人が知ることの出来る範囲には限りがある。
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2009年 5月
兵庫県立戻川高校の恒例行事として、毎年五月に芸術鑑賞会がある。
市の文化ホールに一学年が全員行き演劇を鑑賞するというもので、正直言って私は全く興味ないけど、授業が潰れるので喜んでいる人たちも多い。
「なんか、ちょっとわくわくするねー」
生徒は全員着席し、ホールの照明が落とされた。開演数分前というところで声を掛けてきたのは中学の頃からの友達、梓屋薫(あずさや・かおる)だ。
小柄で顔の輪郭も少し丸い薫は年齢よりも幼く見える。後頭部の低い位置で髪を束ねただけの簡単な髪形。メイクもほとんどしないから余計に幼い印象があった。
「そう? えっと、何の劇やるんだったっけ」
「みやかちゃん、事前のプリント見てないの?」
「うん。あんまり興味なかったし」
昨日は夜更かしをしてしまったし、正直眠い。途中で寝てしまわないか心配だ。
「もう……」
仕方がないなぁ、とでも言いたげに薫は小さく笑う。
私は素っ気ないとよく言われる。けど薫はもう三年くらいの付き合いになるし、いい加減私の態度にも慣れてきたようで、気にしていない様子だった。
「『雨夜鷹』だよ。夜鷹と武士の恋を描いたお話。ヒロインの夜鷹は実在の人物で、その人の手記をもとに作った劇なんだって」
「へえ」
夜鷹、というのは中学の頃歴史の授業でやった。
吉原の遊女よりも遥かに格の低い、道端で客を取る売春婦のことだ。でも、だとしたら少し変だと思う。
「江戸時代は識字率が低くて、字を書ける女の人って結構少なかったって授業でやったけど。なんで売春婦が書けるの?」
「ば、売春婦って」
あけすけな物言いに薫は頬を染めて苦笑いしている。だってそれ以外の表現がないんだからしょうがない。
「えーと、遊女の中には元々武家や商家の娘だったけど、親が死んだり家が取り潰されたりでそういうことをしてた人も多いんだって。このヒロインもそうなんじゃないかな? 多分」
「ふーん」
「あ、始まるみたいだよ」
きりの良い所で開演のブザーが鳴り響き、ざわざわとした声も段々静かになる。
「お待たせしました。ただいまより劇団クカミに寄ります、舞台『雨夜鷹』を開演いたします」
まばらな拍手がホールを満たす。
そうして、ゆっくりと赤い緞帳が上がった。
鬼人幻燈抄 余談『雨夜鷹』
雨が降っていた。
「ふぅ……」
三浦直次は珍しく酒を呑んだ帰りで、若干頬が赤くなっている。
とある事件を切欠に知り合った浪人と商家の手代、三人で浅草の煮売り酒屋(居酒屋)まで繰り出した。最初はのんびりと酌み交わしていたのだが、浪人の方は底無しで、つられて結構な量を呑んでしまった。
酔っぱらって歩けないというほどではないが、足元は少し危うい。そのうちに雨まで降り出すものだから、適当な商家の軒先を借り雨宿りしている最中である。
「止まないな……」
季節は春。冬の寒さも姿を消したが、夜はやはりそれなりに冷える。
ぼやきながら空を見上げる。雨はまだ止みそうになかった。
商家の手代は「吉原にでも」と息巻いていた。適当な女でも買って一夜を過ごすつもりらしい。非難はしない。しかし直次自身はそういうことは苦手だった。
浪人は「仕事を探す」と言って姿を消した。定職を探す、という意味ではない。彼の生業は鬼を討つこと。大方呑み直しがてら怪異の噂を探しに行ったのだろう。
直次は明日も城へ行かねばならない。その為真っ直ぐに家へ帰ろうと思ったのだが、急な雨で足止めを食ってしまった。これなら浪人の方へ着いて行き、もう少し呑んでいた方が良かったかもしれない。
「まったく、運が無い」
「ほんどだねぇ、濡れちまったよ」
零れ落ちた言葉を拾い上げるように答えが返ってくる。
驚きに目を見開けば雨の中に人影が映る。ゆっくりとした足取りで軒先へ訪れたのは、粗末な着物に手拭で顔を隠した女だった。着物は随分と濡れている。彼女も雨にやられたらしい。
