死んだと思っていた。
でも私の意識は確かにあって、自由に動く手足もある。助からないと思ったが、どうやら私は生きているらしい。自分の命に疑問を抱きながらも崩れた屋敷から這い出る。
死んでいた方が良かったかもしれない。
そんなことを考えてしまう。
だって、辺りを見回しても何も残されていなかった。
家は潰れ庭の花も燃え尽き、当然毬もなくなっていた。
廃墟となった屋敷に私は一人佇む。
何もかも無くなってしまった。
父を亡くした。母を亡くした。家を失くした。
何故私だけが生き残ってしまったのだろう。失意に塗れ、かと言って何もないこの庭にいるのも嫌で私は屋敷を後にする。
南の武家町は全壊だった。未曾有の大火事は収まったが後に残ったのは瓦礫だけ。これでは町とは呼べないだろう。私が生まれた町は見る影もない。思い出ごと根こそぎ奪われたような感覚だった。
私は当てもなく歩く。
しばらく進んで奇妙なことに気付く。
集まった野次馬が私を見て震えている。
どうしてだろう?
疑問に思う。
いや、疑問に思うというのなら。
なんで瓦礫に押し潰され炎に焼かれた筈の私は生きているのか。
「おい、あの娘の目」
「赤いぞ……」
「まさか」
「間違いない」
誰もが恐怖を孕んだ声で、嫌悪に満ちた瞳で言う。
その言葉に気付く。
人は嫉妬や憎悪、絶望など負の感情をもって鬼へと転ずるもの。
ああ、そっか。
父を亡くした。母を亡くした。家を失くした。
思い出ごと根こそぎ奪われた。
それだけじゃない。私は、
─────あの娘は、鬼だ。
私は、私さえ失くしてしまったんだ。
だから私は逃げた。
もう何も見たくなかった。
それからいったいどれくらいの月日が流れただろう。
江戸から逃げ出した私は各地を転々とした。
まるで水面を漂うように私は生きる。
ゆらゆらと当てもなく。
ただ流されるままに。
だってもう、帰る道は失くしてしまった。
あの庭に戻ることは決してできないのだ。思い返すのは泡沫の夢。光に満ちた暖かい陽だまり。父がいて母がいて。無邪気に笑えた幸福の日々。瞼にはまだ色鮮やかな景色が焼き付いていて、戻れないと知っているからこそ、幸福の庭が美しく思えた。
おとうさん。
おかあさん。
失ったものだけを眺めながら私は生きる。
十年が過ぎ────幼かった私は年頃の少女になり。
二十年が過ぎ────少女のまま老いることも出来ず。
五十年が過ぎ────人に紛れ意味もなく生きる。
苦痛の時間は長く留まり、それでも何十年という歳月が流れた。
もう父の顔も母の声も思い出せない。思い出せなくなるくらい、長い長い時間を越えてきた。なのに、目を瞑れば瞼の裏に映し出されるのは在りし日の幸福。
長い時が経った。
あの頃は名残すら残っていないというのに。
何故、この悲しみだけが消えてくれないのか。
失くしたものに縛られたまま日々は流れる。
生きていたくない。でも──脳裏には炎を纏う亡者の姿が──死ぬのも怖くて。身動きの取れない私は惰性で生きている。鬼の寿命が何年あるかは分からないけれど、きっとこのまま私はゆっくりと死んでいくのだろう。
百年を経る頃、一つの変化があった。
久しぶりに戻ってきた江戸。あれから随分経った。私を知っている人はもう誰もいないだろう。そう考えて帰ってはみたが、歩く町並みは様変わりしていて、懐かしいはずなのにどこか違和感がある。足は自然と南の武家町へ。郷愁に駆られ歩いて歩いて。たどり着いた先、かつて自分が住んでいた場所には、
「あ……」
立派な屋敷が建っていた。
それは当然、自分の住んでいた屋敷ではなかった。あの大火事の後復興した武家町。この屋敷にも別の誰かが住んでいるのだろう。それが分からないほど幼くはない。此処は既に自分の居場所ではないのだ。そんなこと分かっている。分かっている。分かって、いる、のに。
