犬の遠吠えが聞こえた。
夜はますます深くなり、つい先程見た時には月にかかる薄衣のような雲は流れていた。この部屋には窓がないため確認は取れないが、江戸の町並みは今頃青白く染まっていることだろう。
甚夜は四畳半程の部屋に座っていた。幾分古い畳敷き、変色した壁。建てられてからそれなりに時間が経っているのが分かる。くすんだ色合い、しかし部屋に転がる小物に生活感が感じられた。
「……まさか、こんな所に住んでいるとは」
驚きか、呆れか。一度溜息を吐く。
先刻出会った鬼に案内され辿り着いた場所は、神田川からさほど遠くない場所にある裏長屋だった。長屋には表と裏があり、裏の方は比較的貧しい町人が暮らす集合住宅である。
「なに、鬼も長ずれば人に化ける術を身につける。中には人に成り済まし生きる者もいます。鬼は嘘を吐きませんが、真実は隠すもの。それは貴方も同じでしょう?」
言いながら透明な液体で満たされた茶碗を甚夜の前に差し出す、継ぎを当てた小袖に髷を結わった男。細身でどこか頼りなさげな印象を抱かせる、如何にも町人といった風情のこの男こそ先刻の鬼、茂吉だった。
言葉の通り、茂吉は人に化けこの長屋で生活をしているらしい。眼の色は黒い。流石に高位の鬼、化け方も堂に入ったものである。
「どうぞ。毒なんて入っていませんのでご安心してください」
「どのみち毒程度で死ぬ体でもない。頂こう」
茶碗の中に入っているのは茶ではなく酒だった。
一口呑む。酒とは言っても水で薄めた安酒だ。蕎麦一杯十六文に対し酒は四十八文、裕福ではない町人にとって酒は高級品のため、庶民の呑む酒は水で薄めたものが一般的である。
「改めまして。俺は茂吉。見ての通りしがない裏長屋に住む町人です」
「そして、その正体は鬼か」
「ええ。これでも百年を経る、高位の鬼と呼ばれる存在です」
その言葉に少しだけ違和を感じる。高位の鬼という割には圧迫感というか、それに相応しい空気がない。なにより、正直なところ今まで葬ってきた下位の鬼よりも茂吉は弱く感じられた。
「しかし、それにしては……」
「あまり強くない、ですか?」
「ああ。まぁ、な」
一応気を使って濁した言葉を明言されて、少しだけ言い淀む。しかし相手は実にあっけらかんとしている。
「それは当然でしょう。そもそも高位の鬼というものは、力量に関係なく固有の<力>に目覚めた鬼を指すのです。ですから高位であっても膂力や速さは下位の鬼に劣る者もいます。恥ずかしながら俺も、ということです」
確かに以前出会った<遠見>を使う女も然して強い訳ではなかった。戦闘に特化した<力>を持たぬ鬼も一括りに高位と捉えているらしい。
納得して一つ頷き、世間話の為に来た訳でもないと本題へ移る。
「では改めて確認するが、お前は辻斬りではない……こう言うのだな?」
「はい、勿論です。そして甚夜さん、貴方も」
黙って頷く。そして茂吉の目を覗き込む。その瞳は揺らがず真っ直ぐにこちらを見据えており、動揺の欠片もない。嘘は、吐いていないと思う。漠然とした感覚だが、そう信じられるような気がした。
「分かった、信じよう」
「ありがとうございます」
「だが先程の口振りでは辻斬りを追っていた……いや、話も聞かず斬り掛かるところを見るに、殺そうとしていたようだが。何か理由が?」
「私怨です」
即答だった。なんと答えるか最初から決まっていた、というよりも、その答え以外頭にないといった様子だ。
「神隠しの噂はご存知でしょうか」
「確か、辻斬りによる死体の数と、失踪者の数が合わないという話だったか。攫われたのか、或いは神隠しにあったのではないか、という噂が流れているのは知っている。私も先程女の悲鳴を聞いたが、女の死体はなかった」
「はい。どうやら辻斬りに殺されるのは男だけ。女は軒並み攫われているようなのです」
「攫われている、か。神隠しではなく、辻斬りの手でそれが行われていると」
その言葉に茂吉はぐっと詰まった。
しばらく沈黙し、
「俺の妻も、神隠しにあったんです」
頭を垂れるように俯き、苦々しく声を絞り出した。
