<八月十一日>
「ありがとうございましたー」
店内に少女の声が響く。
朝顔が『鬼そば』に寝泊まりしてから三日経った。
その間何もしないのでは居心地が悪いと朝顔は店員の真似事や皿洗いなどをして手伝ってくれている。日も傾き、最後の客を送り出したところで今日は店仕舞い。暖簾を片付け、ようやく晩の食事となった。
今日の食事はかき揚げに味噌田楽、きゅうりとわかめの酢和え。葱と油揚げの味噌汁。若干店の残り物が混じっていが、それなりに豊かな食卓である。
「兼臣さん全然帰ってこないね」
かき揚げをつまみながら野茉莉が言った。最初は兼臣が居候することに反対していたが、今では然程気にしていないらしい。声には心配するような響きがあった。
「放っておいてやれ。あいつにも理由があるのだろう」
ここ数日兼臣はよく出かけており、一緒に食卓を囲むことがない。しかし甚夜はそれ程気にしていなかった。本人は「殿方と逢瀬に」などと言っていたが、そんな艶っぽい理由でないことくらいは分かる。
だから問い詰めることもない。助力を乞われれば手は貸そう。それくらいの気持ちでいた。
「美味しいねー、これ」
「うん、おいしーね」
初日の顔合わせでは固い雰囲気だったが、野茉莉も朝顔も随分打ち解けた。
かき揚げを頬張りながらにこにこ笑う朝顔は、年齢では上だろうに野茉莉と同い年に見える。二人して黙々と口を動かす姿は姉妹のようで実に微笑ましかった。
「葛野君って料理できたんだ?」
「当然だ。野茉莉に下手なものを食わせる訳にはいかん。まあ、かき揚げは店の残りだが」
「なんか完全にパパさんだ……」
「ぱぱ……?」
いちいち問うのも面倒なので流しているが、相変わらず朝顔は時折意味の分からない言葉を使う。彼女はやはり日本とは違う文化圏で過ごしたのだろう。それが言葉の端々から理解できる。
「ん、どうかした?」
どうやら意識せず朝顔に見入っていたらしい。
といっても艶っぽい理由ではない。
彼女は本当に楽しそうだ。しかしその笑顔にどうしようもなく違和を感じる。
「いや……」
彼女は天女だ。
故郷を離れ異邦の地へ訪れ、帰る術を失った。
だからこそ彼女の態度に疑問が浮かぶ。
天から地へと降り立った天女。
空へ還る道を見つけながら、しかし朝顔は決して昨日のことには触れようとしなかった。
◆
夜も更けた。野茉莉を寝かしつけてから甚夜は店舗へと戻り酒を呑んでいた。揺れる行燈の灯りだけが肴。それでも喉を流れる熱さはそれなりに心地よかった。
「……葛野君?」
甚夜の用意した寝間着代わりの浴衣のままで、朝顔はふらりと姿を現した。
「起こしたか」
「ううん、ちょっと眠れなくて」
はにかんだような笑みを少し寂しげだと思ったのは、きっと夜の暗がりのせいだろう。楽しそうに笑う朝顔は此処にはいない。まるで迷子の子供のような、頼りない少女がいるだけだった。
「お前も呑むか?」
「ううん、お酒、呑めないから」
「なら茶を淹れよう。座っていろ」
言いながら厨房へと向かう。既に竈は落してしまったが、一度朝顔とはしっかりと話をしてみたかった。少し手間だが火を起こすことにした。
「ごめんね」
「いや、考えてみればゆっくり話していなかった。これもいい機会だ」
淹れた茶を朝顔に差しだし、向かい合わせに座る。素直に一啜り茶を飲んで、朝顔は何処か気だるげに笑った。
「本当、葛野君にはお世話になりっぱなしだね」
「気にするな。ここでの生活は慣れたか」
「うん。最初は戸惑ったけど、慣れると楽しいよ?」
「ならよかった」
本当に、彼女は楽しそうに笑う。
不安を感じていないようにさえ見える。唯一、彼女が不安げな表情を見せたのは、帰る手段が見つかった時だけだった。
「……ね、聞きたかったんだ」
「ん?」
「なんで、私のこと泊めてくれたの? 多分、普通はいくら困ってるからって見ず知らずの人を止めたりなんかしないよ?」
彼女の言う通りだ。
