……嘘だよ、これは。
◆
文久三年(1863年)・七月。
「あー、腰が痛ぇ」
黄昏を過ぎた頃。
いつもと同じように蕎麦屋『喜兵衛』でかけ蕎麦を食べていた甚夜は、呻くようなその声に顔を上げた。
見れば厨房に立つ店主が二度三度腰の辺りを叩いている。蕎麦屋は立ち仕事が主だ。既に五十を過ぎた店主には辛いものがあるのだろう、近頃は以前よりも体の不調を訴えることが増えていた。
「お父さん、大丈夫ですか?」
気遣うように声をかけたのは、椿の簪で髪をまとめた十四、五の少女。細身ですらりとした立ち姿が印象的な喜兵衛の看板娘、名をおふうという。
「ああ、心配すんな。まだまだ大丈夫だ、っつ……」
平気だと強がって見せてもやはり痛みは強いようだ。老いたとて体が衰えることのない甚夜には分からぬ苦しみだが、だからこそ気遣いの声を掛ける。
「少しは休んだらどうだ」
「いや、ですがね」
「どうせ他に客もいない、座るくらいはいいだろう」
「はぁ……すんません。そんじゃお言葉に甘えて」
納得はし切れていないようだが、おふうの心配そうな瞳を見て渋々ながらも頷く。そして厨房から出てきた店主は、かけ蕎麦を啜っている甚夜の近くの椅子に腰を下ろした。
横目で盗み見れば店主の顔の皺は以前より随分と増えていて、それが時間の流れを否応なく理解させる。
初めて会ったのは嘉永の頃。客が少ないという理由で選んだ店だったが、ここまで通い詰めることになるとは思ってもみなかった。相変わらず閑古鳥の鳴いている店内を見回せば、なにやら感慨深いものがある。
「もう十年近くなるか……お互い年を取ったな」
「四十を超えて腹が全く出てねぇ旦那が言っても説得力ないんですが」
世間話のつもりだったが思いきり突っ込まれてしまった。
だが店主の言うことも分かる。何せこの身は鬼。実年齢はともかく外見は未だ十八の頃を保っている。いつまでも若い姿でいられるというのは見る者が見れば羨ましく感じられるのかもしれない。自然に齢を重ねることが出来なくなった己を、本人がどう思うかは別にして、ではあるが。
「ちくしょう、なんか俺だけ歳をとっていくなぁ」
何でもないぼやき。それを聞いて甚夜はじろりと店主を睨み付けた。何故睨まれたのか分からなかったようだが、おふうの方に目をやって気付いたらしい。彼女が浮かべていたのは泣き笑うような、複雑な表情だった。
幸福の庭を抜け出した鬼女は、人と共に生きる道を選んだ。
しかし鬼の寿命は千年以上あり、鬼女はいくら歳月を重ねても少女のまま生きる。
店主は段々と老いる自分を嘆くが、おふうはどれだけ望もうとも老いていくことが出来ない。
それは例えば、かつて自分を救ってくれた父が老衰し死を迎えたとしても、彼女は若い姿のままそれを眺め、そして父がいない日々を何百年と過ごさなければならないということだ。
彼女の憂いはそう遠くない未来に避け得ぬ別れが訪れることを、それでも続いていく孤独な日々を予感しているからなのだろう。
それに思い至り、店主はすぐさま弁解する。
「すまねぇおふう。無神経だった」
「分かっていますよ、お父さんがそんなことを言う人じゃないってくらい」
笑って誤魔化したつもりなのだろう。しかし表情は昏く沈み込んでいる。それもまた鬼の性なのか、本当に嘘の付けない娘だった。
「馳走になった。勘定を」
淀みかけた空気を振り払うように、甚夜は大げさに音を立てて丼を置く。その音に目を見開いた店主がこれ幸いと笑って見せた。
「へい、三十二文になります」
初めの頃の倍近い値段にほんの少し眉が動く。それを見た店主は疲れたような笑みを浮かべながら、小さく頭を下げた。
「すんません。近頃は物価が高くて、今まで通りの値段じゃやってけないんですよ」
嘉永の黒船来航を発端にした動乱は収まる気配を見せない。倒幕を巡る武士達の争いは激化する一方であり、江戸では物価が高騰、ここ最近町人達の暮らしはひどく圧迫されていた。
それが分かっているから文句は言わず銭を払う。誰が悪いという訳でもない、責める気にはなれなかった。
