よくよく考えてみれば、幻影旅団のアジトがどこにあるか判らなかった。
旅団は流星街の出身とのことだが、キメラアント編で流星街に行ったとき久し振りと言っていたからには流星街にはいないだろうし、そもそも活動が無い時の団員がどうしているか判らない。仕事が終わると居場所すら掴めなくなるとヒソカも言っていた。多分ヒソカは天空闘技場にいると思うが。
「ああ、それだったらやっぱりゾルディック家に行った方がいいかな?」
ゾルディック家は場所も知っている。パドキア共和国デントラ地区にあるククルーマウンテン、そこが彼らの住処だ。
行き方も判っている。一般人でも試しの門までは行けるし、そこで正面から試しの門を開けて入ればミケが襲ってくることはない。
問題は執事たちだが、カナリアはキルアのことを大切に思っているようだからなんとかなるだろう。そこさえ突破出来ればあとは楽勝だ。キルアの初めてのお友達のポジションをゲットして、そこからお兄ちゃん大好きなカルトとゆっくりと仲良くなっていき、ブタくんと最近のマンガやゲームについて熱く語り合い、家族と仲が良くなっている私にいつしかイルミが興味を持って、そこからゆくゆくは付き合っちゃったり! それにナイスミドルのシルバさんや、生涯現役お爺ちゃんことゼノさんとも知り合いになりたい。あの二人は結構話が判る人のようだから大丈夫だろう。あとあと、未だに姿を見せてないアルカ君にも期待大だ!
「うふふ……もうよだれが止まらないわ……」
ちなみに今私は駅前のネットカフェで過ごしている。ナイトコース六時間千ジェニー。ドリンク飲み放題、ネット使いたい放題、漫画読みたい放題、シャワールーム完備。奇跡のような環境だ。乾いた都会に残されたオアシスとはここのことだろう。友人とハンター文字で文通したこともある私には文字の違いなどなんの問題にもならない。電脳ネットは基本的な構造がインターネットとあまり変わらないし、キーボードの配置も元の世界と変わらず、ただ五十音がハンター文字に対応しているだけなので、簡単に使用出来た。
とりあえずヨークシンシティ発、パドキア共和国行きの飛行船を予約する。出発時刻は明日の午後八時。ほとんど丸一日余裕があった。
もう時刻は午前二時。草木も眠る丑三つ時間近だが、せっかくの機会なので情報をいろいろ仕入れないともったいない。なんせハルカの家での情報源と言えば新聞くらいしかなかったのだ。
まずはハンター協会のページにアクセスする。世界に名だたる組織だけあって検索ページの一番上にあっさり出てきた。会長からの挨拶というページを見るとネテロ会長の飄々とした顔が出てくる。この顔がキメラアントとの勝負ではあんな威圧感バリバリになるのだから面白いものだ。
過去のハンターの実績、ハンター試験募集要項、プロハンターの特典と権利などのページを見ていき、ようやくお目当てのページにたどり着いた。
「あった!」
去年のハンター試験、第285期の合格者、三名。
過去の試験合格者についてのページを見ると、一番上にそう書いてあった。
つまり、今年の年始に行われたのが285期。今は秋の暮だから、年が明けて行われるハンター試験が286期。ゴンたちが受けたのが287期だから、次の試験にはヒソカが出てくるのだろう。
ヒソカを早く見たいという気もするが、どうせだったらルーキーとしてゴンたちと一緒に受けたい。それに次の試験は内容を知らないから対策を立てられないだろう。そう考えると次の試験は見送って、287期試験を受けるのがベストだ。
そう結論づけて、ハンター協会のページを閉じた。次のお目当てのサイトには、適当にいくつかサイトをめぐっているとたどり着けた。「新人の墓場」、あのトンパのサイトだ。
トンパのような人間は自分のしたことを他人に見せたがるという予想は間違っていなかった。今までで三十四回に渡るトンパの新人潰しが、いつ撮ったのか写真付きで詳しく解説されている。なかなかに悪趣味だが、軽快で読みやすい文章と衝撃的な写真で見る者を惹きつけるサイトだった。実際カウンターの数がすごいことになっている。広告料とかで結構稼いでそうだ。
一番新しいページには、やはりヒソカのことは書かれていなかった。二十人以上を再起不能にしたというヒソカのことが書かれないわけがないので、やはり私の記憶に間違いはないだろう。ヒソカが出てくるのは次の試験からだ。
さらにページをめくってみる。お目当ては今から十八回前の試験の時のこと。第267期ハンター試験。合格者一名。そう、ジン=フリークスの受けた試験だ。
ゴンに会ったとき、何か話せる話題があるといいなと思いそのページにアクセスしてみた。
そしてそのページを一目見て、私はジンのとんでもなさを実感させられた。
「あー、なるほど。極秘指定人物、か」
どのページも見やすいレイアウトで作られていたトンパのページが、そのページだけはアクセスを拒否された。何度やってもだ。
そしてその理由に当然私は思いつくものがあった。極秘指定人物。電脳ページ上でのあらゆる情報交換を禁じられた、加入するためには一国の大統領クラスの権力と莫大な金が必要な会員。ある意味当然だが、こんな個人の運営する趣味のサイトまであっさりと規制してくるとは……
