「ここで、いいかしら」
辿り着いたのは堀川にかかる一条戻橋(いちじょうもどりばし)である。
そう言えば以前は五条大橋の上で対峙した。
橋の真中で佇む鬼女、突き付けた刀。
あの時と同じ、いや、同じではない。
前回は甚夜が矢面に立ってくれたが今は己のみ。更に不利な状況だった。
それでも兼臣は敵意を隠そうとはしない。
「私は、貴女を許せない。和紗様を奪った貴女を」
『平家物語』剣巻には次のような話がある。
摂津源氏の源頼光の頼光四天王筆頭の渡辺綱が夜中に一条戻橋のたもとを通りかかると、美しい女性がおり、夜も更けて恐ろしいので家まで送ってほしいと頼まれた。
渡辺綱はこんな夜中に女が一人でいるとは怪しいと思いながらも、それを引き受け馬に乗せた。すると女はたちまち鬼に姿を変え、彼の髪をつかんで愛宕山の方向へ飛んで行ったが、鬼の腕を太刀で切り落とすことにより、どうにか逃げられたという。
ここはかつて剣豪が鬼の腕を切り落とした橋だ。
あやかろう、などと考えるのは勝手が過ぎるだろうか。
伝説に語られる剣豪には遠く及ばぬが、せめて腕の一本も奪わなければ、かつての主に申し訳が立たない。
しかし実力では相手が勝る。腕一本どころか傷一つ付けられるかもわからない。
自ら飛び込んだ窮地に唾を飲み込み、しかし憎むべき仇敵を睨み付ける。
「あらあら、でも、守れなかったのは貴女でしょう?」
ああ、そうだ。そんなことは分かっている。
命のやり取りをしているのだ。返り討ちにあったからと言って、相手を憎む方がおかしい。それを忌避するならば守ればよかった。
けれど、できなかった。
彼女の刀だった。そう在りたいと願っていた。なのに守れず、仇を討つこともままならず。無為に歳月は流れ、刀も復讐も認められない時代になった。
今となっては間違っているのは兼臣だ。
復讐を語る彼女こそが罪深いのだと、訪れた明治の世が語る。
「ええ、その通りです。だからこそ今此処で、和紗様の魂を取り戻す」
それでも、曲げられないものがあった。
地縛に奪われた主の魂。そのままにしておくなど認められなかった。
奪われたものを取り返す。その為に振るう刀さえ明治の世では罪でしかなく、だとしても、今更生き方を曲げられる筈がない。
「出来ると、思うの?」
嘲りを含んだ瞳の色に神経を逆なでされる。
激高しそうになり、どうにかそれを抑え、正眼に構える。
「その為の刀です」
つまり、兼臣は刀であった。
収めるべき鞘はとうの昔に失くしてしまった。
◆
「叔父様、か。父と呼ばれ、叔父と呼ばれ……私も歳を取ったものだ」
表情は変わらない。
突き付けられた真実は確かに予想外だったが、動揺し狼狽するには歳を取り過ぎた。
八尺を超える大鬼の肩に座る向日葵を見上げ、普段となんら変わらぬ平坦な声で言う。
「だが間違えるな。私の名は甚夜だ」
夜来を託され、『夜」の名を継いだ。
間違えた生き方に拘った無様な男の名だ。だとしても道行きの途中で拾ってきたものは、決して間違いではなかった。だから甚夜として在れたことには誇りもあった。
「でも、母は甚太と言っていましたよ?」
しかし鈴音にとって彼はまだ甚太なのだろう。
全ての人を滅ぼす災厄になろうとするあの娘は、それでもまだ甚太を兄だと思っている。
その事実を知り、なのに、湧き上がった感情は憎悪だった。
最早それは感情ではなく機能。
鈴音を憎むことで鬼と成った彼は、その憎しみから逃れることは出来ない。
そしておそらく、全てを滅ぼすと言ったあの娘も同じく。
