『うわぁ、なんだこれ」
ある朝、青年は四条通にある廃寺へと訪れた。
この寺は随分と前に住職が亡くなっている為、明治になり廃仏毀釈の煽りを受けても然程破壊されず、しかし管理する者がいないため放置されていた。
ところが何故か一晩でぼろぼろになってしまっている。昨日は一日雨が降り続いていたが、まさかそれだけでこうはなるまい。青年はあまりの惨状に口をあんぐりと開けて壊れてしまっている寺を眺めていた。
「いいから、早くこっちに」
そう言って急かすのは青年の母である。
今年で二十四になるこの青年は母と二人で暮らしている。父は既に亡くなっているが元々徳川に仕えた旗本で、莫大とは言えないが財産もそれなりにあったため特に不自由を感じたことはなかった。
青年の母は庶民の出だった。父母は当時にしては珍しい恋愛結婚で、二人の出会いと父が求婚を繰り返した話は未だに母から語って聞かされている。
この寺に訪れたのは母の頼みだった。
毎朝散歩で寺社仏閣を歩いている母が、此処で行き倒れている人を見つけたから手を貸せと言ってきたのだ。
父がいなくなって女手一つで青年を育てた母は、肝っ玉母さんという表現がよく似人物だった。母がこうしろと言えば青年は逆らうことは出来ず、仕事が休みだということもありやってきたという訳である。
「ごめん、母さん」
「本堂の方。頼んだよ」
足を踏み入れた本堂は、床板は踏み抜かれ壁は打ち壊され、それはもうひどい惨状だった。中でもののけでも暴れたのかと言いたくなる壊れ具合だ。
眉を顰めながら青年は壊れた床に足を取られないよう慎重に歩みを進め、血塗れの壁にもたれ掛かっている男を見つける。
全身傷だらけ、にも拘らず右手は刀を手放していない。こいつが件の男だろう。
「凄い血だな……死んでない?」
「縁起の悪いこと言わないの。ちゃんと息してるだろう?」
「というかよく見付けたなぁ。それに行き倒れって普通道で倒れてる人を指すと思うんだけど」
「くだらない揚げ足取りしてないでさっさと運ぶ!」
「ああ、分かったよ」
もたもたとしている青年を母親が叱り付けると、しぶしぶながら男の傍まで近づいて行く。
そこで青年は微かな違和感に動きを止めた。
「あれ」
この人、どこかで見たような気が。
最近ではなく、随分と昔だが……しかしいくら考えても思い出せない。何となく、初対面ではないと思うのだが。
「と、いけない」
今はそれどころではないだろう。
青年は血塗れの男を抱え上げ、自宅への道を戻っていた。
鬼人幻燈抄 終章『一人静』
一人残されて夜の湖面に意識は揺れる。
月も星もない、沈み込むような空。
脳裏に浮かぶのは在りし日から変わらぬ後悔のみ。
───また、守れなかった。
反芻する言葉に責め立てられる。
憎しみを全てと信じた始まり。
その途中で沢山のものを拾ってきた。
余分を背負い、その度に弱くなって。
生き方は濁り、代わりに大切なものは増えた。
しかし守れなかった。
力ではない強さを手に入れておきながら、その正しさを証明できなかった。
ならば今迄の道程に何の意味があったのか。
私は、何の為に────
────そして、目を覚ました。
「あ、ぅ」
うっすら届く眩しさが、意識を揺り起こす。
ぎこちなく甚夜は瞼を開けて、手で光を遮りながら体を起こした。
「ここは」
気付けば、見知らぬ部屋に彼は寝かされていた。
頭がまだはっきりしない。此処は何処だろうか。少し体を動かすと、塞がりかけた傷が痛む。筋肉も強張っていて、すぐに歩けそうはなかった。
取り敢えずは周囲を見回す。畳敷き、六畳ほどの部屋。小奇麗ではあるが箪笥と机程度しか調度品の類はなく、随分と簡素な印象を受ける。
部屋の障子から光が漏れてきている。向こうはおそらく縁側、庭があるのだろう。時刻は昼頃だろうか。
「あぁ、目を覚まされましたか」
つらつらと思考を浮かべていると、聞き慣れない男の声がした。
障子を開けれ入って来たのは二十過ぎくらいの、細身の青年だった。きっちりと中割にした髪型もあり、随分と生真面目そうに見える。
布団のすぐ傍で正座し、甚夜と視線を合わせて青年は言う。
「お医者様は、見た目ほど傷はひどくなかったから二日三日もすれば動けるようになると。いやあ、正直血塗れの姿を見たときは死んでいるのではないかと思いましたが」
ははは、と笑いながら体を見回し、最後に顔色を確認して男は一つ頷く。
「大丈夫そうですね。覚えていますか。貴方は廃寺の本堂で倒れていたんです」
記憶を辿る必要もなく、浮かんでくる。
マガツメに手も足も出ずやられた。多くの<力>を喰らい、剣の腕も磨いた。しかし届かなかったのだ。
屈辱、憎悪、後悔、失意。様々な感情が綯交ぜになり、今の心境をどう表現すればいいのか分からない。
ただ傷とは関係なく手足が重く、動こうという気にはなれなかった。
表情を僅かに陰らせ、しかし現状を知る為に甚夜の方からも青年に話しかける。
「……貴方は。貴方が、私をここに?」
「ええ。正確に言うと、母に頼まれたからですが。横になっていてください。今、母にも目を覚ましたことを伝えてきます」
そう言って青年は出て行き、部屋はまた甚夜一人になった。
「兼臣」
『はい、此処に』
部屋の片隅には夜来と夜刀守兼臣が置かれている。
刀身は見ていないが、外見上壊れた所はない。あの戦いの後だ、流石に心配だったが少し胸を撫で下ろす。
