地縛は向日葵の妹、彼女もまたマガツメが切り捨てた一部だ。
もっと言ってしまえば、必要が無いと捨てた“心”の断片より生まれた鬼である。
マガツメの子供は全て生まれながらにして<力>を習得している。
鬼の<力>とは『才能』ではなく『願望』。
心からそれを望み、尚も理想に今一歩届かぬ願いの成就。
生まれながらにそれを抱けるのは、そもそもが切り捨てた心、叶わなかった願いからできた体であるが故に。
その意味で<地縛>という<力>は地縛自身の想いではなく、マガツメの願いの一つだと言っていいだろう。
地縛は、姉である向日葵のように、今の姿のまま生まれてきた訳ではなかった。
向日葵は誕生したその時から女童の姿をしていた。
しかし地縛は、顔も体ものっぺりとした、四肢を持っているだけの無貌の鬼だった。
生まれたての地縛は極端に自我が薄かった。
その為明確な目的は与えられず、ただ漠然と町中に放り出され、“人を狩れ”とだけマガツメに命じられ、
「……あなたを、討たせていただきます」
その討伐に駆り出されたのが、南雲和紗という娘である。
高位の鬼はそのほとんどが強い自我を持っている。そこから零れ落ちる強い願いが無ければ<力>を得ることが出来ない為だ。
だから和紗は油断した。
自我は薄い。いつも通りの、下位の鬼だ。痛みもないくらいに一瞬で終わらせてあげたい。
そういう気持ちが彼女に隙を作ってしまった。
しかし、
「……え?」
突如として現れる“七本”の鎖。
しなり、蠢き、牙を立てる。鎖は毒蛇のように和紗へと襲い掛かる。咄嗟のことに、彼女の刀である兼臣も何もできない。
「なに、これ」
鬼は鎖を操る<力>を持って和紗を弄ぶ。まるで猫かネズミをおもちゃにするようだ。
縦横無尽に振るわれる鎖、これ以上はいけない。
兼臣は和紗を助けようと……しかし遅かった。
ずぶり
嫌な音が聞こえ、鎖の先の鉄球が和紗の体を貫く。
断末魔の悲鳴さえ上がらない。
別れの言葉一つなく、まさに一瞬で。
彼女の魂は体を離れた。
漏れるような吐息だけを残して、和紗は倒れた。
鎖にその身を貫かれる彼女の姿が、今も脳裏に焼き付いている。
何一つ守れなかった刀。
情けない。何が刀だ。お前に何が出来た。
刀が斬る為に造られたのならば、斬ることの出来なかった刀に何の意味がある。
心は苦渋に満ちている。
そんな兼臣を余所に、一本の鎖が和紗の死体から引き抜かれ、鬼の体へと埋没していく。
本当の悪夢は此処からだった。
『地縛…あたしは、地縛……』
鬼は変容していく。
次第に鬼の顔に目が、鼻が、口が浮かび上がってくる。
そうして出来たばかりの口で、和紗の命を奪った鬼は自分の名前を確認するように何度も呟く。
浮かび上がった顔は、どこかの誰かにひどく似ている。
それが兼臣を驚愕させた。
鬼───地縛の周りで蠢く鎖の数は六本に減っていた。
倒れた和紗はぴくりとも動かない。
そして鬼の変容。
兼臣は唐突に理解する。
あの鬼は、比喩ではなく、和紗様の“魂”を奪ったのだ。
そうして地縛は一本の鎖を失う代わりに和紗の魂を縛り付け、“地縛”としての人格を得た。
もっとも気付けたからと言って何かが出来た訳ではない。
兼臣には和紗の死体を動かし逃げることしか出来なかった。
だから兼臣は取り返したかった。
奪われた主人の魂を。
そんなことをしたところで和紗が生き返るかは分からない。
けれど、失くしたものが大きすぎて、それに縋ることしか出来なかった。
何一つ守ることの出来なかった、一振りの刀の話である。
◆
甚夜が一条戻橋に辿り着いた時、初めに耳を突いたのは夏の虫の声だった。
