八月十五日。
縁日の当日、甚夜達は揃って荒城稲荷神社を訪れた。
「よっしゃ、平吉。取り敢えず屋台全部まわろか!」
「お師匠お願いです声を小さくしてください恥ずかしいです」
神社に着いた途端走り出す恥ずかしい子弟を尻目に、甚夜はのんびりと祭りの雰囲気を味わっていた。
「すっごい人!」
初めて見る祭りに野茉莉もいつになく燥いでいる。
「野茉莉さん、あまり走ってはいけません」
刀を腰に差したまま祭りを見て回る兼臣は、今にも走り出そうとする野茉莉のお目付け役だ。本来なら甚夜が一緒に回るつもりだったのだが、少しばかり用があったためしばらくの間は兼臣に任せた。
「まったく、騒がしいことだ」
「それが祭りの醍醐味というものでしょう」
甚夜の呟きに答えたのは荒城稲荷神社の神主、国枝利之である。
二人は休憩場所として設置された長椅子に座り込んでいる。無事に朝顔は空に変えることが出来た。しかし分からないままのことは多く、詳しい話を聞きたかった。
「結局、狐の鏡とはなんだったのか」
天女を空へ還した鏡。目の前で見せつけられたのだ、その力を疑うことはない。
しかし何故か釈然としないものを感じて甚夜はぼやいた。
「葛野さん。怪奇譚というものは、全くの嘘では説得力に欠け、掛け値のない真実では興味を引かない。嘘と真実が上手く混じり合ったものが説話として語り継がれるのです」
返ってきたのは以前も聞いた言葉だった。
「狐の鏡は大方が真実だった。では国枝殿、嘘とは?」
「簡単なことですよ。この話は京の説話としてはおかしいのです」
「おかしい?」
「ええ、狐の鏡は京都三条に伝わる説話。ですが考えてもみてください。京の説話だというのに、なぜ青年の生まれが鍛冶の村なのでしょうか?」
今更ながら気付かされ、甚夜は目を見開いた。
この物語の主人公は『鍛冶の村に生まれた、子狐と共に暮らす青年』だ。確かに京都の説話にしては設定がおかしい。
「そもそも狐の鏡と羽衣伝説は別の説話。それが習合し現在のような形になったのです」
「だとすれば、祭器としての“狐の鏡”も京で作られた訳ではない?」
「その通りです」
更に聞こうとして、話を遮るように歩いてきたのは、神主の妻・ちよだった。
「甚夜様、どうぞ」
ことりと長椅子の上にお盆が置かれる。
其処には二つの湯飲みと、またも小皿に置かれた磯部餅がある。
「ちよ殿」
「お好きでしょう? 磯辺餅」
淑やかな笑みを浮かべる。それを見て、神主はすくりと立ち上がった。
「ここからは妻と変わりましょう。私よりも狐の鏡には詳しい。何せ鏡が作られたのはちよの故郷ですから」
「いや、しかし」
「ではこれで。私も祭りを見て回りましょう。林檎飴が無いのは寂しいですが」
そう言ってそそくさと歩いて行ってしまう。残された甚夜はどうしたものかとちよの方を見た。
「お隣失礼します」
ちよの方もその気らしく、緩やかな動作で甚夜の隣に腰を下ろすところだった。
「ああ……では、ちよ殿」
「ええ。狐の鏡について、ですね。かつて狐の鏡を作った鍛冶師は、未来を見る<力>を持った鬼女、彼女が持っていた槍と残された鬼の血を混ぜて鏡を打ちました。鍛冶師は未来を映す鏡が出来れば、と思っていたそうなのですが、何の因果か過去と未来を繋ぐ、途方もない代物になってしまった。故に神社の御神体として安置し、一般の者が触れられないようにしたのです。それが羽衣伝説と混じり、天と地を繋ぐ鏡と呼ばれるようになりました」
説話は真実を語らないがまったくの嘘という訳ではない。
しかし本当に途方もない話だ。自由に未来を行き来出来る鏡など国がひっくり返る。
「ですがその力は年々弱くなっています。おそらく、いずれは狐の鏡はただの鉄鏡になるのでしょう」
「ならば朝顔は」
「多分彼女は、未来から訪れたのだと思います」
「そう、ですか」
それが天女の正体。
彼女がどれくらい先の未来からやってきたのか、そこでどのような暮らしをしていたのかは甚夜には分からない。息苦しいと言った彼女の日々は遥か先で、想像することさえ出来なかった。
しかし朝顔は自分の意思で戻ることを選んだ。ちゃんと帰るべき場所に帰ることができた。
