これで四度目、いや、五度目だったろうか。
 野茉莉はまた夢を見ていた。
 流れはいつも変わらない。蕎麦屋・喜兵衛に父と向かい、そこで雑談をしながら蕎麦を食べ、終われば父が鬼退治へ行くのを見送る。
 その後は、“御嬢さん”と一頻り話す。
“御嬢さん”と喋っている間は誰も声を掛けてこない。というよりも、何故か誰の姿も見えなくなってしまう。そこまで考えて、何故かも何も、これは夢なのだからそういうものなのだと気付く。
 ともかく野茉莉は今夜も喜兵衛で、“御嬢さん”と二人きりになっていた。
「子供の頃は餅なんかめ滅多に食べられなかったから、磯辺餅が今でも好きだって言ってた。それを知っているのが私だけってことが、なんだかとても嬉しかったなぁ」
「へえ、そうなんですか」
 話題はやはり父のこと。“御嬢さん”は野茉莉の知らない父の姿を知っている。それを聞くのが楽しくて、この夢が何であるかなんて既にどうでもよくなっていた。
「……聞きたいことがあるんですけど」
「なに? ■■ちゃん」
 やはり名前は雑音に掻き消されたが、それにも慣れた。気にすることなく問いを続ける。
「父様とは、あの、どういう」
 直接的な表現は流石に照れるので何とか遠まわしに聞こうとしたが、上手く言葉にならない。なんと言えばいいのか分からずまごついていると、くすりと“御嬢さん”は笑った。
「お父さんとの関係?」
 そうだ。
 この女の人のことを野茉莉は知らない。つまり彼女は、父が自分を拾う前の知り合いなのだ。
 だから父と彼女がどういう関係にあったのかが気になった。
「その……はい」
 言い当てられて恥ずかしそうに野茉莉は頷いた。
 それを見てもう一度静かに笑い、どこか寂しそうに彼女は答えた。
「さあ、どうだったのかな」
 軽い口調で、誤魔化すような物言い。「真面目に答えてください」。そう言おうとして、言えなかった。
 彼女はここではない何処か遠くを眺めている。下手なことを言えば、彼女を傷付けてしまうと思った。
 感情の色が見えない透明な横顔からは、内心を窺うことは出来ない。
 沈黙が重すぎて、耐えかねた野茉莉はおずおずと問うた。
「好き、だったんですか?」
 けれど、彼女にとって父が特別な存在だったことだけは理解できた。
「今はもう、分からないわ」
 呆れたような、疲れたような、不思議な笑み。
 複雑なその表情。彼女自身、自分の気持ちを掴みかねているのかもしれない。
「ただね、あなたのお父さんと私は、似た者同士だったの」
「似た者同士?」
「そう。強がってるけど、本当は弱くて。だからね、あいつの傍にいると安心した。同じ痛みを感じてくれるから」
 でも、と“御嬢さん”は悲しそうに目を伏せた。
「私は雀から変われなかった。結局、それが全てなんだと思うわ」
 諦めにも似た、力ない言葉。
 その意味を問おうとして、けれど、そこで夢から覚めた。
 ***   ***
「御じょ……女の人とは、どういう関係だったの?」
 夕食を取りながら、野茉莉はまたも甚夜に質問をしていた。
 