「なにがあった」
『言葉の通り、先程の男性が旦那様をここに連れてきました。医師の往診を受け、それ以降は時折様子を見に来ただけ。特に不審な動きもなし。信用は出来るかと思いますが』
「そう、か」
青年の足取りを見たが、武道を修めた者の歩きではなかった。肩幅は狭く、手は綺麗で傷やタコもない。およそ荒事とは無縁の人物だ。
態々傷の手当もしてある。おそらくこちらに危害を加える気はないだろう。
少し警戒を解き、ふうと静かに溜息を吐く。
「少し疲れたな」
『旦那様……』
睡眠は十分にとった。体が重く感じるのは大量の出血のせい、そしてなにより失ったものが多すぎたせいだろう。
たった二日で、あまりに多くを失った。
動く気がしないのは、傷以外のなにかが痛むから。このままもう一度寝てしまおうか。そう思った時、近付く足音が聞こえてきた。
「入っていいかい?」
今度は女の声だ。
どうぞ、と答えれば入って来たのは、藍の地に菖蒲をあしらった着物を纏う初老の女性だった。
「よかった、目を覚ましたんだね」
四十半ばといった所だろうか、小柄で楚々とした佇まいの淑女といった印象だ。痩せこけた頬は年相応であるが、その輪郭はかつて美人だったであろうと想像させる。
女性は甚夜の傍で正座し、しげしげと顔を眺め、ゆるやかに表情を柔らかく変えた。
「まだ傷は痛むだろう?」
「ええ、少し」
「ならしばらくうちで休んでいくといい。粥くらいなら食べれるだろ? 用意してくるよ」
捲し立てるように女性は言う。
意外だった。彼女がここに来たのは、こちらの話を聞く為だと思っていたからだ。
見ず知らずの、しかも血まみれで倒れていた怪しい男。普通に考えれば警戒するべきだし、追い出すくらいのことはしてもおかしくない。
「いえ、そこまで世話になる訳にも」
「若者が遠慮なんてするもんじゃないさ。少し待ってな」
しかし目の前の女性は、世話をするのが当然であるかのように振る舞っている。
何故ここまでしてくれるのか。疑問に思いながら、部屋を出て行く彼女の背を見送った。
「ごちさそうさまでした」
「はい、おそまつさま」
粥を食べ終え、一息吐く。
女性は食べ終わった後の土鍋とお椀を片付けてくれている。腹が膨れたせいか少しだけ眠気が出てきた。瞼が重くなってきた辺りで女性は戻ってきて、甚夜の様子を見て少し笑った。
「眠くなったんなら寝ときな。夕食の時には声を掛けるよ」
彼女の中では甚夜が泊まることは決定事項らしい。
それにどうしても違和感を覚えてしまう。彼女の目は疑いや怖れといった感情が欠片もない。
それどころか心底楽しそうにしている。現状があまりに奇妙過ぎて、甚夜は彼女の真意を測りかねていた。
「何故、私を助けてくれたのですか」
真っ当な輩ではないと初めからわかっていた筈だ。何故彼女はここまでよくしてくれるのか、純粋な疑問だった。
その問いに女は表情を変えることなく、ゆったりとくつろいだ様子で答える。
「人を助けるのに理由がいるかい」
「貴方には不要でも、私の納得には必要です。明治の世に帯刀し、血塗れで倒れていた男。助ける理由が善意では少し足らないでしょう」
「融通きかないねぇ」
くすくすと笑う。
母親らしいとでもいうのか、我儘な子供を諭すような優しい笑い方だった。
「だけど善意以外の理由は本当にないんだ。敢えて挙げるなら、あの刀だね」
部屋の隅に置かれている二振りの刀、特に夜来を見つめている。
意味が分からず言葉に窮すれば、彼女はどこかおどけた風に続けた。
「多分あたしは、あんたの父親を知っているよ」
どくんと心臓が脈打ち、僅かに数秒機能を放棄する。
呆気にとられた。
父・重蔵のことは今も深い傷として残っている。失意にある父を見捨て、その手で殺した。積み重ねた日々の中でも薄れることのない己が罪過だ。
それを知っていると言われ、体が固まる。薄れていた警戒心が再び顔を表した。
「あの刀の前の持ち主、あんたの親父さんだろう? 髪型は違うけど面影がある。というか、瓜二つだよ」
しかしそれも一瞬、どうやら勘違いだったらしい。
夜来の前の持ち主。髪型は違うが瓜二つ。そこまで言われれば流石に気付く。
彼女が言っているのは甚夜自身のことだ。蕎麦屋をやっていた為短く整えてはいるが、 江戸にいた頃は総髪だった。そして鬼であるが故に年老いていくことの出来ない彼は、以前も今も外見上は十八のままである。
おそらく彼女は、若い頃に甚夜と会っている。その為夜来を持つ甚夜を、自分が出逢った総髪の男の息子だと勘違いしているのだろう。
「おっと、名乗るのを忘れていたね」
そうして女性は、懐かしむような穏やかな顔つきで言った。
「あたしは三浦きぬ。……あんたの親父さんの古い知り合いさ。あいつは、夜鷹なんて呼んでたけどね」
今度こそ、心臓が止まったような気がした。
夜鷹。
かつて情報屋として甚夜に協力してくれた人物。そして友人の妻。
懐かしい、出来れば会いたくなかった女だ。
「そういや名前を聞いてなかってね」
思い出したように夜鷹は声を上げ、甚夜はぴくりと眉を動かした。
甚夜と名乗るのはまずい。しかし戸惑えばあらぬ疑いをかけられる。なるべく自然に、間を置かずに答える。
「甚太。葛野甚太と申します」
選んだのは昔の名前だ。
嘘は吐いていないし、これなら呼ばれて気付かないといった失敗もないだろう。