あれは鈴虫だろうか。湿気を含んだ温い風に紛れて鳴く虫達、聞こえてくる音色は騒がしくも清澄だ。見上げれば満天の星。むせ返るような盛夏の夜が横たわる京の町は、だからこそ甚夜は僅かに奥歯を噛み締めた。
夏の夜が在ってはいけなかった。
鬼がおり、刀があり、憎む者が憎まれるべき者がいる。
ならば其処が平穏で在ってはいけない。
それなのに、虫の音が響き渡る夜。夏の重苦しい静寂が辺りを包んでいる。
「あら、おじさま? 遅かったわね」
橋の真中には影が在る。
マガツメの娘。
気負いのない涼やかな様子で、地縛は静寂の中心にいた。
ぎり、と奥歯を噛み締める。ゆらゆらと揺れる鎖、そのうちの一本が地縛の傍らにいる女から生えている。
左胸から生えた鎖が夜の色に濡れている。
今宵の色は、黒よりも赤に近い。
女は、地縛によく似ている。それとも地縛が彼女に似ているのか。
「鬼の血を練り込んで造り上げた妖刀。その中でもこの夜刀守兼臣は特別。マガツメ様が欲しがっているの」
兼臣。地縛を捕えたいと願った刀は、その望みを為せなかった。
立っているのではなく鎖に吊られて立たされている。
心臓を貫かれ、僅かにも動かない。物言わぬ死体はがただそこにあるだけ。
夜の闇の中で尚赤々と濡れた鎖から滴がぽたりと落ちる。それが地面を叩いた時、甚夜はようやく言葉を絞り出した。
「地縛……」
年甲斐もなく声が震えた。どのような感情に起因するかは気付きたくなかった。
地縛はこちらに一度視線を向け、緩やかに、まるで「今日はいい天気ね」とでも話すような軽い調子で言った。
「でも体の方はいらないわね」
動かない兼臣の四肢に鎖が巻き付き、鈍い音が響く。腕の骨、足の骨がへし折れ、それでも兼臣は刀を手放さない。崩れ落ち、地に伏そうとする瞬間、更なる鎖が彼女の体を貫く。
広背筋を破り、背骨を砕き、臓器を食い破る。鎖は容易く兼臣を持ち上げ、まるでゴミのように、真実ゴミとして動かなくなった体を後方に投げ捨てた。
一度後ろを振り返り、無様に転がる兼臣を見てにたりと地縛は哂う。
向き直り甚夜を眺めるその眼には、勝者の自負があった。
甚夜は何も言わなかった。
目の前で知己の死体を弄られたのだ。眼前の下衆を憎み、怒りを露わにするところだろう。
しかし彼はその光景を見つめながら、誰にも聞こえないよう舌の上で言葉を転がす。
「歳を取るというのは悲しいな」
以前ならば、甚夜はおそらく激昂した。
兼臣が傷つけられたことに激昂して、形振り構わず斬り掛かった。斬り掛かってやることが出来た。
そういった青臭い年頃から数十年が過ぎた。
今はもう、感情の昂ぶりに身を任せられる程若くない。
ふつふつと怒りを感じながらも、地縛を討つ為に激情を飲み込めてしまう自分が、あまりにも薄情に思える。
だが勘違いしてはいけない。
甚夜は決して冷静ではなかった。
「済まない兼臣。約束を破ることになりそうだ」
重く、ひどく寂しげな呟きだった。
地縛は、兼臣と瓜二つの端正な顔を僅かに歪める。
「どういう意味?」
「兼臣はお前に大切なものを奪われたから取り返したいと言っていた。その為に捕えたいのだと。此処で、彼女の代わりに願いを果たせればいいのだろうが、どうやら私には出来そうもない」
抑揚のない、淡々とした語り口からは感情を読み取ることは出来ない。それが地縛には意外だった。
知己がやられたのだ、もう少し怒りや悲しみを露わにすると思っていた。
しかし甚夜は怒りに体を震わせることも、涙どころか悲しみに表情を歪めることさえしない。あまりにも冷静な態度は、まるで兼臣などどうでもいいと言っているようだ。
「あら、早々に敗北宣言?」
せせら笑う地縛を見る目は薄く細められ、やはり抑揚のない口調で甚夜は告げる
