つまり、兼臣は刀であった。
「娘はいずれ南雲を継ぐ。しかし剣の腕が無くてな。少しばかり指南をしてやってくれ」
退魔の家系として名高い、“妖刀使い”の南雲。
当主の娘、南雲和紗(なぐも・かずさ)は退魔の家に生まれながらも、その容姿は刀など似合わぬ優しげな少女で、一見すれば良家の令嬢としか思えぬ線の細さだった。
「よろしくお願いします」
和紗の父に引き合わされたのが初めての出会い。
その時、和紗はまだ十二の女童だった。
外見に反してタコの出来たごつごつとした手、だというのに剣の腕はあまりに拙い。
それもその筈。和紗は刀を振るっても相手に当たる瞬間、力を緩めてしまうような娘だった。
兼臣は彼女が退魔に向いていないと思っていた。
優し過ぎて、誰かを傷付けることに傷付けられるような娘だ。鬼を討つ家の当主になぞなれよう筈もない。
────貴女は、刀を振るうのには向いていない。
それは兼臣なりの優しさだった。
彼女の父の考えは兎も角、別に当主は和紗でなくてもいい。このような優しい娘が鬼を斬る家を継ぐ必要はないと思えた。
「ええ、私もそう思います。でも、だからこそ父は私を望んでくださったのです」
不躾な言葉だった。しかし怒りはなく、柔らかな仕種で彼女は答える。
「貴女は戦う術を持たぬ者は妖刀使いに相応しくないと言う……けれど本当は、傷付けることを躊躇えない人こそ相応しくないのです。妖刀は心をもてど斬るものを選べない。ならば、使い手はそれを選べる者でなければなりません」
そうして和紗は儚げに微笑んだ。
「斬るべきものを選べる心こそ、南雲の誇りなのです」
なんとも、お人好しな退魔の家系があったものだ。
呆れながらも妖刀の心さえ慮る彼等のことを兼臣は気に入った。
目の前でたおやかに笑う和紗の力に為ってやりたいと思ってしまったのだ。
つまり、兼臣は刀であった。
この優しい娘が傷付かぬよう、優しいままでいられるように。
彼女を助け、立ち塞がるものを切って捨て、進むべき道を切り開く。
そういう刀で在りたかった。
心からそう思って。
なのに────
鎖にその身を貫かれる彼女の姿が、今も脳裏に焼き付いている。
私は大切な者を奪われた。
それを取り返す為ならば、いかな屈辱でも耐えよう。
兼臣の道行きはただその為だけにあった。
つまり、兼臣は刀であった。
鞘はとうの昔に失くしてしまった。
◆
三条通を行く兼臣は小走りだった。
「そこの女、止まれ!」
廃刀令が施行されても帯刀を止めない彼女は警官隊によく追われており、要注意人物としてあげられる程。しかしながら刀を手放すことは出来ない。その為この追走は既に日常的な光景となってしまっていた。
「ふぅ……」
いい加減このやり取りも面倒くさくはなってくる。兼臣にとって、明治という時代はひどく生きにくいものだった。
取り敢えずは警官隊をやり過ごし、再び通りを歩く。しばらくすると、三条通に店を構える小物屋の店先でなにやら唸っている平吉と出くわした、
「宇津木様?」
「あ、兼臣さん」
えらく真剣に悩んでいる様子だったが、兼臣の姿を確認すると背筋を伸ばして挨拶を返した。
「どうしはったんですか、こんなとこで」
「いえ少し。宇津木様は?」
女物の櫛や装飾具などを扱った店で体格のいい十七の青年が唸りを上げている様は中々に奇異だ。思わず問うてみれば平吉は僅かに顔を赤くした。
「いや、俺も、少し」
「はあ」
答えたくないらしく、平吉は適当に誤魔化す。突っ込んで聞くほどの興味もなく、結局話はそのまま立ち消えた。
平吉にとって兼臣は師匠の知り合いであり行きつけの蕎麦屋の居候。
兼臣にとって平吉は居候先の蕎麦屋によく来る客。