この分だとネット上からジンに関する情報を得るのは無理そうだった。
「仕方ない、ジンについてはとりあえず諦めよう」
そのあと私はヨークシンのオークションのページ、天空闘技場のページ、心源流のページなどにアクセスしてみた。心源流の弟子たちの声のページで、カチコチに緊張したズシが出ていた時は笑ってしまったが。
面白そうなサイトを一通り見てしまうと、もう四時近かった。
「……寝ようか」
すでにシャワーも浴びてさっぱりとしているが、それでも一日歩かされた辛さは消えていない。
アゼリアのことを思い出すと今でも胸がムカムカするし、一方でちょっと悪かったかなーと思わないでもない不思議な気持ちだったが、そんなことを深く考える余裕もなく、私はすぐに眠りに落ちた。
で、翌朝。
一度は五時ころ店員さんに起こされた私だが、疲れが抜けてないのでもう少し眠ることにした。ネットカフェなんて基本的にそんな高くない。別にかまわないだろうと思い、二度寝開始。起きたのは十時過ぎだった。
料金は二千八百ジェニー。昨晩引き落とした一万ジェニーを使い支払を済ませる。ついでに近くにあった喫茶店で遅めの朝食を済ませると、手持ちの残金はぴったり六千ジェニーだった。
時刻は十一時。朝が遅かったから昼食は抜いて構わないし、飛行船の出る八時までかなり時間がある。さて、どうしようか。
「まぁ、散歩でもするのがいいわね」
この世界に来てから落ち着いて街を回ったことがまだないのだ、もったいない。
まだこちらの世界に来てから五日しか経っていない。初日は嬉しさで舞い上がって何もできなかったし―――アゼリアはあのときは怖かった―――二日目はアゼリアの質問にずっと答えていたから家を出てないし、三日目は買い物に行ったけど、自由に好きなものを見たわけではないし、四日目は「纏」が出来ずに倒れて、そのあともだるかったから一歩も外に出ていないし、五日目の昨日は修行なんて呼べない苦行をさせられた挙句喧嘩をしたんだった。
……考えてみれば、たった五日の間に結構いろいろなことが起きた。
そのほとんどがアゼリアと関係ある気がする。
そう思うと、昨日のような別れ方は若干気まずいものを感じたが、すぐにその考えを打ち消す。
自分はそんな悪いことをしたとは思えない―――筈だ。
アゼリアがあんな軽口に怒るのがいけない。
そもそも自分はもとから原作キャラに知り合いになるためにいずれはあのロフトを出ていく予定だったんだから、結局はこれで悪くなかったのかもしれない。
「ふ、ふんっ! あんな奴、別になんとも思ってないわよ」
その言葉に込められた意思はどのようなものだったのか、本人さえも判断できなかった。
とりあえずファン心理で近場の原作スポットに行ってみることにした。
一番近いのは、ベーチタクルホテル。クラピカが受付嬢に化けて団長を攫ったところだ。結構大きなホテルなので、リパ駅前の地図を見ればすぐに判った。
作中でもあまり出てこなかった建物を見上げると、なんというかこみ上げてくるものがある。他の読者に対する優越感とか、そういったものだろうか。
せっかくだからロビーのソファーに座って、「ベイロークじゃねーよ、ベーチタクルホテルだよ!」とか叫んでみようか。一人レオリオごっこ。楽しそうだ。
よーし、テンション上がってきたー! とホテルの中に入ろうとしたときだった。
ホテルから出てくる人に気づかず、正面からぶつかってしまった。
「いたた……あ、ごめんなさい! 他所見しちゃってて……」
「うん♠ 気をつけようね❤ ちゃんと前見て歩かないと危ないよ♣」
そう言って、男は気にした様子もなく出て行った。私も入れ違いでホテルの中に入る。
変わった格好の人だったな。結構な長身。幅のあるがっしりとした肩。揺らめく炎のような髪に、道化のようなフェイスペイント。奇抜な服装。怪しげな笑顔―――
「……い、今のって!?」
慌てて振り返ると、ちょうど高齢の団体さんがホテルに入ってくるところだった。
全員が背中の丸まったおじいさんおばあさんで、歩みは遅々として進まず、まさか押しのけて通るわけにもいかない。
焦りに焦る気持ちを必死で堪えて、流れが途切れた隙に慌てて出ていくと、ちょうど駅の方へ向かう目当ての人影が見つかった。
人ごみの中でも尚目立つあの姿。遠目からでも見間違えるわけがない……!!
「キャアーー!! ヒソカキターー!!」
足がまだ筋肉痛なことなんて一瞬で頭から消え去ってしまった。
レオリオごっこなんてもう止めだ、止め!
今はこの運命の出会いを追いかけなければならない!!
「ちょ、通してよ! ああ、もう、人多すぎ!! どーいーてー!!」
だが駅前に向かうにつれて人が増えていき、なかなか進むことが出来ない。
かろうじてヒソカのあの特徴的な頭が見えているので見失わないが、追いつけそうにない。
これはヒソカと会うために神様が与えた試練なのだろうか! 障害は多い方が恋は燃えるというけれども、邪魔なものは邪魔!
