明治十一年(1878年)・七月
「お師匠」
秋津染吾郎の仕事場は、京は三条にある自宅の一室である。
金工であった初代染吾郎と違い、三代目の彼は木彫りの根付の製作も行う。寧ろ今では根付職人として認知されているほどだ。
金工の技術は二代目染吾郎、つまり師匠から学んだ。元々彼は小器用で、金属製の櫛(くし)や簪(かんざし)を造らせても一級品が出来上がる。
しかし染吾郎としては温かみのある木彫りの方が好きで、彼の作品は金属製の櫛よりも根付の方が多い。近頃は年老いて体力がなくなってきたこともあり、その比重は更に傾いていた。
「おう。おかえりー、平吉」
既に五十近い年齢だがその手捌きは見事というしかない。平刀、合透、小刀、剣先、丸刀。次々に彫刻刀を持ちかえ、何でもない木片を芸術作品へと変えていく。染吾郎に師事してから随分と経つが、平吉の技術では足元にも及ばない。制作風景を見る度に、師に対する羨望と自身に対する落胆を覚えてしまう。
もっとも師とは違い平吉は“秋津染吾郎”の付喪神使いとしての一面にこそ重きを置いている。落胆の理由は「まだ自分には強い付喪神を作ることが出来ない」という所にあった。
「どやった、東京は?」
取り敢えず仕事を中断し、部屋に入って来た平吉の方へ向き直る。
声を掛ければ平吉はいつもよりも楽しそうな様子で答えた。
「やっぱり様変わりしてました。新しいもんもいっぱいあって。あんぱんゆうの食べましたよ」
「そかそか、楽しんできたようで何よりや」
平吉には東京の商家に頼まれていた根付を納品に行ってもらった。
明治に入って江戸は東京に名を変え、随分と変わった。観光がてらの仕事だ、いい息抜きになるだろうと思って任せたが、やはりそれは正解だったようだ。
「ところで、それなんや?」
手には紙の包みが一つ。行く時にはなかった筈だ。土産であれば先に渡しているだろうし、純粋に疑問だった。
「あ、えーと、東京の店でですね。櫛とか根付とかもらってきました。その、女の子に似合いそうなの」
恥ずかしいのか僅かに頬を染めて歯切れ悪く言う。
「もらってきた? 買うた、やのうて」
「はあ。師匠の馴染みの蕎麦屋の話しとったら、なんでか店主の話になって、いつのまにか野茉莉さんの話になって、そしたらなし崩しに」
その様子に染吾郎は溜息を吐いた。
「平吉ぃ、秋津染吾郎の弟子なら野茉莉ちゃんへの贈り物ぐらい自分で造らな……」
「俺もそういうのは造れますってゆうたんですけど、いいからいいからて店の女の人が無理矢理」
「あー」
無理矢理持たされ断ることも出来ずあたふたする平吉の姿が目に浮かんだのだろう。
呆れながらも「仕方ない」と染吾郎は一度頷いた。
「ま、貰ったんなら渡してきい。きっと、その櫛やら根付は野茉莉ちゃんとこに行きたがっとんのやろ」
「行きたがっとる、ですか?」
意味が今一分からず聞き返すと、染吾郎は優しい、まるで父親のような笑みで答えた。
「そ。物には収まり所ゆうもんがある。その人の手に渡るのは偶然やなくて、物がそこに行きたいと思たからや。その子らも、そういう誰かを探してここに来たんかもしれんなぁ」
想いは、最後には自分が帰りたいと願った場所に還る。
だから物がその人の手に渡るのは、物の願いでもあるのだ。
染吾郎は事あるごとにそう言っていたが、平吉にはよく分からなかった。
付喪神になるような器物なら兎も角、普通のものが持ち主を選ぶなんてある訳がない。
「そういうもんですか」
「そういうもんや。想いは巡り巡って、最後には帰りたい場所に還るもんやと僕は思うな」
何度も聞いた言葉、それでも首を傾げてしまう。
納得し切れていないであろう弟子を見る目はそれこそ息子に対するような暖かさだった。
「ま、いつか分かるわ。それ、はよ持ってったり。ああ、そろそろ飯時か。僕も行くわ」
「あ、はい」
結局よく分からないまま平吉はその場を後にして、師と共に鬼そばへと向かう。
その歩みは随分と早足で、染吾郎が笑ったのは言うまでもない。
鬼人幻燈抄 明治編『夏宵蜃気楼』
野茉莉は今日もいつものように父の手伝いをしていた。
昼の蕎麦屋は忙しい。忙しなく手を動かす父はいつもと同じ表情、汗一つかいていないけれど、やはり疲れているのだろうか。横目で様子を見ても疲労の色を見て取ることは出来ない。
父は普段から無表情で、時々笑うことはあっても、苦しんだり悲しんだりといった感情を表に出す人ではない。だから何を考えているのかはよく分からなかった。
「どうした、野茉莉」
「……ううん、なんでもない」
昼の忙しさも一段落つき、野茉莉の視線に気付いた甚夜は表情を変えずにそう聞いた。
