ぬるりとした感触を覚えている。
それに恍惚を感じてしまった時点で、もう逃げ道はなくなってしまった。
妖刀に取り憑かれた。そのせいで妻を斬り殺した。
だから斬り続けなければならない。
己の感情なぞ関係ない。
この身は妖刀の意思のままに、斬ることを止められない。
人を斬る。
最早それ以外に出来ることなどないのだ。
◆
「ずいぶん遅かったですね」
先に門を潜り外で待っていた直次が軽い調子で言った。
「少し、な」
土浦と呼ばれた鬼。
彼は随分と憲保に固執しているようだった。憲保が妖異の力による攘夷を志すのならば、或いはいずれ殺し合うことになるかもしれない。短い会話ではあったがそれを予見するには十分すぎた。
先程の会話については誤魔化して、蕎麦屋『喜兵衛』へ向かう。毎度のことながら何かの話し合いをするにはそこがいい。
「しかし畠山憲保……随分と胡散臭い、いえ、性質の悪い男でした」
真面目な気質で普段ならば陰口を叩くことなどしない男だが、今日ばかりは歩きながら眉を顰めて呟く。
直次には己が鬼であることは話していないし、先程の会話からそれを悟られたということも、憲保の真意を理解した訳でもないだろう。それでも憲保の、まるで狂信者のような雰囲気に当てられたのか。忌々しいとでも言わんばかりの表情だった
「ふむ。確かに胡散臭い……だが、面白い男ではあった」
率直な感想だったが、それを聞いて直次はむっとした。
「あのような男が、ですか?」
「そう睨むな。真面ではないが、あれは張るべき我を持っている。私は、ああいう不器用な男は決して嫌いではない」
短い邂逅だったが人となりは何となく理解できた。
畠山憲保は目的のためには手段を選ばない類の男だ。
直次にしてみればそこが受け入れられず、甚夜にしてみればそこが好ましくある。
鬼を使って時代に抗おうとする男。およそ真面ではない発想、だがそうでもしなければ現状を打破できぬ程に佐幕派は追い詰められているということでもあるのだろう。
其処まで追い詰められて尚生き方を曲げられない男だからこそ、甚夜は胡散臭いと思いながらも否定し切れず、それどころか一種の共感さえ抱いていた。
そして同時に、決して相容れぬであろうとも確信していた。
「しかし、最後に言った『富善』。何か心当たりはあるか」
「一応は」
憲保を認めるような発言が気に入らなかったらしい。何処となく触れくされた様子だった。
しかしそれも僅か、一度深呼吸をし、視線を合わせた時には普段通りの彼に戻っていた。
「『富善』(とみぜん)というのは深川にある料理茶屋です。“町人でも気軽に”とまでは言えませんが、少し無理すれば利用できる程度の値段の店で、結構人気もあるそうです。私はまだ行ったことはありませんが」
気軽に言うその様子からすると本当にただの料理茶屋らしい。
とすると憲保の言葉の意味が分からなくなる。
「では杉野平七がそこに興味がある、というのは」
「それは……すみません、よく分かりません。杉野殿がその店に入り浸っている、ということでしょうか」
唇を親指でいじりながら直次は思考に没頭する。しかしいくら考えても答えは出てこないようだ。
「取り敢えず行ってみますか?」
「そうだな。場所は分かるか」
こくんと直次はうなずいた
「ええ、聞いています。ではご案内しましょう」
◆
そもそも江戸の食は粗野とされていたが、幕末の頃にもなると手の込んだ本格的な料理を提供する、趣向を凝らした座敷や庭を持つ料理茶屋が数多く生まれた。
両国や深川といった盛り場だけでなく近郊の行楽地のも贅の限りを尽くした料理茶屋は増え、文化人の会合に利用されることも多い。