「ん?」
「蕎麦屋さんに来てたっていう女の人」
「またその話か」
 最近、野茉莉はあの娘のことばかり聞いてくる。何故そこまで興味を持つのか、甚夜は計りかねていた。
 ただここ数日、不審な輩が野茉莉に接触するような場面はなかった。あの娘のことは、誰かに吹き込まれた訳ではないようだ。
 とすると、人の理から食み出た“なにか”によって知識を与えられたのか。
 例えば過去の映像を見せる<力>だとか。
 もしそうならば、こちらから打てる手はない。別段衰弱している様子もなし、取り敢えずは様子見を続けるしかなさそうだった。
「友人、だった思う。だが、もしかしたら家族になったかもしれない相手だ」
 もし何かの間違いがあれば、心底惚れた女のと出会わなかった代わりに、妹になっていたかもしれない。
 だからだろう。
 どんなに生意気でも怒る気にはなれなかった。
「じゃあ、好きだったんだ」
「嫌いではなかったな」
「なのに、会いに行かなかったの?」
 突飛な言葉に眉を顰める。
 流石に話が飛び過ぎたと思ったのか、慌てたように野茉莉が付け加えた。
「喧嘩して、仲直りできなかったって言ってた。あ、えと、秋津さんが、だけど」
 本当のことは隠しておきたいらしく、やはり野茉莉は嘘を吐いた。
 追及はしないが、少し寂しくも思う。
この子も大きくなった。秘密くらい出来るし、その為なら嘘も吐く。当たり前のことだ。
 なのに、当たり前のことが胸に痛い。
 そう思ってしまうのは自分が弱くなったからなのだろう。
「私が、傷付けてしまった女(ひと)だ。合わせる顔が無かった」
 痛みを誤魔化すように素っ気なく答えた。 
 しかしそれを聞いて、野茉莉は何故か一瞬動揺を見せた。
「え……?」
「どうした」
「……ううん、別に」
 ふるふると首を横に振って、何でもないと示してみせる。そして遠慮がちに聞いてきた。
「謝ったりは、しなかったの?」
「謝ってどうする」
 甚夜は表情も変えず、間髪入れずに答えた。
「私は、彼女の大事なものを奪ってしまった。許せるものではないだろうし、よしんば許せたとて失われたものが返ることはない」
「それは、そうかもしれないけど」
「謝ったところで彼女の負担を増やすだけだ。そう思えば、逢いに行くのは憚られた」
 だが、と甚夜は目を伏せた。
「それでも、時折考えるよ。もしもあの時、もう少し上手くやれたなら。或いは違う今が在ったのではないか、とな」
 懐かしむような、でも力ない声。
 それは何処かの誰かの嘆きによく似ていた。
 
「ふうん」
 甚夜としては素直な感情を吐露しただけだった。
 しかし話を聞き終えた野茉莉は一目でわかる程にいらついていた。
 
「どうした」
「別に」
 いきなりすぎる態度の変化に驚く。返事もは素っ気なく、目も逸らされてしまった。
「しかし」
「だから何でもないって。ごちそうさま。もう寝るね」
 野茉莉はそう言って食卓から離れる。妙に思い声を掛けた。
「随分と、早いな」
「……なんか、眠くて。おやすみなさい」
 それだけ残し、振り返ることなく部屋へと戻る。
 足音がよく響く。人一人いなくなっただけ。なのに居間は随分と広くなったように感じられた。 
 ***   ***
 今も、雪が、止むことはなく。
 ◆
 今日の夢は、いつもとは違った。
 何処かの大きな家。縁側に“御嬢さん”並んで座り、庭を眺めている。
 雪が降っている。それでも寒いと思わないのは、やはり夢だからだろうか。
『そうだな。変わらないものなどない。だが鬼は変われない。だからこそこの鬼は生まれた。これは、立ち止まってしまった想いだ』
 父は焼けただれたような皮膚の、醜悪な鬼と対峙している。
 抜刀し、脇構えを取った。
 そうして一気に踏み込み、腰の回転で刀を横一文字に振るう。
『今を生きる者達にお前は邪魔だ、失せろ』
 それで終わり。
 一太刀の元に、鬼は両断された。
 そこで父の姿も鬼の死骸もなくなり、平穏な雪の庭だけが残された。
「昔ね、あなたのお父さんが護衛をしてくれたことがあった。本当に強くて、ああ
、読本の中の剣豪が目の前にいるって思ったわ」
 懐かしさに目を細める。
 語る声は暖かくて、彼女の気持ちが滲んでいるようだ。
 それが嬉しいようで、自分の知らない父の姿を知ってることがちくりと胸に痛いような、複雑な気持ちで話を聞いていた。
「■■ちゃん、今日は元気ないわね?」
 穏やかな様子で聞かれて、何故か惨めな気持ちになる。
 でもこれは夢だ。そう思えば、素直に言葉は零れていた。
「父様、貴女のことが好きだったのかな」
 もしかしたら家族になっていたかもしれないと言っていた。
 きっと二人は恋仲だったのだろう。結婚の約束までしていたのかもしれない。
 ───それでも、時折考えるよ。
   もしもあの時、もう少し上手くやれたなら。或いは違う今が在ったのではないか、とな。
 懐かしむような声に苛立って、傷付いている自分を野茉莉は自覚した。
 だってその言葉は、“今”よりも望んでいた未来があったということだ。
「あいつの気持ちなんて分からないけど。私は……もしかしたら。貴女の言う通り、好きだったのかもしれないわね」
 ああ、やっぱり。
 それは、つまり───
「でも恋じゃなかったわ」
 けれど否定の言葉が紡がれ、意味が分からず野茉莉は“御嬢さん”の横顔を見つめた。
 痛みを感じさせない、穏やかな表情だった。
「え……?」
「私は、あいつの弱さに気付いてたのに。抱えているものの重さを考えてあげられなかった。その時点で、私の想いは恋じゃなかったの、多分ね」
 それが悲しいのか、寂しいのか。目は僅かに潤んでいる。
 だから野茉莉は何も言えなくなった。
「私は雀なの。羽毛を精一杯膨らませて、冬の寒さに耐えることしか出来ない雀。そんなだから、冬を越した時あの人はもう傍にいなかった。馬鹿みたいね」
 自嘲の笑みに、何故か自分が重なる。
 何故か、ではない。
 なんとなく、この不可解な夢の中で、こんなにも穏やかな会話ができる理由を野茉莉は理解した。
 ───この人は、私といっしょなのだ。
 言いたいことも言えずに、自分の想像に怯えている。 
 
