今は昔、一条桟屋敷にある男とまりて、傾城と臥したるけるに、
夜中ばかりに風吹きて雨降りてすさまじかりけるに、大路に諸行無常と詠じて過ぐる者あり、
何ものならんと思いてふしど少し押し開けて見ければ長は軒と等しき馬の顔なる鬼なりけり。
おそろしさにふしどをかけて奥に入りたれば、この鬼、格子押し開けて顔を差し入れてよく御覧じつるな御覧じつるなと申しければ、
太刀を抜きて入らば斬らんと構えて女をそばに置きて待ちけるに、よくよく御覧ぜよと言いていにけり。
百鬼夜行にてあるやらんとおそろしかりける。
『宇治拾遺物語』より
◆
そもそも百鬼夜行という話は古く、決して珍しいものではない。
深夜に練り歩く鬼や妖怪の集団は、説話だけでなく絵巻物の題材として取り扱われることもある。
絵巻物で著名なものを上げるとするならば、真珠庵本だろう。
室町時代の絵巻で、付喪神が夜毎練り歩くさまを描いた作品である。
しかし近頃噂になっているものは、そういう“真っ当な”百鬼夜行ではない。
百鬼夜行の主は鎖を操る鬼女だという。
その正体は地縛に相違なく、ならばその裏にマガツメがいることは疑いようがなかった。
だから甚夜は、本当は自分だけで片をつけたかった。
もしも発端が兼臣の依頼でなければ、誰にも話さず百鬼夜行に挑んでいただろう。
今ですら兼臣と染吾郎を戦わせたくないと思っている。
もっとも、それに納得するような二人ではないが。
「静か、ですね」
百鬼夜行の目撃談は一条通に集中していた。
平安末期の『今昔物語』では、大晦日の夜に一条堀川の橋を渡っていた侍が、灯を持った鬼の集団に出会ったという。
『宇治拾遺物語』には、一条大路の建物に女性と泊まった男性が夜、馬の顔をした大きな鬼に出くわす話が出てくる。
室町時代の『付喪神記』では、捨てられた器物が恨みを抱え、人に復讐を果たす為鬼となり一条大路を練り歩いたとされる。
一条ほど百鬼夜行が似合う場所も中々ない。
「ほんまやなぁ」
辺りを見回せど、人の気配も鬼の影も見当たらない。
ひゅるりと夜の風が抜け、砂埃が舞う。そんな微かな音が響くほどに、一条通は静まり返っていた。
「……あの、秋津様」
周囲を警戒しながら、おずおずと兼臣が声を掛けた。
「ん?」
「済みません、私事に巻き込んでしまって」
「ああ、ええてええて。それにさっきも言ったけど、善意だけって訳でもないしな」
手を軽く振り、何でもないことだと示してみせる。
兼臣はそれでも申し訳なさそうにしていた。それを見かねた染吾郎は、仕方ないと溜息を吐き、自嘲するような笑みを見せた。
「そんなに気にせんでええて。和紗ちゃんのこと。僕は、何もしてやれんかったからなぁ。これは罪滅ぼしやと思っといて」
南雲和紗。先程聞いたばかりの名前だ。
しかし南雲という家に関しては、染吾郎が何度か零していた。
「妖刀使いの南雲、だったか」
「そ。南雲と“勾玉”の久賀見あたりは退魔の家系の中でも有名な方やね。南雲の方とは縁もって、和紗ちゃんとも何度か肩を並べて戦ったなぁ。あの頃はまだ僕も三十代やったし、もうちょっと無理ができたんやけど」
あはは、と力なく笑う。
兼臣の主人──南雲和紗は、地縛に命を奪われた。
それは染吾郎にとっても傷であったらしい。
「でも結局、しばらく会わんうちに和紗ちゃんは鬼にやられて……多分僕は、後悔してるんやろな」
もう少し上手くやれてたら、違う今が在ったのではないか。
考えてもどうにもならないと分かっている。今更過去に手を伸ばしても、為せることなど在りはしない。
