ぽぉん……ぽぉん……。
音が響く。
それが毬をついているのだと気付けたのは、童女の数え唄が共に流れてきたからだった。
辺りは黄昏に沈んでいる。遠くから聞こえてくる音を頼りに歩けば、辿り着いたのはうらぶれた屋敷。
ぽぉん……ぽおぉん……
音が大きくなった。距離が近づいたのだろう。耳を擽る童女の声。心地よいようで、空恐ろしく、しかし誘われるように足は向かう。
……ひとつ ひがんをながむれば
……ふたつ ふるさとはやとおく
門を潜り、幽鬼の如き足取りで庭へ。
辿り着く場所。
見渡せば小さな池、水仙の咲き乱れる艶やかな庭。
気品ある馥郁とした芳香。濃密な花の香りにくらりと頭が揺れる。
ぱちゃん、と水音を奏でた。池の鯉が暴れたのだろうか。
……みっつ みられぬふぼのかお
……よっつ よみじをたどりゆく
ゆらりと光が揺れた。庭先を白い小さな光が舞っている。
あれは蛍? それとも人の魂?
彼岸の景色を眺めるような現実感の無さ。此処は既に現世ではないのかもしれない。
……いつつ いつかはとおくなり
……むっつ むかしをなつかしむ
昔ながらの武家屋敷。
花が咲き誇るというのに朽ち果てたように感じる。
鮮やかな灰色に染められた庭。
その中心で、童女は毬をついている。
美しい娘だった。
黒髪を短く整えた娘。張り付いた表情のせいか、まるで人形が動いているようだった。童女は庭で一人毬をつき数え唄を歌う。
奇妙な姿だった。幼い娘の遊びとしては別段不思議ではない。しかし娘が纏う愁いを帯びた空気が、それを奇妙と思わせる。
童女は笑っていない。過去を眺めるような遠い眼で唄を口ずさむ。
ぽぉん、ぽぉん、と響く音に鼓動が重なる。
寂寥の庭
幽世の美しさ。
胸に宿る感情は形を持たない。
足が動かなかった。この眼は娘に囚われている。奇妙な、否、不気味とさえ呼べるはずの景色。だというのに逃げようという気持ちは微塵もない。
或いは、一目見たその瞬間に、魂魄を奪われたてしまったのだろうか。
……ななつ なみだはかれはてて
……やっつ やがては─────
毬をつく音は未だ絶えていないが、数え唄は途切れた。何故、続きを歌わないのだろうか。
不思議に思ったのも束の間、やけにはっきりと、舌足らずな幼い声が耳元で聞こえた。
『続きはないよ』
だってもう。
帰る道はなくなった。
◆
嘉永六年(1853年)・秋
鮮やかな乱花を過ぎ、むせ返る炎天を越え、辺りは秋の色に染まっていた。
時折吹く風に木の葉がくるりと舞っては何処かへ流れ往く。訪れた季節は抒情詩のように趣深い。もっとも日々の生活に追われる町人には、秋の風情に足を止める暇などない。相変わらず江戸の町は喧騒に溢れ、賑やかしく人々が行き交っていた。
その中で、憂鬱そうな面持ちでのったりと歩く男が一人。
三浦家嫡男・三浦直次在衛(みうら・なおつぐ・ありもり)は大いに悩んでいた。
直次は今年で十八になる。
三浦家は江戸藩に属する三百五十石の貧乏旗本ではあったが、代々祐筆として幕府に召し抱えられていた。直次も未だ若輩と呼べる齢ではあったが、祐筆として江戸城に出入りしている。と言っても彼は表祐筆。機密文書を取り扱う奥祐筆とは違い、朱印状や判物の作成、他は幕臣の名簿管理といった重要度の低い文書の整理が主だった役である。
纏う着物は糊が効いており、装いには一分の乱れもない。月代をつるりと剃り上げ、銀杏髷を結わった、見ためにも生真面目な性格がにじみ出た武士だった。
直次は仕事仕事で女性関係こそ寂しいが、それ以外は順風満帆と言ってもいい生活を送っている。父母は穏やかに年老い、兄弟の無い直次は問題なく家督を継ぐこととなるだろう。前述したように三浦家は旗本ではあるが三百五十石程度の小録であり、然程裕福ではない。といっても普通に生きる分には家禄だけでも食いっぱぐれる心配はなく、彼自身祐筆としての稼ぎもある。彼の人生は既に安泰だと言っても良かった。
