夜の庭。転がる鬼。刀を構えた男。
星明かりの下に映る非現実的な光景。
「さて、私の腕はいくらで買ってもらえる?」
何気ない調子で男が言う。
それが「あんたに払うお金なんて一銭もない」と言ったことに対する皮肉だと気付くには、少しばかり時間がかかった。
「……嫌なやつ」
目の前の脅威が去って、ようやく落ち着いた奈津の返しは負け惜しみにもならない言葉だった。
「それはないでしょう、御嬢さん。助けて貰ったんですから」
善二も平静を取り戻し彼女の失礼な物言いを諌める。
「ていうか、甚夜、だったか。お前なんでここに?」
「私の雇い主は重蔵殿だからな。善二殿に帰れと言われても従う訳には」
「……つまり帰ったふりして庭に隠れてたってか?」
「まあ、な」
帰ったふりをしてこそこそ隠れ、庭でずっと鬼が出るのを待ち構えていたらしい。想像するに結構情けない姿だった。
「まあいいや、助かった。正直あんな化けモンが出てくるとは思ってなかったしな」
「……やっぱり、嘘だと思ってたんじゃない」
安堵してしまったが故に零れた言葉だった。非難がましい奈津の視線にぎくりとする。失言だと気付いた時には既に遅かった。
「あ、いや、それは、ですね」
誤魔化そうとして、彼女の表情にそれすらできなかった。歯を食い縛り俯く姿は痛みに耐えるようで、その痛みを与えたのが自分だと分かるから口を噤んでしまう。
「別にいいけどね、もう終わったことだし」
ふいと視線を逸らす。そう言いながらも横顔からは落胆と寂寞が見て取れた。信じて貰えなかった、その想いが彼女の胸中に昏い影を落としていた。
「あの、御嬢さん」
「終わってなどいない」
弁明に声が被さる。
その主は鬼の死骸を鋭く睨み付けていた。
「何言ってるの? 鬼は今あんたが斬ったでしょう」
鬼は動かない、完全に息絶えている。しかし甚夜の表情は未だ刀を納めてはいなかった。
「見ろ」
言われた通りに二人は鬼に視線を送る。するとおかしなことに気付いた。鬼の体の向こう側、地面が見えている。つまり鬼は透明になっているのだ。
「おいおい、なんだ?」
死骸は更に色褪せ、夜に紛れるような自然さでその体躯が消えていく。そうしてものの数十秒で鬼の死骸は完全に存在しなくなった。
「死んだ、の?」
奈津の呟き、横に首を振って返す。
「鬼は死ぬと白い蒸気になって姿を消す。今迄、それ以外の死に方をする鬼なぞ見たことが無い」
しかし今の鬼は白い蒸気など出さなかった。
それは、つまり。
「どういうからくりかは分からんが、あれはまだ死んでいないということだ」
「じゃあ、あの鬼は」
「当然また来るだろうな。鬼の狙いが、その娘である限りは」
緩んでいた空気が再び張り詰めた。
その中で甚夜は血払いに刀を振るい、ゆっくりと納刀する。柔らかく滑らかなその所作に、時間の流れまで緩やかになったような気がした。
「奈津殿、といったか。悪いが、今度は無理にでも護衛に付かせてもらう」
声は鉄のように硬かった。
◆
一夜明け、庭に面した縁側に甚夜は座り込んでいた。
寝ずの番をしていたが、結局鬼は姿を現さなかった。あの鬼は今まで夜にしか現れなかったという話だ。ならば夜が明けた今なら多少は安心できる。
とは言え鬼が死んでいないことに間違いはなく、状況がよくなった訳ではない。まだまだ予断は許されない、といった所だ。
すぅ、と背後で障子の開く音がした。奈津が目を覚ましたのだろう。振り返れば、何処か陰鬱な様子の少女は声もかけずに歩き始めた。
「何処へ」
「顔、洗ってくる。付いてこないでよ」
ぴしゃりと言い放つ。
既に朝だ、昨夜の鬼が出ることはないだろう。そう思い、「ああ」と短く返す。
そうして再び庭を見やる。
整然とした庭には郷愁を呼び起こす風情がある。和やかな心地で眺めていると、戻ってきた奈津がゆっくりと隣に腰を下ろした。
「眠れたか?」
「少しは」
髪も梳かさず寝巻のまま。少女は沈んだ表情をしていた。無言の時間が続く。
「お嬢様、お待たせしました」
沈黙を破ったのは甚夜でも奈津でもなく、なにやら盆を運んできたまだ童の域を出ない須賀屋の小僧(使用人)だった。
「それ、こいつのだから。置いたらもう下がっていいわ」
「はい」
言われるままに盆を二人の間に置いて小僧は去っていく。盆の上には二つの握り飯と漬物、急須と湯呑があった。
