボクから逃げ切ることも出来るかもしれない。
もっとも、もったいないから今は殺すつもりなんて無いのだけど。
「―――すまない!」
クラピカはハルカの手を引いて走り去って行った。
その気配が十分遠くなるまで見送る。ボクは動こうとはしない。アゼリアと呼ばれた目の前の少女もまた、こちらに最大限の警戒を払いながら動こうとはしない。
霧がさらにその濃度を増し、僅かに風も出てきた。
演出としては粋なものだ。
「そろそろいいかな♦」
「……待っていたのか? 律儀だな」
「道化師は誠実なのさ♠」
ふんっ、と鼻で笑い飛ばすアゼリア。
まるで信じていないようだ。
まぁそんなことはどうでもいい。
折角のデートだ。楽しむとしよう。
「それじゃあ、パーティーの開始といこうか❤」
さぁ、楽しませてくれ……!!
臨戦態勢に入り膨れ上がるアゼリアのオーラ。
予想よりもさらに力強く安定した「堅」。期待を超える手応えに口元が緩むのが抑えられない。
彼女は四足獣のように体を低く低く沈め、地面を吹き飛ばして大きく背後に跳んだ。
彼我の距離は二十メートル。両者にとって、本気を出せば一瞬で縮められる間合い。
ヒソカはその豊富な経験と発想力、そして念能力により、如何なる距離にも対応するだけの実力があるが、その本領は接近戦だ。
故にすぐさまその間合いを縮めようとその身を引き絞り、矢のように飛び出そうとし―――
「!?」
その直前、獣染みた直感で突進を止め、「周」をしたトランプを弾丸のような速度で投げ放った。
「ッ!」
どこに仕込んでいたのか、一瞬で抜き放ったナイフを構えトランプを迎撃するアゼリア。その顔に焦りが浮かぶ。
ヒソカの攻撃が苛烈だったから、ではない。ヒソカが間合いを詰めてこなかったことが計算外であり、初撃必殺を期すアゼリアにとって最大の勝機を逃したからだ。
ヒソカの投げ放ったトランプの数枚は、空中で何かに絡め取られたように留まっていた。
「糸、か♠ 面白い武器だね♦」
何時の間に仕掛けたのか、ヒソカとアゼリアの間には、極細の鋼糸が幾重にも張り巡らされていた。
あのまま進んでいれば、浅からぬダメージを負っていただろう。真正面から不意をつくという離れ業をやってのけた彼女にヒソカは感嘆する。
糸を掛ける場所もなければ、仕掛ける素振りもなかった。ヒソカはそのことから、これがアゼリアの念能力の一つと推測した。
具現化系、または操作系の能力者。いや、同じく糸を使う彼女のように、変化系という可能性も十二分に考えられる。
もしもこれが推測通りアゼリアの念能力だとしたら、迂闊に触れるわけにはいかない。如何なる能力か判らないからだ。仮に彼女が操作系の能力者だとして、あの糸に触れた瞬間に体のコントロールを奪われるという可能性だってあり得るのだから。
ヒソカはこれまでに得た情報からそう考え、瞬時に十数通りもの対応策を打ちたてていた。
その中から選び取った結論は―――当たらなければどうということはない。
糸に注意を払いつつ、自分の土俵である近接戦に持ち込む算段を立てる。
その過程の危険すら、彼にとっては愉悦に過ぎないが故に。
一方、アゼリアは初撃を外したことに歯がゆさを感じていたが、それでもまだ自分の目論見通りに戦闘が推移していることを知り、幾分か気を取り直していた。
間合いを詰めようと高速でジグザグに移動するヒソカに対し、鋼糸を用いて攻撃を行いつつ間合いを保つ。時にトランプで糸を弾き、時にその身のこなしで回避するヒソカにアゼリアの攻撃は当たらないが、それでも現在の状況は不利というには至っていない。
アゼリアにとっては、自分が間合いを取った瞬間にヒソカが突っ込んできて、その身を糸に引き裂かれるという状況が最良だったのだが、そこまで甘い相手ではなかった。
糸はアゼリアが『大気の精霊』の補助として使用している武器の一つである。
風そのものに刃としての威力を持たせるには、それなりに念を練り込まなければならない。だがもとより刃としての威力を持つ鋼糸ならば、オーラの消費量が少なくて済む。糸の操作にのみ風を使えばいい。このオーラの消費効率が利点の一つ目。
さらに、糸を使用することで相手の迷いを誘える。
自在に動き襲いかかる鋼糸を見れば、大抵の念能力者はそれを具現化、または操作した糸と考えるだろう。ある程度経験のある者ならば、それに触れることの危険性まで考えるかもしれない。