と、いい加減イライラしていた時だった。
人ごみの隙間を縫って駆け出そうとした私は、またも誰かとぶつかっていた。勢いが強かった分思いきりおしりを打ちつけてしまう。
「いったー……もう! 邪魔よ、あんた!! どこ見て歩いてんのよ!!」
「あぁ……? ずいぶんと威勢がいいじゃねーか、ねーちゃんよ」
「あ……」
相手の顔も見ないで言ってしまったが、見上げてから後悔した。
相手はあからさまにガラの悪そうなチンピラたち三人組。スキンヘッド、刈り上げ、ツンツンヘアーをそれぞれ金だの赤だのにカラフルに彩って、サングラスや鼻ピアス、刺青、トゲトゲの腕輪や軍用ブーツのようなごつい靴など、正直趣味が良いとは言えない着飾り方をしていた。でも怖かった。
「俺にはねーちゃんの方がぶつかってきたように見えたんだけどな……おい、どう思うよロック」
「あー、俺にもそう見えたぜ。ねーちゃん前も見ないで走っていたよなぁ、こりゃどうするよ、アゼルの奴が怪我してたらどうしてくれんだ? ああ?」
「い、いえいえ!! わ、私のほうが悪かったです、はい! そ、それでは急いでいるのでこれで失礼します!!」
「まぁ、そう急ぐなよ」
「き、きゃあ!! い、痛い痛い!!」
逃げるが勝ち、と背を向けて逃げ出そうとした私だったが、後ろを向いた瞬間に髪を乱暴につかまれていた。髪は女の命だっていうのに、なんてことを!!
「とりあえず、ねーちゃんの方が悪かったってことでいいんだな? んじゃ、ちょっと場所変えて慰謝料の話でもしようじゃねーか」
「や、止めてください!! お、大声あげますよ!!」
「んー、いや、無駄だろそんなの。みんな見て見ぬふりしてんの判ってんだろ? つーか、余計な手間とらせるんじゃねーよ。そうだな、声上げたら腹に一発入れるか」
「ひっ!!」
確かに、人通りの多い通りのはずなのに誰も男たちを注意しようとはしなかった。出来るだけ視線を合わせないように、足早に通りすぎていく。なんて人たちだろう!!
ああ、でもこんなとき、きっと救いの手が入るはず……! そうだ、ヒソカがすぐそこにいるんだから、すぐに飛んできてこのチンピラABCをあっさりと倒してくれる!
そう思って、路地裏に無理やり連れて行かれそうになりながらも、必死でヒソカのいた方に視線をやった。
見えたのは、人ごみの向こうに消えていくヒソカの頭だけだった。
「え……」
おかしい。
そんなはずはない。
だって、展開的にはここでヒソカが颯爽と私を救いだして、そのまま旅団員と顔合わせとか、そういう風になるはずでしょ?
なのにどうして、こんなことになってるの……?
「おい、人数集めようぜ。胸とかねーけど、結構かわいいからさ、こういうの好きなやついるだろ」
「そうだな、一通り楽しんだらそいつらに回してやるか。ちょっとした小遣いにはなるだろ。それかほら、こないだ回ってきたヤクの捌けてない分とかあるだろ? あれこいつに打って、飼っちまうか」
「いいね、さんせー」
くつくつと下卑た笑いを浮かべる三人組を見て、血の気が引いていくのを感じた。
やばい、ヤバいヤバいヤバいヤバいヤバい……!!
携帯を取り出して仲間を呼び出したツンツンヘアーを見て、どうにかしないと、という考えだけが空回りした。
「ま、慰謝料ってことで、しばらく俺らに付き合ってくれればいいからさ。たのしもーぜ」
そう言って顔を近づけてくるスキンヘッド。
生暖かい息が首筋にかかって気持ち悪い……!!
調子に―――
「乗るなーーー!!!」
「ひでぶっ!!」
「纏」をした状態で、思いっきりスキンヘッドの顔を殴ってやった。
いくら私がか弱い女の子でも、これなら―――
「お、おおおおおおお!! い、いてええええええ!! はなが、鼻が折れてやがる!!」
―――効いていたようだった。
スキンヘッドはその顔を鼻血で真赤に染めて、鬼のような形相でこっちを見てくる。
やたらとゴツイその肉体でその形相は、まさしくギャングとかそういった感じだ。でも、「纏」をしたパンチなら、倒せる!!
「いいから、潰れてろ!!」
二発、三発とその体にパンチを入れていく。
狭い路地ではそう避ける場所もなく、スキンヘッドは数発で沈んだ。
「てめえ、よくもフェルナンデスを!!」
こいつそんなかっこいい名前だったのかよ!! そんな突っ込みを入れたくなりながらも、のこる刈り上げとツンツンヘアーをなんとか殴りつけた。
「纏」をしたことで防御力が上がったのか、相手のパンチはそんなに痛くない。一方こちらの攻撃はかすっただけでも結構効いているようで、直に二人の男は逃げ腰になり、ついには思い切り殴りつけることができて、沈んだ。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
路地裏は血や唾液が飛び散った、かなり凄惨な状態だった。
男たちは鼻や口から血を流して倒れている。
これを、私がやったのか……こんな結構大きい男たちを、三人も、たった一人で……
「ふ、うふふふ……」
ほーら、やっぱり念を覚えたことで、私は強くなっていた。
そこらの一般人なんか相手にならないし、体格や筋力の差もあっさりと覆せた。
アゼリアにやらされたようなトレーニングなんか、大して意味はなかったんだ! これなら、念能力者なんてほとんど出ないハンター試験にも私はきっと合格できる!!
