<八月九日>
ふと奇妙な違和感に目を覚ます。
「ん……」
寝ぼけ眼をこすり、辺りを見回せば、そこは見慣れない畳敷きの部屋。隣で眠っている幼い女の子。もう一つあった布団は綺麗に整え片付けられている。此処は何処だろうと考え、昨日のことを思い出す。
昨日は、確か。
脳裏に浮かぶ、自身の身に起こった荒唐無稽な出来事。
そうだった。
私はなんだかよく分からないけど、明治時代に来てしまったんだ。
少女は溜息を吐いた。
此処に来た原因は分からない。つまり今の所自分が元いた場所へ帰る手段はないということだ。知り合いに会えて昨夜の寝床は確保できたのは幸いだったけれど。
「明治時代でクラスの男の子に会いました、なんて誰も信じてくれないよねー……」
思わずくすりと笑う。
少女が甚夜と自分の知っている“彼”を繋げて考えられたのは、以前本人から正体は鬼で、百歳を超えているのだと聞いていたからだ。
そして腰に差した、夜来と呼ばれる刀。
夜来は自分の愛刀で、集落の長に託されてからずっと使い続けた。
他人に預けたのは後にも先にも一度しかないと彼は言っていた。
だから葛野甚夜と名乗った男が同姓同名の他人の空似でもご先祖様でもなく、彼本人なのだと理解できた。
でも、これからどうしようか。
彼の厚意で取り敢えずは助かった。
だけど、いつまでもこのままという訳にもいかない。
思い悩んでいると、物音が聞こえた。誘われるように寝床を抜け出し、襖を開けてみる。
其処には、黒の羽織と灰の袴を纏う、見知った男がいた。
「起きたのか」
この家の主、甚夜は店舗の厨房で何か作業をしている。見れば竈には火が入っており、ことことと鍋が音を立てていた。どうやら朝食の準備をしているようだ。
「え、と。葛野君、おはよう」
挨拶をしてから自分が起き抜けだったことを思い出し、少女───朝顔は頬を赤く染めた。流石に起きたばかりの姿を男の子、しかもクラスメイトに見られるのは恥ずかしかった。
「顔を洗いたいんだけど、どうすればいい?」
「裏の庭に小さな井戸がある。使え」
「あはは、井戸、ね……」
苦笑いを浮かべる朝顔。何かおかしなことを言っただろうか、と甚夜は疑問を抱いた。しかし問うよりも先にぱたぱたと庭の方へ向かっていく。
「兼臣といい、最近の若い娘はよく分からん」
そんな愚痴を零しながら、小さく溜息を吐いた。
◆
「いらっしゃいませー!」
いつも通り昼時を少し過ぎ、店が落ち着いた頃を見計らって秋津染吾郎は『鬼そば』へ訪れた。
暖簾をくぐれば元気な声に迎えられる。声の主は可愛らしい少女で、普通ならば気分がよくなるところだろうに、染吾郎は違和感に目を白黒させた。
「あれ、僕、店間違えた……?」
「お師匠、間違ってないです」
この店にいる女は旧知である兼臣だけだと思っていたので、染吾郎の驚きは大きかった。
彼の弟子である平吉は普段通りむすっとした顔である。とは言え見慣れない店員に興味があるようでちらちらと目の端で追っている。
「染吾郎か」
「なあ、甚夜? あー、兼臣は?」
「殿方と逢瀬、だそうだ。何にする」
「あー、うん、そやね。きつね蕎麦もらおかな。平吉は?」
「……天ぷら蕎麦で」
歯切れの悪い二人、しかし応対する甚夜は至っていつも通りだ。
そうまで普通にされると間違っているのは自分達の方ではないかと思ってしまう。ぎこちない動きで二人は近くの席に腰を下ろす。
すると先程の少女──朝顔が、お盆に湯呑を乗せて近付いてきた。
「はい、どうぞっ」
朗らかな、実に少女らしい笑顔だった。
小柄で、顔立ちは幼げ。後頭部の下の方で髪を纏めた、見慣れない赤い飾り布。朝顔の浴衣で店内をちょこまかと動く姿は、小動物的な可愛らしさがある。
しかし普段の鬼そばを知っているだけに、どうにも朝顔の存在を奇異なものと感じてしまう。
「……あ、ありが、とう?」
「……ども」
詰まりながら言葉を返す。表情は軽く引き攣っていた。
「はあ、天女なぁ」
取り敢えず今までの経緯を説明すると、染吾郎は大きく溜息を吐いた。
