怖い話。
魑魅魍魎。
柳の下の幽霊。
皿屋敷。
鬼。
牛の首。
説話講談色々あって、でも私にはもっと怖い話がある。
物心がつく前に両親が死んで、引き取ってくれたのがお父様。
自分には厳しいし、怖い顔をしてることも多くて、だけどいつだって私には優しかった。
言葉は少ないけれど、私のことを気遣ってくれた。
血の繋がりなんて関係ない。
両親の顔なんて私は知らないから、あの人が私にとって本当のお父様で。
だけど、聞いてしまう。
「旦那様、本当は辛いんだろうなぁ」
「奥方様は鬼に殺されて、息子だって鬼女に拐わかされて……跡取りはどうするのかね」
「旦那様は息子さんがまだ帰ってくると思ってるんじゃないか、多分? だから男じゃなくて女を養子にしたんだろ」
お父様には妻がいて、本当の息子がいて。
でも鬼のせいで全部亡くした。お父様はひどく鬼を嫌っている。
「……不味い」
一人位牌を眺めながらお酒を呑んでいるお父様は、いつも悲しそうな顔をしていて。
だから分かる。
お父様はまだ亡くした家族を思っているのだと。
小僧達が話していたようにまだ息子が帰ってくるのを待っているのだと。
私にとってはお父様が本当の家族でも、お父様にとっては鬼の奪われた家族こそが本物なのだ。
それを否応なく思い知らされる。
嫌な想像が頭を過る。
もしかしたら家族だと思っていたのは私だけで、私は単に『代わり』だったのではないだろうか。
もしも私の思った通りなら。
いつか、本当の息子が帰ってきた時、私は捨てられるんだろうか。
でもそれを認められるほど強くはなれなくて。
聞きたくて、聞きたくなくて。
私はいつも何も言えないでいる
怖い話。
魑魅魍魎。
柳の下の幽霊。
皿屋敷。
鬼。
牛の首。
説話講談色々あって、でも私にはもっと怖い話がある。
怖い話なんて怖くない
怖いのは、いつだって作り話じゃなくて、掛け値のない本当のこと。
◆
日が落ちて店を閉じ、家屋へ戻った重蔵と奈津は夕餉をとっていた。
囲炉裏を囲んで無言のまま箸を進める。厳格な重蔵は食事の際に話をするのはあまり好まない。しかしこの日は彼の方から言葉を発した。
「奈津」
「えっ、あっ、はい」
滅多にないことの為思わずどもってしまった。恥ずかしさに少しだけ頬が熱くなる。
「護衛についた男、問題はないか」
「うん。浪人って言ってたけど、そんなに悪い奴じゃないみたい。それにお父様が選んだ人だし」
「そうか」
「ありがとう、心配、してくれて」
「当然だろう。娘を心配せん親なぞおらん」
殆ど表情は変わらない。しかし重蔵が自分を心配してくれていると分かり、奈津は満足げに口元を綻ばせた。
「ねぇ、お父様。なんであの男を雇ったの?」
それは純粋な疑問だった。確かに信頼できる男だったが、それは結果論だ。何故父は浪人なんかを護衛にしたのか。
「馴染みの客に聞いた噂だ。近頃江戸には鬼が出るという噂が流れている。しかし同時に刀一本で鬼を討つ男もいるらしい」
「それが、あの浪人?」
「ああ。金さえ払えば如何な鬼でも討つ……腕も確かなようだ」
その答えに安堵し、喜びを感じる。父は決して『鬼が出る』という話が嘘だと思ったからあの浪人を付けたのではない。鬼の存在を真実と受け止めた上で、対応策を考えていてくれたのだ。
「なによりあれは信頼できる。お前の護衛には相応しかろう」
苦笑を落す。その笑みがどんな感情をもとに零れたのか、奈津には分からなかった。
◆
「では任せる」
夜になり、須賀屋を訪れた甚夜に重蔵はそう声を掛け自室へと戻った。奈津の部屋の前には甚夜と善二が構え、昨夜と同じように庭を睨み付けている。
