牛込にある畠山家の屋敷、その庭には白木蓮が植えられている。
三月から四月にかけて、銀の毛に覆われた蕾が空を仰ぐように花開く。大輪のように見えるが白木蓮は開花しても微かに蕾んでおり、その慎ましやかな佇まいが優美さを醸し出している。
「土浦よ、見事とは思わんか」
座敷に鎮座する畠山憲保は、手にした小太刀の刀身をしげしげと眺めながら呟いた。
「は、それは?」
「葛野、と言ったか」
軽く指先で刀身を弾けば、涼やかな鉄の音が座敷に響く。それを憲保は楽しげに、土浦は僅かに眉を顰め聞いていた。
「先日刀剣商が屋敷を訪ねてな。葛野の刀に興味があったのだが、生憎と小太刀しかなかったが買うてみたのだ。日の本有数の鉄師の集落と聞いたが……確かになかなかのものだ。凡庸な造りに見えて味がある」
返答は出来なかった。土浦はただ黙し、俯いている。
「かっ、かかっ」
代わりに返ってきたのは、空気が抜けるような気味の悪い笑い声だった。
「畠山殿は見る目がある。葛野の刀は濁りが無い。まこと、名刀と呼ぶにふさわしき代物よ」
乱雑に襖をあけ座敷に入って来たのは、三十代前半の男だった。
五尺程度の背丈でありながら首の筋肉が妙に発達した、ちぐはぐな体つき。ぎょろりとした目が印象的だった。
名を岡田貴一(おかだ・きいち)。
畠山憲保の下で要人の暗殺に携わる人斬りである。
「貴一、帰ったか」
「貴殿の命は確かに果たした。斬りがいの無い相手ではあったが、そこは我慢をせねばなるまい」
「その割には、随分と楽しんできたようだが?」
貴一の腕は確かであるが、彼はあまりにも斬り過ぎる。
今回憲保は開国派の武士の暗殺を命じたが、標的以外の者も彼は斬り殺して帰ってきた。それでいて実に飄々としている。憲保が視線を送ってもその態度が崩れることはなかった。
「かっ、かかっ。それは仕方あるまいて。所詮儂は人斬り。ならば赴くままに人を斬るが道理よ」
にたりと笑う貴一。悪びれないその態度に、土浦は不快げに口元を釣り上げた。
「下衆が」
呟きに腹を立てた様子もなく、貴一は平然とした様子だった。
「おお、土浦。ぬしは儂が気に食わんか」
「当然だ。貴様が下らない趣味に興じれば憲保様に累が及ぶ」
「かかっ、相も変わらず濁った男よな。ぬしには余分が多すぎる」
土浦の言葉が大層面白かったらしく、にたにたとした笑いが更に歪んだ。
「畠山殿は、累をこそ嬉々として受け入れると思うがの」
言いながら意味ありげに憲保を見る。当の本人は全く揺らがず、自然体のままそれを受け流していた。
「さて、貴一よ。一つ頼みたいことがある」
そして徐に口を開く。
「お前に斬ってもらいたい男がいる」
「それは構わんが、また軟弱な開国派の武士か?」
「いや、今回は斬りがいのある相手だ。聞いたことはないか、江戸には鬼を討つ夜叉が出ると」
それが琴線に触れたらしい。
「ほう」
貴一は言葉を発さず、ただ表情を歪めた。
べたつくような肌触り。じっとりとした、鉄錆の匂いのする、凄惨な笑みだった。
◆
畠山憲保との邂逅から二日後。
約束の日を前日に控え、しかし甚夜はいつものように喜兵衛で蕎麦を啜っていた。
「よしよし」
食べている間はおふうが野茉莉を抱いている。厳めしい男よりもやはり優しげな女の方が安心できるのか、心地よさそうに寝息を立てていた。
「いつもすまんな」
「いいえ、気になさらないでくださいな。他にお客さんもいないことですし」
たおやかに笑う。おふうは鬼の討伐に出かける際、いつも野茉莉の面倒を見てくれる。有難いことだが、反面申し訳なくも思う。足を向けて寝られない、というのはこういう心情を言うのだろう。
しかし、おかしい。こういう時、いつもからかいの声を掛けてくるはずの店主が今日は一言もない。不思議に思い視線を向ける。厨房の店主は、竈の火の近くにいるというのに、青い顔をしていた。
「お父、さん?」
気付いたおふうが声を掛けるも反応はない。
「お父さん」
やはり反応はない。
「お父さん!?」
「うぉ!? な、なんだ!?」
三度目の大声にようやく反応し、しかし顔色は青いまま。歳のせいで以前より痩せたとは思っていたが、ちらりと見えた腕は想像以上に細くなっていた。
「どうしたんですか、何度も声を掛けたのに」
「お、おう。そうだったか。すまん、ぼーっとしてた」
語り口に活気はない。そう言えば近頃、体調の優れない日が増えているような気がする。疲れているだけではない。そもそもの体が衰えてきているのだろう。歳月を重ねていけば仕方のないことだ。
「少し休んだらどうだ」
「いやいや、仕事休んだら飯が食えませんて」
快活な笑み、少なくとも店主はそう見せようとしたのだろう。しかし疲労の色は濃く、頬は引き攣っていた。
