「んぁあ……あ?」
ずくん、と響く腹部の痛みに善二は目を覚ます。
吐き気も襲ってきたが何故かすきっ腹で、吐くものはなく嘔吐いただけで終わった。
うっすらと見えてきた辺りの景色。見回して違和感に戸惑う。見慣れた場所。其処は須賀屋の一室、小僧達の共同の寝床となる広間だった。
「あれ、俺何でこんなとこに……」
窓から差し込む橙色の光。夕方頃だろうか、赤く染まった広間がどこか寂しげに映る。誰もいない。自分はどうして此処で寝ていたのだろうか。善二はぶつぶつと呟きながら、一つずつ指折りを数えるように記憶を辿っていく。
「確か、酒呑んでたような」
そうだ。浴びるように酒を呑んだ。天にも昇る極上の酒だった。呑んで呑んで、意識がぼやけて、その中で。
───うるせえなぁ。きゃんきゃん犬みたいに喚かないで貰えますかね?
彼女を、傷付ける言葉をぶつけたような気がする。
「あ……」
そうだ。
日本橋の煮売り酒屋。心配して訪ねてくれた奈津に、ひどいことを言った。その上友人に殴りかかって、返り討ちにあって気を失ったのだ。
無様な行いが次々と思い出される。情けない。恥ずかしい。湧き上がる感情に善二は歯軋りをした。なんてことをしてしまったのだろう。
「あ、善二。起きたの?」
恥辱に顔を歪め力なく項垂れる。時期を計ったように現れたのは、自分が傷つけてしまった娘だった。
「お、御嬢さん!」
驚いて上体を起こす。ずきん。腹筋を使ったせいか腹がまた痛んだ。
「あつっ」
「無理に起きなくてもいいのに」
「あ、いえ、ですがね」
思わずどもってしまう。広間に入って来た奈津はあまりにも普段通り。少なくとも善二には。普段と変わらぬ彼女に見えた。
「まだ痛む?」
傍に座り、気遣うように奈津が言う。何故彼女は。酷いことを言ってしまった。なのに、なんで。善二に彼女の心が分からず、ただ困惑していた。
「え? あ、ああ? はい、ちょっとばかり」
「あいつ、もう少しくらい手加減すればいいのに」
「あー、でも手加減苦手って言ってましたし」
「そう言えばそうね。まったく、融通が利かないんだから」
くすくす笑う奈津の表情は自然で、どうすればいいのか分からなくなってしまう。
「……すいません」
言えたのはそんな陳腐な謝罪。
「すいません。本当に、すいませんでした」
もっと気の利いたことを言いたいのに、零れてくるのは拙い言葉だけ。情けなくて、でも謝ることを止められない。
「謝らないでいいわよ、別に」
返ってきたのは穏やかな声だった。
俯いたまま謝り続ける善二に、優しく、本当に優しく奈津は言葉をかけた。
「でもそれが全てじゃない。あんたが言ったんでしょ?」
それは確かに、いつか彼自身が言ったことで。
「そりゃあ、少しは傷付いたわよ? でもあれが善二の本心でも、きっとそれが全てじゃない。あんたがちゃんと私のことを大切にしてくれてるって知ってるから」
「御嬢さん……」
「だからあんたもそんなに気にしないの。お酒の席での言葉を真に受ける程子供じゃないわよ」
強がりなのか、本当にそう思ってくれているのか。
善二には判別がつかず、しかし思う。あの生意気だった娘が、いつのまにかこんなにも優しく笑えるようになった。感慨深いようで、ほんの少し寂しいような。複雑な気分だった。
「でも、すみません。あんときの俺は真面じゃなかった」
「確かにね。いきなり殴りかかってくるんだもの」
「それは……」
何故だったのだろう。
きつい筈だった酒。呑んでるうちに慣れたのか、旨く感じるようになった。
呑んで呑んで、どれだけ飲んでも呑み足りなくて。旨いと思うのに満たされなくて、只管に盃を空けた。
心地よい気分だった。なのに奈津と話している時、妙に苛立っていた。煩わしくて、鬱陶しくて、とっとと消えろと考えていた。
傷付けるとすっとした。それくらい彼女のことが憎々しく感じられた。