お互い顔は知っているもののそこまで親しくもない。話が途切れると何となく居た堪れない心地になってしまい、気まずさから逃れるように兼臣は当たり障りのない話題を振った。
「今日は、秋津様は?」
「いつも通り蕎麦食いに行ってます。まあ、ほんまはあいつに会いに行ってるんでしょうけど」
あいつ、というのは店主のことを指しているのだろう。
理由は分からないが平吉はやけに鬼を嫌っている。付き合いが長くなったとはいえ、鬼である甚夜を完全に受け入れることはできないようだった。
「相変わらずですね」
「今回は変な話仕入れてきたみたいですし、それ関係やと思います」
「変な話、ですか」
こくんと頷いてから平吉は言った。
「はい、鎖を操る鬼女が、夜な夜な鬼を引き連れ練り歩いとるらしいんです」
その言葉が兼臣にとってどういう意味を持つのか、彼は知らなかった。
◆
夜になり、野茉莉が寝静まってから甚夜は自室に戻り腰に夜来を差した。
廃刀令が施行され日中の帯刀は難しくなった。しかし鬼を討つのに無手という訳にもいくまい。形だけは法に従ったとしても、どこまでいっても彼は刀を捨てられなかった。
もう一度店舗へ戻り、心を落ち着けるようにゆっくりと呼吸をする。
すると時期を計ったかのように、部屋から出てきた兼臣が顔を出した。
「……葛野様」
朝出かける前は普通だったが、今の兼臣はいやに昏い顔をしていた。
「どうした」
「……地縛が、現れました」
呟く声は震えている。
どうやら彼女も百鬼夜行の噂を聞きつけたらしい。
五年ぶりに姿を現した仇敵。冷静でいられる方がおかしいというものだ。
それでも感情に任せた行動をとらない辺り、彼女は現実というものを知っている。見ているこちらが苦しくなる程に、だ。
兼臣の腕では地縛を倒せない。
彼女は、それを誰よりも理解していた。
「どうやらそのようだ。百鬼夜行を引き連れるとは、しばらく見ぬうちに随分と出世したらしい」
冗談を言っても表情は変わらない。
「では、貴方も」
「ああ。染吾郎から場所も聞いた。今夜向かうつもりだが、お前はどうする」
「答えなど、聞く必要もないでしょうに」
「そうだったな」
確かに意味のない問いだった。
断るなど在り得ない。
その為に刀を振るってきた。今更尻込みする理由が何処にある。
悲壮なまでの表情を浮かべ、兼臣は真摯に頭を下げた。
「……どうか、御助力を」
微動だにせず、只管に願う。
刀を振るう者が、己が刀の弱さを曝け出す。それは耐えようもない屈辱だろう。
甚夜もまた刀に生きた男。憎むべきものを前にして力が足りない、その悔しさには覚えがあった。
「私はな、お前を高く評価している」
帰ってきた答えは、兼臣の意表を突いた。
「地縛の動きを知ったお前は、考えもなく動くと思った。だが違ったな。地縛を仇と憎みながら、激情に駆られ無謀な行動をとるような真似はしなかった」
「褒められたことではありません。私では勝てない、だから貴方に縋っただけです」
歯噛みする兼臣は、言葉の通り心底悔しそうだ。
それも当然、彼女は刀だったのだ。敬愛する主を守る刀で在りたかった。
なのに主を守れなかった。敵を討つことも叶わず、ただ力を貸してくれと縋るしかない己が、どうしようもなく無様に思えた。
「弱さを認めるのは、強く在るより遥かに難儀だ。お前の気質では誇れはしないだろうが、卑下することでもない。憎しみを飲み込むだけの度量は、素直に見事だと思うよ」
甚夜は左手を夜来にかけ、落とすような笑みを零した。
「私には出来なかったことだ。正直、嫉妬さえ感じるな」
ほんの少しだけ垣間見えた、頼りない表情。
もしも彼女のような強さがあったなら、あの夜、妹を傷つけずに済んだのだろうか。