「……なんで、善二がいるの?」
「いや、昨日の失態を挽回しておこうかなーなんて、はは」
奈津は自室から顔を出し、半目で善二を見る。昨日の発言が尾を引いているのだろう。その態度はひどく冷たいものだった。
「ふうん。別にどうでもいいけど」
「冷てぇ……許して下さいよ御嬢さん」
「……なら、今度何処か連れてってよ。それで勘弁してあげる」
「勿論、そんなことでいいんでしたら幾らでも!」
沈んだ表情から一転、人懐っこい笑顔が浮かぶ。善二は二十歳、奈津よりもかなり年上だが立場は随分と下のようだ。
「そう言えば、あんた。お父様と知り合いだったの?」
今度は甚夜に声を掛ける。
「随分と昔に、少しな」
「お父様はなんかあんたを買ってるみたいだったけど」
「ああ、それは確かに」
思い当たる節があったらしく、善二もこくこくと頷いている。
「でしょう? 浪人に依頼するってだけでもおかしいのに、朝だってあんな失礼な態度とっても怒らないし。あんた、お父様とどういう関係?」
「なんか夫の浮気相手を問い詰める妻みたいな言い方ですね」
「善二はほんとにいちいち五月蠅いわね。で、なんで?」
二人の遣り取りを聞きながらも、甚夜は然して気にした風ではなく、庭から視線を移しもしない。そしてそのままの体勢を崩さず答える。
「さて、そこまで信頼される理由は私にも分からん。私はただ借りを返すつもりでこの依頼を受けただけだからな」
「借り……? まあいいわ。お父様が信頼してるみたいだから、私も取り敢えずは信用する。少なくとも剣の腕が確かっていうのは事実みたいだしね」
その物言いに甚夜はぴくりと眉を動かした。
「重蔵殿が信頼しているから、か。奈津殿は随分とあの人を慕っているのだな」
「当たり前でしょう。お父様は血の繋がらない私をここまで育ててくれたんだから。感謝しない訳ないじゃない」
語り口は弾んでいる。この娘は本当に重蔵を慕っているのだと分かる。
「そうか。重蔵殿の方も随分と気にかけているようだ」
「そうかしら」
「そりゃあそうでしょう。考えてみれば鬼が出るってお嬢様が話したらすぐに護衛連れてきましたし。はっきり言って過保護だと思いますよ?」
二人の意見に首を傾げながら、しかしその表情の端々に歓喜が見て取れる。
内心を全く隠せていない。鬼が今夜も現れるかもしれぬというのに、恐怖など微塵も感じさせなかった。
「……案外と、善二殿が正しかったのかもしれん」
「え?」
「いや」
舞い上がっていたせいか、呟いた言葉は聞こえなかったらしい。奈津は不思議そうな顔をしていた。
その様を見て、すっと甚夜の目が細められる。そして一瞬何かを逡巡するように眉を潜め、徐に口を開いた。
「……ああ、そういえば少し耳に挟んだのだが。重蔵殿には息子が」
「知らない」
遮るように被せたのは、苛立った声だった。
表情からも先程の喜びは消えている。
「出て行った息子のことなんか知らないわよ。変なこと聞かないで」
「そう、か。それは済まなかった」
質問を遮られ乱雑な受け答えをされて、しかし然して腹を立てた様子もない。寧ろ納得がいったとでも言うように小さく頷いた。
それから一刻弱。
初めの内はまだ会話も続いていたが、夜が深くなるにつれ口数は減っていく。疲れたのか、奈津の顔は陰鬱な色をしていた。
「寝ないのか」
「眠れないのよ」
自室から出て縁側に座り込む奈津は、不安からか声が少し強張っていた。しばらくはまた無言のままだったが、意を決したように口を開く。
「ねぇ……鬼と人の間に子共って生まれるの?」
焦燥が口をついて出た。
父の話が事実なら、この浪人は今までも鬼を相手取って来た筈だ。ならばそういうことも知っているかもしれない。
