凛とした佇まいを見せる青緑の竹林が、風に揺られて“ざあぁ”と鳴く。
京都・嵯峨野は桜や紅葉の時期は人通りも多くなり喧噪に包まれるが、少し時期を外せば清澄な風情漂う昔ながらの京を味わえる。
まだ朝も早い。陽はようやっと登り始めたところで、嵯峨野の竹林に足を踏み入れる者もいない。
薄明るい空の下、静けさが染み渡る竹藪の中に甚夜はいた。
右手には夜来、左手には夜刀守兼臣。
二刀を手に構え、腰を落し周囲に意識を飛ばす。
ざわめくような葉擦れの音に紛れ、獣の呻きが聞こえた。
竹林の影から姿を現したのは、鮮やかな黄と黒の縞模様の毛衣の獣。
「虎と竹林か。随分と風情のあることだ」
竹林の中に潜む虎は、しばしば水墨画などで見られる題材だ。
確かに風情はあるかもしれないが、現状を顧みれば抱く感想としては間違いかもしれない。虎は明らかにこちらを見ており、今にも飛び掛かろうと地に爪を立てていた。
ひゅう、と風が鳴いた。
鞭を思わせるしなやかな筋肉が躍動し、巨大な四足獣はその大きさに見合わぬ速度で疾走する。
爪も牙も生来のものだが、鍛えた刃に匹敵する凶器だ。人であれば数瞬もせぬうちに肉塊と化す。
甚夜は鬼、膂力を競っても押し負けはしない。<剛力>を使えば肉塊になるのはあちらだ。しかし敢えて剣で相対することを選んだ。
二刀を持って受けに回り、突進をいなしながら左に踏み込み、そのまま後方へと流す。
手が少し痺れた。上手く捌けたかと思ったが、まだ無駄がある。更に意識を研ぎ澄まし、次の手に備える。
ひゅるりと一羽燕が飛んだ。
滑空する燕は空中で翻り、一直線に甚夜へと向かう。
風を切る甲高い音、視認も難しい速度で襲い来る燕。最高速に達したそれは既に刃、首を掻っ切ろうと飛来する。
動作は最小限に、体勢を崩さぬように軸をずらし、皮膚に触れるか触れないかという距離で燕を躱す。
息を吐く暇もない。次いで現れたのは三匹の黒い犬。
雄叫びを上げて駈け出し牙を剥く。右足を踏み込むと同時に夜来を振るいまずは一匹しとめる。右足は軸、左足で半円を描くように後ろへ引きながら夜刀守兼臣の横薙ぎの一刀。二匹目を斬り捨てるも体が僅かに流れた。
好機とばかりに再び燕が舞う。斬った筈の犬の体も再生し、再度駆ける。
燕は兎も角犬の方はある程度の再生能力を有している。真面に相手をするだけ無駄、甚夜は刀を握ったまま左腕を突き出す。
「<地縛>」
短い言葉により生み出されたのは四本の鎖。
<地縛>は鎖を造り操る<力>。一本一本神経が通っているかのように細やかな操作が可能だ。
じゃらじゃらと音を立てながら鎖は空を這う。まるで蛇のように、襲い来る犬どもを絡め取った。
次は燕、その後方から虎も地を蹴った。二体同時。先程は刀を振るった後、僅かに体が流れた。大振り過ぎたのだ。だから今度は動きを修正する。
摺足で位置を調節し、刃となった燕を見据える。速い、だが捉えられない程ではない。半歩左足を前に、肘を起点にあくまで小さくあくまで丁寧に夜刀守兼臣を振るう。
すぅ、と軽い手応え。燕を斬り捨て、体を捌きながら、滑らせるように右足で踏み込み、突進する虎の側面に回り込む。踏ん張ると同時に体を回し二刀連撃、上から下へ叩き付ける。断末魔のうなり声を上げ、虎はそのまま地に伏した。
燕も犬もまた白い蒸気となって消えていく。それを確認して、ようやく甚夜はふうと一息を吐いた。
「よっ、お見事」
ぱちぱちと柏手を打ちながら染吾郎が姿を現す。
「僕の虎の子が一発かぁ……ま、張子の虎やけどね」
燕、犬神、張子の虎。全て染吾郎の付喪神だ。
鍛錬自体は普段から行っているが、今回は染吾郎に付き合ってもらった。というのも、鍛錬の成果を見たかったからである。
夜刀守兼臣を手に入れ、<地縛>を喰った。しかしながら二刀を扱う技術は身に着けておらず、鎖での戦い方もまた然り。
その為使いこなせるよう二刀での鍛錬を繰り返していたのだが、ようやく形になったので染吾郎に相手をしてもらった。