「お父さんと、なにかあった?」
 語り終えて、優しい、まるで母親のような微笑みで彼女はそう言った。
 声には出さず、頷くことで返事をする。
「なら、もう少しここにいる?」
 少し迷った。
 でも、直ぐに変えるのは躊躇われて、もう一度頷く。
 仕方ないなぁとでも言うように、“御嬢さん”は肩を竦めた。
 そして雪は止むことなく、辺りを白く染め上げる。
 ***   ***
「は? 野茉莉ちゃんが目ぇ覚まさん?」
 昼飯を食べようと鬼そばへ訪れたが、暖簾が出ていない。
 何かあったかと思い染吾郎は勝手に店へと入ったのだが、そこで目にしたのは焦燥した様子の甚夜が項垂れている姿だった。
 案内されるがままに、野茉莉の部屋へと向かう。
 片付けられた室内。机の上には平吉の土産がそのまま転がされていた。
「何度も声を掛けたが反応はない。医者にも見せたが異常はないらしい。状態としては眠っているだけ。なのに、目を覚まさない」
 体を屈め、野茉莉に手を触れる。
 暖かい。脈も正常。規則正しい寝息。一見何の問題もないように思える。
 ただ、目を覚まさない。
「いったい、どうすれば」
 余裕のない語り口だった。
 普段の無表情は崩れ、動揺を隠すことが出来ていない。
 
『旦那様、落ち着いてください』
「分かっている。分かっているが」
『それが、落ち着いていないというのです』
 ぴしゃりと兼臣は叱りつけた。
 甚夜はぐっと黙り込んだ。表情は分からないが、彼女の物言いには毅然としたものが感じられた。
『貴方の想いを分かるとは言いません。ですが、此処で動揺してどうするのです。野茉莉さんを想えばこそ、まずは貴方が冷静にならなければ』
 兼臣の言う通りだ。
 慌てた所で意味はない。野茉莉に何かがあったのは間違いない、ならばその“なにか”を見つけるのが自分の役目だろう。
「……そうだな。済まない」
『いええ、貴女の妻ですから』
「まだ言うか」
 甚夜の纏う空気が変わったのを感じ、兼臣も声を和らげた。
 取り敢えずは多少落ち着いたようだ。染吾郎も安堵して軽口をたたく。
「なんや、結構うまくやってるみたいやね」
『勿論です』
 勝ち誇るような言い方に思わず苦笑が漏れる。しかし一転表情を引き締め、眠り続ける野茉莉を見る。
「取り敢えず、甚夜は傍にいたり。僕の方で調べてみるわ」
「……助かる」
 甚夜は腰を下ろし、野茉莉の手を握った。
 滑らかで小さく、とても暖かい。
 歳を取れない自分では、いつまでもこの娘と共に在ることは出来ない。
 いつかは離れていく手だと知っている。
 しかし叶うならば、もう少しの間だけ傍に在ってほしいと思った。
 
