変わらないことの何が悪い。
杉野平七(すぎの・へいしち)は常々そう思っていた。
「あんた、今日もしっかりね」
「おう、勿論だ!」
朝起きて、支度をしていると妻がぽんと背中を叩いてくれた。それだけでやる気になるのだから、自分も大概単純だ。。
平七は妻と同じ武家屋敷で働いている。彼が御坊主(雑用役)で妻は女中。杉野家は武家とは名ばかりの貧乏な家で、平七も元々は町人のような暮らしをしていた。しかしとある縁で知り合った武家の当主に引き立てて貰ったのだ。
今は当主に恩を返すべく毎日仕事に精を出している。新しい住居も準備してもらい、忙しいが以前と比べれば生活の質は雲泥の差だ。当主には足を向けて寝ることが出来ない。
「そういや、昨日憲保(のりやす)様に呼ばれたって聞いたけど、何の話だったんだい?」
「いや、それが。へへ、まあ、くくっ。なんとい言おうか。うふ」
「気持ち悪い。あんた、すっごく気持ち悪い。油虫くらい気持ち悪いよ」
「流石にそれは言い過ぎじゃないか!?」
妻のあんまりな物言いに思わず平七は大声を上げた。
「あんまり大きな声出さないでほしいんだけど。で、結局なんだったのさ」
「それがな……憲保様が、俺の為に刀を用意してくださったんだ」
「刀を!?」
今度は妻が驚きに声を上げる。
「俺の仕事ぶりが目に留まったらしくてな。“毎日尽くして貰っている、お前には報いるものが無ければな。刀を渡そうと思う。受け取ってくれるか?”なーんて言われちまってよ!」
似ていない声真似で当主の言葉を繰り返してみせる。平七は喜びのあまり顔をくしゃくしゃにして笑っていた。
というのも杉野家は本当に貧乏で、平七は生活の為に刀を売り払ってしまっていたのだ。
武士の魂を手放してしまったことを本当は後悔していた。だからこの手にもう一度刀を握れると聞いて、嬉しくて嬉しくて仕方がなかったのだ。
「もう金も払ってあるってよ。後は店で受け取るだけなんだ、これが」
「そっか、憲保様が……だからあんた、そんなに興奮してるんだね」
「おうよ! 今日はこれから玉川っていう刀剣商に寄って、俺の刀。俺の刀。お・れ・の・か・た・なを取ってくるんだ! そりゃ興奮もするさ!」
「うん。嬉しいのは分かるけど鬱陶しいね。寝入り端に耳元で飛んでる蚊くらい鬱陶しいね」
「だからいちいち例えがひどいんだよお前は!?」
妻の態度は相変わらずで、怒鳴りつけてはいるが決して嫌な気分ではない。
結婚する前から二人はこうだった。夫婦になり、しかし今でも昔のままでいられることは、寧ろ喜ばしかった。
変わらないことの何が悪い。
平七は常々そう思っていた。
この口の悪い妻と、毎日を過ごしていく。それだけで充分幸せで、此処に来て刀まで得ることが出来た。幸福の絶頂というのはこういうことを言うのだろう。後から後から込み上げてくる笑いは、やはり止められなかった。
「ったく、お前は。取り敢えず行って来らぁな!」
そうして兵七は妻に見送られて家を出た。
三日前のことである。
◆
桜田門外の変で大老・井伊直弼が暗殺された後、久世広周と共に幕府の実権を握った老中・安藤信正だった。
安藤の基本は井伊の開国路線の継承であり、幕府の存続及び幕威を取り戻すことを旨としていた。その一歩として朝廷(公)の伝統的権威と幕府及び諸藩(武)を結びつけて幕藩体制の再編強化をはかる、所謂公武合体を政策として打ち立てる。
しかしながら先の日米和親条約に見られる弱腰の外交から、既に幕府の権威は取り返しがつかない程に失墜し、攘夷派の武士達は勿論のこと開国派にとっても徳川幕府は唾棄すべき老害でしかなくなっていた。
地方では脱藩する者も増え、薩摩・長州などは表立って幕府と敵対し、倒幕の姿勢を崩さない。長く続いた徳川の治世も終わりが見え始めていた。
そんな中で会津藩は古くより徳川に付き従い、幕末の動乱に在って尚変わらぬ忠誠を幕府へ誓う稀有な存在だった。
幕府も会津藩に江戸湾警備の任務を命じ、鴨居と三崎の地に陣屋を構え、三浦半島のほぼ全域を藩領とするなど大層厚遇した。諸藩の信頼を失った幕府にとって会津藩は最後の砦と言ってもいい。そのせいか、あるいは単にお国柄か、江戸住みの会津藩士もまた一様に徳川へ強い忠義を捧げた者達が揃っていた。
「会津藩士、杉野平七(すぎの・へいしち)……」
「はい、江戸城下にある会津畠山(はたけやま)家中屋敷で御坊主をしている男です。話によるとつい三日前に刀を新しく買ったとのこと。玉川のご主人が妖刀を売ったのは彼でしょう」