どろりとした憎悪を感じながらも、甚夜は心の片隅でそう思った。
「済まない。……何故か、お前には愚痴を言ってしまう」
「ふふ、それが信頼の証なら、甘んじて受け入れましょう」
ようやく、小さくだが兼臣は笑ってくれた。
そして幾分か肩の力を抜き、甚夜の目をまっすぐに見詰めた。
「あの、葛野様。代わりと言ってはなんですが、私の話を聞いてもらってよろしいでしょうか?」
淀みのない瞳。
受けてやらねば、彼女を傷付けることになる。甚夜は訳もなくそう思った。
「ああ」
「ありがとうございます」
もう一度はにかむように笑い、兼臣は緩やかに語り始める。
「貴方には聞いてほしいのです。私の始まりを。……守るべきものを守れなかった、無様な刀の話を」
◆
兼臣は刀として和紗に仕えた。
しかし和紗にとって兼臣は、刀である以上に剣の師であり、教え諭してくれる姉であり、何よりも無二の友であった。
それがくすぐったく、同時に心地よく。
兼臣は南雲での暮らしに言い様のない安寧を感じていた。
「おぉ、和紗ちゃん。こんにちは」
時折南雲の家へ遊びに来る男は、秋津染吾郎と名乗った。
妖刀を扱う南雲と付喪神を使役する秋津。
共にあやかしとなった器物を扱う者達、それなりに交友があるらしく、染吾郎は土産に京の菓子を持ってきては日長一日南雲の家で過ごしていくこともあった。
「いつもありがとうございます、秋津のおじ様」
「あはは、おじ様は止めてぇな。まだ三十代やで僕?」
三十代なら十分におじ様だと思いますが。
兼臣がぽつりと呟けば、それを耳聡く拾った和紗が面白そうに話してしまう。聞いた瞬間、染吾郎はにこにこ笑いながらどすの利いた声で兼臣を睨み付けた。
「なんかゆうてくれたらしいなぁ?」
大人気ないことこの上ない。けれど和紗が心底楽しげに笑うから、兼臣はそれでいいと思った。
妻も子もいない染吾郎は、和紗を大層可愛がった。
彼女が十五になり、初めて退魔を請け負った時も心配して付いてきた程だった。
───大丈夫です。今の和紗様ならば、十分に倒せる相手です。
「うん……力を貸してね?」
当たり前のこと、私は彼女の刀なのだから。
もっとも力を貸す必要などなかったが。
予見通り、彼女は苦戦することなく鬼を斬り伏せた。南雲の当主になる為積んできた鍛錬が身を結んだのだ。
けれど、つうっ、と涙が頬を伝う。
「謝りはしません。これが、私達の役目ですから」
歯を食い縛り、しかし一筋の涙を堪えられなかったことを、和紗は嘆いていた。
自分で討つと決めた。なのに命を奪うことが辛くて涙を流すのは、ただの逃げだと彼女は言った。
和紗は歳月を経て優しく、強く育った。
彼女に仕えたのは間違いでないと、信じさせてくれた。
けれど終わりは唐突に訪れる。
二年後、和紗は十七になり、鬼の討伐にも慣れてきた頃のことだった。
最近は成長を見届けた為か、染吾郎が同道することもなくなってきた。
その日も依頼に従い、鬼の討伐へと和紗は赴いた。
対峙したのは無貌の鬼だった。
顔のない、髪のない、皮膚のない。
四肢と爪だけを持った、何もかもが足りな過ぎる鬼。
外見は奇妙だが、為すべきことは変わらない。
和紗はいつものように、傷付けることを躊躇いながらも刀を振るう。
この程度の討伐は。いつものことだった。
鎖にその身を貫かれる彼女の姿が、今も脳裏に焼き付いている。
いつものこと、その筈だった。
しかしその鬼は今まで対峙したどの鬼とも違った。
鎖を操る<力>を持って和紗を弄り、最後には命を奪ったのだ
別れの言葉一つなく、まさに一瞬で。
彼女の魂は体を離れた。
『地縛…あたしは、地縛……』
まだ生まれたばかりだったのだろう。
