「おとっつあん、もう少しお酒控えた方がいいんじゃ」
「うるせえなあ。いいじゃねえか、こんぐらい」
翌日、黄昏が夜に変わる頃甚夜は長屋を出た。
三軒隣の親娘の会話が聞こえる。相変わらず父親の方は酒が好きなようで、娘に窘められても止めようとはしない。それどころか体を気遣っての言葉さえ鬱陶しそうに聞き流していた。一杯は人酒を飲む、二杯は酒酒を飲む、三杯は酒人を飲むという。程々に楽しめばいいものを、量に計りを付けられないのが酒である。
親娘の言い争いを通り過ぎ、夜の喧騒に満ちた大通りを抜け、神田川が隅田川へ流入する落口に架けられた柳橋へと辿り着く。目を凝らせば橋の中腹辺りに人影を見る。相手もこちらを見つけたようで、気だるげに笑って見せた。
「ああ、浪人」
夜鷹。奈津と同じ年頃でありながら春を売る女。
彼女は相も変わらず夜鷹として在り続ける。直次はそれを快く思っていないようだが、無理に止めることも出来ず悔しそうな顔をしていた。だからという訳でもないが、近頃は夜鷹から頻繁に情報を買っている。払う銭に色が付いたのは気のせいだろう。
「随分と寒くなったねぇ」
「仕事を探している。なにかあるか」
「おやおや、世間話に付き合ってくれてもいいじゃないか」
小さな溜息。普段でも白い肌は、寒さのせいかいつもより更に青白く見えた。
「む、済まん」
「別にいいさ。仕事だろう? いくらでもあるよ」
ゆるやかに笑う。以前と変わらない筈なのに、立ち振る舞いには余裕があるように思えた。
「なんか最近鬼の噂が多くてね。家で寝ていた病気の息子が鬼にとってかわられた。橋の下に数匹の鬼が屯っていた。喋る刀があった。後は……金の髪をした美しい鬼女が夜の町を練り歩いていた。所詮寝物語、どれだけ信用できるかは分からない。でも流石に多すぎると思わないかい?」
甚夜も感じていたことだった。先日の武家屋敷でもそうだったが、一度に十を超える鬼が現れるなど滅多になかった。
「まあ、それだけ不安なのかもしれないけどね。あんたも聞いたことくらいあるだろ、浦賀の話」
「ああ……」
今から二年前、嘉永六年(1853年)のことである。
アメリカのマシュー・ペリーが率いる四隻の黒船が浦賀に来航する。蒸気船の存在は諸外国の国力を知らしめる結果となり、江戸の民衆に大きな衝撃を与えた、またこの時アメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡され、翌年には日米和親条約締結へと至る。長年鎖国政策を強いてきた幕府が、アメリカに開国を迫られ大人しく従う姿は多くの者にとって頼りなく映ったことだろう。
「お上がそんななんだ、町人が不安になるのも当然じゃないか」
「そして、人心が乱れれば魔は跋扈する、か」
少しずつ徳川の治世は揺らぎ、いまや日の本は混迷の時代へと差し掛かろうとしている。或いは渦巻く疑念と不安が鬼を江戸へと誘ったのかもしれない。
「そういうことだろうね。最近聞く話といったらお上への不満か鬼の噂、後は酒くらいのもんさ」
「酒?」
「ん? あぁ、最近流行の酒があってね。随分高いみたいだけどそれを買ったって自慢げに話す男もいたよ。確か、“ゆきのなごり”とかいう」
ぴくりと眉が吊り上る。
まただ。
“ゆきのなごり”。酒屋での盛況を見たのだ、確かにあの酒は巷を賑わせているのだろう。しかし実際に呑んだ今、あれ程までに大衆が求めるようなものとは思えなくなってしまった。
だと言うのに“ゆきのなごり”は事実として江戸の人々に受け入れられている。
分からない。分からないこそ、その酒の存在は奇妙に思えた。
「味については何か言っていなかったか」
「味、かい? そうだねぇ、天にも昇る極上の酒だ、とは言ってたけど」
