明治十年(1877年)・八月
最近、とみに思う。
一年という期間は、想像以上に長いのだと。
鬼となり千年の寿命を得てしまった甚夜には最早実感することは出来ないが、人の一年は長い。
変わらないものなんてない。
一年もあれば大抵のものは容易に変わってしまう。
「おーす、おはよう。葛野さん」
「どうも」
今日も今日とて店先の掃除をしていると、鬼そばの隣にある三橋屋、その店主である三橋豊重(みはし・とよしげ)も同じように表に出てきた。
「今日も、あっついなー」
「いや、まったく」
二十五になり、以前よりも少しは貫禄が出て来たように見える。しかし豊重は相変わらず面倒くさそうに掃除をしている。それでも手を抜かない辺りは店主としての心掛けだろう。
「それじゃ」
「ええ」
軽い挨拶を交わし互いに店へ戻る。
既に仕込みは終わらせてある。朝食を準備し終えた頃には、野茉莉は既に起床し、裏の井戸水を汲んで顔を洗っていた。
昔から寝起きはいい方だった。ただ起こして貰えるのが嬉しいからと寝たふりをしていただけ。しかし今では起こすこともなくなった。それを少し寂しいと感じてしまうのは、仕方のないことだろう。
「いただきます」
「いただきます」
親娘で顔を合わせ、言葉少なに朝食をとる。
野茉莉は大きくなった。
髪型は以前と変わらず、黒髪を甚夜が買った桜色のリボンで纏めている。しかし顔立ちからは少しずつ幼さが抜けてきた。一年前と比べれば、女性らしい丸みを帯びてきている。
「……なに?」
甚夜の視線を訝しんで、短く野茉莉が言った。
「ああ、いや」
「そう……」
よく分からない遣り取りを交わし、また食卓は静かになる。
かちゃかちゃとなる食器の音だけが響く。気まずい空気をどうにか打ち破ろうと、甚夜はもう一度口を開いた。
「今日は、天気がいいな。どうだ、久しぶりに散歩でも」
「ううん、別にいいよ」
「……そう、か」
にべもなく言葉を断ち切られ、それ以上何も言えなくなる。結局まともな会話は出来ないまま朝食を終えた。
それでも野茉莉は当たり前のように洗い場まで食器を運ぶ。店の手伝いも変わらずに続けてくれている。
決して何もかもが変わった訳ではない。野茉莉は間違いなく昔のままの優しい娘で、
ただ以前のように上手く会話が出来なかった。
「ありがとう」
「ううん」
短い返事、長い沈黙。やはり会話は続かない。
野茉莉は大きくなった。その分、色々なものが見えるようになり、いつまでも幼い娘ではいられなくなった。
そうすれば自然と親を煩わしく感じるのだろうか。野茉莉が無邪気な笑顔を見せてくれることは少なくなった。
「野茉莉、洗濯物があれば出しておいてくれ」
何気なく声を掛けたつもりだった。しかし何故か野茉莉は、僅かながら頬を主に染め、顔を背けてしまった。
「いいよ、自分のくらい洗えるから」
「だが手間だろう。まとめて洗えば」
「だからいいって!」
甚夜の言葉を遮るように強く言う。自分で出した大声に驚き、今更ながら自分の態度を顧みて野茉莉は更に顔を赤くした。
「ご、ごめんなさい! でも本当に自分で洗うから!」
一度も父の目を見ずに謝り、小走りで奥の部屋へと行ってしまう。
残された甚夜は、何も言うことが出来なかった。
最近、とみに思う。
一年という期間は、想像以上に長いのだと。
鬼となり千年の寿命を得てしまった甚夜には最早実感することは出来ないが、人の一年は長い。
変わらないものなんてない。
一年もあれば大抵のものは容易に変わってしまう。
葛野野茉莉、十四歳。
思春期、そして反抗期であった。
鬼人幻燈抄 『妖刀夜話~御影~』
「それは、葛野様が悪いでしょう」
夜になり、店で酒を煽っている甚夜に、兼臣ははっきりとそう言った。
「例え父親であっても殿方に服を洗われるなど恥ずかしく思って当然。寧ろちゃんと謝れた野茉莉さんを褒めてあげるべきです」