「甚は、こらえる?」
「はい」
「そうか。親父さんの名前を貰ったんだね」
懐かしげに息を吐く。それが記憶の中の彼女と重ならなくて、少しだけ戸惑った。
きぬ……夜鷹という女は、甚夜にとって理解し難い人物の一人だった。
決して嫌いではない。恋慕や親愛の類を抱いてはいなかったが、それなり信用も信頼もしていた。ただ二人の関係を問われれば、どうにも表現しにくい。
江戸にいた頃は、夜鷹から鬼の情報を流して貰っていた。傍から見れば情報屋と客、そんな所だろうか。
しかし顔見知り程度の間柄ではなく、仕事相手で済ませるほど無味乾燥でもなかった。
とは言え友人にしては互いのことを知らないし、恋人のような甘さもなかった。
そうして上手い表現が見つからないまま夜鷹は友人の妻という立ち位置に落ち着いた。
いつの間にか結ばれた二人に面食らったことを覚えている。
彼女の顔は年相応に皺が増えていて、歳月の流れを否応なく感じさせた。
「まあ、そういうことだから、気にせず泊まっていきな。昔、あんたの親父さんには稼がせて貰ったからね。その分のお釣りだと思ってくれればいいさ」
そうして夜鷹は立ち上がり、にやりと何処か不敵に笑う。
「それじゃあね、甚太君。今はゆっくりと休みな」
離れていく後姿は綺麗に見えて、その分複雑な心境になる。
叶うならば会いたくはなかった。
彼女の夫を斬り殺した、その手触りはまだ残っていた。
◆
そうして、また目を覚ます。
「あ……」
混濁する意識。夢と現をさ迷うような曖昧な感覚。
まとわりつく後悔が思考の邪魔をしている。
胸にあるのは消えぬ後悔と隠しようのない喪失感。
目覚めの気分は最悪だった。
二日目。
朝になり、少しは体を動かせるようになった甚夜は庭先に出ていた。
不快感を和らげようと部屋を出て、外の空気を吸おうと思った。しかし朝の清澄な空気も陰鬱な心地を拭い去ってはくれない。 野茉莉と、夜鷹。
失ったもの。そして、己が奪ったもの。二つの後悔が彼を苛んでいる。
どうすればいいのかも分からず、甚夜はぼんやりと庭に植えられた杜若(かきつばた)を眺めていた。
濃紫色の花は燕の飛び立つ姿に似ているから燕子花とも書く。
花のことは随分と昔、ある女に教えて貰った。何もかも失って、残ったのはこの程度かと自嘲する。
体が重い。そろそろ部屋に戻るかと振り返れば、ちょうど通りかかった青年と目が合った。
「おや、もう起きて大丈夫なのですか」
「忠信殿……」
既に朝食を済ませ、仕事に出かけるところなのだろう。洋装に着替えた青年……忠信が庭に顔を出す。
今更ながら、この青年が忠信で在ると知った甚夜は奇妙な心地で応対していた。
何せ彼の中で忠信は手習指南所に通っている、野茉莉と交流のある子供で止まっている。それが大人になり、立派に働いているのだから戸惑うのも無理はないだろう。
「んー」
「どうかしましたか、忠信殿」
自分は“甚夜の息子”ということになっている為、一応忠信にも夜鷹にも敬語で話す。
違和感はあるが此処に居る間はそれで通すことにした。理由は幾つかあり、最たるものは負目だろう。直次を斬った。その事実が正体を晒し甚夜と名乗ることを躊躇わせた。
「ああいえ、甚太さんはやはり父親に似ているなぁと思いまして。実は私もあなたのお父さんにはお世話になったんですよ。もう十五、六年は前になります」
まだ子供だったが、忠信はちゃんと覚えているらしい。
こくこくと何度も頷きながら、懐かしそうに薄く目を細める。
「そう言えば、野茉莉ちゃん……お姉さんは元気ですか」
「……ええ」
「そうかぁ。いや、本当に懐かしい。きっと綺麗になったんだろうなぁ。っと、すみません。私はそろそろ行きますので、甚太さんは無理せず養生してください。」
いそいそと忠信は仕事へと出かける。
そう言えば、小さな頃の彼は随分と野茉莉を気に入っていた。
或いは、何かが違えば。野茉莉の隣にいるのは平吉ではなく忠信だったのかもしれない。
なんとなしに、そう思った。
◆
生き方は曲げられなかった。
間違いと知りながら、それでも意地を張って歩いてきた。
そうして数えきれないほどの言葉、数えきれないほどの想いを受け。
数えきれないほどに裏切ってきた。
かつて重蔵は言った。
『そいつは信頼できる。多少の無礼くらいは構わん』
けれどその信頼には答えられなかった。
染吾郎は言った。
『そやけど人はしぶといで。僕もそうそう死なん』
いとも簡単に彼の命は途切れた。
野茉莉は言った。
『これからも、家族でいてくれますか?』
約束は守れなかった。
直次は言った。
『だからどうか、何一つ為せなかった私の刀に、振るうに足る意味を』
望むままに、彼を切り捨てた。
昔、ある女が教えてくれた。
間違えた道でも、救えるものはあるのだと。
故に、歩んできた道に後悔はなく、これから進むべき先に不安もない。
例え間違いだとしても何かを為せると知っているから。
ならば、何故こうも苦しくなるのだろう。
私は、なんで───
***
「顔色が悪いね」
三日目の朝。
布団で上半身だけを起こし、粥を食べ終える。しかし血色が悪いままの甚夜の額に、夜鷹はそっと手を添えた。
熱はない。体の方を見ても血は滲んでおらず、経過自体は悪いものではなかった。
「すみません」
「謝ることじゃないさ」
