鬼人幻燈抄 明治編 余談『鬼人の暇』
明治十二年(1879年) 五月
三条通・鬼そば。
店の玄関口には張り紙がされている。
『本日休業』
つまり、余暇の話である。
<朝・師匠の話>
嵯峨野の竹林での鍛錬は今も続いている。ただ今回は相手が違った。
「まだまだ、青い」
二刀を構え悠然と立つ。投げ掛けた言葉に平吉は何も返さない。というよりも、返す余裕がなかった。
今回の鍛錬は甚夜の、というよりもむしろ平吉に重きを置いている。染吾郎が弟子に少しでも経験を積めませようと甚夜に相手を頼んだのだ。
「まあ、こんなもんやろなぁ」
染吾郎はからからと笑っている。
甚夜はかすり傷どころか汗一つなく、息も乱さず着崩れさえない。平吉の方はといえば立つこともままならぬ程に疲弊し、大の字になって寝転がっている。数十年闘い続けてきた鬼が相手、当然と言えば当然の結果だった。
「お師匠…あいつ、人間やないです……」
「そら鬼やからな」
「いや、そうやなくて」
あまりにも強すぎた。付喪神を操れるとは言え実戦経験の少ない平吉では相手にもならない。何とか体を起こすも立ち上がることは出来ず、地べたに座り込んだまま。疲労困憊といった様相である。
「体術と付喪神を交えた戦法。悪くはないが、修練が足りん」
「分かっとるわ、くそ……」
平吉は染吾郎と違い、無手の体術を主とし、隙を消すように付喪神を操る。染吾郎ほど強い付喪神を持たない為、どうにかしようと工夫し編み出した戦い方なのだろう。
目の付け所は良かったが、いかんせんどちらも未熟。そこそこ動けるが決定打に欠けるというのが印象だった。
「ま、自分がどんくらいやれるか、くらいは分かったやろ? まだまだこれからやね」
「はい……。我流とはいえもうちょっと出来ると思っとったんですけど、一発も当てられませんでした」
「僕は体術からっきしやからなぁ。そっちを教えられんのは許したって」
「そんな、許すなんて。……お師匠からは、そんなもんより大切なことを数えきれんくらい教えてもろてますから」
「……泣かせることゆうてくれるなぁ」
染吾郎の顔は師のそれになっている。平吉も普段は雑な応対をしていることもあるが、師としての染吾郎を心底尊敬している。その眼には絶対の信頼が宿っていた。
「本当に慕っているのだな」
「当たり前や。俺の親は鬼に殺された。その仇を討って、今まで俺の面倒を見てくれたんがお師匠。尊敬して当然やろ」
付き合いは長いが、平吉の過去を聞いたのは初めてだった。
鬼を嫌っていた理由そこにあるのならば、初めの頃あそこまで敵意をむき出しにしていたことにも納得できる。普通に会話をするだけでも彼にとっては苦痛だったのだろう。
「俺は鬼を討つ力が欲しかった……まあ、鬼も悪いヤツばっかやないって分かったけどな」
甚夜の方を向いて、話の流れを無視してそう付け加える。分かりやすすぎる、不器用な気遣い。染吾郎ならばもう少し上手くやるだろうが、こちらの方もまだまだ鍛錬が足りないらしい。
「平吉ぃ。ええ子やなぁ」
「な、なにがですか」
十九の男に「いい子」はないだろう。思いながらも止めずに、微笑ましい気持ちでじゃれ合う師弟を眺める。落すような、穏やかな笑み。横目でそれを見た染吾郎は、意外そうに目を見開いた。
「お? なんや珍しいね」
「ん?」
「えらい機嫌良さそうやん」
ああ、と微かに息を吐く。
確かに染吾郎の言う通り機嫌は良かった。
「師弟とはいいものだな」
感慨深げな声色に、師弟は揃って目を丸くした。それがおかしくて、もう一度落すように笑みを零す。
「ただ一つに専心し、生涯をかけ磨き、朽ち果てる前に誰かに授け、人は連綿と過去を未来に繋げていく。……人よりも遥かに長くを生きるからこそ、その尊さが分かる。正直羨ましいとさえ思うよ」
自身の意志を継いでくれる者がいる。その眩しさに目を細めた。
染吾郎は既に老体、いずれは死を迎えるだろう。しかしその時が来たとしても“秋津染吾郎”が消えることはない。それを継いでくれる者が、ちゃんと此処に居る。
昔、人は面白いと言った鬼がいた。