甚夜にとっては、その事実だけで十分だった。
「ありがとうございました」
「いえ。お力になれたようで何よりです。……あの、甚夜様。やはり敬語は止めて頂けないでしょうか」
話が終わった所で、ちよは以前と同じ願いをぶつけてきた。
「いえ、しかし」
「どうか、お願いします」
何故かは分からない。しかし真っ直ぐな目は僅かに潤んでいて、縋るような色さえある。
これ以上拒否するのは酷か。ふう、と一度溜息を吐いて甚夜は頷いた。
「分かった。代わりにちよ殿も楽にしてくれ」
変化した態度にちよは本当に嬉しそうな顔をした。
その理由は甚夜には分からない。
「そうですね、でしたら……」
そこでちよは年齢には見合わぬ、悪戯を成功させた子供のようにほくそ笑みを浮べて言った。
「甚太にい、とお呼びしてよろしいでしょうか?」
一瞬、頭が真っ白になった。
随分と懐かしい呼び名。そう呼んでくれたのは一人しかいない。
思い出される遠い過去。
そうすれば絡まった糸が解けるように色々なことが分かってくる。
彼女が、名乗る前から自分の名を知っていた理由、『夜』の名を冠したと知れた理由。
磯辺餅が好きだと知っている理由。
隠された真実。未来を見る鬼女。
荒城稲荷に伝わる狐の鏡の説話。
鉄鏡。産鉄の土地。稲荷神。説話において語られる火の神性。
そして“狐”の意味。
曰く、マヒルさまは火処に絶えることのない火を灯す神。
もともとは“いらずの森”に住んでいた狐だったという。
其処まで考えて、ようやく合点がいった。
「……お前、ちとせか!?」
柄にもなく大声で聞き返す。その動揺こそが面白かったのか、くすくすとちよ───ちとせは笑っている。
「やぁっと気づいてくれましたね。甚太にい」
「なんで、こんな所に」
「ここ、葛野の神社の分社なんです。姫様が亡くなられた後、私がいつきひめを務めましたから。その流れで私たち夫婦がこの神社を任されたんです」
ああ、そうか。
つまり“狐の鏡”における産鉄の集落とは、葛野のことだった。
そして狐はマヒルさま。ここは、火の神を崇めるいつきひめの社、その分社だったのだ。
「お前が、いつきひめ」
「今はもう夜来はありませんし、形だけの巫女ですけど」
その言葉に、甚夜は彼女の名前の意味を知る。
「そうか、ちよ……千歳(ちとせ)だから千夜(ちよ)か」
白雪が白夜と名乗り、甚太が甚夜と名乗ったように、彼女もまた夜の名を継いだのだ。
いつきひめ。懐かしさに少しだけ胸が熱くなる。
もう随分と昔の話だ。
「はい。でも今は社から出ずに暮らすなんてことはないんです。いつきひめの社も、普通の神社ですよ。名前は、ふふっ、とても素敵になりましたけど」
「社はどうなっている?」
「娘に任せてきました。ちゃんと、巫女が途絶えないように言伝を残して」
そうか、と感嘆の息を吐き、改めてちよを見た。
あの幼い子がこんなに大きくなるのだから、歳月というのは不思議なものだ。
「葛野も随分変わったのだな」
「はい。……それにしても残念です。もう少し早くいつきひめになれれば、甚太にいに守ってもらえたのに」
「なんだそれは」
「だって、もう巫女守はいませんから」
笑った。笑い合えた。思いがけぬ再会は何処かくすぐったく、けれど絹のような柔らかい手触りをしていた。
「でも、これでちゃんと約束は守れましたね」
一瞬意味が分からず、返答に窮する。
しかしすぐに思い至り、甚夜は笑みを落した。
「甚太にいが言ったんでしょう?」
「……ああ、そうか。そうだったな」
旅発つ際に、甚夜は確かに言った。
───また今度、磯辺餅でも食わせてくれ。
帰ってくるなんて言えなかった。誤魔化す為の言葉だった。
なのに、ちとせはずっと覚えてくれた。
約束が果たされるというのは、こんなにも暖かいことだと教えてくれた。
「では、どうぞ」
「遠慮なく頂こう」
彼女が準備してくれた小皿に手を伸ばす。
磯辺餅は、今まで食べたどんなものよりも旨く感じられた。
「旨いな」
「当然です」
ぐっと胸を張る、四十をとうに越えた女。だというに、何故かその姿が幼い“ちとせ”に見えた。