鬼とは、そういう生き物なのだ。
「まあいい、問答をしている時間もない。悪いが押し通らせて貰うぞ」
浮かんだ感傷を斬って捨て、甚夜は僅かに腰を落した。
兼臣では地縛には勝てない。急がなければ、後味の悪い結末になる。
とはいえ鬼の群れは往く手を阻むように犇めいている。後を追う為には立ち塞がる大鬼を斬り伏せねばなるまい。
「でも、この子は結構手強いですよ? 成功例とまでは言いませんが、それなりに上手くいきましたから」
「ほな、僕が相手しよか?」
そう言って甚夜を庇うように染吾郎は前に出る。
そして懐から以前も見た短剣を取り出し、にやりと不敵な笑みを浮かべて見せる。
「染吾郎」
「こっちは僕がやるから、雑魚の方任せるわ」
「しかし」
「正直、大勢相手すんのは苦手やしね。代わりに、一対一なら切り札が切れる」
からからと笑うその態度には余裕があるように見える。
相変わらず読みにくい男だが、今の言葉には何やら確信めいたものが感じられた。
まかり間違っても敗北など在り得ない。絶対の自信が其処には在った。
「堪え性のない馬鹿を追わなあかんし、あんま時間もないやろ。体術に優れた君が多勢を、僕がこいつをやる。多分、それが一番早く済む」
それも理由の一つ、しかし染吾郎が大鬼との戦いを買って出たのは戦略的に有利だからだけでもない。
好戦的な態度は、甚夜の心を慮っての行動だ。
姪だと言った向日葵と戦わせたくない。それこそ行動の理由。甚夜の正体が鬼だと分かっていながら、人間的な気遣いを忘れない。
秋津染吾郎はそういう男だ。それを理解できる程度には、付き合いも長くなった。
「それでは、貴方がお相手をしてくださるのですか?」
向日葵は意外そうな顔をしていた。
立ちはだかる男は五十近い。先程までの戦いを見ても燕だの犬だのを使い援護するのが精々。とてもではないが、一対一で大鬼と戦えるようには見えなかった。
しかし相手が戦うと言っている以上止める必要もない。
向日葵の役目は足止め。どちらにしても彼等を阻まねばならないのだから。
「そやね。ごめんな? 大好きなおじさまやなくて」
「大好きって……否定はしませんけど、そう言い方をされると照れますね」
「いや、否定せんのかい」
冗談の掛け合いに見えて、互いに間合いを調節している。
既に戦いは始まっていた。止めることはもうできない。
それに兼臣のこともある。染吾郎の言う通りなら、大鬼は任せた方がいいのかもしれない。
「……済まない」
甚夜は僅かに目を伏せた。
染吾郎の気遣いは心苦しい。あまり無茶をさせたくないとも思う。しかし自分の為に体を張ろうとしてくれる友人の心を無駄には出来なかった。
「気にせんでええて。周りは頼むで?」
「ああ、余計な手出しはさせん」
二人は頷き合い、それぞれの敵と相対した。
甚夜は迷いなく鬼の群れへと向かい、染吾郎は一呼吸おいて大鬼を見据え、手にした短剣を突き付ける。
「もしかして、その短剣で戦うつもりなのですか?」
少しだけ不満気に向日葵が言う。
染吾郎の体格を見れば武術を扱う人種ではないのは分かる。舐められると思ったのだろう、頬を膨らませていた。
「うん、そや。そんな木偶の坊には勿体無いけどな」
「木偶の坊、ですか。さっきも言いましたけど、この子結構強いですよ? それに貴方が剣で戦えるとも思えませんし」
「あはは、アホなこといいなや。付喪神使いが剣で戦う訳ないやろ?」
舐めてなどいない。寧ろこれから見せるのは彼の全力だ。
以前は甚夜の目があるところでは“これ”を見せなかった。
