「ほれ、甚夜」
夜が明け、取り敢えず一寝入りして体を休めてから、甚夜達は鬼そばへと集まった。
店は開けていない。流石に疲れたので今日はこのまま休みにしようと思った。
「なんだこれは」
「今回の仕事料や。いや、実はな。百鬼夜行をどうにかしてくれゆう依頼は多くてな。結構な稼ぎになった。今回は僕と山分けってことで」
どうやら休んだ後、態々金を受け取りに行っていたらしい。五十近い老人だが中々体力のある男である。
「そういうことなら」
袋に入れられた銭を受け取り、店の奥に片付けてからもう一度向かい合うように座る。
店の中には甚夜と染吾郎しかいない。傾いた格好をした、細面の娘は戻ってくることが出来なかった。
傍らに置いた夜刀守兼臣を眺めながら甚夜は眉を顰めた。
「“心を造る”……結局、マガツメの目的はよう分からんかったなぁ」
何か思うことがあったらしい。茶を啜り、ぽつりと染吾郎が呟いた。
マガツメ。鈴音は人の死体を弄りながら何かを為そうとしている。彼女の目指す者は甚夜にもよく分からなかった。ただ、思い浮かべるだけでどろりとした憎悪が湧き上がる。
何十年と経って、それでも僅かも変われなかった自分を見せつけられたような気がした。
「夜刀守兼臣を欲しがっとったんもそれやろか?」
「おそらくは」
声は沈んでいる。その理由は染吾郎にも想像がついていた。
「なあ」
「なんだ」
「……今更やけど、マガツメが“金髪の鬼女”なんやろ?」
以前、ゆきのなごりという酒を巡る事件があった。その時甚夜は、“金髪の鬼女”に対して普段からは想像もつかない程感情を露わにしていた。染吾郎はそれを覚えていたらしい。
「ああ……百年の後に鬼神と為り、葛野へと降り立つ鬼だ」
「君の故郷やったか」
黙って頷く。
染吾郎は笑うとも呆れるともつかない、なんとも微妙な表情を浮かべた。向日葵とのやり取りでマガツメが甚夜の妹であると知った。なのに妹だと言えなかった甚夜を、痛ましく思ってしまった。
「ま、詳しいことは聞かん。……でも、そやな。その時になったら力は貸すわ」
「すまん」
だが、その頃には彼は、もう。思ったが、甚夜は何も言わなかった。こちらを慮っての言葉だ。はねのけるようなことはしたくなかった。
それきり二人は黙り込む。
茶を啜る音だけが聞こえる。どれくらい時間が経っただろうか。
何処か冗談めかした物言いに、沈黙が破られた。
『しかし葛野様は、案外と情の深いお方なのですね』
声は、随分と聞き慣れた女のもの。
喋ったのは、傍らに置いた夜刀守兼臣だった。
「……五月蠅い」
甚夜は眉を顰め、仏頂面で返す。
その態度にずいと体を前に出した染吾郎は、随分と興味深そうだった。
「お、なになに、何や面白い話しでもあるん?」
『面白いという訳ではありませんが、葛野様が私に蕎麦なんぞ幾らでも作ってやると』
「おおっ!? 嫁に来いとかそういう話!?」
わざとらしく驚いて見せる。顔は思い切りにやけている。完全にからかう気だった。
「……だから、五月蠅いと言っている」
不機嫌な態度を隠そうともしない甚夜を、染吾郎も、表情は分からないがおそらく兼臣も、生暖かい目で眺めている。
彼が不機嫌なのは怒りではなく、気恥ずかしさからだ。普段あまり表情の変わらない甚夜が、自分の勘違いが恥ずかしくて怒ったように見せている。それが面白くて、どうにも笑いが止められないようだ。
甚夜は目の前で笑っている男を睨み付ける。
「染吾郎……お前、最初から知っていたな?」
「そりゃ、まあ。というか、ちゃんと僕ゆうたやろ? 兼臣は刀やって」
ああ、そうだ。確かに染吾郎は言っていた。
────あの子は抜身の刀や。多分、君が思っとる以上に脆い。
だが、まさかそれが比喩ではなく“本当のこと”だなどと、誰が思うというのか。