「大丈夫だって、そんな心配そうな顔すんな」
「でも……」
おふうも僅かに潤んだ目を向けている。愁いを帯びた視線に気圧されたのか、ぎこちない笑みで店主は阿多会をガシガシと掻いた。
「あー、分かった。今日は早めに店を閉めて休む。それでいいんだろ?」
頑固で我が強く、しかし娘に弱いのが彼だ。流石におふうの憂慮を無視はできなかったらしく、溜息を吐きながらそう答えた。
おふうは満足げに大きく頷く。やれやれと呆れながら、それでも嬉しさを隠しきれない笑顔で受け入れる店主は、まさに父親といった印象だった。
二人のやり取りを見届けた甚夜は手早く蕎麦を食べ終え、懐から銭を取り出した。
「馳走になった。勘定は置いておくぞ」
「あ、甚夜君。ちょっと待ってください」
野茉莉を受け取り玄関へ向かおうと思ったが、おふうは抱いたまま離そうとしない。そして首だけ父親の方に向け、憂いの消えぬ表情で声を掛ける。
「あの、お父さん」
「ああ、構わねえよ。旦那のこと送ってやんな」
視線を交わし、二人して頷き合う。親娘の間では意思の疎通が出来ているのだろうが、傍目から見る甚夜には意味が分からない。不可解に思い眉を顰めれば、もう一度甚夜に向き直ったおふうがたおやかに笑った。
「少し、出かけませんか?」
◆
「これ、どうですか?」
「ん、ああ」
思わず曖昧な返答となってしまった。それも仕方がないだろう。「少し出かけよう」と言ったおふうに連れてこられたのは、神田川の近くにある瀬戸物屋。いきなりすぎて意味が分からず、甚夜は所在無さげに棚に置かれた陶器を眺めていた。
「たぁた」
「ん、野茉莉どうした」
腕の中では野茉莉がきゃっきゃっと無邪気に笑っている。思わず目じりが下がったのもまた仕方のないことだ。普段の鉄面皮からは想像もつかない、実に穏やかな顔つきだった。
「ふふ、甚夜君も娘さんにはそんな顔をするんですね」
それを目敏く見付けたおふうが小さく笑った
「あまりからかうな」
「別にからかった訳じゃありませんよ」
言いながら、おふうはまた陶器の方に視線を戻す。小さめの茶碗を一つ一つ手にとってじっくりと見比べていた。
「あ、これなんてどうですか?」
普通のものよりも少し小さく、底が広い深めの茶碗だった。
「どう、と言われてもな。そもそも何に使うのかが分からん」
「野茉莉ちゃんの使う丼をと思ったんです。店のだと大きすぎるでしょう?」
意外な答えだった。口を噤む甚夜に、おふうは言葉を続ける。
「こういうのがあれば野茉莉ちゃん用の小さなお蕎麦が作れますから。あと一年か二年もすれば必要になると思ったんですけど……迷惑でしたか?」
「まさか。私ではそこまで頭が回らなかった。気を使ってもらって済まない」
「いえいえ。常連さんには報いないといけませんから」
安心しほっと息を吐き、一転嬉しそうに顔を綻ばせる。
「だったらこれ、買ってきますね」
なら金を、というより早くおふうは店の奥に行ってしまう。普段姉ぶっている彼女の無邪気さに、甚夜は思わず笑みを落した。
「済みません、付き合わせてしまった」
「何を。野茉莉の為にしてくれたことだろう」
帰り道のんびりと二人連れ立つ。男女が並んで歩いており、腕には赤子。傍目からはそういう間柄に見えるかもしれない。もっともそうやって考えれば、男の方が赤子を抱いているのは珍しいが。
「そうだ、少し寄り道していきませんか」
そう言っておふうが一歩前に出る。
甚夜も言葉は返さず頷いて彼女の後を付いて行った。
散策はしばらく続き、気が付くと日は既に暮れはじめていた。
ゆったりと落ちながら空に溶けていく夕日。
遠く笑い声が聞こえる。恐らく仕事帰りの若い衆だろう。騒がしくはあるが昼の活気は薄れ、騒音に包まれた夕暮れ時は何処か寂しく映った。
わずかに感じる寂寞の中で少しだけ目を細め、流れる江戸の町の様相を眺めながら二人は歩く。
荒布橋を渡り、堀のように整然と整備された神田川を沿うようにいけば、草が押し茂り柳の立ち並ぶ場所に辿り着く。近付いて見れば、それはただの柳ではない。しな垂れた枝には五弁の真っ白な小花が咲いていた。
「ここに来るのは久しぶり……」
おふうは雪柳の下で立ち止まり、そっと手を添えて花を見上げた。
「そうか、もう雪柳の季節だったか」
目に映る懐かしい花。雪柳は傍目には柳に見えるが、実際には桜の仲間である。三月から四月にかけて咲く白い花。一つの枝に所狭しと咲いている白い花は、それこそ雪が積もっているようだった。
「ええ。今年の花もきれいですね」
夕暮れの中の白。懐かしさにおふうが目を細める。随分と昔この花の下で彼女と語り合った。生き方は曲げられず、けれど少しだけゆっくりと歩けるようになったのは間違いなく彼女のおかげだろう。