だから聞いた。もしかしたら、自分が望む答えを返してくれるかもしれない。
「生まれる。その姿が鬼に似るか人に似るかは個体で変わるがな」
しかしそんな淡い期待は斬って捨てられた。
「そう……」
悲しみに震える。
ああ、やっぱり。『娘ヲ返セ』。あの言葉の通り、私は本当に。
「御嬢さん、大丈夫ですよ。そんなことあるわけ」
善二が慰めようとするが。破裂したように奈津は大声で叫ぶ。
「でも私はお父様と血が繋がってないし、本当の親なんて知らないし! もしかしたら、もしかしたら本当に……」
あの鬼こそが、私の親なのではないだろうか。
「いいや、あの鬼はお前の親などではない」
感情の乗らない、金属のように冷たい声だった。あまりにも優しさの無い慰め。それを聞いて激昂と呼んで差支えがない程に興奮する。
「なんであんたにそんなことがっ!」
「分かる。私はあの鬼を知っているからだ」
けれど次いで放たれた言葉に、一気に頭が冷えた。
「……え? 」
「少なからず因縁があってな。だから分かる。あの鬼はお前の親ではない。間違いなく、な」
「本当、に?」
「嘘は吐かん」
きっぱりと言い切る。その堂々とした態度に、信じてもいいような気がした。
「だから不安に思うことはない」
「そ、そうですよ! ほら、鬼の専門家がこういってるんですし! あんな鬼なんざ俺らが追い返してやりますよ!」
「……あんたはどうせ見てるだけでしょ」
「ぐぅ、なんかいちいち棘がある……」
大げさに肩を落して見せるも、善二は内心安堵していた。奈津にいつもの調子が戻ってきた。多少は落ち着いたようだ。
「はぁ。話してたらなんだが眠くなってきたわ」
あからさまに演技の欠伸をして、そして横目でちらりと甚夜を見る。そして若干ためらいがちに問うた。
「ねぇ、あんた名前は?」
「……甚夜だ」
「ふぅん。甚夜、ね。なら、そう呼ばせてもらうわ」
そんなことを言って、直ぐにそっぽ向いてしまう。
善二は口元に手を当てた。くくっ、と漏れた息。笑いを堪えているのだろう。素直に感謝の言葉を言えない奈津が面白くて、笑いが止められなかった。
肩を震わせ一頻り笑い終えた後、表情を引き締め甚夜の耳元で小さく言った。
「甚夜、すまん」
急な謝罪に眉を潜めれば、申し訳なさそうなまま言葉を続ける。
「奈津御嬢さんのことを気遣ってあんな嘘を吐いてくれたんだろ?」
「なんのことだ?」
「惚けなくてもいいだろうに、お前も素直じゃないな」
やれやれ、とでも言わんばかりに肩を竦める。
「ちょっと……目の前でひそひそ話しないでよ」
「おっと、これはすいません」
和やかな空気が流れる。
そんな中で甚夜はすくりと立ち上がる。
「ところで、鬼はどうやって生まれてくると思う?」
そして話の流れも和やかさも断ち切って、まるで鉄のように冷たい声を発した。
「なんだいきなり?」
意味の分からない質問。疑問を口にしても返ってきたのは沈黙だけ。だから仕方なく先程の問いに答える。
「どうって……そりゃあ、なぁ。普通は親からだと思うが。実際どうなんだ?」
「鬼の生まれ方は様々だ。鬼同士が番いとなり子を為す場合もあれば、戯れに人を犯しその結果として生まれてくることもある。稀に人と恋仲になる鬼もいる。中には無から生ずる鬼もいてな」
「無から?」
「想いには力がある。それが昏ければ猶更だ。憤怒、憎悪、嫉妬、執着、悲哀、飢餓。深く沈み込む想いは淀み、凝り固まり、いずれ一つの形となる」
それは予兆を捉えていたからこその問いだったのかもしれない。
善二は目を見開いた。
