むかしむかし、雲の上の天の国には、七人の美しい天女の姉妹が住んでいました。
天女達は天の神様の娘で、彼女達の仕事は白く美しい布を織ることです。この布からつくられた羽衣を纏えば、誰でも空を飛べるのです。
ある日のこと、姉妹の内一人が水浴びをしたいと思い、そこで彼女は羽衣に身を包み地上へと降り立ちました。
さて、所変わって地上では、一人の若者が暮らしをしていました。
両親を早くに亡くした若者は、鍛冶の村で一匹の子狐と共に細々生活しています。この子狐は近くの森で怪我して倒れていたところを若者が拾ってきたもので、以来若者を慕い彼の家に住み着いていました。
ある夜のことです。床に就こうとしていた若者に向かって、子狐は人間の言葉で言いました。
「ご主人様、明日は美しい天女が水浴びに地へと下りてきます。彼女の羽衣を盗んでしまえば、天女は天へ戻れず貴方の妻になるでしょう」
突然人の言葉を喋ったことに若者は驚きましたが、長く一緒にいるせいか、怖いとは思いませんでした。そして子狐の言葉に従い、教えられた川のほとりで天女が現れるのをじっと待ちました。
するとどうでしょう。
子狐の言った通りに見目麗しい少女が空から降りてきたではありませんか。
天女は羽衣を脱ぎ、近くの木にかけ、水浴びを始めます。
これは好機。
若者はこっそりと木に近付き、羽衣を盗んでしまいます。
水浴びを終えた天女は、羽衣を奪われてしまったことに気付き、さめざめと泣きながら若者に懇願します。
「お願いです、羽衣を返してください。それがないと私は天へと帰れないのです」
しかし若者は聞きません。それどころか天女の目の前で羽衣を燃やしてしまいます。
泣き崩れる天女に若者は言いました。
「私は貧乏ですが、貴女のために一生懸命働きます。ですからどうか、私の妻になってください」
空へ還る術を失くした天女にはもとより選択肢などありません。
だから天女は仕方なく、若者の妻になりました。
でもそれほど不幸ではなかったのかもしれません。
若者は言葉の通り、必死になって働きました。その姿を傍で見続けた天女は少しずつ若者に魅かれていきます。
そしてしばらくの後には天女も彼を認め、互いに好き合うようになりました。
こうして天女は真実、“若者の妻”となったのです。
流魂記 『狐の鏡』より抜粋
─────見上げれば晴れ渡る空。
澄み切った青は今も変わらず其処に在る。
けれど、いつか飛んだあの場所は遠くて。
最早届かぬと知りながら、地上の天女は空を見る。
彼女の瞳は空へ何を映したのだろう。
在りし日の幸福?
囚われた悲哀?
冷め遣らぬ郷愁?
色褪せぬ景色。無邪気に空を飛べた、揺らめき滲む玉響の日々。
若者の妻となった今でも空への憧憬が消えることはない。
想いは費えることなく溢れ、しかし形にならず日常に埋もれる。
帰りたいと。
どんなに願ったとしても空へは帰れない。
天を仰ぎ、手を伸ばしても、空はただ其処に在るばかり。
“若者の妻”
今は異郷で与えられた望まぬ称号だけが彼女の居場所。
天女はそこから一歩も動けない。
それを受け入れなければ生きていけないと知っているから。
だから逃げられない。
懐かしい天への想いだけを置き去りにして、彼女は地に縛られた。
それでも緩やかに歳月は流れる。
空へ帰れぬ自身を憐れんだこともあったが、天女はそれなりに幸せな日々を送っていた。
初めは無理矢理だった“若者の妻”という立ち位置も、悪くはないと思い始めていたのかもしれない。
毎日は慌ただしく過ぎて、そして不意の暇に天を仰ぐ。
見上げれば、いつか見た、晴れ渡る空。
あの青は今も変わらず。
けれど、彼女が空を見ることは少なくなった。
こうして天女は飛べなくなった。
空への憧憬はまだ胸に在る。
なのにいつか過ごした筈の日々を遠く感じる。
此処には切り取られたように空だけが在って。
天はいつの間にか彼女にとって、帰るべき場所ではなくなっていた。
天から降り立ち、地に囚われた女。
若者の恋慕に絡め取られ、帰る場所を奪われた。
悲哀や嫌悪は彼女の身を苛んで。
けれど心は変わる。
悲哀は薄れ、嫌悪したはずの若者との生活に安寧を感じるようになった。