今では「京の着倒れ」「江戸の食い倒れ」と言われ、江戸は食文化の中心であった。
その中で富善は、庶民が気軽にとまでは言わないが、江戸を代表する高級な料理茶屋よりは幾分価格の安い店だった。利用し易い為か下級武士や町人の会合など、座敷では様々な人々の交流の場として賑わいを見せていた。
今も奥の座敷ではどこぞの武士達が集まって宴を開いているようだ。甚夜達の借りた小さな個室までその声は聞こえてきている。
騒がしい宴の声を聴きながら、甚夜は箸を動かしていた。
「ふむ。旨い……」
鰤(ぶり)の塩焼きを一口。香ばしい皮。しっかりとした身。脂も適度に乗っており、塩加減も丁度いい。
「……ええ、ですね」
直次もあら汁を啜りながら曖昧に返す。磯の香りが心地よく、これも大変美味なのだが二人の表情はどこかぎこちなかった。
「酒も、いいものを揃えている」
「いや、まったく。ですが」
気まずそうに、非常に苦々しい面持ちで直次はぽつりと呟いた。
「普通の、料理茶屋でしたね」
暗い表情の理由はそれだった。
畠山憲保の物言いから何があるか分からないと気を引き締めて訪れた富善。しかしいたって普通の店であり、肝心の杉野兵七もおらず、二人は本当にただ食事を取っているだけだった。
「杉野もいなかったな」
店の者の話では確かに杉野は此処に時折訪れていたようだが、それは畠山家で使える者達が宴会を開く時だけであり、足げく通っていたということでもないらしい。
殆ど情報を得ることは出来ず、しかし店に入ったからには何も頼まず出る訳にもいかず、取り敢えずは何か食べていくことになった。
単なる流れだが出された飯は流石に旨い。酒も土佐から仕入れた辛口のものを取り揃えており、値段は安めだがのど越しは悪くない。
「さて、どうしたものか」
甚夜は無表情のまま盃を煽った。
酒も料理も旨いのはいいが、杉野兵七に関して何の情報も得られなかった。これでは態々来た意味がない。
「出来れば早めに見つけたいものですね。杉野殿は妻を斬り殺したという。だとすれば夜刀守兼臣は“本物”の妖刀だ」
「ああ、次が起こる前に奪いたい。だが」
「肝心の行方が分からない。何か手がかりがあればいいのですが」
二人が黙り込めば奥の座敷での大騒ぎが此処まで響いてくる。声は心底楽しそうで、その分此方の空気が重くなったように感じられた。
一口酒を呑む。旨い、旨いのだが、どうにも楽しめる雰囲気でもない。
直次もそれは同じようで無言で箸を動かしていた。
「……そろそろ、出るか」
「……そうですね」
何の実りもない時間が過ぎ、二人は若干気落ちしたまま二人は立ち上がった。外から聞こえる話し声がなんとも遠く感じられる。軽く俯いたまま襖を開けて廊下へ出る。すると目の前に人影があり、思わず甚夜は立ち止った。
「けんども武市先生はまっこと遅いのー! 今日はもう来んがか、っぉと!」
前を見ていなかったせいで同じく歩いていた二人組の男とぶつかりそうになってしまう。途中で止まり、相手の男も大げさに後ろに退いた為体は当たらなかったが、甚夜は直ぐに小さく頭を下げた。
「失礼した」
「いやいや、謝るのはこっちじゃき。前ぇ見ちょらんかったわ!」
がはは、と豪快に笑う灰の袴に黒の羽織を纏った男。あちらも会話に夢中で前を見ていなかったようで、同じように謝ってきた。二人とも既に相当な量の酒を呑んでいるのだろう、顔は真っ赤に染まっている。
「そうじゃ! おまんら、こっちで騒がんか? 詫び代わりに奢っちゃるき!」
「はぁっ!?」
酔った勢いなのか、いきなりのお誘いだった。
もう一人の小柄な男が突然の提案に驚き声を上げるも、ぼさぼさ髪の土佐弁を喋る男はただ楽しそうに笑うだけだ。