染吾郎に続いて夜刀守兼臣も口を開く……否、口は無いが空気を震わせ、声を発する。
『私もちゃんと言った筈ですか。これは私そのものだと』
確かに何度も言っていた。
刀は自分そのものだと。これは私の魂だと。
ただ、甚夜が勝手にそれを単なる比喩表現だと勘違いしたに過ぎない。そもそも彼等は何一つ嘘を吐いていなかったのだ。
「ああ、分かっている」
そう、甚夜は全てが終わってようやく兼臣が何者なのか理解した。
兼臣───妖刀・夜刀守兼臣は、元々和紗の刀。
何度も言うが比喩ではなく、“妖刀使い”の南雲、その当主たる和紗の父が娘に与えた妖刀こそが兼臣だった。
和紗の指南役になった、というのは単純に「自分の正しい使い方」を教えるという意味に過ぎない。
主とは「主人」ではなく「使い手」。
そして今まで会話していた兼臣は、夜刀守兼臣に宿った人格なのだ。
兼臣は和紗の刀となり幾許かの年月を過ごし、地縛という鬼女に出逢う。
南雲和紗は地縛に魂を奪われた。
これもまた比喩ではなく、おそらく地縛は<力>によって和紗の魂を縛り、己が内に取り込んだ。
魂のない体では動くことは出来ない。
だから兼臣は動かない和紗の体に<力>を使った。
<御影>
自身の体を傀儡のように操り、骨が折れようが腱が切れようが無理矢理に動かす<力>。
もっと言えば今喋っている“彼女”こそが<御影>という<力>だ。
刀の現身としての人格、妖刀の落した影。
故に名を<御影>という。
それを持って和紗の死体を動かした。
だから地縛と兼臣は同じ顔をしていた。
地縛は和紗の魂を取り込んだが故に、兼臣は和紗の体を操るが故に、二人はあれ程までに瓜二つだった。
「そうだな、お前は最初からこのことを伝えようとしていた」
『二人静、ですか?』
「ああ」
『ならば今一度問いましょう。……菜摘女は、何故舞うことが出来たのか』
兼臣は、地縛の討伐へ赴く際、謡曲「二人静」について語って聞かせた。
静御前の霊に取り憑かれ舞う菜摘女の話。
舞いの途中で静御前の幽霊が現れ、それでも菜摘女は舞を続ける。
───それなら、“何”が菜摘女を動かしていたのでしょうか。
あの時、兼臣が投げかけた問いを思い出す。
彼女の中に静御前の霊はいない。
ならば彼女はどうやって舞った?
舞は菜摘女の内から零れたのか。
静御前の想いがその身に残されていたのか。
今なら、何と答えればいいのか分かる。
「そんなもの、“別の何か”が菜摘女を動かしていたに決まっているだろう」
その体に魂が無いのなら、動かしている“別の何か”があってしかるべきなのだ。
それは謡曲のことではなく、彼女自身のこと。
妖刀の魂に憑依された南雲和紗こそが兼臣の正体。
だから騙された訳ではない。
ただ単に、甚夜が気付かなかっただけの話だ
『はい、正解です』
声の調子から満足そうに頷く女の姿を想像する。
マガツメが兼臣を求めた理由も何となく理解できた。
あの娘が心を造ろうとしているのならば、心の宿った刀は確かに興味深いものだろう。
「そやけど、死体なのによう腐らんかったなぁ」
『それは、どちらかというと地縛の<力>でしょう』
殺されたのではなく魂を縛られた。
故に、南雲和紗は半分生きていて半分死んでいる状態だったのだろう。
死んでいるから魂はなく年老いることはなく、生きているから腐りもしなかった。
しかし今回の戦いで四肢を折られ、背骨を砕かれ、心臓を貫かれた。
和紗の体は真実死骸となった。
兼臣が地縛を“喰う”ことを認めたのはおそらくその為。
肝心の体が壊れてしまったのだ、魂を取り戻す意味がなくなってしまった。
……或いは、最初から魂を取り戻せるなんて思っていなかったのか。
本当は取り戻せないと知りながら、拘っていたのかもしれない。そうしなければ生きていけなかったから。