 ***   ***
 雪は今も尚降りしきる。
 野茉莉は白い夢を見ている。長い長い夢だ。
『なんだ、忘れてた訳じゃないのね」』
『いや、思い出すのに時間がかかった。前はもう少し幼かったしな』
『そう、三年も経ってるから仕方ないとは思うけど。でも、あんたは全然変わってないわね』
『あまり老けん性質(たち)だ』
『世の女の人の大半を敵に回すわよ、それ』
 偶然の再会。あの時と同じように彼は助けてくれた。
『時々、自分でも分からなくなる時があるんだ。何故こんなことをしているのか』
『何よそれ』
『事実だから仕方ない。だが敢えて言うならば……多分、私にはそれしかないんだろう』
 茶屋で磯辺餅を食べながら語り合う。
 強いと思っていた彼の弱さを知った。
『兄と呼ばれるのは苦手なんだ』
『え?』
『私は最後まで兄でいてやることが出来なかった。だから苦手……ああ、違うな。多分、自分の弱さを見つけられたようで、嫌な気分になるんだ』
 雪柳の下。彼は弱くて、
『ええ。きっと私達は、想いの帰るべき場所を探して、長い長い時を旅するのです』
『見つかるだろうか』
『見つけるのです。きっと、その為の命なのでしょう』
 でも少しずつ変わる。それが何故か嬉しかった。
『二人とも、どうしたの?』
『何でもありませんよ』
『ああ、何でもない』
 彼と蕎麦屋の娘。二人の間には、他の人にはない何かがある。
 それを見せつけられるのがつらかった。
『金など要らん。少しくらいは付き合おう』
 危ないことを頼んでも、引き受けてくれた。
 庇うように前へ出てくれる。その背中の大きさを、多分頼もしいと思っていた。
 なのに───
 
 近寄らないで化け物ぉ!!
 降りしきる雪の夜。
 投げ付けた言葉で傷付けてしまった。
 彼を。今迄積み重ねたものを。
 ずっと形にすることが出来なかった、自分の心すらも。
「あいつは、私を助ける為にずっと隠してきた秘密を曝け出したのに」
 場面が変わる。先程も見た雪柳の下。
 春の花が咲くのに、雪はまだ降り続けている。
 白い花が雪に紛れて揺れている。綺麗だと思うのに、何故か少し寂しいとも思った。
 
「……なんであの時、違う言葉をかけてあげられなかったんだろう。そうすれば」
 なんとなく、気付いてしまった。 
 夢を見ている。でもこれは野茉莉の夢ではない。
 これは“御嬢さん”の夢なのだ。 
 彼女が繰り返し見る未練。その中に、自分は迷い込んでしまっただけ。
 だから名は雑音に掻き消される。
“御嬢さん”は野茉莉に会ったことが無い。名前を知らないから、彼女は野茉莉の名を呼ぶことが出来ない。
 でも、ならなんで“御嬢さん”の名前まで掻き消されるのか。
「あなたに、私の面影があったかもしれないのにね」
 その嘆きに、思考を止められた。
 首を振って彼女の言葉を否定する。そんなことは有り得ないのだ。
 だって、
「違うんです」
 あの人の、子供じゃないのだから。
「え?」
「私、捨て子なんです。父様が拾ってくれて、育ててくれて。本当は娘なんかじゃないんです」
 今まで吐き出すことの出来なかった想いだ。
 野茉莉は甚夜のことを本当の父だと思っていて、ちゃんとそれを伝えた。
 しかし聴くことは出来なかった。
“私のことを本当の娘だと思ってくれますか”なんて、聞けるはずがなかった。
 だってあの人は優しい。
 兼臣や朝顔といった、行く当てのない者達を家に泊めていた
 もしも自分もそうだったら?
 育ててくれたのは優しさからで、本当は、自分のことを娘だなんて思っていなかったら。
 それを考えると、聞けなかった。
「そう……」
「父様は優しくて、何も言わないけど。本当は私のことなんて邪魔なんじゃないかって。だって、私がいたって何の役にも立たない。兼臣さんや秋津さんみたいに戦えないし」
 本当は分かっている。父は邪魔だなんて思ってないことくらい。
 でも重荷になってるのは事実なのだ。
 助けられてばかりで、何も返せるものはない。
 子供の頃はまだよかった。無邪気に「いつか父様の母様になって、いっぱい甘やかしてあげる」なんて言っていた。
 あれから随分と時間が経って、背は高くなり、少しくらいは大人になれて。
 なのに相変わらず助けられてばかりで、父が居なければ何もできない自分がいる。
 辛かった。 
 何もしてあげられない自分が、たまらなく惨めだった。
「だから、だから」
 野茉莉は泣いていた。
 瞬きもせずに、すぅと涙が零れる。自分が何を言っているのかも分からない。
 でも後から後から涙は溢れて、止めることは出来なかった。
「よかった」
 暖かい声だった。
 泣きながら、それでも顔を上げ“御嬢さん”を見る。涙で滲んで輪郭さえはっきりしない。けれど彼女が柔らかく微笑んでいることだけ分かった。
「私は多分、あいつのことが好きだった。同じくらい弱いから、きっと支え合うことが出来ると思ってた。……支えて、あげたかった」
 それが彼女の未練。
 彼女もまた、父のことを守りたいと思っていた。
 結局、それが叶うことはなかったけれど。
「だけど……今はもう傍にいてくれる人がいるのね」
 本当に、安堵するような笑みだった。
「本当はとても脆くて、なのにそれを見せようとしてくれない人だから……あなたみたいな人が傍にいてくれてよかった」
 その笑顔が本当に真っ直ぐだったから。野茉莉は目を背けたくなった。
 真っ直ぐなものをまっすぐに受けられないのは、自分が歪んでしまったから。
 父が昔そう言っていた。
 きっとそれは正しい。彼女の笑顔を辛いと思うのは、真っ直ぐに成長できなかったからなのだろう
「……でも、私。父様にひどいことばっかりして、ひどいことばかり言って」
 傍にいてくれてよかった。
 そんなこと、父は思っていない。
 私は重荷にしかならない。
 いつか、きっとあの人も────
「あ……」
 そこでようやく野茉莉は気付いた。
 自分の気持ちに、父と上手く喋れなかった理由に。
 
