春の宵。風はまだ冷たく、それだけに空は透き通り月の光がよく届く夜だった。
「こっちは全然だめですね」
ふう、と茂吉が息を吐いた。
二人は荒布橋で落ち合い、言葉を交わしていた。夜毎江戸の町を見回っているが未だ辻斬りは見つからない。思わず零れた溜息も仕方のないことだろう。
「そちらは?」
「いや、特には」
ここ数日は辻斬りもなかった。訊き込みもしているが情報はあまり入って来ない。
甚夜が初めて辻斬りに遭遇した時、女が一人拐された。或いは辻斬りは女の相手に忙しいのかもしれない。下衆な考えが頭を過り、その予想が在り得るかもしれないという事実に吐き気がする。
「見つかりませんか。やっぱり、探し方を変えた方がいいかもしれません」
闇雲に探しても同じこと。明確に辻斬りの足取りを追う方法があればよいのだが。
そうは思っても名案なぞ浮かび上がっては来ない。結局、非効率的であっても聞き込みをしながら足で探すしかなさそうだ。
「おや?」
不意に茂吉が不思議そうな声を上げた。
「どうした」
「いえ、あそこ」
指差したのは堀のように整然と整備された神田川の近く、ちょうど草が押し茂り、柳の立ち並ぶ場所だった。よく見ると柳の下には女性の姿がある。あれは……。
「おふう?」
蕎麦屋『喜兵衛』の看板娘である。薄桃の着物に身を包み、すらりとした立ち姿が印象的な少女は、柳に手を添え愛でている。月の光に照らされた彼女は淡く儚げで、普段の不器用ながらも明るい娘とは別人に見えた。
「知り合いですか」
「馴染みの蕎麦屋の娘だ」
簡潔に伝えると眉を顰める。
「女性の一人歩きはよくありませんね」
ここ数日は辻斬りの被害が出ていないとはいえ危険なことには変わりない。妻を失っている茂吉だ。そういうことに関しては敏感になっているのだろう。甚夜としても知り合いが辻斬りの犠牲となっては寝覚めが良くない。
「すまん、茂吉」
「ええ」
こちらの言葉を察して、笑顔で頷いてくれた。
普段世話になっている店に多少なりとも恩を返すと思えば然程の手間でもない。思い立ち、橋を渡っておふうの方に近付いていく。
「あら、甚夜君?」
すると彼女の方もこちらに気付いたのか、甚夜に向き直る。そして普段とは違う、淡く儚げな、消えてしまいそうなくらい緩やかな笑みを見せた。
「いい月ですね」
言葉もいつもよりも柔らかくゆったりとした印象だった。案外普段の凛とした立ち姿は余所行きで、この儚げに笑う繊細な少女こそがおふうなのかもしれない。何故かそう思った。
「甚夜君はこんな時間に一人で散歩ですか?」
いや、連れがいる。
そう返そうとして、言葉を口にすることは出来なかった。自分の傍らにいる筈の男がいつの間にかいなくなっていたからだ。辺りを見回しても自分以外誰もいなかった。
(すみません、俺はこれで失礼しますよ)
姿は見えないが耳元で茂吉の声が聞こえた。ぼそぼそと小さな、しかし何処かからかいの色を帯びた声音だった。
「な」
彼にしては珍しく驚きに表情を崩した。
そして気付く。この男、<力>を使って姿を消したのだ。
(その娘さん、送ってあげてください。ここで別れて辻斬りに襲われても困るでしょう)
何を勘違いしたのか、言葉とは裏腹に声の調子は楽しげだ。完全に面白がっている。
反論しようにも姿の見えない茂吉に話しかけようものなら奇人扱いは免れない。焦る甚夜を余所に茂吉は足音を殺して去っていった。おそらく去っていったのだろう。流石に姿を消したまま覗き見るような悪趣味な真似はしていない、と信じたい。
しかし、まさかこんなくだらないことに<力>を使うとは。
「あの、どうかしましたか?」
「……少し、な。考えごとをしていただけだ。それよりも、おふうはこんな夜中に何をしている」