『……? どうかされましたか?』
「いや」
甚夜の視線に気付き、不思議そうに兼臣が声を上げる。
甚夜は今考えたことを言葉にはしなかった。
本当の所を知るのは兼臣自身の他におらず、聞く気もない。
過去に手を伸ばしたところで為せることなど何もない。態々傷を穿り返すようなことはしたくなかった。
「まあ、これで百鬼夜行の件は解決。この子も敵を討てて、甚夜にも嫁が出来た。万々歳やね」
「お前そろそろ本気で黙れ」
まだからかおうとしてくる染吾郎を更に睨む。しかし暖簾に腕押し、飄々と視線を受け流し朗らかに笑っている。本当に、いい性格をした爺である。
「まあまあそう言いなや……って、ん?」
何かに気付き、怪訝そうに染吾郎は目を細めた。
その視線を追っていけば店の奥から出てきた野茉莉の姿がある。
「野茉莉……?」
何故か暗い顔をした、野茉莉はじっと甚夜のことを見ている。
様子がおかしい。席を離れた甚夜は娘に近付き、少しばかり体を屈めた。
「どうした」
声を掛けても反応はない。無言を貫き、しばらく間を空けてから小さく呟く。
「……今の話」
「ん」
「父様に、嫁が出来たって」
どうやら中途半端に話を聞いてしまったらしい。甚夜に嫁が出来たとでも勘違いしているようだ。
弁明しようとして、きっと視線を鋭くした野茉莉にそれを封じられる。
「嘘吐き」
刃物のような言葉か突き立てられた。
何も言えない甚夜に背を向け、野茉莉は再び奥の部屋に戻っていく。
先程までの和やかさは消え去り、店内の空気はぴんと張りつめていた。
「……なんや、みぃんな解決したと思っとったけど、一番の問題はそのままみたいやね」
流石に笑えなかったらしく、頬を引き攣らせて甚夜を眺めている。
嘘吐き。その科白は思いの外強烈だった。
甚夜は動けず、立ち尽くすしか出来なかった。
『あの、済みま、せん?』
謝ればいいのか、慰めればいいのか。
よく分からず口に出来たのは、やはりよく分からない科白だった。
別に彼女が悪い訳でもない。動揺を隠し、努めて普段通りの顔を作って答える。
「……大丈夫だ」
沈んだ声は隠しようがなかった。
「まあ、年頃の女の子は難しいわなぁ」
『女性と縁のない秋津様でもそう思われますか』
「よっしゃ、お前表に出え」
染吾郎と兼臣のやり取りを横目に甚夜は溜息を吐いた。
紆余曲折はあったが、何一つ守れなかった刀の物語は、どうにか笑顔で終えることができた。
少なくとも兼臣は───以前の体は失ってしまったが───ここにいる。
それは喜んでもいいことだろう。
『どうかされましたか』
溜息に耳聡く気付き、兼臣は声を掛けた。
決して憂鬱から出た訳ではない。軽く首を振って、心配するなと示してみせる。
「なに、少し疲れただけだ」
『それならばいいのですが』
「済まない、気を使わせたようだ」
『いいえ、貴方の嫁ですから』
話がこじれた原因をいとも簡単に言ってのける。
面の皮が厚い女だと甚夜は思った。そもそも刀の面の皮が何処かは分からないが。
しかし兼臣の声は弾んでいて、表情は分からないが楽しそうだと思えた。
だから咎めることはしなかったが、溜息がもう一度零れた。
これで地縛と兼臣の話は終わりである。
南雲和紗の仇をうち、彼女は随分と気が楽になったようだ。
マガツメの目的はよく分からないまま、野茉莉とのこともある。甚夜の方は前途多難だが、取り敢えずは一件落着というところだ。
紆余曲折はあったが、今回の件を締めくくる言葉はやはりこれが相応しいだろう。
『では、これからもよろしくお願いします。旦那様』
つまり、兼臣は刀であった。
鬼人幻燈抄 明治編「妖刀夜話~御影~」・了
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