嘉永七年(1854年)・夏
江戸の夏の風物詩を語るならば、浅草寺の四万六千日は外せないだろう。
観音菩薩の縁日と言えば毎月十八日というのが一般的であるが、室町時代以降これとは別に功徳日というものが設けられている。
この日に参拝すれば大きな功徳が得られると言われ、中でも七月十日は千日分と最も多く「千日詣」とも呼ばれた。
浅草寺ではこの日を「四万六千日」と言い、参拝すれば四万六千日分に等しい功徳が得られるとされている。
さて、この浅草寺の四万六千日に一番乗りで参拝したいという民衆は多く、前日から大層な人出となる。
こういった大きな縁日では、参拝客目当ての市が立ったり祭りが催されたりする。
浅草寺では「ほおずき市」が開かれ、参拝客は仲見世の商店街を練り歩きながら、この盛大な市を楽しむのだ。
「ってなわけで、どうだ? 明日のほおずき市、俺達も行かないか?」
善二は喜兵衛に入って来た途端、とうとうとほおずき市について語り、満面の笑みでそう言った。
「あぁ、もうそんな時期ですかい」
店主が感慨深げに頷く。
昼飯時に差し掛かり、喜兵衛はそれなりに客が入っていた。と言っても居るのは甚夜、奈津、そして以前の依頼から常連となった直次の三人。詰まる所いつもの面子が集まっただけに過ぎない。
「ねぇ、善二。仕事は?」
奈津は半目で冷たい視線を送っていた。しかし善二はそんなもの関係ないとでも言わんばかりである。
「昼飯食ってくるって言って出てきました。市の日のことなら、ちゃんと旦那様から休みをもらうつもりです」
「あんたねぇ……」
軽い言動とは裏腹に、善二は須賀屋では手代に就き、次期番頭にと期待されている。そんな男が市に行きたいから休ませてくれ、などと言う。須賀屋の旦那も頭が痛いことだろう。
「まま、そう言わんでくださいよ御嬢さん。大きな催しがあるなら、燥いで騒いで楽しみたいってのが人情じゃないですか」
「そうですねぇ、折角の市ですし」
「さっすがおふうさん、分かってる!」
おふうの同意を得て強気になった善二は、食事を終えのんびりと茶を飲んでいる直次に向き直る。
「直次。お前も偶には羽目を外さないか?」
「あ、いえ。済みません。私は休みが取れそうもないので」
直次は申し訳なさそうに頭を下げた。彼は幕府に仕える表祐筆。そう簡単に休みが取れるような身分ではない。
「ああ、そりゃそうか。残念だな……んじゃ、甚夜。お前は当然空いてるだろ?」
反面甚夜は定職を持たぬ浪人。鬼の討伐依頼が無い限り、基本的には暇だ。
「勿論行くよな?」
「いや、遠慮しておこう」
「せめて考えるくらいしてくれ……」
考えてみたところで断ることには変わらない。
酒くらい呑むし、餅も好んで食う。生きることを楽しむ、とまではいかないにしても、以前より少しは余裕が出てきたように思う。
だがそこまで盛大な催しは、流石に気後れしてしまう。
脳裏には、首を引き千切られ死んだ白雪の姿がまだ焼き付いている。それを忘れて娯楽に興じるなど、許されないような気がした。
「甚夜君、行ってみてたらどうです?」
無表情。しかしその奥にある感情を感じ取ったのか、ゆったりとおふうが笑う。
「偶の息抜きですよ。まだ、先は長いんですから」
先は長い、その意味を間違えない。
鬼の命は長い。それを考えれば祭りに興じたとしても所詮は偶の息抜き、瞬き程度の時間でしかない。ならば蕎麦を食うのも酒を呑むのも、祭りに行くのも変わらないだろう。大雑把なようで細やかな気遣いが何気ない言葉の裏にはあった。
「そうね、私も行こうかな。あんたも来るなら磯辺餅くらいなら奢ってあげるわよ?」