「そうほたえなや。ここで知り合うたのも何かの縁じゃか」
小男の方は困った様子でおろおろとしている。流石に可哀想になって来たのか、直次が割って入った。
「折角の御厚意ですが遠慮させていただきます。少しまだ用がありますので」
ちらりと甚夜の方に視線を送る。話を合わせろということだろう。
「……ああ、そうだな。そろそろ店を出よう。済まないが、私達はこれで」
こちらとしても見知らぬ者の中で酒を呑む気にはなれない。素直に直次の案に従い、もう一度小さく頭を下げる。
「ほうか? あー、まぁさっきは済まんかった」
「いや、こちらこそ。そうだ、ついでと言ってはなんだが、一つ聞きたい」
「おう?」
「杉野兵七、という男を知っているか?」
その問いに男は頭をぼりぼりと掻きながら右に左に頭を動かしている。それを何度か繰り返し、ぴたりと動きを止めて一言。
「いんにゃ、知らん!」
あまりにも清々しい否定だった。
じっと目を見ても動揺の欠片もない。嘘は言っていないように思える。
「……そうか。妙なことを聞いた。感謝する」
「こんくらい、なんちゃやないちや!」
意味は分からないが、多分気にするなくらいの意味だろう。とりあえず聞きたいことは聞けた。ここらが潮時だろう。
「では、これで失礼させて貰おう」
「おう! ほんなら、わしもいぬるぜよ!」
ぼさぼさ髪の男はずんずんと足音が聞こえてきそうな歩き方で、小男の方は何度も頭を下げ、二人は奥の座敷へ戻っていく。残された甚夜達は何とも言えない気持ちでその背中を見送った。
「なんとも騒がしい男だ」
「はは、本当に」
奥座敷には彼等の仲間が大勢いるのだろう。入って行った瞬間、どっと笑い声が聞こえてきた。
しばらくの間甚夜はそこで立ち止まっていた。なんとなくだが、あの男のことが気になった。
というのも彼の言葉の土佐訛りに、土佐勤王党の話をした時に見せた直次の憂いを思い出したからだ。
「土佐の生まれ……武市先生と呼んでいましたし、あの方も土佐勤王党の一員なのでしょうか」
奥座敷で騒ぐのは攘夷を志す若者たち。少しだけ陰った直次の表情には気付かないふりをした。
「武市とやらは土佐に帰ったのではなかったか」
「勿論、勤王党の拠点は土佐ですが、江戸にも勤王の士はいます。時折江戸へ訪れることもあるそうです。もっとも、これは知り合いの言ですが」
「成程。まあいい。出よう」
「ええ」
二人は歩き始める。足取りはやけに重かった。
店を出れば既に辺りは暗くなっていた。まだまだ寒い時期、店が暖かかっただけに風の冷たさが身に染みる。今日は終わりにしようと二人は帰路に付いた。
「甚殿、そういえば先程の質問は?」
道の途中、直次は思い出したようにそう言った。
「ん、ああ。先程の男は大広間を借りていた。帯刀もしていた。その上勤王党の話もあったからな」
「では、彼も」
「十中八九攘夷派。案外江戸住みの、土佐勤王党の一人かも知れん。であるならば杉野某が富善に通っているのは、彼等と接触を図っているからではとも思ったのだが。どうやら違ったらしい」
奥の座敷で宴会を開いていたのは江戸にいる攘夷派ならば、先程会った土佐弁の男もその一員だろう。もし杉野平七が彼等とか関わりを持っているならば顔くらいは知っていると思った。
しかしあの男は知らないと言う。嘘を吐いているようには見えなかった。とすれば攘夷派に属している、或いは入ろうとしていることもないだろう。
では富善に興味があるという言葉は結局なんだったのか。いくら考えても答えは出てこない。