次第に鬼の顔に目が、鼻が、口が浮かび上がってくる。
そうして出来たばかりの口で、和紗の命を奪った鬼は自分の名前を確認するように何度も呟く。
兼臣はその声を遠くに聞きながら、只管に悔いていた。
守ることが出来なかった。
兼臣に出来たのは、抜け殻となり動かなくなった和紗と共に逃げるくらいのもの。
主の身を守ることとも、主の敵を斬ることもできない。
何一つ為せぬ無様な刀。
それが兼臣だった。
それからの話は甚夜も知るところである。
旧知である染吾郎を頼り、兼臣は「刀一本で鬼を討つ剣豪」に地縛の捕縛を依頼する。
胸中にあった感情はただ一つ。
私は大切な者を奪われた。
それを取り返す為ならば、いかな屈辱でも耐えよう。
兼臣の道行きはただその為だけにあった。
つまり、兼臣は刀であった。
鞘は随分昔に失くしてしまった。
◆
「ですから、私は、地縛を」
「もういい」
話をしている時、兼臣は悲痛に表情を歪めていた。
だから甚夜は止めた。粗方の内容を聞ければそれで充分。これ以上彼女にそんな顔をしてほしくなかった。
「……すみません」
「謝らなくていい。お前の気持ちが分かるとは言わん。だが守るべきものを守れぬ辛さは知っているつもりだ」
脳裏に映るのは、かつて幼き日を共に過ごした愛しい人。
本当に大切だった。なのに、何一つ守れなかった。
兼臣が感じている悲痛は兼臣にしか分からないとしても、その痛みは甚夜にも覚えがあった。
「それは、どういう」
言葉の真意を問おうとして、それより早く店の引き戸が空いた。
「おー、おまたせ、甚夜。準備は整っとる?」
驚き、兼臣は弾かれたようにぴんと背筋を伸ばす。
既に店は閉まっている。だというのにずかずかと入ってくる客に兼臣は視線を向けた。
秋津染吾郎。
鬼そばの常連であり、兼臣にとっては旧知の間柄である。染吾郎は付喪神使い。数える程度ではあったが、主である南雲和紗と轡を並べて戦ったこともあった。
その縁で兼臣のことをよく知っており、今でも気にかけてくれる。そもそも刀一本で鬼を討つという“鬼殺し”を紹介してくれたのは染吾郎だった。
「秋津様……」
「こんばんわ、今日は僕も一緒に行かせてもらうな?」
「はい?」
重く沈んでいた空気が染吾郎の登場によって取り払われ、思わず間の抜けた声を上げてしまう。
「すまん、押し切られた」
甚夜の方に視線を向ければ、腕を組んだまま呆れたように溜息を吐いていた。
彼の纏う空気も先程よりだいぶ柔らかくなっている。ある意味で、染吾郎が来てくれたのは有難いことなのかもしれない。
もっとも、それはあくまでも“ある意味で”。
甚夜にとって染吾郎が来るのは、あまりうれしい状況ではなかった。
「そう言いなや。百鬼夜行の相手するんや、手数は多い方がええやろ?」
「だが、な」
本当は、甚夜と兼臣の二人で向かう筈だった。
それを染吾郎は「前、負けとるんやろ? しゃーない、僕が手伝ったるわ」などと言い出した。何度も拒否はしたのだが聞く耳は持たず、結果今に至っている。
「僕が行くの反対しとる癖に待っとる辺り君は律儀やなぁ」
「置いて行けば勝手に来るだろう」
「お、よう分かっとるね」
悪びれずに笑う。暖簾に腕押しとは正にこのことだった。
「もう一度言おう。止めておけ」
本当は、出来れば自分だけで片付けたいのだ。
言おうとして、それを口にしては兼臣の矜持を傷付けると気付き、思い留まった
甚夜は兼臣が戦いに出ることは止めない。
前回は彼女を庇ったが故に遅れを取ったが、そもそもこれは彼女の我を通す為の戦い。あくまでも甚夜は助力しているに過ぎない。
だから、彼女を守りながら戦うことにより勝率が下がるとしても。