「笑わせるな小娘」
鉄のような表情に、鉄のような声。
あまりにも硬すぎて、ぞっとするくらいに冷たかった。
「捕える必要がなくなったと言っている。鬼を討ち、その身を喰らい尽くす。やることは今迄となんら変わらない。己が目的の為にお前を斬るだけだ」
抜刀し無造作に構える。
少しだけ寒くなったような気がする。地縛の肩は微かに振るえた。
「だが……兼臣がいないのに、その小奇麗な顔があるのは正直気に入らなくてな」
ひくり。地縛の笑いは引き攣りに変わった。
冷静などではない。その小奇麗な顔があるのは気に入らない。つまり彼は、地縛の顔が二度と判別の付かないよう吹き飛ばすと言っている。
そもそも地縛は勘違いしていた。甚夜の冷静な態度や固い口調は巫女守として相応しい在り方を考え作ったもの。本質的に彼は感情の起伏が激しい男だ。
長い年月をかけて“冷静な自分”もまた彼の一部となり、老成し若さのままに動くようなことも少なくなった。
それでも本質とは、容易く変わるようなものではない。
「悪いが、八つ当たりに付き合ってもらおう」
その言葉と共に全身の筋肉は肥大化し、甚夜は変容していく。
左右非対称の異形。鬼としての姿が其処には在る。
有体に言えば。
甚夜は、この上なく冷静に激昂していた。
「……っ!」
全身が粟立つのを感じた。
純粋すぎる敵意は痛いほどにざらついていて、まるで目の粗いやすりのようだ。睨まれただけで皮膚を削られたのではないかと錯覚してしまう。
身構え、眼前の異形を見据える。
彼の正体を知っていたというのに、地縛は勘違いしていた。
これは剣豪と鬼女の戦いだと思っていた。人と人ならざるものの争いだ。だから地縛は自分のことを一段上に置いていた。
この身はマガツメから生まれた鬼、一方的に他者を狩る化生。
前回は<力>を上手く扱えなかったから、自分に経験が少なかったからこそ押された。
ならば戦闘の経験を積んだ今、正しく剣豪と鬼女の戦いになったのだと。
相手は狩られるだけの獲物だと、地縛はそう思っていた。
────左右非対称の異形は、冷徹過ぎる、殺すことしか考えていない瞳で。
この身を砕き、喰らい尽くそうとしている。
しかし違った。
あれは自分と同じ、狩る側だ。相手もまた、人の枠を食み出た化け物なのだ。
それを理解し、だからこそ油断も慢心も消え去った。
「<地縛>……っ」
じゃらじゃらと音を立てながら襲い掛かる二本の鎖。
叩き付けるように狙った肩口。動きを止める為に足を絡め取る。
同時に地縛は後ろへと下がる。自身の<力>は距離を取って初めて有効。六本の鎖のうち二本は<疾駆>、<飛刃>を抑えるのに使っている。四本であの敵を捌くのは至難、まかり間違っても間合いに踏み込むような真似はしてはならない。
対する甚夜は<飛刃>を封じられ遠距離での決め手に乏しく、<疾駆>で間合いを一気に詰めることも出来ない。
まずは様子見、左腕を翳し<地縛>を迎え撃つ。
「来い、<犬神>」
この身を砕こうと牙を剥く蛇、迎え撃つは三匹の黒い犬。しなやかに跳躍する<犬神>と空気を裂きながら蠢く不気味な鎖がぶつかり合う。
ぱん、と軽くはじけるような音。地縛は五年前よりも力をつけているようだ、<犬神>はいとも簡単にはじけ飛んだ。代わりに鎖も大きくたわみ、狙いとは見当外れの場所へ向かう。
「成程、如何やら一筋縄ではいかないらしい」
「鎖だけに?」
「下らん冗談だ」
甚夜は無表情に、地縛は何処か楽しげに言葉を交わす。
たわんだ鎖が再度甚夜へ狙いを定めた。重心を倒し、前傾姿勢になりながら、地を這うように甚夜は駈け出す。距離は八間。<犬神>では鎖を砕くことが出来ない以上、これを零にしなければ話にならない。