「……おとうさん、おかあさん」
どうしようもなく涙が零れる。
まるで現世の全てに自分が否定されたような気がした。
胸を過る空虚。自分には、本当に何もないのだと見せつけられ、私は叶わない願いに縋る。
帰りたい。帰りたい。帰りたい。帰りたい。帰りたい。
思い返す幸福の庭。
あの頃のように父母と一緒に。
無邪気に笑うことのできた幼い日々に。
ただ、帰りたいと強く願った。
「え……」
その瞬間、世界が変わった。
気付けば、辺りは既に黄昏に沈んでいる。目の前にはうらぶれた屋敷が。
「なにこれ……」
突然のことに頭がついていかない
疑問はあった。それでも、その屋敷が見慣れた場所だったから、私はその門を潜った。足は勝手に動く。屋敷の左手を通り過ぎ一直線に庭へ向かう
そして辿り着く場所。
見渡せば小さな池、水仙の咲き乱れる艶やかな庭。
気品ある馥郁とした芳香。濃密な花の香りにくらりと頭が揺れる
ぱちゃん、と水音を奏でた。池の鯉が暴れたのだろうか。
「ここは」
間違いない。
この場所は、私が生まれた屋敷。
遠い、幸福の庭だ。
「あらあら、■■■ったらあんなにはしゃいで」
いつの間にか縁側には二人の男女が座っている。その姿を見た瞬間、忘れたと思っていたのに自然と私は声を上げた。
「お母さん……お父さんも」
父は相変わらずの厳しい顔、でも細められた目には優しさがあって。懐かしい声音で私に話かける。
「ああ、ちゃんと見ている」
「あの娘、毬つきが上手になったでしょう?」
何を言っているの?
そう思い自分の手を見る。
紅葉のように小さな手はまるで幼かった頃のようで。
手には失くしてしまった筈の毬があって。
一体何が起こっているか分からない。分からないけれどそれでいいと思えた。
過ぎ去ってしまった“いつか”が此処にある。
他のことなんて、どうでもよかった。
────いつかは遠くなり、昔を懐かしむ。
だから私は毬をついている。
幼かったあの日々を取り戻すように。
幸福の庭にしがみつくように。
父が買ってくれた毬を。
母が植えた花に囲まれて。
数え唄を歌いながら。
ずっと此処で毬をついている。
朧に揺らめく。
結局私は。
今も、幸福の庭から動けずにいる。
◆
花の香気に立ち眩みを起こし、一瞬の前後不覚を起こす。
その僅かな時間に妙な夢を見た。見も知らぬ少女の半生。あれは一体なんだったのだろうか。
片膝をついたまま頭を二、三度振れば何とか意識が覚醒してきた。そうして辺りを見回せば、
「な……」
其処は兄の部屋ではなかった。似てはいる。だが置かれた調度品など細々としたところで差異が見受けられた。何が起こった? 驚愕しながらも親指で唇を摩りながら思索に没頭していく。
「昔ながらの武家屋敷といった所だな」
「うおぉっ!?」
その瞬間いきなり隣から声が聞こえて、思わず驚きに数歩下がる。気付けばすぐ近くに六尺を超える大男がいた。
「じ、甚夜殿?」
「だが造りが三浦家とは違う。どうにも、お前の兄の部屋とは別の場所に迷い込んでしまったらしい」
彼もまた差異に気付いたのだろう。部屋を鋭い刃のような視線で観察していた。しかしそんなことよりも直次には気になることがある。
「……あの、甚夜殿」
「どうした」
「一応確認しますが、先程まで貴方は傍にいませんでしたよね?」
確認するまでもなくいなかった。直次は先に兄・長平の部屋を訪れ、後から誰かが入ってきた様子もなかった。事実数瞬前にはその姿が見えなかったというのに、何故彼は当たり前のようにいるのだろうか。
怪訝な視線を送るも甚夜はいつも通りの平静な様子で言う。
「なに、ちょっとした大道芸だ」
慣れてくると“このまま”でも使えるようだ。
よく分からないことを呟く。結局、彼がいつの間に現れたのかは分からないままだった。
「で、今のを見たか?」