気持ちを切り替え、少しきつめに問い詰める。辻斬りの噂が流れているというのに一人で出歩くのは感心しない。言外の意味を感じ取ったのか、甚夜の語調の強さに反しておふうの表情は柔らかい。
そうして視線を切って、もう一度柳に手を添える。
「桜を見ていました」
柳の枝を撫でる。母性さえ感じさせる優しげな手つきだった。
「これは柳だろう」
「違いますよ、ほら」
そっと触れたのは白い花。遠目では気付かなかったが、しな垂れた柳には五弁の真っ白な小花が咲いていた。
「雪柳と言います。柳と名前に付いていますが、実際には柳ではなく桜の仲間なんです」
視線を雪柳に移す。
成程、小さな白い花は確かに綿雪が降り積もったようにも見える。
「咲いた花の重さにしな垂れる姿が柳に似ているから、雪柳と呼ばれているんです。知らない人は柳の一種だと勘違いしてしまいますけど」
雪柳は夜風に吹かれ揺れている。その姿はやはり柳。桜の仲間と言われても、白い柳といった方が近い姿だ。恐らく多くの者にとってこの花は桜ではなく柳だろう。
「どうかしましたか?」
無言で眺める姿に違和を感じたのか、おふうが問う。
「いや」
言えなかった。
この花は己が身を嘆いてはいないのだろうか。
ふと過った疑問。花の想いを想像するなぞまるで年若い少女のようで、思わず口を噤んでしまう。
それでも雪柳を眺めながら甚夜はほんの少しだけ考える。
仲間の桜と同じ姿ではいられない。
かと言って柳にはなれない
柳にしか見えない桜は、己をどう思っているのだろう。
考えてもそれを知ることは叶わない。ただ柳の姿をした桜が憐れに思えた。
「桜で在りながら柳を模し、柳に見えて柳ではなく。柳と桜、どちらにもなれない。……雪柳は憐れだな」
ちくり。
無意識に零れた言葉が少しだけ胸に痛かった。
柳に見えて柳ではない。人に見えて人ではない。どこかの誰かのようだ。
枝にはふわりと無邪気に咲いている白い花。物言わぬ白色に責め立てられているような気がした。
直視し難い自分自身を突き付けられた、そんな心地だった。茫然と立ち尽くすように柳の花を眺める。くだらない感傷と分かっていても陰鬱な気持ちを拭い去れない。
「でも、きれいでしょう?」
柔らかい声だった。
沈み込んでいた意識がゆっくりと引き上げられる。いつの間にかおふうの視線は甚夜に向けられていた。それに気付き瞳を合わせれば、小さく頷き彼女は微笑む。
「柳ではないけれど、桜として見られなくても、雪柳はとても可愛らしい花を咲かせるんです。何度散っても、春になればまた咲いて。私には雪柳の心は分からないけれど、きっとこの子は自分を儚んではいないと思います。だって、自分が嫌いだったら毎年咲こうとは思わないじゃないですか」
少女は小さく笑う。
その言葉は甚夜にではなく、雪柳に向けられたものだった。おふうはこの花が可愛らしいと言っただけだ。それでも彼女の声が胸に沁み入り、鬱屈とした感情が少しだけ薄れてくれた。
「だから憐れむ必要なんてありませんよ。桜であっても柳であっても、この子は春が来る度にきれいな花を咲かせるんですから」
たとえ己が何者かは分からなくとも、巡る季節の中で咲いては散り咲いては散り。
何れ散り往く定めと知りながら、生きた証を咲き誇る。
「それが花の生き方、か」
彼女の言う通り、憐れむ必要はないのかもしれない。否、憐れんではいけない。雪柳はおそらく自分よりも遙かに強いのだ。それを憐れむなど傲慢にも程がある。一つ頷いて納得の意を示す。甚夜の雰囲気が変わったのを察しおふうも力を抜いて口元を緩めた。
「でも、なんだか女の子みたいですね」
弾んだ声でおふうが言う。
確かに植物の心を想像して憐れむというのは年頃の娘のような夢想だった。自覚があるため反論もできない。
押し黙ったことが面白かったようで、おふうはくすくすと笑っている。気恥しかったが彼女の笑い方があまりに無邪気だったから、苦笑しながらそれを受け入れた。