今は慣れ合っていても相手は鬼。いずれは争うことになるかもしれない。そう思えば自身の切り札を晒す気にはなれなかった。
しかしそれなりに付き合いも長くなった。今更甚夜を警戒する必要は感じない。
だから堂々と切り札を切れる。
武器としては役に立たない短剣。
これが染吾郎の持ち得る最高の戦力である。
「ほないこか、お嬢ちゃん」
かつて唐の九代皇帝玄宗は瘧かかり床に伏せた。
玄宗は高熱の中で夢を見る。
自身を苛む悪鬼、そしてそれを駆逐する大鬼。
玄宗は自身を救ってくれた大鬼を神として定め、疫病除けの神として祀った。
この話は日本へと伝わり、鬼を払うという逸話から端午の節句に彼を模した人形を飾る風習が生まれたという。
染吾郎が持つ短剣は五月人形の付属品。
そして件の大鬼を模った人形から具象化される付喪神は───
「おいでやす、鍾馗(しょうき)様」
───鍾馗。厄病を払い、鬼を討つ鬼神である。
「あれは」
甚夜は鬼の群れを相手取りながらも、現れた髭面の大鬼に息を呑んだ。
金の刺繍が施された進士の服を纏い、手には染吾郎の持つ短剣と同じ意匠の剣がある。
尋常でない気配を放つ付喪神・鍾馗。
これが自信の正体、三代目秋津染吾郎の切り札。
「……すごいです」
零れた素直な賞賛に染吾郎は朗らかに笑った。
「そやろ? さて、さっさと終わらせよか」
「ええ、それはこちらも同じ気持ちですね」
向日葵に動揺はない。
だが警戒はしたのだろう。軽やかに大鬼の肩から飛び降り、その足が地面に着くと同時に大鬼が突進する。
土埃が舞う。地響きを連想させる咆哮と共に大鬼は迫り来る。無造作な進軍に空気が唸りを上げる。重量と筋力に裏打ちされた突撃。繰り出される拳もまた相応の威力を秘めているのだろう。
人の身なぞ容易く貫くであろう拳を前に染吾郎は薄ら笑う。
既に五十近い老体。優れた体術もない。しかし彼は泰然と鬼を待ち構える。
「鍾馗様に特殊な能力はない。その代り」
一瞬拳が霞み、空気を裂きながら鍾馗を正確に捉える。
大鬼は速度を殺さず、全霊の一撃を叩き込んだ。
空気が震える。
夜が軋む程の轟音を響かせ、
「桁外れに強いで?」
だというのに、鍾馗は微動だにしない。
剣を盾に鬼の拳撃を軽く防ぎ、そのまま上にかちあげる。
単純な膂力だった。
八尺を上回る大鬼、体格では明らかに鍾馗よりも優れている。だというのに、技巧ではなく特殊な能力ではなく、ごく単純な膂力によって大鬼の腕を払い除けたのだ。
そして体を捻り、力を溜めるように一度ぴたりと止める。
「終いや」
呟く。
鍾馗は引き絞られた弦だった。それが染吾郎の呟きによって放たれる。
反動で打ち出されたのは矢ではなく剣、命を穿つ紫電の刺突だ。
音はなかった。
ただ、鬼の腹に文字通り風穴を空けた。
肉を削ぎ、臓物を抉り取る。
音が響いたのはそれからだった。
そのまま力なく両膝をつく大鬼。
ほんの一瞬で、勝敗は決していた。
「どや、お嬢ちゃん、僕も結構やるやろ?」
大鬼を討ちとり、左手で肩をとんとんと叩く。大した疲れもない。飛んでくる小蝿を払った、染吾郎の感覚はその程度のものだった。
しかし向日葵には、やはり動揺が無かった。
倒れた鬼をじっと見つめる。目に感情の色はなく、失望も敵に対する恐怖も感じさせない。
ゆるゆると、静かに女童は語り始める。
「初めに、母は人を鬼に変えるお酒を造りました」
浮かんだのは、幼い容姿にはそぐわぬ柔らかい笑みだった。
向日葵は怪訝そうに眉を顰める染吾郎は無視し、淡々と見当外れとしか思えない話を進めていく。