相手の思考の選択肢を増やすことで、相手の動きを制限できるのだ。
そしてその目論見は今のところ成功していた。
「ふッ!」
「♣」
この攻防にも慣れてきたのか、容易くかわすヒソカ。
じきに糸は攻略されてしまうだろう。予想よりもはるかに早いペースであり、またヒソカの戦闘センスが見立て以上だったことは計算外。
とはいえ、それはさしたる問題ではない。
もとよりアゼリアにヒソカを倒しきるつもりなどない。
というよりも、正面切っての戦いを強いられた時点でそれは困難に過ぎると諦めている。
ただでさえ目視が困難な上に複雑な軌跡を描き襲いかかる数多の糸を、ヒソカは避け続けているのだ。このことからも彼我の戦闘力が隔絶していることは判り切っていた。
いずれは隙をついて撤退するつもりの勝負。ここで時間稼ぎをしているのは、自分が逃げ出すことでヒソカの気分が変わり、ハルカたちがその攻撃の対象となることを避けるためだ。少なくとも十分な距離を取れるまでの時間を稼ぐつもりだった。
相手の攻撃範囲に入らないこと。それこそがこの戦闘における必須条件。
そのためにアゼリアはさらに糸を振るう。
だが―――
「この繰り返しにも飽きたね♣」
ヒソカは紙一重で糸をかわし切り、トランプを豪雨のように一斉に投げつけた。
その全てが軌道を異にしながら、十分な威力をもって逃げ場を塞ぐように襲いかかる。
避けきれない。
アゼリアはすぐさま回避を諦め、致命傷となる攻撃をナイフで迎撃する。
迎撃しきれなかったトランプが、服や肌を浅く切り裂いていった。
しかし深手はない。再び距離を―――ぉぉぉぉお!?
「なっ!?」
さらに後ろへ飛ぼうとしたところを、突如ナニカに引っ張られ体制を崩す。
「ぐっ……!!」
保っていた間合いが埋められていく。
意志に反して死神の元へと翔ばされたアゼリアを、カウンター気味に迎撃するヒソカの拳。
体制を崩された動揺からアゼリアは一瞬防御が遅れ、十分な攻防力移動が出来ないままにヒソカの拳を受けていた。
幸い、『大気の精霊』に使用していたオーラ量が極僅かであり、「堅」に使うオーラが充実していたこと。そして攻撃の寸前に腕を滑りこませられたことで、決定打となるには至らなかった。
だが、重い。
ピンボールの玉のように弾かれ、地面に叩きつける。
衝撃に咽る中、「凝」をしたアゼリアは自らの体に付けられたオーラに気付いた。
「何時の間に……?」
「それ、『伸縮自在の愛』っていうんだ♦ もう逃がさないよ❤」
念の、ゴム!? いや、ガムか!?
先ほどのトランプの投擲で受けた傷には、ヒソカの左腕から伸びたオーラがくっついていた。
「ちぃっ!!」
「周」をしたナイフでオーラを切り裂こうと攻撃する。
しかしそのとても千切れそうな様子がない。ナイフで切りつけようとも、まさしくガムのように形を変え威力を殺される。
これはヤバい、ということは一目瞭然だった。
「無駄だよ♠ そんなことをやっても逃げられない♣ さぁ、情熱的に踊ろうじゃないか❤」
先ほど引っ張られたことを思い出す。たとえ逃げ出そうとしてもこのオーラがある限りは逃げきれない。
撤退するためにはこのオーラを何とかして外す必要があるが、それは難しい。
最悪だ。そう心の中で吐き捨てて、アゼリアは覚悟を決めざるを得なかった。
クラピカに腕を引かれて湿原を駆けながら、ハルカは頭を抱えていた。
早くも原作の流れとは差異が出ている。いずれは違いが現れるだろうとは考えていたが、いくらなんでも早すぎた。
アゼリアとヒソカだ。念能力者同士の戦いだ。いくらゴンでも割って入ることは出来ない。
いや、割って入らないならばまだいい。もしもその戦いに突っ込んでいき、念の攻撃を喰らったら……最悪、死ぬ。そうでなくても、天空闘技場の新人狩りどもみたいな怪我を負う可能性は否定できない。
逆にこの場で念能力を習得するという可能性もあるか……? だが、そうなるといよいよ原作との乖離が進むことに……
「あー……っ! どうしよう!!」
「気持ちは判るが、今は逃げるぞハルカ!」
クラピカもまた苦悩していた。
ヒソカの先ほどの戦闘力を見た後では、勝負などとてもやってはいられなかった。
自分にはやらなければならないことがある。幻影旅団への復讐と、仲間の眼の奪還。それを成すためにはここで死ぬわけにはいかない。なんとしても。
だが……残されたレオリオは? アゼリアは?