「送ろう。過保護な父親が心配する」
「ふふ、そうですね」
一頻り笑い終えた後、二人は並んで歩き始めた。既に日付の変わる刻限、江戸の町を歩いても商家は軒並み店じまい。普段のにぎやかさは感じられなかった。
風が吹く。春の風はやはり冷たく、しかし夜は先程よりも少しだけ暖かくなった。
「甚夜君には、少し余裕が必要なんだと思います」
歩きだしてしばらく経ち、彼女はそんな事を言い出した。
目の端で盗み見た彼女の横顔は澄ましたもので、自分より年若い娘だろうに大人びて感じられる。
「私はそんなに切羽詰って見えるか」
「どちらかと言えば思い詰めてる、でしょうか。時々、無理をしているように見えて」
別に甚夜とおふうは個人的な付き合いがある訳ではない。店主は婿にならないかと言っていたが、あくまで彼らの関係は客と店員に過ぎなかった。
だというのにおふうは、甚夜の深い部分を正確に見抜いていた。彼女が鋭いのか、自分が分かり易いのか。これでも少しは感情を隠すのがうまくなったと思っていたのだが。
「ああ、そうかもしれん」
図星を突かれたせいか、素直に言葉か出てきた。
「私には成すべきことがあり、その為だけに生きてきた。だから思い詰めていると言われれば、おそらくその通りなのだろう」
思えば、力だけを求めてきた。
鬼を討つのも鍛錬に過ぎず、義心なぞ欠片もなかった。
それを間違いだとは思わない。かつて妹は現世を滅ぼすと言った。ならばこそ、けじめは付けねばならない。その為には力が必要で、他のものなぞ全て余分でしかない。
ただ、強くなりたかった。
強くなって、けじめをつけて。その為だけに生きてきた。どこまでいっても、それが全てだった。
「甚夜君の成すべきことが何かは分かりません。でも偶には息抜きくらいした方がいいですよ。目的があるのは良いことですけど、それに追われるのはつまらないでしょう?」
「……だが、私にはそれしかないんだ」
想い人も、家族も、自分自身さえ。全て失くしてしまった。
なのに、いつか抱いてしまった憎悪だけが、今も燻っている。
「悪いな。お前の忠告は聞けそうにない」
彼女の諫言は有り難い。しかしつまらないと言われても己にはそもそも生きることを楽しむという発想がない。
何一つ守れなかった。
そんな男が生を謳歌するというのは間違っているように思える。おふうが自身を案じてそう言ってくれるのは分かるが、それでも生き方は曲げられない。
表情は変わらず、声色もいつも通り。そんな甚夜に視線を合わせることはせず、おふうは先んじて一歩二歩進んで立ち止まり、道の端でしゃがみ込む。不思議に思いそれを追えば、彼女の前には四弁の小花が集まり玉のように咲いた白い花があった。
「名前、分かります?」
話の流れを断ち切って穏やかな笑みを浮かべながらおふうは問う。
花の名など、食べられる野草や薬になるもの以外はほとんど知らない。だから甚夜は首を横に振った。
「いや」
「これは沈丁花。秋に蕾をつけて、冬を越して春に咲きます」
まるで愛し子に触れるかのような優しい手つきで花弁を撫でる。少し顔を近づければふわりと甘酸っぱい不思議な香が鼻腔を擽った。
「香りが強いな」
「これは春の香り。沈丁花は春の訪れを告げる花なんです」
そう言って立ち上がり、今度は家屋の日陰でひっそりと自生する小さな花を指差した。
「あそこに見えるのは繁縷(はこべ)ですね。小さいけど可愛らしいでしょう?」
普段は意識しなかったがその花は確かに繁縷。江戸の町にも咲いているとは気付かなかった。それは数少ない甚夜も知る草花だった。
「繁縷なら私でも知っている」
「そうなんですか?」
「ああ。茎を煎じると胃腸薬になる。葛野……昔住んでいた集落ではよく使った」