「なんで磯辺餅?」
「さあ?」
首を傾げる善二に、笑いを噛み殺して奈津は惚ける。そう言えば餅が好きだと伝えたのは奈津だけだった。店主らも不思議そうな顔をしている。
「こうまで誘われているのだから、甚殿も行かれては?」
「直次」
同年代に見えるせいもあるのだろう。直次は甚夜に対してはほんの少しだけだが砕けた態度を取る。生真面目な彼にしては珍しく、朗らかな笑みを浮かべている。
「私はいけませんが、どうぞ代わりに楽しんできてください」
いつの間にか視線は甚夜に集まっている。
しかし答えは変わらない。
「折角の誘いだが、明日はこちらの予定がある」
腰の刀を少し動かしてみせれば、奈津が嫌そうに顔を歪める。
「また鬼退治?」
「ああ。詳しくは話せんが」
嘘ではない。ただ時間は夜、市の時間に予定はなかった。だから行こうと思えば行けるが、そんな気にはなれない。
「そりゃ、仕方ねぇか。じゃ、おふうさんはどうです?」
「私は……」
「おふう、お前も行ってきたらどうだ?」
おふうよりも早く店主が答える。
「え、でも」
「なあに、気にすんな。どうせ客なんてこねえ。俺一人でも何とかならあな」
快活に笑うが、それでいいのかと思わなくもない現状である。
「偶にはお前も休んで来い」
「……それなら、はい。善二さん、よろしくお願いします」
「よっしゃ! 悪いなぁ、甚夜、直次。明日は両手に花で楽しんでくるわ」
勝ち誇ったようにそんなことをのたまう善二に、男衆は曖昧な笑みを浮かべるしかないなかった。
鬼人幻燈抄 『花宵簪』(はなよいかんざし)
「で、休みを貰えず来れなくなった、と」
「まあ、そういうことね」
ほおずき市当日、雷門の前には女二人しかいなかった。
善二は結局休みを貰えず今も須賀屋で働いている。須賀屋主人、重蔵に休ませてもらうよう頼み込んでいたが、にべもなく斬って捨てられてしまったのだ。
「急に“休ませてくれ”で休める訳ないじゃない。なのに本気で泣きそうな顔してたわよ、あいつ」
「あはは……」
どう反応すればいいのか分からず、おふうはただ乾いた笑いを零した。
「……どうします?」
「折角来たんだし、一緒に回らない?」
「そう、ですねぇ。偶には女同士もいいかもしれませんね」
「ええ、馬鹿な男どもはほっといて」
お互い口元を隠し笑い合う。そう言えば、二人で出かけたことなどなかった。これもいい機会なのかもしれない。
「じゃ行きましょうか?」
「はい」
二人は並んで歩き始める。
浅草寺の雷門から宝蔵門に至る表参道の両側にはみやげ物、菓子などを売る商店が立ち並んでおり、俗に仲見世と呼ばれている。店を冷かしながらのんびりと進み、時折菓子を買ったりもした。
「すごい人出」
「本当に。それにしても、殿方には見せられませんね」
手には先程買った饅頭がある。食べながら歩くのは確かに淑女の振る舞いではない。とは言え食べ歩きは市や祭りの醍醐味だ。少々はしたないかもしれないが、これくらいはいいだろう。
「いいじゃない、市の時くらい」
一口齧っておふうと奈津は二人して笑った。
境内に入ればほおずき市の名の通り、ほおずきの露店でにぎわっている。ざっと数えても五十では利かない。
「夏も盛りねぇ」
ほおずきの赤を眺めながら奈津が呟く。
この時期もほおずきは花ではなく果実、鮮やかな橙色をした六角形の果実が垂れ下がる姿は、まるで提灯のように見えた。
そもそもほおずきは花よりこの果実の方が有名で、夏の風物詩として定着している。
「そういえば、なんでほおずきって言うの?」
何気なく奈津が聞く。おふうは草花に造詣が深い為、もしかしたら知っているかもしれないと思ったからだ。