「父様ー!」
人混みの中で、野茉莉が手を振っている。傍らにいる兼臣は明らかに疲れた顔をしていた。かなり振り回されたのだろう。
「行ってきてください」
「ん、そうだな」
名残惜しいものはあるが、娘を無視することなど出来ない。
茶を一口啜り、腰を上げる。
「では……いや、またな。ちとせ」
「はい、いってらっしゃい。甚太にい」
短い別れの言葉。それでよかった。いつだって会えるのだ。別れを惜しむ必要などない。
「父様、お話終わった?」
「ああ」
自然と手を繋ぎ、親娘で歩く。
「葛野様、助かりました……」
疲れたように溜息を吐く兼臣に思わず苦笑い。
「何か食べたい!」
「そうだな。林檎飴なんてどうだ」
「じゃあそれっ! ……でも、林檎飴って、なに?」
「……私も知らん」
言葉の通り、林檎の形をした飴細工なのか。それとも林檎味の飴なのか。実の所甚夜も知らなかった。
「すまん、忘れてくれ。取り敢えず、色々回ってみようか」
「うんっ」
野茉莉と並んで祭りを楽しむ。
いつか、朝顔との約束も果たせればいいと思う。
彼女が未来から訪れたというのなら、いずれそういう機会もあるかもしれない
その時までには林檎飴が何なのか、調べておこうと思った
「父様、こっちこっち」
けれど今はこの祭りを楽しむことにしよう。
天高く、抜けるような青空。
夏の祭りはまだ始まったばかりだった。
林檎飴が縁日で売られるようになるのは明治の中頃、もう少し後の話である。
◆
気が付けば、神社の本殿で私は寝転がっていた。
「あ、れ?」
聞こえてくる祭囃子。体を起こしきょろきょろ見回す。明るい方へ誘われるように歩き、周りを気にしながら本殿の外へ足を踏み出せば、辺りはお祭りの真っ最中。
ここは甚太神社の境内。たこ焼き、フランクフルト、金魚すくい、林檎飴、射的、チョコバナナ。私の知っている出店がたくさん並んでいた。
「戻って、これたんだ」
安堵からか大きく息を吐く。
クラスメイトの“彼”のおかげで不思議な体験は沢山してきたけど、今回のは飛びきりだ。まさか明治時代に行くなんて思ってもみなかった。
でもまあ、いっか。楽しかったし。
「あれ、薫?」
その時、後ろから声を掛けられた。
振り返ってみればそこにいたのは私の中学の頃からのお友達。
みやかちゃんが、巫女さんの服装で立っていた。
「あ、みやかちゃん。こんばんは」
「うん、今晩は。お祭り、来てたんだ?」
「あははー、うん、ちょっとね」
曖昧に答える。でもちょっと明治時代に行ってきました、なんて言っても信じて貰えないだろうから仕方がない。
「あ、ねぇねぇみやかちゃん。今年って何年だっけ?」
「なに、いきなり?」
「あはは、度忘れしちゃって。ごめんね」
「別にいいけど。平成二十一年ね」
なら西暦だと2009年。夏祭りの夜だから8月15日で間違いない。私が光に包まれてから半日くらいしか経っていないみたいだ。
「その朝顔の浴衣、可愛いね」
「ありがと。みやかちゃんもとってもかわいいよ?」
「私の格好には触れないで」
みやかちゃんは巫女さんの格好をしていた。背が高くてすらっとしてて、こういう服を着ても似合うんだからみやかちゃんはずるいと思う。
「あ、浴衣と言えば」
そう言うと、みやかちゃんは急に不機嫌な顔になった。拗ねたように唇を突き出している。
「どうしたの?」
「さっき、石段の下で甚夜に会った」
あいつ。みやかちゃんがそう言う相手は一人しかいない。私がさっきまで一緒にいた彼だと思う。なんか不思議な気分だった。
「あ、そうなんだ」
「なんか、着流し? を着て、デートみたい。待ち合わせかな、相手はまだ来てないみたいだったけど」
「でーと?」
そう言うと、すっごく微妙な顔で小さく頷いた。
「うん、そう。前からの約束だって」
「へー、誰とだろう。私達の知ってる人かな?」
肩を竦めて、面白くなさそうにみやかちゃんが言う。
「さあ? 相手は天女だとか言ってたわよ。女の子を天女みたいとか、恥ずかしいヤツ」
天女。
その科白に重なって、幻聴が聞こえる。
────もし、機会があったら。今度は一緒にお祭りへ行こうねっ!
