<八月十日>
「そう言えば、兼臣さんは?」
朝早く目覚め顔を洗い、浴衣に袖を通した朝顔は店内を見回し問い掛けた。
「もう出かけた。また殿方との逢瀬らしい」
「そっかぁ。ところで、あの刀って兼臣だよね?」
「ああ。夜刀守兼臣……所謂妖刀だ。よく知っていたな」
「本物をね、見たことあるんだ」
朝顔は力ない笑みというか、何とも言えない表情を浮かべる。何処で見たのか突っ込んで聞いてもいいが、今の様子を見るに答えては貰えないだろう。だからさっさと話題を切り替えることにした。
「昨日はよく眠れたか」
「うん、おかげさまで。本当に、葛野君にはお世話になりっぱなしだね」
「泊めたくらいでそう言われても返答に困る。それに店を手伝ってもらっている」
「それくらいするよー。結構楽しいしね。案外ウェイトレスとか似合うかも私!」
「うえいとれす?」
知らない単語に聞き返せば。何が面白かったのか、くすくすと笑っている。そうして不意に、朝顔は寝床の方に目を向けた。
「気にしない気にしない。それにしても、よく寝てるね、野茉莉ちゃん」
「ああ」
多分寝たふりなのだろう、とは言わなかった。
「それにしても、懐いてるよねー」
「あまりからかうな、まだまだ甘えたい年頃なのだろう」
「あはは、分かってるって」
鬼そばで暮らし始めてから二日目、朝顔もだいぶ慣れたようでよく笑う。見知らぬ土地で不安を抱えているかと思えば、そうでもない様子だった。
「何回も聞くけど、葛野君の娘さんなんだよね」
「ああ」
「やっぱりなんか変な感じ」
「よく言われる」
甚夜の外見は十八の頃のまま。九つになる野茉莉と並んでも親娘に見えないことは重々理解していた。その事実が、次第に親子と思われなくなってきている現実が少しだけ痛い。しかし平静を装い、何事もなかったように会話を切り上げる。
「さて、と。そろそろ朝食にしよう。野茉莉を起こしてくる」
そうして寝床の方へ向かい、途中で足を止め甚夜は振り返った。
「ああ、そうだ。私は野茉莉を送り出してから出かけるが、お前はどうする」
「え、何処に行くの?」
「荒城神社だ」
「それって……」
不思議そうな表情を浮かべる朝顔に、甚夜はいつも通りの無表情で言った。
「“狐の鏡”は天女を空へ還したという。調べない手はないだろう」
◆
野茉莉を小学校へ送り出した後、甚夜達は三条通にある荒城神社へと向かった。
再び訪れた神社は昨日よりも縁日の準備が進んでいる。それに比例して人の数も増えていた。
境内には既に多くの屋台が建てられており、神社特有の静謐な空気はない。喧噪は止まず、祭りの日が近付いているのだと実感できる。
喧噪に紛れ、甚夜と朝顔は神社を見て回っていた。
その理由は勿論縁日の下見などではない。
秋津染吾郎が語った謎の光。現実として存在する、この地ではない何処かから降り立った少女。朝顔が本当に天女なのかは分からない。しかし何らかの怪異に巻き込まれたことだけは間違いない。
そしてその中核にあるのは、狐の鏡。
天と地を繋ぐという祭器なのだろう。
そう考えた甚夜は再度荒城神社を訪れた。現状、全くと言っていいほど情報がない。神社を観覧するだけで得られる情報などたかが知れているが、彼女を空へと返す手段、その糸口でも掴めればと藁にも縋る思いで足を運んだ。
稲荷神社だけあって、鳥居を潜れば狐の石像が出迎えてくれる。
石畳の両脇に狐の石像が設置されているのだが、何故か二つとも左目の部分が潰されていた。それ以外には特に気になるところはない、普通の神社といった風情だった。
さて、外観を見ているだけでは意味がない。
狐の鏡を調べる為、本殿に忍び込んでみるべきか。そう思った瞬間見知った顔が声をかけてきた。
「あら、甚夜様?」
荒城稲荷神社の神主、国枝利之。その妻、名前は確かちよと言ったか。
初老の女は柔和そうな笑みを浮かべ近付いてくる。流石に無視して本殿へ忍び込む訳にもいかず、甚夜はちよに向かって軽く一礼をした。
それに対しちよも会釈で返す。若い頃は折り目の付いた美人だったのだろう。頭を下げる所作さえ典雅だった。