それでも過ぎ去ってしまった“いつか”を忘れるというのは、少しばかり難しい。
「そやから、少しは力になったろうと思てな」
いつだって後悔は付き纏う。
だから、例え傍目には意味のない行為に見えたとして、自分が納得する為に動くこと は間違いではないのだろう。
「そうか……済まなかった。お前にも戦う理由はあったのだな」
「ええて、そんなん」
自分の考えを押し付け、彼を戦い方から遠ざけようとしてしまった。
小さく頭を下げれば、また普段通りの染吾郎に戻り軽く笑って見せる。
彼の胸中は分かった。ならばもう止めはすまい。
だが、少し引っかかることもあった。
「兼臣。一つ、聞きたい」
「なんでしょうか?」
「お前の話も、染吾郎の話も、何かが引っ掛かっていた。理由がようやく分かった。……初めて会った時、南雲和紗は十二だと言ったな」
「ええ、そうですが」
質問の意図が読めないのか、微かに眉を顰める。
しかし甚夜には、それこそが引っ掛かっていた。
「ならば、それは“いつ”の話だ?」
どう考えても計算が合わない。
向日葵は明治五年(1872)の頃、八歳だと言っていた。
地縛は向日葵の妹、当然彼女より年下の筈。
仮に地縛が生まれたその時から<力>を使えたとする。
だとしても、南雲和紗が殺されたのは江戸末期から明治の初めの間。その頃ならば染吾郎は三十代前半、そこまでならば一応は計算が合う。
しかし初めて会った時の兼臣は、どう見ても十六、七の少女だった。
つまるところ、南雲和紗の指南役だったにしては、彼女は若すぎるのだ。
「それ、は」
「もっとも、お前の容姿をそのまま答えにしてもいいのだがな」
今まで指摘してこなかった。
しかし彼女は、出会ったころから殆ど変っていない。全くと言っていい程老けていなかった。
彼女が鬼ならば、単に実年齢と外見年齢がそぐわなくても不思議ではない。
だからそういうことなのかとも思った。
しかし兼臣は首を横に振って否定する。
「私は、鬼ではありません」
「ならば」
「済みません。いずれ……いいえ、地縛を捕えた時に話したいと思います。ですから、今は」
深く沈み込んだ瞳。なのに、揺るぎのない空気が漂う。
兼臣は思った以上に頑なだ。問い詰めたところで意味はなさそうだ。
「分かった。それでいい」
「ありがとうございます。全てが終われば、必ず」
話すと言っているのだ。無理に聞き出すこともない。
この件を解決する理由が一つ増えたと思えばいい。そう自分を納得させ、気を引き締め直し、宵闇を睨み付ける。
「あー、なんや、そろそろか?」
「どうやらそのようだ」
夜の気配が変わった。
ぬるまった風が流れ、紛れるように吐息が聞こえる。
折り重なる呻き、雑踏の音。
ぼう、と宵闇に浮かび上がる影。
その数は次第に増え、通りを埋め尽くさんばかりの群れとなる。
星の瞬きに照らされたその姿は、まごうことなき異形だった。
皮膚を持たず、筋繊維がむき出しになっている。
七尺を上回る巨躯。
童の如き小ささ。
体の一部が欠け、まともに歩けず這いずる。
各々特徴は違う。
しかしそれは一様に鬼と呼ばれる。
百鬼夜行。
伝承に語られる不吉な異形の群れが其処には在った。
「なあ、明らかにこっち見とるんやけど」
数え切れぬ程の鬼の目は甚夜達を捕えている。
唸り声は高まる。いつ襲い掛かってきてもおかしくなかった。
「ふむ。信心が足りなかったか」
「……君、冗談とか言うんやな」