「実が頬のように赤いから頬付きとか、身が火のよう赤いから火火着(ほほつき)が転じたとかいろいろな話がありますけど、詳しいことは分かっていないそうですよ」
「ふうん」
「鬼の灯りと書いて鬼灯と読ませることもあります。提灯みたいな果実は、鬼が帰る為につけた灯りなのかもしれませんねぇ」
「やめてよ、飾れなくなるじゃない」
おふうの冗談に心底嫌そうな顔で返す。その表情に、おふうは少しだけ目を細めた。
「鬼は嫌いですか?」
「好きな人を探す方が難しいわよ」
「ふふ、そうですねぇ」
楽しそうに笑っていた。その内心を計ることは出来ないけれど。
「私は二回も鬼に襲われたんだから。正直、あいつが居なかったら今生きてないと思うわ」
「あいつって、甚夜君ですか?」
「ええ。もう四年くらい前かな。二晩だけど、私の護衛をしてくれたことがあるの。子供心に思ったわよ。ああ、読本の剣豪がそのまんま目の前にいるって」
「渡辺綱とか?」
「そうそう! 鬼の腕を斬り落とすとか在り得ない、なんて思ってたけど実際にやる奴がいるのね」
昔のことを思い出しているせいか、子供のようなはしゃぎ方だった。
「お奈津さんは甚夜君のことが好きなんですねぇ」
「ちょ、だからそういうのじゃないって」
ほんの少し頬を染める。けれどそれも一瞬、はにかむような困ったような、得も言われぬ表情を浮かべた。
「あいつはね、物語の中の存在だったのよ。刀一本で鬼を討つ剣豪。ほら、在りそうじゃない? そう思ってた。……思ってた、んだけどね」
遠い目。ほおずきを見ているのに、何か違うものを映しているかのようだ。
「時々、自分でも分からなくなる時があるんだ。何故こんなことをしているのか」
下手くそな口真似。しかし誰の言葉なのかは簡単に分かった。
「前にそう言ってた。私にとってあいつはそれこそ読本の中の剣豪みたいな、現実感のない奴で……なのに、なんでだろ。あの時の横顔は剣豪どころか、迷子の子犬みたいに見えたな」
あんな大男なのにね。
そう付け加えた奈津は寂しそうに笑う。
「でもね、それが嬉しかったの」
「嬉しい?」
「そう。多分、私はあいつに仲間意識を持ってるんだろうなぁ。見たくないものに蓋をして、弱い自分を隠して、そのくせ誰かに愛されたくて。どうすればいいのか分からないのに、それを認めることさえ出来なかった。多分、本当はあいつも私と同じで……同じように弱いから、安心できるんだと思う」
だからきっとこれは恋じゃなくて、
「こんなのを『好き』だなんて言ったら、世の女の人に失礼よ」
同病相哀れむ。傷をなめ合うだけのぬるま湯。それを表現するのに、「好き」という言葉は少し綺麗過ぎる。
「ごめんね、変なこと言って」
「いえ、そんな。でも甚夜君と同じなのは、確かにそうかもしれません」
「え?」
「自分の気持ちから必死に目を逸らそうとするところなんて、そっくりですから」
たおやかな笑みだった。初めて見る、母のような、柔らかな佇まい。歳はほとんど変わらないだろうに、おふうがやけに大人びて見えた。
そう言えば、彼女はあの男のことをどう思っているのだろう。気になって奈津は遠慮がちに声をかける。
「ねえ、おふうさ」
「ちょいとそこの御嬢ちゃんら、見ていかへん?」
遮るように発された言葉。びくりと体を震わせ慌てて声の方に視線を向ける。
ほおずきの植木が立ち並ぶすぐ隣、敷物を広げ小物が並べられた一角。胡坐をかいて手招きをする男がいた。
露天商なのだろう。ほおずき市の時期を狙って、小物を売りさばこうとしているようだ。