「どうも。しかし相変わらず旦那は金払いがいいですねぇ。羨ましい限りで」
「最近はどうにも“仕事”が多くてな」
それは決して良いことではないが。
人心が乱れれば魔は跋扈するもの。江戸の民の不安は高まり、呼応するように鬼の起こす怪異も増えてきている。その為甚夜の元には引っ切り無しに討伐の依頼が舞い込んできているのが現状である。
「それじゃあ、今夜も?」
「ああ」
おふうの問いかけに表情も変えず頷けば、手は無意識に刀へ向かう。それを見ていた彼女はすっと目を細め、心配そうな視線を送ってくれた。
「甚夜君は変わりませんね。……もう少し肩の力を抜いて生きることはできませんか?」
「生き方などそう変わるものではないし、元より変えるつもりもない」
相変わらずおふうは甚夜の在り方を憂い、いつも気にかけている。しかし甚夜もまた相変わらずで、自身の目的の為に力を求めていた。以前よりは余裕がでてきたと言っても結局生き方は変えられない。何とも儘ならぬものだと、甚夜は顔には出さず内心で自嘲した。
「本当、貴方は頑固です」
「悪いな、性分だ」
いつも通りの遣り取りだった。
彼女の出す、呆れたような、それでも優しいと感じられる声。いつものようにおふうは生き方を変えろと言ってくる。
彼女は己の生き方を理解してくれはしなかったが、それを煩わしいと思ったことはなかった。おふうは彼女なりに慮ってくれている。年上ぶった彼女とのやり取りはそれなりに心地よく感じられた。
「気を付けてくださいね」
「ああ」
「油断したら駄目ですよ」
「分かっている」
「終わったらまた報告に来てください。寄り道もいけませんからね」
「……いい加減子供扱いは止めてほしいのだが」
年齢的には彼女の方が遥かに上なのだが、見た目が十五、六の少女にこうまで心配されるというのはどうも違和感がある。いつものことではあるのだが、いつまでたってもこれには慣れなかった。
「そう心配するな。下手は打たん」
逃げるように背を向けて店の外へ向かう。ように、も何も実際に逃げたのだ。純粋に己手を心配してくれる彼女の視線がむず痒かった。
「あ、もう、甚夜君は……。いってらっしゃい。ちゃんと帰ってきてくださいね」
彼女はいつもそう言って、心配しながらも止めはせず見送ってくれる。
柔らかな言葉を耳にしながらも振り返らずに、手を軽く振って応えそのまま暖簾をくぐった。
何も特別なことはない。
いつも通りの夜だった。
鬼人幻燈抄 江戸編 『天邪鬼の理』
いつも通りの夜だった。
谷中の寺町には。随分前に住職が亡くなり、荒れ放題のまま放置された寺がある。
瑞穂寺。遠い昔、訪れたことがある場所だった。
曰く、この寺には鬼が住み着いたという。
食人鬼。
なんでも人を攫い食う鬼が此処に出入りしているらしい。目撃談も多数あり、中には子供を攫われた者もいる。そうして噂が流れ出るにつれ、事態を重く見た寺町の住職の一人が甚夜にこの食人鬼の退治を依頼した。これが此処に至った経緯である。
以前も此処には人を喰う鬼がいた。ほとほと鬼と縁がある寺だ。いつかの記憶を辿るように、敷地へと足を踏み入れる。
うらぶれた廃寺、ゆっくりと歩みを進める。そして本堂に辿り着いた瞬間、どろりとした鉄臭さが、硫黄のような刺激臭が鼻を突いた。死臭、血の香り。成程、確かにここで殺人が行われたのだろう。表情を引き締め、本堂の中心にいる影を睨み付ける。
『ゥゥゥゥ……』
其処には人よりも遥かに大きい狐がいた。
白銀の毛が夜の闇の中でも一際眩しく輝いている。鋭く研ぎ澄まされた双眸、その瞳はやはり赤い。あれが件の鬼に相違ないだろう。
「お前が人を喰う鬼か」
確認の意を込めて問うが、鬼は何も答えない。代わりに眼光を更に鋭く変え、瞬間、計六つの火球が宙に浮かぶ。
問答無用、ということらしい。あの火球が鬼の<力>なのだろうか。視線は逸らさず夜来を抜き、脇構えをとる。
燃え盛る炎を前にしても熱は感じない。本堂は七月だというのに何故か冷たい空気で満ちていた。睨み合う二体の鬼。互いに微動だにしない。温度がさらに下がった気がした。