百鬼夜行の説話は、読経や神仏の札などで難を逃れた話が多く、一般的には怪奇譚というよりも仏の功徳を説く話である。
だから冗談めかしてそう言ってみれば、染吾郎が呆れたように半目でこちらを見てくる。我ながら似合わないことをしてしまったと甚夜は微かに唸った。
「随分と、懐かしい顔だこと」
唐突に響いた声。弛緩しかけた空気が再度ぴんと張りつめる。
抜刀し脇構えを取り、鬼どもを睨み付ける。
声は実に懐かしいもので。しかし感慨は沸かない。
だとしても、逢いたかったのは事実だった。
異形の群れ、その中に若い女がいる。
年の頃は十七か、十八。背は五尺を下回る程度。細身な体と白い肌も相まって、繊細な少女と言った印象を受けた。
しかし服装の方は繊細とは程遠い。男物の羽織に袴をはいた姿は、一見すれば見目麗しいと言える顔立ちをしているからこそ殊更違和感があった。
髪は短く整えられている。覗き込んだ瞳は、夜の闇の中で尚も赤々と輝いている。
女の顔は、気味が悪いくらい兼臣に似ている。
寸分違わぬと言っていい程に彼女達は同じだった。
「お久しぶり」
「地縛……ようやく、会えました」
小刻みに揺れる体。恐怖ではない。耐えがたい感情が兼臣の体を震わせる。
「本当にしつこい。執念深い女は殿方に嫌われるわよ?」
しかし余裕があった。
地縛の泰然とした様子。話ながら左足を僅かに下げ、袴に隠しながら体重をかける。突発的な状況でもすぐ動き出せるようにだ。
五年経った。その間に地縛も成長したということだろう。
「おじさまも、元気そうね」
「……その呼び方は止めて欲しいものだ」
「向日葵姉さんには許してるのに? そう言えば娘にだだ甘って聞いたし……もしかして幼女趣味なのかしら」
何処か楽しげな女の声。やはり、やりにくい。地縛は相変わらずそこいらにいる娘子のようだ。敵はもう少し分かり易い醜悪さを持っていてくれると嬉しい。その方が、斬り易いからだ。
もっとも、多少やり難かろうと、その首を落すことに躊躇いなどまるでない。
一度敵と定めた以上、彼女は敵以外の何物でもなかった。
「娘に甘いのは否定せんがな」
「あら、案外冷静ね。もっと怒るかと思ったけど」
「浅い挑発に乗ってやれる程若くもない。それに、幼子の背伸びというのは見ていて微笑ましい。怒りなど沸かんさ」
小娘の言など取るに足らん。そう言ってのけても地縛に動揺はない。
以前ならば怒りを露わにしただろう。しかし今では会話をしながらもこちらの一挙手一投足を警戒し、決して視線を外そうとはしない。
成程、本当に成長したらしい。これはなかなかに厄介だ。
「むぅ。おじさま、野茉莉ちゃんには相変わらずなんですね。……なにか癪です」
次いで現れたのはどこか不満気に頬を膨らませる女童。
色素の薄い、柔らかく波打った茶の髪。年齢は見た所八つか九つといったところだろうか。
大きな瞳。まだ幼く見える背格好に反してほっそりとした顔の輪郭は、可愛らしさよりも綺麗という印象が強かった。
金糸をあしらった着物を身に纏う娘は、八尺を越えおる一際巨大な鬼の肩に腰を下ろして、こちらを見下ろしている。
向日葵、“マガツメ”が長女である。
「姉妹揃い踏みか……マガツメは何を企んでいる」
「企む、ですか?」
きょとんとした様子は、本当にただの女童のように見える。
「そう、ですね。母は昔からの願いを叶えようとしています。だから私達はその手助けをしたいのです」
言葉面は綺麗だ。
しかしその実、地縛に人を狩らせ、直次を鬼に変え、死体を集めて鬼の群れを造り上げた。