「あいつは人でしたが、鬼である俺を受け入れてくれた。そういう優しい女でした。ですが一月ほど前姿を消し、その十日ほど後の晩に神田川で見つかりました。奉行所の役人の話では、その体には乱暴された跡があったそうです」
性的暴行を受けた、ということか。それが事実ならば確かに神隠しではない。下卑た欲望が透けて見えている。
「信じられませんか」
「いや、鬼は嘘をつかないのだろう?」
「ええ、勿論です」
煽るように杯を空け、茂吉は今まで以上に力強い口調で言った。
「お人好しで、自分よりも他人を優先する、そういうやつだった。誰にでも優しくて、鬼の俺を愛してくれて……決して、あんな死に方をするような女じゃなかった。なのに」
ぎりっ、と拳を握りしめる音が聞こえるようだった。
「甚夜さん、俺は人に化けて暮らしてますが、決して人の全てが好きな訳ではありません。人として生きるが故に人の醜さも知っています。ですが、それでも異形の俺を受け入れてくれた妻のことは愛していました。だから正直なところ、彼女を汚し奪った辻斬りが憎くて仕方がない」
肩を震わせ、血走った眼で歯を食い縛る。傍から見れば痛々しいとさえ思えるその姿。
だが甚夜には憐憫の情は湧かなかった。
脳裏を過った感情は、今の状況とは不釣り合いなもの。
──羨ましい。
茂吉が羨ましい、と思ってしまった。
憎むべき相手として、正しく憎むべき存在がいる。曖昧な憎悪しか持ち得ぬ己とは違う。彼の憎悪の正当性を羨み、そして嫉妬している自分の心に気付く。それを洗い流すように酒を飲み干す。薄い酒だがそれでも喉を通る感覚は心地良かった。
「そう、か」
「ええ。ですから貴方はこの件に手出ししないでほしい。俺は自分の手で辻斬りを葬りたいのです」
「それは……」
頷くことは出来なかった。甚夜にも辻斬りを、正確に言えば鬼を討つ理由がある。
素直に「はい」とは言えない。それを悟ったのか、一呼吸置いて茂吉が更に言う。
「甚夜さんの目的はなんでしょうか」
「辻斬りが真に鬼で在るならば、それをこの手で討つ」
嘘を吐いた訳ではない。だが本当はその先、討った後にこそ目的がある。其処までは言わなかった。
「……分かりました。では共に探す、というところでどうでしょう。お互い邪魔することなく、各々で辻斬りを探す。情報は共有する。出来れば、辻斬りを殺す役は私に譲ってほしいですが」
彼なりの妥協なのだろう。妻の仇を討つと決めた鬼。憎悪に駆られた彼が妥協してくれたのならば、それを否ということは出来ない。
ゆっくりと頷き、了承の意を示す。
「分かった。茂吉、私はそれでいい。しかし、お前はいいのか」
甚夜の視線が若干ながら鋭さを増した。
「鬼であれ人であれ、その命を奪うことは罪悪だろう。憎悪に駆られ手を汚す。お前は罪を犯す自身を受け入れられるのか」
「それは」
「私はいい。とうの昔に血塗れだ。だがお前は違うだろう。命を奪うことに躊躇があるならやめておいた方がいい。幸い、命を奪うことに何の躊躇いも持たぬ下衆がここにいる。仇を討つことが目的だというなら態々己の手を汚すこともあるまい」
茂吉はその言葉に息を吞み、だがすぐに思い直し首を振った。弱気の虫を噛み潰すようにぐっと顎に力を入れる。
「ありがとうございます。気を使ってくださって。ですが甚夜さん、俺も鬼の端くれです。俺は妻の仇を討つと決めた。成すべきを成すと決めたなら」
「その為に身命を賭す、か」
「はい。それが鬼という生き物です。私は、妻を奪ったものをこの手で殺さなければ、まともに生きることさえできない」
答えは最初から分かっていた。彼の言う通り鬼とはそういう生き物なのだから。
だが、それでも甚夜は言わずにいられなかった。
憎しみに身を委ねる必要はないと。別に殺す必要はないのだと。
或いは、それは自分に向けた言葉だったのかもしれなかった。
「ならば何も言うまい。ただしお前の願いは優先するが、私が先に辻斬りと出会ったとしても」
「はい、それも運。恨むことはしませんよ」
そう言って茂吉は笑って見せた。それが強がりか、気遣いなのかは分からない。ただ憎しみを呑み込む苦さは知っている。だから何も言わず、甚夜はただ目を伏せた。