穏やかに過ぎる日々の中で空を自由に舞う自分さえ忘れてしまった。
長く地に居たせいだろう。
彼女は、“天女”ではなくなったのだ。
さて、憎むべき若者に恋をした彼女は、果たして何に囚われていたのだろう。
彼女を繋ぎ止めていたもの。
彼女が繋ぎ止められたもの。
地に縛られたのは体か。
或いは、飛ぶことを忘れた心だったのか───
鬼人幻燈抄 余談『林檎飴天女抄』
2009年 8月
なんだか、とても珍しいものを見た。
「む、みやかか」
夕方、道端で偶然友達と出会った。
いや、友達と言っていいのかすごく微妙だけど。仲が悪い、ということじゃなく、普通の付き合い方をしていないので普通に友達と言っていいのかよく分からない。
取り敢えず彼が変な奴だってことだけは確かだ。
「なに、その恰好」
それは言いとして、私は彼の格好に驚いた。
普段は学生服か、ジーンズとシャツのラフな格好しか見たことが無い。でも今の彼は何故か浴衣を着て、夕暮れの町並みを堂々と歩いている。しかもやけに似合っていて、まるで時代劇の1シーンかというくらいのハマり様だ。
「見ての通りだが。今日は甚太神社で縁日があるだろう?」
確かに今日は八月の十五日、うちの神社のお祭りの日だ。昨日から道路の方までテキ屋さんが入って、小さいながらに神社は大賑わい。夏休み終わり間近のイベントとして楽しみにしている人も多いだろう。
「そうだけど。行くの?」
「ああ。お前は?」
「行くっていうか、私は手伝う側だから」
神社のいつきひめとして、雑事にてんやわんやで縁日なんて楽しめる訳がない。
お母さんは別に「手伝わなくていいのよ」って言ってくれるけど、毎年忙しそうにしているのを知ってる。だから少しくらい楽させてあげたかった。
「でも、なんか意外かな。こういうの好きなようには見えなかったし」
正直、彼がこういったイベントに自分から参加するとは思ってもいなかった。
私の指摘に彼は少しだけ苦笑する。
「そうでもない。祭囃子を聞きながら呑む酒は格別だ」
「おい高校生」
なんか聞いてはいけないことを聞いてしまった。
ちなみに未成年者の飲酒は法律(未成年者飲酒禁止法)で禁じられています。
「なんだかなぁ。じゃあその浴衣って縁日の為?」
「浴衣ではなく着流しだ」
訂正されたけど、違いが今一つわからない。
私が疑問に思っているとすぐに説明してくれた。
「浴衣は湯上がりや夏場の着物。着流しは襦袢と着物……袴を省いた略着だな」
相変わらず妙なところで博識だ。機械系は全然ダメなのに。どれくらいダメかというと、未だにブルーレイをDVDどころかビデオとか言ってしまうくらいだったりする。
「へぇ。それにしても、気合い入れ過ぎじゃない?」
「なにがだ」
「その恰好。普段着で行く人だって多いのに、わざわざ、着流し? なんて」
私の問いに、彼は珍しく笑った。
落すような、凄く柔らかい笑い方だった。
「気合も入るさ。古い馴染みとの、随分前からの約束だ」
そう言った彼の声は本当に優しくて、だから何となく分かってしまった。
「………………もしかして、女の子?」
「ああ。よく分かったな」
否定するとか照れるとか、そういう反応は全然なく、まったく平然と言ってのける。
「ふーん……随分と嬉しそうだけど、可愛いんだ?」
半目になった私の言葉に彼は頷き、あまりにも堂々と言ってのける。
「無論だ。何せ相手は天女だからな」
勝ち誇ったような彼の言い方に、思わず呆気を取られた。
「では、な。そろそろ行かせてもらう」
「え、あ、ちょ」
そのせいで上手く受け答えが出来ず、彼が立ち去るのを止めることさえ出来ない。私がまごまごしている間に彼はどんどん歩いて行き、直ぐに見えなくなってしまった。
天女みたいな女の子、なんて恥ずかしいことを言った彼。そして一人残された私。
だから何、という訳でもない。なのに、なんだか負けたような気がした。何に負けたのかはよく分からないけど。
とりあえず、
「……………………なんか、むかつく」
ぽつりと呟く。
答えるようにカラスがカァと鳴いた。
◆
明治五年(1872)・八月
「縁日?」
甚夜は厨房で蕎麦を打ちながら聞き返した。
「そ。一週間後、荒城神社で縁日があってなぁ」