女性として甚夜の態度引っ掛かったらしく、兼臣は慰めるようなことは言わなかった。
甚夜も父としての振る舞いには自信が無い為、反論はせずにそれを受け入れている。
「そう、か?」
「ええ。子供はいつまでも子供ではないのですから。野茉莉さんはもう十四。江戸の頃ならば結婚していてもおかしくない歳でしょうに」
「結婚だと」
それは流石にまだ早すぎる。
にわかに動揺し声を荒げれば、兼臣は呆れたように溜息を吐いた。
「だから、もう子供ではないのです」
「あ、いや……うむ。分かっているつもりでは、いたんだが」
変わらないものなんてないと知っていた。
だから野茉莉もいつかは大きくなると理解しているつもりになっていた。しかし本当の意味では分かっていなかったのかもしれない。子供扱いをしてはいけないと頭では理解しているのに、出てくる言葉は子供に対する物言い。結局のところ甚夜は娘の変化に付いていけてなかった。
「儘ならぬものだ」
ぐっと酒を飲み干せば、空になった器に兼臣が酒を注ぐ。
兼臣は酒をやらない。代わりに酌をしてくれていた。
別にそんなことをしてもらうつもりはなかったのだが、普段世話になっている礼だと言われては断るのも心苦しい。
仕方なしに頼むと、兼臣は傾いた装いとは裏腹に楚々とした仕種で酒を注いでくれる。
杯を飲み干す。喉が熱い。偶にはこんな酒も悪くないかもしれない。そう思えた。
「お前にも、ああいう時期はあったのか」
酒を呑みながらも気にかかるのは野茉莉のこと。
女でなければ分からぬこともあろうと聞いたが、兼臣は困ったような顔になった。
「いえ、私は随分前に父を失くしているものですから、相手がおりませんでした。もっとも、生きていたとて父に反抗する自分など想像もつきませんが」
初めて聞く話だった。そもそも兼臣とじっくりと話したことはない。
もう五年近く同居しているというのに、知っていることなど殆どないのだと今更ながらに気付かされた。
「不躾なことを聞いた」
「いいえ、お気になさらず」
また酒が注がれる。陰鬱な気分を飲み干すように、甚夜は一気に盃を空ける。
それが面白かったのか、兼臣はくすりと静かに笑った。
「難しいな、親というのは」
「人を育てるのです、当然でしょう」
染吾郎は、この娘の主人と知己だと言っていった。
若く見えても夫のある身。彼女なりに思う所があるのかもしれない。
「そうか、お前は結婚しているんだったか」
「え?」
何の気なしに零せば、兼臣はきょとんとした顔をしている。何を言っているのか分からないといった様子だった。
「葛野様、何の話でしょうか?」
「以前、染吾郎から主人がいると聞いたが」
甚夜の言葉に納得がいったのか、兼臣は薄く微笑む。
「ああ、確かに主人はいます。ですがそれは“夫”ではなく“仕えるべき主”。私は刀、そのようなものを嫁に迎える物好きはいないでしょう」
「……すまん、如何やら勘違いだったらしい」
「ですから、お気になさらず」
軽く言う兼臣。しかし彼女の言が真実とすれば、それは決して軽いものではないだろう。
染吾郎は彼女の主人と知己。そして主人が鬼に討たれ、染吾郎を頼った兼臣は、鬼を討つという男に地縛の捕縛を依頼した。
おそらく彼女の主人は地縛にやられた。
つまり彼女の目的は主の敵討ということになる。
知らず溜息が零れた。
刀を捨てられず、復讐を願う。
彼女もまた、明治の世に取り残された一人だった。
「そういう葛野様は妻を娶ろうとは思わないのですか?」
己を刀だと言い張る兼臣、ならば主を守れなかった後悔は推して知るべしというものだ。
だが顔には出さなかった。同情など彼女は欲していない。彼女の無念が晴れる時は、地縛を打ち倒したその時だけ。ならば安易な慰めなどしてはならない。
「相手がいない。……それに以前、野茉莉に母親はいらんと言われた」
「それを律儀に守る辺り、貴方らしい」
言いながら酒を注ぎ、そこで徳利が空になった。