「世の中には不思議なことがあるもんやね」
「お前が言えたことではないだろう」
「そらごもっとも」
もともと荒城稲荷神社の話を持ってきたのは染吾郎だ。話を聞いてから納得するまでは早かった。
「と、自己紹介がまだやったね。僕は秋津染吾郎、こいつの親友や」
「だから誰が親友か」
「あはは、君は照れ屋やなぁ。ほれ、平吉」
今度は弟子に挨拶させようと促すが平吉は名乗らない。朝顔に懐疑的な目を向けている。
「光と現れた……? なんやそれ。こいつも鬼なんちゃうか」
光と共に現れた女。付喪神使いを志す彼にとっては、天女よりも鬼女の方がまだ説得力があるのだろう。向ける視線に興味ではなく、若干の敵意が見て取れた。
「あ、あの、ええっと」
あからさまな態度に一歩二歩後ずさる。
「こら、平吉。すまんなぁ、朝顔ちゃん。こいつあほやから」
「いてえ!?」
笑顔で朝顔を気遣いながら、平吉の頭にげんこつが振り下される。
ごん、という音が響いた。結構な力を込めたらしい。平吉は頭を押さえて並で目立った。
「なにするんですかお師匠?」
「殴られた意味が分からんのやったら黙っとき」
言葉の通り、ぐう、と押し黙り俯いてしまう。
その様を見て、朝顔の方が慌て出す。
「あの、秋津さん? 私は別に怒ってないですから、あのその」
「あはは、朝顔ちゃんはええ娘やね。でも僕が怒ったんは別に、君を鬼やゆうたからちゃうよ?」
「え?」
染吾郎の意外な返しに言葉が止まる。言った本人は、実に堂々とした、父性を感じさせる穏やかさで言葉を続けた。
「この子はいずれ付喪神使い、いや、四代目秋津染吾郎になるかも知らん。だから、鬼を前にしたからてあからさまな敵意を見せるような、そんな器のちっさい男やったら困るんや。清濁を飲み干すくらいの器量が無いと“秋津染吾郎”は譲れんよって」
それは、まぎれもなく師としての言だ。
またも平吉の目が潤む。今度はげんこつの痛みではなく、言葉に涙腺が緩んだ。
「お、お師匠」
「平吉。鬼を好きになれ、とは言わん。でも付喪神使いは付喪神を使う。取りも直さず鬼を使役するのが僕らや。せめて受け入れな、力に為ってくれんよ?」
「……はい」
納得はしていないようだが、言いかえす程の反発もない。平吉は黙って蕎麦を食べ始める。仕方がない子だ、とでも言うように染吾郎は肩を竦めた。
「ごめんな、変なとこ見せて」
「いえっ、そんな」
急に声を掛けられて朝顔はびくんと体を震わせた。
「そういや朝顔ちゃん、こいつんとこに泊まっとんの?」
「はい。おかげで野宿せずに済みました」
「ほうほう」
それを聞いて染吾郎は、先ほどの師匠の顔から一転にたりといやらしい笑みを浮かべた。
「甚夜、えらいお盛んやなぁ」
心底面白いといった様子、完全にからかう気だった。
「なにがだ」
「いやいや、娘おるくせに二人も女連れ込むとか。やるなぁ。よっしゃ、ちょい待ちぃ。今から東京行って来るから。そんでおふうちゃんに現状伝えてくるわ」
「ほう、その首要らんと見える」
「冗談、じょーだんやって。本気で睨むとかやめてえな」
勿論染吾郎の軽口だと分かってはいる。だが放っておくと何処までも行くのがこの男だ。早めに止めておくのが身の為だろう。
「おふうさんって?」
朝顔は興味津々といった様子で聞いてくる。隠すことでもない、甚夜は割かし素直に答えた。
「恩人だ」
「恩人?」
「おふうには様々なことを教えて貰った。今の私があるのは間違いなく彼女のおかげだろう」
「へー、恋人とか?」
「その手の艶っぽさはなかった。友人であり、姉のような。どうにも上手く言い表せないな」
落とすような笑み。優しさに満ちた目。朝顔はそんな甚夜を見て実に楽しそうだった。
「どうした」
「え、なんか意外だなぁって。そんな顔もするんだね。それに親友もいるし」
「だから違うと言っている」
「またまたぁ」
先程の説明では昨日会ったばかりということだが、それにしては随分と仲がいい。染吾郎は二人のやり取りを微笑ましく眺めていた。
◆
「父様、早く早く!」