しかしながら彼は大いに悩んでいた。
戸惑っていた、と言い換えてもいい。直次は傍から見れば恵まれている環境に在りながら、しかしその環境にこそ違和を感じている。
兄弟の無い直次は問題なく家督を継ぐ。
彼は三浦家の嫡男だった。
そして自身が嫡男である事実こそが、直次の悩みの種だった。
◆
「御馳走様でした」
綺麗にかけ蕎麦を食べ終え、奈津は小さく手を合わせた。
「はいよ、お茶のお代わり」
「ありがと、親父さん」
とん、と食卓の上に新しい湯呑が置かれる。態々厨房から出てきて茶を持ってきてくれた店主に礼を言ってから奈津は店内を見回した。
「でも、お客さん全然いないわね」
「はは、そこは言わないでくだせぇ」
店主はからからと笑い、一転悪戯をする子供のような表情に変わる。
「しかし残念でしたね。旦那が居なくて」
「別に、あいつに会いに来たわけじゃないけど」
「そうなんですかい? 入って来た時にはあいつまだ来てないの、って言ってたじゃないですか」
「いっつもいるのに今日はいないから気になっただけ」
「はぁ。ま、それならそれでいいんですが。なんせ旦那はうちの婿候補ですんで、いくらお奈津ちゃんでも譲れませんしねぇ」
その物言いに奈津の眉が微かに動く。
「もしかして、おふうさんとそういう?」
「いんや、二人とも憎からずは思ってる筈なんですがねぇ」
「そう……」
ほう、と息を付きゆっくりと茶を啜る。
「そう言えば、おふうさんは?」
「出前ですよ。なんか、京から来たっていうお客さんが近場の宿にいるんですが、時折出前を頼むんでさぁ」
「ふうん、少しはお客さんも増えてきたのね」
「でもそのお人はいつか帰る訳ですし、なかなか上手いことはいきませんよ」
「客商売はそういうものでしょ?」
「ま、そうなんですがね」
奈津の家はそれなりに大きな商家だ。人間相手の商売の難しさはよく分かっているようだ。
しばらく世間話を交わしていると、戸口が開き暖簾が揺れる。
「ただいま帰りました。……あら、お奈津さん、いらっしゃいませ」
店に入って来たのは薄桃の着物を纏った、小柄ですらりとした少女だった。椿の簪で髪を纏めた彼女は蕎麦屋の店主の一人娘で、名をおふうと言った。
「こんにちは、おふうさん」
座ったまま軽く礼をすれば、おふうが緩やかな笑みで返す。奈津よりも背は低く、見た目も幼いが、その笑みは何処か大人びていた。
「おふう、お帰り。平気だったか」
「いつまでも子供じゃないんですから、そんなに心配しないでくださいな」
「馬鹿言うな、子供じゃなくたって心配なのは変わらん」
憮然とした表情。しかし底にある感情を感じ取り、照れたように頬を染め、おふうは笑った。出前から帰り岡持ちを店の奥に片付け、着物の上に前掛けを纏い戻ってくる。そうして仕事に戻ろうとした時、奈津がおふうに声をかけた。
「お互い、過保護な父親を持つと大変ね」
「ええ、本当に」
にっこりと笑い合う。性質は違えど似たような父親だ。お互い通じるものがあるのだろう。
「さり気にひどいこと言われてるな、俺」
「そんなことありませんよ、お父さんは私の自慢ですから」
「へへ、そうか?」
仲のいい親娘を眺めながら、穏やかな心地になる。何となく邪魔をするのも悪い気がして、奈津は小銭を卓において席を立った。
「じゃ、お勘定此処に置いておくわね」
「あら、いいんですか? まだ彼は来ていないみたいですけど」
「親父さんと似たようなこと言わないでよ」
軽く溜息を吐く。
とは言え、彼等の意見は決して外れてはいなかった。
そもそも奈津がこの店を使うようになったのは、確かに件の彼の存在があってこそ。今日も彼の顔を見に来たというのが本当の所だ
つい先日、昔とある事件で世話になった男と偶然再会した。
三年経ったが男はまったく変わらない。懐かしく思い、何より彼のおかげで父親と仲良くなれたようなものだから感謝もあった。このまま再び会えなくなるのも寂しいと、彼が贔屓にしているという店を訪ねた。それが喜兵衛の暖簾を潜った最初である。