どうやら随分と長いこと話をしていたようだ。
「深酒は体に毒。そろそろお休みになられては?」
「そうしよう。すまんな、愚痴に付き合ってもらった」
最後に盃を煽り、一息ついて甚夜は落すように笑った。
何かが解決したわけではないが少しは気が楽になった。
「いいえ。葛野様にはお世話になっております故」
甚夜の様子に安心したのか、返すように兼臣も笑い、徳利を片付けてから彼女は寝床に戻った。
彼女がどういった出自かは分からないが、刀に拘っていること、また恩義に報いようとする辺り、武家の娘だったのかもしれない。
少しだけ穏やかな心地で彼女の背中を見送り、そろそろ自分も寝ようと席を立てば、
「……父様?」
計ったように、暗がりから声が聞こえた。
「野茉莉、どうした」
障子に身を隠し、覗き込むように野茉莉はこちらを見ている。表情は硬い。あからさまに不機嫌な様子だ。
「ちょっと目が覚めて……お酒、呑んでたの?」
声は重く冷たい、鉄のような響きだった。
「ああ」
「ふーん、兼臣さんと? 夜中に、二人きりで?」
「む、少し、な」
無感情で平坦な言葉を積み上げていく。
問い掛けているというのにその眼には興味も好奇も宿ってはいない。
鬼との戦いでさえ気圧されたことなど殆どない。だというのに愛娘の放つ圧迫感に、甚夜は少したじろいだ。
野茉莉は眉を顰め、昏い視線を向けた。
「……不潔」
そしてぼそりと呟き、反論を聞くことなく去っていく。
咄嗟のことで甚夜は何も返せなかった。
そもそも何と答えればよかったのかも分からない。
甚夜は愛娘からぶつけられた言葉に打ちのめされ、しばらくの間立ち尽くしていた。
◆
「いやー、しかし野茉莉ちゃんかいらしなったなぁ」
昼時になり店を訪れた染吾郎は、店内を動き回る野茉莉を眺めながらそう言った。
甚夜は口には出さなかったが同意した。親の贔屓目はあるが、娘は十分に可愛らしくなったと思っている。近頃は上手く会話できなくなってしまったが、それでも店をちゃんと手伝ってくれる優しい娘に育ってくれた。
おしめを換えていたのがついこの間のように感じていたが、歳月は気付かぬうちに流れるものである。
「まだまだ子供や思っとったのに。いや、僕も爺になる訳や」
甚夜の気持ちを代弁するように染吾郎は嘆息した。
きつね蕎麦をゆっくりと啜りながら穏やかに目を細める様は、言葉通り好々爺といった印象だ。しかしながら甚夜はこの男が一筋縄ではいかないことをよく知っている。
「なぁ? 平吉」
予想通り、染吾郎は穏やかな顔のまま、隣でてんぷら蕎麦を食べている弟子をからかい始めた。
「えっ!?」
「そやから、野茉莉ちゃん。かいらしなったと思わん?」
宇津木平吉。
今年で十七になるこの青年は、秋津染吾郎の弟子である。
付喪神使いを目指しながらも体は鍛えているのだろう。歳の割に肩幅は広く、背丈も五尺半程と体格がいい。いくつか術も習得し、それなりに“できる”ようになったと染吾郎が嬉しそうに話していた。
「あ、はい、いや、ええ……えぇ?」
そんな彼は、根深く鬼を嫌っており、その割に何時の頃からか文句も言わず鬼そばへ訪れるようになった。以前は師に無理矢理連れてこられていただけだったが、今では一人でも時折蕎麦を食いに来ることさえある。
「そりゃ、はい。俺も、そう思い……いやいや!」
それがどういう感情からの行動かを理解できぬ程、甚夜は鈍くはなかった。
「知っとるで、平吉、野茉莉ちゃんに会うために時々ここ来とるやろ?」
「えっ、なんで!?」
ぼそぼそと、しかし甚夜にも聞こえる程度の声量で染吾郎が囁く。
ばれていないとでも思っていたのか、指摘された事実に平吉は顔を赤くして慌てふためいていた。
「いやぁ、かいらしなったもんなぁ。桜色のリボンもよう似合っとる。あれか、告白とかはせんの?」
「お、お師匠!? そんなんじゃないですから!?」