「これは?」
「朝ごはん」
一言。意味を理解できず眉を潜めれば、苛立ったように言葉を続けた。
「だから、お腹減ったでしょ」
どうやら顔を洗いに行く、というのは口実でこれを頼みに言っていたらしい。護衛の礼というところだろう。
「ありがとう」
その心遣いに感謝し、小さく頭を下げる。すると奈津は何故か驚いたような顔をしていた。
「どうした」
「……浪人がそんな素直にお礼、言うなんて思っていなかっただけよ。なんか調子狂うわね」
浪人、というところで粗野な人物だと思われていたようだ。それも仕方ないと思いながら、遠慮なく握り飯に齧り付く。
奈津はまだ何処かへ行くつもりはないらしい。無言で食べている甚夜の隣に座ったまま。二人は並んで庭を見ている。
「やっぱり、今夜も来ると思う?」
「おそらくは」
「ふうん……」
強がって興味のない振りをしても体は小さく震えた。
全身が爛れた、醜悪な鬼の姿を思い出す。あんな化け物がまた来る。いや、それよりもあの鬼は言っていた。
『娘を返せ』
両親は物心つく前に他界し、奈津はその顔を知らない。
だから思う。あの鬼は、もしかしたら本当に───
「そう不安がるな」
ひどく軽い、朝の挨拶のように何気ない口調だった。
「これでもそこそこ腕は立つ」
どうやら鬼に『襲われる』のが怖いのだと勘違いしたらしい。
的外れな気遣い、しかし納得もする。鬼の存在は確かに恐ろしいが、この男も規格外だ。善二は「相当な剣の使い手」と言っていたが確かにその通りだったようだ。
「強いのは認めるわよ。浪人なんてどうせ口だけで、何かあったらすぐ逃げ出すと思ってたけど。お父様の目は確かだったみたいね」
素直な感想だった。言葉としては失礼なものだというのに、甚夜はまるで表情を変えない。浪人というけれど、この男は本当に理性的だ。それが妙に引っかかって、気が付けば問い掛けていた。
「怒らないの?」
「怒る?」
「だって昨日から私、結構ひどいこと言ってると思うけど。なのに全然怒らないから」
「自覚はあったのか」
「五月蠅いわね」
強気な態度は臆病な自分を隠す為。そんなこと、ずっと前から自覚していた。自覚して尚改めることの出来ない自分の無様さが嫌で、だからまた乱雑な言葉を吐いてしまう。
「いいから答えなさいよ」
「ああ……」
もう一度茶を啜り、然程気負うことなく甚夜は答えた。
「半分は演技だ」
「演技?」
「立ち合いの最中に感情を見せれば隙になる。だから普段から意識して平静であろうと努めている」
「表情を変えないのも剣の技の内ってこと?」
「そんなところだ」
常在戦場の心構えとでもいうのか、江戸の世に在ってこうまで戦う為の剣を意識する者など珍しい。なんというか、言葉の意味は分かってもその考えは理解し難かった。
ただ少しばかり引っかかるところはある。
「……ちょっと待って。それってつまり内心怒ってたってことじゃない?」
「まあ、多少は」
軽い、それこそ茶飲み話のような調子だった。
だから逆に困ってしまう。
どう返せばいいものか。怒っているというのなら謝るべきなのだろうが今更という気もするし、かと言って謝らないのも何か違う。なんとも反応に困る答えだ。
「気にしなくていい。得体の知れない輩を信用できないのは当然だろう」
「それは、そうかもしれないけど」
続けようとして、結局何も言えず口を噤んでしまう。
言葉に詰まる少女。甚夜は静かに笑った。自然に湧き上がる、落とすような笑みだった。
「なにがおかしいのよ」
馬鹿にされたとでも思ったのか、奈津は目を細めて睨み付ける。とは言っても十三の少女、迫力なぞ微塵もなく、寧ろ我儘を言う子供のような印象を受けた。それが殊更おかしくて、自然と表情も柔らかくなる。
「いや、不器用なものだと思ってな」
「……ふん」
気にするくらいなら最初から態度を考えればいい。大方そんな風に思っているのだろう。
だけどそんなこと言われなく分かっている。
奈津自身何度も思って、そして結局できなかったのだ。
もう少し優しく。たったそれだけのことが奈津にはあまりにも難しかった。
「まあ生き方なんぞ易々と変えられるものでもないか」
「……あんたも?」
「ああ。変えられんままこの歳になってしまった」
「そんなことを言うような歳じゃないでしょ」