鬼より遥かに短い命、しかし人は受け継ぐことで鬼より長くを生きる。人は当然の如く摂理に逆らう。それはどんな娯楽よりも面白いとあの鬼は笑った。
今になってその気持ちがよく分かる。おそらくあの鬼も、今の自分と同じような心境だったのだろう。
「なんや知らんけど、師匠ならあんたにもおるんちゃうの?」
甚夜の言葉が今一理解できなかったらしく、平吉は首を傾げた。
怪訝そうに眉を顰めれば、寧ろその態度こそ疑問だとばかりに話を続ける。
「いや、だから剣の。あんたは力任せやなくて、ちゃんと剣術を使っとるから、師匠がおるんかと思ったんやけど」
その問いの思い出したのは、やはり元治のことだった。
今は遠き“みなわのひび”。幼かった自分を思い出しながら、懐かしさに瞼を閉じて答える。
「私に剣を教えてくれたのは養父だ。毎日のように稽古をつけて貰っていたよ。あの人は強くて、最後まで一太刀も浴びせることは出来なかったが」
「……一太刀も? ほんまに?」
「鬼は嘘を吐かん。養父は集落で一番の使い手でな。刀一本で鬼を討つ剣豪だった」
「ふーん、先代って訳か」
その物言いに眉を顰めれば、平吉は平然と言ってのける。
「いや、だってあんたも“刀一本で鬼を討つ剣豪”とか言われとるし。羨ましいも何も、あんたも似たようなもんやろ」
頭が、真っ白になった気がした。
そして数瞬置いてから意識を取り戻し、歓喜とも興奮ともつかぬ、自分でもよく分からない感情に背を押され言葉を落した。
「……そうか、そうだったな」
想いを繋ぎ未来へと残すのは人の業だと思った。
しかし平吉の中に染吾郎の技が息づいているように、自身の中にも元治が遺したものがある。それは鬼になった所で変わりはない。
なにより、多くの出会いがあり、多くの別れがあった。
店主や直次、おふう。彼等彼女らに出会い、僅かながらに変わることが出来た。
ならば鬼に堕ちたこの身にもまた、連綿と続く人の想いが宿っているのだ。
それを、改め気付かされた。
───羨ましいやろ? これが僕の弟子や。
ふと見れば染吾郎は勝ち誇るような顔。言葉にせずとも何を考えているのか分かってしまった。
これも師の教えか。平吉は想いを大切にできる男となった。あの生意気な小僧がよくぞここまで大きくなったものだと感心する。物に宿る想いを扱う“秋津染吾郎”にとっては、こういう弟子を持てるというのは、まさしく師匠冥利に尽きるというものだろう。
「やれへんよ」
「必要ない」
短い遣り取り。確かに羨ましい弟子だが、欲しいとは思わない。
代わりに、脳裏に浮かんだ言葉をそのまま口にする。
「励めよ、宇津木。私はお前以外が四代目を名乗るなど認めんぞ」
今度は平吉の方が呆気にとられる。驚きに上手い返しが出てこないようだ。
一拍子置いてその言葉の意味を理解したのか、平吉は不機嫌そうに、しかし照れを隠しきれずそっぽ向いた。
「……おう」
甚夜の言葉は、“秋津染吾郎”を継ぐのに最も相応しいのはお前だと言ったに等しい。
普段は見せないが師を敬愛する平吉にとって、それは途方もない褒め言葉だった。
「あはは、よかったな平吉。勿論僕も君以外に“秋津染吾郎”を譲る気はないよって」
「ありがとう、ございます、お師匠」
感極まったと言う様子だ。
普段の態度こそ雑だが、平吉は本当に師を敬い慕っている。本人からの後継と認める発言だ、嬉しくない筈がない。
「でも、その前に君は甚夜を倒せるようにならあかんな」
一瞬にして、凍り付いた。
「……え?」
思わず聞き返すも染吾郎は朗らかに笑い言葉を続ける。
「平吉、野茉莉ちゃんのこと好きなんやろ? そしたら“お父さん、娘さんを僕に下さい!”ってこともあるかもしれへわけや。ということは」
ちらりと染吾郎が甚夜の方を見る。
いい加減付き合いも長い。何を求めているのか、分かってしまった。
「ならば私の返しはこうだな。“娘が欲しいのならば私を倒してからにしてもらおうか”」
「さっすが、完璧や!」
定番の言い回しを口にすれば、子供のようにはしゃぐ。無駄に元気な老人である。
「…………え?」
対して平吉は目を点にしている。
あれ、を、倒す?