「まあ、杉野殿は会津藩士ですからね。同じ攘夷と言えど尊王を重きに置く者達とは相容れ…ぬ……」
そこまで言って、直次は急に固まった。
立ち止まり口を噤む。いったい何事かと甚夜も歩みを止め様子を窺うが、直次は俯いたまま何事かを考え込んでいる。
「そうだ、会津と土佐では考えが違う。ならば、いがみ合って当然。邪魔立ても有り得る……」
そしてしばらく経ち、何かに気付いたのか肩を震わせながら言葉を絞り出す。
「甚殿、分かりました」
低い声には苛立ちが混じっている。
「分かった?」
「ええ。杉野殿が富善に興味を持っている、という言葉の意味が」
その答えが分かったと直次は言う。
だというのに彼の纏う空気からはあからさまな苛立ちが感じ取れた。それを本人が分かっているのか分かっていないのか、重苦しい雰囲気のまま言葉を続けていく。
「友人に聞いた話ですが、富善は江戸住みの土佐藩士が多く通う店だそうです。友人が勤王党に入ってからも皆で集まって酒を酌み交わしているし、時には重要な会談を行うこともあるとか」
重要な会談。という言葉に甚夜も引っ掛かりを覚える。
「では先程の男が言っていた“武市先生”とは」
「ええ。間違いなく、武市端山殿のことでしょう。そして恐らくは、近日中に土佐から江戸へ訪れる予定だった」
武市端山。
土佐勤王党の中心人物。
土佐藩と会津藩は共に攘夷を掲げるが、両者の主張には決定的な違いがある。
会津は幕府を助け幕藩体制の存続を願っているが、土佐は天皇を立て徳川を政治から廃そうとしているのだ。
そして武市は分かり易過ぎる勤王派の象徴。
此処まで情報が出そろえば流石に気付かない訳がない。
「畠山殿の下についているからには杉野兵七もおそらくは佐幕派でしょう。佐幕派の会津藩士が土佐藩士、それも土佐勤王党に属する者達が通う場所に興味があるという。そして会津藩士は数日前に刀を手に入れた。もしそれを使うつもりならば、可能性は限られてくる」
武市端山の存在は佐幕攘夷を掲げる合図藩にとって目の上のたんこぶ。
出来る限り早急に消えて貰わねば困る人物。
もしも畠山憲保の言に嘘が無かったとすれば。
───ここで遠い未来において記述されるであろう事柄に触れておこう。
文久二年・一月二十七日。
史書に曰く、江戸は深川某所にて土佐勤王党と江戸住みの佐幕派との会合があったとされる。
武市端山は活動方針として挙藩勤王を掲げると共に絶えず諸藩の動向にも注意し、土佐勤王党の同志を四国・中国・九州などへ動静調査のために派遣しており、坂本龍馬もその中の一人であった。
龍馬は武市の指示によって諸藩の動向を探っていたが、文久元年・一月にその任務を終えて土佐に帰着した。同時にこの頃、薩摩藩国父・島津久光の率兵上洛の知らせが土佐に伝わる。勤王義挙。天皇という御旗の下、幕府に明確な敵対意思を示す行動であった。
しかし土佐藩はそれに追随しなかった。これに不満を持った土佐勤王党同志の中には脱藩し京都へ行き、薩摩藩の勤王義挙に参加しようとする者が出て来ていた。
翌年一月二十七日に深川であった会合ではこの事実を知った多くの党員が脱藩を決意し後に薩摩藩と合流。会合に参加した坂本竜馬もまた文久二年三月二十四日に脱藩している。
武市端山。
後の名で呼ぶならば武市半平太は、土佐勤王党を結成し、坂本竜馬の脱藩を促し、若い志士達の流れを倒幕へと導いた歴史の分水嶺となる人物である。
そして幕末期において倒幕への流れを決定づけ、坂本竜馬と武市端山が袂を分かつ契機となった一月二十七日に行われた会合を、俗に『深川会談』という。
勿論、それは後の世で史書に記される内容であり、今を生きる二人の預かり知らぬところである。