 所詮は拾われた子供だ。
 明確な繋がりなどある筈もない。
 もしも父が、私のことを嫌いになってしまえば、もう親娘ではいられない。
 本当は心の何処かでずっとそう思っていた。
 結局のところ、野茉莉は怖かったのだ。
  
 いつか、“お前なんて拾わなければよかった”と思われるのが、何よりも怖かった。
 だからいい子になりたくて、でも、出来ないことはあまりに多すぎて。
 父に失望されるのも怖くて、声を掛けることさえ憚られた。
 そのまま時間が過ぎて、いつの間にか上手く喋ることが出来なくなった。
「馬鹿みたい。私、何やってるんだろう」
 上手く喋れない自分が苛立たしくて、父に八つ当たりをして。
 嫌われたくないのに、上手く言葉に出来なくて。
 優しい父に甘えて、なのに自分を愛してくれるなんて信じられなくて。
 想像に怯えて、口を閉ざす愚かな女。
 見せつけられた自分の弱さに野茉莉は震えた。
 こんな面倒な娘、きっと父も煩わしく思っている。
「きっと、父様も」
 そして決定的な科白を口にしようとして、
「私も、そうだった」
 穏やかな溜息と共に紡がれた彼女の言葉に遮られた。
 降りしきる白。この雪が止むことはない。この夢は、彼女が越えられなかった冬。だから今も、雪が、止むことはなく。彼女の想いは、此処で立ち止まっている。
 でも綺麗だと思った。
 辺りは真っ白に染まって、その中で色付いた彼女の笑顔は、やけに美しく見えた。
「自分に自信が無くて。本当は言いたことがいっぱいあった筈なのに、何にも言えなかった」
 助けられたのに、ありがとうって言えなかった。
 傷付けたのに、ごめんなさいって言えなかった。
 そうやって言えないことばかりを積み上げてきたから。
 最後に、さようならを伝えることさえ出来なくなってしまった。
「ちょっとしたきっかけで話さなくなって、仲直りできずいつの間にか時間が過ぎて……すれ違っても気付かなくなって。そうなって初めて気づいたわ。想いって薄れていくものなのね」
 くすりと笑う彼女に、悲しみの色はない。
 寧ろ足跡のない雪原を思わせる。淀みも汚れもない、真っ白な心だ。
「もう胸は痛くない。彼のことも、そんなこともあったなんて笑えるようになったわ。誰かを傷つけても、誰かに傷つけられも、いつかはそれを忘れられる。でもね、痛みと共に消えていくものだって確かにあるの」
 彼を傷付けてしまった。
 会えなくなって、別の誰かが支えてくれた。
 優しくて暖かくて、痛みも少しずつ薄れて。
 もう一度笑えるようになった頃、胸の中で燻っていた何かは、どこかに消えてしまっていた。
 本当に、大切だった筈なのに。
 今では思い出すことさえ出来ない。
「あなたはそうなっちゃ駄目よ」
 だから彼女は言う。
 最後の未練を吐き出すように、優しく、そして力強く。
「もう私には、あの頃の想いは思い出せないけれど。まだ、あなたは間に合うでしょう?」
 冬の夜。
 吹く風に冷たさは感じない。それどころか暖かいと思う。
 もしここが彼女の夢ならば、暖かいのはきっと彼女の心なのだろう。
「でも」
「大丈夫、ほんの少し素直になるだけでいいの。あいつ、あれで結構そういうのに弱いんだから」
 白く染まる景色。その中で彼女は笑う。
「……私には、それが出来なかった。だから、あなたが支えてあげて」
 言えなかった想いは降り積もる雪のようだ。
 たとえそれがどんなに美しい情景だったとしても。
 季節は巡り、春は訪れる。
 暖かな陽光の中で雪は溶けて流れていく。
 そうやって日々は過ぎて往くものなのだ。
「なんで、私にそんな話を?」
 野茉莉は自然にそう問うていた。
 この夢は“御嬢さん”の未練。けれど、これを見せてくれたのは、野茉莉の為だったように思う。