願いとやらが何かは分からないが、およそ真っ当なものではあるまい。
「……どうしますか?」
兼臣が小さく呟く。
地縛との距離は遠くない。
しかし阻むように無数の鬼がにじり寄る。まずはあれをどうにかしないと近付くことさえままならぬ。
鬼の群れを前に、緊張からか兼臣はごくりと唾液を飲み込む。
反して甚夜も染吾郎も気負うことなく自然体である。
「鬼共を斬っていればいずれは地縛が矢面に立つだろう」
「ええな。それが一番手っ取り早そうや」
言いながら甚夜は左手を鬼へと翳し、染吾郎は懐に手を入れる。
「向日葵、地縛。お前が此処で何をやっていたのかは問わん。だが相手を願おうか」
投げ付けた言葉に、姉妹は同じように微笑んでみせる。
「勿論です」
「ええ、おじさまの願いなら断れないわね」
無邪気に向日葵が微笑む。
地縛は挑発的に笑い、視線を鋭く変え、そしてそれが合図になった。
多種多様な鬼の群れが雪崩のように迫る。
しかし甚夜も染吾郎も冷静に言の葉を紡ぐ。
「来い、<犬神>」
「いきぃ、かみつばめ」
黒い影は三匹の犬となり、空を往く燕は刃となり、鬼共に襲い掛かった。
前列にいる鬼共はそれだけで絶命する。所詮はその程度。群れを成したとところで然程の脅威ではない。
「兼臣、お前は自衛に努めろ」
「しかしっ」
甚夜の言葉に兼臣は激昂したように叫ぶ。
しかしそれを染吾郎がやんわりと言い聞かせた。
「雑魚は僕らに任しときぃ。君は、大物を相手にせなあかんのやから」
流石に理解が早い。
地縛を斬るのは兼臣でなくてはならない。
ならばここで無駄な体力を使わせる訳にはいかない。元より実力では地縛に劣る。ならば彼女が地縛を討てるようお膳立てをするのが自分達の役目だ。
「分かり、ました……」
渋々ながらも納得した兼臣が抜刀し構えを取る。
その態度に少しだけ安堵し、再び鬼の群れを睨み付ける。
「地縛の<力>は鎖を操り、相手の行動を“縛る”。鎖には注意しろ」
「ありがとさん。ほないこか?」
駈け出すと共に、数匹の燕が空を舞う。
前回のような無様は晒さぬ。
甚夜は強く奥歯を噛み締め、鬼共に斬り掛かった。
首を落す。
胴を薙ぐ。袈裟掛けに斬り捨て、心臓を貫き、唐竹に両断し。只管に屍を積み重ねる。
『おおっぉぉぉぉ』
背後から迫る数匹の異形。
しかし振り返る必要性さえ感じない。
「かみつばめ」
飛来する燕が鬼の体を貫き、屍が増えるだけだ。
百を超える鬼との戦いは、以前甚夜達が優勢であった。
相手は鬼とはいえ全て下位、時折膂力に優れる者はいるがそれだけ。数多の鬼を屠ってきた彼等が苦戦するような相手ではない。
討ちとった鬼が五十を超えたところで一度間合いを離し、甚夜と染吾郎は背中合わせに構え周囲を警戒する。
攻めあぐねているのか、鬼もまた様子を観察しており、出来た空白の時間に染吾郎はぽつりと呟いた。
「なんや、妙やな」
見据える異形の群れに対する素直な感想だった。
どういう意味だ、とは問わない。 それは甚夜もまた思っていたことだった。
「態々“造った”にしては弱すぎる、か?」
「なんや、君も気付いとったんか」
「一応はな」
向日葵は初めて会った時数体の鬼を従えていた。
地縛はマガツメの指示で人を狩っていると言った。
直次は恩義故に死体を作り集めていた。
そして、百鬼夜行に至る。
百鬼夜行の主は鎖を操る鬼女だという。
その正体は地縛に相違なく、ならばその裏にマガツメがおり……なにより、人の死体を集め、その結果生まれたのが鬼の集団であるならば、鬼が“何からできているのか”は容易に想像がつく。