◆
翌日から二人は夜が訪れるのを待ち江戸の探索に出かけた。
と言っても当てなどある筈もない。辻斬りが行われた場所を巡るのが精々だ。
「辻斬り? 知らんねぇ」
「さあ私も見たことはないですので」
「あんたら、一体何モンだい?」
聞き込みもしてみたが結果は芳しくない。然して得る物もなく帰る日が三日ばかり続いた。
「今日も収穫はなし、と。上手くいかないものですね」
探索の途中で落ち合い情報を交換するが茂吉も同じようなもので、事態に進展はない。
「仕方あるまい」
「ですね。地道に探すしかありませんか」
しかし結局何の手がかりも見つけられず、重い足取りで二人は茂吉の家へ戻る。
帰りつけば顔を突き合わせて酒を呑む。憂さ晴らしのつもりはないが、この夜会も三日ばかり続いていた。
仇はまだ見つからないが呑んでいる時まで持ち込む気はないようで、茂吉は比較的穏やかな顔をしている。それとなく聞けば「同胞と呑むのはいいものです」と答えた。
成程、その気持ちは分かる。
お互い人の中で暮らす鬼。隠し事もなく語り合える輩、というのは貴重だ。甚夜自身この関係が気に入っていた。
「……くぅ、沁みますなぁ」
くはぁ、と息を吐いた。顔色は変わっていないが、もう随分と呑んでいる。今日の酒はいつもの安酒ではなく、偶には良い酒をと甚夜が持ち込んだ下りものだった。
「いや、申し訳ありません。こんないい酒を」
「なに、毎晩お前に奢らせるのも悪い」
そう言って自分も口を付ける。旨い。しかし酒を旨いと思ったのは随分と久しぶりのような気がする。
夜の見回りは何の実りもなく終わった。それでも互いの表情に曇りはない。酒を酌み交わしながら、思い出したようにぽつりと茂吉は問うた。
「甚夜さんは何故同朋を討つのですか?」
茂吉が辻斬りを追うのは私怨である。しかし甚夜は『辻斬りを』ではなく『鬼を』討つと答えた。それが引っ掛かっていたのだろう。
ぴたり、と淀みなく動いていた手が止まる。
何と答えるべきか。
以前は人だったと答える?
しかし鬼と人は相容れぬもの。自分が人であると知ったならばこの穏やかな時間もなくなってしまうのではないか。
正直に答えていいものか、ほんの少し逡巡する。
沈黙、そして重々しく口を開く。
「私は元々人だ。かつて想い人を鬼に殺され、憎しみをもって鬼に転じたが、今でも考え方は人に近い。人に仇なす鬼を討つのはある意味で当然だろう」
止まっていた手を動かし茶碗を空ける。
甚夜は自らが鬼になった理由を答えた。この関係が気に入っていたからこそ、嘘をついて誤魔化すような真似はしたくなかった。結果、この夜会が終わったとしても仕方のないことだ。
「成程。ああ、どうぞもう一杯」
しかし茂吉は大して気にした様子もなく空になった茶碗に酒を注いだ。意外だった。もう少し、堅い反応が返ってくると思っていたのだが。
「随分簡単に納得するのだな」
鬼でありながら同胞を討つ。嫌悪されてもおかしくないと思っていた。
だというのに茂吉は平然としている。
「過去がどうあれ今の貴方は鬼。ならば同朋であることに変わりはないでしょう」
「それはそうかもしれんが」
それでも納得がいかず憮然とした表情を作ると、それがおかしかったのか茂吉は笑って杯を飲み干した。
「閑古鳥は他の鳥の巣に卵を産むそうです」
そして茶碗を握り締めたまま言った。
「ですが例え別の鳥の雛が孵ったとしても、その巣の親鳥は必死に雛を育てるし、雛はその鳥を親だと思う。自分で産んだ雛でなくとも雛には変わらず、雛にとっても自分を育ててくれるならそれは親です。それと同じですよ。生まれながらに鬼であっても、人から転じようと、木の股から産まれてこようが鬼は鬼。出自を問うて差異を付けるのは人くらいのものでしょう」
実に楽しそうだった。今度は茂吉の茶碗に酒を注いでやる。朴訥な笑みで返し、旨そうに酒を呑む。それは茂吉なりの気遣いなのだろう。その意を受け、感謝の言葉を述べる代りに甚夜もまた軽く笑った。
「耳に痛いな」
人としての言葉だった。それを許されたのが嬉しかった。微かに口元を緩め、くいっと茶碗を傾ける。酒の味は変わらず旨いままだった。