「そう、だな」
声が僅かに強張る。それを疑問に思ったのか、奈津が不思議そうに問い掛けた。
「なんか私、変なこと言った?」
そうではない。ただ少しだけ胸に痛かっただけだ。
甚夜の外見は十年前葛野を出た頃から何一つ変わっていない。未だ十八のままだ。鬼となったせいだろう、彼の妹と同じく歳を取らなくなった。
この身は最早人ではない。
何気ない会話にそれを思い知らされてしまった。
だから胸が痛む。その程度には、まだ人の心は残っていた。
「ふむ、打ち解けたようで何よりだ」
丁度その時、しかめっ面をした男が店の方から歩いてきた。須賀屋主人、重蔵である。
「お父様」
すぐさま奈津は立ち上がり、父の方まで歩いていく。
「おはよう。どうしたの、朝から?」
「様子を見に来ただけだ。奈津、昨夜は寝れたか」
「う、うんっ。お父様が、護衛の人を付けてくれたおかげで! 心配してくれてありがとう」
既に聞かれた問いだがうんうんと何度も頷き答える。親子仲がいい、というには奈津のそれは若干行き過ぎているようにも思えた。
「そうか」
厳めしい表情は変わらず、しかし声には満足そうな響きがあった。
一度重々しく頷き、今度は甚夜を見る。
「よくやった」
「まだ終わった訳ではありません」
「ならば、しっかりと役目を果たせ」
「努力はします」
無味乾燥な会話だった。しかも甚夜は茶を啜りながら目線も合わせない。
「あんた、お父……雇い主が話しかけてるのにその態度はないでしょ!」
それを諌めたのは奈津だった。父に対しての無礼な振る舞い、言わずにはいられなかった。
「奈津、いい」
しかし止めたのは、普段は礼儀に五月蠅い父だった。
「お父様……」
「そいつは信頼できる。多少の無礼くらいは構わん」
そう言って踵を返し、再び店舗の方へ戻ろうとする。数歩進んだところで、甚夜は背中に声を投げかけた。
「重蔵殿」
振り返りもしない。ただ立ち止まり背を向けたまま言葉を待っている。
「借りは、返します」
庭を眺め茶を啜りながら、適当に乱雑に投げ捨てられた言葉。しかし何か思う所があったのか、重蔵はすっと目を伏せた。
「……精々励め」
短い遣り取り。しかし二人にはそれで十分だったらしく、今度こそ重蔵は店へ戻った。
「ちょっと、今のなんなの?」
置いてけぼりを喰らったような気分になって、奈津は語気も強く甚夜を問い詰める。最後に茶を啜り、とん、と湯呑を盆の上に置く。わざと大きく音を立てるような置き方だった。
「馳走になった」
言葉と同時に立ち上がり、甚夜もまた歩き始める。
「ちょ、何処行くのよ!」
「流石に眠たくなってきた。夜にはまた来る」
軽く手を上げる。挨拶のつもりだったのか、それ以上は何も言わず、立ち止まることなく庭を後にする。そうして奈津だけがその場に残されてしまった。
「なんなのよ、あいつ」
無視されたことに苛立ちを覚え、去っていく背中を睨み付ける。
その後ろ姿は何故か、父のそれに似ていると思った。
◆
「おう、甚夜。もう帰るのか」
帰り際、店の方に顔を出すと善二が中で何やら店の小僧に指示を出している。店の準備で忙しいのだろう。
しかし少し聞きたいことがある。手の空いたところを見計らって声を掛ければ、仕事の途中で会っても人懐っこい笑顔で迎えてくれた。
「ああ。その前に、少し話を聞かせて貰いたいのだが」
「今か? あー、……すんません、兄さん! ちょっと抜けたいですけど」
おそらくはこの店の番頭なのだろう。奥で帳簿を片手に商品を数えている、羽織を着た三十くらいの男に声を掛ける。
「奈津御嬢さんの件だろ? 昼までには帰って来いよ」
「分かってますって、そんじゃ行こう」
どうやら番頭もある程度話は聞いているらしい。割合簡単に許可が出たので取り敢えず店を出る。
「済まない、忙しい時に」
「なに、無理を言ってるのはこっちも同じだろ? そう気にすんなって。……俺も、少し話したいって思ってたしな」
声は何処か沈んでいた。
「なんか食うか?」
「いや」
「んじゃ茶だけでいいな。俺は団子を一皿」
近場の茶屋に腰を落ち着け手早く注文を済ませる。流石に朝早いせいか客もまばら、話すには丁度良かった。
「まずは、昨日は助かった。もう一度ちゃんと礼を言いたいと思ってな」
膝に手を置いて、ぐっと頭を下げる。
「終わった訳ではない、と言っただろう」