おふうは意外そうな表情を浮かべた。甚夜は六尺を超える巨躯であり、細身ながら鍛えられた体が着物の上からでも分かる。とてもではないが胃腸薬を常用するような繊細な神経の持ち主には見えなかった。
自覚があるのかすぐさま続きを話し始める。
「幼馴染がよく飲んでいた。箱入りで普段食べられないせいか、機会があると甘味を大量に食べる癖があってな。食べ過ぎで腹を壊しては、繁縷の世話になっていた」
「なんというか……幼馴染さんは面白い人だったんですね」
「ああ、私はいつも振り回されていた」
此処ではない何処かを眺めるように甚夜は目を細めた。
思い出されるのは幼かった頃。まだ白雪と甚太でいられた幸福な日々だ。とても巫女とは思えない、無邪気で好奇心の強い白雪にいつも振り回されて、傍らには鈴音がいて、甚太は二人の後始末に追われ……それでも素直に笑うことが出来た。
だが、今はもう無理だ。
あの頃のようには笑えない。
「ほら、“それしかない”なんて嘘ですよ」
しかし甚夜が浮かべた自嘲を見た少女は、彼の憂鬱を拭うようにゆったりと微笑んだ。
「甚夜君は蕎麦が好きで、花をきれいだと思えて、大切な思い出だってあります。“成すべきこと”が何かは分かりませんけど、今はそれに囚われて周りが見えていないだけ。だから、それしかないなんて言っちゃ駄目です」
何も言えない。口を挟んではいけない。そう思わせるだけの何かが今の彼女には在った。
「偶にはこうして足を止めてみてください。貴方が気付かないだけで、花はそこかしこで咲いています。見回せば、きっと今まで見えなかった景色が見える筈ですから」
そう言ってたおやかに彼女は笑う。
ほんの一瞬、甚夜は彼女の笑顔に見惚れた。
この娘は花に託けて甚夜を慰めようとしてくれたのだ。然して親しい訳でもなく、深く事情を知らずとも。
その心遣いを嬉しく思い、しかしそれを無にしてしまうであろう己に嫌気がさす。
結局、甚夜には彼女の言うような生き方は、足を止めて幸福を探すことなど出来はしない。
自分の想いよりも自分の生き方を優先してしまう彼は、誰に何と言われても、鈴音を止めるために力を求め続ける。
だが、それでも。
「そう言えば、花をゆっくり眺めたことなどなかったな」
鬼に成れども人の心は捨て切れぬ。
少女の優しさを一太刀の下に斬り捨てるほど冷酷にはなれなかった。相変わらず中途半端な男だ。呆れて苦笑すると、それを見たおふうも笑いを零した。
「他の花の名も教えてくれないか」
「はい、もちろん」
そうして二人はまた歩き出す。
空には青白い月。
春の宵。辿る通い路。少女は数えるように花の名を歌い上げる。
もう少しだけ、ゆっくり歩こうか。
訳もなく、そう思った。
◆
「送っていただいてありがとうございました」
蕎麦屋の前でおふうは深々と頭を下げる。
「いや、こちらも面白い話を聞かせて貰えた」
「それならまた今度違う花をお教えしましょうか?」
「明るい時間帯なら、な」
辻斬りの噂が流れているというのに夜歩きをしていたおふうを冗談めかして窘める。そういう物言いが出来たのは、先程の会話で少なからず余裕が出来たからだろうか。彼女の言う通り、少しは足を止めて見るのも悪くないのかもしれない。
口元を緩ませる甚夜に対して、少女は不満げな表情を作った。
「お父さんといい甚夜君といい、私の周りの男の人は過保護が過ぎると思います。辻斬りが出ても逃げるくらいなら出来ますよ」
「そう言ってやるな。親というものは、例えそうだとしても心配くらいはするのだろう」
随分昔に家を出た不肖の息子を、それでも信頼してくれたように。
親というのは何処まで行っても親なのだろう。
「なら貴方はどうして心配してくださるんですか?」
からかうような笑みを浮かべる。
「さて、な」
明確な答えは返せない。何故かは自分にもよく分からなかった。
「悪いが、そろそろ行かせてもらう」
「あ、すみません。引き留めてしまって」