「では、貴方が鬼を討つのは人を守るため、ということで?」
「まさか」
すぐさま否定する。想い人を守れず、大切な家族を傷つけた。そんな無様な男が守るなどと言える筈がない。それは口にしてはいけない言葉だ。
「理由は幾つかあるが、まずは金の為だ」
「金、ですか」
「人は鬼を嫌う。ただ出たと言うだけでそれを滅そうとする。私はそういう者達から金をせしめて鬼を討っている……軽蔑するか?」
「いえ、甚夜さんは意味もなく鬼を滅する方ではないでしょう。大方、人に危害を加える鬼だけを討つ、といったところでは? 俺が生かされているのが良い証拠です。それにほら」
見せびらかすようにもう一口。
「その金で買った酒を楽しんでいる俺に何か言える訳ないでしょう」
それがおかしくて、二人して声をあげて笑った。一頻り笑い終えた後、茂吉は更に問いを続ける。
「いくつか、というからには他にも理由が?」
「質問が多いな」
「俺は全てを話しましたからね。こちらも聞かせて貰わないと不公平じゃないですか」
そういうものなのだろうか。だが他の者ならばともかく同じ鬼相手に隠すようなことでもない。
「……もう一つは、力を得るためだ。私はある鬼を止めるために生きている」
思えば、この話を誰かに聞かせたのは初めてだった。
「鬼との戦いはそれに備えての鍛錬、ということですか。しかし止めるため、とは? 殺すではなく?」
「殺すのか生かすのかは逢ってから決める。だがどちらにしても最低限の力はいるからな」
「複雑なのですね」
「いいや、私が軟弱なだけだ」
かつて未来を見る鬼が言った。
百年以上先の葛野の地に、全ての人を滅ぼす災厄が現れると。
遠い未来において鬼神と呼ばれる存在は、己の想い人を殺した鬼であり、同時に大切な妹だった。
名を鈴音。
今迄、あの娘を止める為だけに力を求めてきた。
だが鈴音をどうしたいのか。その答えが今になっても分からない。
救いたいと願っても、身を焦がす憎悪は捨てられず。
殺したいと望んでも、かつての幸福が瞼にちらつく。
葛野の地を離れてから既に十三年。
だというのに、それだけの歳月を重ねても、未だに刀を振るう理由さえ見つけられぬ。
そんな己の惰弱さに辟易する。
「茂吉。お前は、妻の仇を討ったらどうする」
話を逸らすように茂吉へ問いかけた。誤魔化しもあったが、聞いてみたいというのも事実だった。形は違えど、同じく愛しい人を奪われた。ならば彼が復讐の果てに何を見ているのか、それが知りたかった。
「特に何も」
しかし返ってきた答えに肩透かしを食らったような気分になる。気負いなく紡がれた言葉に、嘘でも誤魔化しでもないと感じられた。
「そもそも俺が人に化けて暮らしているのは、争うのが嫌いだからです。鬼として生きるのは面倒だ。何かにつけて人は鬼を討とうとするし、鬼は我が強いから同朋であっても意見の違いで殺し合うことがある。そういうのが嫌だから俺は人として生きる道を選んだ。緩やかに、ただ日々を過ごせればと思っていました。……こんな事にならなければ<力>を使って誰かを殺すなんてこと考えもしませんでしたよ」
投げやりに酒を呑む。茂吉は無表情に、しかしほんの一瞬だけ顔を顰めた。きっと酒が苦いのだろう。そう思うことにした。
「日陰に隠れて誰にも気づかれず生きていければ、それで俺は良かったんです。何事もなく毎日を過ごしたかった……出来れば妻と一緒に。だから仇を討った後は、今まで通りひっそりと生きていくつもりです」
妻の墓を守りながら、ってのも悪くないかもしれませんね。
冗談を言ったつもりなのだろう、しかし浮かんだ表情には疲労の色が見て取れた。聞いてはいけないことを聞いたのかもしれない。
「儘ならぬものだな」
「まったくです」
謝罪するのも失礼だ。だから愚痴のように零した。沈黙。二人は黙って酒を呑む。
「ああ、そうだ」
思い出したように甚夜は声を上げた。視線は合わせず、目を伏せたままである。
「先程のお前の話だが、一つだけ否定しておこう。お前は私が意味のないことはしないと言うが、そうでもない」
