ぬるり。
不意に手を伸ばし触れた傷口。
絡みつくような妖しげな手触りに酔いしれる。
暖かく冷たい奇妙さが心地よい。
皮膚の裂け目から覗く肉。
この手には、一振りの、鈍い輝きが。
女子の肌よりも艶かしい刃。
鎬を伝い滴り落ちる血液。
足元に転がるは妻の骸。
優美な夢想の中で握り締めた鮫肌の感触だけが現実だった。
今し方妻を斬ったばかりだというのに。
宵闇に在りて尚も眩い白刃を見れば心が浮き立つ。
にたりと、愉悦に表情が歪んだ。
だから気付く。
ああ、私は。
───妖刀に、心を奪われたのだ。
◆
文久二年(1862年)。
酒を巡る騒動から六年、江戸は仄暗い不安に揺れていた。
第十三代征夷大将軍・徳川家定の逝去。
次々に交わされる他国との通商条約。
ペリー来航を発端に長く続いた鎖国体制は崩壊し、海外の文化が少しずつ国を変えていく。
欧米諸国の圧倒的な力を前に開国を決定し、弱腰の外交を続ける幕府。
朝廷は開国に反対し、これを受けて尊王攘夷を訴える者達は幕府に激しく抗議。また開国を望んでいた武士達も惰弱な幕府に不満を募らせ、倒幕の勢威は徐々にではあるが高まりを見せていた。
そして乱れる世相に紛れ、鬼もまた江戸の街に在った。
気付かれず、密やかに、しかし確かに魔は蠢く。
時は幕末。
一つの時代が終わりを迎えようとしていた。
◆
まだ冬の名残を残す早春の頃。
その日、三浦直次は城下にある刀剣商へ訪れた。
刀剣商とは単純に言えば刀屋である。刀剣の販売の他に藩のお抱え刀工「藩工」、或いは著名な刀匠へ製作を依頼する場合の仲介、研ぎ師の紹介など刀に纏わる諸々を一手に引き受けていた。
江戸の愛宕下・日影町は多くの刀剣商が軒を連ねており、直次がいつも刀を研ぎに出す『玉川』もその一つだった。
「三浦殿は相変わらず丁寧な扱いをなさりますな」
砥ぎに出した無銘の刀を返却しながら、『玉川』の主はにこにこと商売用の顔を作って語りかけた。
「いえ、単に使う機会がないだけです」
「それでも歪みも曇りもない刀身を見れば普段どれだけ手をかけているかが分かります。刀は武士の魂と言いますが、三浦殿は我が子のように扱いなさる。刀も喜んでいるでしょう」
直次は褒められても然程嬉しそうではなかった。
刀を抜き、砥ぎの具合を確かめるその表情は硬い。
「何かご不満でも?」
「いえ。出来に不満はありません。ただ曇りのない刀身に、これでいいのかと思ってしまいまして」
直次は今年で二十七になった。
妻を娶り子も生まれ、穏やかで幸福な日々を過ごしている。
現状に不満はないが、刀の綺麗さにほんの少し陰鬱な気持ちになる。
“義を重んじ勇を為し仁を忘れず礼を欠かさず。
徳川に忠を尽くし、有事の際には将軍の意をもって敵を斬る“刀”とならん。
ただ忠を誓ったものの為に在り続けるが武家の誇りであり、その為に血の一滴までも流し切るのが武士である。”
近頃、母の教えをよく思い出す。
武士は忠を尽くした者の刀たるべし。常々直次はそう教えられてきた。
しかし彼は実戦で刀を使ったことが無かった。以前鬼に向けて刀を振るったこともあったが、結局はその鬼も友人が斬った。何も斬ったことが無いのだから綺麗なのは当然で、綺麗であればある程疑ってしまう。
使われぬ刀に果たして価値はあるのだろうか。
異国が我が物顔で歩くこの時代、少しずつ変化していく武士の世に、だからこそ曇りのない刀の意味を自問し続けていた。
「は? 綺麗ならばそれに越したことはないと思いますが」
「そう、ですね。本当はそうなのでしょう」
歯切れの悪い言葉を返し、刀を納め腰に携える。
深呼吸をしてみたが気分は晴れないようで、表情は硬いままだ。それを見て玉川の主はふむ、と一度頷いた。
「どうやら三浦殿は気分が優れない様子。どうでしょう、ここは珍しい刀でも見て気を落ち着けては?」
刀で気を落ち着けるとは奇妙ではあるが、直次にとっては効果的な気遣いだ。