「あ……」
そうして、ひとしきりくつくつと笑ったところで、急にいやな気分になった。
手には男たちを殴ったときの感触が残っている。
決して、気持ちいいものなんかじゃない。自分の手の先で骨が折れる感触が、なんとも非現実的で、気持ち悪かった。
そして、男たちが仲間を呼んでいたことを思い出して、少し怖くなった。
男たちはただ骨が折れているだけだ。命に別状はないだろう、たぶん。
私はそっと後ずさると、わき目も振らずに逃げ出した。
適当に、ここがどこかも判らないまま走り続けて、息が切れてもう走れなくなったので、ようやく立ち止まった。
男たちやその仲間が追ってくる様子はない。ひとまず逃げられたとみるべきだろう。
「あー、だけどヒソカも見失ったー……」
結局運命の出会いを逃がしてしまうし、気分は悪くなったし、最悪だ。
乱れた息を整えながら肩を落とした。とりあえずボサボサになった髪を整えておく。
「いたっ……」
ずきん、と手が傷んだので髪を整えるのを止めて見てみると、右手の甲から肘にかけて結構ひどいすりむき方をしていた。
先ほど男たちに路地裏に連れ込まれた時に何かの拍子で擦り剥いたに違いない。
一度意識してしまうと早いもので、ずきんずきんという痛みはだんだん強くなっていく。
「うー……どこかで消毒しないと……」
コンビニか何かでもないか、と回りを探すと、病院が目に入った。
「よし、あそこでちょっと手当してもらおう……」
病院に入った瞬間、目があった受付のお姉さんがすごい驚いた顔でこちらを見てきた。
かと思うと、カルテの束を持って歩いて行く看護師さんたちは驚きに目を見張ってカルテを床にばらまいているし、医療器具を運んでいた看護師たちは正面衝突していた。
よくわからない反応に思わず身が竦む。
「な、な、なに?」
「ヴィ、ヴィオレッタちゃん!!?」
病院では静かに! なんて注意する人すらいなかった。
年配の、メガネをかけた白衣の医師が、信じられないものを見たという眼でこちらを見ている。
その場の視線がすべて私に集中した。
「ど、どうして!? いつ起きたんだい!!? 信じられない!! 奇跡だ、こんなことが起こるなんて……!! ああ、まずはしっかりと検査をしないと!!」
「ちょ、ちょっと……!!」
医師は慌ててこちらに駆け寄ると、手を掴んで私を診察室に連れて行った。
その場にいた看護師や医師たちも、診察室に押し掛けて入口は寿司詰め状態だ。
にしても、そうか! 私は、ヴィオレッタと間違えられているのか!!
「と、とりあえず脈と呼吸を取ろうか! ああ、そのあとはCTスキャンと脳波の精密検査だ! 君、ちょっと準備しておいて!!」
「はいっ!!」
「あとは、心臓外科のエルマ先生に誰か連絡を! 早く!!」
「ちょ、ちょっと待って!!」
「ああ、ヴィオレッタちゃんは落ち着いて……! 大丈夫、起きたばかりで不安だと思うけど、私たちがちゃんと説明するから! ああ、お姉さんも喜ぶよ……」
「いえ、ですから! 私は、ヴィオレッタじゃありません!!」
「……は?」
大きくなっていく事態に居た堪れなくなって叫ぶと、目の前の医師はぽかんと口をあけてしまった。
押し掛けていた看護師たちも唖然として固まる。一瞬で喧騒の起こった病院は、唐突に本来の静けさを取り戻した。なんとなく、私が悪い気にさせられた。
その場にいる全員に聞こえるように、はっきりと言う。
「私はハルカ=アヤセ。ヴィオレッタという名前ではありません。人違いです」
ちょうどその時、部屋に備え付けてあった内線に着信があった。
医師はみんなに聞こえるように音量を上げて受話器を取った。
『パスカル先生! ヴィオレッタちゃんは病室にいます!』
静まり返ったその場には、受話器越しのその声もよく響いた。
その場は凍りついたように誰も動こうとしない。うう、居心地悪い……
「……みんな、仕事にもどりなさい。ここは私がどうにかしておくから」
パスカルと呼ばれた医師のその言葉で、ようやく看護師たちは動き始めた。
一人、また一人とその場を離れていき、そのあとでパスカル先生は診察室のドアを閉めた。
「いや、すまなかった……うちに入院している子で、君にそっくりな子がいてね……つい、その子が治ったのかと思って取り乱してしまった」
「い、いえ……私は、別に……」
「ああ、右手を怪我しているのかな? ちょっと待っておくれ、今消毒するから」
パスカル先生は消毒液とガーゼ、包帯を持ってくると、右手の治療をしてくれた。
消毒液がツンと染みる。
「……これでよし、と。いや、本当に驚かせてすまなかった」
「べ、別にそんな気にしてません……」
本当に申し訳そうな―――いや、あれはがっかりしているのだろうか―――パスカル先生の顔を見ると、先ほどのことを責めようという気にはならなかった。
しかし、ヴィオレッタというのはやはりあのヴィオレッタだろうか……?