『っぁあああああっ!』
白銀の狐の甲高い声。
燃え盛る火球がまずは二発。甚夜へ向かい一直線に襲い来る。それを大きく横に飛んで躱す。火球は直線にしか放てないようで、速度こそそれなりだが単調。避けるのは容易い。
しかし単調な分だけ速射性には優れる。火球は気付けば倍以上中空に浮いており、鬼は雨あられと放つ。単調ではあるが此処まで連射されると近付くことも出来ない。
繰り出される炎。その向こうでは白銀の狐が、必死の形相でこちらを睨んでいる。
どうあっても近寄らせないつもりだ。休むことなく火球を放ち、甚夜は鬼の目論見通り距離を詰められないでいた。
炎を紙一重で避ける訳にもいかない。どうしても大きく躱せねばならず、少しずつではあるが確実に体力を消耗している。このままの状況が続けばいずれは体力が尽き、その瞬間を鬼は見逃さないだろう。
「だが、悪いな」
表情を変えないまま小さく呟く。
確かに普通ならばこちらが負ける。
ただ相手は勘違いしている。別に間合いの外から攻撃できるのはお前だけではない。
一度足を止め上段に構える。
息を吸い、平静に、ただ眼前の敵を見据え。
ぎり、と音が聞こえる程に強く柄を握り締め、狙うは喉元、一太刀で終わらせる。
<飛刃>
斬撃を飛ばす<力>。
高々と掲げた刀を袈裟掛けに振り抜く。傍目にはただ空振りしたように見える。だが振り抜いた瞬間、風を裂く音と共に周りの空気とは密度の違う透明な斬撃が刃から放たれた。
驚愕に鬼が止まる。しかし斬撃は止まらない。それは鬼の火球の間を縫うように進み、正確に咽喉を捉える。
『アぐぅ………』
肉を裂く音がやけにはっきりと聞こえた。
まさか刀を振るうことで間合いの外から攻撃してくるなど予想していなかったのだろう。銀色の狐は無防備にそれを受け、本堂に血飛沫が舞った。それで終わり。苦悶の声を漏らしながら、倒れることはしないもののもう動くことは出来ないようだった。随分と呆気ない。そう思ったが、しかし何か罠を張っているようにも見えない。最低限の警戒は怠らないように一歩ずつ近付いていく。
「名を聞いておこう」
距離を詰めながら鬼に問う。やはり動けないらしく、相手は棒立ちの状態でなんとか掠れた声を絞り出した。
『夕、凪……』
名を刻む。また斬り捨てものが増えた。それを嘆き、しかしこの生き方を変えることも出来ない。儘ならぬものだ。自嘲をしながらも表情は変えず、傍まで近寄り徐に左腕を伸ばす。
「そうか。さらばだ夕凪。お前の<力>、私が喰らおう」
夕凪に触れる。
どくり。
心臓のように鳴動する左腕。
<同化>
それは文字通り他者と同化する<力>。鬼を喰らいその<力>を我がものとする異形の腕。随分と慣れてしまったせいか、今では<鬼>に為らずとも使えるようになった。
どくり。
夕凪が左腕を通って自身と繋がっている。
記憶が流れ込み、血管を通り全身に何かが巡っている。
<同化>は他の生物を内に取り込み己の一部へと変える。
それ故に、喰らわれる者の記憶や知識に多少なりとも触れてしまう。
夕凪の記憶が、断片的にだが左腕から伝わってくる。
いつまで経っても慣れない感覚だ。
相手の内をのぞき見るようで気分が悪い。それに意識が混濁する。今日は普段より更に酷く、まるで酔っぱらってしまったように目の前が歪んでいる。
「自分を喰らう鬼……助けに来てくれたと思った、でも助けてくれなかった」
細切れの記憶が脳裏に浮かんでは消える。
しばらくすると段々とそれも治まってきた。<同化>した異物が体に馴染み、安定してきたのだ。
けれど頭の中がぐるぐると廻っている。
「一人。子供が、嫌い? しかし、それは」
何か大きなものが入り込んだ。
そして流れ込む記憶が止まり、一際大きく世界が歪む。
ほぎゃあ、ほぎゃあ。
何処か遠く。
赤ん坊の声が聞こえた。
◆
「おや、旦那。らっしゃい」
いつも通りの夜が明けた。
鬼を退治した翌日、いつものように甚夜が喜兵衛を訪れると、やはりいつもの通り見知った顔があった。