だからこそ、甚夜は出来れば自分だけで片付けたかった。
「死体を集めてこんな役にも立たん雑魚造って、なんや意味あるんか?」
「弱いのは造り始めだから」
「理由としては今一やな」
「ならば、そもそも戦いに使うものではなかった」
「それや。多分、作ること自体が目的やったんちゃうかな」
染吾郎は更に鋭く鬼を見る。
そこには僅かな苛立ちがあった。人の命を弄ぶ輩に対する、至極真っ当な嫌悪だった。
「本当に造りたかったんは別モンで、こいつらはその過程で出来た失敗作みたいなもんなんやろ。案外、誰かに処分してもらお思て百鬼夜行なんて組んだんかもな」
「では死体を集め、鬼を生み、マガツメは最終的に何を造ろうとしていると思う?」
「うーん、分からん。そこら辺は地縛に聞いた方がええやろ」
鬼の数が減って、周りが見やすくなってきた。
視線の先には年若い女。
地縛のところまで、あと少しだった。
「ほんと、人間離れしてるわね。ああ、おじさまは人間じゃないけど。そっちの老人も普通じゃないわ」
溜息と共に零れた地縛の言葉が引っ掛かったのか、染吾郎はぴくりと眉を動かした。
「ちょい待ち、なんで甚夜がおじさまで僕が老人なんや」
いきなり噛みつかれて地縛は不思議そうな表情を浮かべる。
「え? だっておじさまはおじさまでしょう? 貴方が老人なのも間違いないし」
「いや、そやけども。なんか扱い違わん?」
「そりゃそうよ。おじさまと見ず知らずの他人じゃ扱いが違って当然じゃない」
「正論やけど……なんや納得できん」
せめておじい様やろ、とぶつぶつ文句を言う染吾郎。
呆れるように甚夜は溜息を吐いた。
「……何をふざけている」
「ふざけとらん。そやけど老人呼ばわりはひどいやろ。もうちょっとこう気遣い的なもんをやな」
「敵にそんなものを期待するな」
後ろに控えている兼臣も冷たい視線を送っている。
「秋津様……お願いだから真面目にやってください」
「う……いや、ちょっと君の緊張をほぐしたろう思ただけやん」
引き攣った笑いを浮かべる染吾郎は、流石にばつが悪そうだ。
兼臣にとっては主の仇。それと和やかに話されては、苛立つのも無理はない。
その遣り取りを眺めていた地縛は、戦いの場には似合わぬ程の楽しげな笑みを浮かべた。
「うふふふ、なんか、貴女達面白いわねぇ」
「……まさか、私も含まれているのか」
「当たり前でしょ、おじさま。向日葵姉さんも同じこと言うと思うわよ?」
非常に納得がいかない。顔を顰める甚夜が面白かったらしく、地縛は更に笑った。そして一頻り笑い終え、一転冷酷な視線で兼臣を捕える。
「でもそろそろ貴女、目障りになって来たわ……勝負、つけましょうか」
薄く笑う。
それは少女のものではなく、地縛という鬼女の顔だった。
「なにを」
「一対一よ。悪い話しじゃないでしょう? 主の仇と誰にも邪魔されず闘えるんだから」
兼臣の目付きが変わった。
その為に生きてきた。
刀である彼女の、唯一願い。
それが今叶おうとしている。
しかし彼女の実力では地縛には勝てない。
誰よりも兼臣自身が理解しているからこそ、助力を乞うた。
「それとも怖い? それならそれで別にいいわよ。単に貴女は、ゴミみたいな主を守れず、その上仇を前にしても怯えて男に媚びて縋ることしか出来ない無様な女だったというだけだもの」
理性では戦ってはいけないと分かっている。
それでも譲れないものがあっただけだ。
「挑発だ、乗るな」
「分かっています。……でも聞けません」