身を翻し、鎖をやり過ごす。ついで<隠行>を発動し、姿を消す。そのまま間合いに踏み込もうとするが、地縛も以前のままではない。
即座に鎖を自身の周りへ戻し身構える。しかし見えていないことには変わらない。甚夜は左足で橋を蹴り、速度を上げる。
「残念、見えてるわよ」
その瞬間地縛は乱雑に、縦横無尽に、四本全てを振り回す。
何処にいるかは分からない。ならば薙ぎ払おう。その程度の考えかとも思ったが違った。鎖は縦横無尽に見えて確実に甚夜を追い詰めるように逃げ場所を誘導していく。
そして空気を裂きながら、一本の鎖が鞭のように振るわれた。
全身の筋肉を躍動させ、横薙ぎの一太刀で迎え撃つ。
金属と金属がぶつかり合う。甲高い衝突音を響かせ、鎖を払い除ける。後ろに退き、甚夜は再度構える。地縛は余裕の表情でそれを眺めていた。
「姿を消しても自分の<力>が何処にあるかくらいは分かるわ」
甚夜の腕と足には鎖の刺青がある。これが消えない限り地縛はその位置を把握でき、消す為には地縛を討つしかない。
<飛刃>、<疾駆>は封じられた。位置が分かるなら<隠行>、<空言>も意味がない。<犬神>では決定打にはならない。
僅か五年で地縛は厄介な相手になった。しかし退くという選択肢はない。
ここで逃がせば地縛は更に強くなるだろう。マガツメによる被害も拡散してしまう。
そしてそれ以上に、彼女は兼臣を弄った。見逃せるはずがない。表には出さないが、甚夜は地縛を斬り伏せること以外考えてはいなかった。
「……随分と、強くなった」
「これでも、少しはね。おじさまにそう言われると何だか嬉しいわ。お礼に、鎖で雁字搦めに縛り付けて甚振ってあげる」
口角を釣り上げ、見下したような視線を送る。
確かに彼女は成長した。それでも性格の方はあまり変わってないようだ。しかし隙は少なくなった。
自身の周囲には二本を残し、他の鎖で甚夜を攻める。空気が唸りを上げた。鉄球が正確に急所を目掛けて飛来する。
「趣味ではないな」
それを丁寧に捌きながら甚夜が答える。地縛は確かに強くなったが、今回は誰かを守りながら戦わなくてもいい。その分精神的にも肉体的にも余裕があった。
「そう。でも、やめないわよ?」
「構わんさ。どのみち為すことに変わりはない。お前は、私が喰らおう」
「あらまあ、私が食べたいの? 向日葵姉さんに嫉妬されちゃうわね」
ふざけたことを言いながらも、地縛の攻め手は苛烈だ。鎖の操作技術、その威力、共に五年前とは比べ物にならない。
地縛が攻め、甚夜が防ぐ。戦局は硬直状態に陥っていた。
「……っ」
「ほんと、厄介な人!」
既に数合、致死の一撃を幾度も放ちながら甚夜は息も乱さずそれをいなす。
強くなったと思っていた、なのにまだ届かない。地縛はその現実に焦れ、苛立っていた。
焦れていたのは甚夜も同じだった。
間合いは未だに詰められない。鬼と化しながらも攻め込めないのは<地縛>、封じる<力>故に。
痛みは耐えられるが“縛られる”ことはどうしようもない。
だから無理に攻めることは出来ず、硬直状態に甘んじるしかない。
しかしこのままではいずれ不利に傾く。
二匹の鬼は、同時に同じことを考えた。
「ねえ、おじさま?」
「なんだ」
攻防を交わしながら、互いに穏やかな調子で語り合う。
「いい加減、飽きてきたと思わない?」
「奇遇だな、私もそう思っていた」
「そう、なら……」
鎖が全て地縛の周囲へと戻る。
甚夜は腰を落し、左の拳を音が鳴る程に握り締める。
「そろそろ、終わりにしましょうか」
「良い案だ」
そして動く。
それもまた同時だった。