「どうも、甚殿」
軽く頭を下げて挨拶をしたのは糊のきいた小袖を纏った、生真面目そうな武士だった。
今では随分と付き合の長い友人となった三浦直次は、既に食事を取り終えたようでのんびりと茶などを啜っている。今年で二十八となった彼は、嫁を貰っても相変わらずこの店を訪れている。もっとも彼は江戸城に登城する祐筆、今日のように昼食時にいるのは珍しい。
「今日は休みか」
「ええ。ですからここで息抜きをしています」
「きぬ殿を放っておいて、か?」
「誘ったのですが、遠慮すると」
助かった、と思ってしまったのは秘密にしておく。直次の妻である“きぬ”はどうも苦手だ。何を話せばいいのか分からない。
直次もそれを知っており、だから苦笑いを浮かべた。普段から折り目の付いた所作をする彼は、喜兵衛ではこういった素直な表情を見せる。彼にとってもこの店は存外居心地がい場所なのだろう。昼下がりは何時になく穏やかだった。
「お帰りなさい」
そしていつものように、おふうがゆったりとした笑みを湛えながら近寄ってくる。
彼女はどうにも心配性だ。鬼との戦いなど幾度も重ねているというのに、それでも安心はしてくれない。そして帰ってくれば今日のように、本当に嬉しそうな笑顔で迎えてくれる。それが少しむず痒く、それが少し心を落ち着けてくれた。
「どこかお怪我はありませんか?」
「見ての通り無傷だ」
「はは、聞かずとも真面な戦いならば甚殿が後れを取ることなどないでしょう」
「それは、甚夜君が強いことは知っていますけど。でも、あんまり危ないことはしないでくださいね? 貴方を心配している人だっているんですから」
そういうことを言う彼女の表情は、見た目こそ少女ではあるが母性さえ感じさせる暖かなものだった。年齢的に言えば、母どころか老婆と言ってもいいのだが。無論本人には言わないが。
「確かに。それはそうですね。あまり細君を心配させるものではありません」
直次は意味ありげに含み笑いをしながら、視線を横に流した。
「……そうですね。私以上に、心配していたんですから」
何故か濁った言葉でおふうも同じ方向に目をやった。彼らが何を言っているのかがよく分からず視線を追う。
その先には、
「もっと言ってやって。この人は女を気遣うなんて器用なことできやしないんだから」
いつも通り、赤子を抱いた女が座っていた。
年若い女。歳の頃は十八かそこらというところだろう。細面の大人びた雰囲気の女だった。
襟元がゆったりとした、金糸の入った赤い派手な着物を着崩している。黒髪を櫛三枚で纏め、小さい簪の前ざしが六本。その着物も相まって古い時代の遊女を思わせた。おふうよりも小柄で線が細い。その肌は病的に思える程に白かった。
赤子をあやすように時々体を揺らし、しかしその表情は甚夜に負けないくらいの仏頂面である。面倒くさい、というのを隠しもしない表情。それでも腕の中の赤子は機嫌がよくなったらしく無邪気に笑っている。
それもいつも通りの光景だった。
「夕凪さんも大変ですね」
「ほんと、気の利かない旦那を持つとね」
「でも、少し羨ましいです。甚夜君はあれで優しいですし、やっぱり子供は可愛いですから」
「それならあげるよ? 私は元々子供が嫌いだし」
「そんなこと言っちゃ駄目ですよ」
「はいはい、おふうは本当いちいち五月蠅いんだから」
つん、と指先でおふうが赤子の頬をつつく。実に穏やかな表情だった。
だが女の方は相変わらず仏頂面で、にも拘らず手つきは優しく、慈しむように触れている。
傍目には女同士の和やかな語り合い。
微笑ましくも見えるのだが、今はそれよりも気になることがある。
「夕、凪……?」
おふうが口にした彼女の名は何処かで聞いたことがあった。何時聞いた? 靄がかかったような思考。いつも通りの光景に違和感を覚えるのは何故だろう。呆然と二人を、正確には夕凪を眺める。その視線に気付き、彼女は小首を傾げた。
「どうしたの、“あなた”?」
くらりと頭が揺れた。