人を超える膂力を持ち、複数の<力>を操り、剣術にも長けた鬼。それを倒さない限り、野茉莉に結婚を申し込むことは出来ない? いや別に付き合ったりしてるわけではないけども。
混乱する平吉を余所に二人の会話は続く。
「頑張り。野茉莉ちゃんを手に入れるんはしんどそうや。なんせこいつは僕でも倒せるか分からん」
「それはこちらも同じ。鍾馗、だったか。あれは中々に厄介だ」
「僕の切り札やしね。勝てるかどうかは分からんけど、易々と負けてはやれんなぁ」
いやに好戦的な視線を交わしながら、とんとん拍子に話が流れていく。ただ平吉だけがついていけていない。
いや、冗談だ。師匠一流の冗談だ。頼むからそうだと言ってくれ。
「さて、そろそろ終いにするか。時間も時間だ。朝食を準備しよう」
「お、もしかして誘ってくれとる? 悪いなぁ。味噌汁玉ねぎ、玉ねぎな。平吉もいこか」
しかし否定することなく、茶化すことなく、二人は歩き始めてしまう。
しばらく歩いてから甚夜は振り返り、真っ直ぐに平吉を見据えた。
「楽しみにしている。……ただ、私はそれなりに手強いぞ、宇津木」
冗談など言いそうもない男がダメ押しの科白を吐いてくれた。
だから平吉はどうすればいいのか分からなくなり、
「…………………………え?」
立ち尽くすことしか出来なかった。
いつの世も、最後に立ちはだかる壁は父親である。
<昼・あんぱんの話>
「で、だ。協力してほしいんだ」
野茉莉を交え朝食をとった後、平吉は納品の仕事があるらしく先に戻った。
染吾郎は悠々と食後の茶なんぞを楽しみ、親娘二人で後片付け。その後、それなりにのんびりとした時間を過ごしていると一人の男が店へ訪れた。
三橋豊重(みはし・とよしげ)。
開口一番協力してほしいと言い出したのは、鬼そばの隣にある三橋屋という和菓子屋の店主だった。
今年で二十七になるこの男とは、店が隣同士と言うこともありそれなりに話もする。普段ならば多少相談に乗ってやっても構わないのだが、残念ながら今日は予定があった。
「すまんが、今日は」
「そういや休業とか書いてあったが、何か予定でもあったか」
「ああ、野茉莉と買い物に行く」
「ちょっと待ってくれ葛野さん。もしかしてその為に店を休んだのか」
「もしかしなくてもそうだが」
豊重は信じられないといった面持ちだった。
しかし何故そんな表情をされるのか甚夜には分からなかった。店と野茉莉との買い物、当然ながら優先順位は後者の方が高い。よって店を休みにするのもまた至極当然。驚かれるようなことではないと思うのだが。
「なんでこの人こんな普通の顔してんだよ」
「いやぁ、甚夜にとってはこれが普通やし。基本野茉莉ちゃん至上主義やからね」
初対面の豊重と染吾郎だったが、何故か仲良くひそひそ話なんぞをしている。二人とも甚夜の行動に疑問を抱いているらしい。甚夜からすればおかしいことなど何一つしていないのにそんな態度を見せる二人の方こそ理解できなかった。
「まあそういう理由だ。すまんがまた今度に」
「あ、いや、そこをどうにか。少しの時間でいいんだ」
「しかしな」
難色を示し微かに唸ると、くいくいと袖を引っ張られた。傍らに立つ野茉莉である。
「父様、別にいいよ?」
豊重が可哀想に思えたのか、同情的な視線を送っている。
楽しみにしていた買い物を後回しても構わない、野茉莉はそういうことを言える優しい娘に育ってくれた。だからこそ約束を反故にしたくはない。
その考えを先回りして、野茉莉は柔らかく笑う。
「普段三橋さんにはお世話になってるし、ね? お話を聞いて、それから買い物でも私はいいから」
「……そう言うのなら」
申し訳ないと思うが、同時に嬉しくもなる。今までのように、嫌われることを恐れていい子を演じるのではないと分かったからだ。本当に、子供は知らぬうちに大きくなるものだ。
「三橋殿、話を聞こう」
だから自然と、表情は穏やかになった。
「新商品の開発?」
「そうだ。あー、めんど……と普段なら言う所なんだが、売上少なくて嫁さんがキレそうでな。ここいらでちょっと気合入れとかないと後々もっとめんどくさくなりそうなんだよ」
確かに三橋屋の客入りは今一つだ。彼の細君が気を揉むのも分かる。とは言え、相談相手として甚夜は適当ではないだろう。