結果は中の下、といったところか。まだまだ拙いが、使えないというほどでもない。これならば実戦でもそれなりにはやれるだろう。
「悪いな、付き合わせた」
「気にせんでええて。で、満足できた?」
「……正直に言えば、多少不満が残る」
「んん? 僕、なんやまずかった?」
首を横に振って否定の意を示す。
二刀の扱いはそこそこ、しかし引っ掛かるところもあった。
自身の左手を眺めながら、甚夜は目を細める。引っ掛かりを覚えたのはたった今使った<力>、<地縛>に関してだ。
「……地縛は六本、元々は七本の鎖を操ったと聞いた。しかし私は四本が限界、行動や<力>を縛ることも出来そうにない」
「つまり、<力>が劣化しとる?」
「ああ。こんなことは初めてだ」
例えば、甚夜は<不抜>を土浦のようには使えない。
<不抜>は壊れない体を構築する<力>。その代償として使用中は体を動かすことが出来ない。
言い換えれば体を動かしていない状態でなければ、発動自体が不可能だ。
だから甚夜では、土浦ほど早く壊れない体を構築できない。
力量こそ互角であったが、攻撃が当たる刹那を見切る目や<力>を使うために体を静止状態へと持っていく身体操作技術が土浦に及ばないからだ。
だが<地縛>に関しては違う。
もともとは「七本の鎖を操り、鎖一本につき何か一つを制限する<力>」だった。
だというのに今は「四本の鎖を操る<力>」になってしまっている。扱う側の技術の問題ではなく、<力>自体が弱まっているのだ。
疑問に眉を顰めていると、染吾郎は軽い調子で言った。
「いや、別に不思議やないんちゃう? 地縛はもともとマガツメの一部。そんなら<力>もマガツメの切れっぱしみたいなもんなんやろ」
だから、“大本”を喰わない限り<力>は十全に使えない。
そこまでは言葉にしなかった。マガツメが甚夜の妹だと知ったからだ。口にすれば妹を喰えと言ったも同然、だから言えなかった。
「成程」
その心遣いが分かったから、取り敢えずは納得して夜来を鞘に収める。
肺に溜まった熱を吐き出し、息を整える。むせ返るほどに濃い緑の匂い。夏の気配がそこかしこに感じられる朝の空気が肺を満たせば、少しだけ気が楽になった。
「染吾郎、助かった」
「だからええて、こんくらい。偶には僕も気合入れとかな、いざって時戦えんようなるし。……ところで、気になったんやけど。君、刀一本の方が強ない?」
自分でも思っていたことを指摘されてしまった。
その言葉に返したのは甚夜ではなく、まだ鞘に収めていない夜刀守兼臣だった。
『……秋津様は本当に失礼ですね』
口もないのに声を発する。これが夜刀守兼臣の<力>、刀に宿った人格。名を<御影>という。
「いや、実際動きぎこちないとこあったし。今まで通りの戦い方の方がええと思うけどなぁ」
当然と言えば当然だ。
数十年の間、夜来一本で戦ってきた。二刀での鍛錬など一年足らず。付け焼刃の技で今まで培ってきた己を超えられる筈もない。だから染吾郎の言っていることに間違いはなかった。
「だろうな。私もそう思う」
「は? ならなんでこんな無駄な鍛錬しとんの?」
あまりにも返答が自然すぎて呆気にとられる。
当の本人は普段通りの無表情で言葉を続けた。
「私は地縛を、南雲和紗の魂を喰った。ならば兼臣を預かるのは私の責任だろう」
気負いのない様子から、それが本心だと知れる。
だからこそ染吾郎は眉を顰めた。
甚夜がマガツメを止めようとしているのは知っている。その為に力を求めていることも。
だというのに態々隙を作るような真似をする。彼の真意を探ろうと更に問いを続ける。
「預かるのが責任やゆうんなら、別に使う必要はないんちゃう?」
しかしその問いは一瞬で斬って捨てられた。
「馬鹿なことを言うな」
『まったくです。使われぬ刀に何の意味がありましょう』
そのあまりの息の揃い様に染吾郎は溜息を吐いた。
「で、そない理由で使い慣れん刀で戦うん? 弱なるて分かっとんのに?」
頷いて肯定の意を示す。
強くなりたかった。それが全てと思っていた頃もあった。
目的に専心し、あらゆるものを斬り捨て、そう在れたらと願っていた。