しかし甚夜には朝顔を見捨てることが出来なかった。
「昔、な。当てもなく家を出た私を拾ってくれた人がいた」
遠い過去を思い出す。
鈴音と共に江戸を離れた雨の夜。
冷たい雨に打たれて、前に進めなくて、でも帰る場所なんて何処にもなくて。
このまま死んでいくんだろうな、なんて思った。
だけど、手を差し伸べてくれた人がいた。
「多分それをずっと覚えていた。だから、柄にもないことをする気になったのかもしれん」
自分の背景を知らない彼女には理解できないだろう。しかしこれ以上話す気はなかった。どうせただの感傷だ。話したところで意味はない。
「私も聞かせてほしいことがある」
「うん? なに?」
お茶を一口啜り、笑顔で彼女は答え。
「元いた所は、つまらないか?」
凍り付いたように息を止めた。
「……なんで?」
たっぷり十秒は沈黙し、絞り出すような声で返す。
甚夜は静かに酒を呑みながら、どうでもいいことのように続けた。
「今のお前を見てると、なんとなく、な。納得できなければ年の功とでもしておけ」
無造作な言葉に力なく項垂れた朝顔は、そのまま机に突っ伏した。顔を上げようともしないが、責める気にはなれない。それくらいに彼女は疲れて見えた。
「で、どうだ?」
「つまらない訳じゃないよ、別に。友達もいるし。……でもね、時々なんか疲れる」
いつも楽しそうにしていた朝顔が見せる、初めての憂いだった。
「学校に行って、勉強して、友達と一緒に帰って。帰りにはいろんなところに遊びに行くの……毎日すっごく楽しいよ」
その言葉に嘘はない。それなのに声は沈み込んでいる。
「でも時々ね、同じくらい、すごく息苦しくなる。みや……友達の女の子は神社の巫女さんで、私と同い年なのにすっごく大人なんだ。見た目が、じゃなくてね。やりたいことをもう見つけて、勉強だって私よりもできて」
乾いた笑み。似合わない。ぼやくように朝顔は続ける。
「クラスで隣に座ってる男の子もね。すっごいの。強くって、優しくって。自分が痛い思いをしても目的の為に頑張ってる。そういうのを見てると、毎日楽しいだけの私は、なにやってるんだろって思っちゃうんだー……」
朝顔が、天女が地に堕ちた原因をいくつか考えていた。
鬼の<力>、狐の鏡。しかしその想像が今では空虚に思える。
本当は、ただ逃げだしたかっただけなのかもしれない。
当たり前に過ぎる毎日が息苦しくて、少しだけゆっくりと呼吸がしたかった。
幸か不幸か、それは叶えられた。
天女はそうして地に堕ち、空を忘れようとした。
「楽しいのはいけないことか?」
「ううん、そんなことないよ。でも、苦しんで頑張ってる人の方がすごいと思うから」
だから帰り道が見つかって戸惑った。
楽な呼吸が出来るようになったから、窒息しそうな“当たり前の日常”に戻るのが怖くなった。
それを責めることはきっと誰にもできない。
見上げれば、いつか見た、晴れ渡る空。
天女は、果たして何に囚われていたのだろう。
彼女を繋ぎ止めていたもの。
彼女が繋ぎ止められたもの。
地に縛られたのは体か。
或いは、飛ぶことを忘れた心だったのか。
もしかしたら天女は、天女であることにこそ縛られていたのかもしれない。
朝顔もまた、天で“当たり前の日常”を過ごす自分に囚われていたのだろう。
「ねぇ。葛野君は、今、幸せ?」
ようやく朝顔は顔を上げて、じっと甚夜の目を見た。
「……どうだろうな」
一拍子置いて酒を煽り、ゆっくりと答える。
「無論、不幸と言うつもりはない。だが“そうだ”と臆面なく答えられる程も強くもなれなくてな。情けない話だが」
憎しみに身を窶す男が幸福をどの口で語るのか。どれだけ変わり、大切な物を得たとしても、胸にある憎しみだけは消えてくれない。
甚夜にとってはそれが“当たり前の日常”で、娘を得て穏やかな生活を送ったとしても、生き方までは変えられなかった。
「そっか」