「僕に隠し事なんかせんでもええやろ。ほれ、言うてみ? お近づきになりたいんやろ?」
わやわやと騒がしい二人に呆れて溜息を吐く。
「父親の前でそういう話をしてくれるな。どういう顔をすればいいのか。分からなくなる」
呆れもするというもの。平吉を弄っているに見えて、染吾郎が本当にからかおうとしているのは甚夜の方だ。大方娘に恋人が出来るかもと思わせ、慌てさせようとでもしているのだろう。
「あらら、案外平気そうやね」
「お前の弟子なら何処の馬の骨とも分からん男よりは信が置ける。取り立てて騒ぐことでもあるまい」
「……なんや、ちょっと照れるなぁ」
からかおうと思ったのに真っ直ぐな言葉を受け、少しばかり恥ずかしそうに染吾郎は頬を掻いた。
「ま、それはおいとくにして。そしたら平吉と野茉莉ちゃんがくっついても?」
「私が口を出すことではなかろう」
甚夜個人としては娘にはまだ“娘”であってほしいと思う。
しかし野茉莉が望むのならば、それは仕方のないことだ。
ただ少し引っかかりはあった。
平吉に、ではない。本当ならばもう一人、婿になるかもしれなかった者がいたと思い出してしまったからだ。
遠い昔、友人は野茉莉を武家の娘にするつもりはないかと聞いてきた。
その時甚夜は確かに“それも悪くない”と思った。
しかしもうそれは望めないだろう。友人をこの手で殺した。彼の息子にも、妻にも、今更合わせる顔などなかった。
「えっ、ほんまに!?」
平吉はものの見事に頬を緩ませる。
鬼を嫌っている彼だが、以前より態度は軟化した。甚夜に慣れたのか、それとも野茉莉の父だからなのかは今一つ分かり辛いが。
それでも彼は目標のために努力できる人間だ。そしてその為の手段に正道を選べる誠実さも持っている。
勿論、娘が誰かと恋仲になるのは父親としては寂しいが、その相手が平吉だというのは少なからず安心できる要素ではあった。
「まあそれも野茉莉が」
「……私のいないところで、そんな話しないでよ」
望むのならば、だが。
そう続けようとして、悲しそうな、苛立ったような声に遮られた。
いつの間にか傍まで寄っていた野茉莉は甚夜を無表情で見つめている。しばらく沈黙が続き、新しい客が入って来たところで「いらっしゃいませ」と元気な声で野茉莉は離れていった。
なにも声を掛けてやることが出来なかった。
「あーいや。なんや、僕、拙かった?」
「お前のせいという訳でもない。近頃はどうにも、な」
拙かったのは寧ろ甚夜だ。
自分の行く末を父が勝手に語るなど確かに不快だろう。もう少し気遣わなければいけないところだった。
「お父さんは大変やね」
「まったく、儘ならぬものだ」
弱音を吐いた甚夜はいつもより疲れて見える。話題を振ったのはこちら、流石に悪いと思ったのか、染吾郎は努めて明るい表情を作った。
「そや、実は君好みの話持ってきたんやった。詫び代わりに聞いたって」
甚夜の顔付きが一転した。
「ほう?」
どれだけ日常に浸かろうとも彼は鬼、掲げた“己”は曲げられぬ。
その在り方にほんの少し苦々しいものを感じながらも染吾郎は言葉を続ける。
「近頃な、百鬼夜行を見たって話がようさん聞こえてくる。なんか被害が出た、ってとこまではいっとらんけど。鬼がなんやしとるのは間違いなさそうやね」
例えば宇治拾遺物語には、ある修行僧が摂津の竜泉寺で、百もの鬼と出くわした話が記されている。
夜毎街を練り歩く鬼や妖怪の群れを百鬼夜行と呼び、遭遇すれば寿命が地事務など不吉の象徴として多くの説話が残されていた。
「成程、確かに私好みだ」
百鬼夜行というからにはそれなりの数の鬼が目撃されているのだろう。
それがいきなり自然発生したとは思えない。
何か裏がある。
そしてその裏はおそらく。
「ああ、そういや」
思い出したように染吾郎は付け加える。
「百鬼夜行の中心には、鎖を操る鬼女がいたって話や」
マガツメが、動き始めたのだ。