甚夜と直次は江戸城より東にある牛込(うしごめ)に位置する、所謂山の手の武家町を歩いていた。目指す先は件の武家屋敷、畠山家である。牛込では大名や旗本の住む武家屋敷が集中し、一方で町屋も少なからず形成され、町人や武士の交流が活発に行われている。自然、武家の零れ話が町人に伝わることも多く、道行く者へ問えば割合軽い調子で畠山家に関して教えて貰えた。
「畠山家は会津藩の中でも歴史が古く、もともとは江戸湾の警備に当たっていたそうです。ですが安政の大地震で屋敷が倒壊してしまったとか。今では現当主は幕命で京へ移り、牛込の中屋敷には先代の当主である憲保(のりやす)が住んでいるらしく、杉野某はこの憲保殿が引き立てた武士、という話です」
「随分と調べるのが早かったな?」
「ええ。牛込の気風もありますが、なにより私は江戸城に出入りする祐筆。目録をつけるためと言えば大抵の者は疑わずに教えてくれます」
「……お前も大概いい性格になった」
「朱に交われば、でしょう」
快活に笑う直次。昔は真面目一徹な彼だったが最近では随分立ち回りが上手くなってきた。鬼とは違い人は変わるもの。彼もある意味成長したのだろう。
「ところで、よかったのか?」
横目でちらり表情を覗き見ながら甚夜は言った。
この日、直次には普段通り祐筆としての仕事があったが、妖刀を一目見ておこうと牛込へ向かった甚夜に同行していた。いくら少しずつ変わっているとはいえ基本的にこの男は真面目で勤勉な性質である。そんな直次が態々仕事を休んでまで随行することには多少の違和感を覚えた。
「もともとこの話を持ち込んだのは私です。また怪異の犠牲になる者がいるかもしれない。それを思えば放り投げる訳にもいきません。……私に出来ることなど限られていますが、情報を集めるくらいはできますから」
そう言った彼は何処となく愁いを纏っているように見えた。だがそれを指摘されたくはないだろう。だから何も返さず、話を元に戻す。
「しかし妙な話だ」
「何か気になることでも?」
「御坊主というのは、屋敷の雑用役のことだろう? 武士とはいえ刀が必要になる場合など殆どない」
「態々刀を買い求めること自体がおかしい、ということですか」
「ああ。何より刀はそれなりに値が張る。御坊主がおいそれと手を出せるものではないと思うが」
何気なく零れた疑問だった。しかしその言葉に直次は表情を暗くした。無言のまま立ち止まり、腰に携えた刀、その柄頭に手を触れ小さく零した。
「後者はともかく、前者の方は然程不思議な話ではありませんよ」
春の初め、薄く雲がかかった灰色の空。見上げれば何処かで“ぴい”と鳥が鳴いた。渡り鳥だろうか。姿の見えぬ鳥を探すように直次の視線が動く。
「土佐勤王党の話はご存知でしょうか」
声は出さずただ首を振った。何故か声を出してはいけないような気がした。
「昨年のこと、土佐出身の武市端山殿が同郷の武士を集め土佐勤王党と呼ばれる組織を結成したそうです」
文久元年、江戸に留学中であった武市瑞山は尊王攘夷思想を掲げた一派、土佐勤王党を立ち上げた。その主眼は尊王攘夷思想とともに、安政の大獄により失脚した土佐藩前藩主・山内容堂の意志を継ぐことが謳われている。このような尊王攘夷派の動きは何も武市端山に限ったことではなく、近年では多くの若い志士が水面下で倒幕運動を行っていた。
「嘉永の黒船来航からの幕府の外交は、私から見ても頼りないものでした。幕府に対する諸藩の不信も分からないではありません。土佐勤王党の志士達は挙藩勤王、つまりは個人ではなく土佐藩をあげて勤王を行おうという者達です。きっと、これからもそんな武士が増えていくのでしょう」
「詳しいな」
「登城する武士には江戸住みの土佐藩士もいますから。私の友人も一人、土佐勤王党へ入りました。武市殿も土佐へ戻り、攘夷の為に行動していると。……今の時代、刀は幕府の為に振るうものではなく、自身の思想を通すため武器だと考える者の方が多い。だから誰が刀を求めたとしても不思議でありません」
もう主君に刀を捧げる時代は終わろうとしているのでしょう。
多分、彼は自嘲の笑みを零したつもりなのだろう。ただそれは強張っていて笑いにはならなかった。
「その在り方は、武士として間違っている。けれど彼らを見ると思うのです。三浦家は代々祐筆として徳川に仕えています。ですが、このままでいいのか。弱腰の外交を続け武士の誇りを捨て去ろうとしている幕府に仕えるのが本当に正しいのか。私は……」
そこまで口にして直次ははっとなった。これでは徳川に叛意有りと疑われても仕方ない物言いである。
「すみません、忘れてください」
最後にそう締め括って直次は再び歩き始め、甚夜もまたそれに倣い後を追う。もう一度、“ぴい”と鳥が鳴いた。遠く響く甲高い声がいやに寂しげだった。