なのに甚夜の表情はひどく暗い。気力というものが感じられず、死んだ魚のような目というのが当て嵌まるだろう。
理由は分かっている。今まで貫いてきた自分を、生き方を、そして積み重ねてきた大切なものを否定された。
だからどう動けばいいのかが分からない。
今まで己を支えてきた芯が、ぽっきりと折れてしまっていた。
「ここには、忠信殿と二人で?」
「ああ。前は違うとこだったんだけど、二人で住むには広すぎたから」
しばらく沈黙が続き、耐えかねた甚夜の方から話しかけた。
夜鷹の現在がどのようなものか、そして直次に関わることも、ずっと気になっていた。
その視線に気付いたのか、苦笑を浮かべ夜鷹は言葉を続けた。
「うちの旦那は武家の生まれでね。脱藩して政府側についた一人だったんだよ」
語り口はゆっくりと穏やか、瞳は此処ではない何処か遠くを眺めている。
「戦に参加して、生き残って。家族三人それなりに楽しくやってきたんだ。……けど、やっぱり男ってのは馬鹿だね。その上うちの旦那は頭に“くそ”が付くくらい真面目でさ」
口調とは裏腹に表情は穏やかで、寂寞も悲哀も感じさせない。
安らいだ空気はまるで子守歌を口ずさむようだ。
「真っ直ぐに生きてきたあの人には、明治はちょいと生き辛い世の中だったんだろうね。廃刀令で刀を奪われて、今までやってきたことも否定されて……最後には武士で在りたいなんて言って、出てっちまったよ」
そして直次は、甚夜に殺されることを望み決闘を申し出た。
あの時、斬り伏せたことを間違いとは思わない。
刀として生きた、刀として死にたかった。
最後の最後、血の一滴まで刀で在りたいと願った友に、願った死に様を与えてやれた。
それは紛れもなく救いであり、だからといって殺した罪が許されるわけではない
夜鷹から夫を、忠信から父を奪ったのは紛れもなく己。その後悔は何時までも付き纏う。
「止めは、しなかったのですか」
「男が意地張ってんのに、どの面下げて止められるんだい?」
嘆息と共に零れる言葉は、柔らかな手触りをしている。
直次と結ばれたからなのか、それとも母となったからなのか。
強がることも、茶化して誤魔化すこともしない夜鷹には、かつては見られなかった強さがあった。
「傍から見れば、あの人は妻子を捨てて出てっただけなのかもしれない。でもね、あの人は自分の死に方を選んだんだ。ならあたしに出来ることは、“御見事”と称えてやるくらいだろう。それが、武家の女ってもんさ」
誰かを打ち倒すことも、何かを為すことも出来ない。
しかし彼女を強いと思う。
例えるならば寒葵の花。
根元に咲くため葉をかき分けなければ見えないが、静かに冬を彩る優しい色。
寒さに耐えてひっそりと咲く、慎ましやかな強さだ。
「……まあ、あたしがそういう女じゃなかったら、あの人は今も傍にいてくれたかもしれない、とは思うけどね」
それでも彼女の横顔には僅かな憂いが映り込む。
不意に見せた寂しさに見たのは、確かに甚夜の知る夜鷹の表情だった。
◆
大切なものは、なんだろう。
守りたかったものは、どこへいったのか。
辺りを見回しても、見つからなくて───
***
四日目。
夜になり、甚夜は部屋を抜け出して縁側に腰を下ろしていた。
夜空には銀砂の星が広がっている。
そこから顔を覗かせる琥珀の月が庭を染め上げていた。
そういえば以前、染吾郎から聞いたことがある。清(中国)では月には嫦娥という仙女が住んでいるという。
成程、この儚げな美しさは何処かたおやかな女性の姿を連想させる。零れ落ちた輝きさえここまで人の心を打つのならば、月の仙女は絶世の美女なのだろう。
下らない想像を浮かべ、何をするでもなく月に見入る。
鬼の再生力は人の比ではない。既に甚夜の傷は完治している。いつ此処を離れても問題はない。
やるべきことは分かっている。マガツメを追い、討ち果たす。初めからそこは揺らいでいない。
なのに何故、いつまでも此処に居るのか。
この四日、寝て過ごした。体を鍛えるどころか刀も握っていない。それではいけないと分かっているのに、無為に時間を過ごし、気付けば日は暮れている。
「……私は、何をしているんだろうな」
呟いても、答える者はいない。
思えばいつも誰かが隣にいてくれたような気がする。それを今になって思い知るのだから救いようがない。
見上げた先、透明な空気に映える月は何処か冷たい。
ぼんやりと時間を過ごすしていると、ぎしりと縁側の板が鳴いた。
「月見かい?」
月明かりを辿り、夜鷹が姿を現す。
彼女も眠れなかったのか、寝間着にも着替えていなかった。
「きぬ殿」
「暇なら、月を肴にこいつでもどうだい」
手にしたお盆には徳利と杯が乗っている。こちらの返答も聞かず、夜鷹は隣に腰を下ろした。
押し付けるように盃を渡し、殆ど無理矢理一杯目を注ぐ。
「嫌いじゃないだろう?」
悪びれた様子はなく、からかうように口の端を吊り上る。秋には遠いが酒を呑むにはいい月だ。一度頭を下げて、杯を煽る。喉を通る熱さ、心地好い筈なのに、何故か旨いとは思わなかった。
「聞かないのですね」
しばらく杯を交わし、一息ついたところで甚夜は言った。
何も言わず酒を呑み続けていた。しかし夜鷹が月見酒を楽しむ為に来た訳ではないことくらい分かっている。
多分、彼女は話す機会を設けようとしていたのだろう。
「話してくれるなら聞くよ」