覗き込むような視線だった。
「今の、とは」
「火事の景色。鬼となり放浪する童女。在り得ない筈の、かつて住んでいた屋敷」
淡々と語られる言葉に驚愕する。それは意識を失った瞬間に見た、奇妙な夢だった。
「見ましたっ。では貴方も?」
首を振って肯定の意を示す。やはり彼も見たのか、そう思うと同時に驚きは段々と薄気味悪さへ変わっていく。
「二人が同時に同じ夢を見るなど……」
「単なる白昼夢ではない、か」
直次の背筋にぞわりと嫌なものが走る。己が今まさに怪異の中心にいるのだと理解したのだ。だが、対する甚夜はいつもの仏頂面のまま呟いた。
「当たりだな」
表情こそ変わらないものの声音には「幸運だ」とでも言わんばかりの響きがあった。
「それはどういうことですか?」
「現世ではない何処かを住処にした鬼がいた。ならば」
そこまで聞いて気付く。
そうだ。確かに彼は言っていた。
兄は消える前、娘に逢いに行くと言った。
ならばその娘こそが鬼ではないか。そして兄は現世とは隔離された何処かに連れ去られたのだ、と。
つまり。
「兄は、此処に連れ去られた?」
「連れ去られたのか、自ら足を踏み入れたのかは分からんが」
息を呑む。散々探しても見つからなかった兄の影がここにきてようやく見えてきた。
「しかし、何故気付いたのですか? 兄が現世とは隔離された何処かに連れ去られた。それは確かに正しかったのでしょう。ですが正直に言えば、発想が突飛過ぎてその結論に至る道筋が分かりません」
それは純粋な疑問だった。しかし甚夜はただこう言うだけである。
「私はそれなりに花には詳しい」
答えにならぬ答えだった。そして返答もそこそこに部屋から出て行こうとする。
「あの、何処へ」
「ここで突っ立っていても仕方あるまい。少し辺りを調べる」
「確かに。ならば私も」
二人は並んで廊下へ出る。
外は黄昏に沈んでいるのだろう。廊下の先は暗すぎてまるで見通せない。鬼の住処ということもあり殊更不気味に感じられた。
板張りの床は老朽化しているように見えるが踏み締めても家鳴りはしなかった。造りは甚夜の言う通り昔ながらの武家屋敷である。三浦家と大差ないため、然程迷うことなく玄関へ辿り着くことができた
玄関から外へ出れば、一面に広がる仄暗い空。黄昏の色がうらぶれた、しかし風格のある屋敷にはよく似合う。門も立派なものでおそらく住んでいた武士は低からぬ身分だったのだろう。
「この閂、力を入れても動きませんね」
外には出られるのだろうか。
そう思い門を開けてみようと直次は試していたが、結局閂は抜けなかった。どうやら閉じ込められたようだ。
「下がっていろ」
夜来を鞘から抜き去り高々と上段に構える。そして一歩を踏み出すと同時に唐竹割り、渾身の一刀を放つ。
鉄の如き鬼の体躯さえ裂く甚夜の剣。
しかし木で出来ている筈の閂には傷一つなかった。
掌に広がるのは鉄でも肉でもない奇妙な手応え。
「やはり簡単に出られる場所ではないらしいな」
鬼と化して<剛力>で殴り付けても結果は同じだろう。刀を鞘に納め、平静に呟く。
「おそらくはあの童女が此度の怪異を引き起こしたのだろうが。閉じ込める<力>……いや、それだけでは先程の白昼夢の説明がつかない」
思索を巡らしているのか、小さく何事かを呟きながら甚夜は門を眺めている。しかし<力>とはいったい何のことだろう。疑問に思い直次は問うた。
「<力>とは?」
「鬼は百年を経ると固有の<力>に目覚める。中にはもっと早く目覚める者もいるがな。遠い未来を見通す。膂力を異常なまでに高める。個体によってそれは変わるが、高位と呼ばれる鬼は一様に特殊な能力を身に付けているものだ」
「では先程の少女が見た屋敷は<力>によって生み出されたもの、ということでしょうか」
「……だと、思う」
「はっきりしませんね?」