地縛が攻撃を止めたのは甚夜を呼び込む為。遠距離で攻撃を繰り返しても捌かれるだけ。ならばぎりぎりまで距離を近づける。鎖の速度に甚夜自身の疾走を加え、多少の手傷は覚悟の上で、攻撃に移る際の一瞬の隙を狙い撃つ。
甚夜は<剛力>を使わない。威力は随一だが手数の多い地縛相手ではあまり意味がない。鬼の身体能力と剣技に飽かせた真っ向勝負。相手の策略など正面から斬り伏せる。
一挙手一投足の間合いへ踏み入り、二匹の鬼がやはり同時に仕掛ける。
速度は殺さない。甚夜が狙うは咽頭、放つのは鬼の腕力を余すことなく乗せた刺突だ。
右腕を引き、構えた瞬間、それを地縛は待ち構えていた。
四本全ての鎖を用いて甚夜を打ち据えにかかる。距離が近くなった。突きよりも待ち構えていた地縛の鎖の方が早い。唸りを上げる鎖は蛇だ。敵の命を刈り取ろうと牙を剥く。
だがそこまでは読めている。
かつて岡田貴一が見せた刺突には及ばないが、甚夜は放った突きの軌道を滑らかに薙ぎへと変化させる。拙い業だ。それでも地縛には十分驚愕で在ったようだ。狙い澄ました筈なのに鎖を防がれた。
甚夜は止まらない。打ち払うのは目の前のものだけでいい。それがなくなれば地縛に拳が届く。<剛力>を使わずとも彼の拳は凶器だ。一撃で鬼女の美しい顔を退き飛ばすことが出来る。
更に距離は狭まる。拳が届く位置、だから勝利を確信する。
「これで、私の勝ちね」
地縛は勝利を確信して笑った。
瞬間、防がれた四本の鎖ではなく、甚夜の体から二本の鎖が解き放たれ、彼の心臓を頭を狙う。
攻撃に移る際の一瞬の隙を狙い撃つ。もとよりそれが地縛の目論見。しかしその程度で甚夜を仕留めるのは難しい。そんなことは、彼女自身が一番よく分かっていた。
だからこそ使える四本の鎖を囮にした。<力>を封じている二本の鎖を開放し、真正面から不意を打つ。
避けられない。
鉄球が唸りを上げる。それは正確に甚夜の心臓と頭に直撃し、
「その程度では、壊せんぞ」
がきんと、甲高い鉄の音が響く。
<不抜>。壊れない体の前では鎖など涼風にも劣る。
地縛の笑みに不吉なものを感じた。だから、その瞬間から甚夜は<力>を発動した。彼では土浦程早く壊れない体を構築できない。直撃より一瞬遅かった為、完全に防ぎきることは出来ず血が垂れている。しかしどうにか間に合った。
地縛は歯噛みした。目論見通りだった。策を張り、不意を打って……尚も命には届かない。
驚かされたのは甚夜も同じだ。今のは綱渡りで命を繋いだに過ぎない。
戦いはまだ終わっていない。
互いにすべて手札を切り、二匹の鬼は硬直していた。
甚夜はまだ<不抜>が解けていない。壊れない体を得られるが、使用中は動くことが出来ない。それが<不抜>の弱点だ。
地縛も六本の鎖を防がれた。攻撃に移るまで少しばかり時間がかかる。
先に動いた方が勝つ。
そして、<不抜>が解けるよりも、たわんだ鎖が元に戻る方が早かった。
「……っ」
甚夜は演技ではく、心底の焦りから顔を歪めた。
まだ動けない。打てる手はもうない。地縛は既に鎖を操り始めた。今度こそ、それを防ぐことは出来ないだろう。
にいっと、地縛が口の端を釣り上げる。
「ようやっと、これで終わりね」
勝ち誇った表情。地縛は左腕を翳した。
蠢く鎖が甚夜に咢を向ける。
そして放たれた一撃が体を貫いた。
「ええ。これで終わりです。終わるのは、貴女ですが」
一振りの刀が。
背後から、地縛の心臓を貫いたのだ。
「……………え?」
ずぶり、と気色の悪い音が聞こえる。
遅れて吐血し、地縛は目を見開く。
おかしい。
これで勝ちのはずだった。なのに痛い。おかしい、おかしい。
なんで自分の体から、刀が生えているんだろう?