午後、小学校から帰ってきた野茉莉と共に甚夜は三条通にある呉服屋へと出かけた。
兼臣は朝早くから「殿方と逢瀬に」出かけたまま帰ってきておらず、家では朝顔が留守番をしてくれている。おかげで今日は親娘水入らず、野茉莉は久々に父と出かけられるのが嬉しいようで、見るからにはしゃいでいた。
「そう引っ張るな」
手を繋いだまま野茉莉が走るものだから、甚夜も引っ張られる形になり自然早足となっていた。
嗜める言葉を口にしながらも表情は優しい。心地好い陽気、すれ違う人々もどこか楽しげに見える。数年前の京は動乱の最中にあり、こうやって遊山に出ることさえ危ぶまれた。
それが今は穏やかに午後の時間を楽しむことが出来る。本当に時代は変わったのだ、今更ながらに甚夜は実感した。
───すれ違う人々の中には、携えた太刀に奇異の視線を向ける者もいる。
時代は最早刀を必要としていない。
その事実をまざまざと見せつけられたような気がした。
「いらっしゃいませ」
辿り着いた呉服屋には所狭しと反物が並べられていた。とはいえ、陳列されている商品から上物を選べるほど着物には詳しくない。下手に自分で選ぶよりも聞いた方が確実だろう。そう思い甚夜は店主らしき恰幅の良い男に声をかけた。
「浴衣を見せて欲しい」
「浴衣ですか。それならば長板本藍染のものはどうでしょう。この藍染は、絹に染めるのと同じ様な細かい文様を木綿に染める技法で、これを使って染めた浴衣は絹の着物に負けないほど優雅で美しくなります」
「ふむ。どうする、野茉莉」
「父様が選んで」
にっこりと笑う野茉莉。甚夜は軽く頭を掻いた。戦いならばともかく、審美眼には自信がない。しかし娘は期待しているようで、上目遣いにこちらを見ている。全く、難儀なことだ。
「あー、ではその長坂、なんだ」
「長坂本愛染ですね」
「その浴衣を。着るのはこの娘だ。柄は……そうだな、夕顔はあるか」
「はい、今お持ちします」
そう言って店の奥に行く店主。待つ間は手持無沙汰になり、何気なく店内を眺める。
「お母さん、ありがとー」
「はいはい」
見れば一組の母娘が買い物をしている姿。娘は何やら布のようなものを手に取り嬉しそうに笑っている。母親は買ったばかりのそれを娘の髪に結ぶ。それは朝顔が髪を縛るのに使っていた飾り布に似ていた。
「あ……」
仲の良い母娘。その様を野茉莉はじっと見ていた。
「どうかしたか?」
「ううん、何でもないっ」
笑顔で返す。しかしそんな寂しそうな眼をして何でもないもないだろう。もう一度問おうとするが、その時ちょうど店主が帰ってきてしまった。時期を逃し、先に買い物を済ませてしまおうと店主に向き直る。
「お待たせしました。こちらになります」
「すまない。ところで、あれはなんだ?」
視線の先には先程の娘。あの飾り布が何なのか少し気になり店主に問う。
「ああ、あれはリボンですね」
「りぼん?」
聞き慣れぬ言葉に眉を顰めれば、すかさず解説を入れる。
「リボンと言うのは、西洋から入って来た髪を結ぶための飾り布のことですよ。外国の女性はこれで髪を纏めるのだとか。まだまだ入って来たばかりで一般には浸透していないのが現状ですが、流行に敏感な御婦人方は目を付けているようです」
「ふむ……」
洒落た女性の髪形といえば髷を結うか纏めるかくらいだと思っていた。しかし本当に時代は変わっているようだ。これからも新しい文化が日の本には入ってくるのだろう。ならばそれに触れるのも一興か。
「ではそのりぼん……リボンも貰おう」
「ありがとうございます。色はどうしましょう」
「白粉花……は流石にないな。桜色はあるか?」
「はい、では包ませていただきます」
従業員に指示し、紙で浴衣とリボンを包む。
それを見た甚夜はどうも奇妙な気分になった。
紙で品物を包む行為は古く『折形』と呼ばれ、紙が広く普及した江戸では贈りものなどを包む様式として普及していた。和紙を選び、包み方に工夫を凝らし、そこには贈る側の遊び心と気遣いがあった。
しかし印刷物が大量生産され始めた明治、簡易な包みが出回り、今ではこの折形はあまり見られない。
