人は信じるに足らない。
 分かっていた筈なのに、理解していなかった。
 
 信じるな。
 誰かが囁いた。
 
 だから俺は願った。 
 壊れない体が欲しい。
 もし、壊れない体なら───
 
 ◆
 
 月のない夜だった。
 冷たい雨の降りしきる、江戸と京を結ぶ中山道。槐の葉が雨に打たれ揺れる。しなる枝は首を垂れるようで、何処か頼りない輪郭を宵闇の空へ浮かべていた。
 人はいない。
 代わりに蠢く二匹の異形の影が在った。
 
 雨に紛れ、甲高い鉄の音が響く。
 剛腕を掻い潜り懐に潜り込み、鬼の膂力を持って放たれた一刀はやはり簡単に弾かれてしまう。
 迫り来る拳を異形の左腕で防ぐが、勢いは殺しきれない。軋む体。しかし後ろには下がらず返す刀で首を狙う。
 打ち付けた瞬間、手に痺れが走る。その首を断ち切ることは出来ず、それどころか皮膚を裂くことも叶わない。
 軽い舌打ち。次の行動は速かった。地を蹴り後退。十分に距離を取ったところでもう一度構え直し、眼前の敵に正対する。
 視界には、全霊の斬撃を涼風のように受ける鬼。
 幾度目かの攻防はまたも傷一つ与えられず終わった。 
『何度やっても無駄だ』
 既に十を超える剣戟をその身に受けて、土浦は尚も平然としている。
 技量という点で見れば二人は互角。
 膂力や速力にも大きな開きはない。寧ろ<剛力>や<疾駆>で瞬発的に高められる分甚夜の方が有利である。
 だというのに甚夜は一方的な劣勢を強いられていた。
 当然だ。相手はいくら受けても傷を負わない。力量が然程変わらない以上、壊れない体は絶対の優位だった。
「無駄ではない」
 劣勢に立たされてはいるが、戦意はまだ失っていない。
 不敵ともいえる態度で甚夜が指差した先、土浦の胸元には僅か二寸程度の傷がある。掠り傷ではあるが、幾多の攻防を経てようやく与えた裂傷だった。
 例え僅かでも傷をつけることは出来た。
 だから確信する。
 不利は事実。だが決して相手は無敵ではない
 
「<不抜>……肉体の極端な硬質化。だが使用している最中は動くことが出来ない」
 ぴくりと眉が動く。
 その反応を見るに間違ってはいないようだ。
<不抜>は絶対の防御力を誇るが、使用中は全身を硬質化するため、筋肉や関節も固まってしまい動けなくなるのだろう。
『だからなんだ』
 自身の<力>の弱点を指摘されても土浦に動揺はなかった。
『それが事実として、貴様が俺を壊せんことに変わりはない』
 