庭に生暖かい風が吹く。甚夜の言葉に呼応するかのように、目の前の空気が歪んでいく。
黒い霧のようなものが立ち込め、次第にそれは集まっていく。淀み、凝り固まり、一つの形を成す。それは今し方語って聞かされた内容と完全に一致している。
つまり、
「無から生ずる鬼とは即ち、肉を持った想念だ」
鬼が生まれようとしているのだ。
軽やかに庭へと踊り出る。しかし斬り掛からない。抜刀さえせず、鬼が完全に生まれるのを待っている。
次第に靄は凝固し、四肢をもつ異形へと姿を変える。
昨夜も見た、爛れたような皮膚。あまりにも醜い鬼がそこには立っていた。
「名を聞かせてもらう」
甚夜は再び鬼の名を問うた。
『娘ヲ…返セ……!』
知能が高くないのか、昨夜と同じように無警戒に飛びかかる鬼。
だが遅い。体を捌き半歩下がる。距離が詰まった瞬間、潜り込むように懐へ入り当て身を喰らわせる。
思った以上に軽い。鬼は見事に吹き飛ばされ、庭を転がった。
「名乗る程の知能はないか」
かつて名も知らぬままに鬼を斬り、ひどく後悔したことがあった。
それからは、せめて己が切り捨てるものくらいは覚えていようと、戦いの前には名を聞くと決めていた。
しかし答えは返ってこない。この鬼の名前は、心底知りたかったのだが。
四つん這いになって体を起こし、唸り声を上げながら突進する鬼。
抜刀はしない。鞘に納めたまま刀を振るい、柄で顎をかちあげる。そのまま鞘で打ち据え、再び鬼は地面に伏した。
「さて、どうしたものか」
それを悠然と眺め、追撃をしようともしない甚夜に痺れを切らし、善二が声を上げた。
「って、お前何やってんだ!? そんな悠長なことやってないで……」
「斬っていいのか?」
意外、とでも言いたげな表情で聞き返す。
この男は本気で何を言っているのか。
「当たり前だろうが! さっさと」
「私は奈津殿に聞いている」
一際強くなった甚夜の声に善二は言葉を止められた。
何を言っても無駄だ。そう思い奈津の方を向いて、瞬間、頭が真っ白になった。
「なに、を」
明らかに奈津は動揺していた。
わなわなと唇を震わせ、視線をあちらこちらにさ迷わせ、答えることが出来ずにいる。
「鬼に襲われ、『本当の家族のように』父に心配してもらう。奈津殿の望んだ通りだ。さて、もう一度聞こう。本当に斬っていいのか」
淡々とした語り口。しかしその眼光だけが異常に鋭い。射抜かれた奈津は怯えていた。
鬼にでも、鬼が親である可能性にでもない。
目の前の男に見せつけられた、自分の弱さにどうしようもないくらい怯えていた。
怖い話がある。
物心がつく前に両親が死んで、引き取ってくれたのがお父様。
本当の親がいないと悲しんだことはない。
私にとって、あの人こそが本当のお父様だったから。
けれど聞いてしまった。
重蔵には、今は出て行ってしまったが息子がいたと。
でも鬼のせいで全部亡くした。お父様はひどく鬼を嫌っている。
お父様はまだ亡くした家族を思っている。
小僧達が話していたようにまだ息子が帰ってくるのを待っている。
私にとってはお父様が本当の家族でも、お父様にとっては鬼の奪われた家族こそが本物なのだ。
だから思う。
もしかしたら私は、本当の子供の代用品なのではないか。
あの人は、私が想うほどには想っていてくれないのでは。
不安が消えることはない。
ああ、いっそのこと───私も鬼に襲われれば、あの人は大切に想ってくれるだろうか。
「善二殿の言は正鵠を射ていた。これは奈津殿の狂言。ただ、本人が気付いていなかっただけの話だ」
幾度となく鬼は立ち上がり、幾度とのなく甚夜に襲い掛かる。その度にいなし叩き伏せるが、それでも鬼は諦めることをしない。奈津ではなく、甚夜へと向かう。