「いや、一体どのような<力>を使えばこのような現象を起こせるのか、それが分からん」
取り敢えず、出るには<力>の謎を解くか元凶を討たねば。
そう言って再び思索に没頭していく。
それを邪魔しては悪いと直次は辺りを見回しながら時間を潰していた。情けないが、自分にできることはない。精々辺りを警戒しておくくらいだろう。どんな変化があっても見逃さぬよう周囲に意識を配る。音はない。風も吹かない。屋敷は全くの無音だった。此処まで音のない場所というのも不思議だ。あまりの静けさに耳鳴りがするほどである。
ぽぉん……ぽぉん……。
不意に、音が響いた。
規則正しく鳴る微かな音。普通なら聞き逃してしまいそうなそれも周囲から音の消え失せたこの屋敷ではよく響く。
「甚夜殿」
「どうした」
「音が聞こえます」
集中し過ぎていたせいだろう。甚夜には聞こえていなかった。直次に倣い周りに意識を向ける。すると確かに音が響いてくる。
────ふたつ ふるさととおくなり
次いで、数え唄が聞こえた。
だから気付く。これは毬をつく音なのだ。
「この歌は」
先程兄の部屋で聞いた声。幼くも澄んだわらべうた。異界へと誘う幽世の調べだった。
「屋敷の主からのお誘いだ」
冗談めかして口元を釣り上げるが、左手は夜来へとかかる。鬼との対峙を前にして空気が張り詰めた。
「庭の方ですね」
「行くか」
小さく頷き合って二人は歩みを進める。
屋敷の左手を通ればすぐその場所に辿り着く。
見渡せば小さな池、水仙の咲き乱れる艶やかな庭。
気品ある馥郁とした芳香。濃密な花の香りにくらりと頭が揺れる
ぱちゃん、と水音を奏でた。池の鯉が暴れたのだろうか。
そして、その中心には。
体格のいい男と毬を抱えた童女がいた。
「兄上……!」
目を見開く。
それは間違いなく、兄・長平だった。ようやく見つけた。直次はその姿を確認すると同時に駈け出そうとして。
くらり、と頭が揺れる
また、花の香が立ち込めた。
◆
庭先には体格のいい男と毬を抱えた童女がいた。
「お前は、もう此処で長いのか?」
庭先にいる男は童女に声をかけた。
男の名は三浦長平兵悟という。直次とは違い豪放そうな雰囲気である。片膝をつき童女と視線を合わせた長平は優しげな語り口だった
『百年以上ここにいる』
「百年っ!?そいつぁ豪気だ」
見た目は五、六歳の幼い娘が実は百を超えると聞いて驚きの声を上げる。娘の言葉を全く疑ってはいないらしく「へーほー」と珍しそうに視線を送っていた。
「その間ずっと一人か?」
無表情で頷く。瞳には何の感情もなかった。両の手で抱えた毬は大事なものなのか、しがみ付いているように見えた
『言ったでしょう。帰る道はなくなった、と。私はここから逃げられない』
長平が此処に辿り着いてからどれだけの時間が流れただろう。
数え唄に誘われて訪れた幽世。
最初は恐ろしいだけだったが、一人毬をつき数え唄を歌う童女がどうにも気になり、気がつけば結構な時間が経っていた。
童女はほとんど自分のことを話さない。それでも根気よく話し続けてみればぽつりぽつりと話してくれた。
自分が“鬼”であること。
両親は既に亡くなったこと。
この屋敷の秘密。
此処に百年以上一人でいること。
実をいうと、長平が此処に来てしまったのは単なる偶然で、今も決して閉じ込められているという訳ではなかった。
童女曰く、長平の住む屋敷と彼女のいる屋敷が何故か繋がり、長平が迷い込んでしまったらしい。
したがって童女には何の悪意もなく、長平はどうにもこの娘を責められないでいた。
『早く帰りなさい……長くいれば貴方も帰る場所を失くすことになる』
怪異の原因たる鬼が言っても一向に長平は帰ろうとしない。それどころか呑気に庭の花なんぞを愛でていた。
「お、きれいな花だな。俺は花の名なんかしらねぇが、これはきれいだと思うぜ」
この花はなんて言うんだ?