小さく首を横に振り気にするなと示してみせれば、返すようにおふうも微笑みを浮かべた。
穏やかな心地で踵を返し、再び辻斬りの捜索へ戻る。足取りはいつもより軽かった。
「いや、いい娘さんですねぇ」
隣から急に声を掛けられ、足がぴたりと止まる。首を横に向けて見れば、にやにやと笑いを浮かべている茂吉がいた。
「茂吉……お前、まさか」
「さーて、そろそろ行きますか」
甚夜が二の句を告げる前にそそくさと逃げ去る。
その態度に理解する。この男、姿を消したまま一部始終を覗き見ていたのだ。
文句を言おうにも既に姿はなく、出来ることと言えば呆れ交じりの溜息を零すくらいのものだった。
◆
おふうと別れ、もう一度探索を続ける。
訪れたのは日本橋。しばらくこの界隈をうろうろと歩いていたが、辻斬りの痕跡さえ見つからない。とりあえず橋へ戻り、真中辺りの欄干にもたれ掛かる。
昼間は騒がしい日本橋だが時間も時間、人通りはまばら。一杯ひっかけた帰りなのだろう、赤ら顔の男が通るくらいのものだ。
静けさが染み渡る。川の流れる音がはっきりと聞こえるくらいに穏やかな夜だ。揺れる月と心地よい風に、これは今夜もはずれかと小さく溜息を吐いた。
そうして立ち止まっていると、夜も深いというのに茜の着物を纏った女が一人、橋を渡っているのを見つけた。
年の頃は十五、六。おふうと同じくらいだろうか。こんな時間に一人歩きとは危なっかしい。横目で眺めていれば、女の方も気付いたらしく甚夜の前を通り過ぎる途中で視線を向けた。
「あ……」
すると何故か女は目を見開き、小さく声を漏らした。
何を驚いているのだろうか。内心疑問に思い改めて女を見て、微かに眉を潜める。
あの女、何処かで会ったような気が。
器量は良いが気の強そうな目付き。見覚えがある。一体何処で。思い出そうと思索に耽り、
瞬間、空気が唸りを上げた。
「あ、が?」
近くを歩いていた赤ら顔の男は橋を渡り切ることが出来なかった。突如として血飛沫が舞ったかと思えば体が崩れ落ち、それきり動かなくなった。その体躯には爪で抉ったような傷跡が残されている。男は断末魔さえ上げられず、一瞬にして絶命していた。
「……え?」
短い声。何が起こったか分からず、女は目を点にしている。数瞬置いて橋の上にへたり込み、ようやく男の死を理解したのか悲鳴を上げた。
「い、いやああああああ!?」
その声をどこか遠くに聞きながら、甚夜はそっと腰のものに手をやった。
何者かの襲撃。意識が冷えて、鋭敏になっていくのが分かる。
再び空気が唸る。
対応は速かった
襲撃者の存在に気付けたのは、音よりも先に濃密な、淀むような殺気が漏れていたから。左足を軸にした最短の動作で音の鳴る方へ向き直り、鯉口を切り一気に抜刀。
「ぐっ……」
だが相手は更に上。
甚夜が刀を鞘から抜くよりも何者かが突進の方が速かった。幸い抜き掛けの刀でも盾くらいにはなった。刀身で防ぎ、後ろへ下がって完全に抜き切る。反撃に移る、つもりが既に相手は間合いの外へ逃げた後だった。
「え、なっ、なに? 今の、なんなの!?」
女は突然の事態に混乱している。だが今は構っている暇もない。
「あまり動くな。死にたいなら別だが」
「わ、分かったわよ……」
案外と素直に聞き分ける。
まだ混乱はしているが、それなりには落ち着いてくれたようだ。有難い、下手な動きをされるとこちらもやりにくい。そう思いながら甚夜は巻き添えを食わぬよう女から距離を取った。
人目がある。鬼と化す訳にはいかない。八相に構え、次の襲撃へ備える。
ごう、と風切りの音を立てながら何者かが襲い掛かる。音が聞こえた方へ体を回し、袈裟掛けの一刀を振るい───間に合わない。
途中で軌道を曲げ、受けに入る。肉薄する襲撃者。振るわれた鋭利な爪。鍔でいなし半歩下がり、返す刀で切り上げる。しかし手応えは微か。傷を与えたとはいえ僅かに掠った程度だった。