「例え此処で斬り捨てたとしても、この鬼はまた現れるだろうな」
「なん、で」
そんなことが分かる。
奈津の言葉にならない問い。無慈悲なまでにきっぱりと答えた。
「言っただろう、この鬼は奈津殿の想いだ。ならば幾ら斬り伏せようと蘇る。その大本を断たぬ限り」
「……私に死ねってこと?」
「違う。ただ一言、こいつを『斬れ』と言えばいい」
薄らと細められた、刃物のような視線が奈津を捉えている。
斬ると言えば鬼は消える。
何が言いたいのか、分かってしまった。
あの鬼が自身の想いで出来ているのならば、斬れと言うことは想いを捨てるに等しい。
あの浪人は父が大切だと思うこの気持ちを、今この場で斬り捨てろと言っている。
「そんな、こと」
そんなこと、出来る訳がない。
ようやく分かった。何故あの鬼があれ程まで醜い姿をしているのか。
あれは、私だ。
見たくないものに蓋をして、弱い自分を隠して、そのくせ誰かに愛されたくて。
優しくしてくれた父に縋って、けれどこんな自分を愛してくれるなんて信じられなくて。
既にいない妻や息子に嫉妬して。それを認めることさえ出来やしない。
そうして見て見ぬふりをしてきた醜い想い。
あの爛れた容貌は、強気な態度の下に隠れた私そのものなのだ。
「いや……」
怖い。自身の醜さを凝視するのは堪らなく怖かった。
「やだよぉ」
奈津は子供のように泣いていた。
殴られ蹴られ転がされる自身の想い。見たくないものを、見せつけられている。
本当はただ父と仲良くしたかっただけ。
それだけだった筈の想いはいつの間にか捻じ曲がり、醜い異形を生み出してしまった。
あんなものを内に孕んでいるのならば、例え両親が人であったとしても、この身は確かに『鬼の娘』なのだろう。
きっと本当に斬られないといけないのは、私───
「違うでしょう、御嬢さん」
でも、声が聞こえた。
「ぜん、じ……?」
「あいつが斬れって言っているのは鬼だ。貴女じゃありません」
違う。そうじゃない。あれは、あの鬼が私なんだ。
「そうじゃない、そうじゃ、ないの」
「ねえ、御嬢さん。人当たりがいいなんて言われちゃいますがね、俺だって嫌いな相手くらいいますよ。正直朝起きんのしんどくて仕事したくない日だってあるし、旦那様の無茶ぶりにかちんとくるのだってしょっちゅうです」
おどけたように肩を竦め善二は軽く笑う。
「でもそれが全てじゃない。嫌いな相手よりも好きな奴は多くいて、上手くいきゃあ仕事は楽しい。俺を引き立ててくれた旦那様にも感謝してます。皆そんなもんなんです」
普段の情けない様子とは違う、大人を感じさせる態度だった。
「あの鬼が御嬢さんの想いでも、きっとそれが全てじゃない。だからあいつを斬り捨てましょう。そんで今度は真っ直ぐな想いを育てればいいじゃないですか。大丈夫、旦那様は絶対に御嬢さんのことを大切な家族だと思っていますから」
そんなに不安がらなくたっていいんです。
その物言いに気付く。善二は自分の葛藤をちゃんと理解している。あの醜い鬼は奈津なのだと認めた上で大丈夫だと言ってくれている。
「親娘揃って言葉が足りないんですよ。もうそろそろ腹割って話して、ちゃんと家族になりましょうや」
きっとそれは、私が本当に望んでいたことだ。
「……斬って」
甚夜の背中に声を投げかける。
「斬って」
「いいんだな」
「ええ。そいつは多分私の想いなんだろうけど、私じゃない」
震える声で、しかし気丈に睨み付ける。
それが感じられたから、甚夜は落すように笑った。
優しく、まるで家族を慈しむような暖かさ。