童女の言葉などなかったことにして話を進める。こちらは何の感情もこもらない瞳のままだった。
『……沈丁花』
「ほう。甘酸っぱくていい匂いだ。食ったらうまいかな」
真面目な顔で検討している。砂糖でも持ってこりゃよかった、などと言っている辺り確実に本気だった。
「お、ようやっと笑ったな」
童女は、本当に小さくだが、顔を綻ばせた。目敏くそれに気付いた長平は嬉しそうに笑っている。そう、彼がこの幸福の庭を離れられない理由は、単にこの娘のことが心配だったからだった。
彼が自宅へ戻らないのは、自分が戻ってしまえばこの童女がまた一人ぼっちになってしまう。それが分かっているから、なかなか戻れないのである。
『もう、いい加減貴方は帰った方がいい』
笑い顔を見られたのが恥ずかしかったのだろう。童女は殊更無表情を作った。
「さて、今日の昼飯は何をするかな。我ながら腕があがってきたと思うんだが、よしここは一番の得意」
『ちゃんと聞いて』
いつものように誤魔化そうとしたが、今回は有無を言わせぬ迫力があった。
『貴方にも家族はいる。帰る場所だってあるでしょう?それをくだらない同情なんかでふいにしては駄目』
「しかしだな」
『ここは幸福の庭。此処にいればおとうさんともおかあさんとも会える。だから貴方はいなくてもいい。むしろ邪魔なの』
その裏には、童女の優しさが確かにある。
長平のことを慮って紡がれた言葉。やれやれ、と呆れたように溜息を一つ。まったく、この娘は嘘を吐けない。そんな風に言われて帰れる男がいるわけないだろう。
「お前は勘違いしてる。いいか、家があって人がいるんじゃない。人がいて家があるんだ。だから、人が笑えないのならそこは家じゃない」
『なにを』
「だからここは家じゃない。本当はお前だって分かってるんだろう?」
『それ、は……』
長平の言葉に急所を突かれ、童女は押し黙った。まるで苛めているようだ。そんなふうに思えて、せめてもの侘びとして優しく娘の頭を撫でてやる。
「分かった。じゃあこうしよう。お前がここを離れてくれるなら、俺も出ていこう」
『そんなの無理』
「なぜだ?」
『私にはもうこの庭しか帰る場所がない』
「なら簡単だ。俺の家に来い、ああいや、二人一緒に暮らす方がいいか。うん、そうだな。なぁ、俺の娘にならないか? 俺も武士をやめて、外でのんびり暮らすんだ」
何でもない事のように武士をやめるという。それでも童女は頑なだった。
『私は此処から逃げられない。それに、貴方をおとうさんとも思えない』
「あー、振られたか。まあいいや。お前さんの心変わりをゆっくり待つさ」
大して悔しそうな様子ではない。なんだ、ただの冗談だったのか。彼の様子にそう思ったが、真剣な、けれど柔らかく細められた長平の視線を見て気付いた。
「そうだ、一度だけ家に帰してくれないか? 最後になるかもしれんから家族の顔を見ておきたい」
最後? それはどういう意味、と聞こうとして。
「言っとくけど俺は本気だからな。もし、お前が俺を父と思える日が来たなら。その時は一緒に此処を出よう」
彼の言葉に息を呑む。
それは冗談ではなく、本心なのだと確かに信じられた。
『そんな日は来ない』
ふい、と顔を背ける。でも顔が熱い。もしかしたら赤くなっているのかもしれない。現に、彼は声をあげて笑っていた。
「ならしゃあねえ。俺がずっと此処にいてやるさ」
そうして、長平は快活な笑顔を見せて。
◆
瞬きの間に、その姿は消え去った。
「え……兄、上?」
直ぐそこにいたはずの兄が今はもういない。いったいこれはなんだ。何が起こった。庭の中心に辿り着く頃には誰もいない。いや、其処には。
毬を抱えた童女だけが、一人立ち尽くしていた。