待ち構え、攻撃を予測し、的中し……尚も振り遅れた。
その事実に甚夜は目を細める。
───速い。
それ以外の感想は出てこなかった。人では為し得ぬ速度。あまりの速さに理解する。容姿を確認することは出来なかったが、間違いなく襲撃者は鬼だ。そう簡単に悟れてしまう程の動きだった。
四間は離れた場所に鬼は降り立った。
改めて見据えれば、異形は唸り声を上げている。四肢を持つ人型だというのに、四つん這いでこちらを睨みつける鬼。獣人、という表現が最も分かりやすいだろう。浅黒い体毛に覆われた鬼は犬と人の合いの子のように見えた。
濁った赤の瞳は虚ろにこちらを眺めている。どうやら女を襲う気はないらしく、濃密な殺意は甚夜にのみ向けられていた。
「今度こそ、だな」
鋭い爪。男を襲う。女は殺さない。
今度こそ当たりだ。奴が件の辻斬りに相違ないだろう。
「お前は」
言葉は途中で途切れた。名を問うことは出来ず、舌打ちする暇さえなく鬼が迫る。
その脳天へ向け唐竹に振るうも、鬼は速度を保ったまま横に飛んだ。
躱された。甚夜は逆手に持ち替え、鬼の動きに合わせ一歩を踏み込み、体を回転させながら追うように剣戟を繰り出す。
宙では身動きがとれない。それ故の一手、しかし鬼は甚夜の予想を覆す。
何も無い空を“蹴った”鬼は軌道を変え更に疾駆する。驚愕。だがあまりの速さに驚きの声さえ出ない。
鬼は止まらない。その、先には。
「ひっ」
先程の女がいる。
やられた。こちらへの攻撃は囮。鬼は男を殺し、女を『攫う』。狙いは初めから女の方だった。気付いたとしてももう遅い。此処からでは間に合わない。
鬼はその手を女に伸ばし。
「きゃっ!?」
だが空を切る。
女は何故か、誰かに突き飛ばされるようにして鬼から逃れていた。周りには、誰もいないというのに。
だから気付く。
「茂吉……!」
姿を消す<力>。いつの間にか茂吉は此処へ来ていたらしい。寸での所で女を救ってくれたのだ。
助かった。安堵に軽い笑みが零れるもすぐさま表情を引き締める。そして身を低く屈め地を這うように駆け出す。
鬼も状況が理解できなければ固まるものなのか、動こうとしていない。それならそれでいい。名を聞けないのは残念だが此処で斬り捨てる。
『う、うう……』
走りながら刀を水平に構え、左足で地面を蹴り、一気に距離を詰める。
放たれたのは、絶殺の意を込めた横薙ぎの太刀。横一文字に振るった刀は──何も斬ることはなかった。
『ああああああああああああああっ!』
既に鬼は此方の間合いから抜け出ていた。
劣勢を悟ったのだろう。背を向け、雄叫びを上げながら鬼は走り去る。あの速度で逃げに専念されれば追い縋ることなど叶わない。一瞬で見えなくなった背中に、甚夜は奥歯を噛み締めた。
「あれは、追えんな」
表情は変えない。しかし内心は無念で満ちていた。
江戸に来てから既に幾度も鬼と立ち合ったが、こうまで後手に回ったのは久々だった。
ふぅ、と息を吐き熱のこもった体を冷ます。
逃がしたのは痛いが後悔しても仕方ない。ゆっくりと納刀し、冷たい夜の空気で肺を満たせば、少しは心も落ち着いてくれた。
「甚夜さん」
耳元で声が聞こえた。
姿を消したままの茂吉だ。まだ女の目がある。<力>を解き、鬼としての姿を見られるのを嫌ったのだろう。甚夜も女には聞こえぬよう小声で返す。
「すまん、逃がした」
「いえ、俺もあそこまでの相手とは思ってませんでしたよ」
尋常ではない速さを目の当たりにし、茂吉は苦々しく唇を噛む。彼は然程の身体能力を持たない。正面からぶつかればまず負けるということが証明されてしまった。
「取り敢えず、逃げてった方へ俺は行きます。塒くらいなら見つけられるかもしれませんし」
「無理はするなよ」
「分かってます」