乱雑に茶碗を煽る。
「私は、意味もなく妹を憎悪している」
喉を通った酒は血の味だった。
◆
「あら? 甚夜君、いらっしゃいませ」
翌日、茂吉と探索へ向かう前に腹ごしらえでもと、日が落ちてから訪れた蕎麦屋『喜兵衛』。
甚夜を迎えたのはいつも通りの奇麗な立ち姿で微笑むおふうだった。今日は杜若を模した簪で髪を纏めている。
「かけ蕎麦ですか?」
「ああ、頼む」
「はーい。お父さん、かけ一つ」
「あいよ!」
元気よく答えた店主が忙しなく動き出す。そのまま適当な席に座ると、おふうが傍らに立った。
「ところで、辻斬りは見つかりましたか?」
前置きもなく問う。
何故彼女は自分が辻斬りを追っていると知っているのか。
「話してはいなかったと思うが」
「何を言ってるんですか。御自分で言っていたじゃないですか、鬼退治が仕事だって。だったら鬼の噂を追うのも甚夜君の仕事のうちでしょう?」
どうやら以前零した、冗談としか思えない言葉を真実として受け取ったらしい。実際真実ではあるのだが、それを額面通りに受け取るのは純粋なのか、言葉の裏を見る聡明さか。或いはただの天然だろうか。今一つ判断し辛いところだ。
おふうは軽く膝を曲げて視線を落とし、甚夜の回答を待っている。おそらく言うまでこうしているつもりなのだろう。
「いや。中々上手くはいかない」
諦めたように溜息を吐いて答える。と言っても進展はないため伝えられる内容はほとんどないが。
「そうですか……あまり気を落とさないで下さいね?」
「端から易々と見つかるとは思っていないさ。何を成すにもそれなりの苦労や面倒はある。鬼退治にしろ、商売にしろ、な」
そう言って辺りに視線を漂わせる。店内は相変わらず客が少なく、甚夜の他には身なりの整った若い武士が一人いるだけ。この店も上手くいっているとは言い難い状況だった。
「あはは、相変わらず客足が悪くて」
苦笑するように零すが、その雰囲気は何処か楽しげである。
「看板娘も客が居なくてはあまり意味がないな」
「いやですねぇ、あまりからかわないでくださいな」
遠まわしに世辞の一つもと思って声をかければ、満更でもないのか頬を染め口元を緩める。もっとも、看板娘と胸を張れるほど繁盛はしていないが。
「お、旦那。なかなか手が早いですね」
狭い店内、店主にも聞こえてしまったらしい。前掛けを外し、厨房から出てきて甚夜の隣に立つ。娘を誑かす不埒の男に対して物申すのかと思えば、寧ろ嬉しそうに笑っていた。
「おふうのこと、美人だと思いますか?」
「……十人に問えば、八人は美人と答えると思うが」
素直にそう答えると、店主はばしばしと甚夜の背中を叩きながら実に上機嫌な様子である。
「そうですかそうですか、いやぁ旦那は見る目がある! どうです旦那? なんなら、おふうを嫁にとってうちの店をやるっていうのは? 鬼退治もいいかもしれませんが小さい店を夫婦二人でってのも悪かないと思いますよ?」
この男はいきなり何を言っているのか。
話が飛び過ぎている。甚夜以上に付いていけないのか、おふうは顔を真っ赤にして怒鳴りつけた。
「お父さん! 行き成り何を言ってるんですか!?」
「いや、お前の婿候補を探そうと」
「そんなの自分で探せます!」
娘に責め立てられ、先程までの上機嫌から今度は弱気な表情でおろおろとしている。一度声を出して多少溜飲が下がったのか、おふうは説教でもするように父親を窘めていた。そして甚夜は放置されている。かけ蕎麦はまだ来ない。
「だがなぁ、お前もそろそろ男の一人や二人作らんと。知ってるんだぞ? お前そういうお付き合い、今までいっぺんもしたことないだろ?」
「そ、それはそうですけど。でも時期が来ればちゃんと考えます。甚夜君にも迷惑でしょう?」
「いや、俺はただお前のことを心配してだな。俺もいい加減歳だし、任せられる男を探してぇってのが親心だろう」
店主にとって甚夜は娘を任せられる男らしかった。特に評価されるような何かをした覚えもない為、彼の発言には違和感しかない。そもそも甚夜は定職を持たない浪人である。そんな男に大事な娘を任せていいのだろうか。