『此処にはもう誰もいない……なにも、残っていない』
呟きは誰に向けられたものか。
幼いが透き通った、よく通る声だった。人形のように整った容姿。瞳は、赤い。
「兄上はどこに」
少しだけ童女の瞳が陰ったような気がした。おそらくはこの鬼こそが元凶なのだろう。だが直次の気性ではいくら元凶とはいえ、娘子に憎しみをぶつけることも出来なかった。
反応はない。今度は少しだけ語気を強める。
「どこにやったと聞いている」
やはり何の反応もなく、娘の纏う憂いだけが濃くなった。どうすればいいのか分からない。直次は崩れ落ちるように膝を地につけた。
「兄を、返して下さい……お願いします」
土下座までして童女に頼み込む。武家の生まれである彼にとってそれはいかな屈辱だろうか。肩を震わせ只管に直次は懇願する。それでも童女は何も言わなかった。むしろ、彼女こそが涙を堪えているようにさえ見える。
「無駄だ」
甚夜は直次の肩に手をかけ引き起こす。
「何故無駄なのですか! 貴方も見たでしょう、兄は確かにいた!」
必死の形相。しかしただ首を振り言い聞かせるように告げた。
「花には、咲く季節がある」
およそ関係のないことを話し始める甚夜に食って掛かる。
「何を言っているのですか貴方は……!」
「お前が言ったのだろう。水仙の花が兄の部屋にあった、と。だから私は、長平殿はこの世ならぬ場所へ連れ去られたのだと気付けた」
それは事実だ。確かに彼の言う通りではあった。しかし今はそんなことを話している時ではないだろう。
「だから何をっ!」
その言葉の意味を理解できず、語気も荒く聞き返す。
「三浦殿、水仙は冬の花だ」
抑揚のない声に、一瞬時が止まったような気がした。
水仙は冬から春にかけて咲く花である。が、春先に咲くものは総じて花弁が一回り大きい。直次が言うような小さく可愛らしい花は早咲きの水仙で、冬に咲くのだ。
「貴殿はこうも言ったな。春先にいなくなった、と。そして今は秋……ならばいなくなった兄君は何処で水仙の花を手に入れた」
長平がいなくなった期間は春先から秋。
単純に考えて、彼が水仙の花を手に入れる機会など存在しない。それでも彼の部屋に咲く筈のない花があったというのなら。
彼は現世とは違う季節の流れる場所に、『違う時を刻む異界』に足を踏み入れたということになる。
「ですが兄はいました」
「ああ、いた。以前は確かにいたのだろう」
「それはどういう意味ですか」
「私はどうすれば長平殿が水仙を手に入れられるかを考えていた。咲く筈のない水仙が裂く場所。恐らくは鬼の<力>によって生まれた、現実とは違う時を刻む異界。それは予想できていた。しかし今の景色では……沈丁花が咲いていた」
甚夜の纏う悲壮な雰囲気が色濃くなった。
「初めはな、異界ではずっと水仙が咲いていると思っていた。だから其処は人の理の届かぬ、時の止まった異界だと推測していた……だが違った。沈丁花は春を告げる花。季節の花が咲くのなら時は流れている。ただ速さが現世とは違うのだ。それ故季節外れの花が咲く」
そして鬼女の言葉が真実ならば。
此処には誰もおらず、何も残っていないというのならば。
「おそらくこの異界では」
『現実よりも遥かに早く時が流れる』
言葉を継いだのは今まで何の反応も見せなかった童女だった。
『此処は既に失われた場所。かつて幼い私が過ごした幸福の庭……』
歌うように紡がれる。無感情を装い、しかし微かな寂寞を感じさせる声だった。
『百年を経て、私は<力>に目覚めた。かつて在った幸福の庭を作り出す<力>。でも……』
視線を屋敷に向けた。
「あらあら、■■■ったらあんなにはしゃいで」
いつの間にか縁側には二人の男女が座っている。
「ああ、ちゃんと見ている」