古い時代、貴重だった紙を折る行為は儀礼と祈りの象徴だった。
紙を折るのは心を込める行為に等しい。贈りものは一過性のものだが、そこには贈る側の心遣いがある。その心遣いを表すのが折形だったのだ。
しかし今は大量生産の紙で作業として包装が行われる。
『諸外国が齎した技術により日の本は発展し、代わりに大切な何かを失っていく』
畠山憲保が残した予言は真実だった。
新しい文化を否定する気はない。だが新しいものの陰には失われていく何かが確かにあるのだと、一抹の寂寞を覚えた。
◆
夕焼け空の帰り道、手を繋いで歩く二人。
橙色に染まる町並みの中、しかし野茉莉は何処か沈んだ様子だった。
沈黙が続く。しばらくの後、野茉莉は上目遣いに甚夜の顔を覗き込んだ。
「ねぇ、父様」
「ん?」
「……私の母様ってどんな人だった?」
躊躇いがちに問う。どうやら先程の母娘を見て、自身の母のことを思ったらしい。野茉莉はまだまだ幼い。やはり母がという存在が恋しいのかもしれない。
甚夜は返答に迷った。
野茉莉は捨て子であり、甚夜自身彼女の本当の両親など知る筈もない。だから彼女の問いには答えられないのだ。
しかし、
『大丈夫だよ。あなたになら、この娘を託せる』
例え血は繋がっていなくとも、野茉莉の母と呼ぶに相応しい女を知っている。
「お前の母の名は、夕凪と言う」
いつか見た夕焼けを思い出してしまったからだろう。懐かしい幻聴に、自然とそう口にしていた。
「夕凪は、嘘吐きだった」
「嘘吐き?」
「ああ。例えば、夕凪は子供が嫌いだと言っていた」
思い出す悪戯っぽい笑み。虚ろな場所で見た妻の所作が今も胸に残っている。それが嬉しかった。
「だが、お前を抱く手つきは優しかった。子供は嫌いだと言いながら、お前の行く末を心配していた。どれだけ嘘を吐いても、お前への愛情にだけは嘘を吐けない。そういう、不器用な女だった」
鬼は嘘を吐かない。その理を曲げながら、しかし本当に隠したかった愛情にだけは嘘を吐けなかった。夕凪は自分自身が嘘の存在だと言った。しかし甚夜は、彼女こそが野茉莉の母だと今でも思っている。
本当の両親のことは知らない。だが鬼の理を曲げてまで野茉莉を託してくれた彼女は、確かにこの娘の母親だった。
「野茉莉というのは“おしろいばな”のことだ。夕凪に咲く花……お前の名は、夕凪にあやかって私が付けたものだ」
野茉莉はただ黙って耳を傾けている。その表情からは内心を窺い知ることは出来ない。
「私には母がいなかったら、どういう人間が正しい母なのかは分からない。だが夕凪は確かにお前を愛していた。母というのは、彼女のような人を言うのだろうと思わされたよ」
「……そっか。うん」
そこでようやく野茉莉に笑みが戻った。
「ありがとう、父様。ちょっとだけ気になってたの。私の、本当の母様がどんな人なのか」
その言葉に虚を突かれる。
“本当の”と野茉莉は言った。そういう表現を使うのは、甚夜が“本当の”親ではないと知っているから。自分が捨て子だったと理解しているからに他ならない。
「知っていたのか?」
「分かるよ」
はにかんだような笑みで短く答える。
考えてみれば野茉莉は甚夜が鬼であると知っている。鬼と人。異なる種族。これで実の親子だと勘違いし続けられる程、野茉莉は幼くなかったのだろう。
野茉莉は瞳を逸らさず、真っ直ぐに甚夜を見詰めている。
嘘や誤魔化しを口にしていい雰囲気ではない。小さく溜息を吐く。そうして甚夜は、出来ればずっと隠しておきたかった言葉を紡ぐ。
「お前の思う通りだ。私は、お前の本当の父ではない」
自分の言葉がちくりと胸を刺す。
しかしその科白を聞いた野茉莉は、穏やかな様子で首を横に振った。
「父様は、父様だよ」
「野茉莉」
野茉莉は「母はどういう人だったのか」と問うた。本当の両親は、とは聞かなかった。それは何故か。その疑問を口にするより早く野茉莉は答えた。
「母様のことはね、ずっと知りたいって思ってたんだ。学校でもみんな自分の母様のことを話してるもん」