「あ、あの、ヴィオレッタって、アゼリアってお姉さんがいますか?」
「アゼリアちゃんの友達かい!?」
「ええ、まぁ……」
驚いた様子のパスカル先生に、曖昧な返事を返すしかなかった。
果たして今アゼリアの友達と言っていいのか判らなかったからだ。
「そうか……うん、ヴィオレッタちゃんはアゼリアちゃんの妹さんだよ。本当に、あんなにいい子に、どうしてこんな辛いことばかり起るんだろうね……アゼリアちゃんは君に会ったとき驚いてたろう?」
「ええ、それはもう……」
殺されかけるくらいに、とは流石に言わなかった。
「あの、ヴィオレッタちゃんって、どんな病気なんですか?」
「……アゼリアちゃんからは、何も聞いてないのかい?」
「病院にずっと入院している、としか聞いてません」
「そうか……」
パスカル先生はふう、と虚空に向けて溜息を吐いた。
重い荷物をずっと背負ってきた旅人のような顔だった。
「そうだね……どこから話そうか……」
重い溜息とともに、疲れの滲む声で、ポツリポツリとパスカル先生は話し始めた。
それは一人の少女の物語だった。
病院に運ばれてきたその家族の救命治療は間に合わなかった。
ひどい有様だった。体中が血だらけで、無事な骨を探すのも難しい状況。肋骨が肺に突き刺さり、内蔵の損傷が激しい。病院に運び込まれた時点でもう心臓は停止していた。
必死の蘇生治療が行われたが、さして間をおかずに脳波も完全に停止。その場の治療に携わった者の一人として、医者の限界を思い知らされた夜だった。
その娘さんは、後部座席に座っていてしっかりとシートベルトをしていたために、外面的な怪我はほとんど見受けられなかった。細かい切り傷や打撲はあったが、私たちは一つの尊い命が残されたことに感謝した。
しかし、現実はもっと辛いものだった。この事件は居眠り運転の車と被害者家族の車が衝突したことが原因だったのだが、少女はその衝突の際に頭を強く打ってしまったようだった。大脳の機能の損傷。彼女はかろうじて呼吸をしているものの、意識を取り戻すかは判らない……一生目を覚まさないかもしれない、植物状態となった。
市の警察に連れられて残された一人の家族であるアゼリアちゃんがやってきたのは、家族が運び込まれてからしばらく経ってだった。両親の遺体を見た瞬間、クマのぬいぐるみを必死で握りしめ、声に成らない悲鳴を上げて崩れ落ちた様子は昨日のことのように覚えている。
その翌日、一命を取り留めた―――今となっては、医者としてあるまじき発言だが、アゼリアちゃんにとってはそれが幸せだったのかは判らないが―――ヴィオレッタちゃんに会ってから、彼女は笑わなくなった。人形のように、妹の病室でうずくまっているようになった。
ショッキングな事件であったためにマスコミは大きく取り上げ、残された家族であるアゼリアちゃんのところにも幾度となく取材にやってきた。私たちはアゼリアちゃんの現状を思うととてもそんなことは許可出来ず、一切の取材を拒否した。そんなことくらいしか、彼女のために出来ることが思いつかなかったからだ。
また、彼女の父親の会社で雇われていた顧問弁護士という男もやってきた。企業に対する彼女の権利についての相談や、父親からの遺産相続、国からの生活保護などについての説明をしたいとのことだった。だが、私はこれも拒否した。彼女は父親の死に正面からぶつかるにはまだ早いと、そう思ってしまったのだ。
そのことを、私はその後ずっと後悔することになる。
事故から二週間ほどが経ったある日、私は宿直室で流されたニュースに目を見張った。彼女の父親の会社が内部の不祥事で倒産したと報じられていたからだ。
そうして、彼女に残されたのは莫大な借金。
あの日私が心を鬼にしても、あの弁護士と彼女を会わせていれば、この事態は避けられたに違いない。企業法について私は詳しくないが、権利説明とそれに伴う負担をしっかりと理解できれば、適切な処置を取るべく弁護士の男が尽力してくれただろうに……!
日に日に生気をなくしていく彼女を見て、私は一人の少女の心が崩れていく音を聞いた。
病院側では彼女の治療費を無期限で据え置きにしようという話が出た。院長は―――これはきっとマスコミに対するアピールを狙ってのものに違いなかったのだが―――いっそ無償にしても構わないとも言った。
しかし借金の返済など私たちにはどうしようもない。病院内で医師たちに基金を募ってみたが、医師たちにも家族が、生活がある。集まった金は返済には程遠いものだった。
そんな彼女に変化が訪れたのは、事故からひと月ほど後のことだ。
度重なるカウンセリングも効果なく表情を失った彼女は、その日突然、強い意志の宿った瞳で言ったのだ。
―――私は、働く。私が、ヴィオレッタを守る。絶対に、絶対に守りぬいてみせる……!