というのも、彼は刀剣類には目のない好事家だからである。玉川の主は刀の扱いを褒め称えたが、実際のところ彼の刀に手入れが行き届いている理由は半ば趣味だからだった。
「……すみません。何か気を使わせたようで」
「いえいえ、常連様には報いるものがなくては。少し待っていてください」
そういって店の裏手に姿を消す。四半刻も経たぬうちに主は細長い桐の箱を仰々しく抱えてきた。緩慢な動作で蓋を開け中から一口の刀を取り出す。
「戦国後期に造られた作品、銘を兼臣(かねおみ)といいます。鬼太刀兼臣などという呼ばれ方もしますが」
鉄鞘に納められた一振りだった。手渡され、受け取った瞬間ずっしりとした重さに危うく落としそうになる。拵えは最低限の体裁を整えた程度、外見だけで言えば野暮ったい印象さえ受ける刀だった。
「抜いてみても?」
「どうぞ」
しかし抜刀しその白刃が目に入った瞬間その感想は覆される。
「これは見事な……」
引き抜かれた兼臣は深い反りの入った二尺四寸程の刀だった。
反りとは刀身の峯の曲がり具合を差し、これは作製された年代によって大きく異なる。概して時代が古くなるほど反りが深くなり、これを太刀と呼ぶ。直次の友人である甚夜が携えている夜来も太刀に分類される。
そもそも日本刀は元来直刀が基本だった。しかし時代が奈良、平安に入ると個対個による戦闘を考慮し、甲冑をも断ち切るべく直刀から厚みと反りのある太刀へと変化した。さらに時代が下り室町、南北朝時代を境に反りの浅い打刀(うちがたな)が主流となる。直次の刀はこちらに属する。
太刀は切れ味が鋭く打刀は刺突に優れる。反りは刀の強度や鋭利さを大きく左右する要素だ。そのため反りの変遷は美意識の変化と言うよりも、その時代の戦法に対する適応と呼ぶべきだろう。
「戦国の作にしてはこの反りは珍しい」
「鬼をも裂くと謳われる葛野の太刀、その中でも刀匠・兼臣の作。個対個を念頭に置き、甲冑ごと叩き割るための深い反りと厚い刀身、波紋は少しでも折れにくくするために簡素な直刃。悉く実戦を意識した造りが兼臣の特徴です」
「確かに、これは戦うための刀だ。しかしこの美しさは見事の一言です」
「機能美、というやつですな。下手な装飾を排し華美な波紋もない、実戦一辺倒であるが故に古い武士の潔さを感じられる。懐古主義と言われればそれまでかも知れませんが、こういう刀も良いものです」
直次はどちらかと言えば古い武家の人間。彼にとって飾り立てることなくただ刀足らんとする兼臣の在り方は好ましいものだった。先程までの陰鬱な雰囲気はいつの間にかなくなっており、子供のように邪気のない様子で兼臣に見入っている。
「しかしこれだけの刀匠だというのに、あまり名を聞きませんね」
「まあ流行ではないというのはありますが。こういう戦いのための刀は徳川様の御世では人気がないのですよ。それに兼臣は著名な刀派に属するでもなく、後継もいない一代限りの刀匠ですからね。兼臣の銘を切られた刀はそもそも絶対数が少ない。そのせいで質のいい刀ではありますがほとんど流通せず、知る人ぞ知る隠れた名作に留まっています」
そこまで言って玉川の主は口元を釣り上げ、一段声を低くした。
「といっても、ある意味では有名ではありますが」
脅かすような声音に、直次も思わず怪訝そうに眉を顰める。
「というと」
「兼臣の作には、四口ほど有名なものがあるのですよ。三日前なら実物をお見せできたのですけれど」
「四口の刀、ですか。それほどの名刀が?」
「いいえ、名刀ではありませんね」
笑いを噛み締め、わざわざおどろおどろしい声音に変える。
「所謂、妖刀というやつですよ」
刀には付随する伝説が数多く存在する。
例えば、酒呑童子を斬ったとされる童子切安綱。
稲荷明神が童子に化けて相槌を打ったという三日月宗近。
伝説を持つが故に名刀と呼ばれるのか、名刀故に伝説が生まれるのか。
それは分からないが、往々にして名刀と謳われる刀には相応の曰くというものがあるのだ。