蕎麦を啜りながら話しかける男、秋津染吾郎は相変わらず張り付いたような笑みを浮かべている。
『鬼そば』の建つ京都は三条通から少し外れると、木々に囲まれた神社に辿り着く。古くから信仰され、今も多くの参拝客が訪れるこの荒城稲荷(あらきいなり)は、三条界隈では有名な神社である。
もっとも、それは信仰の対象である祭祀施設としての知名度ではない。有名な理由は八月の十五日に行われる縁日の為だった。
荒城神社の境内は広く、縁日の夜には多くの屋台が出店し大層な賑わいを見せる。本来縁日とは神仏との有縁を尊ぶ神事だったのだが、現在では大衆が騒ぐ口実になっている場合がほとんど。荒城稲荷神社の縁日も御多分に漏れず、娯楽としての意味合いが大きかった。
「野茉莉ちゃんと一緒に行ってみたらどない? 偶にはええやろ」
言葉尻だけを捕えれば全くの善意。しかし染吾郎はやはり作ったような表情で、それが善意だけの言葉ではないのだと分かる。何か裏があるのは間違いない。
「で、本当の所は?」
表情も変えずに短く問えば、待ってましたと言わんばかりに染吾郎は顔を明るくした。
「うん、君は話が早うて助かるわ。おもろい話仕入れてきたんやけど、聞くやろ?」
やはり、そういう話か。
毎度毎度のことながら、自分が受けた依頼を甚夜に押し付けようという魂胆だった。
もっとも、それは甚夜にとっても望むところ。願ったりかなったりというものだ。勿論染吾郎もそれを理解しており、が嫌いではなかった。
「荒城稲荷神社の祭神って何か知っとる?」
「稲荷神社は稲荷神(いなりがみ)を祭っているに決まっているだろう」
「ま、そらそやな。その通り、荒城はお狐様を祭っとる。そんで、その御神体は鉄を磨いて作られた鏡なんやけど、ちょっとした説話が在ってな。昔この辺りに降りてきた天女を空へ返す時に使ったのがこの鏡なんやと」
蕎麦を食べ終えて、茶を啜り染吾郎は続ける。
何でもこの辺りには空から降りてきた天女と地上の男が結婚したという天女譚があるらしい。この手の異類婚姻譚は各地に残っている。然程珍しい説話ではなく、細部は違えど天女の来訪や羽衣を奪われ地上の男と婚姻などどれも似通った話だ。
「羽衣伝説か」
「そうそう。そやけど荒城の天女譚は、他の地方とちょっと違ってなぁ。天女は羽衣を奪われ若者の妻になるんやけど、病気になってまう。そやから若者自身が天へ妻を返そうとする。その時に使ったんが天と地を繋ぐ鏡、つまり荒城の御神体である鉄鏡って話や」
「天女を空へ返した鏡……」
それをただの説話とは思わない。
甚夜の持つ夜来は千年の時を経て尚も朽ち果てぬ霊刀だと謳われており、事実三十年以上実戦で使っていても刃こぼれ一つない。夜刀守兼臣は鬼の血を練り込むことで特異な力を得た。
そして染吾郎の扱う付喪神もある。物であっても歳月を経れば想いを宿す。ならば御神体として崇拝を集めるものが、長い年月をかけて地と天を繋ぐ鏡に変化したとしても驚くようなことではないだろう。
「こっからが重要な所。なんや昨日の晩、鏡が安置されとる本堂から光が漏れてきたらしくてなぁ。それを見たっていう男の話やと人影もあったとか。荒城の神主は賽銭泥棒の類が持っていた明かりやないかって特に気にした風やないんやけど……なんや、おもろそうやと思わん?」
にたりと、口元を釣り上げる。
「今回は別に依頼があった訳やない。でも、君好みの話やろ?」
確かに興味深くはある。
鏡の真贋は分からないが、鬼がいるのに天女を信じない道理はない。そして光や人影を見たという目撃談があるのならば、鬼にしろ天女にしろ、怪異を起こしうる“何か”が其処にはあるのだ。
ならば首を突っ込んでみるだけの価値はあるか。
「確かに、面白そうではあるな。今の話、代金代わりに受け取っておく」
「お、悪いなぁ」
普段世話になっているのだ、蕎麦の一杯くらいはいいだろう。
きつね蕎麦を食い終え、染吾郎は店を出て午後の仕事へ戻っていく。店内には結構な数の客が残っており、甚夜の仕事もまだまだ終わりそうにはない。
「しかし、縁日か」