「それでも曲げられないものもある。刀と共に在った半生だ。ならばこそ、刀として生きた同胞の心を無下にすることは出来なかった。その主を喰った以上、尚更な」
けれど心は変わる。傍から見れば無駄な拘りも、大切だと思えるようになった。
だから甚夜は兼臣を使うと決めた。
あの娘を止める為に力を求めた、それは今も変わらない。
結局、どこまで行っても彼は生き方を曲げられない。
ただ、大切にしたいと思えるものが増えただけ。
───間違えた生き方、その途中で拾ってきた大切なものが、正しく大切なものであると証明する為に。
兼臣を使うと決めた。合理性の欠片もない、意味のない感傷だ。しかし、そういう道を選べるようになった自分は、そんなに嫌いではなかった。
『流石旦那様です』
「まだ言うか」
兼臣の声は満足気だった。
傍から見れば下らない意地、それを捨て切れない無様な男。しかし廃刀令が施行され、時代に取り残された兼臣には、甚夜の在り方が尊く思える。自分を使ってくれることよりも、刀に拘る古い男がいてくれることに喜びを感じた。
「兼臣はそれでええやろうけど……例えば、慣れん戦いでもし死んだら?」
「後悔するだろう。だから、こうやって死なぬよう鍛錬をしている」
呆れてしまう。
兼臣を持たなければそれでいいだけの話だ。だというのに要らぬ苦労を背負い込んで、それを当然とでも言わんばかりの態度。元々合理的に動ける男ではないと知ってはいたが、ここまでとは。
「うん、君って心底めんどくさい性格しとるなぁ」
「どうやらそうらしい。まったく、難儀なことだ」
「いや、自分のことやからね?」
もう一度溜息を吐き、染吾郎は呆れながらも納得はしたようだ。
「ま、君が納得しとるんならええけど。きっと、兼臣の収まり所はそこやったんやろ」
甚夜の腰、携えた鞘を眺めながらどこか楽しげに言う。
言葉の意味は分からない。今度は甚夜の方が呆気にとられる番だった。
「物やって、持ち主くらい自分で選ぶって話や」
そうして染吾郎はからからと笑った。
◆
朝の鍛錬を終えて、染吾郎と別れ鬼そばへと戻る。少し遅くなってしまった。そろそろ仕込みを始めないといけない。
着替えて、いつものように店の準備をしている途中でふと気づく。野茉莉の顔をまだ見ていない。普段ならこの時間には起きているのだが、如何やら今日はまだ寝ているらしい。
気になって店の奥、住居部分に向かう。野茉莉の部屋、襖を開けようとして、ぴたりと手が止まった。起こそうと思ったが、確認もせず部屋に入るのと嫌がられるかもしれない。そう思うと手が動かず、とりあえず襖は開けずに声を掛ける。
「野茉莉、起きているか」
返事はない。もう一度声を掛けるがやはり何の反応もない。
流石に不安を覚え、少し躊躇いはしたが襖を開け部屋に入る。
もしかしたら倒れているのでは、とも思ったがどうやら違ったようだ。野茉莉は安らかに寝息を立てている。ただ単に眠っていただけらしい。
「野茉莉、朝だ」
近付いて声を掛けると、ようやく反応があった。
少し身動ぎをして薄らと瞼を持ち上げる。
「父様……?」
寝ぼけているのか、野茉莉はとろんとした目で甚夜を見上げている。
幼い頃から寝起きがよかったから、こういう顔を見るのは初めてだった。
「大丈夫か。体調でも」
「ううん、だいじょうぶ。すぐ、おきるから」
まだ眠そうにしているせいだろう。何処か甘えたような声。まるで昔に戻ったようだ。
少しだけ感慨に耽り、目を覚ましたならいつまでも此処に居る必要もないと部屋を出る。
なんとなく野茉莉の様子に違和感を覚えながらも、甚夜は朝食の準備に戻った。
「ねえ、父様」
卓袱台を挟んで迎え合わせに座り朝食をとっていると、珍しいことに野茉莉の方から話しかけてきた。
「どうした」
話し掛けたはいいが何かを言いあぐね、視線をさ迷わせている。そうしてしばらくしてから、意を決したように野茉莉は甚夜の目をまっすぐに見据えた。
「あの、ね。昔、父様ってお蕎麦屋さんによく通ってたよね?」