以来奈津は偶に喜兵衛へ訪れる。
以前は生意気な盛りで、自分の護衛を買って出てくれた彼にまともな対応を取れなかった。しかしあれから少しは大人になって、今なら穏やかな気持ちで喋ることが出来る。それが嬉しかった。
「それじゃ、また」
男には会えなかったが、これ以上からかわれるのも恥ずかしい。そそくさと逃げるように奈津は玄関へ向かい、しかし前を見ていなかったせいで、暖簾を潜ろうとした誰かにぶつかってしまった。
「あっ、と……済みま」
取り敢えず謝ろうとしたが言葉は途中で止まる。ぶつかった相手を見て奈津は固まった。
腰の刀に結わった髷。糊のきいた召し物。男はまだ年若いが、その装いは明らかに武士のものだったからだ。
「これは、お武家様。申し訳ありませんっ」
一歩下がり深々と頭を下げる。いくら裕福な商家の娘とはいえ奈津は町人、武士とは身分が違う。性質の悪い武士ならば、無礼打ちと言って町人なぞ斬り殺してしまうことさえあった。だからこそ自身の失態に肩を震わせ、必死に奈津は謝罪する。
「いえ、私も前を見ていませんでした。こちらこそ申し訳ない」
しかし返ってきた言葉は予想外のものだった。
意外さに思わず顔を上げれば、困ったような表情で男の方も小さく頭を下げる。身分が上である筈の武士、しかもこちらからぶつかってしまったというのに謝罪され、奈津はどうすればいいのか分からなくなってしまった。
「はは、大丈夫ですよお奈津ちゃん。このお人は三浦様といって、お武家様ですが人が良すぎるってんで有名ですから」
三浦直次在衛。
未だ客足も疎らな喜兵衛の数少ない常連で、直次は親しみのある店主の接客が心地よいらしく、時折ふらりと足を運んでいた。
「やめてください店主殿」
妙に疲れたような笑みを浮かべる。
とはいえ言葉遣いといい物腰といい、人が良いというのは間違いないのだろう。
「とにかく、私は気にしておりませんので」
「は、はい。本当に申し訳ありませんでした」
再び深く頭を下げて、今度こそ奈津は店を後にした。
言葉通り大して気にした様子もなく、入れ替わりで直次は卓へつく。
「かけ蕎麦をお願いします」
「はい、お父さんかけ一丁」
「あいよっ」
注文を受け厨房へ戻った店主が小忙しく動き始める。
反対に席へついた直次は殆ど動かず、暗い顔で俯き溜息を吐いていた。
「どうしたんです、溜息なんてついて」
おふうは茶を準備し、店に入って来てから沈んだ様子で卓をじっと眺めている直次に声をかけた。
「あ、いえ……少々悩み事と言いますか」
直次は町民が相手であっても敬語を使う。近頃は士農工商の階級も崩れ始めており、町人であっても商いを営む者は下手な武士よりも裕福である。だが依然武士の特権意識は強く、それを鼻にかけ町民を見下す武士が多い中、彼のような男は珍しかった。
「悩み事、ですか?」
「ええ、少し」
そう言ってまた俯いてしまう。
その姿があまりにも痛ましく、おふうもまた悲しそうに俯いた。
「おふう、できたぞ」
「あ、すみません」
父親に声を掛けられるまで気付かなかったらしい。慌てて蕎麦を盆に載せて運ぶ。
「どうぞ、かけ蕎麦です」
「ありがとうございます」
目の前に置かれた傍に箸を付けることなく、また溜息を吐く。そうしてしばらく間を置いて、意を決したように直次は厨房の店主に声を掛けた。
「……店主殿、少し聞いてくださいますか」
予想していたのだろう。驚くこともなくこくりと頷く。
「まあ俺でいいならそりゃ聞きますが」
「よかった。……実は、私には兄がいるのですが」
しかし出だしからおかしな直次の言に、店主は待ったをかけた。
「いやいや。馬鹿言っちゃいけませんよ。直次様は三浦家の嫡男。兄なんている訳がないでしょう」
嫡男であるならば、兄などいる筈がない。まったくもって店主の言葉は正しかった。