しかし男は小袖に黒の差袴(さしこ)、簡素な白の狩衣という、露天商にしては妙な格好だった。烏帽子を付けていれば神事に携わる神職である。
「あら、秋津さん?」
「おふうちゃん、こんにちは」
にこにこ顔を崩さないまま、子供にするような挨拶だった。
「今日はどうされたんですか?」
「見ての通り売り子さんや。よかったら買ってって」
どうやらおふうは露天商と面識があるらしい。なんとなく気が抜けて、肩を落しておふうに問う。耳元に口を寄せて聞いてみる。
「なに、この人?」
「去年くらいから、うちに出前を頼まれてる方です。京から来たらしいですけど」
「ああ……」
そう言えば以前店主がそんなことを言っていたような気がする。改めて見れば秋津と呼ばれた男はにこにこと、張り付いたような笑い顔をしている。なんとなく胡散臭い雰囲気を醸し出していた。
「秋津染吾郎(あきつ・そめごろう)や。よろしゅう、お嬢ちゃん」
「ふうん、随分大仰な名前なのね」
少しだけ奈津の目が冷ややかなものに変わった。
それもその筈、秋津染吾郎というのは明和から寛政(1750~1800年頃)にかけて活躍した金工の名だ。櫛や刀装具など金属製の小物を扱った職人で、簡素ながらも繊細な浮彫の技術は今に至って尚人気がある。染吾郎の櫛は須賀屋でも滅多に入らない一品だった。
そんな職人の名を使う、いかにも軽そうな男。懐疑の目を向けるなという方が難しい。
「名前は気にせんとって。そんなんより、見てってえな」
広げられた小物は多岐に渡る。根付や簪、櫛に手鏡。張子や煙管。とりとめのない品揃えだ。
「そやなぁ、お嬢ちゃんくらいの歳の頃なら、こんなんどない?」
そう言って染吾郎が手に取ったのは、内側に蒔絵が描かれた、一対の蛤の貝殻だった。
「合貝(あわせがい)?」
「お、よう知っとるね」
「これでも商家の娘だもの」
須賀屋は櫛や根付など、女性ものの小物を扱う店だ。こういったものも範疇に入っている。
「随分古い品みたいだけど、いい出来ね」
平安の頃から伝わる貴族の遊びに、貝合わせというものがある。
合わせものと呼ばれる遊びの一種で、貝殻の色合いや形の美しさ、珍しさを競ったり、貝を題材にした歌を詠んでその優劣を競い合うものだ。
この貝合わせから発展したのが貝覆い。二枚貝を二つに分け、一方を持ってもう一方を探し当てる。現代で言う神経衰弱に近い遊戯である。
合貝は貝覆いに使われる二枚貝のことを指す。
江戸に入ると内側を蒔絵や金箔で装飾された蛤(はまぐり)の貝殻が使用されるようになり、遊びのための小道具から小物の一種としても扱われた。
蛤などの二枚貝は、貝殻を二つに分けてもぴたりと嵌るのは元々対となっていたものしかない。だからこそ貝覆いが成立するのだが、このことから合貝は夫婦和合の象徴と考えられ、公家や大名家の嫁入り道具にもなっている。
庶民でも婚約の際に合貝の片方を相手に贈ることは珍しくない。
───この蛤の貝殻と同じように、お互いにとって代わるもののない、深い絆で結ばれた夫婦となりましょう。
合貝を贈ることは即ち、離れることのない愛の誓いだった。
「お嬢ちゃんも気になるお人くらいいてるやろ? これ贈って告白したら成功間違いなしや」
「……別に、そんな相手いないけど」
ぼそぼそと呟く奈津に、染吾郎はにこにこ笑いを崩さない。横からおふうが悪戯っぽい笑顔で言う。
「いえいえ、この娘は素直じゃないですから。本当はいるのに照れて言えないだけなんです」
「ちょ、おふうさん!?」
「あはは、かいらしい子ぉやなぁ。そんならこっちはどない?」
そう言って指し示したのは木彫りの、でっぷりとよく太った雀の根付(ねつけ)である。