「あぁ……」
今でもよく覚えている。
蕎麦屋『喜兵衛』。
あの店で過ごした時間は甚夜にとってかけがえのないものだった。間違えた生き方、その途中で出会えた得難き暖かさ。
憎しみの為に刀を振るい、ただ力だけを求めた。その生き方を僅かながらに変えられたのは、間違いなく喜兵衛で出会った人々のおかげだ。
「忘れる筈もない」
「それなら……いつも店に来てた人のことも、覚えてる?」
「勿論だ。と言っても私を除けば直次くらいだったが。それがどうした?」
なぜ急に喜兵衛の話をし出したのか分からず逆に聞き返すと、困ったように野茉莉は俯いてしまった。少しの間唸り、もう一度顔を上げ、おずおずと再び問い掛ける。
「他に、いなかった?」
「ん?」
「だから、いつもの人。店主のおじさんと、おふうさんと。後直次おじさんと。……後、女の人」
喜兵衛にいる女。
一番最初に浮かんだのはやはりおふうの顔。凛とした立ち姿、そしてたおやかな笑みだった。
それ以外となると。
考えて、どこか生意気そうな娘の笑顔を思い出し、甚夜は少しだけ目を細めた。
「……ああ、いたよ」
確かにいた。
何かの間違いがあったのなら、妹になっていたかもしれない娘だ。
なのに、この手で彼女の大切なものを奪ってしまった。
懐かしさを感じながらも僅かに眉を顰める。噛み締めた後悔は、少しばかり苦みが強すぎた。
とは言え娘の前で無様を晒す訳にもいくまい。努めて平静な顔を作ってみせる。
「しかし、何故知っている。会ったことはないと思うが」
こういうのも歳の功なのだろうか。表情に動揺はなく、声も全く震えなかった。
「えっ!? あの、えーと、秋津さん! 秋津さんが、教えてくれたの!」
「そうか……口の軽い男だ」
ふう、と溜息を吐いて見せれば野茉莉はあきらかにほっとしていた。
だから染吾郎が教えたのではないと分かる。
しかし追及することはしなかった。
今の質問にどういう意味があったのかは分からない。ただ野茉莉の表情は真剣で、決して興味本位ではなかったから、問い詰めるような真似はしたくなかった。
ただ気にかかることもある。
染吾郎が話したのではないとすれば、一体誰が。
あの頃を知っている人間は多くない。店主と直次は既に死んでいる。おふう……ではないだろう。
何者かも目的も分からない。だが、もしも野茉莉に近付きよからぬことを企む輩がいるのならば、相応の対処をせねばなるまい。
「野茉莉、あまり危ないことはするなよ」
「う、ん。分かってる」
それきり会話は途絶えた。
少し注意しなければいけないかもしれない。味噌汁を啜りながら、甚夜はそう思った。
◆
いつも通りの日が過ぎ、夜がまた訪れる。
寝床に戻った野茉莉は布団の上で寝転がりながら溜息を吐いた。
『秋津さんが、教えてくれたの』
嘘を吐いた。
当たり前のように父を騙してしまった自分が情けなく思える。
いつからこんな風になってしまったんだろう。素直にものを言えなくなって、嘘までついて。子供の頃はこんな風じゃなかった。もっと、違ったような気がする。
なのに、今は上手く喋ることが出来ない。
「……もう寝よ」
何だか妙に疲れて野茉莉は布団に潜り込んだ。
目を瞑ればすぐに眠気が襲ってきて。
深く、深く眠りについた。
夢を見ている。
蕎麦屋『喜兵衛』で、父と並び蕎麦を食べる。
店主、おふう、直次。懐かしい顔に紛れて、知らない女が一人。
「最近はどうです、善二さん」
そして知らない男の人もいた。
店主が声を掛けた男の人は善二というらしい。けれど女の方の名前は分からない。
「あーまあ、ぼちぼちやってます。やっぱり番頭になるとやることが多くて」
「そりゃそうよ。お父様を別にしたら、あんたがうちで一番偉いんだから。えらくなったらなった分の責任があるに決まってるじゃない」
「分かってますって御嬢さん」
善二は名も知らぬ女のことを“御嬢さん”と呼ぶ。けれど他の人が呼ぶと、やはり雑音に掻き消されてしまい、結局彼女の名を知ることは出来なかった。
彼女達は一体誰なのだろう。