「あの娘、毬つきが上手になったでしょう?」
仲の良さそうな夫婦。しかし次の瞬間には消え失せる。最初からいなかったように、何の名残さえ残さなかった。
『私の<力>は<夢殿>。箱庭を造り、思い出を映し出す。ただそれだけの<力>。閉じ込めることなんてできない。この<力>にできるのは、ただ昔を懐かしむだけ』
つまり先程の夫婦も、白昼夢も、長平の姿も彼女の思い出。
現実ではなく他人も見ることのできる夢。
娘の<力>の正体は『思い出の再現』なのだ。
童女は逃げられないと言った。それは物理的な意味合いではなく、単に彼女が幸せだった頃の思い出から離れられなかっただけ。屋敷に囚われていたのは長平ではなく、創り出した鬼女の方だった。
『だから箱庭の中では外の世界よりも遥かに速く時が流れる。そして、箱庭にいる者は外の世界から忘れられていく。いつだって、大切なものこそ簡単に失われる……思い出はどうしようもなく時の彼方に押し流されていくものだから』
でも。
童女は悲哀に満ちた声で言葉を続ける。
『私だけは、その流れについていくことは出来ないけれど』
それがこの世界の法則。
鬼女は時の流れが速まった箱庭にいたとしても、外と同じ時間を刻む。
此処は彼女の夢見た場所でありながら、理想には今一歩届かぬ願い。誰もいない幸福の庭。この場所にいる限り彼女は幸福な思い出に浸れるが、いつまでも一人でいなければならない。幸福の庭では、誰もが彼女より早く寿命を迎える。
流れ去る幸福の日々に取り残されてしまった彼女は、その速さに着いて行くことが出来ないのだ。
「ならば、兄上は」
声が震える。
此処が、外の世界よりも遥かに時間の流れが速いとするのなら。
もう誰もいないと言うなら。
この屋敷から出ることを選ばなかった長平は。
「もしや、既に………」
聞きたくない。聞きたくない。
しかし自然に言葉は零れてしまい、童女はまっすぐに直次を見据えた。
『此処にはもう、誰もいない』
知りたくない、事実だった。
「そん、な……」
それでは、自分がしていたことは全くの無意味だったのか。体から力が抜けていくのを感じる。
瞬間、先程まで無風だった庭に強く風が吹き付けた。
『さよなら……そしてごめんなさい。私があなたのお兄さんを奪ってしまった』
悔いるような声だった。
吹き荒れる風に花がしなり花弁が舞う。吸い込まれるように空へ帰る花弁。砂のようにさらさらと、屋敷が形を失くしていく。
『でも、ありがとう。私は兵悟に救われた』
何もかもが希薄になっていく。
幸福の庭が終わる。訳もなくそれを感じ取れた。
『目を覚ませば、元の場所に帰れる。だから安心して』
優しげな声だった。幼い外見に見合わぬ柔らかさ。
もともとこの娘は誰かを閉じ込める気などなかった。此度の長平の件は偶然が引き起こした事故のようなものにすぎない。彼女は最初から甚夜達をどうこうしようとは思っていなかったのだろう。
或いは、ここに呼んだのも。
直次に兄のことを謝るためだったのかもしれない。
「娘、お前はこれからどうする」
箱庭の崩壊を眺めながら、平静に甚夜は問うた。全てを失くした絶望から鬼へと転じた童女。彼女の行く末が、何を思っているのかが純粋に気になった。
『此処ではない何処かに』
答えた表情は満ち足りたものだった。
『誰もいない幸福の庭にはもう戻ることはない。兵悟が、私の父になってくれたから』
「お前は、それでよかったのか。此処は大切な場所だったのだろう」
『ええ、もちろん』
そうして、たおやかに彼女は笑う。
『私はずっと失ったものばかりを眺めてきた。でも、あの人は自分の人生をかけて私の大切な場所になろうとしてくれた。だから私は幸福の庭を抜け出すの。あの人の娘になりたいって思えたから』