 成程、確かにその通りだ。
<力>の弱点は看破したが、現状それは弱点になっていなかった。
<不抜>を使っている最中は動けない。
 仮説に間違いはない。しかし現実としてあの鬼は何の問題もなく動き回っている。何故か。そのからくりには当たりが付いていた。
 実に単純、土浦は攻撃が当たる瞬間にだけ<不抜>を使っているのだ。
 だから壊れない体と高速の挙動を両立できる。
鬼の<力>と人の業、その高次元での合一。鬼人たる甚夜が目指すべき一つの究極がそこにはあった。
 この男は本当に強い。
 壊れない体は確かに厄介だ。
 しかし真に恐ろしいのは壊れない体ではなく、攻撃が当たる刹那を見切るその判断力。それに比べれば<不抜>も練磨された体術も余技に過ぎない。
 この男が強いの、膂力に秀でた鬼だからではない。
人の業を習得しているからでも、<不抜>があるからでもない。
 能力が優れているのではなく、能力を扱う術に長けていることこそが強み。
 つまりこの男は鬼だから強いのではなく、土浦だから強いのだ。
 さて、どうするか。
 構えを解かず、意識は対敵に向けたまま思考を巡らせる。
 土浦は強い。そんなことは初めから分かっている。問題は如何に奴を斬り伏せるか。それを考えなくてはいけない。
 どうすれば<不抜>を打ち崩せるのか。
 動いている瞬間を狙っても、土浦は直撃の寸前に<力>を発動する。
<疾駆>の速度で距離を詰めても、<隠行>で姿を消し斬り付けても防がれた。
<飛刃>の威力は普通の剣戟と変わらないし<犬神>も威力が足らない。
<剛力>でも破ることが出来なかった。
 残された<空言>に攻撃力はない。
 現状の手札で効果がありそうなのは。
 思索はそこで中断された。
 八尺はあろう巨躯が、その大きさに見合わぬ速さで襲い掛かる。並みの使い手ならば反応すら許されない速度。しかし上半身は決してぶれない、正中線を意識した歩法。嫌になる程の練度の高さだ。
 激しく振る雨はまるで壁だ。それを貫くように突き出された拳。甚夜は避けることも防ぐこともせずに一歩を踏み込む。右腕で夜来を振るい、土浦の腕の下に潜り込ませる。防ぐのではなく、僅かに正拳の軌道を逸らす。岡田貴一が使った、無駄を削ぎ落とした剣。練度は及ばずとも真似事は出来る。
しかし真似事程度では完全に受け流すことは出来なかった。土浦の拳が左肩の肉を抉る。痛みはあるが、それを無視して返礼とばかりに異形の左腕で掌底を放つ。
 
『無駄だと言っている』
 鉄を殴ったような感覚。<不抜>はやはり破れない。土浦もそれを確信しているからこそ、甚夜の掌底を真っ向から受けて見せた。実際鬼の膂力をもってしても僅かな損傷さえ与えられなかった。
 土浦は無駄な攻撃を繰り返す甚夜に侮蔑の視線を向けている。
 甚夜は無表情のまま、しかし四肢に力が籠る。
 侮るな。
 この程度でお前を倒せるとは端から思っていない。この一撃の目的は、お前を打倒するのではなく、左腕で触れること。
 左腕がどくりと脈打つ。鳴動する異形の腕
 その空気に、何かまずいと感じたのだろう。土浦はすぐさま後ろに下がろうとする。
 
 だが遅い。
 甚夜の手札には<不抜>を破る程のものはない。
 だが防御力など関係なく相手に干渉する<力>ならばある。
 如何に壊れない体だろうと、壊すのではなく己が内に取り込む<力>。
「<同化>」
 鬼を喰らう異形の腕。
 その<力>をもって、お前を喰らい尽くす。
 瞬間、左腕から記憶が奔流となって入り込んでくる。
 遠い景色。
 白く染まる意識。
 自分のものではない記憶に何故か。
 いつか見た、始まりの場所を思い出した。
 ◆
 小高い丘。
 故郷を流れる川が一望できるその場所は、幼かった俺達のお気に入りだった。
 今日は子供の頃のように、彼女に手を引かれて丘を訪れた。
 そして何をするでもなく清流を眺める。
 遠い日々を思い出す。娯楽のない集落。あったとしても鬼子と呼ばれ除け者にされてきた自分では混じることは出来ない。そんな俺を気遣ってくれたのだろう。三つ年下の、幼馴染だった彼女はよくこの場所に連れて来てくれた。
 丘から見る清流は陽光を受けて瞬くように光を放つ。彼女はその様が好きで、遠い日にも今と同じように、二人並んで眼下に広がる美しい景色を眺めていた。
「豊臣様が亡くなられた。戦が起こるな」
 時折集落に訪れる商人から師匠がそんな話を仕入れてきた。豊臣の齎した一時の安寧は秀吉様の死後乱れ始め、戦の機運は高まってきていた。恐らく近々戦があるのだろう。それも、この国の行く末を決める程の大きな戦が。
「どうした」
 