その彼女の強い心に私は感動すると同時に、強い不安を覚えないではいられなかった。
日に日にヴィオレッタちゃんの病室に訪れることが少なくなっていくアゼリアちゃん。その顔はどう見ても疲労が色濃くにじみ出ていた。
何の仕事をしているのかと聞いても、彼女が答えてくれたことは一度もない。そのことも私の不安を加速させていった。
幾度となく栄養失調で病院に運ばれたことがある。借金を返すために極端に生活費を削っている彼女に、食事と睡眠はしっかりととってくれと何度願ったか判らない。
大けがをして運び込まれたこともあった。その怪我を見て彼女が危険な仕事をしているのではないかと疑わずにはいられなかった。けれど何度そう問い詰めても、彼女が首を縦に振ったことは一度もない。先生は気にしないで、私は大丈夫だから。そう言われる度に自分の無力を思い知らされた。
二度目の転機は事故から七年程経った頃だろうか。
十五歳になったアゼリアちゃんは、本来なら学校で友人とたわいもない話題に華を咲かせているだろうその顔にいつものように疲労を浮かべて、しかしどこか嬉しそうに借金がもうすぐ返済し終わると言った。
この病院に勤める者で、彼女たちのことを知らない者はいない。誰もが心から応援し、その努力を誉めたたえた。彼女の一生を台無しにした原因の一つは自分にもあるのではないかと、罪を告白することもできずにいた私は、安堵とともに一際彼女のことを祝福した。
だからこそ、これが運命だというのなら神様を恨まずにはいられない。
彼女がそう嬉しそうに報告したほんの一月後、ヴィオレッタちゃんは病気にかかった。
重い病気だった。放っておけば命に関わる重病で、しかも治療にかかる金は大金だった。
もうすぐ、楽になる。彼女が過労と栄養失調で倒れるような日々はもうなくなる。そう思っていただけに、落胆はあまりに大きい。
彼女はそんなときにも諦めようとはしなかった。
今度は必死で膨大な治療費を稼ごうと頑張りだした。
私もまた居てもたってもいられなくなった。
幸い医大時代に多くの将来有望な医者たちとの交友を築けた。私は未だに平の医者にすぎないが、友人たちには要職についている者も多い。その友人たちに片っ端から掛け合ってみた。
実際は、かなりの無理を言っていたと思う。治療法はある程度解明されていたものの、そこに必要な医療設備、人材、資金はあまりに重い。そんな病気の手術を、少しでも安く、少しでも早く行えるように、形振り構わずに頼み込んでいるのだから。実際、連絡のつかなくなってしまった友人もいる。だが、それでも彼女のために何かをしてあげられているという実感が欲しかった。
彼女はようやく二千万ジェニーまで貯められたと先日言っていた。ヴィオレッタの病気が治るのはまだ先で、病気が完治したとしても彼女が目を覚ますには奇跡でも待つしかない状況だ。
そんなことは承知の上で、彼女は尚もあきらめないだろう。生活を削り、身を削り、ヴィオレッタちゃんのために頑張るのだろう。
だから―――
「だから、君がアゼリアちゃんの友達だっていうんなら、お願いだ。あの子を支えてあげて欲しい……」
絞り出すような声で、パスカルという医師は深々と頭を下げた。
私はそれに返す言葉を、何一つ持っていなかった……
ハルカという少女が診察室を出ていってから、私は後悔した。
医者としての守秘義務も何も忘れ、患者の個人情報をペラペラと恥ずかしげもなく話してしまったのだ。医者としてあるまじきことだ。
ああ、だが、私はどこかで安堵していた。長年一人で抱え込んできた苦悩を誰かに曝け出したことで、少し楽になったようだった。彼女にしてみればいい迷惑だろうが。
あの少女は本当にヴィオレッタちゃんに似ている。だからこそ、私は彼女に罪の告白じみたことを長々と聞かせてしまったのだろう。本当に、情けない限りだ。
ハルカという少女がアゼリアちゃんを支えてくれれば、と心の底から思う。アゼリアちゃんは一人で妹のために頑張っているが、私は時にそれでいいのかと思ってしまうのだ。
ヴィオレッタちゃんに助かってほしいという気持ちに偽りはない。せめて目を覚ましてくれれば、それだけでもアゼリアちゃんは救われるだろう。
だがそれは奇跡を望むくらい絶望的なことだ。アゼリアちゃんは下手をすれば一生、妹のことを思い、妹のために働き、そして報われない可能性がある。
それは、あまりにも悲しい。
アゼリアちゃんの想いを無視するつもりなんかない。彼女は本当に心の底から妹のことを思っている。
だけど、そろそろ自分自身のことを大切にしてもいいのではないか。自分自身の幸せを追い求めてもいいのではないか。
私がそう考えるのは医者として罪なことだろうか。
ハルカという少女は、傍にいてあげるだけでもアゼリアちゃんの支えになってくれるだろう。歩けども歩けども先が無い砂漠で見つけたオアシスのように。
でもアゼリアちゃんがそんなことを心の底から望むことはないだろう。きっとハルカちゃんにしてもいい迷惑だと思う。