それでも現段階で武市端山を代表とする土佐勤王党は倒幕の旗印となる可能性を秘めている。
あくまでもそれは可能性でしかなく、現在の武市は未だ何も為さぬ男に過ぎない。
だがその可能性を重く感じる者がいたならば。
例えば、理外の一手を考える、慧眼の持ち主が見たならば。
佐幕攘夷を掲げる”誰か”にとって、武市は目障りなことこの上ない筈。
つまり杉野平七の目的は、
「武市端山の暗殺」
それ以外に考えられない。
「杉野平七も会津藩の一員。徳川に、畠山憲保に傾倒してもおかしくはない。とすれば、『富善』に興味があるというのは」
「おそらくは近日中に、武市殿が江戸へ訪れるという情報を得たのでしょう」
そして杉野平七はその日に武市端山を暗殺するため、御坊主には見合わぬ妖刀を求めた。成程、話は繋がっているように思える。が、それでも所々に疑問は残った。
「しかし分からん。それが事実だったとして、なぜ畠山は態々教えた?」
「畠山殿にとって、杉野平七という男にはもう価値がないからです」
彼にしては珍しく、確信めいた響きだった。しかし脈略のない返答に今一意味を理解できない。言葉の意を問おうと見れば、怒りを堪えるように口元が震えている。
「おかしいとは思いませんか? 私達が畠山家を訪ねたのは偶然です。だというのに畠山殿は私達を座敷に迎え入れ、あまつさえ甚殿を召し抱えようとした」
偶然訪れた浪人を、例え以前から知っていたとはいえ、その場で雇おうとするなど奇妙な話ではある。それに納得して頷くと、直次はやはり怒気を孕んだ表情で続けた。
「今日の様子を見るに、畠山殿は甚殿のことを初めから知っていたようです。浪人としてではなく、怪異を討つ者として。おそらくは以前より貴方を迎え入れたいと思っていたのでしょう。だからこそ貴方を呼びつけた」
「呼びつけた? 私は」
妖刀を買った者が畠山家にいると聞いたから尋ねただけで。
そこまで考えてようやく甚夜は直次の言いたいことを理解した。
「妖刀は、囮という訳か」
「おそらく。あれは単に貴方を呼び寄せるための餌にすぎなかった。今回は偶然にも私が甚殿へ伝えましたが、そうでなければ噂を流布つもりだったのでしょう。『会津畠山家の御坊主が妖刀を手に入れた』と。そうすればいずれ怪異を討つために畠山家へ貴方が訪れるでしょうから」
「つまり妖刀をどうしようと畠山憲保にとってはどうでもいい」
「ええ、甚殿と直接会えた時点でそれ自体は既に用済み。その後何があろうとそれは余分に過ぎないということでしょう。だからこそ杉野殿の行方を教えた」
だから杉野平七にはもう価値がない、か。
武市端山を討てればそれでよし。
討てなかったとしても目的自体は果たしている。
憲保にとっては暗殺が成功すれば儲けもの、失敗しても腹は痛まないということだろう。
「甚殿の言葉です。刀は値が張る。御坊主がおいそれと手を出せるものではない、と。私もそう思います。ならば、金の出所がある筈」
「それが畠山憲保、か。杉野平七が暗殺を企てることまで想定していたとするならば……成程、確かに性質の悪い男だ」
「ええ。……ああいった男がのさばっているのは佐幕派が相当追い詰められている証拠。徳川は、本当にもう駄目なのかもしれない」
ぎりっ、と直次の奥歯が鳴ったような気がした。そう錯覚させるほどに彼の顔は苦渋で満ち満ちていた。代々幕府に仕えた三浦家の当主だからこそ、現状に悔しさを感じるのか。それとも自身が仕えてきた主に対する失望か。
「すみません。感情的になってしまいました」
「いや」
「それで、どうしますか?」
それは先程畠山家の座敷での遣り取りを見ていたからこその問いだった。