「憎しみを植え付け煽り淀ませる。それに相応しい死骸を使って造ったお酒です。でも馴染みやすい人難い人がいましたし、おじさまが死骸を片付けてしまったから続けられませんでした」
ゆきのなごり。染吾郎もかかわった事件だ。
そして思い出す。甚夜はあの事件の際、話の中に出てきた“金髪の鬼女”に異常なほどの敵意を向けていた。
向日葵は甚夜の妹の娘。そしてその母はマガツメ。ならば、甚夜の妹がマガツメであると容易に想像がつく。
「次は人を攫って、直接体を弄って鬼に変えました。作ってる途中で死んでしまうことも多くて方法としては今一でしたけど」
甚夜と初めて会った時、向日葵は鬼を引き連れていた。
地縛はマガツメの命で人を狩っていたことを考えるに、その鬼こそが直接体を弄った個体なのだろう。
「だから今度は死体を使うことにしました。正確には死者の魂……想念と言った方が分かり易いかもしれません。負の感情を寄せ集めて、無から生ずる鬼を人工的に……あれ、鬼工、的? とにかく、肉体に寄らない鬼の生成ですね。結果は良好、こんなにたくさんの鬼が出来ました」
そして百鬼夜行に至る。
鬼の生まれ方は様々だ。鬼同士が番いとなり子を為す場合もあれば、戯れに人を犯しその結果として生まれてくることもある。
中には無から生ずる場合も存在する。
想いには力がある。それが昏ければ猶更だ。
憤怒、憎悪、嫉妬、執着、悲哀、飢餓。深く沈み込む想いは淀み、凝り固まり、いずれ一つの形となる。
無から生ずる鬼とは即ち、肉を持った想念。
マガツメとやらは、人を鬼に変え、魂すらも鬼に変える術を得た。
「んで? 鬼を沢山造ってどないすんの? “それなりに上手くいった”鬼がこの程度やったら作るだけ無駄やろ」
「いいえ。そもそも、鬼を造ることが目的ではありません。それはあくまで過程ですから」
緩やかな微笑み。
綺麗、と素直に染吾郎は思った。
敵意も邪気も感じさせない。向日葵の微笑みには一点の濁りもなかった。
「人が鬼に堕ちるのは自分でもどうにもならない程の想い故に。だから鬼を造る術は想いを操る術です。……なら、それを突き詰めれば想いの根幹に辿り着くと思いませんか?」
だから僅かに警戒心が緩んでいたのかも知れない。
想いの根幹?
向日葵の言葉に疑問を抱き、少しだけ眉を顰める。
その瞬間、
「染吾郎っ!」
鬼共を斬り伏せながら叫ぶ甚夜の声が聞こえた。
なんだ、と思う暇はなかった。
『オォォォォォォォォっ!』
先程討ちとった筈の鬼が再度襲い来る。
致命傷を与えた。なのに、鍾馗が空けた風穴がない。
傷一つない大鬼が、再び染吾郎を叩き潰そうと剛腕を振るう。
「なんでっ……!」
言い切るより早く鍾馗を操り、繰り出された拳、伸びきった腕を剣で斬り落とす。
次は確実に葬る。狙うは心臓。一瞬で穿ち抉り取る。
刺突で貫き、そのまま斬り上げる。血が、肉片が飛び散る。手応えはあった。
為す術もなく大鬼は伏した。しかし警戒を緩めずに染吾郎は死骸を睨む。
そう、それは死骸であった。
心臓を穿ったのだ。無事で済む訳がない。
なのに、鬼の体から白い蒸気が立ち昇ることはなかった。
「って、なんやこれ……」
引き攣った笑みを浮かべる。
鬼の傷が塞がっていく。
草木のように生える血管、血が肉が蠢き増殖し、穿った心臓さえも復元される。
腕も繋がり、びくんびくんと震えるだけだった鬼の体は動きを止め、顔を上げて光が灯った赤の目で染吾郎を射抜く。