「あぁ、そうだったか……すまんが、今夜も頼む」
「勿論だ」
きっぱりと言い切れば、善二は何故か沈んだ面持ちに変わる。片眉を吊り上げて視線を合わせると、疲れたように苦笑を浮かべた。
「お前は、ちゃんと信じたんだよな」
零れた言葉には力が無い。店員が運んできた茶に手も付けず善二は視線をさ迷わせていた。
「お前は、鬼が出ると思って庭に隠れてたんだろ?」
「ああ」
「でも俺は、本当は信じちゃいなかったんだ。鬼が出るなんて、旦那様に構ってほしい御嬢さんの狂言だってな」
それは懺悔たったのかもしれない。悔やむような声音に、ただ黙って耳を傾ける。
「だけど御嬢さんは嘘なんざ吐いてなかった。俺は、ちゃんと信じてやるべきだった。なのに」
絞り出すような痛み。信じてやれなかったという後悔がその表情に滲んでいる。
「すまん、忘れてくれ」
答えなかった。
何も聞いていないとでも言うように一口茶を啜る。その態度に善二はもう一度「すまん」と呟き、今までの雰囲気を払拭するように気軽な態度を作って見せた。
「あー、聞きたいことってなんだ?」
空元気なのは分かり切っている。だがそれを指摘するのは無粋だろう。だから甚夜はまだ硬い表情には気付かないふりをして言った。
「奈津殿のことを」
「御嬢さんの?」
「娘を返せ……あの鬼の言葉が少し、な」
「ああ……」
何が聞きたいのか、大凡の見当がついた。
善二は奈津の両親についてこう語った。
『何でも生まれて一年も経たないうちに亡くなったそうでね。それを旦那様が引き取ったって話だ』
つまり奈津の両親は既に死んでおり、彼女自身親のことを知らない。
ならば『娘を返せ』というあの鬼が、本当に奈津の親なのではないか。甚夜はそう考えているのだろう。
しかしそれは在り得ない。
「確かに、御嬢さんの本当の両親はもう死んでる。お前の懸念も分かるが……安心しろ、それはない。そもそも、もしそうなら旦那様が御嬢さんを引き取る訳ないしな」
「と、いうと?」
話してもいいものか一瞬躊躇う。しかし重蔵はこの浪人を随分と信頼していた。ならば少しくらいは良いだろう。
「旦那様は奥方を鬼に殺されてんだ」
ぴくりと、甚夜の眉が動いた。
「兄さん……うちの番頭から聞いた話だけどな。御嬢さんを引き取るよりも前に殺されたそうだ。だからだろうなぁ。今回の件に関しては御嬢さん以上に過敏なんだよ」
「だから、もしも奈津殿が鬼の娘なら引き取る筈がない?」
「そういうこと。それに御嬢さんは旦那様の親戚筋の娘で、両親のこともよく知っているらしい。絶対、とは言えないが、まずないと思うね」
「そうか」
納得したのかしていないのか、難しい顔で黙り込み、何やら思索を巡らしている様子だった。
「まだ疑ってんのか?」
「いや。もう一つ聞きたいのだが、重蔵殿はそこまで鬼を嫌っているのか?」
「そりゃあな。……あー、実はな、旦那様には息子がいるんだ」
気まずそうに善治は頬を掻いた。
「正確には『いた』だけどな。まあ息子って言っても俺より年上だし、昔出て行ってそれきりらしいがね。それも鬼のせいだと旦那様は言ってる。奥方を殺され、息子を亡くした。旦那様にとっちゃ鬼は家族を奪った仇敵なんだろう」
その言葉に甚夜は無表情に、しかし声にはいくらか沈み込むような色を付けて呟いた。
「……そうか、あの人も傷付いていたのだな」
「そういうこった、だから言葉の足りん人だろうが、悪くは思わないでやってくれ」
甚夜は小さく頷き、目を伏せて黙り込んでしまった。
不自然に間が空いて、どうにも居た堪れなくなり適当な話題を振ってみる。
「あー、そういやお前の親は?」
「随分と昔に」
一言だけ。しかし硬い声にその意味を知る。
「もしかして、お前も」
「父は私に剣を教えてくれた故郷でも随一の使い手だったが、鬼との戦いで」
「そう、かぁ」
だから善治は思う。
旦那様が何故浪人に大事な娘の護衛を任せたのか。それほどの信頼を浪人に置いたのか。
その理由を聞くことは出来なかったが、案外同じ匂いを感じ取っていたのかもしれない。
「悪いことを聞いたな」
「いや、話したのは此方だ」
「そう言ってくれると助かるよ」
その後、しばらく益体もない話をしてから二人は別れた。
一夜明け状況は何も変わらないまま。
そして、また夜が来る。