ヒソカは、レオリオは殺していないと言っていた。その気になれば一撃で殺せるだけの実力差があったのに殺さなかったのだ。わざわざ止めを刺したりはしないだろう。
けれど、アゼリアは?
一人であのヒソカの相手をしなければならないのだ。彼女もかなりの達人だと見ているが、それでも奴には勝てまい。
最悪、彼女を犠牲にすることになる。
覚悟を決めたつもりだった。
自分の命すら投げ出す覚悟で復讐を志した。
しかし……新たな仲間を犠牲にすることは、果たして……?
二人とも、内容は異なれど悩みながら進む。
その心情を映し出すかのように霧は深くなっていき―――そしてハルカは足を止めた。
「ハルカ?」
「……やっぱりダメ! 戻ろう!!」
アゼリアの強さを見てきたハルカは、アゼリアがそう簡単にやられはしないと判っている。
ヒソカは今殺すには惜しい相手を殺すことはない。そう知っているハルカは、アゼリアを心配する気持ちも無論あるが、それ以上に別の想いからこの言葉を言った。
もしも原作との乖離があるならば、それがどの程度のものなのか知っておく必要がある。そして自分が干渉することで軌道修正をある程度測れるようならば、そう動くべきだ。
それにせっかくのヒソカのバトルシーンなのだ。これを見なかったら勿体ない。
ハルカがそんなことを考えているとは全く知らないクラピカは、しかしその言葉に迷いが断ちきれたような気がしていた。
そうだ。ここで逃げたら、自分はきっとまたどこかで逃げてしまう。
逃げて、無様に生き残るのではない。闘って、死中に生を掴んでやる。
自分が相手どるのは、かの幻影旅団なのだ。それを考えたら、こんなところで仲間を見捨てて逃げ出してるようでは、一生懸かっても復讐なんて無理だ!
「わかった! 急ぐぞ!!」
どこかすれ違いを抱えながら、しかしその目的は同じく、二人は駆けだした。
「ふッ!!」
鋭い呼気と共に、アゼリアは駆けだした。
四足獣の如く低く沈み込み、全身のバネを使って飛びかかる。
突風のようなその攻撃をヒソカは紙一重で回避し、その笑みをさらに深くした。
「接近戦もイケルじゃないか❤」
「……それはどうも」
銀閃が煌く。
霧で白色に染まる視界を、一息で十七の剣閃が切り裂いた。
狙うは全て急所。地力で劣るアゼリアは手数と速度で勝負する。
もとよりアゼリアは接近戦が得意ではない。
無論、訓練の成果で並以上の使い手である自信はある。だがもとより直接戦闘を避け、奇襲と暗殺を本懐とする彼女にとっては、接近戦を強いられることがそもそも戦略的に敗北といえた。
それに加えて、相手は超一流の達人。さらにアゼリアは念能力に捕えられており、戦術面でも優位に立たれている。
一瞬の気の緩みが即座に敗北に、ひいては死に繋がると理解させられ、相手の攻撃を許すことなく連撃を叩きこむことに決めた。
並の使い手ならば既に三度は死んでいる攻撃。
だが常識など何処かに置き忘れてきた道化師は、浅い切創を負いながらも致命傷を許さない。
そしてアゼリアの連撃の打ち終わりを見計らい、能力を発動させた。
―――伸縮自在の愛
アゼリアの体が宙を舞う。
その場に踏みとどまることも出来ない、凄まじい力。
ヒソカのオーラによりアゼリアは容易く体勢を崩され―――
「ぐぅッ……!!」
サッカーボールのように蹴り飛ばされた。
ガードを行った両腕の骨がミシミシと嫌な音をたてる。
握力が失われ、ナイフは衝撃で吹き飛ばされた。
そしてヒソカの攻撃はそれだけでは終わらない。未だ空中を舞うアゼリアは、流れていく景色が止まり、再び逆巻きに流れていくのを感じた。
その先では死神の鎌が振りかぶられている。
―――このままではジリ貧だ……!!