開国にも攘夷にも興味がない。だがここで妖刀を追い、杉野平七を邪魔すれば結果として尊王派に与したと同義だ。
しばし逡巡し、甚夜はゆっくりと口を開く。
「例え妖刀を使ったとしても、“真っ当に”暗殺を企てたならば、私は邪魔立てをするつもりはなかった」
甚夜が刀を追っていたのはあくまでも怪異の真相を見極める為。決して人道や倫理、義心といった綺麗な理由ではない。それでも畠山憲保の遣り様には、どうしても引っ掛かりを覚えてしまう。
「だがこうなってくると話は別だ。どんなお題目を掲げようと、畠山憲保は自身に仕える者を体のいい捨て駒にした。私はそれを是とは出来ん」
断っておくが、甚夜は決して善人ではない。
既にその手で人も鬼も殺している。鬼の<力>を使って人を斬り殺したこともあった。善悪で語るならば殺人を犯した彼は悪に類される。だから鬼を手駒にしてて開国派や夷敵を滅したとしても、それ自体を非難するつもりはない。
だが畠山憲保は、妖異の力を持って何も知らぬ者を利用した。そのやり方が受け入れられない。
そこまで考えて、甚夜は首を振った。
何を今更綺麗ごとで取り繕っているのか。
己は主義主張や道徳の為に刀を振るえる程立派な男ではないだろう。
「……いや、お為ごかしだな。正直に言おう、私はあの男が気に食わん」
共感は出来るし、決して嫌いな類の男ではない。
だがそのやり方が決定的に気に食わない。
いつか誰かが言っていた。
己は自身の想いよりも自身の生き方を選ぶ男だと。
今回のこともただそれだけの話。妖刀を止めると決めた、畠山憲保を認められないと感じた。ならば、最早そこから食み出ることはできない。
非難はしない。だが怪異の力は己が手で排除する。
「では」
「初めに言った通りだ。妖刀を追うぞ」
迷いはない。
無意識に動いた左手は既に刀へ掛かっていた。
◆
そして数日後。
文久二年・一月二十七日。
江戸は深川に向かう河川沿いの通り。
男は一人歩いていた。
左手に握り締められた刀。
ぞくりと何かが体を通り抜けた気がした。
夜刀守兼臣。
戦国後期の刀匠・兼臣が造り上げた人為的に生まれた妖刀。
その“力”は既に試した。
だから確信する。
この刀をもってすれば勤王を掲げる阿呆共を皆殺しに出来る。
──あんた、なんで……。
耳に残る女の声。
関係ない。最早己に感情はない。
妖刀に操られるまま妻を斬り殺してしまった。
ならばいまさら人斬りを止められる訳がない。
斬って斬って、ただ只管に斬って。
その果てに斬り殺される。
それくらいしかこの刀から逃げる術はないのだ。
向かう先は『富善』。
今日は武市端山が訪れるという。
この好機を逃すわけにはいかない。
同じく攘夷を志す相手だが、武市は倒幕の士。
武士の世を壊そうとする国賊にすぎん。
あの男の影響力は計り知れない。
放っておけば倒幕派は更に力を増すだろう。
……故に、武市端山は斬らねばならない。
己にはその理由がある。斬る理由がある。だから斬ってもいい。斬らないといけない。とにかく斬らないと。斬らないと、きっと自分は壊れてしまう。
胸中は淀み、足は淀みなく進む。
既に心は決まっている
そうして深川の橋に差し掛かった辺りで、
「断っておくが」
鉄のような声が響いた。
「私は暗殺という手段を卑劣とは思わない。刀に出来るのは所詮斬るのみ。ならば如何な手段を用いたとて斬ってこその刀だろう。故に否定はせん。だが……」
宵闇に浮かぶ、六尺を超える偉丈夫は悠然と腰のものを抜き、切っ先をこちらに突き付ける。
「悪いな。邪魔はさせてもらう」
だから理解する。
この男は、敵だ。