これは私のエゴ。
ただ私の独善的な願いで、彼女に荷物を押しつけていた。
「……ヴィオレッタちゃん、君はなんで、病気になんて……」
いや、判っている。ヴィオレッタちゃんに罪なんてない。大切な少女時代を何一つ経験せず、さらにこれから先、意識を取り戻す保証はない。
仮に目が覚めたとしても、彼女には様々な障碍が残る。リハビリだけでも長い年月が必要だろう。五歳の段階で成長が止まっている彼女が社会に適合するにはどれほどの時間が必要だろうか。
そう、辛いのは彼女も同じだ。悪いのは彼女を治すことのできない我々医者の方だ。
それでもなんで、と思わずにはいられない。
―――ああ、本当になんで、彼女がこんな病気にかかってしまったんだろう。
―――そんなこと、考えられないのに……
パスカルという医者に、よければヴィオレッタを見舞ってやってくれと頼まれた。
病院の七階、日当たりのいい個室、そこに彼女はいた。
部屋の中は静まり返っている。物音一つしない。それはきっと部屋の住人が話すことがないからだろう。
腕に通された点滴のチューブが、口と鼻を覆う呼吸の補助器具が、様々な医療器具が痛ましい。
それでも、そこから見える少女の顔を見て、私は皆と同じように、驚かずにはいられなかった。
本当に、私に似ている。まるで鏡を見ているようだ。
この子がアゼリアの妹……彼女が必死に守ろうとしている少女……
ベッド脇の机に目をやると、まずクマのぬいぐるみが目に入った。
ずいぶんと古い物なのか、ところどころ傷んでいる。その服には、どこかの遊園地なのか‘Fairy Land’の文字が入っていた。
そのクマが両手で抱えるように置かれている写真。ところどころ色褪せたその写真に自然と目が行った。
「本当に、仲のいい家族だったんだ……」
幼い、とても小さな二人の少女が、両親と思われる男女に抱かれて笑っていた。溢れんばかりの笑顔だった。
母親と思われる女性は、アゼリアをもう少し大人にしたような顔だった。間違いなく彼女たちの親なのだろう。
幸せそうだった。
そんな家族が、突如訪れた不幸で、引き裂かれた。
そのことを思うと、胸が締め付けられるような気持ちになった。
そして恥ずかしくなった。アゼリアにあんな酷いことを言った自分が信じられなかった。
アゼリアは、文字通り命を懸けて彼女を守ろうとしている。大けがをしても、過労で倒れても、碌な食事もとらずに。
私が使ったお金は、あんな考えなしに浪費したお金は、そんな血のにじむ思いで集められたお金だったのだ。
ならば、自分はどうだろうか。私は何かを命を懸けても守りたいと思ったことなどない。ただ漫然と、その時の気分で行動してきたように思える。そんな自分が、これほど頑張っているアゼリアに散々わがままを言って、迷惑をかけて、生活を切りつめてまで掻き集めているお金を無駄に使った。それでいて自分は何食わぬ顔をして、それが当然であるかのようにアゼリアに悪態をついていた。
恥ずかしくて死にそうだ。
私はこの子に似ていると言われたが、そんなことは、ない。決してない。私には、アゼリアに命を懸けてもらえるほどの価値なんて全くないのだから。
「ごめんね……あなたのお姉さんに、辛い思いをさせて……」
どうすればいいのかは、もう判っていた。
どうしなければならないかも、判っていた。
そして自分がどうしたいのかも、判っていた。
ならば迷うことはもうなかった。
「また、きっと来るから。その時は、もう少し立派な私になって……」
彼女の髪をすっと梳いて、部屋を出ようとした。
そのとき―――
「……え?」
一瞬、何かが見えた。
「な、何……?」
ヴィオレッタの、胸のところに、何か……
髑髏のような、ものが……
「……気のせい、なの?」
しかし、振り向いてみればそんなものは見えなかった。
目をこすり、何度見ても、そんなものは出てこない。
嫌な汗がじっとりと滲むが、それでも少女にはもはやなんの変化もなく、停止した世界が残されただけだった。
「気のせい……よね」
嫌なしこりのようなものを残しながら、私はそう自分を納得させて、病室を出た。
久しぶりに、ベッドの上に身を投げ出した。
固いソファーよりもやはりこちらの方が体が休まる。
ところどころ傷んだ天井を見上げながら、私は深く重い溜息をついた。
昨日の作業現場で今日も働かせてもらったのだが、今日は散々だった。
仕事中は常に意識がどこかへ行ってしまうし、簡単な指示を間違えるし、食欲がなくてまかないの弁当も遠慮した。
監督をはじめ現場の人たちを心配させてしまい、結局言われるままに早退することになったのだ。
原因は判っている。ほんの昨日まで、このベッドを占領していた奇妙な同居人だ。
私に非があったとは思わない。あのままでは遅かれ早かれ、私と彼女は決定的な訣別をしたことだろう。
だが、もう少しまともな別れ方があっても良かったのではないかと思う。少なくともあんな喧嘩別れじゃなくて。