 戦の話がつまらなかったのか、彼女は浮かない顔をしていた。
「別に、なんでもないよ」
 固い笑み。それで何でもないは無理がある。
 
「悩みでもあるなら聞くが」
 鬼子。
 虐げられていた幼い頃、唯一傍にいてくれたのは彼女だった。俺は彼女に救われてきた。だからこそ、少しでも力に為りたかった。
 なのに彼女は。
 一瞬だけ、泣きそうな顔をした。
「そっか、なら聞いてほしいことがあるの」
 しかし憂鬱の色は直ぐに消え、代わりの彼女はあまりにも柔らかな笑顔を作った。
 熱っぽく潤んだ瞳。
 ゆっくりと、彼女は口を開く。
「あたし、あんたのことが好きだよ」
 緊張に震えた声。しかしそれは確かに愛の告白だった。
 鼓動が高鳴る。まさか、という気持ち。同時に湧き上がる喜び。頬が緩む。そして俺はその言葉に何かを返そうとして。
 どすり、と。
 
 背中には鋭い痛みが。どすり。どすり。痛みが増える。おかしい。なんだこれは。何故俺の体から刀が生えている。
 ぎこちない動きで後ろを振りかる。
 そこには、いやな笑みを浮かべる数人の男。
 集落の若い衆だった。
「鬼め」
 更に斬り付けられる。鬼と呼ばれた所でこの身は人。面白いほどに体は刻まれ血を流す。
 もう一度、彼女に向き直る。
 幼馴染の少女は、泣きそうな顔をしていた。
 けれど驚いてはいなかった。
 多分、ここで俺が襲われることを彼女は知っていたから。
 いや、違う。
 
 今日此処に行こうと言い出したのは彼女だ。
 それはつまり。
「へへ、よくやったな。おかげで鬼を討てた」
 彼女の立ち位置は、男達の側だということ。
 俺は最初からこの場所で殺されるために呼び出されたということ。
 ───俺は、裏切られたのだ。
 理解した瞬間、膝が砕けた。ああ、俺は馬鹿だ。人は信じるに足らない。分かっていた筈なのに、理解していなかった。彼女なら信じられると誤解していた。
「後はあの鬼女だけだ。最初からこうしてりゃよかったんだよ」
 あの鬼女。師の妻を指しているのだろうか。集落の者達は、鬼を排除するために動いている? 俺も鬼として排除の対象になった?
 分からない。何も分からない。
 ただ膝をついたまま、彼女の顔を見上げる。
 視線が合って。
 
 ふいと彼女は横を向いて。
 もう、目も合わせてくれない。
 そうか。結局彼女にとっても俺は鬼子でしかなかったか。
 彼女は最初から、俺を殺す為に、この場所へ連れてきた。
 彼女にとって、俺の思い出の場所は。
 その程度の価値しかなかったのだ。
 苦しい。彼女の態度が想像以上に俺の心をかき乱す。喪失。絶望。憎悪。自分でも把握しきれない感情が胸の中で渦巻いている。
 血が流れる。
 段々と意識が朦朧としてきた。
 死が近付いている。
人は信じるに足らない。
 もっと疑うべきだった。何故彼女が俺に近付いたのか。それを考えていればこんなところで無様に死に往くこともなかっただろうに。
 胸に宿る後悔。
 だけどそれ以上に怖かった。
 ■■■のは怖い。
 騙され裏切られ、何の価値もなく朽ち果てていくことが、たまらなく怖かった。
 …………ない。
 俺は何もしていない。なのに謂れもなく何故死ななければならない。
 こん……ころで、……たくない。
 俺を裏切り、騙し、虐げてきた人がのうのうと生きているのに、何故俺だけが死ななければならない。
 こんなところで、死にたくない。
 情けないくらいに願う。
 無様な生への渇望。
 しかし、それが全てを変えた。
「お、おい」
「なんだよこれ……!」
 男達は驚きの声を上げる。
 だが逆に俺は平静を取り戻す。
 自分の身に何が起きているのか、正確に理解できる。
『何を驚いている……?』
“これ”はお前達が望んだことだろう。初めにお前達がそう呼んだ。今更何を驚く必要があるのか。
 体が作り替わっていく。突き刺さった刀が肥大化するに筋肉に押し出され独りでに抜けた。体躯も一回り大きくなり、額辺りから一本の角が生える。肌は青銅に変色し、全身には円と曲線で構成された、漆黒を赤で縁取りした不気味な紋様が浮かび上がっている。
「あ…あ……」
 彼女が怯えているのが分かる。
 しかし心は動かなかった。人は信じるに足らない。彼女もまた、信じるには足らなかったのだ。
 ならば、最早何も信じることはない。
 膨れ上がる憎悪。
 此処に。
 