「それは」
それでも自分から切り出さなかったのは、甚夜が話せるようになるのを待っていたから。
そして話す気が無いというのも正解だった。
夜鷹が苦笑する。馬鹿にしたのではなく、子供の悪戯を嗜めるような優しさだ。そういう笑みが似合うのは、やはり母親になったからだろう。
「あんたは分かり易いねぇ。ならさ、私の惚気話を聞いてもらおうか」
「のろけ、話……」
「そう。あたしと旦那の話だよ」
くいと酒を流し込み咽喉を潤す。
にやりと口の端を釣り上げて、彼女は自慢げに語り始めた。
「私は元々夜鷹、街娼でね。江戸で適当に男を見つけて体を売って暮らしてた。あんたの父親と知り合ったのもちょうどその頃。直次様……旦那と会ったのも」
在る雨の夜、二人は偶然出会い、ちょっとした騒動を経て親しくなった。
夜鷹と言えば最下級の街娼、武士どころか庶民にも唾を吐きかけられるような存在だ。
しかし直次は武士でありながら夜鷹になんの偏見も持たず接した。
女心の分からぬ男で、偶の逢瀬で行きつけの刀剣商を訪れたり、誰に聞いたのか如何にも覚えたての花の知識を披露しながら贈ってみたりと、夜鷹を呆れさせることも多かった。
けれど彼は朴訥で真面目な人柄で、金で体を売る女であっても誠実な接し方を繰り返した。
そんな不器用な彼にこそ心魅かれたのだろう。
二人はいつしか恋仲になり、夜鷹は夜鷹でなくなる。
娼婦を辞め、かつて捨てた筈の名前、きぬを名乗るようになった。
直次はきぬを嫁にしたいと母に願った。
簡単に許されるはずがない。武士の結婚は見合いが殆どだったし、なにより家の長男が娼婦と結婚するなど母には認められる筈がなかった。
それでも直次は諦めない。きぬを嫁に迎える為、自分の母親に土下座して頼み込んだ。
母は言う。『武士が軽々しく頭を下げるものではありません』
直次は言う。『きぬに比べれば軽くて当然でしょう』
大真面目に答えて、ひたすらにこうべを垂れ続ける。
傍から見れば間抜けでも、夜鷹にとっては最高に格好いい男だった。
「なんだかんだでお義母様が折れてくれて、私達は結婚した。子供も生まれて、そりゃあ幸せだったよ」
それも長くは続かなかったけれど。
異国の影響に幕府の衰退、時代は変わり往く。
涙を流すのは何時でも力ない者だ。
見捨てることは出来ない。彼は武士であり過ぎた。
脱藩し新しい世の為に戦うと直次は言う。
止めることはしない。寧ろ着いて行こうと決めた。
直次にとっても意外だったのだろう。本当は、きぬには江戸に残ってほしかった。
何か出来る訳ではない。だとしても、彼の傍にいようと思った。
彼の選択は誰に恥じるものでもないと、貴方は正しい道を選んだのだと伝えられるように。
「勿論、一緒にいたかった。でもそれ以上に、あの人の迷いを晴らしてあげられる自分で在りたかった。いけないねぇ、どうにも我が強くて。結局あの人の前では、夫の後ろに控えるような可愛い女ではいられなかったよ」
其処から先は甚夜も知るところである。
直次は戊辰戦争に参加し、マガツメの手によって鬼へと堕ちた。
きぬの下に帰ることは出来たが、明治の世は彼にとって少しばかり住みにくかったらしい。
失われていく刀の意味を繋ぎとめようと辻斬りに身を落とし、最後には甚夜に挑み命を落とした。
「ちゃんと聞いてたんだ。自分は鬼に堕ちた、あんたの親父さんに決闘を挑む。何一つ為せなかった刀にも、最後には振るうに足る意味がほしいって。……本当に、馬鹿な人。あたしたち家族三人が普通に暮らせる世を作ったのに、意味が無いなんて言うんだからさ」
そう思っていてもきぬは、やはり止めることはしなかった。
例え今生の別れになるとしても、直次の願いを、意地を、その生き方を。
否定することだけは出来なかったのだ。
「断っておくけど、あんたの親父さんは恨んじゃいないよ。あいつも不器用だからねぇ。直次様の言葉をまっすぐに受けて、真っ直ぐに返したんだろうさ。男の意地の張り合いに、女が口出しはしちゃいけないと思ってる。だから、例えあいつが直次様を斬ったとしても、感謝こそすれ恨むのは筋違いだ」
語り終えた夜鷹は、空になった甚夜の盃に酒を注ぐ。
月に濡れた老淑女の佇まいには薄絹のような憂いがあって、だから彼女が堪えている感情に何となく気づいてしまった。
「後悔、しているのですか?」
口にした問いは意識してのものではなかった。
思わず零れ、言った後で気付いた。それを夜鷹も感じていただろうに、自分の盃を空けて、冬枯れの花を想起させる物悲しい微笑みで答えてくれた。
「当たり前だろう? あたしは自分の選んだ答えが間違いだなんて思っていない。それでも苦しいとは感じるし、少しは考えるさ。あの時直次様を止めていたら、違った今があったのかもしれない。そんな風にね」
ああ、彼女のいう通りだ。
今迄歩んできた道程に後悔はなく、これから進む先に不安などない。
なのに、なぜこうも苦しくなるのか。
甚夜は何かを避けるように俯き目を伏せた。すると夜鷹は、すっと手を伸ばし甚夜の頬に触れ、頬から顎へ、指で輪郭をなぞった。
「正しい道を選べたって後悔くらいするさ。人間、そこまで強くはなれないよ」
その感触に顔を上げれば、夜鷹ははにかんだような、困ったような、名状しがたい表情を浮かべていた。
懐かしいと、そう感じさせる。
いつか言葉を交わした夜鷹が其処にはいた。