その中には稀に血生臭い伝説を持つ刀もある。持ち主を不幸にする刀。血を好み、使い手に殺人を強要する人斬り包丁。それらは妖刀と呼ばれ、纏わる怪異譚は講談でも多く語られている。
「それは、村正のような」
「徳川を呪う妖刀村正は有名ですが、兼臣の場合は少し違います。なんでも兼臣は鬼と交流を持ち、その力を借りて“人為的”に妖刀を造ろうとしたという話です」
「人為的に……そんなことが出来るのですか?」
「さあ、私からはなんとも。ですがこの刀匠には色々といわくがありまして。彼の鍛冶場には数体の鬼が出入りしていた、鬼を妻に娶った、その妻を鉄に溶かして刀を打ったなどと妖しげな話が多いのです。兼臣の刀が鬼太刀と呼ばれる所以ですな。まあ、それは後代の刀剣商が脚色した話でしょうが、兼臣が妖刀を造ろうとしたのは事実のようです。自身の手記でそれを語っておりますから」
妖刀。
以前ならば何を非現実的な、と思ったかもしれないが今となっては疑う気持ちは微塵もない。何と言っても彼の友人にはそういった怪異に好んで首を突っ込む男がいる。鬼がいるのだから妖刀くらいあってもおかしくはない。
そう思えば途端、嫌な気分になった。また誰かが怪異の犠牲になるのか。知らず直次は玉川の主を睨み付けていた。
「兼臣は最後に四口の妖刀を打ち、以後は鋳造に関わらなかったそうです。一説にはもう一口名もなき刀を鍛えたともありますが、それは眉唾ですね。ともかくこういった経緯で兼臣の最後の刀はある意味で有名なのですよ、勿論真っ当ではない方々に、ですが」
「そのうちの一口が此処にあった……いえ、妖刀と知りながら売ったのですか?」
責めるような響きを含んだ声、しかし飄々と玉川の主は商売用の笑みでそれを躱す。
「ええ。三日前に江戸住みの会津藩士が買っていかれました。三浦殿、私は刀剣商に御座います。正邪に関わらず刀を扱うのが生業。名刀であっても妖刀であってもお望みであれば売ります。それが、商人の一分というもの」
それはそれとして、人の道を捨てる気もありませんがね。
張り付いた笑顔のままでそう締め括る。
その姿に何となく自分の兄が、そして友人の姿が思い出される。だから分かった。玉川の主もまた兄や友と同じ一度決めたら梃子でも動かない人間だ。彼は何があっても商人としての生き方を曲げることはない。
「世の中には頑固な方が多すぎる……」
直次は溜息を吐いた。
あんな言い方をされては責めることも出来ない。玉川の主は商人として為すべきことを為しただけ。ならばそれを咎めるのはお門違いだし、どうせ言っても聞きはしない。
何より、彼はちゃんと責任を感じている。態々「江戸住みの会津藩士」などと言ったのは、妖刀を売ったことに僅かながら罪悪感があるからだろう。
そうでなければ商人が顧客の情報を漏らすような真似はしない。『うっかり口を滑らせて顧客の情報を話してしまった』。それが彼にできるぎりぎりの妥協なのだ。その情報を使ってこれから直次が何をしようと関知しない、というところか。
「申し訳ない。商人とはそういう生き物でして」
「いえ、そういう人の相手は慣れていますから」
「それはまたご苦労なことで」
「自分で言いますか……所で、刀の名はなんというのです?」
「はい。彼の打った妖刀は夜刀守兼臣(やとのもりかねおみ)と呼ばれています」
◆
蕎麦屋『喜兵衛』。
直次が暖簾を潜れば、いつも通りの笑顔で看板娘のおふうが迎え入れてくれた。
店内を見回せば、やはりというか相変わらず甚夜の姿があった。初めて会ってから随分経つというのにその外見は以前と変わらず若々しい。確か同年代の筈なのだが、羨ましい限りである。
「直次か」
「どうも、甚殿」
軽く一礼して彼の前に座る。さて、何から話したものか。取り敢えずかけ蕎麦を注文し、直次は先程聞いたばかりの話を自分の中で組み立てていった。
「妖刀?」
捏ね鉢に蕎麦粉を入れる。繋ぎには山芋、大体一九の割合だ。『の』の字を描くように混ぜながら万遍なく水を加える。この時水は一挙に入れず、四回ほどに分けること。注意するのはあくまで蕎麦粉一粒一粒に水を染み込ませることである。