そして、だからこそ直次は大いに悩んでいる。
「ですが、私には確かに兄がいたのです」
字を長平(ながひら)、諱は兵悟(ひょうご)。
二つ年上の、自分とは違い快活な兄が確かにいた筈なのだ。
冗談でも妄想でもない。確かに自分には兄がいた。それは間違いない。間違いない筈なのに。
「なのに、父母は言うのです。お前に兄などいない、お前が三浦家の嫡男だと。私は頭がおかしくなってしまったのでしょうか」
その言葉に対して店主は困ったような表情を浮かべた。
「直次様、そんなに思い詰めないでくだせぇ。ほら、蕎麦も伸びちまいますぜ」
ああ、やはり。
散々探してきた。けれど誰に聞いても今の店主と同じような態度が返ってくる。直次は言葉を続けることが出来ず俯き、湧き上がる悔しさに奥歯を噛み締めた。
兄がいなくなったのは今年の春先である。
しかし流れるように春は過ぎ去り、夏の陽射しが身を刺すようになり、今では憂愁の秋が町の至る所に溢れている。その間、方々を探したが兄の足取りは掴めない。それどころか兄の痕跡さえ見当たらなかった。
見も知らぬ者に問えば「そんな男は知らない」。兄を見知った者に聞けば「直次には兄などいない」、父母に問うても同じ答えが返ってくる。
何故、誰も兄のことを覚えていないのか。
「おふうさん」
「は、はい」
「私には兄がいるのです。三浦長平と言う男をご存じないでしょうか」
一縷の望みだった。
誰も知らない、けれど確かにいた筈の兄をずっと探していた。
だが少女はその可愛らしい顔を曇らせ、沈んだ声で言った。
「……すみま、せん」
申し訳なさそうにただ謝る。
ある程度予想はしていたものの返ってきた答えに愕然となってしまう。
本当に私は、おかしくなってしまったのだろうか。
兄など本当は自分の頭の中にしか存在せず、周りの方が正しいのでは。
沈み込むように項垂れるその姿があまりにも哀れに見えたのか、心配そうにおふうが声をかけた。
「あの、三浦様。差し出がましいようですが、よい人を紹介しましょうか?」
その言葉に憂鬱そうではあるが顔を上げる。
「よい人、ですか?」
行き成り過ぎる申し出に、眉を顰める。多少は力が戻ったのだろう。その様を見て、おふうは表情を少しだけ柔らかくした。
「はい。その方なら、もしかすれば三浦様のお力になってくださるかもしれません」
おふうの言に納得がいったのか、店主もまた頷いた。
「ああ、確かにこういうのはあの旦那の領分か」
「旦那、ですか?」
「いえね、そういう不思議な話に好んで首を突っ込むお客さんがいるんですよ」
面白そうに、にやにやとしていた。
直次は右の親指で軽く唇を擦った。考えごとをする時の癖である。不思議な話に好んで首を突っ込む。ああ、そう言えば聞いたことがある。世には陰陽師や退魔師と呼ばれる、妖異を討つ者達がいると。
「それは陰陽師、のような人なのでしょうか。あやかしを祓うことを生業としている」
だがその問いは店主の爆笑によってかき消された。おふうも口元を隠しながらくすくすと笑っている。自分はそんなにおかしな質問をしただろうか。
一頻り笑い終え、それでも表情を緩ませたまま言葉を続ける。
「いんや、ただの浪人です。ああいえ、桃太郎ですかね」
「浪人……」
「ええ、鬼が出るって噂や怪異の類を聞きつけてはそれに関わって、次の日には平然と蕎麦を食べに来るんです。聞いた話じゃ刀一本で鬼を討つ凄腕の剣士だそうで……いや、刀抜いたとこなんて見た訳じゃないですが」
店主は大きく笑った。
「まぁそれは良いんですけど、どうにもその人はそういう怪異を解決してくれるらしいんですよ、勿論金は取りますが。俺もお客さんやおふうから聞いただけですから、実際どんな感じなのかは分かりませんけどね」
今度はゆったりと微笑むおふうが言葉を繋げた。
「少し取っ付き難そうに見えますが、いい方ですよ? あれで可愛いところもありますし。相談してみてはいかかでしょう」