「おや、お武家様も雨宿りかい?」
出で立ちを見れば武士だと分かるだろうに、女は砕けた態度を直そうともしない。もっとも直次自身畏まられるのが苦手なため、敢えて指摘はしなかった。
「ええ、降られてしまいました」
「あたしもだよ。今日はもう客を取れそうもないねぇ」
その物言いに改めて女を見る。
「なんだい、お武家様。あたしを買ってくれるのかい?」
ああ、成程。彼女は夜鷹か。
「あ、いえ、私は、そういうのは」
女を買ったことなど今まで一度もない。元々が生真面目な男だ。色事には慣れていなかった。
「あらま、振られてしまいました」
おどけたように女は笑った。
そうして濡れてしまった手拭を取り払う。今迄は隠れて見えていなかった女の顔に、直次は一瞬戸惑った。
「いい歳をして、随分初心だねぇ。それとも夜鷹なんか相手に出来ないって?」
夜鷹という割には随分と年若い。知り合いの商家の娘とさほど変わらぬように見える。
夜鷹の多くは年増や病気持ちが占める。真面には売れぬ容貌をしているからこそ、顔を隠し薄暗い路地で男を誘う。花代(料金)も僅か二十四文の微々たるもので、まともな遊女を買えない貧乏人相手の最下級の街娼だ。
だというのに手拭の下に隠れていたのは夜鷹とは思えぬ容姿だ。
大層な美人、という訳ではない。しかしまだ幼さを残した容貌と化粧の必要が無いくらいに白い肌が印象的な、儚げな娘だった。
「若い女が体を売ってるのがそんなに珍しいかい」
不躾な視線を送り続ける直次に、からかうような調子で女は言った。
そこでようやく自分の無礼に気付き、反射的に頭を下げる。
「あ、いえ……済みません。他意があった訳ではないのです。ただ、少し意外で」
「……驚いた。売女に頭を下げるお武家様なんて初めて見たよ」
今度は女の方が面を食らったようだ。武士と言えば横柄なものだとでも思っていたようで、直次の素直すぎる態度に若干の困惑を見せた。
「変な人だねぇ」
くすくすと笑う。顔を上げれば笑顔が映る。表情は実に無邪気で、とてもではないが体を売る女のものではない。
「そうです、か? 真面目だとか固いとはよく言われますが」
「誰にでも真面目で固いのは変だと思うね」
「そういうものですか」
そこで言葉は途切れ、しばらくの間ただ雨音だけが弾んでいた。
沈黙を重いとは思わなかった。女は明け透けな物言いをするのに、静かな佇まいは夜に溶け込むような自然さだ。そのせいだろう、雨音を聞きながら過ごす夜は心地よかった。
「本当に止みそうもないね」
長く短い時間が流れ、しかしいつまでも雨足は弱くならない。いい加減痺れを切らしたのか、女は灰色の雲を眺めながら、軽やかな足取りで軒先から離れる。
「いけません、濡れてします」
「もう濡れてるんだから今更だよ。それじゃ、お武家様」
「あ、あの!」
まだ雨の残る夜、女は静かに振り返る。
咄嗟に呼び止めてしまったが、一体何のつもりだったのだろう。二の句を告げられない直次を、女は不思議そうな顔で見つめている。
「あの、ですね。ああ、いや。そう、名前を!」
女の視線に顔を赤くして、誤魔化すように、思い付いた言葉を考えもせずに口走る。
「私は、三浦直次と申します。よければお名前を」
「夜鷹」
直次の問いかけに女は静かに笑った。
青白い肌。静かな雨の中。濡れそぼる闇色の髪。
「あたしは夜鷹の夜鷹。名前なんて、それで十分だろう?」
夜に溶ける女の笑みは浮世のものではないような気がして。
なのに美しいと思った。
女性に見惚れるなど、これが初めてだった。
……見惚れたままでいれば、雨の夜の小さな出会いで終わったのかもしれない。
ただ直次は気恥ずかしさに、ほんの少しだけ夜鷹から目を逸らしてしまった。
だから気付く。
「ん、あれは……」
霧雨の中、人影が一つ。
おそらくは男。雨に邪魔されて黒い塊にしか見えない。ただその輪郭は男のように思えた。