案外、二人は似た者同士だったのかもしれない。
自分に縛られているのは甚夜も同じ。ただ立ち止まると愚痴や溜息がどっと出てきそうだから、今まで必死になって進んできただけ。
そういう生き方を重いと思えるようになったのは、きっと今まで出会った多くの人々のおかげだ。しかしそれでも曲げられないものがある。
なんとなく、朝顔が「息苦しい」といった意味が分かった。
今を否定する訳ではない。十二分に満足できる。けれど、自分であり続けるということは疲れる。
彼女は自分であることに疲れた。だから“朝顔”として笑うのだろう。
「儘ならぬな。生きるということはただそれだけで難しい。だが」
「“いつまでも、立ち止まったままではいられない”?」
先回りするように、朝顔は言った。
目を見開く。今正に言おうとした言葉を奪われ口を噤む。その様子に、緩やかな口調で朝顔は返した。
「前にね、クラスの男の子が言ってた。だからホントは分かってるんだ、いくら居心地がいいからって、このままじゃいけないって」
そうして彼女は、疲れた笑みではなく、ゆるりと。
水面に揺蕩うような、心地好い笑顔を見せてくれた。
「でも、もう少しだけ。もう少しだけ、ここで休ませて貰ってもいいかな?」
空への憧憬は今も胸にある。
ただ今は疲れて、見上げるのが辛くなっただけ。
だから少しだけ休憩しよう。
時には立ち止まって一息吐くのもいいかもしれない。
それはきっと、甚夜自身も同じだ。
「そうだな、偶にはのんびりしようか」
そう言えるようになった分、以前より少しはマシになっただろう。
◆
<八月十二日>
「済みません、一度断っておいてなんですけど、狐の鏡を使わせてもえらませんか?」
翌日、荒城稲荷神社を訪ねた朝顔は、開口一番神主にそう願った。
「……どうしたのですか、朝顔さん?」
昨日とは打って変わった態度に、少しだけ違和感を覚えながら神主は問うた。返す言葉ははっきりと、鮮やかな声で言い切った。
「やっぱり、いつまでも立ち止まったままではいられませんから!」
「へぇ、朝顔ちゃんもう帰んの?」
「はい、お世話になりました」
「なんや簡単やなぁ。天て結構楽に行き来できるんやろか?」
朝顔は鬼そばに戻り仕事の手伝いをしている。帰るのは十四日に決めた。だからそれまでは、しっかりと働いて恩を返そうと思った。
「ちなみになんで? もしかして甚夜がなんかした……訳ないな。そんな甲斐性ある訳ないし。というか野茉莉ちゃん至上主義やし」
「……否定できんとこが辛いな」
その物言いに朝顔は吹き出す。親友という言葉を否定していた甚夜だが、案外相性はいいように思えた。
「そうですか、それは残念ですね。折角会えたというのにもう別れとは」
今日は珍しく兼臣も店にいた。と言っても仕事の手伝いはせず、きつね蕎麦を楚々とした仕種で啜っているだけだ。
「……兼臣、確か初めの時、仕事を手伝うと聞いた気がするが?」
甚夜の冷たい視線、しかし兼臣は平然と答える。
「しかし葛野様、考えてみれば帯刀したまま店で動き回れば逆に迷惑になりましょう」
「その時ぐらいは刀を置け」
「何を仰るのですか。これは私の魂、貴方は私に死ねと?」
明治になっても帯刀している辺り、兼臣の刀に対する執着は相当のものだ。とは言えこの状況でそう返されても、働きたくないが為の言い訳にしか聞こえなかった。
「あはは、葛野君も大変だねー」
「ああ……まったくだ」
溜息が漏れる。口元が僅かに緩んでいたのは、きっと気のせいだろう。
野茉莉とも仲良くなり、一緒に夕暮れの街を散歩する。
秋津染吾郎は相変わらずで、甚夜と朝顔の関係をからかっている。
兼臣とはあまり話せなかったが、それでも食卓を共にして騒いだ。
楽しいと、心から思える。
けれど、楽しければ楽しいほど、時間は早く過ぎる。
気付けば二日が過ぎ、別れの日はすぐそこまで来ていた。
「はぁ、いよいよ明日かぁ」