「そちらの方は」
「あっ、初めまして、朝顔です」
「はい、初めまして。ちよと、申します」
もう名乗りにも為れたのか、朝顔は淀みなく偽名を口にする。
それは置いておくにして、甚夜には気になることがあった。初めて顔を合わせた時、ちよは甚夜が名乗るよりも先に名を呼んだ。その違和に、僅かながら目が細められる。
「ちよ殿。私は、まだ名乗っていなかったと思いますが」
「ええ。ですが名は聞き及んでおりますので」
しかし疑問は直ぐに解消された。単に夫から聞いたというだけの話だったらしい。
「そうですか、失礼しました」
「いいえ、こちらこそ」
ゆったりとした礼を見せ、次いでちよは朝顔の方に視線を向ける。
「そちらは……奥方様ですか?」
「ち、違いますっ!?」
朝顔が大声で否定する。余程恥ずかしかったらしく顔も赤い。そんな彼女を見て、ちよは余裕のある笑みを浮かべている。
「あら、そうでしたか。夫婦連れだって縁日の下見に来られたのかと思いました」
「だ、だからっ」
「ふふ、可愛らしい方ですね」
朝顔の言い分を軽く流し微笑む。
「今日はどのようなご用向きで?」
「国枝殿に少し話を聞かせて頂こうと思い訪ねました。呼んでいただけますか?」
「はい、ただ今。……ところで、甚夜様」
「なにか」
「いえ、大したことではないのですが……どうか、敬語を使わず普段通り喋って頂けないでしょうか」
「は?」
ちよの意外な願いに間の抜けた声を発してしまう。しかし当の本人はいたって普通。当たり前のことを言っただけ、といった風情だった。
「甚夜様に敬語を使われるのは、なにか奇妙に思えまして。出来れば畏まらず、呼び捨てて頂きたいのです」
「いえ、流石にそれは」
会って間もない女、それも人の妻を呼び捨てるなど出来る筈もない。本人の希望ではあるが受け入れることは出来なかった。
「……残念です。では今、利之を呼んで参ります。そこで少々お待ちください」
指し示したのは境内の一角に並べられた長椅子だ。おそらくは縁日の最中休憩所代わりに使われるのだろう。二人は並んで椅子に腰を下ろし、縁日の準備で騒がしい境内を眺める。
「お祭りがあるんだよね?」
「ああ」
「いいなー、私も行きたいなー」
「何ならお前も来るといい」
「ほんと?」
「野茉莉を優先するから然して相手は出来んが」
「葛野君、なんというか本気で野茉莉ちゃん大好きだよね」
親馬鹿ぶりに軽く溜息を吐く朝顔。二人はぽつりぽつりと雑談を交わす。
しばらくすると長椅子の方へと歩いてくる人影を見つけた。
「どうも、葛野さん」
神主は直ぐ傍まで近寄り、ゆっくりと丁寧にお辞儀をした。甚夜達も礼を返し、朝顔が自己紹介を終えてから本題に入った。
「今、お時間はよろしいですか?」
「縁日の準備を監督せねばなりませんが、少しなら」
「でしたら、話を聞かせて欲しいのですが」
「構いませんよ」
「有難う御座います。では、狐の鏡という話をご存知でしょうか」
「勿論、これでも神主ですから。当社に祭られている御神体の説話くらいは」
そうして神主は淀みなく語り始める。
鍛冶の村で生活する若者と言葉を喋る子狐。
地に降りてきた天女の羽衣を焼く若者。
天へ帰れなくなった天女は若者の妻となる。
長らく続いた幸福な日々。
病に倒れる天女。
狐を焼き、その灰を練り込んで造り上げた鉄鏡。
鉄鏡は天女を空へと還す。
離れ離れになっても、互いは夫婦だと約束を交わし、物語は終わりを告げる。
「と、このような話になっています」
神主が語った“狐の鏡”の説話は兼臣のそれと差異はない。やはりこの神社の御神体には天女を空へ還したという伝説が残っているようだ。
「どうです。おかしな話でしょう」
面白そうに神主は言う。
「おかしな、ですか?」
「ええ。この京の町には古くから多くの天女譚が残されています。ですが狐の鏡の説話だけは、少しおかしいのです」
「そういえば、天女を空へ還すってお話は珍しいよねー」
朝顔が感想を述べると、神主はゆったりとした様子それを否定する。