それは私自身が言った言葉で。
だから私は、気付けば走り出していた。
「ちょ、薫!?」
みやかちゃんの声が聞こえたけど止まらない。
だって“もしかしたら”って思ってしまったから、止まれなかった。
思い切り走る。不思議な体験の余韻はまだあったけれど、だからこそ、“待ち合わせの場所”に早く行きたいと思った。だっていつも余裕たっぷりな彼がどんな顔をするのか見てみたい。顔がにやけるのを止められない。不思議だ、私は彼がそこにいないなんて想像もしていない。
浴衣は走りづらいけど、二段飛ばしで石段を駆け下りる。そうして降りきって辺りを見回す。人が多い。でも、私はすぐに見つけられた。階段の下、道の脇辺りに彼はいた。
「遅かったな、梓屋」
ああ、やっぱり。
彼は天女を待っていた。
「あの、えっと、あの」
着流し姿の彼は、私を見つけて軽く手を上げた。
初めて見る格好なのに、学生服よりも似合うと思う。
明治の頃と全く変わらない姿で、彼は待っていてくれた。
「とりあえず落ち着け」
「う、うん、ごめんね? えーっと、あの。ひ、久し……ぶり?」
どう挨拶すればいいのか分からなくて、変なことを口走ってしまう。多分私の顔はすっごく赤くなっている。あー、馬鹿なこと言っちゃったな。そんなことを思っていると、彼は落すような、穏やかな笑顔で迎えてくれた。
「ああ、久しぶりだ。これで気兼ねなく呼べるな……朝顔」
顔が更に熱くなった。
熱さの理由は嬉しかったから。すごく嬉しくて、ぶるりと肩が震える。
だって彼は一週間しか一緒にいなかった女の子のことを、百年以上たっても忘れていなかった。私のことを、ずっとずっと覚えていてくれた。それを嬉しいと思わない訳がなかった。
「覚えてて、くれたんだ」
「一緒に祭りへ行こうと言ったのはお前だろう」
「あはっ、あはは。それはそうだけど。まさか覚えていてくれるなんて思ってなかったんだよ」
だって、百年以上も前のことだ。きっと、忘れていると思ってた。
でも彼はあの時と同じように、朝顔と呼んでくれる。
「なんか、不思議な感じ」
「私には懐かしい。もう思い出すことも稀になってしまったが、あの頃は本当に満ち足りていた」
多分彼は、私の姿に重ねて懐かしい景色を見ているんだろう。遠い目は優しく、とても穏やかだ。その雰囲気が、彼は本当に百年以上生きているのだと思わせた。
「あの、葛野君。聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」
「構わんが」
「ありがと。あの、さ」
少し口ごもり、でも意を決して私は聞いた。
「ねぇ。葛野君は今、幸せ?」
あの時と同じ質問をもう一度してみる。
私には一瞬前の出来事だけど、彼にとってはもうずっとずっと、百年以上も前のこと。
当たり前だけど、 野茉莉ちゃんはもういない。秋津さんも、平吉くんも。兼臣さんも。彼と笑い合っていた人は、もう全員死んでしまっている。
彼はきっと私じゃ想像つかないくらい多くの別れを経験してきた。
それなのに、こんなにも穏やかに笑える彼が、今をどう思っているのか知りたかった。
「当たり前だろう?」
鉄のように揺るぎない、でも暖かな声。
彼は、穏やかな笑顔でそう返してくれた。
「長く生きれば失うものは増える。寂しいと思わない訳ではないが、そう悪いものでもない。失くすものが多い分、手に入れるものだってあるさ。それに、長くを生きればこそ時折降って沸いた再会に心躍らせることもある」
嬉しかった。
あの時、幸せだと言えなかった彼が、こんな風に笑える今が。
きっと彼は、私では想像もできないようないろんなことを乗り越えて、こうやって笑えるようになったのだろう。
それを思うと、とても温かい気持ちになる。
「えーと、それって、私のこと?」
「多分、お前には分からんよ。教室で会えた時、どれだけ私が嬉しかったことか」
「もう、またそういうこと言うー」
誤魔化すように笑っても、きっと顔は凄く赤い。
それでも彼は落すように笑って、見ないふりをしてくれた。
「さて、そろそろ行くか。約束通り、林檎飴を奢ろう」
そう言って踵を返す彼の動きは、あまりにもはまっていて、まるで時代劇の1シーンを見ているような気になる。
「やっぱり、そういう格好似合うよね」
「そうか? お前の浴衣姿には負けると思うが」
思ってもみなかった返しに、私は少しだけどもった。
「そ、そう、かな?」
たどたどしく聞いてみると、彼は初めて見せる穏やかな笑顔で言った。
「勿論。やはり、お前には朝顔の浴衣がよく似合う」
ああ、違う。
思ってもみなかった返しなんかじゃなかった。
私は多分、なんて続くのかを、ずっと前から知っている。
だから何も言わずに言葉を待つ。
そして林檎飴を奢るなんて些細な約束を百年もの間忘れずにいてくれた彼と。
「まるで、いつか見た天女のようだ」
今度こそ、一緒にお祭りを。
遠い約束は、此処に果たされた。
鬼人幻燈抄 明治編 余談『林檎飴天女抄』
次話『徒花』
<中書き>
これで前回の投稿分をこえられたので、そろそろオリジナル版に移ることを考えていますが、どうでしょうか。まだ早い、ここは修正した方がいいとの意見がありましたらよろしくお願いします。