以前と同じように、野茉莉が寝静まってから二人は店で顔を合わせていた。
「大丈夫か」
「ん。ちょっと、寂しいとは思うけどね」
酒を呑み、朝顔は茶を啜り、ゆっくりと時間を過ごす。
「例えば、さ。私が、ここに残りたいって言ったらどうする?」
「どうもせんが」
「えー、なんで?」
「言わないと分かっているからな」
気負いなく答え酒を煽る。朝顔は少し頬を膨らませ、文句を言ってくる。
「それじゃあたとえ話の意味がないよ」
「なら、実際のところは?」
「……それは、言わないけど」
「だろう?」
見透かされたようなことを言われて、でも悪い気はしない。遠すぎず、近すぎず。今の距離感が心地よかった。
「休憩は、休憩だからいいんだ。長く続けば有難みも薄れる」
「うん、そうだね」
朝顔が、笑う。
「神主さんが、明日を指定した意味、分かっちゃった。きっと、もし私が“お祭りを楽しんでから帰ろう”なんて言うなら、きっとこれからも帰れないと思ったんだろうね」
お祭りを楽しんでから帰ろう。
なら次はお月見だろうか。冬になればお正月を楽しんだら帰ろうと言い出すかもしれない。だからわざわざ祭りの前日を指定した。
何時までも先延ばしにしては、きっと帰れなくなるから。
「だから、私、帰るね」
ここで帰ると言えなければ、もう二度と帰ろうとは思えないだろうから。
「ああ、それがいい」
それきり二人は口を噤み、夜は更けていく。
そして八月十四日。
最後の日が訪れた。
◆
「では、私達はこれで」
荒城稲荷神社、その本殿に二人を残し、神主らは去って行った。
気を使ったらしい。そういった艶っぽい関係ではないのだが、と甚夜と朝顔は顔を見合わせて笑った。
「それじゃあ、葛野君。お世話になりましたっ!」
大げさな動作でお辞儀をする朝顔。甚夜はいつも通りの態度を崩さなかった。
「達者でな、天女殿」
「もう、またそういうこと言うー」
燥いで見せても、目にはほんの少しの寂しさが映っている。当然だ。別れを悲しめるくらいには、ここでの日々は楽しかった。それは甚夜にとっても同じだった。
「帰ったら、此処にはもう来れないんだろうなぁ」
「だろうな。もう逢うこともあるまい」
元々ここに来たのは偶然。二度も偶然が起こるとは思えない。だからこれが今生の別れになるだろう。
「ふふっ、そうだねっ」
何故か笑いを堪えるようにして彼女は言った。
その意味を問い詰めたかったが、彼女は本当に楽しそうで、だから聞く気にはなれなかった。折角の別れだ。どうせなら笑顔で行ってほしいと思う。
「しっかり、休めたか」
「うん。向こうでも、もう少し、頑張れると思う。葛野君は?」
「変わらんさ。変えようとも思わん」
「この頑固者ー」
「褒め言葉だな」
掛け合う言葉はしばらく続き、それでもいつしか途切れ、沈黙が訪れる頃には言うべきことは一つになった。
「じゃあ、そろそろ行くね」
神主から借りた小刀で指先を傷付ける。血がつぅ、と出て赤い玉が出来て、ほんのり鉄錆の香がした。
朝顔は本殿の奥に安置された鉄鏡の前に立つ。
そして甚夜に背を向けたまま、おずおずと語りかけた。
「葛野君」
ここに来たのは偶然だったが、そんなに悪いものでもなかった。
会う人は皆優しく、毎日は楽しかった。
心残りはと言えば、一緒にお祭りを楽しめなかったくらいのもの。
「もし、機会があったら。今度は一緒にお祭りへ行こうねっ!」
でも未練はない。
ありったけの笑顔で、別れを告げよう。
「ああ、そうだな。その時には何かを奢ろう」
「なら、林檎飴がいいな」
「構わんぞ」
交わす言葉はあくまでも軽く、まるでじゃれ合っているようだ。
朝顔は最後にもう一度、感謝を告げるように、精一杯の笑顔を向ける。
そうして狐の鏡に触れた瞬間、
目の前が白くなり、
もう、彼女はいなくなっていた。
「では、な。朝顔」
何の未練も名残もなく、天女は空へ還った。
彼女はもう一度、飛ぶことを思い出したのだろう。