地縛はいきなりの事態に頭が回っていなかった。それは甚夜も同じ。彼にしては珍しく、驚愕に呆けたような顔をしている。
くるりと、首だけで後ろに振り返る。
そこには見知った女がいる。
自分と同じ顔をした女が。
「まだ、動けるのっ……!?」
心臓を貫き、背骨を砕き、四肢をへし折った。
なのに兼臣は、確かに心臓から血を流しているというのに、立ち上がっていた。
夜刀守兼臣が地縛の心臓を貫いている。痛みを感じてもいないのか、淡々と兼臣は語った。
「……四口の夜刀守兼臣は、全てが妖刀。それぞれ異なる<力>を有しています。この刀の<力>は<御影>。骨が折れようが腱が切れようが、物理的に動かない状況であろうが。<力>を持って“自分自身”を傀儡と化し、無理矢理に動かすことが出来る……!」
その<力>は知っている。
だから念入りに彼女の体を壊した。
なのに、まさか背骨を砕かれても動けるなんて。
そうは言えなかった。言うより早く、首を鷲掴みにされた。
ぎしり、骨が折れそうになる程の力で締め付けられ、そのまま高々と持ち上げられる。
息が出来ない。見下ろせば、何の感慨もなくこちらを見る赤い目が。
そこには左右非対称の異形の鬼がいた。
「兼臣、無事だったのか」
<不抜>が解け、甚夜も動けるようになった。
異形の左腕で鬼女の首を絞めたまま兼臣に視線を向ける。
「見ての通りです」
満身創痍、とても無事とは言えない。しかし兼臣は微笑んでみせる。
「そうか。聞きたいことは山ほどあるが、取り敢えずこいつはどうする」
もともとは地縛と兼臣の私闘。甚夜は横槍を入れたに過ぎない。
そして彼女を切ったのも兼臣。どうするかを決める権利は彼女にあるだろう。
「葛野様の、お好きに」
目を伏せ、感情の乗らない声で答えた。
仇を追い詰めながら、どうでもいいと言いたげだった。
「いいのか」
「ええ。……私は信じていたんです。地縛を捕えれば、和紗様の魂が取り戻せるのだと。そんなこと訳がないのに。失った命が戻るなどと、在り得ない希望に縋ってしまった」
そうして自分の心臓に出来た創傷を見て、決心したように顔を上げた。
「でもそれが叶わぬと、ようやく受け入れられました。だからどうか、貴方の手で終わらせてください」
その言葉が如何なる想いを込めて紡がれたものかは甚夜には分からない。
しかし彼女の笑顔は本当に綺麗だった。だから問い返すような真似はしたくなかった。
「地縛……お前に聞きたいことがある。」
甚夜は左腕に籠めた力を僅かに緩めた。
心臓を潰され、彼女の体からは既に白い蒸気が立ち昇っている。
その眼には明らかな恐怖。外見だけで考えれば悪役は甚夜の方だろう。
「マガツメの目的はなんだ」
「……さ、あ?」
怯えながら、それでも地縛は気丈に答えて見せる。
「何も聞いていないのか」
「ええ、興味も、ないし。でも何か為したいことがある。手伝う理由なんてそれで十分でしょう? だって、元は同じも、のだったんだから。……もっとも、マガツメ様は私達のことなんて気にも留めていない、でしょうけど」
初めて見せる、どこか自嘲めいた笑みだった。
「私達はマガツメ様が切り捨てた、心の一部。目的を果たす為に必要だったから私達を造ったんじゃないわ。目的を果たす為に、必要ないから私達が出来た。それがたまたま使えたから使ってるに過ぎない。大切にはしてくれるけど、本当は私達のことなんて最初から必要なかったのよ、きっと」
或いは、彼女が“母”ではなく“マガツメ様”と呼ぶのは、だからなのかもしれない。
必要とされていないのではないか、その不安が母と呼ぶことを躊躇わせる。