その言葉が全て。
敵わないと分かっていても退くことは出来ない。
主を愚弄され、己が生き方を否定され黙っていられるようならば、そもそも此処には立っていなかった。
己が愚かだと理解している。
しかし兼臣は刀であった。
刀だからこそ、足は自然と前に出ていた。
「ふふ……」
妖しく笑う地縛は、鬼の群れへ紛れるように退いた。
追う兼臣。それを止める為甚夜と染吾郎も前に出ようとして、
「勿論、させません」
響く舌足らずな幼い声。
八尺はあろう巨大な鬼は、向日葵を肩に乗せたまま、地面へ叩き付けるように拳を振るう。
後ろに飛んで躱したが、その隙に地縛も兼臣も見失ってしまう。
巨大な鬼は立ち塞がる。その肩の上で、相変わらず向日葵は無邪気に微笑んでいた。
「退け」
「出来ません。母が、あの兼臣を欲しがっていましたので」
それは兼臣ではなく、妖刀である夜刀守兼臣を指しての言葉だ。
やられた。初めから狙いは兼臣、向日葵は足止めのために此処へ来ていたのだ。
「百鬼夜行は単なる囮か」
「はい。地縛が表立って動けば兼臣さんは自分から飛び込んでくれますし、そうしたらおじさまも来てくれます。一石二鳥、ですね」
無邪気に笑ってみせるが、その言葉は妙だった。
「なんや、マガツメゆうのは甚夜のこと狙っとるんか?」
聞きたかったことを染吾郎が問う。
先程の向日葵はマガツメの狙いは夜刀守兼臣だけでもなく甚夜もだというような口振りだった。しかし甚夜はマガツメなる鬼が如何なる存在かも知らない。何故狙われるのか、理由が分からなかった。
「はい、母はおじさまを殺したがっています」
「ほぉ。その割に、君ら“おじさまぁ”とか言って随分慕っとるやん」
あげつらうような言い方に、何故か向日葵は戸惑った様子だった。
「あの、先ほどから気になっていたんですけど。私達がおじさまと呼ぶのは、そんなに変ですか?」
不安げに、おずおずと。演技ではなく、心から不思議がっているようだ。
その様子に奇妙なものを感じながらも甚夜は答える。
「敵への態度としては相応しくはないな」
「むぅ、それはそうかもしれないですけど」
その答えに、不満そうに頬を膨らませる。拗ねたような表情。彼女は本当に、普通の娘だった。
しかし返ってきた言葉は、意識の外から甚夜の頭を殴り付けた。
「でも、私達が、母のお兄様を“おじさま”と呼ぶのは当然でしょう?」
真っ白になった。
そして一拍子、二拍子置いて頭が動き始める。
そうすれば分からなかったことが次々と紐解けてくる。
以前人を鬼に変える酒を造った鬼女がいた。
今回、死体が鬼に変えられた。
何故繋げて考えられなかったのか。
甚夜は自分の迂闊さに、苦々しく表情を歪めた。
「そうか、マガツメ……だから“禍津女”か」
神道には禍津日神(まがつひのかみ)と呼ばれる神が存在する。
禍(マガ)は災厄、津(ツ)は「の」、日(ヒ)は神霊を意味する。
即ちマガツヒは災厄の神という意味を持つ言葉である。
ならばマガツメは、“禍津女”は災厄の女。
甚夜はそう呼ばれるべき存在を───長い歳月を越え、“全ての人を滅ぼす災厄”となり果てる女を知っている。
「成程、確かに、おじさまという呼び方は正しい」
つまりはそういうこと。
“ゆきのなごり”を使い人を鬼へと変えたのも。
愛しい人の屍を弄んだのも。
地縛に人を狩らせたのも。
直次を鬼に変え、死体を集めさせたのも。
百鬼夜行を生み出したのも。
全て、
「でしょう、甚太叔父様?」
お前なんだな、鈴音─────