そして大鬼は、何事もなかったように立ちあがって見せた。
「<治癒>…<回復>……<再生>? うーん、面白くないです。何かいい名前が無いでしょうか?」
人差し指を唇に当て、何度も首を傾げ向日葵が悩んでいる。その態度が妙に子供っぽく、それが逆に恐ろしく感じられる、
鬼とはいえ、短時間であれだけの傷が感知するなど在り得ない。
だとすればこの回復力こそが大鬼の<力>。
蘇生と見紛うほどの強力な再生能力。
向日葵は大鬼を「成功例とまでは言いませんが、それなりに上手くいきました」と評した。
つまり、これこそがマガツメの望みの一端。
求めたのは自由に<力>を生み出す術だ。
「鬼の<力>は才能ではなく願望。心から望み、それでもなお叶えられなかった願いへの執着が<力>となる……成程なぁ。君の母親が作りたかったんは、鬼やなくて<力>の方か」
言葉はそこで途絶えた。
完治し終えた大鬼は更に攻め立てる。
風を切る一撃。染吾郎は繰り出される拳を鍾馗で防ぎ、鬼の右側へと廻り込む。
それがちゃんと理解できているのか、大鬼は薙ぎ払うように腕を振るってきた。
「お、っとぉ!」
その程度では攻撃にさえならない。逆風、上から下へ斬り上げる。鍾馗の一刀に鬼の腕はいとも容易く切断される。
しかし 大鬼が腕を拾い上げ傷口を重ね合わせれば、同じように容易く傷は塞がり腕は元通り。かかった時間はわずか三秒。斬るのは容易、治るのも容易。同じことの繰り返しだった。
「ちょっと、違いますね」
向日葵が口にしたのは否定の言葉だった。
決して強くない相手だ
殴る、突進する、腕を振り回す。大鬼は、その程度の単純な攻撃しかしてこない。
だから戦いながらも余裕はある。染吾郎は視線を鬼に固定したまま、向日葵の声に耳を傾けた。
「母が造りたかったのは鬼ではなく<力>……もっと言えば、“心そのもの”です」
「心ぉ?」
その答えに若干戸惑ってしまう。
人を狩り死体を集めて百鬼夜行を生んだ鬼女の言葉にしてはなんとも意外だった。
「心、ねえ。分からんなぁ。そんなもん造ってなんになる?」
「さあ、それは母に聞いてみないと」
本当に知らないらしく、向日葵はこてんと首を傾けて「むぅ」唸っている。
「なら君は、訳も分からんことに手ぇ貸しとんの?」
「分からなくても、母の望みです。叶えたいと思うのは変でしょうか?」
「はは、それもそやな。いい娘さんもってマガツメも幸せやね」
褒められたのは存外嬉しかったのだろう、綺麗な笑顔でありがとうございますと返した。
対する染吾郎の気配は鋭利だった。
がむしゃらに責め立てる大鬼。邪魔だ。その懐に潜り込み、鍾馗の拳で殴り飛ばし、無理矢理間合いを作る。
そうして一息ついてから、大鬼に短剣を突き付けた。
「いろいろ聞かせてもろたね、ありがとさん。そやけど、僕らもあんま暇やなくてなぁ。そろそろ終わりにしよか」
「まだ続けるんですか? この子の<力>は理解したでしょう。人の身で打ち倒すのは難しいと思いますよ?」
それは見下した訳ではなく、ごく素直な感想だ。
向日葵にとってこの戦いは持久戦。
今は優勢でも体力には限りがある。
大鬼は傷付いても直ぐに治るが、染吾郎はそうはいかない。
だから持久戦、相手は戦えば戦うほど不利になるのだ。果てにある結末は揺るぎないものだった。
「ま、確かに人は君ら鬼より遥かに脆い。……それでも人はしぶといで。そう簡単に諦めてはやれんなぁ」
染吾郎は余裕の態度を崩さずに、あはは、と軽く笑う。
鬼の<力>を知って尚、彼に諦めるという選択肢はない。