あの薄い酒をか。言おうとして、止めた。薄いと言ったのは己だけだった。周りの者は水のような酒を辛いと言っていた。その違和感を思い出したから、言葉を続けられなかった。
甚夜にとってあの酒は薄かった。善二には辛くて飲めなかった。直次は美味しいとは思えないと言っていた。須賀屋の店主は毎晩旨い旨いと呑んでいるらしい。
そして夜鷹の話によれば、極上の酒と言う者もいる。
あれだけの人気を誇る酒だ、名酒と感じる者は案外と多いのかもしれない。
それがおかしい。酒の好みはあるだろうが、嗜好云々でここまで味が変わろう筈もない。
“ゆきのなごり”はまるで呑む者によって味を変えているようだ。
「夜鷹、頼みたいことがある」
あの酒には何かがある。思った時には口が動いていた。
「鬼の噂と並行して“ゆきのなごり”について調べて欲しい。味の良し悪し、売られている店、そもそもどこで作られているのか。何でもいい」
「なんかあるのかい?」
「私にも分からん。何も無ければそれでいい」
「ま、あんたには世話になってるしね。それくらいなら構わないよ」
鬼が関わっているのかどうかも分からない。ただあの酒が気になった。素朴で懐かしい、しかしあまりにも薄い酒。こうまで引っかかるのは何故だろう。理由は甚夜自身にも理解できなかった。
「助かる。だが無茶はしてくれるな。お前に何かあったら直次に恨まれる」
「ははっ、あんたでも冗談を言うんだね」
冗談のつもりでもなかったのだが、夜鷹は軽く笑い飛ばす。しかし目には濡れた情の色があって、彼女もまんざらではないのだと感じられた。
そうして一頻り笑った後、不意に夜鷹は空を見上げた。
「ああ、どうりで寒い訳だよ」
黒の空からひらりひとひら。
静かに揺れる雪の花。ゆらりゆらりと雪の欠片が降り始めていた。
「雪か」
「もうすっかり冬だね。ああと、仕事の話、途中になったけど、どうする?」
興が削がれた。曇ったままの胸中で戦いに臨んでも良い結果は得られぬだろう。首を横に振って否定の意を示す。
「そうかい? ならこれで。じゃあね、浪人。」
挨拶もそこそこに夜の闇へと消えていく。辺りを見回せど人影はない。匂いのない夜に少しだけ足を止め、誘われるように空を仰ぐ。
今も、雪が、止むことはなく。
風の冷たさに甚夜は小さく肩を震わせた。
◆
数日後。
そろそろ出かけようと思っていた時に訪ねてきた、突然の来客。その意外さに甚夜は面食らった。
「……奈津?」
玄関にいる見慣れた女。しかし住処にまで来るのは初めてで、一瞬思考が止まってしまう。
貧乏長屋には似合わぬ品のいい赤の着物を纏った奈津は、きょろきょろと周囲を見回している。彼女はそれなりに裕福な商家の娘、長屋住まいが珍しいのだろう。
とは言え甚夜の住み家には物なぞ殆どない。そもそも寝に帰るだけの場所だ。生活感のない、無味乾燥な部屋だった。
「おはよ、って言ってももう昼だけど」
「ん、ああ。よく此処が分かったな」
「おふうさんに教えて貰ったの。あんた、こんな所に住んでたのね」
深川は喜兵衛からそう遠くない場所に長屋はある。教えてくれてもいいだろうに、と奈津の視線には軽い非難の色があった。
「お父さん、もういい加減にしてよ!」
「うるせえ! とっとと酒買って来いっつってんだろうが!」
急に聞こえてきた怒号に奈津はびくりと体を震わせる。
「な、なに? 今の」
「三軒隣の親娘だな。また昼間から酒を呑んでいるようだ」
相変わらずと言えば相変わらずか。しかし今日の喧嘩は随分と激しいようだ。怒鳴り合いは今も続いており、奈津は怯えた容姿で身を縮こまらせていた。
「で、何の用だ? まさか興味本位で来た訳でもあるまい」
甚夜の声にはっとなり、佇まいを改める。
「そ、そうね。実は、ちょっと頼みたいことがあるんだけど」
ばつの悪い表情で語る奈津。頼りなく潤む瞳は、まだ幼かった頃の彼女を思い起こさせた。
「善二が?」