奈津はその表情に一瞬目を奪われた。しかしそれは本当に一瞬。笑みは消え去り、眼光も鋭く甚夜は鬼を見据える。
「そうだな。変わらないものなどない。だが鬼は変われない。だからこそこの鬼は生まれた。これは、立ち止まってしまった想いだ」
だけど、いつまでも立ち止まったままではいられない。
悲しみに足を止めることもあるだろう。過去の後悔はどうしようもなく付きまとう。
それでも人は日々を生きていかねばならない。
ようやく甚夜は抜刀し、脇構えを取った。
そうして一気に踏み込み、腰の回転で刀を横一文字に振るう。
「今を生きる者達にお前は邪魔だ、失せろ」
それで終わり。
一太刀の元に、鬼は両断された。
◆
「終わった、のか?」
鬼の体躯から白い蒸気が立ち昇る。今度こそ鬼はその終わりを迎えようとしていた。
「ああ」
「また現れたりは」
「大丈夫だとは思うが。それは、これからの奈津殿に任せるしかないな」
「そりゃそうか」
奈津は心労からか気を失い、今は善二の腕の中にいる。
軽い。この娘はこんなに軽かったのか。
「しかし、なぁ。鬼ってのは、あの程度の想いで生まれるもんなんだな」
「それは違う」
「いや、だってよ」
「善治殿にとっては『あの程度』でも奈津殿にとっては違った。それだけの話だ」
「ああ……そっ、か」
想いの重さは人によって変わる。当然のことだ。
言うべきことはないのか、そこで会話は途切れた。途端に夜風が吹き、その冷たさに体が震える。
「うぉ、寒」
「夜は冷える。奈津殿を寝かせてやってくれ」
「ああ、そうだな。お前はどうする?」
「取り敢えず今夜は番をさせて貰う」
「そうしてくれると助かる。そんじゃ」
奈津を抱きかかえたまま善二は部屋へ行き、ゆっくりと布団の上に寝かせる。そして流石に眠くなったのか、軽く甚夜に挨拶をして自室へと戻っていった。
庭には甚夜と、鬼だけが残された。
……ところで、言葉というのは存外に難しい。
確かに甚夜は「嘘は吐かん」と言った。
しかし本当のことを全て話した訳ではない。
此処から先は二人には見せたくなかったものだ。
『娘ヲ…返セェェ……』
鬼が立ち上がる。
蘇った訳ではない。今にも消えそうな体を無理矢理動かしているだけだ。しかし甚夜は冷静に再び刀を構えた。
「やはりな」
もしこの鬼が奈津の想いから生まれたのならば、彼女が否定した時点でその存在意義を失う。
しかし鬼は死屍累々とはいえ動くことができた。だから甚夜は自身の推測が正しいのだと確信した。
想いから鬼が生まれるとしても、奈津の想いだけでは鬼になるには少し足らない。
だからあの鬼にはもう一つ混ざった想いがあると考えていた。
この家にはもう一人、鬼に成り得る女がいた。
殺された重蔵の妻。彼女こそが足りない想いを補っていた。あの鬼が何度も『娘を返せ』と繰り返していたのは、彼女の想いが混じっていたからだ。
つまり鬼の娘とは重蔵の妻が生んだ子供なのだ。
「お久しぶりです。こんな形で会うことになるは正直思ってもいませんでした」
何故か鬼に向かって畏まった口調で話す甚夜は、ひどく沈んでいた。
「最後に、貴女の名を聞かせてほしい」
けれど返る答えは同じ。
『娘ヲ、返セ……!』
痛ましく歪む表情。ぎり、と奥歯が鳴った。
刀を上段に構え、静かに言う。
「済みません……不義理をお許しください。ですが、皆今を生きている。過去に足を止めてはいられないのです。だから」
唐竹。
鬼は断末魔の叫びさえないままに斬り伏せられ、白い蒸気となり溶けように消え去る。
「もう眠ってください」
苦渋の声音。
ぽつりと呟いた言葉だけが庭に残った。
◆
朝になり、須賀屋の前に甚夜はいた。