しかし甚夜が出てきた瞬間、苛立ち程度では収まらなくなってしまった。死ね。殺してしまえ。憎しみが後から後から湧き出てきた。
そうだ、善二はあの時甚夜を『憎んで』いたのだ。
その理由が分からない。酒に酔った勢いでは説明がつかない。気が立っていたのではなく、明確な憎しみがあった。それこそ殺してしまってもいいと思うくらい、あの男が 憎かった。
それが何故か、自分のことだというのに、善二には分からなかった。
「起きたのか」
いくら考えても答えは出ない。思索に没頭していたが、重々しい声に心は無理矢理現実へと引き戻された。
間違いなく今一番合いたくない人の声だった。ゆっくりと顔を上げ、声の主を確認する。
「善二。大層な醜態だったそうだな」
須賀屋店主、重蔵。その眼は冬の空気よりも更に冷たい。凍り付く、と言うのはこういう心地か。見下すような、汚物を眺めるような、悪意に満ちた視線だった。
「だ、旦那様……」
口が渇く。喉が痛い。冬の空気の冷たさとは関係なく肌が引き攣る。唾液など出てもいないくせにごくりと喉を鳴らし、緊張の面持ちで次の言葉を待つ。
「次はないと思え」
その響きは忠告と言うよりも脅迫であった。一言だけ残し、ふいとと目線を切り去っていく。重蔵の後姿には怒気が宿っており、自業自得とはいえ胃が重たくなるのを善二は感じた。
「あー……なんつーか、どうしよ」
「真面目に働くくらいしかなんじゃない?」
「そりゃそうなんですがね」
折角番頭になったというのにこの有様。少しでも汚名を払拭せねば最悪小僧からやり直しもあり得る。
「取り敢えず、しばらく酒は控えます」
「それがいいわ」
くすりと零れた笑みに心が温かくなる。
その笑顔を酔った勢いで壊してしまわなかったことだけは、良かったと思えた。
◆
「おとっつぁん、うちにはもうお酒なんて」
「うるせえ! とっとと酒持ってこい!」
夜になり、しかし三軒隣りの親娘はまだ言い争いを続けている。
泣く娘と酒飲みの父。お決まりのやり取りだが、最近は随分と激しくなっている。住処にいても響く声に、少しだけ嫌な気分になった。
目の前で座り込んでいる秋津染吾郎は、相変わらず軽薄な作り笑いで、その内心を窺い知ることは難しい。持て成しの茶一つ出されていないのが、二人の距離感を如実に表していた。
聞けば彼は京の生まれらしい。
普段は根付の職人だが、鬼が出れば付喪神使いとして彼奴らを討つ。彼もまた鬼を討つ者ではあるが、甚夜とは在り方が異なる。甚夜にとって重きは鬼を討つことであり、染吾郎にとって重きは職人としての己。形こそ似ているが彼等は別種と言ってもよかった。
「噂は聞いとるよ。なんや君、有名なんやね」
人の口に戸は立てられぬ。鬼を討つ男の話は、噂程度ではあるが江戸で語られている。染吾郎もまた鬼を討つ者。自然と耳にする機会もあるのだろう。
「そこそこには、な」
曖昧に濁せば追及はない。鬼を討つ鬼に興味はあるのだろうが、それは興味でしかなく、不明瞭な答えでも特に気を悪くした様子はなかった。
そもお互いの関心は何故あんなところにいたのか、その一点に尽きる。二人の交わす言葉は雑談よりも腹の探り合いに近かった。
「お前は何故あんなところに?」
先に切り出したのは甚夜の方だった。
「ちょい野暮用で……じゃ、納得はしてくれんよなぁ」
当然だと言わんばかりに目を細める。
以前の騒動を最後に一度京へ戻ったようだが、またも彼は江戸に来た。ならば何かしらの目的があるのは間違いなく、それが鬼に纏わる厄介事だと想像するのは容易だった。
「ま、別に秘密にしとる訳でもないし、君ならええか。実はな、京でけったいというか、物騒な事件があってなぁ」
「事件?」
「そ。兄が弟を斬り殺したっていう、まあそれだけならよくある悲劇やけどね」
しかし予想は簡単に覆される。彼の話す事件は鬼とは何ら関係のない、誤解を気にせず表現するならば、いたって“普通”の殺しだ。確かに物騒ではあるが、染吾郎の言う通り然して珍しいものとも思えない。