ただ何処かで見たことのある姿。いつだったろう。何時から会っていなかったか。あれは、あの人影は。
「兄、上……?」
そうだ、人影は黒い塊にしか見えないのに、何故かいなくなった兄に似ているような気がした。
「あぁ……あの人は」
夜鷹は吐息を漏らす。雨に打たれながら、気怠そうに、しかし決して影から目を逸らさない。
「貴女は、あの男を知っているのですか?」
雨の中の女。光のない、墨染めの目。兄に似た男を見詰める夜鷹は、遠い景色を眺めるようで、どこか諦観さえ感じさせる色をしていた。
答えは返ってこない。
ただ雨音だけが辺りを包む。
沈黙の空白に入り込むような激しい雨。耳をつんざくのに静かだと思える。春の雨に晒されて、冷たい筈なのに夜鷹は身震いさえしなかった。
そうして自身に言い聞かせるように彼女は言う。
「昔の男、だよ」
面倒くさそうな、投げ捨てるような言い方だった。
安政二年(1855年)。
花を散らせるような、激しい雨の夜のことである。
◆
蕎麦屋『喜兵衛』。
直次が暖簾を潜れば、いつも通りの笑顔で看板娘のおふうが迎え入れてくれた。
「あら、いらっしゃいませ。三浦様」
「どうも」
しかしどうにも直次には活気が無い。返事もそこそこに、疲れた表情ででのったりと歩いている。
昨夜、夜鷹はあの人影を無視して夜の町に消え、直次も特に何かするでもなく帰宅した。そうして屋敷に戻り床へ就いたはいいが、兄に似た昔の男が、何より夜鷹自身が気になってあまり眠れなかったのだ。
「ああ、甚殿」
店内を見回せば、やはりというか、相変わらず甚夜の姿があった。本当にこの男は毎日喜兵衛へ訪れる。一日一回は蕎麦を食べているのではないだろうか。
軽く一礼して、甚夜の前に座る。取り敢えずかけ蕎麦を注文し、その後はむっつりと黙り込んでしまう。
「どうした」
「え? あ、いえ、なんでも」
曖昧な笑みで返す。
これで本人は隠せているつもりなのだ。呆れたように甚夜は溜息を吐いた。馬鹿にしたのではない。直次のこういう嘘の付けないところは甚夜にとって好ましい所であった。
「また悩み事ですかい? 直次様もよくよく悩むのが好きな方ですねぇ。あいよ、かけ一丁」
「はーい」
出来上がった蕎麦が運ばれてくる。それに箸をつけることなく、はにかんだような笑みを浮かべた。
「はは、面目ない」
「何かあるんなら聞きますよ?」
「いえ、本当に何でもありませんよ」
「直次様の何でもないは信用できませんて。旦那も何か言ってやってくだせえ」
そう言われても正直なところ然程興味が無い。
鬼に纏わる厄介事ならば放っておいてもこちらに話を持ってくる。それをしないとうことは、本当にごく個人的な悩みなのだろう。ならば土足で踏み入るのも気が引けた。
「何でもないと言っているならそれでいいだろう」
「いや、ですがね」
食い下がる店主に直次は穏やかな調子で言った。
「本当に大丈夫ですから。もし何かあればちゃんと頼らせていただきますので」
言葉尻こそ柔らかいが頑とした否定だった。
しかしその堂々とした態度に少しは安心したのか店主は肩を竦めた。
「ったく、直次様は意外と頑固ですね。誰に似たんだか」
「お父さん、いけませんよ」
「おっと」
油断からつい零れてしまった子供扱いするような物言いをおふうが嗜める。それが仲のいい親子の姿に見えたからだろう、直次は微かに笑みを浮かべていた。
「そう言えば、甚殿は昨日あれから?」
確か昨日、帰り際に仕事を探しに行くと言っていた。どうなったかが気になった。
「ああ、少し面白い話を聞いた」
「やはり鬼ですか」
「おそらくは、な」
面白いといってはいるが、この男は厄介な鬼を相手取る時こそ面白いと笑って見せる。おそらく今回も相当な厄介事を背負い込んだのだろう。
「取り敢えず今夜、もう一度浅草に行くつもりだ」
今夜。
その一言に直次の思考は止まった。
或いは、今夜も彼女はあの辺りにいるだろうか。
そんなことを思った。