返せたのは味気のない誤魔化しの言葉。野茉莉は、自分の拙さに少し落ち込んだ。
小さな頃は仲が良くて、父は客にからかわれるほど親馬鹿で、野茉莉はそんな父が大好きだった。
一緒の布団で寝て、朝起きる時は父に起こしてほしくて寝たふりなんてしていた。
なのに今ではそんなこともなくなり、以前より会話は少なくなった。
嫌いになった訳ではない。
父はいつだって自分のことを考えていてくれる。
不器用だけど頑固ではなく、人の話をよく聞きそれを受け入れてくれる優しい人だ。
父として尊敬しているし、今だって間違いなく大好きで、この人を支えてあげたいとも思う。
なのに時々息が詰まる。父の言葉が妙に苛立たしく思えて、いざ目の前にすると何を話せばいいのか分からなくて、結局は黙り込んでしまう。
そんな自分が情けなくて、野茉莉は父には見えぬよう顔を背けて小さく溜息を吐いた。
「いらっしゃいませ」
暖簾が揺れ、父の声が店内に響き、野茉莉ははっとなった。遅れて挨拶をしようと思ったが、それよりも早く客の方が口を開く。
「野茉莉さん、こんにちは!」
客は宇津木平吉、師匠の染吾郎と一緒に長く鬼そばへ通ってくれる常連だった。
「あ、平吉さん、おかえりなさい」
平吉は少し前まで仕事で東京に行っていた。野茉莉も幼い頃は東京、正確には江戸で過ごしていたことがある。だから懐かしい土地へ、仕事とはいえ行ける彼を、少しだけ羨ましく思った。勿論、本人には何も言っていないが。
「こんにちは。甚夜、きつね蕎麦な」
後から入って来たのは彼の師である秋津染吾郎。五十近い年齢ではあるが相変わらず元気で、寧ろ父の方が年老いているように見える。もっとも、実年齢では甚夜の方が年上なのだから当たり前と言えば当たり前だった。
「ああ、宇津木はどうする」
「ん、天ぷら蕎麦」
平吉と甚夜は微妙に仲が悪い。これでも以前よりは大分打ち解けたのだ。
正直なことを言えば、幼い頃の野茉莉は平吉に対してあまり良い感情を持っていなかった。父にひどい態度を取る嫌な男の子。それが第一印象だ。
けれど彼はなんだかんだで自分を気にかけてくれて、少しずつではあるが態度を変えて父とも喋るようになった。
今ではそんなに嫌ってはいない。平吉が十八、野茉莉が十五、年齢が近いこともあり、寧ろいい友人と言える関係を築いていた。
「お仕事お疲れ様」
席に座った二人へ茶を運びがてら声を掛ける。平吉は嬉しそうに頬を緩ませた。
「ゆうても、観光がてらやけどね」
「そうなの?」
「名物とかも食うたしなぁ」
「へー、いいなぁ」
会話は和やかに進む。染吾郎の方は甚夜となにやら話をしているようだ。小声で上手く聞き取れないが、父は僅かに眉を顰めている。だからきっと重要な話で、聞いても答えてくれないのだろうな、と野茉莉は思った。ちくりと何かが刺さったような気がした。
「野茉莉、出来たぞ」
「あっ、う、うん」
ぼんやりとしていたせいで少し反応が遅れた。慌てて蕎麦を二人の前に運ぶ。すると平吉は立ち上がり、紙の包みを野茉莉の前に差し出した。
「あ、そ、そや。野茉莉さんこれ。あぁ、おみやげ!」
「え、私に?」
「そ、そや」
顔は赤くなっていた。幼い頃の平吉は自分と喋るのが苦手だったらしく、つまったりどもったりすることが多かった。
最近はそれも減ってきたと思ったが、今の様子は以前の彼のようだ。久しぶりの慌てた彼が面白くて野茉莉は小さく笑った。恥ずかしかったのだろう、平吉は更に顔を赤くしていた。
「櫛とか、根付とか、その、いろいろあるから見たって!」
恥ずかしさをごまかすように視線を切り、机の上で包みを広げる。
中からは言葉通り櫛や木彫りの根付、他には簪などが八つもある。この手のものに詳しい訳ではないが、素人目に見てもそれなりの値段がするのだと分かる精巧な品々だった。
「あ、ありがとう。でも、こんなにいっぱい」
「気にせんでええ。元々貰いもんみたいなもんやし! あは、あはは」
押し付けるような勢いでずいと目の前に差し出される。しかしこんな高価そうなものを受け取っていいのか迷い、野茉莉は困ったように視線を泳がせた。
困惑した様子にまるで気付いていない弟子を横目で眺めていた染吾郎は、小さく溜息を吐いた。
「……平吉ぃ、もうちょい落ち着かな。だいたい貰いもんとかいわんでええやろ」
「仕方あるまい。緊張して当然だと思うが」
大人二人で何かこそこそと話しているけど上手く聞き取れなかった。
野茉莉は どうすればいいのか分からず、逃げるように父へ視線を送る。甚夜は表情も変えずに答えた。
「折角だ、貰えばいいだろう」
ああ、まただ。
何気ない言葉がちくりと刺さるのは何故だろう。