「普段やったら僕も気にせんような話やったんやけど、最近似た事件が多いんや。普段は気のいいお人が豹変して周りを殴り散らす。いきなり若いのが暴れ出す。酒飲みの乱闘が、いつの間にか殺し合いに変わる。そんなんが立て続けに起こっとる」
甚夜の眉がぴくりと吊り上る。性格が変わったような振る舞い、いきなり暴れ出す男達。何処かで聞いた話だ。
「こらおかしい思て調べてみたら、一番最初の事件な。弟が酒好きの兄ちゃんに珍しい酒を買うてきて、その晩酒盛りしながら殺されたらしい。他のも、なんや、暴れとるお人はみぃんな酒を呑んどった。しかも銘柄も同じ、江戸から入って来たゆう酒や。そいつになんかある、そう考えるのが普通やろ?」
そこまでくれば流石に分かる。つまりこの男も、
「“ゆきのなごり”。僕はそいつの出所を探っとる」
同じものを追っていたのだ
「秋津染吾郎。お前はあの酒に関して、どの程度知っている」
夜を歩く。冬の寒さ、問い掛けた声は白かった。
「いんや、ほとんどなんも知らんよ。僕が知っとるのはあの酒が憎しみを掻きたてるもんってことくらいやね」
憎しみを掻きたてる。確かにあの時の善二の目には、明確な憎しみがあった。殺すことを躊躇わない、苛烈な憎悪。“ゆきのなごり”がそれを誘起するのならば、煮売り酒屋での一件も納得が出来る。
「そういう君は?」
「私も同じようなものだ。ただ、この先にはあれを大量に仕入れていた酒屋がある。入荷した途端売り切れていたようだが」
「おー、実際に扱っとった店か。そら興味はあるなぁ」
張り付いた笑みのまま、切れ長の目が夜の先を捉える。
深川の近隣は元々湿地帯であり、夜ともなれば冷え込みが厳しい。星さえ見えない黒の空、厚い雲。何時雪が降り出してもおかしくなかった。
そうして辿り着いたのは件の酒屋。
数日前の日中、店の前はごった返していた。その為建物まではよく見ていなかったが、近付いてみれば木の傷み具合から随分と古い店だと分かる。住宅を兼ねた商家であり、あの時の盛況ぶりから考えればこじんまりとした印象だった。
「態々夜に来たってことは?」
「当然忍び込む」
「そういや、君の<力>って姿を消せるんやっけ?」
「ああ。店の者を脅せば多少は話を聞けるだろう」
「あはは、君普通に人でなしやな」
「何を今更」
当たり前のことを言われても動揺なぞする筈もない。無表情のまま静かに目を伏せ、左手を腰のものにかける。
おかしそうに笑っていた染吾郎も一転ひりつくような空気を纏い、眼前の酒屋を睨め付けた。
「でもま、それくらいはした方がいいんかもね。あの酒はけったいにも程があるわ。これ以上広がるんはなんやまずい気がする」
「同意見だ」
だからこそ手段を選んでいる余裕などない。憎しみを煽る酒。その先がどうなるかを考えれば、多少人道から外れたとて放置できない代物だ。
無表情のまま一歩を進み、其処でぴたりと足は止まる。
「なぁ……」
「ああ」
引き戸が微かに開いている。戸締りもしないとは不用心な、とも思ったがどうにも様子がおかしい。虫の知らせ、予感。断じてそんなものではない。寧ろ慣れ親しんだに怖気が走る。
飛沫する脂。鉄錆の香。塗れ味わってきた、ざらついた感触。
「血の匂い……」
冬の冷たい空気のせいだろう。薄く延ばされた香りが針のように鼻腔を突く。
だとしても躊躇いはない。引き戸に手をかけ、音を立てぬようゆっくりと開ける。踏み入った店内には、いくつもの酒瓶が割られ打ち捨てられていた。壁には亀裂、備え付けられた家具も損壊している。そして酒の香気さえ消してしまうほど濃密な血の匂い。
「こら、まぁ」
普段の飄々とした態度を脱ぎ捨て、染吾郎が不快そうに顔を歪める。
店の土間には死骸が転がっていた。纏った羽織を見るにおそらくはこの店の店主なのだろうが、既に人とは思えぬ程無惨な姿になってしまっていた。