天女の説話、謎の光。気になる点は幾つかあったが、縁日の方にも興味がある。そう言えばまだ野茉莉を連れて行ってやったことはなかった染吾郎の言う通り、怪異を解き明かした暁には、野茉莉と屋台を冷かすのも悪くないかもしれない。
◆
「お待たせして申し訳ありません。ここの神主を務めております、国枝利之です」
「これはご丁寧に、葛野甚夜と申します。三条通で蕎麦屋を営んでおります」
荒城稲荷神社の神主、国枝利之(くにえだ・としゆき)は痩せ衰えた四十も後半に差し掛かろうという初老の男だった。
柔和そうな雰囲気通りの人物で、甚夜の率直な質問にも嫌な顔一つせず付き合ってくれた。
「ええ、確かにこの地方には天女が降り立ったという説話が残されております。また当社の御神体である鉄鏡が天と地を繋ぐという説話もあります。しかし昨日の件はやはり賽銭泥棒かと。説話はあくまで説話。そう頻繁に起こることではありませんよ」
染吾郎から話を聞いた後、甚夜は店を閉めて荒城稲荷神社を訪ねた。
聞けば神主は昨日本堂で見られたという光と人影はただの賽銭泥棒だと結論付けているらしく、あまり気にしていないようだった。
「そうですか……その鉄鏡というのは、見せて頂けぬものでしょうか」
「申し訳ありませんが、一般の観覧は御遠慮していただいております」
まあ当然のことか。
神社の建築物のことを社殿と呼び、社殿は本殿と拝殿の二つに分けられる。人々が普段参拝する際に訪れるのは拝殿であり、御神体が安置されるのは拝殿の奥にある本殿である。
そして本殿へ入ることが出来るのはその神社の関係者のみというのが一般的だった。
御神体は祭神と同一の存在ではないが、それに近しい聖なるものとして扱われる。それ故に、御神体とは本殿の御扉の奥に蔵し、衆目に晒さぬのが常となっているのだ。
それは荒城神社でも同じようで、頼み込んでも御神体は見せてもらえないだろう。
「ところで葛野さんは蕎麦屋を営んでいると仰りましたね。どうですか、まだ境内に空きもありますし縁日で屋台などを出してみては」
「折角の誘いですが」
目を伏せ、申し出を断る。
見回せば境内は一週間後の縁日に向けて少しずつ準備が進められているようだ。屋台を出店する者達だろう、様々な機材を持ち込んで組み立てている。
「ん……」
「どうかされましたか」
「いえ」
今、本殿のある方、神社を囲う木々──鎮守の杜辺りで何かが動いたような気が。
神主の方を見ても不思議そうな顔をしているだけ。どうやら彼は気付かなかったようだ。しかし目の端とはいえ、甚夜は確かに蠢く影を見た。
「何か気になることでも?」
誤魔化すように首を振る。勿論、見えた影は気のせいなどではない。しかし「本殿の方で何か動いたような気がしたので見に行ってくる」と正直に伝えても止められるのが関の山。此処は何でもないふりをして、後で調べるとしよう。
「しかし、随分と賑やかですね」
「祭りの夜はもっと賑やかになりますよ。私は毎年これが楽しみで」
話を逸らすための言葉だったが、それを受けた神主は万感といった風情で返した。
若かった頃でも思い出しているのか。神主は郷愁を感じさせる穏やかな表情を浮かべている。
「何か思い出でも?」
「ええ……この季節になるといつも思い出します。遠い、夏祭りを」
緩やかに紡ぎだされる熱。纏う雰囲気が先程までとは全く違ったせいだろう。自然と甚夜は問い掛けようとして、
「あなた」
先に発された言葉にそれを掻き消された。
声をかけたのは、神主と同じ年の頃の女性だった。すっきりとした顎の線に少し垂れた目尻。恐らく若い頃は大層な美人だったのだろうと想像できる老淑女は、柔和な笑みで甚夜に一礼をした。
「ああ、“ちよ”」
親しげな呼びかけ。神主の奥方なのか、仲睦まじい様子が見て取れる。
「お話し中申し訳ありませんが、お客様がいらしていますよ」
遠慮がちに、こちらに目配せをしながらちよは言う。奥ゆかしい立ち振る舞い。神主の応対も柔らかく、それだけで仲睦まじい夫婦なのだと分かる。
「そうか。では葛野さん、これで失礼させて頂きます」
「いえ、こちらこそお手間をかけました」
これ以上話していても得るものはないだろう。軽いお辞儀をして、この場を離れていく神主とちよを見送った。二人の後ろ姿は正におしどり夫婦と言った印象である。