 何故そんなことをしてくれたのか、純粋に知りたかった。
「そうね……多分、借りを返したかったのよ」
「借り?」
「そう。あいつが、私達を親娘にしてくれたから。その借りをね」
 遠くを眺めるような目。
 野茉莉には意味が分からない。しかし説明する気はなかった。
 代わりに彼女はこう付け加える。
「まぁ、なんだ。親孝行はしておいた方がいい、という話だよ」
 似ていない口真似。それが誰の科白なのかは、野茉莉にも分かった。
「あの」
「なに?」
 自分では形に出来なかった想いを託してくれた、名も知らぬ女。
 その優しさに少しでも報いたいと思う。だから野茉莉は言った。
「あなたは、恋をしてたと思います。ちゃんと、父様を好きでいてくれました」
 せめて彼女の想いが何の意味もなかったものになってしまわないよう、あやふやな想いの輪郭を縁取るように、はっきりと。
「……ありがと」
 彼女の心は分からない。
 だけど少しだけ雪が弱まった。だから、ちゃんと彼女に何かをしてあげられたのだと思えた。
「今更だけど、名前……名前を」
 何度も雑音に掻き消された。でも今なら名前を受け取れるような気がした。
 しかし彼女は首を横に振って、静かに降る雪を背景に、あまりのも晴れやかな笑顔で答えた。
「私はずっと雀だったの」
 気付けば雪は弱まり、ふわりふわりと、名残だけが夜空に揺れている。
 冬の終わりを告げるように、染まった白い景色も滲んでいく。
 目の前に落ちてくる雪の一かけら。
 野茉莉は意識せずに手を伸ばし、それを掬い取る。
 掌に在る一片の雪を、失くさないように強く握りしめる。
 そうして、野茉莉は静かに終わりを理解した。
「でも……ようやく、蛤に為れた気がするわ」
 雪のように解け往く笑顔。
 随分と遠回りをしたけれど。
 名も知らぬ彼女の初恋は───今、終わったのだ。
 そうして夢もまた、終わりを告げた。
 ***   ***
「野茉莉っ」
 目を覚ました時、最初に映ったのは、今まで見たこともないくらいに慌てている父の顔だった。
「とう、さま?」
 まだ眠りから覚めきっていない。だから上手く反応が出来なくて、しかし父は心底安堵したような笑みを浮かべ、野茉莉の両肩に手を触れた。
「よかった……体調はどうだ」
 感極まったように息を吐く。いきなりすぎて頭の方がついてこない。
「え、別に。寝てただけだし」
「だとしても、丸二日起きなかったんだ。おかしなところはないか」
「え!?」
 驚きに思わず声を上げる。
 そう言えば随分長い夢だと思ってはいたが、まさかそんなに眠っていたとは。そして、初めて見る父の動揺ぶりにも少し驚いた。
「もしかして、心配、した?」
「当たり前だろう」
 そうだ。父は無表情だけど優しい人だ。だから心配するのも当然、
「娘の心配をしない親がいるものか」
 だと思っていたから、その言葉に心を揺さぶられた。
「娘……? だから、心配してくれた?」
「何を今更」
 父はよく分からないと言った顔をしていた。
 その表情に、頭の中が真っ白になる。
 本当に、馬鹿だったと野茉莉は思う。
 所詮は拾われた子供だ。
 明確な繋がりなどある筈もない。
 もしも父が、私のことを嫌いになってしまえば、もう親娘ではいられない。
 本当は心の何処かでずっとそう思っていた。
 結局のところ、野茉莉は怖かったのだ。
  
 いつか、“お前なんて拾わなければよかった”と思われるのが、何よりも怖かった。
 だからいい子になりたくて、でも、出来ないことはあまりに多すぎて。
 父に失望されるのも怖くて、声を掛けることさえ憚られた。
 そのまま時間が過ぎて、いつの間にか上手く喋ることが出来なくなった。
「ごめん、なさい」
 