「福良雀の根付や。この子もかいらしいやろ? 僕が作ってん」
福良雀は肥え太った雀、或いは寒気のために羽をふくらましている雀のことを言う。丸みを帯びた愛嬌のある福良雀は、根付の造形として人気が高かった。
「確かに可愛いわね。……染吾郎には程遠いけど」
「なかなか言うなぁ。でも、これはお嬢ちゃんにぴったりやと思うで?」
その意味が分からず小首を傾げれば、染吾郎は穏やかな様子で語り始める。
「清(中国)ではなぁ、雀は海ん中に入って蛤になるそうや」
「雀が蛤に?」
「そ。雀海中に入って蛤となる。まあ迷信やね。晩秋に雀が群れ成して海に来るんは、蛤が雀の化身やから。雀は海ん中入ると蛤に変わる、って話」
「だから?」
「お嬢ちゃんには蛤はまだ早いみたいやから、雀の方がお似合いやろ?」
「あんたこそ、言うじゃない……」
蛤の合貝よりも福良雀の根付がいい。
染吾郎の科白はつまり、お前は愛だの恋だのを謳うには子供過ぎると言ったようなものだ。
「別に馬鹿にした分けちゃうよ? 今は寒さに耐える福良雀でもええと思う」
そうして一息吐き、優しげに笑う。
「でも心は変わるもんや。お嬢ちゃんの想いも、いつか蛤になれるとええね」
福良雀の羽毛に包んだ想いが、いつか素直に合貝の愛を伝えられますように。
その言葉にほんの少しだけ心を揺さぶられた、それを自覚してしまった。何となく負けたような気になり、奈津は若干悔しそうな顔をしていた。
「……別に、そんなつもりないけど。でも確かに可愛いし、一つ貰うわ」
「三十五、いや三十文でええよ」
何となくもなにも、買おうと思ってしまった時点で完全な敗北だろう。財布を取り出し、ちょうどの銭を払う。
「まいど」
「ありがと」
福良雀の根付。手に乗る程度の大きさのそれを握り締める。
そうしてふと考える。私の雀は、いつか蛤になるのだろうか。らしくないことを思ってしまったと照れたように奈津は俯いた。多分、この変な男のせいだ。
「そや、これおまけに持ってって」
「え、いいわよ。悪いし」
「気にせんでええて」
そう言って押し付けられたのは金属製の簪(かんざし)。
小さなほととぎすをあしらった、簡素ではあるが品のある装飾だった。
「ってこれ、本当に染吾郎の簪じゃない」
名乗っているとはいえ、まさか本物を持ってくるとは思っておらず、奈津は思わず声を上げた。
「二束三文で手に入れたもんやから、気にせんとって。いらんなら捨ててまうよ?」
「捨てるって」
「だから、貰ったって」
殆ど押し付けるように簪を渡される。
二束三文だと言ってはいるが、それが嘘だということくらいは分かる。染吾郎の作は人気が高く、店に並べばそれなりの値が付く品だろう。それを簡単に捨てるなど、どうかしているとしか言い様がない。
正直これ程のものをただで貰うのは気が引ける。しかしこうまで言われては首を縦に振るしかない。
「それじゃあ……ありがと、でいいの?」
「ええてええて。お嬢ちゃんならその子も喜ぶと思うし」
子を慈しむような声色だった。胡散臭いが、物に愛情を持てる男ではあるのだろう。奈津は若干ながら染吾郎の評価を改めた。
「おふうちゃんもどない?」
「私は遠慮しておきます」
「あらら、意外と財布の紐固いなぁ」
大げさに項垂れて見せる。それが滑稽で二人はくすくすと笑った、
「じゃ、ありがと。おふうさん、そろそろ行く?」
「そうしましょうか。秋津さん、お暇させて頂きますね」
「うん、折角の市、楽しんできてな」
そうして再び再び市を見て回る。
炎天の下、ほおずきの橙が揺れていた。
◆