「貴女も……?」
「これでも結構泣いてきたんだよ。忠信に聞いてごらん、母さんは泣き虫だなんてこと言うに決まってる。いつだってあたしは後悔してきた。あんただって、そうじゃないのかい?」
何も答えられなかった。
自分がどう思っているのかさえよく分からなかったからだ。
それを見透かすように夜鷹は言う。
「何があったかは知らないけど。随分疲れているじゃないか」
ああ、そう言えば。
夜鷹は仕事柄か心の機微に敏かった。普段殆ど表情の変わらない甚夜の内心を読み取れる数少ない人物だった。
いつだって彼女の前では、隠し事なんてできなかった。
「私は、勝たねばならぬ相手に敗北しました」
だから素直に心情を吐露した。
今更隠し事をする意味は感じられなかった。
「積み重ねた歳月の中、大切だと思えるものを見つけた。間違えた生き方でも救えるものはあると。憎しみに身を窶してもそれが全てではないと。“力”ではない“強さ”の価値を、出会えた人々が教えてくれた」
間違えた始まりであったとしても、その身との途中拾ってきたものは、けして間違いではないのだと。
在り方を濁らせる余分も、己を作る一つなのだと、胸を張って言える。
なのに────
「なのに、その正しさを証明できなかった。それは偏に己の未熟。なにより選択を間違えてきたから。貴女のいう通り、私は後悔しているのでしょう。そして動くことさえ出来ない」
傷が治ったのに初めの一歩を踏み出せないのは心が戦くから。
あまりに失くした過ぎたせいで希望を持てないでいる。
間違えた道の先、辿り着いてしまった今という末路に。
甚夜はどうしようもなく怯えていた。
「本当に、男ってのは馬鹿だね。いや、この場合馬鹿なのはあんたか」
夜鷹は穏やかな声音でそう言った。
母性を感じさせる暖かさ。変わってしまった彼女に、もう違和感はない。歳月の重さを感じながら、ゆっくりと甚夜は頷く。
「はい。私は愚かだった。そのせいで、全てを失くしてしまった」
「そうじゃない。そうじゃないんだ」
首を横に振って甚夜の言を否定する。
彼は自分が間違ったと言う。けれどそれは、少しばかり焦点がずれているのだと夜鷹は思う。
「可哀想に。今まで、誰も教えてくれなかったんだね」
選んできた道が、間違いだったのかは夜鷹には分からない。
ただ、彼が何かを間違えたと言うのなら、それは強く在ろうと決めたこと。
強く在ろうと決めて、願った自分を貫ける程に彼が強かったこと。
そんなだから彼は、本当なら子供の頃に、誰もが教えて貰えることを学べなかった。
「きぬ、殿?」
もしかしたら、彼との出会いはこの為に在ったのかもしれない。
不器用で融通の利かない馬鹿な男が、俯いてしまって明日を見ることの出来ない心が ちゃんと前を向けるように。
きっと、この琥珀の月夜はあった。
だから彼に教えてあげよう。
特別なことじゃない。誰もが知っている当たり前のこと。
ただそれを伝えるのが自分だっただけ。
家族ではなく、他人ではなく、恋人でもなく、友達でもなく。
何者でもない二人だから、無責任に伝えられることがある。
そうして夜鷹は緩やかに口を開く。
「辛い時は、辛いって言っていいんだよ」
彼が強く在ろうと決めたから、今まで誰も口にすることの出来なかった言葉を。
彼女だけが言ってくれた。
「あんたは強いのかもしれない。でも、いつでも強く在る必要はないんだ。当たり前じゃないか。弱音を吐いたっていい、泣いたっていいんだ。辛い時は辛いって言って立ち止まればいい。誰もあんたのことを責めてなんていないさ」
頭が真っ白になる
何を言われたのか分からなくて、けれど次第に言葉は心へと染み渡り。
「あ、ああ……」
「馬鹿だねぇ。今迄涙は零せても、しっかり弱音を吐いてこなかったんだろ。そりゃあ動けなくもなるさ。大丈夫、ここにいるのはあたしと月くらいだ。みっともなくても、笑い話で済むだろう?」
甚夜は泣いた。
一筋の涙を零すのではなく、子供のように顔を両目から大粒の涙をぼろぼろと零す。
そんな泣き方をしたのは白雪が死んだ時ぐらい。
弱音なんて、吐けるわけがなかった。
巫女守として父として。
ただ強く在ろうと心に決めて意地を張って生きてきた。
「私は、大切なものを守れなかった」
こうやって無様に心情を吐露するのは初めてだった。
堰(せき)を切って流れる弱音。それを嫌な顔一つせず、夜鷹は受け止めてくれている。
「うん、それで?」
「守りたかったものを、切り捨ててしまった」
「うん」
「斬るべきものを、斬れなかった」
「うん」
「私は、何もできなかった」
「うん」
「何もかも、失くしてしまった。本当は…みんな、みんな、守り、たかったのに……っ!」
後悔だとか、正しい道だとか。気取った科白はいらない。
ただ悲しかった。寂しかった。人として当たり前の感情を、父だから鬼だからと、様々な理由をつけて見ないふりしてきた。
それでも耐えられてしまう程度には、彼は強かった。
動けなかったのはそのツケが回って来ただけの話。
自分でも知っていた。かつて土浦にも言った筈だ。他人には言える癖に、自分のことはおざなりになっていた。
本当は、弱くてもよかったんだ。
「本当に馬鹿だねぇ。何もかも抱えてくるから荷物の重さで動けなくなるんだ。ここで少しくらい吐き出していきな。そうすればまた、明日からは歩けるようになる」