今日何度目か判らない溜息が重い。あんな暴言を受けても尚私は彼女のことを憎み切れずにいたのだった。
結局、私は彼女のことを妹の代わりとして見ていたのだろう。
彼女と過ごした数日は、楽しかった。
面倒なこともたくさんあった。怒りたいこともたくさんあった。けど、それらすべてが私は嬉しかった。
妹が家にいるみたいで、そんな彼女のために何かが出来ているようで、心が満たされていくのを感じていたのだ。
それは私の甘えだったのだろう。彼女を妹に重ね合わせて、守られる存在でいてくれることを心のどこかで望んでいた。頼られていることが私は嬉しかった。
だからこそ、彼女を無事に家に帰すという名目のもと、彼女を縛りつけようとした。私に守られる存在として、手元に置きたがっていたのだ。
それが彼女には気に食わなかったのだろう。彼女にしてみれば私は所詮赤の他人で、彼女の意思にとやかく言うような資格を持つ人間ではなかったのだから。
改めて思い返すと判る、そんな自分の醜い感情。
それを思うと、私には彼女に怒る権利などあったのかと思う。彼女という個人を蔑ろにして、私の願望で役割を押しつけていたのだから。
きっと、もう彼女と会うことはないだろう。
だけど、もしもう一度会えるのなら、私は彼女を、綾瀬遥という一人の人間として見てあげたい。そう思った。
「……ん」
寝室までかすかに届いた音。
こんこん、と乾いた音を立てるドアノッカー。
こんな憂鬱な気分の時に誰だろう。
私は重い体をなんとか起こして、ドアの方へ向かっていった。「円」を使って来客を確認する気力もない、半ば棄てばちな気分だった。
だからこそ、ドアを開けたときに驚いてしまった。
「誰、だ……っ!?」
そこに立っていたのは、二度と会うことはないだろうと考えていたハルカだった。
先ほどはあんなことを考えていたが、やはり感情では昨日の暴言を許せていない。
それに彼女の口からどんな言葉が出るのかとも思った。少し、怖かった。私は知らずにこわばった顔をしていた。
「……何の、用だ? 二度と来ないんじゃ、なかったのか……?」
声が震えそうになるのを必死で抑えた。だから、かなり不機嫌そうな声になっていたと思う。
「あ、あの、これ……」
ハルカは、気を抜くと逸らしそうになる視線を必死でこちらに向けているようだった。
そしてスカートのポケットから、それを取り出して渡してきた。
通帳と、現金六千ジェニー。
「あ、あの、つ、使っちゃった分は、きっと返すから。私も働いて、絶対に、もう迷惑はかけないから……」
途切れ途切れに、精一杯の力で繰り出される言葉。
私はそれに何を言うことも出来ず、ただ見ていることしかできない。
「だ、だから……ごめんなさいっ!!」
ハルカは深く深く、頭を下げた。
予想外の展開に、私は大きく目を見張った。
「迷惑かけてごめん! お金を無駄にしてごめん! 馬鹿なこと言ってごめん! 言うこと聞かないでごめん! 勝手なことばかりしてごめん! だ、だから、もう絶対に、迷惑なんて掛けないように頑張るから! だから、だから……」
ハルカは、顔を上げようとはしない。
頭を深く下げたまま、じっと下を見ている。
それが今は幸いだった。
嬉しかった。彼女とあんな別れにならなくて済んだことが。
嬉しかった。彼女にぶつけられる言葉が非難の言葉でなくて。
嬉しかった。私の中の彼女への怒りが、ゆっくりと消えていくことが。
そして、彼女の手に巻かれた包帯を見て、なんとなく悟ってしまった。
ああ、彼女は、妹のことを知ってしまったのだな、と。
「……手」
「え?」
「怪我、したのか……?」
「え、あ、ううん、これは別に……」
「……早く中に入れ。包帯を取り替えてやる」
そう言い残して、私は家の中に入っていった。
「……うんっ!!」
後ろでは、ハルカが私の言葉の意味を噛みしめて、力強く頷いたのが判った。
私はハルカから逃げるように、早足で部屋の奥へと進んでいった。
今は、前には来てほしくなかった。
涙を流している顔を見られるなんて、私のキャラじゃないのだから……
〈後書き〉
そもそもパスポートもビザもないからハルカは出国の段階で弾かれるだろうと思います。どうも、ELです。
今回はハルカが反省して、少しだけ成長する回でした。それに伴い、アゼリアのハルカへの態度も少しだけ変わっていくと思います。互いに依存しあっていた関係も変化していきます。
ただ飛ばされてきてミーハー精神しかないトリッパーには、辛い修行に耐えることも、強い意志をもつことも出来ないと思います。そしてそれは自分で気づくしかない。自分で自分を省みて、そこで意志を築いていくしかない。ですから今回はこのようなストーリーになりました。
ストーリーの根幹には「ハルカの成長」もありますので、これからもハルカは少しだけ変わっていくと思います。ですから、ハルカはそこまで嫌いになってあげないでくれると嬉しいです(笑)
それでは、次の更新の時に。