体は血に塗れ、各所が陥没し、関節は在り得ない方向に曲がり、顔は拉げ、頭は柘榴のように潰れている。撲殺されたのは間違いなく、だが流石にここまで歪な死体を見るのは初めてだった。
「けったくそ悪い……」
何度も何度も殴打し、死んでからも殴り続けなければこうは為るまい。
正義を気取るつもりはない。それでも悪意が透けて見えるような死に方に染吾郎は吐き気を覚えた。
「ないな」
そんな心境を慮ることなく、いっそ冷酷な響きで甚夜は呟いた。死体には目もくれず店内を見て回っていたが、何かを見つけなのか、ある一か所で立ち止まっている。
凄惨な光景を前にして眉一つ動かさぬ。成程、この男は人ではないと改めて実感する。僅かに不快な色を目に宿し染吾郎は呟きの意味を問うた。
「ないって、なにが?」
「“ゆきのなごり”。一本くらいは残ってるかもしれないと思ったのだが」
「前も入荷した途端売り切れたって君が言っとったやん」
「それだけが理由でもなさそうだ」
くいと顎で示す先には、まだ無事だった棚。酒が陳列されているのだが、その一か所だけがごっそりと無くなっていた。
「確かに、不自然やな」
「おそらく押し入った輩がいる。そしてそいつらの狙いは」
「“ゆきのなごり”……そやけど、たかだか酒の数本で人ぉ殺すもんか?」
言いながら染吾郎は懐に手を入れ、甚夜は夜来の鯉口を切った。
「呑んだだけ人を憎むようになる酒だ。それこそ今更だろう」
「かも、しらんねぇ」
一度息を吸い、ぴたりと止める。
そして、
「いきぃ、“かみつばめ”」
間近に迫る三つの影。
振り返りざま、突き出した腕の先から飛び立つ一羽の燕。
最高速に達した燕は刃物のごとき鋭さで背後から襲いかかろうとした黒い影を貫き、更に翻り急降下。もう一つの影……赤黒い皮膚の、憤怒の形相をした鬼。その脳天から股下までを切り裂いて見せた。
「ほう、見事なものだ」
「……言っとくけど、やらんからね」
以前奪われた犬神のことをまだ根に持っているのか、染吾郎は半目で睨んでくる。
どこ吹く風といった様子で甚夜は抜刀し、刹那の瞬間、暗がりから影が躍り出た。
赤黒い肌をした鬼だった。隠し様のない殺意を発しながら、染吾郎の方には目もくれず甚夜に向かって鬼は猛進する。
技巧のない動きだ。斜め後ろへ左足を退き半身、脇が前から右足を軸に体を回し、捌きと同時に横薙ぎの斬撃。憎悪に曇った目では反応さえできない。瞬きする暇もなく、鬼の胴と下半身は綺麗に離れていた。
「そっちこそ、やるなぁ」
付喪神を扱う術こそ心得ているが、染吾郎自身は体術に長けている訳ではない。賞賛にはからかいではなく、純粋な敬意があった。
戦いにすらならず斬り捨てられた三匹の鬼。しかし甚夜の表情は苦々しい。
「どう見る?」
「そやなぁ、鬼も酒の匂いにつられてきた、とか?」
「成程。案外、そうかもしれんな」
冗談のような物言いだが否定する気にはならなかった。正体の分からぬ酒だ。鬼を呼ぶくらいのことはしてもおかしくない。それを最後に黙り込めば、血の匂いは更に濃くなったような気がした。
どちらからともなく足を動かし、二人は何一つ得る物なく酒屋を後にする。
染吾郎は店主の死骸を弔ってやりたかったようだが、痕跡を残す訳にもいかず結局は放置したままになった。
「お、雪か……」
外に出ればまたも雪。
しんしんと降りしきる白い花。そういえば最近は毎晩のように雪が降っている。
感慨がある訳ではない。雪は確かに綺麗だが、遮られる視界が先行きの見えぬ現状と重な、今は寧ろ煩わしく感じられた。
なにより月のない夜はあまり好きではない。満天の星空より、静かに降る雪より、青白い月がゆらりと揺れる静かな夜の方が好みだった。
だから甚夜は灰色の空を睨み付けた。見上げた先に広がる曇天。今も雪が止むことはなく、頬に触れる雪の冷たさにほんの少しだけ寂寥を覚えた。
「嫌な空だ」
ああ、そう言えば。
昔見上げた夜空はもっと綺麗だったように思う。
あの時の想いからは、随分と離れてしまったけれど。