違う、諦める必要が無い。
彼の見ている結末は向日葵のそれとは違う。
あの程度の鬼、三代目秋津染吾郎を継いだ己に打ち破れぬ筈がないのだ。
「何か策でも?」
「ある訳ないやろ? さいぜんゆうたけど鍾馗様に特殊な能力はない。当然、真正面から蹴散らすだけや」
にやりと口元が吊り上る。
「ほないこか」
軽い調子の呟き、そして染吾郎は駈け出す。
既に五十を超えた老人。疾走というほどの速度はない。それでも鍾馗を使役し鬼の攻撃を払い除けつつ距離を詰め、まずは脳天、唐竹に割る。
「無駄です。頭を潰してもこの子は止まりませんよ」
そうだと思った。
染吾郎も同じく止まる気はない。潰れた頭部が再生し始め、傷が塞がるより早く剣戟を叩き込む。
唐竹横薙ぎ袈裟掛け逆袈裟斬り上げ粉微塵になるまで只管に斬り付け、流れるように首を落す。
「だから無駄」
「黙っとれ!」
向日葵を一喝し、尚も手は休めない。
鬼の腕は離れた頭部を探すように伸ばされる。拾い上げようとしているのだろう。だがさせない、触れるより早くその腕を落す。返す刀、歩こうとする足を落す。
倒れる暇も与えない。崩れるより早く心臓を穿つ。
胸を斬る。腹を裂く。肉を抉り骨を砕く。
剣で斬り、拳で貫き、全身ありとあらゆる場所を切り刻み打ち据える。鮮血が舞うでは生温い、飛び散る鬼の血はまるで霧のようだ。
向日葵にとってこの戦いは持久戦。
染吾郎の体力が尽きるまで待つ、ただそれだけで勝利を得られる筈だった。
しかし染吾郎にとってこの戦いは速度勝負。
相手が再生するよりも早く、完全に殺しきる。
だから止まらない。真正面から何の策もなく、奇をてらうような真似はせず、颶風の如く染吾郎は攻め立てる。
鬼の体は少しずつ再生しており、それを超える速度で削り取られていく。
夜を背景に血の霧は濃くなり、少しずつ白い霧も交じっていく。
「そんな」
向日葵の驚愕が見て取れた。
しかし反応はしない。そんな暇があるならばただ斬り殴る。
白色は霧ではなく蒸気。鬼がその体を保てなくなってきているのだ。
ここが勝機。
颶風は更に勢いを増す。
「こんで、ほんまに終いや」
最後の一太刀ではなく、最後の幾太刀。
斬る断つ突く裂く削る貫く抉る穿つ。
視認することさえ難しい速度で、数えきれぬ程の剣閃が鬼を斬り刻む。
鬼は既に原形を保っていない。人であったのか鬼であったのかも判別が出来ない程の細切れ、地面にはただ血と肉片だけが残っていた。
立ち昇る白い蒸気と赤い霧。
むせ返る程の鉄錆の香。
その中心には赤く染まる男。
「やっぱ、ただの木偶の坊やったな」
秋津染吾郎は、血に塗れた凄惨な姿で、いつものようにからからと笑って見せる。
一部の隙もない、完全な勝利だった。
「お、そっちも終わった?」
「ああ、所詮は雑魚だ」
五十以上いた鬼をすべて斬り捨て、甚夜が染吾郎の下へと近付く。
そして大鬼の末路に顔を歪めた。<力>を持った鬼だ、喰えば<力>を得られるかともおもったが、ここまで細切れでは食うこと自体が難しそうだった。
「すまん、やり過ぎてもた」
「構わんさ」
短い遣り取りを交わし、すぐさま意識を切り替え、周囲を警戒する。
鬼はもう見当たらない。
百鬼夜行は一晩のうちに壊滅し、残されたのは向日葵……そして、地縛のみ。
「って、お嬢ちゃんは?」
鬼と共に、いつの間にか向日葵の姿もなくなっている。
辺りを見回せば直ぐに見つかったものの、距離が随分と離れていた。
「あらま、完全に逃げる気やな」
流石に疲れたのか、普段よりも重い声で染吾郎が言う。