「はい、馴染みの刀剣商の話では夜刀守兼臣という刀を三日程前に売ったとのこと。甚殿の“仕事”の範疇からは若干外れますが一応伝えようかと思いまして」
水が万遍なく蕎麦粉に行き渡ったら拳大の球形数個に纏める。次にそれを握り、重ねて捏ね鉢に。腰を入れ、体を使って押さえることを繰り返す。馴染んできたら掌で、手前から向こうへと押し出すように捏ねていく。更に、蕎麦粉を手前に寄せて丸めて寄せて丸めて、三度程繰り返す。表面に“つや”が出てくればよし。
「有難い。鬼と交流することで造り上げた人為的な妖刀……面白いな」
「随分と簡単に信用するのですね。もしや以前にも見たことが?」
蕎麦生地が馴染み捏ね上がった状態になればそれを一つの大きな塊にする。さて、いよいよ本番、これから生地を延ばしていく。大きな塊になっていた生地を平らに延ばす。この際に蕎麦粉以外に用意した打ち粉を振りながら円盤状に、適当な大きさまで丸く広げていく。
「いいや、ない。だが物には想いが宿るものだ。ならば歳月を経た刀が鬼と化しても不思議ではなかろう」
「そういうものですか」
適当な大きさまで丸く薄くなったところで、更に薄くするため麺棒で延ばす。打ち粉をもう一度。麺棒で手前の端の方から向こうに押しながら、少しずつ長方形になるよう整える。延ばしていく作業でどうしても厚くなったり凹凸が残る場合はあるが、全面が均等になるよう修正をかける。細かいが重要な作業である。
「ああ。ましてや夜刀守兼臣とやらは、そうなるべくして鍛えられたのだろう?」
「それは、確かに」
蕎麦生地を折りたたみ切る準備を整える。駒板で押さえ、細目に切り揃えていく。火を通したときばらつきが出ないよう均一に切ることを心がけねばならない。
切り終えれば蒸籠で蒸す。江戸の蕎麦と言えば蒸籠が基本である。本来ならば蒸しあがったものを蒸籠ごと出すのだが今回はかけ蕎麦。火の通った蕎麦を丼に移し温めた蕎麦つゆをぶっかける。故にかけ蕎麦というのだ。
最後に小口切りにした葱を乗せれば完成。
七味は各々の裁量に任せるとしよう。
「実際の所は見て確かめればいいことだ。そら、できたぞ」
「はーい、三浦様おまたせしました。かけ蕎麦です」
おふうが明るい笑顔と共に蕎麦を運んできた
目の前に置かれた丼からは湯気が立っている。まだ寒い季節、暖かい蕎麦は実にうまそうだった。
……それはそれとして、そろそろ物申さなくてはいけないだろう。
「あの、今更なのですが、よろしいですか?」
「どうした?」
「これは純粋な疑問なのですが」
「ふむ」
「何故甚殿が蕎麦を打っているのですか?」
沈黙。
もしかしたら聞いてはいけなかったことだろうか。そう思った時、頬を掻きながら言いにくそうに甚夜が口を開いた。
「……店主が蕎麦打ちを教えてくれるというので、つい」
直次の視線が腕を組み蕎麦打ちを監督していた店主に注がれる。
「いやあ、旦那もいつまでも浪人って訳にはいかないでしょう? ここいらで手に職をつけといた方がいいかと思いまして、以前から少しずつ仕込んでたんですよ。それにおふうからも花の名を習ってるらしいですし、そんなら俺が蕎麦打ちを教えようってことで」
快活な笑みであった。どうやら店主の言に間違いはないらしく、曖昧な表情で甚夜も首を縦に振った。
「何事も経験だ。花の名にしろ蕎麦打ちにしろ、触れてみるのも一興と思っただけだ」
そう言った本人は大真面目だった。
確かに以前、甚夜自身から「ある目的の為に己を磨いている。鬼を討つのもその一環だ」と聞いたことがある。しかしどう考えても蕎麦打ちは必要のない能力だと思うのだが。
「それに」
微かに、落とすような笑みで言葉を付け加える。
「気遣いを無下にするのも気が引けてな」
その言葉に、直次はなんとなくだが理解した。