不意にくるりと振り返ったちよは、優しげに顔を綻ばせながら言った。
「甚夜様、何かありましたらまた訪ねてくださいね。お待ちしておりますから」
そこに嘘はない。奥方は社交辞令ではなく、本心からそう言ってくれているのだと感じられる。
「有難うございます。では、私もこれで」
甚夜が返した言葉に満ち足りた笑みを浮かべゆっくりと頷く。
突然の来訪の上、不躾な質問も多かった。だというのに神主もその奥方も甚夜の来訪を歓迎するような態度だった。ああいう心の広い人間でないと、神に仕えるということは出来ないのかもしれない。そんなことを思い、だからこそ多少の罪悪感を覚える。
「済まん」
聞こえる訳もないが謝罪を口にする。
そして甚夜は境内から本殿の方へと移動した。先程の影が何だったのかを確かめたかった。とは言え、迂闊に本殿へ近づけば奇異の目で見られ、最悪の場合官憲を呼ばれる。
だから、
<隠行>
申し訳ないが、こういう手段を取らせて貰おう。
姿を消し本殿の近くへ。神社は大抵の場合森林に囲まれており、これを鎮守の杜と呼ぶ。荒城稲荷神社の周りにあるのは森林というほどの規模ではないが、それなりに木々が折り重なっていた。周囲を警戒しながら木々が作る陰へ足を進める。
がさり。
本殿の裏手に辿り着いた時、木々の根元、雑草を踏み締める音が響いた。腰の者に手をかけ、<隠行>を解き、音の方向へ視線をやる。
『アァ……』
一匹の鬼がいた。
背丈は甚夜とほぼ変わらない。顔は能面のような無表情、薄紫の肌をしている以外は大して特徴のない鬼だ。
甚夜は鬼を前にしても刀は抜かず、ただ怪訝そうに眉を顰めた。
と言うのも、鬼は既に死に体。白い蒸気を撒き散らし、今にも消え入りそうな状態だったのだ。腹は裂かれ血が流れている。そして鬼の爪は血で塗れていた。
つまりこの鬼は、自分で自分の腹を掻っ捌いたのだ。
いったい何故。
こちらの戸惑いなど関係なしに鬼は嗤う。
『マガツメ様……私は、やりました』
何処か感情の籠らない言葉を残し、鬼は完全に消え去った。
甚夜は表情を歪めた。自己完結して勝手に消えた鬼。あれは一体なんだったのか。思考を巡らせ、直ぐに止める。どうせ考えた所で分からない。ならば頭を働かせるだけ無駄だ。そう思い、しかし少しだけしこりが残る。
「また、マガツメか」
どうやらあの鬼もマガツメの配下だったらしい。ということは、昨日の光にもマガツメが関わっているのだろうか。
だとすれば、もう少しこの辺りを調べた方がいいかもしれない。
周囲への警戒を強め、鎮守の杜に踏み入る。しかしすぐに足が止まった。あの鬼が来た方向に人影が見えた。それは段々とこちらに近付いてくる。
あの鬼の仲間か。
鯉口を切り、いつでも抜刀できる状態で待ち構える。相手はまだ気付いていないのか、無造作に歩いていた。さて今度はどんな鬼が出てくるのか。摺足で半歩進み、神経を研ぎ澄まし、敵の姿を確認する。
「うぅ、ここどこ……? ねー、いるんでしょ? これ絶対〝おしごと”関係だよね? お願いだから出て来てよー」
しかし途端に体から力が抜けた。敵、というにはあまりに緊張感のない少女の様子に、警戒した自分が馬鹿のように思える。
「なんだあれは……」
其処にいたのは、幼げな娘だった。
薄水色の生地に朝顔の刺繍が入った浴衣を纏った少女。年の頃は十三、四といった所か。小柄でまだまだ幼さの残る顔立ちだ。
後頭部の低い位置で髪を束ねただけの簡単な髪形、しかし髪は艶やかな黒色で丁寧に手入れされているのが分かる。髪を縛っているのは紐ではなく、何と言おうか、飾り布とでも言うような赤い布だった。
顔立ちは整っているが、まだ少女の域を出ておらず、美しいと言うよりも可愛らしいという表現の方が似合っている。
「あっ!?」
しばらく眺めていると少女の方もこちらに気付いたようで、ぱあっと表情を明るくし、まるでじゃれつく子犬のように傍へと駆け寄る。
「よかったぁ、やっぱりいたぁ。ようやく会えたよー」
そうして彼女は甚夜に近付き、しかしその姿を改めて見て、何故か凍結したように固まった。
「え、と。あの、え? なんで?」
口から出てきたのは、まったく意味の分からない間抜けなものだった。