忘れているのではなく、本当に知らない。蕎麦屋の店の中はあの頃と同じで、だからこそ彼女達の存在には酷く違和感があった。
「どうした、■■」
甚夜が野茉莉を呼んだ。その筈なのに、名前はまた雑音に掻き消された。
夢の話だ。気にするようなことではない。そう思うのに、夢でありながら頭がはっきりとしているせいで、余計なことまで考えてしまう。
「■■ちゃん」
思考に没頭しようとした時、遮るように“御嬢さん”が声を掛けてきた。
自分と同じ歳か、少し上くらいだろうか。口調や気の強そうな態度とは裏腹に立ち振る舞いは綺麗だ。御嬢さんという呼ばれ方からすると良家の子女なのかもしれない。
「は、はいっ!?」
思わず声が上ずってしまった。
野茉莉の様子を見ていた甚夜が表情も変えずに言う。
「そんなに緊張する相手でもないだろう」
「あんた、何気に失礼ね」
不満そうに見えて、“御嬢さん”は楽しげだった。
和やかな空気に揺蕩いながら、野茉莉は夢を眺めている。
昨日の夢の続き。ここまで明確に続く夢なんて、まともじゃない。そう思ったが、嫌なものは感じなかった。寧ろ暖かくさえある。だからよく分からないが、もう少し見ているのも悪くないと思えた。
「馳走になった」
先に蕎麦を食べ終えた父がじゃらりと銭を机の上に置く。そして立ち上がり、腰に携えた刀の位置を直した。
「今日も、ですか?」
それを目敏く見付けたのはおふうだった。僅かな動作から察した。これから甚夜は鬼を討ちに行く。昔も今も変わることのない、彼の生き方だった。
「ああ」
おふうの問いかけに父は表情も変えず頷く。
「本当に、甚夜君は変わりませんね」
「悪いな、性分だ」
「もう……」
おふうの出す、呆れたような、それでも優しいと感じられる声。
触れ合える距離が二人の親しさを示している。父はいつも通りの無表情で、けれど寛いでいるようにも見えた。
「あまり無茶したら駄目ですよ」
「ああ」
「ちゃんと、帰ってきてくださいね」
「分かっている。そう心配するな」
ちくりと胸の奥が痛んだ。
昔から何となく感じていた。でも、今こうやって見返してみて、ハッキリと分かってしまった。
二人の間には、他の人には入り込めない何かがある。
言葉を掛け合っているように見えて、本当は、何も言わないでも分かり合えるような。
そういう一瞬が、そういう何かが、二人にはある。
だから寂しいと思ってしまった。
そしてそれは、
「あ……」
“御嬢さん”も一緒なのだろう。
「声、かけないんですか?」
気付けばそう問うていた。
“御嬢さん”の横顔は少しだけ寂しそうで、きっと、自分と同じように感じているのだと思った。
「私が傷つけてしまった人だから。あんまり、ね」
目を伏せて、静かに笑う。
名前も知らない女。なのに、当たり前のように会話が出来た。
「彼に酷いことを言ったの」
「なら、謝ればいいのに」
「……うん、そうできれば、よかったのにね」
“御嬢さん”は肩を竦めて、まるで子供をあやすような柔らかい笑みを浮かべた。
「本当は、謝りたかったの。でも会いに行けなかった……自分が傷つけたくせに、傷付いた彼と会うのが怖かった」
「怖かった?」
「うん。これでも昔はそれなりに仲が良かったのよ。だからきっと、謝ったら許してくれたと思う」
最初は生意気そうに見えたが、“御嬢さん”は意外にも穏やかだった。
見た目の年齢よりも大人びて見える。語り口はゆっくりと、思い出を眺めるようだ。
「でも彼の目は変わってしまうわ。以前のようには、私のことを見てくれない。会いに行って、謝ったら。もう二度と元には戻れないような気がして……それが怖くて。想像するだけで足がすくんで、結局謝りに行けなかったの。情けないわよね」
そんなことない。
素直に謝ることが出来ないのは野茉莉も同じだった。
本当は、言いたいことは沢山ある筈なのに。
いつだって、何も言えなくて。
「いってらっしゃい、甚夜君」
「ああ。行ってくる」
穏やかな二人のやり取りが突き刺さる。
野茉莉は、この夢を悲しいと思った。