「たぶん今日も来ますよ。毎日かけ蕎麦ばっかり食ってます……ああ、ほら噂をすればってやつです」
店主の視線を追って振り返れば、ちょうど店の暖簾がはためいた。
そうして入ってきたのは六尺を超える、いやに鋭い目つきが印象的な偉丈夫だった。
年の頃は直次と然程変わらない。着物は小奇麗だが、髷は結わず総髪にしている。といっても頭の上で結わず、肩まであるだろう長さの髪を後ろで一纏めに縛っただけの雑な髪型だ。成程、浪人らしい無頓着だ。しかしその顔つきも相まって、粗野というよりは無骨という印象を受ける。
腰には本人に負けず劣らずの無骨な刀。その反り具合から見るに太刀だろう。
見るからに浪人といった容貌。だが容貌以上に目を引いたのは、その歩みだった。
直次とて武士の端くれ、剣術の嗜みはある。故に分かった。ぶれのない歩みは、何十年と剣を振ってきた老練の剣士を思わせる。武術の基本は歩法である。そして、この男の正中線は無造作に歩いているだけだが決して揺らがない。おそらく相当“できる”のだろう。
「あの方は」
大男から発される滲み出る圧迫感のようなものに気圧された自分を理解した。それを誤魔化すように問えば、おふうは実に柔らかい微笑みを浮かべた。
「甚夜君……件の、桃太郎です」
鬼人幻燈抄 江戸編『幸福の庭』
「かけ蕎麦を」
「あいよ、旦那は相変わらずだねぇ」
店主は笑った。この男、甚夜は三日と置かずこの店に来ているが、その度にかけ蕎麦を食べているからだ
「そんなにウチのかけ蕎麦が気に入ったんですかい?」
「いや、別に」
「相変わらず歯に衣着せねぇ人ですね。もう少しこう、気遣い的なもんを」
「……ああ。この店の蕎麦は然して美味くはないがそれなりに気に入っている」
「でしょうね」
あまりにも下手くそな世辞だった。というか世辞にもなっていない。その手の気遣いをこの男に期待するのは止めようと店主は胸に刻んだ。
「あいよ、かけ一丁」
甚夜が店に入った時点で作り始めていたため蕎麦は早く上がった。それをおふうが運び、ゆっくりと前に置く。
「はい、おまたせしました」
「随分手慣れてきたな」
思えば少し前、まだ春の最中には蕎麦を一つ運ぶだけでも精一杯だった。
「当然ですよ、私も日々成長していますから」
満足そうにうんうんと頷く。意外と気にしていたのだろうか。
「そういう甚夜君はどうですか?」
「秋は木犀の頃だ。甘い濃密な香りを漂わせ、これからの季節に美しい花を咲かせる」
「はい、その通りです」
おふうの物言いはまるで手習指南所に通う子供を褒める師匠のようだった。どうやら自分は彼女の教え子になるらしい。
ここ最近、甚夜はおふうから花の名について教わっていた。
以前、春の夜に「少し余裕が必要だ」と言われた。そのせいだけでもないが、意識的に多くの事柄に触れようと心掛けている。おふうの教えを受けるのもその一環だった。
「覚えてみると中々面白いな。自然と道端の花にも目が行く」
「でしょう?」
甚夜の言葉が嬉しいのか、たおやかに笑みを浮かべる。近頃は店員としての姿だけではなく、儚げで透明な、雪柳を愛でていた夜の笑顔を見せてくれるようになった。付き合いも長くなってきた。そろそろ慣れてくれた、ということなのだろう。
「それにしても、最近は少し穏やかな顔つきになりましたね」
「そうか?」
「ええ」
だとしても、憎悪は胸の奥で燻っている。
いつかの記憶。
自身の想い人を殺した妹は、遠い未来で全ての人を滅ぼすと言った。
だからあの娘を止めると誓った。
憎悪のままに鬼として殺すか、それとも人に戻り許すのか。刀を振るう理由さえ分からないまま、ただ力だけを求めてきた。
歳月を重ね、未だ答えは見つからぬ。
生き方なぞ曲げられる筈もなく、あの頃から何も変わらない己がいる。
「取り敢えず春夏秋冬の花は終わりましたから、今度は花に纏わる説話をお教えしますね」
しかし目の前の少女もまた変わらず。