 上半身を起こし、そのまま抱き付く。
 いきなりのことに父は反応できていない。鬼からの奇襲を容易に躱す父が、反応できない筈がないのに。
 それでもこうやって無防備を晒してくれるのは、家族だから、娘だと思っていてくれるからに他ならない。 
 なんで気付けなかったのか。
 知っていた筈だ。
 店を開いたのは、周りから見ても恥ずかしくないように。
 料理を覚えた理由は、ちゃんとしたものを食べさせるため。
 累が及ばないようにと、あんなに大切にしていた刀だって腰に差さなくなった。
 それが誰の為の無理だったかなんて、考える必要もなかった。
 いつだって父は自分を想ってくれていた。
 いつだって父で在ろうと、努力を重ねてきてくれたのだ。
「ごめんなさい、父様。ごめん、なさい……」
「野茉莉、どうした」
 
 縋りついて涙を流す。父は優しく、本当に優しく頭を撫でてくれた。
 まるで子供みたいだと思って、野茉莉は嬉しくなった。
 まるでも何も自分はこの人の子共なんだから、これでいい。
 そう思えた今が、たまらなく嬉しかった。
 
「怖い夢でも見たのか」
 気遣うような声。父の腕の中で、野茉莉はふるふると首を横に振った。
「ううん、いい夢を、見たの」
 泣き笑い、思い出す、夢の中の雪景色。
 視線を落すと、枕元に何かが置いてある。
 よく見ればそれは、平吉に貰った小物の一つだった。。
 でっぶりとした、愛嬌のある根付。
 木彫りの福良雀が、何故か笑ったような気がした。
 ◆
「平吉さん、あのお土産って何処で買ってきたの?」
 翌日、染吾郎に連れられて鬼そばへ訪れた平吉に野茉莉は聞いた。
 あの福良雀の根付を枕元に置いた覚えはなかったからだ。
 平吉は付喪神使いの弟子。ならばあの根付が不思議な力を持っていても不思議ではない。きっと、“彼女”の夢はあれが見せたのだと思う。だから由来を知りたかった。
「あー、いや。実はあれ、貰い物で」
「そうなんですか」
「うん。納品に須賀屋ゆう店に行って、しばらく話しとったらなんや鬼そばの話になって。そんで店主の話しとったらいつのまにか野茉莉さんの話になって。そしたら、店の女の人がお土産にてくれた」
「じゃあ、特別な由来とかは」
「うーん、ごめん。俺も知らん」
 須賀屋。やはり記憶にはなかった。
 結局あの福良雀はなんだったのだろうか。真相は分からず仕舞いだ。
「ああ、そう言えば」
 思い出したように平吉は付け加える。
「店の女の人、“これを贈る相手に頑張ってって伝えてね”てゆうとった。なんやったんやろな、俺に頑張って言うんならともかく……って別に頑張るようなことないけどな!」
 慌てて誤魔化すも、最後の方は野茉莉の耳には届いていなかった。
 頑張って。
 自然と頬が綻ぶ。あの根付が何だったのかは分からない。でもきっと、これを平吉に渡してくれた人は“御嬢さん”なんだろう。
 そう思えば自然と暖かい気持ちになる。
「平吉さん、ありがとう。これ、大切にするね!」
 華やかな笑顔に平吉は心臓が高鳴る。
 これは結構いい雰囲気なのではないか?
 そう思い、何か言おうとして、
「きつね二丁、あがったぞ」
「はーい!」
 甚夜の一言に思い切り邪魔をされてしまった。
 元気よく野茉莉は返事をして、笑顔で父の元へ走っていく。取り残された平吉はあうあうと意味の分からない声を漏らしていた。
「まぁ、なんや。平吉、がんばり」
「はい、お師匠……」
 涙が出そうだが本当に零したら流石に情けなすぎる。
 歯を食い縛り、睨み付けるように甚夜の方を見る。
「頼む。病み上がりだ、あまり無茶はするなよ」
「別に病気じゃないよ。でもありがと、父様」
 照れたように微笑み、蕎麦を受け取る野茉莉。元気になったのはいいが、何となく複雑な心境だった。
「……なんで、俺が贈り物をしたのにあっちが仲良くなってるんですかね、お師匠」
「いや、それを僕に聞かれても。ただ君、大変やな」
「はい……」
 以前のような固さのとれた親娘。あまりにも仲が良すぎて、入り込む余地があるのか疑問だった。というか父親に心配されて頬を染める娘というのはどうなのだろうかと平吉は思う。
「今回は迷惑をかけたな、染吾郎」
 厨房から声を掛ける甚夜は随分と穏やかな様子だ。
 娘とのわだかまりが無くなり、一安心という所だろう。
「きにせんでええて。面白いもんも見れたしな」
 勿論、動揺し切った甚夜のことだろう。
 野茉莉が心配だったからとはいえ醜態をさらしてしまった。今更ながらに苦々しく口元を歪める。
「忘れてくれると有難い」
「あはは、恥ずかしがらんでもええやろ。君がちゃんと父親やっとる証拠や」
「だとしてもな……ところで宇津木はなんでそんな目をしている」
 まだ睨み付けたままだった平吉は、ふんと顔を横に背けた。
「うるさいわ」
「まあ、気にせんとったって。ちゃんと男の子やっとる証拠やから」
 好いた女の子が他の男と仲良くしているのが気に入らない、ただそれだけのことである。
「……まあいい、何を食べる。今日は奢ろう」
「お、ええの?」
「ああ、野茉莉が世話になった礼だ」
「ほな、遠慮なく。僕はきつね蕎麦、こっちはどうせ天ぷら蕎麦やろ」
 そう、今回の件を解決したのは染吾郎だった。
 と言っても特に何かをした訳ではない。
『特に害はないから放っておいても大丈夫や』
 そう伝えただけである。
 半信半疑だったが、彼に言われるまま眠り続ける野茉莉の世話をしていた。
 すると二日後、野茉莉は目を覚ました。
 本当に、何もしないでも解決してしまったのだ。
「結局なんだったのか。野茉莉も“いい夢を見た”と言うだけ。よく分からん」
 腕を組んで、眉を顰める。
 最後まで蚊帳の外だった甚夜は何が起こっていたかさえ把握できていなかった。
「夢やない。蜃気楼や」
 難しい顔をして悩みこんでいる甚夜に、茶飲み話のような軽い調子で言う。
 