勢いよく引かれ、ヒソカの右ストレートがその身を捉えた直後、アゼリアは『大気の精霊』を発動させた。
能力を発動する分「堅」が薄くなるが、この際仕方がない。
大気に満ちるオーラ。それに伴い広がる知覚。意志に答えるように対流する風。
三度宙を引かれるアゼリアを再び撃ちすえようとしたヒソカは、眼を見張った。
拳が当たる寸前、アゼリアは宙を蹴り、ヒソカの背後へと跳んでいたのだ。
パンチを放った姿勢のまま、その背を無防備にさらけ出しているヒソカ。
その延髄に向けて、アゼリアは宙を舞い反転した視界のまま、足刀を叩きこんだ。
「~~~~~っ♣」
完全に無防備なところへの、かなりのオーラを練り込んだ一撃だ。
流石のヒソカも耐えきれず、十数メートルを転がりようやく止まった。
「く……はぁ、はぁ、はぁ……」
しかし消費が大きいのはむしろアゼリアの方だった。
今の攻撃に使用したオーラ。ヒソカの攻撃を受け続けての消耗。それが疲労となって彼女を襲う。
重さを増した体を立て直し、深く息を吸って呼吸を整えた。
出来ることなら、そのまま起き上がってくれるな……!
「くっくっくっ❤」
だが、その思いも空しく。
ヒソカはゆらりと、幽鬼のように立ちあがった。
「素晴らしいよ、想像以上だ♦ 「流」も「堅」も、十分実戦レベル♣ 本領ではないようだけど、その体術も大したものだね❤」
実に嬉しそうなヒソカとは反対に、アゼリアは苦々しい思いでいっぱいだった。
今の一撃で、せめてしばらくの間動きを止めたかった。
だがヒソカは足取りも確かに歩み寄る。
化け物め……
「本当は、ちょっと摘み食いのつもりだったんだけど―――こんな美味しそうな果実があるなんてね♠」
ヒソカは陶酔したような顔になる。
うっとりと、夢見るような声で、ぞわりと背筋を寒くする声で、言う。
「ああ……今すぐ君を―――」
それは悪魔の笑顔で。
―――食べちゃいたい
あまりに不吉だった。
「……っ!!!!! あ、あああああああああああッ!!」
叫ぶ。
邪悪な殺意にへたり込みそうになる体を、心を叱咤するかのように。それはまるで、獣が捕食者を精一杯威嚇するかのように。
能力がバレるとか、そんなことは既に思慮の外。
『大気の精霊』で操作した風を幾重もの刃とし、ヒソカ目がけて放つ。
一方、ヒソカは走る。
邪悪で、醜悪で、それでいて強大で、眼を離せない。
そんな頽廃的なオーラを纏い、ヒソカは疾走する。
風の刃はヒソカの「堅」を僅かに貫き、微かな切り傷を増やす。だが高速で疾走し、分厚いオーラの鎧に守られたヒソカ相手では有効な一撃足りえない。
瞬く間に、二人の間にあった距離が消える。
右手に構えられたトランプ。
首筋を切り裂かんと振りかぶられたソレの絵柄がジョーカーであることを、やけに時間の流れが遅くなった世界で知覚し―――
「アゼリアッ!!」
―――飛来した釣り竿の錘が、ヒソカの顔を殴打した。
その瞬間、アゼリアの時間の流れが元に戻る。
死を覚悟し停止した思考の中、体に染みついた戦闘の経験は、ヒソカの隙を逃さなかった。
「ふっ!!」
全体重を乗せた蹴り。
「硬」により凄まじい威力を秘めたそれは、ヒソカの腹部を撃ちぬく。
ヒソカは再び宙を滑った。
「たぁぁぁぁぁーーーーッ!!」
さらに、異なる方向から響く聞きなれた声。
霧の中から現れたハルカに、「何故!?」と驚くが、そんな暇はない。
眼にオーラを集中させたハルカは、先ほど吹き飛ばされたアゼリアのナイフを拾い、その刃をヒソカのオーラに突き立てた。
パァン、と風船が割れるような音を立てて千切れるヒソカの「伸縮自在の愛」
ヒソカの顔が驚愕に歪む。
「急げ、逃げるぞ!!」
ハルカとともに現れたクラピカは、未だ意識を取り戻さないレオリオを背負い、そう声を張り上げた。
その言葉に否やなどない。
何故か呆けたままのヒソカに背を向け、ハルカの手を掴み、すでに駆けだしているゴンとクラピカの背を全速力で追いかけた。
〈後書き〉
文章の書き方をちょっと変えてみる。三人称っぽい感じに。まだ全然使いこなせている感じがないです。
ヒソカ相手だと流石に苦戦。というか撤退しか考えてない。でも仕方ない。幻影旅団のメンバーは強すぎます。
ハンター試験のときゴンやレオリオを殴ったのなんて、たぶんプロボクサーが赤ん坊を怪我させないように殴るとか、そんな位にまで手加減していたんじゃないかなぁ。
あの段階では実力差がありすぎるでしょう
それでは次の更新の時に。