空気が流れた。茂吉がこの場を離れたせいだろう。さて、私はどうするか。鬼の逃げ去った方へ視線を向ける。
「ちょっと」
思考を遮るように女は言う。いつまでも座り込んだままこちらを見上げ、不機嫌そうな顔を隠しもしない。
「どうした」
「……のよ」
声が小さくて聞き取れなかった。
僅かに眉を潜めれば、悔しそうに恥ずかしそうに、女はもう一度ぼそぼそと呟いた。
「だから……立てないのよ」
腰を抜かしたらしい。自身の醜態に頬が赤く染まっている。
「悪いけど、ちょっと手を貸して」
無表情のまま手を差し出すと、女は微妙な表情を浮かべた。
「ありがと」
「いや」
「……そういう素っ気ないとこ、なんかすごく懐かしいわ」
その物言いに少し違和感を覚え、改めて女の顔を見る
気の強そうな女。確かに、何処かで見た覚えが。
「……ねえ。もしかして、覚えて無い?」
何も言わない甚夜を怪訝そうな顔で女は見る。
目尻が少し吊り上る。しかし瞳には不安が揺らいでいて、その頼りない雰囲気に数年前のことを思い出す。
ああ、そうだ。確かに私は彼女のことを知っている。
「……奈津、殿か?」
須賀屋店主、重蔵の一人娘。
そう言えば以前護衛に就いたことがある。あの時の少女の面影が少なからず残っていた。
間違ってはいなかったらしい。安堵に奈津の表情は幾分か柔らかくなる
「なんだ、忘れてた訳じゃないのね」
「いや、思い出すのに時間がかかった。前はもう少し幼かったしな」
以前会ったのは十三の時。三年を経て奈津は背が少し高くなり、輪郭も微かに丸みを帯び、少女といった印象から女性らしい佇まいに変わっていた。
「そう、三年も経ってるから仕方ないとは思うけど。でも、あんたは全然変わってないわね」
当たり前だ。この身は例え百年経とうとも老いることはない。
指摘されても動揺することさえなくなった。歳を取ったせいか、人から離れたせいかは分からないが。
「あまり老けん性質(たち)だ」
「世の女の人の大半を敵に回すわよ、それ」
言いながらもまだ少しふらついている。足に力が戻っていなかった。近付いて少し支えてやる。男に触れられたからか、少し照れたような顔で小さく「ありがと」と言った。
「いつも夜歩きをしているのか?」
「そんなわけないじゃない。今日はお使いの帰りよ。御贔屓にしてくれるお客様の所に届け物をしてきたんだけど、すっかり遅くなっちゃって」
「親の手伝いか」
「そういうこと。親孝行ね」
くすくすと笑う奈津は、かつての余裕のない少女とは違って見える。
「奈津殿は変わったな」
「そう?」
「なんというか、笑い方が自然になった」
以前はありがとうと素直に言えない娘だった。
しかし今では意識せず口に出来る。小さなことかもしれないが、この娘も成長したということなのだろう。
「ま、私だっていつまでも子供じゃないわよ」
「いえいえまだまだ子供ですって」
「ひぃ!?」
急に背後から声を掛けられ、奈津は甚夜から離れ身を竦ませた。
「御嬢さん、随分遅いんでお迎えに上がりましたよ」
「ぜ、善二? 脅かさないでよ!」
「普通に声かけただけなんですけど……なんかあったんですか、ってお前。もしかして甚夜か?」
一拍子遅れて甚夜の姿を確認し、善二は目を見開いた。
「善二殿、久方ぶりだな」
「おお、本当に久しぶりじゃないか。どうしたんだ、いったい?」
「鬼に襲われた所を助けて貰ったのよ」
そっぽ向いたままの奈津がそう言えば、嫌に神妙な顔つきで善二は彼女の肩に手を置いた。
「鬼……? 御嬢さん、またですか? 前も言いましたが、旦那様はちゃんと御嬢さんのことを大切に想ってます。ですから」
「今回はそうじゃなくて! 甚夜もちゃんと説明しなさいよ!」
以前の鬼がまた現れたと思ったらしい。二人の遣り取りに呆れながらも甚夜は言われた通り説明することにした。
「辻斬りの噂は知っているか」