取り敢えず部屋に入れ詳しい話を聞く。最中奈津はずっと俯いたままで、目も合わせてくれなかった。
「ええ。最近呑み歩いてばかりでまともに仕事もしないのよ。今日も日本橋の煮売り酒屋に入り浸って……」
番頭となった矢先にこれである。流石にそろそろ見過ごせないと店主である重蔵も言い出し、降格も十分に在り得るところまで来てしまった。そうなる前に善二を説得したいというのが奈津の考えだった。
「それで? 何故私が呼ばれる」
「一応私も女だしね。呑み屋に一人で乗り込むのは正直怖いもの。その点、あんたが護衛ならちんぴらの百や二百くらい平気でしょ?」
事実ではある。誰にでも勝てると思うほど自惚れてはいないが、そこいらの相手に後れを取るつもりもない。
「お願い、なんならお金も払うから」
頭を下げる奈津。甚夜が戦うのは<力>を得る為。その観点から言えば彼女の依頼を受け入れる意味はない。
「金など要らん。少しくらいは付き合おう」
だが真摯な懇願を斬り捨てられるほど冷たくも為れない。付き合いも長いのだ、この程度はいいだろう。甚夜はゆっくりと首を縦に振った。
「……ありがと」
感謝の言葉と共に見せてくれた素直な笑顔。
報酬の代わりにしては上等すぎる。甚夜もまた落すように笑った。
◆
訪れた日本橋の煮売り酒屋はそれなりに広く、昼間だというのに二十人近い客が入っていた。充満した酒の香に息がつまったのか、奈津は少し顔を歪ませる。口元を隠しながら店内を見回し、目的の人物を見つけ奥へと入っていく。
「おおぅ、御嬢さぁん。いらっしゃい! こんな場所に何かごよぉですかぁ」
善二の大声が店に響いた。悪びれた様子もなく杯を傾ける。随分と呑んでいるようで、卓の上には空の徳利がいくつも転がっていた。“ゆきのなごり”。徳利にはそう記されていた。
「なにか、じゃないでしょ! 店を放り出してこんな所でお酒呑んで!」
「いいじゃないですか、うるせえなぁ。きゃんきゃん犬みたいに喚かないで貰えますかね?」
「な……」
絶句する。善二との付き合いは奈津が一番長く、彼の気性もよく知っている。だからこそ彼に罵倒されることなど考えてもいなかった。
「そんなだから行き遅れるんですよ、御嬢さん。ま、あんたみたいな可愛げのない女欲しがる男なんざいないですけどね」
怒りか、それとも悲哀か。肩を震わせる奈津を尻目に善二は杯を傾ける。旨そうに呑むものだ。数日前は辛くて飲めたものではないないと言っていた筈だった。
「善二、あんた」
「あ? まだいたんですか鬱陶しいなぁ。さっさと消えてくださいよ」
「それくらいにしておけ」
暴言を見過ごせず話に割って入る。善二の目には淀むような憎悪、慣れ親しんだ感情が見て取れる。
「邪魔すんなよ甚夜」
「出来んな。酔った上での発言にしても行き過ぎだろう」
「はん、浪人風情がすかしやがって。俺はな、前からてめえが気に入らなかったんだ」
のっそりと立ち上がり、甚夜を睨み付ける。酔った勢いなどではない、目には明確な憎悪が宿っていた。
「ちょ、善二!? やめなさい!」
制止の言葉など聞いてはいない、手は今まで呑んでいた“ゆきのなごり”、空になった大きめの徳利に伸ばされる。眼光は更に厳しく、視線だけで殺そうとしているようだ。
「呑み過ぎだな」
散々鬼を相手取ってきた、今更その程度で怯む訳もない。甚夜は呆れたように溜息を吐き、それが合図になった。
「うるせえ、糞が!」
馬鹿にされたとでも思ったのか、善二は腕を振り上げ徳利で殴り掛かる。
だが遅い。無防備な突進に合わせ僅かに体をずらし、一歩を進むと同時に腹へ掌底を叩き込む。
「おごぉ……!」
手加減したとしても鍛えていない善二の腹は衝撃に耐えられず、膝から崩れるようにその場へ倒れ込んだ。口からは大量の吐瀉物。びくびくと体を痙攣させながら、今まで呑んでいただろう酒を吐き出していた。