あの夜のように、花を教えることに託けて甚夜を慮ってくれている。ならば、そんな少女の変わらない優しさに報いるくらいはしてもいいだろう。
そう思えるだけの余裕が今の甚夜には在った。
「私が覚えられる量で頼む」
表情は変わらない。しかし寛いだ様子だった。
江戸に出てきて随分と経った。生き方は曲げられない。けれど暖かいと感じる心はまだ残っている。ならば、いつか鈴音を許せる日が来るのかもしれない。
穏やかな心持ち。胸には小さな希望が在った。
「そうだ、甚夜君。少しお話、というかお願いがあるのですが」
言いかけて、それを遮るように男の声が響く。
「話の途中で失礼します」
ずいと前に出たのは店内で何度か見た顔。確か三浦某といった筈だ。
顔は知っていても話をしたことはない。怪訝そうに眉を顰める甚夜に、男は深く頭を下げて弁解する。
「ああ、すみません。私は三浦直次と申します。あの……いきなり不躾ですが、貴方は不思議な話や鬼が出ると言う噂にばかり首を突っ込んでいる、と聞いたのですが」
「ふむ、確かに。鬼を討つのが私の生業だ」
それを聞いた瞬間、直次は顔を明るくした。
「では貴方に依頼すれば怪異を解き明かしてもらえるのですね!」
興奮に語気を強める若い武士。しかし甚夜は眉を顰めたままだった。相手の態度が不快だった訳ではなく、彼が少しばかり思い違いをしていたからだ。
「それは少し違う」
え……、と小さく呟き表情が固まった。多少の罪悪感は在ったが、表情は変えず言葉を続ける。
「期待を持たせたようで悪いが、私に出来るのは鬼を討つまでだ。怪異の原因が鬼であったなら、成程、それを解決することにもなるだろう。だが『怪異を解き明かす』こと自体は私の領分ではない。あまり期待されても困る」
別に怪異を引き起こすのは鬼だけではなく、また鬼が引き起こした怪異であっても既に怒ってしまったことを戻せはしない。結局、いつまで経っても己には刀を振るうことしかできぬのだ。甚夜は顔には出さず自嘲した。
「そうです、か……」
見るからにがっくりといった様子で肩を落とす。そうして机の上にいくらかの小銭を置いて覚束ない足取りで店を後にする。蕎麦は手付かずのまま残されていた。
しばらく店内には沈黙が占拠していた。誰もが直次の背が消えた後の暖簾を見詰めている。そんな中おずおずと店主は口を開いた。
「旦那。すいませんが、在衛様の力になってやってくれませんかねぇ」
直次を心配しているのか浮かない顔である。
「どうもあのお方は馬鹿な兄貴がいなくなったせいで大層思い悩んでるみたいなんでさ。正直、かなり心配で」
「あの、私からもお願いします」
両の掌を合わせ、祈るように懇願する。
「三浦様は……大切な人を失ってとても不安定になっているのだと思います。ですからどうか……」
それ以上言葉を続けることは出来なかった。彼女は何を想っているのだろうか。沈み込む表情。愁いを帯びた瞳。二人には同情以上の何かが在るように感じられた。
もしそれが彼らにとって譲れぬものであるというのならば、断るのはちと酷だろう。普段世話になっている身。ここいらで恩返しというのも悪くないかもしれない。
「分かった」
目を伏せ短くそう答えた。
瞬間、二人は喜びに顔を綻ばせる。
「ありがてぇ。すいません、手間をかけちまって。ああ、三浦家は南の武家町でさぁ。あの辺りでも一番古い屋敷ですから、結構すぐに見つかりますんで」
「甚夜君……本当に、ありがとうございます」
少しばかり感謝が心苦しい。実際に解決できるかは別問題だというのに、二人が安堵の息を漏らしたからだった。そう期待されても困るのだが。
「なに、普段世話になっている分の恩返しと思えばそう手間でもない。ただ……」
「ただ?」
僅かに数秒の空白の後、諦めたように甚夜は言った。
「いや。私が関わると、厄介事になるような気がしてな」
今迄からの経験則だ。
どうせ今回も厄介なことになるのだろう。