「あれは、福良雀の根付が見せた蜃気楼やったんよ」
「蜃気楼を見せるのは蛤(はまぐり)の付喪神だと言っていた筈だが」
「うん、そうやね。だから、蛤の話。清(中国)ではなぁ、雀は海ん中に入って蛤になるそうや。晩秋に雀が群れ成して海に来るんは、蛤が雀の化身やから。雀は海ん中入ると蛤に変わるもんなんやと」
 どこか嬉しそうに、満足げに、染吾郎は笑う。
 すると野茉莉も近付いてきて、優しく、たおやかに微笑んでいた。
「そっか、じゃああの福良雀は、冬には間に合わなかったけど、ちゃんと蛤になれたんだ」
「そやね、この娘なら、自分の想いを大切にしてくれる。そう思ったから、福良雀はきっと君ん所に来たんやろ」
「そうかな。……そうだと、嬉しいな」
 やはり意味は分からない。
 けれどその笑顔があまりにも晴れやかだったから、分からなくても更に問うことは出来なかった。
 微笑みながらこくこくと頷く愛娘。
 結局何一つわからないままだが、野茉莉は無事で、久しぶりに笑顔も見れた。
 それで良しにしようと自分を無理矢理に納得させる。それでも眉間の皺は取れない。
 
「気にせんでええて。どうせ全部、夏の宵が見せた蜃気楼や」
 そんな甚夜を眺めながら、染吾郎は悪戯を成功させた子供のようにほくそ笑んだ。
 結局、“彼女”は蛤になることが出来なかった。
 雪の降りしきる冬を越えられなかった想い。
 言えなかった言葉は言えなかったまま消えてしまったけれど。
 それでも季節は巡る。
 歳月は往き、福良雀は長い冬を越えてようやく蛤となる。 
 伝わらなかった想いもまた巡り、いつかは帰りたいと願った場所に還る。
 だから何の不思議もない。
 遠い昔言えなかった想いが、巡り巡って彼の下へと辿り着いた。
 これは、ただそれだけの話だ。
 
「うん、気にしなくていいの。それより父様、今度一緒に買い物に行こう?」
「……ああ、そうするか」
 親娘はじゃれ合うように言葉を交わす
 今まで上手く話せなかった分まで沢山お喋りをしようと思う。 
 それは、“彼女”が残した、叶わなかった願いだったのかもしれない。
 野茉莉は不意に視線を外し、格子の窓から外を眺めた。
 夏の盛り、外を見ても雪は降っていない。
 しかし雪のように降り積もった心がくれたのはちゃんと此処に在る。
 それがどうしようもなく嬉しい。
 
 夏の宵が見せた蜃気楼。
 
 野茉莉は、その眩しさにうっすらと目を細めた。
鬼人幻燈抄 明治編『夏宵蜃気楼』了
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