「いえ、そうではありません。この話は京の天女譚として、根本的に間違えて作られているのです」
それはどういう意味だ。
問おうとしたが、神主は遮るように声を被せた。
「葛野さん。怪奇譚というものは、全くの嘘では説得力に欠け、掛け値のない真実では興味を引かない。嘘と真実が上手く混じり合ったものが説話として語り継がれるのです」
「つまり狐の鏡には嘘があると?」
「はい。そして同時に掛け値のない真実が含まれている。説話とはそういうものです」
神主の言葉が意味するところはうまく掴めない。朝顔も同じようで、しきりに首を傾げていた。
「朝顔さん、でしたか」
「は、はい」
急に話を振られ、朝顔は慌てて受け答えをする。
「お祭りはお好きですか」
「へ? あ、えーと」
「はは、すみません。五日後の八月十五日、この神社で縁日が行われるのです。もしよろしければ葛野さんとご一緒に来られてはいかがですか」
「はぁ」
急な話題の転換に着いて行けず、朝顔はただ曖昧な答えを返すだけだった。しかし気にした風でもなく神主は言葉を続けていく。
「当日は屋台が並び、実に賑やかな祭りとなります。朝顔さんは、何か好きなものはありますか?」
「えーと、屋台だと……わたあめとか、林檎飴かなぁ。甘いの好きだから」
その言葉に、神主はゆっくりと、満足げに頷いた。
「いいですね、林檎飴。私も好きですよ」
「あ、そうなんですか?」
「はい。あれを食べるとお祭りに来たという気がします。大きすぎて食べにくいのだけはどうにかしてほしいですが」
「あはは、分かります」
同意する朝顔に気をよくしたのか、神主は次々と縁日の話を語って聞かせてくれる。正直な所甚夜は狐の鏡を調べにこの神社に訪れたため、縁日の話には然程興味がなかった。この話題を切り上げたいのだが。
「あなた、そのくらいに」
そう思った矢先、神主を止めたのは、ゆっくりと近付いてきた淑女だった。
「ああ、ちよ」
「失礼します、お茶をお持ちしたのですが」
言いながら手にしたお盆を長椅子の上に静々と置く。お盆には湯呑が二つと、茶請けを乗せた小皿が二つあった。
「こちらもどうぞ」
柔らかい笑顔。小皿には磯辺餅が乗せられている。茶を出すまでに時間がかかったのはどうやらこれを準備していた為らしい。
「あ、磯辺餅だ。葛野君、よかったね」
にっこりと笑う朝顔に眉を顰める。
どういう意味だと問おうとして、それよりも早くちよが言った。
「お好きかと思ったのですが、違いましたか?」
「……いえ、好物です」
「よかった、どうぞ召し上がってください」
ほぅ、と安堵の息を吐く。
しかし甚夜の胸中には再び違和感が生まれた。朝顔も、ちよも。自分の好物が磯辺餅だと知っているかのような口振りだった。小さなことかもしれない、しかしどうにも気にかかる。
「すみません、夫は話し始めると長いものですから」
「寧ろ引き留めたのは当方です。申し訳ない」
問い詰めることはしなかった。
少なくとも悪意や敵意の類は感じられない。ここで問い詰めて関係を悪くすることは避けたい、少なくとも狐の鏡の詳しい情報を得るまでは。
甚夜の謝罪を笑顔で受け入れ、ちよはちらりと神主を横目で見た。それを受けてばつの悪そうな表情を浮かべている。
「お話も良いですけど、相手の都合を考えてあげないといけませんよ」
まるで子供を嗜めるような物言いだった。
「いや、済まない。御二方も申し訳ありませんでした。つい、懐かしい気分になってしまって」
「懐かしい……ですか?」
不思議そうに問うた朝顔に、回顧の念を催させる声音で答えた。
「ええ。……実はちよ、妻と出会ったのは縁日の夜なのです」
遠い目で拝殿を眺めている。
「妻は、以前ここではない神社で巫女を務めておりまして。私はそこで彼女と出会いました。言ったでしょう、私はこの祭りが毎年楽しみなのだと。それは、妻と初めて会った夜のことを思い出すからなのです」
或いはかつての情景を其処に映しているのだろうか、穏やかな目をしていた。
「今でも覚えています。見たこともない満天の星、祭囃子。行燈の光に揺らめいた夜の神社。そして、その中で佇む少女」