「へ? ま、一応は」
「辻斬りの正体は鬼……私は今そいつを追っている。奈津殿が襲われたのは単なる偶然だ」
「ほぉ。お前、相変わらず訳の分かんないことに首突っ込んでんだな」
「……訳分かんなくって悪かったわね」
「あ、いや、御嬢さんのことじゃなくてですね」
しかし今の言い方では奈津の時も「訳の分かんないこと」になる。相変わらず失言の多い男だ。
「別にいいけど」
「ですから、決して今のは御嬢さんのことを言った訳ではなく」
三年経った今でも力関係は然程変わっていないらしい。微笑ましい二人だった。
「迎えが来たなら私は行かせてもらうが」
二人の言い争いが落ち着いたところで声を掛ける。懐かしいのは事実だが、時間を無駄にはしていられない。
「そう、今日はありがと。そういえば、あんた今どうしてるの?」
「変わらんさ。気ままな浪人だ。今は深川にある喜兵衛という蕎麦屋によくいる。鬼に纏わる厄介事があるなら来ればいい。多少は安くしておくぞ」
「金はとるんだな」
「当たり前だ。私にも生活がある」
小さく笑い合って、二人に背を向ける。
「あ、そういや。甚夜、ちょっと待て」
歩き始めたが後ろから呼びかけられ、立ち止まり半身になって善二へ視線を送る。
「お前、谷中の寺町は知ってるか?」
甚夜は無言で頷く。
寺町は江戸の外れに位置し、名前の通り寺院が集中して配置されている。そのせいか、幽霊だの魍魎だのが出たという類の話が多い場所でもある。
「そこに瑞穂寺ってのがあってな。随分前に住職が亡くなって廃寺になってるんだが、お客さんから聞いた話じゃ夜な夜な女性の声が聞こえるらしい」
女性の声。
攫われたのは女性だけ。
少し引っかかる話だ。
「この話結構よく聞くんだ。……中には鬼が住み着いたっていう噂もある」
廃寺。
女を拐かして“こと”に及ぶなら、落ち着ける場所がいる。女が声を出してもいいように、人が寄り付かず姿を隠せる場所。寺町なら条件としては見合う。
それが辻斬りかは分からないが、少なくとも女を攫う何者かがそこにはいるのだろう。
そして先程の鬼が逃げて行った方角とも合う。
「鬼を追ってるってんなら、こんな噂でも役に立つかと思ったんだが……どうだ?」
「有難い、面白い話を聞かせて貰った」
「そいつは何よりだ」
これは、案外当たりかもしれない。
ようやく掴んだ尻尾に甚夜は表情を引き締めた。
◆
走りに走り辿り着いたのは、江戸の外れにある寺町だった。
「方向はあってると思うんだが」
茂吉はまだ捜索を続けていた。谷中の寺町。この一帯は寺町の名の通り寺院が多い。夜の闇に浮かび上がる情景はいやに不気味で、怪異の噂が多いのも納得できる雰囲気である。
しかしこの辺りは人通りが少ない。辻斬りにしても獲物を探すには不都合な場所だ。これは外れだったか、と考えた矢先。
……あああぁぁ……
夜に響く誰かの悲鳴を聞いた。
「近い」
呟くと共に茂吉の姿が周囲に溶け込むように消えた。<力>を行使し、足音を殺しながらも声を辿る。急がなくては。焦る気持ちを抑えただ歩みを進め。
その時、びゅう、と風が通り抜けた。
否、それは風ではなく。
宵闇の中、女を片手で抱えて疾駆する鬼だった。
すれ違いざまに見たのはぐったりとした年頃の女を抱えた、犬と人の合いの子のような鬼。間違いなく先程見た鬼だ。爪先からは血が滴り落ちていた。逃げながら誰かを殺し、女も攫ってきたようだ。
───あの鬼が、俺の仇だ。
茂吉は背筋を通り抜けるぞわぞわとした感覚にそれを理解した。
そうして走り抜けた鬼の消えた先を睨みつける。
狭い路地の突き当りにはうらぶれた寺があった。そこは随分前に住職が亡くなったため廃寺となり、そのまま放置されている場所だった。
名前は確か、
「瑞穂寺……」
やっと見つけた。
あそこが、俺の憎悪の行き着く場所だ。