「ここで断られても宇津木が困るだけだ」
「そ、そうそう! 俺が持っててもしゃあないし、野茉莉さんがもろてくれたら嬉しい! ……あ、いや、この櫛たちも嬉しいと、思うん、やけど」
何故か最後の方は尻すぼみになってしまう。けれどここまで言われては断るのも気が引ける。
「じゃあ、貰うね。ありがとう、でいいのかな?」
その言葉にぱあ、と顔を明るくして何度も首を縦に振る。
そうまで喜んでくれるのなら。やっぱりもらった方がいいのだろう。野茉莉は微笑みながら沢山の土産を受け取った。
二人のやり取りを生暖かく眺めている大人二人。染吾郎はにやにやと、甚夜も普段より幾分穏やかな様子だった。
ちくり。
野茉莉は、少しだけ苛立っている自分に気付いた。
◆
夕食を終え、片づけを済ませてから自室に戻る。
部屋にある小さな机には今日貰ったお土産が置かれている。美しい櫛や簪、愛嬌のある木彫りの根付。どれも女の子が好みそうなものばかりだった。
見るからに高そうだったから気後れはしたが、野茉莉もこういう類のものは決して嫌いではない。平吉に心の中で感謝し、貰った品々を眺めていた。
その途中、ほんの少し表情が曇る。
お土産のせいではなく、机の上に置いたリボンが理由だった。
子供の頃、父に買ってもらった桜色のリボンだ。浴衣と一緒に買ったそれは、今でも髪を纏めるために使っている。
だけど、最後に父と買い物へ行ったのはいつだったろうか。
記憶を辿っていくが直ぐに思い出すことは出来ず、野茉莉は考えるのを止めた。
別にどうでもいいことだ。自分に言い聞かせ、行燈の火を消してから布団にもぐる。
目を瞑って、浮かんだ暗い考えを早く忘れようとした。
** ** **
その夜、野茉莉は夢を見た。
夢を見ている、それがはっきりと自覚できた。
通りを歩く。懐かしいような、見慣れないような、なんとなく違和感のある景色。
体は動いている。自分の意思ではなく、勝手にだ。
「どうした」
それに、自分の手を握る父は、優しげに声を掛けてくれる。
だから夢だと分かった。
今ではこんな風に、手を繋いで歩くことなんてできない。
体が自由にならないのは、自分は夢の登場人物で、夢に沿って動いているからなのだろう。
「ううん、なんでもない」
野茉莉は少しいい気分だった。
夢ではあるが、まるで幼い頃のように、父と手を繋げる。
いや、夢だからこそ気兼ねなくいられる。それは久しく感じていなかった穏やかさだった。
親娘並んで通りを進み、どこかで見たような川、そこに架かった橋を渡る。
そして更に歩き、二人は目的地にたどり着いた。
店……蕎麦屋だ。鬼そばではない。見たことがある、でもどこでだったろう。父に手を引かれ、体は勝手に動き、目の前の店の暖簾をくぐる。
そうして、野茉莉は驚きに目を見開いた。
「らっしゃい、旦那」
迎えてくれたのは、快活な笑みを浮かべる四十を過ぎた男だった。
記憶の片隅にある、あやふやになってしまった輪郭。
けれど懐かしいと思う。
「あら、いらっしゃいませ、甚夜君」
次いで出てきたのは、すらりとした立ち姿が印象的な、十五、六の娘。細面の彼女は、やはり見覚えがあって。
「どうかされましたか、甚殿?」
席に座り蕎麦を啜っていた、生真面目そうな武士が首を傾げる。
みんな、みんなどこかで見たことがある。
まだ幼かった、三歳か四歳の頃。微かにだが野茉莉は覚えていた。
思い出した。此処は鬼そばではなく、喜兵衛だ。
店主のおじさんに、おふうさんに、直次おじさん。
もう過ぎ去ってしまった、江戸で過ごした懐かしい日々だった。
「なんで……」
あの頃は小さかった。記憶はもうあやふやで、明確な思い出なんてない。
なのに、なんでこんな景色を今更夢に見るのか。
野茉莉はこの夢の意味が分からない。ただ目の前の景色に立ち尽くしていた。
「ふうん、その子があんたの娘?」
聞き慣れない声だった。
視線の方に目を向ける。野茉莉の意思ではなく、またも体が勝手に動いた。
品のいい赤の着物を着た、気の強そうな少女。年の頃はおふうと同じくらいだろうか。
懐かしい場所。なのに、その少女は見覚えが無い。昔のことを夢に見ているのだと思った、だから野茉莉は戸惑った。
しかし件の少女はこちらの戸惑いなど知らない風で微笑んでいる。
「あの、貴女は?」
この問いは、野茉莉の意思から零れ落ちたものだ。純粋に、彼女が何者なのかを知りたかった。
「私? 私は■■」
「え?」
名乗ってくれたのだろう。でも雑音に掻き消されて聞こえない。
もう一度聞き返そうとしたけれど、被せるように少女が言う。
「よろしく、■■■ちゃん」
何故か、彼女が呼んだ野茉莉の名前もまた、雑音に掻き消された。