結果として二人とも命を落とす可能性があるとしても、止めることはしない。
自分自身が生き方を曲げられぬ男だ。兼臣の矜持を曲げさせるなど、出来る筈がなかった。
だが染吾郎は違う。
まったくの善意で戦うと言ってくれている。
それを受け入れることは、甚夜には難しかった。
「聞けへんなぁ……君、僕が死ぬかも、とか思っとるやろ?」
図星だった。
以前は共に戦ったこともある。彼の実力に疑いの余地はない。
しかし染吾郎は既に五十近い老体。齢を重ねれば技は練れるだろう。それでも肉体の衰えは誤魔化せない。今の彼がどの程度まで戦えるのか、甚夜にも分からなかった。
善意で手伝うと言ってくれているからこそ、必要のない戦いで命を落とすような結果になってほしくないと思う。
染吾郎を拒否するのは、偏に彼の身を慮ってのことだった。
「あはは、心配してくれるんは有難いけどな。でも人はしぶといで。僕もそうそう死なん」
目の前の初老の男は、いつの間にか静かに笑うようになった。
若い時に見せていた作り笑いではなく、心からの、父性に満ちた笑みだった。
「人は鬼ほど強くはないし、長く生きることはできん。けど僕らは不滅や」
堂々と言ってのけた染吾郎には悪いが、どうしてもそうは思えなかった。
人は脆い生き物だ。体は些細なことで壊れ、小さな擦れ違いで心は移ろいゆく。変わらないものなんてない。人の在り方はとてもではないが不滅とは言い難かった。
「お、その顔、そうは思えんって感じやね。ならええよ。僕が人のしぶとさを証明したるから」
そう言って背中を向けた染吾郎は、一番に店から出ようと扉を開けた。
「ほな、さっさといこか? あんま気ぃ遣わんとって。手伝うのは善意だけってこともないしな」
そうして薄く目を細め、口元を歪めて見せる。
何かに耐えるような表情。そこから真意を読み取ることは出来なかった。
「秋津様にも思う所があるのでしょう。手伝ってくれるというのなら、それでいいのではないでしょうか」
「そう、だな」
まだ引っ掛かりはあるが、取り敢えず納得しておく。
次は兼臣が外に出て、追うように甚夜も玄関を潜ろうとすれば、背中から声を掛けられる。
「父様……?」
振り返ればそこには寝間着姿の野茉莉が立っていた。
「済まない、起こしたか」
「ううん……どこか、行くの?」
詰問するような声。しかし無表情のまま甚夜は、夜来の柄頭をぽんと叩いて答える。
「こちらの用事だ」
その仕種に鬼の存在を感じ取ったのか、野茉莉は痛みを堪えるように、少しだけ目を細めた。
「寝ていてくれ。すぐに帰ってくる」
「分かってる。……どうせ、私が何言っても行くんだよね?」
何気ない言葉が突き刺さる。
暗がりで良く見えないが、野茉莉の瞳は潤んでいるような気がした。
「野茉莉……」
「ごめんなさい、私、ひどいこと言った」
肩を震わせる。
この娘は自分の言葉に傷ついてる。だから頭を撫でて慰めようと手を伸ばし、
「あ……」
少しだけ野茉莉は後ろに下がり、それ以上手を伸ばすことが出来なかった。
「ごめん、なさい」
「いや……」
そうして二人して固まってしまう。
しばらく沈黙が続き、それを取り払うように野茉莉はぎこちない笑顔を浮かべた。
けれどそれは引き攣っていて、笑顔よりも泣くのを我慢しているように見えた。
「行ってらっしゃい、父様」
それでも、愛娘は送り出そうとしてくれている。
だから甚夜は平坦な声で返した。
「ああ、行ってくる」
互いに空々しい挨拶。
胸を過る空虚。
触れ合えぬままに、甚夜は娘に背を向けて店を出た。
そう言えば、ずっと昔もこうやって誰かを待たせていたような気がする。
今はもう、あの頃の気持ちは思い出せないけれど。