 ───この身は、真実“鬼”と為った。
 群がる男どもを薙ぎ払う。人は脆い。簡単に肉は裂け血が飛び交う。声を上げることさえ出来ず男達が死骸に変わる。
 全て殺し、でも止まれなくて。
 次いで目に映るのは大切だった筈の女。
 彼女は怯え、しかし逃げようとはしなかった。
『逃げないのか』
 無感情な声。
 幼馴染だった。けれど彼女は俺を騙し殺そうとした。“鬼”となった今、憎しみは際限なく膨れ上がる。
 しかし彼女はむけられた殺気を感じているだろうに、一歩も下がらない。
「怖い、けど…逃げない。鬼になっても、あんたはあんただから」
 かたかたと震えながら、それでも平気だと強がって柔らかく笑う彼女の顔は。
 いつか、鬼子と呼ばれた自分に向けてくれた、小さなころの無邪気な笑顔で───
 信じるな。
 誰かが囁いた。
 この女はたった今俺を騙した。人は信じるに足らない。この笑顔も、言葉も、単なる命乞いでしかないのだ。
 ああ、そうだ。彼女は。情に訴えかけて命乞いをしている。たった今騙した相手に、そんな無様を晒しているに過ぎない。
 俺を、裏切りながら。
 思い至ったのと足が動いたのは同時だった。
 ずぶり。
 おそらく正気を失っていたのだろう。一瞬、自分が何をしているのか本気で分からなかった。
 気が付いた時には全てが終わっていた。
 
 嫌な感触が広がる。
 俺の手が、彼女の体を貫いている。
「あ………」
 漏れた声は、俺のものか。それとも彼女が零したのか。
 それすら分からぬ程に俺は茫然としていた。
 
 俺を殺そうとしたのは彼女で。
 だから俺のこの行為は正しい筈で。
 そう思う。それでも胸が締め付けられる。腕を引き抜けば彼女は力なく崩れ、そのまま仰向けに倒れ込む。
 彼女の視線は俺に向けられている。自分を殺した鬼に。
 なのに、彼女は。
 やっぱり、柔らかい、笑顔で。
「ごめんね、あたしは、あんたみたいに強くなれなかった……」
 響く残悔の声と共に、一筋の涙を流した。
 ほとんど無意識に彼女の手を取る。
 次第に動かなくなっていく彼女の体。
 肌に触れる血液だけが温度を持っている。 
 其処に至りようやく正気を取り戻す。
 俺は、一体、何を。
 握り締めた手が冷たくなっていく。
 当たり前だ。体を貫かれて生きていられる筈がない。
 彼女は俺が殺したんだ。
『違う……』
 違う。
 俺はこんなことをしたかった訳じゃない。
 騙された。裏切られた。
 悔しくて。自分が大切の思ったものが全部崩れてしまった気がして。
 でも、こんな結末は望んじゃいなかった。
 なのに止まれなかった。
 鬼は鬼である自分から逃れられない。
 死にたくない、という醜い執着は。
 疑心となってこの身を突き動かしてしまった。
 ───俺は、そういう鬼となったのだ。
 そして暗転。
 夢が終わる。
 あの日の美しい景色だけが、瞼の裏に残されて。
 だから、俺は願った───