「それは、とても嬉しいです。でも私には私の考えがあるんですから」
「そうかぁ。旦那なら、お前と似合いだと思ったんだかなぁ」
説教が一段落ついて、ぼやくように店主は言った。
おふうはその言葉に不満げな様子で俯いた。そして顔を上げた時には、瞳の端にほんの少しの寂寞を浮かべていた。
「もうっ、お父さんは私を追い出すことばかり考えているんだから」
頬を膨らませるおふうの姿は普段の彼女よりも幾分幼く見えた。
彼女の物言いから察するに、こういったことは別に甚夜が初めてではないのだろう。案外若い男を見る度に婿にならないかと声をかけているのかもしれない。
「そういう訳じゃねぇよ。ただ俺は」
「分かっています。お父さんが、私をいつも心配してくれていることくらい」
怒ったように見せても、そこにある愛情を感じるから決して冷たくはない。彼女は激昂しているのではなく、自分を嫁に出そうと急かす父親の行為を寂しく感じているだけなのだろう。
対して店主の方は、娘が誰かと夫婦となって仲睦まじく暮らす、当たり前の幸福を願っている。二人の喧嘩は結局のところお互いを大切に想っているだけだった、
「大丈夫、ちゃんといつかは家を出ますから。でも、もう少し貴方の娘でいさせてくださいな」
花が咲くような、とはこんな笑顔を指すのだろう。
そう思わせる柔らかな笑みだ。
「すまねぇ……」
その笑顔に打ちのめされたのか、すごすごと厨房に帰っていく。それを確認しておふうは甚夜に頭を下げた。
「甚夜君、すみません、父が変な事を言ってしまって」
「いや、気にしてはいないが」
それに、いいものを見せてもらった。厨房に戻り小忙しく手を動かす店主に視線を送る。
「良い父親だな」
親娘というのはこう在ってほしいと思う。
在れなかった親娘を知っているからこそ、尚更に。
「はい、自慢の父です」
まるで自分のことのように喜ぶおふう。彼女の笑顔が眩しくて目を細めた。
真っ直ぐなものを真っ直ぐに見ることが出来ないのは、自分が歪んでしまったからだろう。それを思い知らされたようで、花のような笑顔はほんの少し痛かった。
「あの、こんな事を聞いてもいいのか分かりませんが」
「ん?」
「甚夜君のお父さんは違ったんですか?」
感情を隠したつもりだった。しかし彼女にはお見通しだったようで、心配そうに覗き込んでいる。別に話す必要はない。誤魔化せばいい、そう思いながらも口は自然に動いていた。
「私には妹がいてな」
或いは、聞いてほしかったのかもしれない。
「妹さん、ですか」
「ああ……鈴音という。父は鈴音に辛く当たっていた。自分の子ではないと言って虐待し、最後には捨てた。だから私も鈴音と一緒に家を出た。まあ、昔の話だ」
父が鈴音を捨てた理由は伏せた。話して、「鬼を捨てるのは当たり前だ」と言って欲しくなかった。
「お父さんのこと、憎んでますか?」
「いいや。……正直に言えば、あの人の気持ちも分かるんだ。ただ」
そうだ、今なら父の気持ちが少しだけ分かる。
鈴音はおそらく、鬼が母を無理矢理に犯した末生まれた子だったのだろう。鬼に愛した妻を汚され、鈴音が生まれたことで命まで落とした。
父が鈴音を虐待してきたその意味を今更ながらに理解する。甚夜もまた白雪を、大切な人を亡くしたからこそ、理解できるようになった。憎悪とは培った愛情を塗りつぶす程に昏く淀んでいるのだと知ってしまった。
だからもう、あの人を責めることは出来ない。
何より己も結局は鈴音を見捨てた。父のことをとやかく言う資格はないだろう。
「ただ?」
「なに、儘ならぬと思っただけだ」
僅かに歪んだ表情。おふうが気遣わしげな眼で見ていたが気付かないふりをした。
脳裏を過ったのは茂吉のこと。おふうと店主のこと。そして自分のことだった。
愛した者を奪われ、それ故に憎しみに囚われる。
お互いを想い合って、だからこそ言い争う。
そして私は───
「綺麗にはいかないものだな」
まこと人の世は儘ならぬ。
己の感情一つとっても容易ではない。
誰かを愛し、誰かを憎む。
ただ生きて、ただ死ぬ。
たったそれだけのことが、こんなにも難しい。