浅草は江戸でも随一の繁華街である。ここまで発展した背景には、浅草御蔵と呼ばれる江戸幕府最大の米蔵の存在があった。
この蔵は単なる米の保管場所ではなく、年貢米の収納や幕臣団への俸禄米が収められている。俸禄米とは旗本・御家人達の給料にあたるもので、これを管理出納する勘定奉行配下の蔵奉行をはじめ大勢の役人が敷地内や近隣に役宅を与えられ住んでいた。
浅草御蔵の西側にある町は江戸時代中期以降蔵前と呼ばれるようになり、多くの米問屋が立ち並び商いを営んでいる。
夜半、甚夜が訪れたのは蔵前の米問屋がある一角から少し離れた場所にある酒屋だった。
裏手には二つの蔵を有した規模の多い商家で、そのうちの一つに入り、ゆったりとし所作で抜刀し脇構えを取る。
埃っぽい匂い。蔵の中の米は殆ど運び出されており、十分な広さがある。これなら立ち回りも楽だ。
唸るような声が響く。
蔵に潜むは一匹の鬼。
「名は」
幼い。如何なる経緯で生まれたかは分からない。青白い肌、赤い目。憤怒の形相。しかしその鬼はまだ子供、甚夜の半分程度の背丈しかなかった。
『……伝助』
名を刻む。
同情はある。しかし興味はない。女だから、子供だから。斬ることを躊躇う理由にはなり得ない。
一太刀の下に斬り伏せる。それで終わり。白い蒸気が立ち昇り、後には何も残らなかった。ちくり。少しだけ残った胸の痛みには気付かないふりをした。
「ああ、ありがとうございます! おかげで漸く安心して眠れるというものです!」
「いや」
酒屋の主人は大げさに騒いでいるが、所詮下位の鬼。一振りで終わるような雑魚を相手取った程度でそこまで感謝されても正直困る。
そもそもあの鬼は悪さをしていた訳ではなく、ただ蔵にいただけ。そのような者を斬って捨てて飯の種にする。下衆の所業だ。表情には出さず静かに自嘲した。
「これは約束のものです」
布に巻かれた小判を受け取り、中身を確認する。二両。酒屋の規模は大きい。よく稼いでいるのか、随分と太っ腹だ。
「確かに」
「あっと、そうだ! うちの自慢の酒持っていかれませんか? いやあ、最近いいのが入りまして。まだ売りに出していない一品なんですよ」
「いえこれ以上貰う訳にはいきませんので」
「そうですか、残念ですねえ」
好意で言ってくれるのだろう。しかしこの男からはこれ以上貰いたくはない。表面上は丁寧な態度を崩さず柔らかく拒否する。
「ではこれで失礼します」
「いやいや、本当にありがとうございました、もしまた何かあればよろしくお願いします」
二度目はごめんだ。割りのいい仕事だったというのに、そう思ったのは何故だろう。甚夜自身にもよく分からなかった。
星以外に光のない夜。
酒屋から出てすぐ、女に声を掛けられた。
「あぁ。待ってたよ、浪人」
気だるげな雰囲気。だらしなく着崩した装い。不健康そうな白い肌と細い体、しかしゆるやかな動作は何処か艶がある。
「夜鷹」
投げ捨てるような微笑みで姿を現したのは、少し前に知り合った女だった。
「終わったのかい?」
「一応は」
こいつは夜が似合う女だと思う。白い肌は青白い夜の中いっそ病的なまでに映るのに、美しいとも感じられる。春を売る女特有の、男を誘うような仕草が実に自然で様になっていた。
「怪我もないみたいだね」
「なんだ、気をもんでいたのか」
「そりゃそうさ、あたしの売った情報で死なれちゃ寝覚めが悪い」
夜鷹というのは名前ではない。
辻遊女、即ち道端で男に声を掛け、体を売る女の総称だ。甚夜はこの女の本当の名前を知らない。その為便宜上夜鷹と呼んでいるに過ぎなかった。
───あたしは夜鷹の夜鷹。名前なんて、それで十分だろう?