「世話になったな」
既に重蔵から護衛の報酬は貰った。そそくさと帰ろうと思ったのだが、善二と奈津が見送りたいと言い出し、結局捉まってしまった。
「ほら、御嬢さんも」
「う、うん」
「そんなんじゃまた鬼が出ますよ」
「分かってるわよ。……その、ありがと」
そう言った奈津の表情は不貞腐れたようで、照れたような。初めて会った時よりも幾分か幼く見えた。
「もうちょっと、色々直してみるわ。すぐにはうまくいかないと思うけど」
「ああ、それがいい」
ゆっくりと頷けばそっぽを向いてしまう。素直になるまではまだまだ時間がかかりそうだ。
「しっかし、甚夜。なんでここまで体を張ってくれたんだ? 初めに鬼を斬った時点で報酬貰って帰ってもよかったろうに」
「重蔵殿の依頼だからな。そんな中途半端なことは出来んよ」
「お父様の?」
「言っただろう、私は借りを返しに来たんだ」
昨夜のことを思い出す。そう言えばそんなことを言っていたような気がする。
「借りって、一体なんだったの?」
その問いに甚夜は目を伏せた。
そして静かに語り始める。
「長く生きれば大人になれるというものでもないが、それでも歳月を重ねた分気付くこともある」
返ってきた言葉は、意味の繋がらない独白だった。
「子供の頃は目に見えるものだけが全てだった。傷つけるのはいけないことだと、其処に隠れたものが在るのだと想像するには私は幼すぎた」
古い話である。
甚夜は──甚太は五歳の頃、妹と一緒に江戸を出た。
父は妹を虐待していた。だからこんなところにいてはいけないと思った。
虐待の理由は簡単だった。
母は妹が生まれると共に死んだ。そして、妹の目は赤かった。
妹──鈴音が鬼の娘であることは間違いなく、母が人である以上その父親が何者であるかなど容易に想像がつく。
おそらくは鬼が戯れに人を犯し、結果生まれた娘だったのだろう。
父は母を犯し殺した鬼を憎み、鈴音をもまた憎んだ。
それに耐えきれず甚太は鈴音と共に家を出た。
二人は元々江戸にある、それなりに裕福な商家の出だった。
「だが、色々なものを失くした今なら少しは理解してやれる。だから、あの時父を見捨てることしか出来なかった『幼さの借り』を返したかった」
自分たちのことしか考えられなかった。
母を亡くし失意の淵に在った父が、子供まで失くし何を思うのか。そこまで慮ってやることが出来なかった。多分、それをずっと後悔していたのだ。
だけど今は少しだけ安堵している。
「ぜんぜん意味が分からないんだけど」
甚夜の言葉の意図が読めず、奈津は少し怒った様子だ。
しかし説明する気はなかった。昔のことだ、彼女達が知る必要はない。重蔵の子供は奈津だけ。それでいい。
「まぁ、なんだ。親孝行はしておいた方がいい、という話だよ」
落すような笑みでそう言った。
もしかしたら妹になったかもしれない少女。どんなに生意気な態度でも怒る気になれなかったのは、だからなのかもしれない。
「親孝行?」
「重蔵殿は奈津殿にとって親なのだろう?」
「そりゃ、そうよ」
奈津の言葉を嬉しいと思う。
あの人にはもうちゃんと家族がいるのだと、一人ではないのだと知れたから。
そして奈津の言葉を嬉しいと思えたことが、嬉しかった。不肖の息子だったが、少しは返せるものがあった。
ただ一つ心残りがあるとすれば、あの鬼の名前を知りたかった。
かつて名も知らぬままに鬼を斬り、ひどく後悔したことがあった。
それからは、せめて己が切り捨てるものくらいは覚えていようと、戦いの前には名を聞くと決めていた。
しかしそれとは別に甚夜は知りたかった。
───果たして、あの鬼の名前は何というのだろう。