ゆったりと、万感に満ちた声音で神主は言う。
「あの夜、出会ったちよは……まるで、本物の天女のようでした」
彼女もまた、天女であるという。
ちよに照れた様子はなく、彼女もまた昔を思い出しているのか、柔らかく微笑んでいる。寧ろそれに当てられた朝顔の方が照れた風に下を向いていた。
「天女……」
「勿論比喩ですよ。ですが、私にとっては彼女こそが天女だった」
何処か意味深な表現。何を言いたいのかは分からない。しかし何故か、重要なことを聞いたような気がした。
「そうだ、葛野さん、朝顔さん」
神主は何かを思い立ち、急に話を変えた。
「もしよろしければ、狐の鏡をお見せしましょう」
そして悪戯を成功させた子供が浮かべるような、無邪気な笑みでそう言った。
◆
「これが、狐の鏡」
「はい。天と地を繋ぐと言われる祭器です」
神主に案内されるままに甚夜達は本殿へ足を踏み入れた。
奥に安置された鉄鏡はくすんだ色をしていて、何処か野暮ったい印象を受ける。趣がある、と言えば聞こえはいいが、正直なところ古ぼけた鏡にしか見えなかった。
「見た目には古い鏡でしかありません。しかしこれは、確かに説話と同じ力があります」
確信を持って紡がれた言葉に、甚夜は眉を顰めた。
驚きはない。特異な力を有する器物は今迄にも見てきた。だから狐の鏡が説話通りの力を持っているとしても騒ぎ立てるようなことではない。
しかし違和感があった。何故、彼はそれを断言できるのか。
「それは、どういう」
「以前、この鏡は過去に説話と同じ力を、即ち天と地を繋いで見せたのです」
きっぱりと言い切った。それは聞き及んでいる、というあいまいな表現ではなく、実体験を基にした力強い言葉だった。
「だから、多分。天女を空に返すことも出来るでしょう。朝顔さん」
振り返り、朝顔をまっすぐに見据える。
先程からの物言い。間違いない。神主───国枝利之は、狐の鏡の力も、朝顔が天女であることも理解している。理解しているからこそ本殿まで案内したのだ。
「なん、で?」
話してもいないのに、こちらの事情を知っているのか。
動揺する朝顔に、神主は安心させるように穏やかに語り掛ける。
「二度目ですから、分かりますよ。貴女が此処ではない場所……いえ、遠い遠い歳月の果てから来たことくらい」
だから以前は入ることを拒んだ本殿へと案内をした。
神主の言葉は恐らく厚意なのだろう。その態度は実に穏やかで、神職に携わるものらしく父性に満ちている。
だというのに、まるで怯えるように朝顔は小刻みに震えていた。
そんな少女の様子を眺めながら、神主は懐から小刀を取り出す。
「発動の条件は血液。さあ、狐の鏡に血を。そして触れてみてください。そうすれば貴女が願う場所へ、望む時へ、帰ることが出来ます」
荒唐無稽なことを真顔で言う。しかしその同窓とした態度には、それを信じさせるだけの雰囲気があった。
「え、あの。でも」
「どうしました、貴女は、これで帰れるのですよ。喜ばしいことでしょう」
さあ、と目の前に小刀が差し出された。
朝顔は固まったように動かない。いや、動けなかったのかもしれない。表情には驚きと、僅かな恐怖と、あからさまな戸惑いがあった。
しばらく二人は動かないままになった、しかしようやくゆるゆると朝顔が動き始める。
そして、
「ご、ごめんなさい! やっぱりもうちょっと心の準備をしたいかなー、なんて。あはは……」
力のない、空気が抜けるような笑い声。
誰も言葉を発さず時間だけが流れる。
しかしどれだけ時間が経っても朝顔は小刀を受け取らなかった。
「……そうですか」
ゆっくりと神主は頷き、じっと朝顔を見据えた。
「ならもしも必要になったら、声を掛けてください。八月十四日。縁日の前日までなら構いません」
その言葉に甚夜は少し眉を顰めた。
「縁日の前日、というのは何か理由があるのですか?」
「いいえ。ただ、祭りの日まで残るようであれば、きっと帰れはしないでしょうから」
何故か寂しげに、彼は言った。
遠い何処かを眺めるような、透明な目だった。