「酒は天下の美禄。量に計りは無粋の極みだが、乱に及ぶは無様だろう。しっかりと吐き出しておけ」
気を失った善二はぴくりとも動かない。呼吸の音は聞こえるので心配はないが、いきなりの流れに奈津は慌てふためいていた。
「ちょ、ちょっと甚夜! あんた、それは流石にやりすぎ」
「そうでもないと思うが。あれは吐いておいた方がいい」
「え?」
意味が分からず言葉は止まる。いや、止まった本当の理由は店内の空気の変化だったのかもしれない。
「おいおい、やってくれるじゃねぇか」
「許せねえなぁ」
酒を呑んでいた男が次々に立ち上がり、甚夜達を追い詰めるように取り囲んでいく。異様な雰囲気に奈津は怯え、甚夜の背中に隠れた。
「ちょ、ちょっと、なによこれ」
「呑み仲間が殴られ激昂した、という訳でもなさそうだ」
目には先程の善二と同じく、明確な憎悪がある。殺意と呼べるほどにどろりとした負の感情だ。
卓に置かれた酒を見る。“ゆきのなごり”、“ゆきのなごり”、“ゆきのなごり”。
この店では誰もが“ゆきのなごり”を呑んでいた。だから確信する。あれは、まともな酒ではない。
「じ、甚夜」
「目を瞑っておけ。すぐ終わる」
刀は抜かぬ。斬るつもりは端からなく、だが怪我くらいは覚悟して貰おう。
波のように襲い掛かる男達。所詮は素人、速度も技もない。一歩を進み距離を潰し、一つ右手で顎を打ち抜く。右足を軸に体を回し手刀で二つ、体を落とし当身で三つ。刹那の内に三人打ちのめしてみせる。
しかし相手に動揺はない。血走った目で次々と襲い掛かる。殴り蹴り投げ飛ばす。敵わぬと分からぬ訳でもあるまいに、男達は決して止まらない。それは勇敢でも蛮勇でもなく、発狂と言った方が正しい。明らかに男達は正気を失っていた。
「てめぇ!」
数人の男が徳利やら皿やらを投げ出した。馬鹿らしい。人相手ならばともかくこの身は鬼。そんなもの当たっても怪我さえしない。
とは言え奈津はそうもいかないだろう。甚夜は庇うように彼女の前に立つ。
全て叩き落とす。腰を落し、手は夜来に掛かり、抜刀しようとしたところで彼の動きは止まった。
「行きぃ、“かみつばめ”」
突如現れた一匹の燕が中空の陶器をすべて叩き割って見せたからだ。
有難い。刀から手を離し、地を這うように駆け出す。男達が次のものを投げるより早く間合いを詰め、一気に叩き伏せる。総勢二十一人、片付けるのに然程の時間はかからなかった。
「善二、大丈夫?」
善二はまだ気を失っている。あれだけ暴言を吐かれてもやはり彼が心配のようで、奈津は傍で声をかけていた。
「取り敢えず息はしている。心配はいらん」
それに酒も吐かせた。起きた時は多少はましになっているだろう。
「うん……そうね。ありがと」
まだ心配ではあるのだろうが、それでも気丈に振る舞う。こういうところは幼いころから変わっていなかった。
「それにしても……ほんと、あんた無茶苦茶よね」
店内を見回せば伏したままの男達。
二十人以上相手にしておきながら、甚夜は息も乱していない。強い強いとは思っていたが、ほとほとこの男は人間離れしている。ちんぴらの百や二百は平気。自分で言っておいてなんだが、見せつけられた光景に奈津は唖然としていた。
「これくらいは問題ない。助けもあったからな」
「助け?」
不思議に思い声をあげると、背後から答えるように誰かが言った。
「別に、助けんでもよかったとは思うけどね」
驚きに振り返れば玄関に人影。狩衣を纏った、二十後半の男。彼とは奈津も面識があった。
「手間は省けた。礼を言おう」
「あはは、相変わらずやね君は」
軽薄な笑みが店内に響く。張り付いたような表情。以前よりも齢は重ねているが、印象は変わらない。何処か胡散臭い男だ。
「久しぶりだな」
「うん、お久しゅう。元気しとった?」
彼は数年前に出会った“付喪神使い”。
名を三代目秋津染吾郎という。