初めて会った時、彼女自身がそう言った。
奈津と同じくらいの歳で体を売って生計を立てる女。彼女が一体どのような経緯でそうなったのかは分からないし、然程興味もない。
しかし夜鷹の女は遊女同士で横のつながりを持ち、様々な男と寝ることで普通なら知り得ない情報を得ている。情報屋としてはこの女は有能で、だからこそ甚夜は時折金を払い鬼の噂を探って貰っていた。
「受け取れ」
今回の依頼もこの女の情報から受けたもの。情報料として報酬の内一両を取り出し投げ渡す。
「こんなにいいのかい?」
「ああ」
「体を売ってる女に同情……って訳でもなさそうだねぇ。嫌なことでもあったって顔だ」
図星だった。あんな仕事で得た金だ。素直に喜ぶことは出来ず、だから半分を受け取ってもらいたかった。
夜鷹は仕事柄か心の機微に敏い。普段殆ど表情の変わらない甚夜の内心を読み取れる数少ない人物である。
「斬りたくないものを斬った。それだけだ」
「でも、斬らないなんて選べない?」
眉を顰め横目で見る。夜鷹はにたにたといやらしい笑みを浮かべでいる。
「くっくっ、あんたは分かり易いねぇ」
見透かしたような顔。しかし不愉快とは思わなかった。おふうや善二達とは形こそ違えど、ある程度は気を許しているからだろう。
「そんなに気分が悪いなら、どうだい。また一晩相手しようか?」
「いや、遠慮しよう」
「そりゃ残念。それは次の機会にするよ」
気だるげな様子は変わらぬまま、ゆったりと舞うように踵を返す。
「ああ、そういえば」
数歩進んでから、振り返ることなく夜鷹は言った。
「最近鬼を退治する男がいるって噂があるんだ。ああ、あんたのことじゃないよ。なんでも、式神を操る陰陽師って話さ」
「陰陽師?」
「犬だの鳥だのを操って鬼を討つらしいよ。所詮寝物語、何処までほんとかは知らないけどね」
意地悪そうに口元を釣り上げる。
「じゃあね、浪人。せいぜい商売敵に仕事を奪われないようにね」
そうして夜鷹は夜の町に消えていった。
置いて行った言葉を反芻する。鬼を退治する男。確かに少し気になる話だ。得られた情報を胸に留め、甚夜は帰路に付く。夏の夜は蒸し暑い。不快な空気は纏わりついたままだった。
◆
翌日、七月十日。
功徳日ではあるが、甚夜の向かう先は当然浅草寺ではなく喜兵衛である。昨日はそれなりに稼げたが、同時に気分が悪くなった。蕎麦でも食べて少し心を落ち着けたかった。
「旦那っ!?」
しかし暖簾を潜った瞬間、店主の慌てた声が飛んでくる。
「甚夜君! お、お奈津さんが!」
おふうも随分と狼狽した様子である。
「何かあったのか」
二人の様子に眉を顰めるも、店内に入れば何事もなく座っている奈津の姿を見つける。見慣れない簪を付けている以外は至って普通の様子だ。
なんだ、普通にいるではないか。何をそんなに慌てているのか。そんなことを思いながら取り敢えず近付き声を掛ける。
「奈津」
すると奈津の視線がこちらへ向いた。しかしここでようやく様子がおかしいと気付く。熱にでも浮かされたようにとろんとした目。顔も多少上気している。
「どうした」
すっと手を伸ばせば、奈津もまた手を伸ばす。なにをするかと思えば甚夜の手を取り、その甲に頬ずりをしてきた。
「へ?」
「え?」
親娘は何が起こっているのか分からず間抜けな声を上げ、予想もしない反応に甚夜は固まった。何が起こったのか、一瞬本気で理解できなかった。
甚夜が呆けているのをいいことに奈津は体を寄せ、蕩けるような表情で胸元にしな垂れかかる。
そうして聞き覚えのある声、しかし聴き慣れぬ口調で甘く囁く。
「お逢いしとうございました、お兄様……」
その言葉に、多分立ち眩みを起こした。