「寄り道して正解でした」
優しげに雪柳を愛でる。しかし、何となく違和感を覚えた。慕う父を放り出して買い物に出かけ、こうして寄り道までしている。どうにも彼女らしくないと思える。
「よかったのか」
「何がですか?」
「父親の傍についていてやらなくて、だ」
「いいんです。病気という訳ではありませんし」
違和感を覚えた、それは間違いだった。
取り繕ってはいるが、その言葉が強がりだということくらいは分かる。その程度には、歳月を共にしてきた。
本当は心配で、傍にいてやりたいと思っているのだろう。しかしおふうは雪柳の下から動こうとはしなかった。
「それに、今は甚夜君の方が心配ですよ」
彼女らしくないというのも大きな間違いだ。
肩を竦め、「仕方がないな」とでも言いたげな顔。本当に、女というのはどうしてこうも男を子供扱いしたがるのか。彼女の表情は、姉が弟に向けるそれだ。何時だって甚夜を気にかけてくれた、おふうの優しさだった。
「私が、心配?」
虚を突かれ、視線でどういうことだと問い掛ける。
「済みません、盗み聞いてしまいました」
遠慮がちにおふうが言う。
ああ、成程。彼女は畠山憲保からの依頼を聞き、だというのに明確な意思表示をしなかった甚夜を見て、何か思い悩んでいるのではないかと気遣ってくれたのだ。
「迷って、いるんですか?」
盗み聞かれても怒りはない。彼女のことだ、純粋に心配しての行動だろう。そう思える程度にはおふうを信頼しており、だからこそ素直に心情を吐露した。
「迷いはいない。ただ、戸惑ってはいるんだろう」
ぽつりと呟いた言葉に力はなかった。
確かに甚夜は憲保の依頼に即答できなかった。しかしそれは迷ったからではない。ただ自分でもどう言えばいいのか分からなくて、答えなられなかったのだ。
「無軌道な殺戮を繰り返す人斬り。流石に放っておく訳にはいくまい。畠山憲保の企みがなんであれ、私はそれを止めようと思った。だが……」
だが目的が在った。
果たす為に、強くなりたかった。
だから鬼を討ち、貪り喰い、<力>へと変えてきた。
今までそうやって生きてきたし、これからもそうやって生きていく。
それだけが全てで、それでよかった。
その筈だった。
「人斬りを止めることは、私の目的から考えれば大して意味はない。だというのに、当たり前のように人斬りを止めると考えた自分に愕然とした。だから畠山憲保に即答できなかった。そして今でも、そんな自分に戸惑っているんだ」
なのに、いつの間にか余分は増える
人斬りを止めたところで得る物などない。十二分に理解しながら、ふとした瞬間嫌な想像が脳裏を過る。
もしも人斬りの犠牲になるのがおふうだったら。
店主だったら。
直次だったら。
野茉莉だったら。
もう会えなくなってしまった、あの二人だったとしたら。
関係ない。誰が犠牲になろうと構わない。
そういう生き方を選び、友を、その妻を貪り食った。
母の想いを踏み躙り、父をこの手で殺した。
今まで散々斬り捨ててきた。斬り捨てるものが一つ二つ増えたからと言ってなんだというのだ。
心からそう思う。
心からそう思い、尚も湧き上がる不安が最善と思える道を選ばせてはくれない。
「私は、弱くなったのかもしれん」
憎しみの為に刀を振るってきた。
強くりたくて、それだけが全てで。
なのに全てと思ったものに専心できなくなってしまった。
なんという無様。強く奥歯を噛み締める。悔しさが、焦燥が、甚夜の肩を震わせていた。
「ふふっ」
しかしおふうは笑った。
其処に負の感情はない。微笑ましくて仕方がない、そういう母性に満ちた笑顔だった。
「何故笑う」
「いえ。ただ、甚夜君は可愛いなぁと思って」
意味が分からなかった。
言葉尻だけを聞けば馬鹿にしているとしか思えない。ただそう言った彼女は本当に穏やかな笑顔だから、反論する気にはなれなかった。
「多分、今の甚夜君は私が何を言っても納得できないと思います。でも、貴方の言う弱さを忘れないでくださいね。きっといつか、その弱さを愛おしく思える日が来ますから」
まるで花が咲くような笑顔。
彼女の言葉はやはり理解できなくて、甚夜はただ立ち尽くした。
夕暮れの中、雪柳に寄り添うおふうは本当に綺麗だ。本当は立ち尽くしたのではなく、見惚れたのかもしれない。
暖かな光景、けれど何故か寂しいと思った。
───思い出す遠い夜空。今も忘れ得ぬ原初の記憶。
それに比肩する夕暮れを寂しく思い、少しだけ瞳が潤むのを感じた。
その理由は分からない。
きっと、橙色の光が目に染みたのだろう。
そうして今日は過ぎ、約束の日が訪れた。