なんとなく彼の憂いの正体が分かった気がした。
祐筆は文書作成・整理を主とする役職である。
武士とはいえ刀を振るうことのない直次にとって、分かりやすく国のために行動する者達は眩しく映るのかもしれない。
果たして自分は何をしているのか。
動乱に差し掛かった今という時代、己がやっていることに意味などないのでは。
元々が生真面目な性格だ。自身に対する疑念が彼を苛んでいるのだろう。
甚夜に随行し、助力を買って出たのもそれが理由。
おそらく彼は誰かの為に役立っているという実感が欲しかったのだ。
およそ自分のことしか考えていない理由。一種の逃避とさえ取れる行動、しかしそれを責める気にもなれなかった。己とて刀を振るう理由など今も見つけられていない。直次の感じている焦燥には覚えがあった。
「人よ、何故刀を振るう」
「え?」
「昔、鬼に問われたことがある。今も尚、答えは見つからないが」
「……甚殿も、ですか?」
「ああ、情けないことにな。己が何を為したいか、そんなことさえ定かならぬ」
齢を重ね既に四十。それだけの歳月を生きたというのに、答えなぞ今も分からない。人を滅ぼすと言った妹。斬ることを躊躇い、憎悪を捨てることも出来ず。ただ力だけを求め無為に生きてきた。甚夜にとってもまた、命を懸け時代に立ち向かう若き志士達の姿は眩しく感じられる。
「儘ならぬものだ。生きるということは、ただそれだけで難しい」
「……ええ、本当に」
呟いた言葉に力はない。
二人はただぼんやりと道の先を眺めながら歩いていた。
しばらく経って件の屋敷、畠山家が見えてきた。鬼瓦の立派な屋敷は江戸住みに与えられたとは思えぬ程風情のある造りだ。外壁を回り正門へと辿り着けば、重厚なその佇まいに圧迫感さえ覚えた。
「ここが」
「ええ、畠山家ですね。しかし、どうにも騒がしいようですが」
門を潜り玄関へ向かえば、確かに直次の言う通り女中や御坊主が慌ただしい、というよりも浮足立った様子である。ちょうど御坊主が二人並んで玄関から顔を覗かせたので、これ幸いと声をかける。
「すみません、ここに杉野平七殿は居られますか」
直次の言葉に御坊主はびくりと体を震わせた。
「は、はあ。平七、ですか」
「はい。と、私は江戸藩表祐筆、三浦直次と申します。杉野殿に少しお話を伺いたいことがありまして」
「あー、いえ、今は少し……おい、ちょっと」
なにやら耳打ちをされ、一方の御坊主が屋敷の奥へ引っ込む。残された男はしどろもどろになりながら、せわしなく視線を泳がせるだけで、どれだけ待ってもまともな返答をしてはくれなかった。いい加減に痺れを切らし、強めに詰問しようとしたその時、
「どうした」
御坊主の後ろから体格のいい男が現れた。
「あ、土浦(つちうら)様……」
土浦と呼ばれたのは七尺に届くのではないかという長身の、肩幅の広い偉丈夫だった。帯刀をしていないところを見ると武士ではないのか、しかしその身なりは小奇麗ではあった。とはいえその体躯のせいか纏った素襖(すおう)はえらく窮屈そうな印象である。髪は甚夜以上に乱雑で、縛ることもせず肩まで伸び放題になっている。
およそ武家屋敷には見合わぬ風体の男は、じろじろと甚夜達を観察している。おそらく先程の御坊主は彼を呼びに行ったのだろう。だとすればこの屋敷ではそれなりに位が高いのだろうが、その容貌からは彼の立ち位置が今一つ読み取れなかった。
「この方々が、平七に会いたいと……」
「ふむ。客人、平七に如何なご用向きか」
野太い声で睨みを利かせる土浦。一歩前に出たのは甚夜である。
「失礼、甚夜と申す。突然の来訪、申し訳ない。杉野平七殿が三日程前、夜刀守兼臣という刀を手に入れたと聞いて訪ねさせてもらった。出来れば面を通していただきたいのだが」
言い訳も誤魔化しもせず、率直に来訪の目的を伝える友人に直次は少し慌てたが、対する大男は気にした様子もなく答える。
「そうか。だが平七ならばいない」
「そうですか。いつごろ戻られるか分かりますか」
「いや……おそらくは、もう戻ってはこんだろう」
直次の問いに抑揚も変えず平静な調子で答える。
「それは、どういう」
「今朝方のことだ。杉野平七は妻を斬り殺し、屋敷から姿を消した」
淡々と告げる土浦の目からは何の感情も読み取れなかった。しかしここで嘘を吐く必要もない。彼の語った言葉に嘘はないのだろう。
「甚殿」
「一歩、遅かったか」
戦国後期の刀匠・兼臣。
彼が残した四口の刀は鬼の力をもって生まれた人為的な妖刀だという。
如何な経緯で造られたとて妖刀であることに変わりはない。
それを彩る説話には、やはり血生臭さが必要なのだろう。