今から六年程前だろうか。ちょうどこの店の常連だった二人の男女がぱたりと来なくなった。同じ時期、甚夜は傍目には相変わらずの仏頂面だったが、何処か沈んだ雰囲気を醸し出していた。
おそらく店主はそんな彼を見かねて気分転換がてらに蕎麦打ちを教えたのだろう。
そしてそれは間違いではなかった。
「甚夜君、随分慣れてきましたねぇ」
「そうか?」
「ええ、これならお店が開けるかもしれませんね」
「世辞とはいえ、悪くない気分だ」
「もう、お世辞なんかじゃありませんよ」
常日頃、生き方は曲げられないとのたまうこの友人がそのような余分に付き合ったのは、裏にある気遣いを知っているからだ。
しかし初めの理由が何であれ、この仏頂面の友人は笑うようになった。
以前も笑わないという訳ではなかったが、近頃の笑みには寛いだような穏やかさがある。それは店主やおふうの尽力の結果なのだろう。
「そうしていると、まるで仲の良い夫婦ですね」
甚夜とおふうの和やかな会話を聞きながら、頭に浮かんだ通りのことを口にする。
「いやですねぇ、三浦様。からかわないでくださいな」
ちらりとおふうを見やれば、頬を少しだけ赤く染め、嬉しそうに口元を緩める。案外とこの二人が結ばれる未来もあるのではないか。暖かな夢想に直次は満足そうに小さく頷いた。
「夫婦といえば、細君は壮健か」
多分彼も照れていたのだろう。誤魔化すように話を変えてくる。
「きぬですか? ええ、よろしければ遊びに来てください。妻も喜びます」
「あれが私の顔を見て喜ぶとは到底思えんが」
きぬ、というのは直次の妻である。
貧乏旗本とはいえ武士、それが恋愛結婚をしたのだから周りには些か驚かれた。しかし昔気質な母も今ではきぬを認めてくれている。夫婦仲は良く、息子は今年で四歳になる。慎ましいながらに円満な家庭を築いていた。
「そんなことはありませんよ。しかし甚殿、結婚は考えていないのですか?」
「特には」
「妻を娶り子を為す。なかなか良いものですよ」
「そうは言われてもな」
然程興味はないのか肩を竦めて言葉は途切れた。
代わりに満面の笑みで店主が話に加わる。
「いや、流石直次様、いいことを仰る! 旦那もそろそろ身を固めた方がいいんじゃないですかい? ところでいい娘がいるんですが、紹介しましょうか。気立ても器量もいい、旦那にぴったりの娘なんですがね」
「どうあってもそこに持っていきますか……」
そう思わざるを得ない直次だった。
と言うのも、以前より店主は今尚おふうの婿に甚夜をと画策していた。蕎麦打ちを教えたのは甚夜を慮ってのことではあるが、喜兵衛を継がせる為の一環でもあるのだろう。
「もう、お父さんは……」
横目で見たおふうは呆れたように溜息を吐くが、それほど嫌がった様子はない。寧ろいつものことだと苦笑していた。
「以前から思っていたんだが、何故お前はそこまで私をおふうとくっ付けたがる?」
「そりゃあ俺は親ですからね。娘の婿には相応しい人をと思うのが普通でさぁ」
「定職を持たん浪人が夫ではおふうも可哀想だろう」
「いやいや、ですからここはうちの店をを継いでですね」
「それは出来んと何度も言っているが」
「ぐぅ、旦那は相変わらず頑固ですね」
本気なのか冗談なのか、軽い調子の掛け合い。直次もおふうもそれを楽しそうに眺めている。
「店主殿は相変わらずですね」
「ふふ、そうですね。でもいいんですよ、あれはあれで。甚夜君も偶には息抜きをしないと」
「そういうものですか」
「そういうものです。あの人は少し張り詰めすぎていますから、気の抜ける時間って必要だと思います」
そう言ったおふうの目はとても優しく、妻どころか母の風情を感じさせる。
飽きもせず店主と甚夜は問答を続けているが、どうやら取り立てて騒ぐことでもないらしい。
実際、これは日常の一幕。わざわざ無粋なことを言う必要もない。ぐだぐだと考えるのは止めて冷めないうちに蕎麦を啜る。
「美味い……」
長く生きていればこんなこともあるだろう。
ただそれだけの、平和の肖像である。