ああ、そうか。
つまり彼女は。
「お前は、長平殿との約束を守るのだな」
────言っとくけど俺は本気だからな。
もし、お前が俺を父と思える日が来たなら────
『ええ。胸を張って言います。あの人は、私の自慢の父だって』
私は幸せ。
失ったものは多かったけれど、私を愛してくれる父を二人も得ることができたのだから。
最後に、見惚れるほどの笑顔を残して。
花の香に包まれた世界が黄昏に溶ける。
其処で終わり。
こうして、幸福の庭は終わりを告げた。
────涙は枯れ果てて、やがては……
◆
気付けば二人は庭にいた。
ただし三浦家の庭に、である。
「戻ってきたのですね……」
直次は力なく、それでも何とか立ち上がる。
「もしや、あの幼子はずっとこの屋敷に住んでいたのでしょうか」
「あの鬼の<力>は箱庭を造ると言っていた。あの屋敷は<力>によって造られた、現世には存在しない場所と考えるべきだろう」
何も言わず直次は俯いている。
「ただ何の因果か、この屋敷と“繋がって”しまった。三浦殿の兄上は偶然にも足を踏み入れ……」
「出られなくなった、いえ、あの屋敷で暮らす道を選んだ」
目を伏せれば浮かび上がる、たおやかな鬼女の笑み。
幼い頃、父母と過ごした庭に鬼となってまで固執した娘。
偶然に出会った、自分の父になると言ってくれた男。
男が、そして娘が。一体何を思って共に在ることを選んだのかは分からない。だがそれでも、彼女は最後に笑っていた。ならばきっと彼女は確かに救われ、男は確かに報われたのだろう。
「兄は、何故あの場所に留まろうと思ったのでしょうか」
呆然としたまま、直次は問うた。それは独り言だったのかもしれない。
長平はあの娘が鬼であることも、現世とは時の流れが違うことも知っていた筈だ。なのに何故、家を捨て家族と別れ、それでも童女と共に過ごすこととを選んだのか。それが直次には理解できなかった。
「案外、理由などなかったのかもな」
拾うようにして甚夜が答える。彼もまたどことなく力がないように見えた。
寂しげな鬼女。
それを慈しみ救いたいと願った男。
たとえ結末が、どうであったとしても。
己がどうなるとしても。
「理由などなくても、傍にいてやりたかった。そういうこともあるだろう」
自分にも覚えがある。ただ傍にいるだけで幸福を覚えた頃が確かにあった。納得がいかないのか、返す言葉が何もないのか。ただ直次は押し黙った。甚夜もそれに倣い、黄昏に沈む庭を見回す。
庭に花は咲いていない。今は秋、花はとうの昔に散ってしまったのだから当然だ。しかし先程まで花に満ちた庭にいたせいか、こちらの方が普通だというのに違和感さえ覚えてしまう。
もしかしたら、火事の後に建った屋敷こそが三浦家だったのかもしれない。
そう考えると花の咲いていない庭は殊更寂しく思えた。
「過ぎ去りし幸福の庭、か……」
失われたものはどうしてこうも心を捉えるのか。
失ったものは失ったもの。たとえどんなに願ったとしても戻ることはない。童女は全てを失った絶望から鬼へと転じ、それでも戻ることのないかつての幸福に固執し続けた。
だがそれで終わりではなかった。
そんな娘を救いたいと長平は願い。
彼女もまた与えられる救いを受け入れ、自身が願った幸福の庭を抜け出した。
胸を過った感情は嫉妬だったのかもしれない
己とは全く別の強さを持つ二人があまりにも眩しすぎて、目を背けるように仄暗い天を仰ぐ。
─────幸福の庭を抜け出した鬼女は、今頃どうしているのだろう。
宵闇に変わり往く空を眺めながら、今は何処にいるかも分からない、名も知らぬ娘子の行方に想いを馳せる。
遠くで星が瞬く。近付く夜にほんの少しだけ目を細めた。