あなた。そう、か。私は彼女───夕凪と夫婦だった。夫婦になったのだ。しかし、それはいつだったか。違和感。朧に揺らめく。足元が覚束ない。動揺。失くした何か。いつか夢見た。誰かと夫婦になる。「だって甚太は私と同じだから」そうだ。遠い昔に思っていた。惚れた女と夫婦になり、緩やかに日々を過ごすのは幸福だと。確かにこれは私が望んだことで。
「……ああ、済まない。少し呆けていた」
無意識にそう答えていた、まるで何かから逃げるように。顔を少し俯かせれば、夕凪の腕に抱かれた赤子と目線があった。生後一年程だろうか、甚夜を見た瞬間、垂れた眦を更に緩ませて笑う。
「この子は……」
「本当に、どうしたの? あなたの娘でしょう」
言われて思い出す。そうだ、この子は己の娘だ。
名前は、
「そろそろ、名前を付けてあげないとね。私はそういうの苦手だから、あなたが考えて」
まだ、決めていなかった。だから名を知らぬのは当然のこと。何もおかしくはない。
「ん、ああ」
歯切れ悪く返すと、夕凪は怪訝そうに上目遣いで顔を覗き込む。大人びた雰囲気とはいえ、まだ少女の域を出ない顔立ち。其処にはほんの少しの不安が見て取れた。
だから笑う。
己が夫だというのなら、妻の不安を和らげるのもまた務めだろう。そう思い、ぎこちないながらも夕凪に笑いかける。
「ほんと、どうしたんだい? 何か変だよ」
「いや、別に」
「ふうん」
納得はしていない目だ。いつも彼女は聞きたいことがあっても無理に聞こうとはしなかった。気が強いように見えて、本当は臆病な女の子だった。
ああ……でも。彼女というのは、夕凪のことだったろうか。
「気にするな。大したことではない」
何故かそれ以上は考えたくなくて、思考を断ち切るようにそう言った。違和感があったせいだろう、夕凪の疑いの目は更に深くなった。
「どうだか。あなたは隠し事が多いから信用できない」
「夕凪……」
困ったような表情を浮かべる。それが面白かったのか、目の前にいる妻はくすりと笑った。
「ふふっ、嘘だよ」
その笑顔はいつか見たような、初めて見るような。
ゆらゆらと不思議な感覚に思考が揺蕩っている。
けれど暖かく思えたのも事実だった。
「そもそも、最初から心配なんてしてないしね」
言いながらも気遣わしげな視線を送ってくれる。夕凪は確かに甚夜を心配していた。それに違和を覚え、しかし思い直す。妻が夫を慮るのは当然だ。ならば何故そんなことに疑問を抱くのか。
「刀一本で鬼を討つ旦那も女房にゃ敵いませんか」
普段鉄面皮の甚夜が少なからず動揺した。その理由が妻とのやり取りにあると勘違いした店主は、心底面白がっている。
「そのようですね」
直次も同じような態度だ。二人はこの状況が常日頃のとして受け入れている。当然だ、これはありふれた日常の一端に過ぎない。ならば疑う方がどうかしている。なのに、違和感が拭い去れない
「……甚夜君?」
まだ少し戸惑っていると、おふうが不思議そうに声を掛けた。
「どうかしましたか?」
「ああ、いや」
おふうは普段との様子の違いから心配してくれている。しかしそれだけ。彼女もまた“いつも通り”甚夜を心配してくれているに過ぎない。
だからこの戸惑いを上手く言葉に出来なかった。彼女もまた現状を是としている。ならば疑問をぶつけた所で答えは返ってこない。
「旦那は最近連日鬼退治に行ってましたからねぇ。疲れがたまっているんじゃないですか?」
「そうですね。甚殿、今日くらいは体を休めてはどうでしょう」
男二人でにやにやと随分楽しそうだ。
その視線の先には夕凪がいる。彼らは言外に「家族水入らずで過ごしたらどうだ」と言っているのだ。
「いや、それは」
「駄目ですよ、甚夜君。ちゃんと奥様を大切にしてあげないと」
「おふうまで……」
味方は何処にもいないらしい。溜息を吐いて夕凪を見れば、妻もからかうような笑みを浮かべている。
「いいじゃないか、偶にはのんびり過ごそうよ」
だからもう一度溜息を吐く。
それでもやはり、何故か暖かくて、堪えきれず口元が緩んだ。
そうして今日も始まる。
何も特別なことはない。
いつも通りの一日だ。