手を繋いで歩きながら、歌のように流れる言葉。他愛のない雑談を思わせる軽さだった。
「でもね、父様はいるから。だからいいの。私にとっては父様が、“本当の”父様だよ」
大人びた笑顔だった。
野茉莉は言った。
血が繋がっていないと知っている。しかし血の繋がった実の父などではなく、人ですらない甚夜こそが本当の父親なのだと。
彼女はそう言ってくれたのだ。
「おしめを換えていたのが、ついこの間だと思ていたのだがな」
気恥ずかしくなって思わず苦笑する。
子供だとばかり思っていたが、いつの間にか大きくなったものだ。
「へへ」
言った本人も恥ずかしかったのか、頬を赤らめていた。
「帰るか」
「うん。……あ」
「どうかしたか?」
「あのね、父様。母様が欲しいんじゃないからね?」
唐突な野茉莉の言に戸惑い、上手く答えが返せなかった。
しかし愛娘は攻めるような勢いで言葉を続ける。
「だから、母様のこと知りたかっただけで、欲しくないの」
「待て、なんのの話だ」
「……兼臣さんとか、朝顔さんとか。うちに泊めてるし」
不貞腐れた顔に、言わんとすることがようやく分かった。
つまり野茉莉は、父が兼臣や朝顔と結婚し、新しい母が出来るのではないかと危惧しているのだ。
「安心しろ、今のところそのつもりはない」
「……本当?」
「嘘は吐かん。そもそも私も今の生活で手一杯だ。今更妻を娶ろうとは思わんよ」
「そっか、へへー」
嬉しそうに笑い、何事もなかったように家路を辿る。
見上げれば夕凪の空が広がって、それがいつか、一日だけ妻になってくれた女の笑顔を思い起こさせる。甘ったるい感傷に揺らめく夕日。毎日のように見ている筈の夕焼けの景色が、今日は妙に美しく思えた。
「ねぇ父様」
「ん」
「父様にも、母様がいなかったの?」
「ああ」
物心ついた時には既に亡くなっていた。葛野に移り住んでからも、育ててくれたのは白雪の父。母性というものを感じたことはない。
短く答えた甚夜に向かって、野茉莉は無邪気な笑顔で言った。
「じゃあね、私が父様の母様になってあげる」
「なんだそれは」
思わず苦笑が零れる。お父さんのお嫁さんになる、ならばよく聞くが、母親になるというのは初めてだった。
「父様は私の父様になってくれたから、大きくなったら私が父様の母様になって、いっぱい甘やかしてあげるの」
妙なことを言うものだ。
そう思いながらも零れる笑いが止まらない。馬鹿にしている訳ではなく、その言葉が嬉しかったから、止めることが出来なかった。
野茉莉は、母がいないと言った自分を慮ってくれているのだ。
本当に大きく、そして優しく育ってくれた。
正直に言えば、自分が父親という役割を果たせているのか、今一つ自信がなかった。だが野茉莉はこうして、誰かを慈しむことのできる娘に育ってくれた。だからその優しさの分くらいは誇っていいだろう。
握り締める手に小さく力を込める。
「そうか、ならば楽しみにしている」
「うんっ」
夕日に映し出された影は長く、重なり合って一つになる。
帰り道、我が家はそろそろ見えてくる。この穏やかな時間も終わりが近づいていた。
しかし、もう少しだけこうやって歩いていたい。
いずれ訪れる終わりを予見している。
だからこそ、揺らめき滲む夕日にそんなことを思った。
「あ、おかえりー」
鬼そばへ戻ると小さく手を振りながら朝顔が出迎えてくれた。
「ただいまー!」
「えっ!?」
野茉莉が元気よく挨拶したことに驚き、思わず声を上げる。昨日は明らかに歓迎していない様子だったが、一日経って態度が百八十度変わっている。そのあまりの変化に思考が付いていかない。
「あ、うん、おかえ、り? えっと、いいの買えた?」
戸惑いながらも声を掛ければ、帰ってくるのはやはり笑顔。
「うんっ、朝顔さんにも後で見せてあげるね!」
言いながら買ったばかりの包みを抱え、店の奥へとぱたぱたと小走りに向かう。
「……どうしたの、あれ?」
「いや、まあ、な」
甚夜も曖昧な言葉で濁すのみ。
取り残された朝顔は微妙な顔をしていた。