涙に滲む視界。
空には変わらずに月がある。
冷たさは息を潜めて、月の光はしっとりと柔らかく辺りを包む。
夜に流れる風は優しい。案外と、月に住むという仙女が気を利かせてくれたのかもしれない。
「あ、ああぁ」
「大丈夫。何も失くしても、残るものはちゃんとある。だから大丈夫、大丈夫だよ」
髪を撫でる手が心地好い。
細く骨ばった、ところどころ傷のある、苦労してきた母親の手だ。
そうして甚夜は琥珀の月夜の下、しばらくの間涙を流し続けた。
もう悪夢は見なかった。
◆
五日目。
布団を抜け出し、着物に着替える。今まで来ていた着物と袴はぼろきれのようになってしまったが、夜鷹が同じ意匠のものを準備してくれていた。久しぶりに寝間着以外のものに袖を通し、軽く体を動かして筋肉を伸ばす。やはり少し硬くなっている。勘を取り戻すのに数日はかかるだろう。
五日ぶりに、腰に刀を差す。その重さに一つ頷く。やはりこうでなくてはいけない、自然と落すような笑みが零れた。
『旦那様、少しは、疲れは取れたでしょうか』
「からかってくれるな。もう大丈夫だ」
兼臣との短い遣り取り。強がりではなく、素直にそう言えた。
随分と長い間立ち止まってしまった。
しかし大丈夫だ。失ったものは多く、後悔もあるけれど。
ちゃんと、前は見えている。
「ああ、随分元気になったじゃないか」
部屋を訪ねた夜鷹は甚夜の様子を見て安心した。安心したから、からかうように生暖かい視線を送っている。
それを真正面から受け止めて、甚夜は深く頭を下げた。
「きぬ殿。昨夜は有難うございました」
「あたしはなにもしてないさ」
「そんなことは。私には、初めての経験です。泣くと言うのは、悪いものでもないのですね。心が軽くなりました」
「何言ってんだか。そんなこと、そこらを走り回っている子共だって知ってるよ」
軽く笑い合う。笑い合うことが出来た。
あんなにも重かったからだが嘘のようだ。これなら、しっかりと歩いて行ける。
「お世話になりました。そろそろ行こうかと思います」
「そうかい、残念だが仕方ないね」
別れの際だ。自分は息子でなく本人だ、そう言おうとしたが止めておいた。
夜鷹は知り合いの息子、その程度で面識のない相手でも手を差し伸べてくれた。その心を大切にしたかった。
世話になったから金を払うと甚夜が言い、そんなものはいらないと夜鷹が突っぱねる。そんなやりとりを何度か交わし、二人は玄関に辿り着く。結局甚夜の方が折れて、もう一度頭を下げて終わりとなった。
「では、きぬ殿。貴女に会えてよかった。本当に、お世話になりました」
「こんなおばさんに言う科白じゃないと思うけどね。ああ、そうだ。親父さんと瓜二つって話、なしにしといてくれ。あんたは、親父さんより随分男前だよ」
ばん、と甚夜の背中を叩き、彼女の方こそ男前な笑顔を浮かべる。
「なんせ、あいつはほんとに頑固だったからね。そうやって素直な方が可愛げがあるってもんさ」
少しだけ嬉しかった。
可愛げがあると言われたことが、ではなく。
あの頃から少しでも変われたのだと認めて貰えたような気がしたから。
「じゃあ、行ってきな。泣きたくなったらまた来ればいい。まあ、そんな心配はもういらなそうだけどね」
「はい。ありがとうございました」
散々泣いて、背中を押されて、甚夜は初めの一歩を踏み出した。
今まで足を止めていたのは、摂るに足らない恐れだった。
歩き出した今なら、そう言える。
強くなったと思っていた。
なのに何一つ為せなかった。
守れなかったもの、失くしたもの。後悔はいつも胸に付き纏う。
それでも、 残るものはちゃんとあった。
甚夜は、誰かの前で泣けるだけの『弱さ』を手に入れた。
積み重ねた歳月の果てに得ることが出来たものにしてはちと物足らない。
けれど、それは確かに残った。
傍にいられなくても残るものはちゃんと在る。
幸福の日々が残してくれた暖かさは、今も胸に息づいている。
振り返ることも、足を止めることもしない。
今はただ、この偶然の再会がくれたものに、琥珀の月夜に感謝して、ただ真っ直ぐに前を向く。
『何処に行きましょうか。旦那様』
「さて。歩きながら考えればいいだろう」
『ふふ、そうですね』
交わす言葉さえ軽やかに。
そうしてまた彼は流れる。
一人静、風に揺れ。
京の町に別れを告げた。
鬼人幻燈抄 明治編・終章『一人静』了
「あれ、母さん。甚太さんは?」
「ああ、怪我がよくなったみたいでね。今日出てったよ」
「えー、本当に? もう少し話したかったんだけどなぁ。お父さんのこととか、あと、野茉莉ちゃんのこととか」
忠信が仕事から帰ってくると、既に甚夜はいなくなっていた。
母の自室に様子を聞きに行けば、きぬはなにやら書き物をしている最中で、顔も向けずにいなくなった旨を伝えられた。
心底残念そうに忠信は顔を顰める本当はもっと仲良くなって、父親や野茉莉ともう一度交流を持ちたかったのだが。
「今どこに住んでるとか聞いてないの?」
「そういや忘れてた。ま、どっちにしろ京から離れるみたいだったけどね」
「そっかぁ」
重ね重ね残念だ。やはり自分と野茉莉ちゃんは縁が無いのか、などと初恋の相手の顔を脳裏に浮かべてみる。
少しだけ拗ねたように唇を尖らせるも、きぬは我関せず筆を動かし続けていた。
「母さん、さっきから何書いてるの?