聞かなければよかった、甚夜はそう思った。
地縛の寂しさが垣間見えてしまった。子を持つ身としては、彼女の苦悩は身につまされるものがある。
そしてそういう娘だと思えば、余計に気は重くなった。
「済まない。くだらないことを聞いた」
「いいわ、私は負けたんだもの」
「そうか。ならば……お前の<力>、私が喰らおう」
どくん、と左腕が鳴動する。
元々甚夜の左腕はそういうもの。
鬼を喰らい、その<力>を我がものとする異形の腕。
かつて葛野を襲った鬼から与えられた<力>だ。
「あ、ああああ……」
苦悶の声。聞こえないふりをした。
少しずつ地縛が自分の中に流れ込んでくる。
しかし何故記憶も想いも理解が出来なかった。
靄がかかったようにはっきりしない。
それでも少しずつ、地縛が自分のものになっていく。
「では、な。地縛」
腕の中にいた鬼女は完全に消え去る。
こうして、百鬼夜行は一晩のうちに姿を消した。
「ああ、よかった。和紗様の仇だけは討つことが出来た」
兼臣は万感の意を込めて呟き、そしてそれが限界だった。
「兼臣っ」
糸が切れた人形のように膝から砕け力なく倒れ込む。近付き、抱え起こす。腕が足が折れ、心臓が貫かれ、尚も刀を手放さぬ娘。最後まで刀で在ろうとした彼女は、あまりにも穏やかな微笑みを湛えている。
「ありがとう、ございます。葛野様、貴方のおかげです」
儚げに漏れる吐息。彼女は助からない、というよりも、今生きていることさえおかしい。
だから甚夜は理解した。兼臣は、当たり前のように、命を落とす。
これが最後の会話になるのだ。
「今医者を」
「無理ですよ。元々<力>で無理矢理動かしていただけに過ぎません。もう、この体は終わっているんです」
<御影>。
自身の体を傀儡のように操り、骨が折れようが腱が切れようが、無理矢理に動かす<力>。
動ける訳のない彼女が動けた理由。しかしそれも終わり。
抱えた体は冷たい。もう、彼女は終わっているのだ。
「兼臣……」
兼臣は真っ直ぐに甚夜の目を見る。
それがまるで天寿を全うする老人のように見えて、泣きたくなった。
まただ。結局、甚夜は何も守れない。
自分を頼ってくれたこの娘に、何もしてやれなかった。
「ふふ、そんな顔をしないでください。こうなることは最初から決まっていました。けれど、為すべきを為せた。私は十分満足しています。心残りと言えば、もう葛野様の作る蕎麦を食べられないくらいのものでしょう」
「蕎麦なんぞ幾らでも作ってやる」
「その言葉は、もう少し早く言ってほしかったですね」
くすりと零れ落ちた笑みに、甚夜は表情を歪める。
それが嬉しくて、兼臣は目を細めた。
「そんなに惜しんでもらえるなんて、思ってもいませんでした」
「……済まない、私は、お前に」
「そんなことを、言わないでください。何も言えなかった私に手を差し伸べてくれた。あの夜、私は救われたんです。何一つ為せなかった刀は、ちゃんと斬るべきを斬れた。それは紛れもなく貴方のおかげなのですから」
最後の力だろう。ゆっくりと手を動かして、甚夜の手にそっと触れた。
「地縛に奪われた和紗様の魂は、きっと貴方の中に。ならば今度は貴方を主人と仰ぐべきでしょうか?」
冗談めかした物言いに胸を締め付ける。
「ああ、それでいい。だから」
だから、死ぬな。
言いたかった。でも言えなかった。
「ふふ、そう、ですか」
腕の中にいる兼臣は。
「なら……貴方の刀となるのも、悪く、ありませんね」
最後に、穏やかな笑みを残して。
────するりと、手は離れて。
もう、動かなくなった。