奈津の想いから生まれたのならば、鬼の名前も『奈津』になるのだろうか。
父を慕うその気持ちが形になったというのならば、『愛情』とでも呼ぶべきか。
だがもしも、あの鬼の中に、彼女の想い以外の何かがあるのなら。
いなくなった娘の行方を探す母の想いがあったとしたのなら。
鬼に無理矢理犯され孕み、その果てに生まれた娘。
それでも『娘を返せ』と死して尚残り続けたその願いが、憎しみの最中に在った筈の母の想いが一体何という名前なのかを知りたかった。
結局、それを聞くことは叶わなかったが。
「なら、仲良くな。ああ見えて打たれ弱い人だ。貴女が支えてやってくれ」
「あんたに言われなくたって」
奈津の言葉に緩やかな笑みを落し、甚夜は踵を返した。
「では、な」
一度も振り返ることなく甚夜は真っ直ぐに歩いていく。背筋の伸びたその歩みをしばらく眺めていると、背後から声が聞こえた。
「行ったか」
重蔵はちょうど甚夜の影が見えなくなった辺りで姿を現した。
「はい。つーか旦那様も見送りゃあよかったでしょうに。世話んなったんだから」
「その必要はなかろう」
淡々とした口調。全くこの人は相変わらずだと内心溜息を吐く。
「あいつならば、必ず為してくれる。最初から分かっていたことだ」
「そういや旦那様はえらい甚夜のことを買ってますよね。なんか理由でもあるんですか?」
軽い調子で聞いてみる。
すると重蔵は何故か、懐かしいものを見るような穏やかな目になった。
「馬鹿なことを聞くな」
そうして笑う。
「……子を見間違える親がいるものか」
落とすような、何処かの誰かに似た笑みだった。
重蔵は甚夜を呼び止めることも、見送ることさえしなかった。
呼び止めたとしてもきっと喜ばない。
最早交わらぬ道行きを少し寂しくも思うが、それも仕方ない。あれは既に自分の意思で歩いている。ならばこそ、邪魔をするような真似はしたくなかった。
「はぁ……?」
「お前はさっさと仕事に戻れ。そうでなくば番頭が遠のくぞ」
「そいつは勘弁。ではお嬢さん俺はこれで」
すたこらと逃げるように店へ向かう。それを眺める重蔵は鼻で笑い、しかしその表情は優しい。
「あ、あの!」
奈津が緊張した面持ちで重蔵の前に立つ。
「ん?」
「お、お父様……私にも、なにか手伝えることある?」
照れているのか、ほんの少し赤く染めている。
「どうした急に」
「だって、お、親孝行はしておいた方がいいって」
それが誰に言われた言葉なのかは容易に想像がついた。
まったく、下らないことを。
「お前はそんなことを気にする必要はない……子供はな、親より長生きするのが一番の孝行だろう」
「お父様……」
「私はそれだけで満足なのだ」
誰かの影は遠く、零した呟きは届かない。
けれどその言葉は、おそらく奈津にだけ向けた訳ではなかったのだろう。
ぽんと奈津の頭に手を置き、重蔵は踵を返し歩き始める。奈津もまた追うように店へと戻った。
その光景は、確かに家族のそれだった。
鬼が出る、という噂が流れ始めたのはいつの頃からか。
乱れた世相に故か、夜毎魍魎どもは練り歩く。
人の口に戸は立てられぬ。江戸では鬼が出るという噂が実しやかに囁かれていた。
それに付随して、もう一つ噂があった。
曰く。
江戸には、鬼を斬る夜叉が出るという───
『鬼の娘』・了
次話『貪り喰うもの』
注・一応言い訳。
善二は二十歳、だから十八の頃のままの外見の甚夜を年下だと思っています。
ですが実際には甚夜は二十八歳なので善二より年上。
だから『重蔵の息子は自分より年上』だと思っているので、結構危ういことを言っていますが最後まで二人が親子だとは気付きませんでした。