「んー、手記。あたしの人生もいろいろあったからねぇ」
ここで言う手記とは、自分の体験やそれに基づく感想を綴ったものである。何が嬉しいのか、きぬは面白そうに文字を綴っていく。
「ふぅん」
「なんなら、書きかけだけど読んでみるかい」
若干興味はあったため、忠信はそれを受け取りぱらぱらと読み進める。
ちなみに内容はひどいものであった。
直次と夜鷹の恋物語。
多少の誇張はあれど、父から聞いたものと大差はない。実直な父だ、嘘を吐いたとは考え辛いし、この手記の内容は殆ど事実なのだろう。
ただ直次の友人である甚夜という浪人の扱いが致命的に酷かった。
剣はそこそこ、万年金欠で、直次に蕎麦を奢ってもらい食いつないでいる。喜兵衛という蕎麦屋に通っているのは、それを期待してのことである。
おそらく見せ場として設定されたであろう、夜鷹に黒い影が襲い掛かる場面では、助けに来るも一歩間に合わず結局直次が解決してしまう。
子供が出来てからは親馬鹿で、娘の言葉に一喜一憂して辺りを走り回る。
その他もろもろ、手記中ではおもしろおかしい三枚目として描かれている。
「なぁ、これ甚夜さんのこと悪く書き過ぎじゃないか?」
勿論、忠信の記憶の中にある甚夜の姿とはまったくもって一致しない。
浪人であるのは事実だが、父はその友人を誰よりも信頼していた
剣の腕に至っては「刀一本で鬼を討つ」とまで謳われた剣豪で、庭で稽古をしていた時も父は簡単にあしらわれていた。
子供にとって強いというのはそれだけで憧れの対象だ。御多分に漏れず忠信も、子供の頃は無骨な太刀を操る剣豪の姿に微かな憧れを抱いたものだ。
「いいんだよ、これで」
しかしそんな忠信の反応を見ながら、きぬはおかしそうに笑う。
それこそが狙いだと言わんばかりの自信に溢れた態度だった。
「あいつが読んだ時、こっちの方がおもしろいじゃないか」
「読んだ時って、そんな機会ないと思うけど」
「何言ってんだい。もう会うこともないと思っていた奴と再会できたんだ。これからだってそんなことが無いとは限らないだろう?」
きぬは忠信から手記を取り戻し、再び書き始めた。
相変わらずにまにまと、実に楽しそう書き進める。
しかし彼女は不意に、何処か悪戯っぽく微笑んだ。
「だからいつか、十年か二十年か。もっと先になるかもしれないけどね。何かの偶然で、この手記が残って。何かの偶然で、あいつの手に渡って。もし読んだなら、こう言うんだ。『中々面白い。だが、悉く私が無能に描かれているのは解せんな』、なんてね」
その姿を想像しているのか、筆を止めたきぬは目を細めた。
遠く未来を見つめているのか、懐かしい過去を眺めているのか。
どちらかは分からないが、彼女の語り口はとても優しい・
「懐かしんで感傷的になるだけが思い出じゃないよ。思い返して、何してくれてんだあの馬鹿女は、とでも思ってくれればいいんだ。そう思えたならきっと、あいつは泣かずに笑ってくれる。誰かの隣で私に悪態ついてくれれば最高さ」
もしもの話をしよう。
例えば、あなたの前に切り立った崖があるとする。
そこに、あなたにとって大切な二人がぶら下がっている。あなたは一人しか助けられない。
さて、あなたはどちらを選ぶ?
どちらに手を伸ばす?
その問いに、答えられなかったのが平吉だ。
野茉莉と東菊。どちらも大切で、選ぶことが出来なかった。
その問いに、答えたのが甚夜だ。
野茉莉と白雪。選んでしまったが故に、選ばなかった方を自ら斬り捨てることになった。
どちらが正しいという話ではない。
答えは人の数だけ存在する。
望む望まざるに関わらず、生涯には選択の時というものがある。
そして往々にして、並べられた選択肢には間違いしかない。
正しい未来だけを選び取って生きていくなんて、きっと誰にもできないことだ。
だから本当に大切なのは、“何を選んだか”ではなく“どう生きたか”。
間違いを選んだ先、訪れるであろう困難を真摯に受け止めて、前を向いて歩いていくこと。
もしも、そう在れたのならば。
どちらを選んだとしても、どちらも選べなかったとしても。
“大丈夫、あなたは間違ってなんかいない”と。
あなたに、そう言ってくれる誰かがいるだろう。
葛野甚夜は間違い続けてきた。
けれど選んだ答えを投げ出したことは一度もなかった。
だからこそ与えられた救い。
琥珀の月夜は、彼が確かに前を向いて歩いてきた証。
「だから“浪人”、安心しな」
いつかこの手記が、“雨夜鷹”が彼の目に留まればいいと思う。
そしてどうか、彼がこの手記を紐解く時には。
隣に、馬鹿な彼を笑ってくれる誰かがいてくれますように。
願いの行方を、彼女が知ることは叶わず。
しかしここに想いを綴る
愛でも恋でも友情でもない。
彼女の想いを形にするならばこんなところだ。
“必死に頑張った貴方が、いつか報われますように”
誰もが思う、当たり前の感情。
「何もかも失っても、残るものはちゃんとあるから」
言葉を風に乗せるように、そっと夜鷹は呟く。
今を生きる者には、遥か遠くは見通せない。
だから想いが本当に届くのかは、彼に確かめて来てもらうとしよう。
そうして彼女は去っていた背中に、小さく小さく祈りを込めた。
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