男二人が女童を睨み付ける。どちらが悪役か分かったものではない。
「まさか、ここまで一方的にやられるなんて。流石おじさまです。それに、秋津さんも」
「で、君は逃げんの?」
「はい。時間は十分に稼げましたから」
向日葵は二人の視線を軽く受け流し、無邪気に笑う。
確かにかなり手間取った。兼臣のことを考えればこれ以上時間を無駄にするわけにはいかない。
「向日葵……鈴音は、マガツメは今何処にいる」
しかし甚夜は向日葵に問いを投げかけた。
鈴音を止める為に生きてきた。今の彼女のことが気にならない筈がなかった。
「それは答えられません」
答えは返ってこない。
当然と言えば当然だ。向日葵は鈴音の娘。ならばある程度事情は知っているのだろう。
「あ、でも。一つだけ言っておかないといけないことが」
思い出したように向日葵は呟き、甚夜に真っ直ぐな笑顔を向けた。
「母は確かに私を生んでくださいました。でも父はいないんです」
吐き出されたのはよく分からない言葉だった。
「……何を言っている」
「私も、地縛も。私たち姉妹は全て母の“切り捨てた一部”が鬼になった存在です。だから母に夫はいません。そこのところ、おじさまにもちゃんと伝えておこうと思って」
意図が全く掴めない、
しかし甚夜の戸惑いを余所に向日葵は軽い足取りでくるりと背中を向ける。
そして、首だけで振り返り無邪気な笑顔を浮かべ、
「それではおじさま、また会いましょう。今度はゆっくりお喋りがしたいです」
そんなことを言って、この場を後にした。
<疾駆>を封じられた今、あの距離を零にする手はない。それに兼臣を追わねばならないのだ。向日葵は見逃すしかないだろう。
「……ようわからん娘やなぁ」
先程まで敵対していた。だというのに、分かり易い親愛を露わにする。
甚夜も向日葵という鬼女を測り兼ねていた。
思索に耽り、その時間はないと気付き切って捨てる。
「兼臣を追う。急ぐぞ」
今頃は地縛とやり合っている筈だ。
急がねば取り返しのつかないことになる。
「そやな。……悪いけど先に行ってくれるか? 僕じゃ君の足にはついていけん」
付喪神使いは術を扱うことはできるが鬼程の身体能力はない。
それに染吾郎は随分と疲れている。申し訳ないがこの場において行った方がいいだろう。
「ならば行かせて貰う」
「うん、頼んだで」
目指すは一条通の先、堀川にかかる一条戻橋。
胸を不安には気付かないふりをして、甚夜は夜の通りを走り始めた。
◆
一条戻橋での決闘は既に終わっていた。
勝負は時の運だという。
実力差があったとしても、偶然が重なり合い、運をものにした弱い者が勝つこともある。
しかし勘違いしてはいけない。
運を手繰り寄せるには、それ相応の積み重ねが必要だ。
鍛錬を繰り返し、周到に策を巡らし、その上で運を手にしたからこそ実力差を覆せるのだ。
だというのに、兼臣はいままで積み重ねてきたものを自分から捨ててしまった。
だから、
「やっぱり、こうなったわね」
この結末は初めから分かっていた。
「あ、ああぅ……」
呻く兼臣。地縛は、つまらないとでも言いたげに鼻で嗤う。
元より兼臣は地縛に敵わないと知っていた。だからこそ甚夜に助力を願った。
単独で戦いを挑んでしまった時点で勝敗は決定している。
ならばこそ、これは至極当然の流れだ。
刀を握り締めたまま、兼臣はピクリとも動かない。
───鎖にその身を貫かれる彼女の姿が、今も脳裏に焼き付いている。
主と同じように。
あの時と同じように、鎖は体を貫いていた。