「しかし、私では力に為れそうもないが」
蕎麦打ちや家庭料理なら出来るが菓子作りなどしたこともない。適切な助言など出来るとは思えなかった。
「そんなことはないさ。あとは、野茉莉ちゃんの方にも期待してる」
「私、ですか? あの、でも私料理は」
急に話を振られて少しだけ体を震わせる。
野茉莉は最近になってようやく父に調理を教えて貰い始めたが、その腕はまだまだ。甚夜以上にこういうことには向いていない。
気後れしているようで野茉莉は俯いてしまったが、問題ないとばかりに豊重は笑った。
「いやいや、協力ったってそんな固っ苦しく考えなくていんだ。あー、とだ。味見役をしてほしいんだよ。それで意見が欲しい」
味見役。確かにその程度ならばできそうだ。野茉莉にも期待しているというのは単に若い女の意見も聞きたい、といったところだろう。それを聞いて野茉莉は安堵の吐息を漏らす。
「よかった、それくらいなら」
「お、なら頼めるか?」
「はい、私でよければ」
取り敢えずの同意を得られ、今度は甚夜の方に視線を移す。あからさまに期待した目。野茉莉が受け入れたのだ、ここで断るのも妙な話だ。
「ああ、私も構わん」
「ありがてえ。実は何を作るかももう考えてあるんだよ」
「ほう?」
仕方なくという雰囲気を漂わせていたが意外にもやる気らしい。周りの視線が集まる中、溜めに溜めて豊重は高らかにのたまう。
「木村屋って知ってるか」
にやりと釣り上げられた口元からは相応の自信が感じられた。
甚夜が首を横に振り否定の意を示せば、待ってましたと言わんばかりに滔々と語り始める。
「東京の銀座にある店なんだがな、この店があんぱんっつー菓子を作ったらしいんだ。それが売れに売れて、天皇様まで気に言っちまって今じゃ皇室御用達らしい。知ってるか、あんぱん?」
「残念ながら」
「そうか……んー、まいいか。とにかくそういうことだ」
一人で納得してうんうんと頷く。しかしそこで話を止められては意味が分からない。
それで? と言葉を促してみれば、何故か返ってきたのは不思議そうな表情だった。
「いや、それでって……それが全てだろ?」
なにいってるんだ。豊重の視線はそう言っている。
今一意図が理解できず眉を顰めると、豊重は溜息を吐いてから説明を始める。
「だから、今はあんぱんが人気なんだよ」
「ふむ、で?」
「つまり、奇をてらった新商品なんざ考えなくても、あんぱんを作ればいいって訳だ」
堂々と真似をする気らしい。
自信満々といった様子だが、言っていることは最低だった。
「……なあ甚夜? 僕、こん人の店が流行らん理由分かったような気ぃするんやけど」
「……奇遇だな、私もだ」
集まっていた視線は全て呆れ交じりのものに変わってしまうが、本人は全く気にしていない。寧ろ自分の提案の素晴らしと心底思っているようだ。
「我ながら完璧だ……問題はあんぱんの作り方どころか見たこともないってとこだけだな」
「うん、問題しかあらへんね」
染吾郎の突込みは見事に無視された。
作り方も知らず見たこともないものをどうやって作ろうと言うのかこの男は。
そう考えて、甚夜は気付いた。
彼の言う“味見役”に求められる役割は、味を見るのではないのだ。
「三橋殿、もしかして私達の役目というのは」
「ああ! なんせ俺はあんぱんなんて知らないからな。取り敢えず適当に作るから、葛野さんがこれだってやつを決めてくれ」
「だから私もあんぱんを知らんのだが」
「いいんだよいいんだよ。食べた感じ一番あんぱんっぽいものを選んでくれれば」
実に無茶苦茶なことをさらりと言ってくれるものだ。
ともかく、こうして三橋屋のあんぱん作りは始まったのである。
◆
「ほい、まずはこれ」
甚夜達の前に出されたのは小さな茶色の菓子である。
「どうやらあんぱんってのは小麦を使った生地で餡をくるんだ菓子、らしい。取り敢えず素直に作ってみたんだが、どうだ?」
期待の視線を受けながら、促されるままにあんぱん(仮)を齧る。
若干甘さを抑えたあずきに多少風味の付いた生地
味を確かめるようにゆっくりと咀嚼し、呑みこんで一言。
「饅頭だな」
「饅頭やね」
「おまんじゅうですね」
甚夜、染吾郎、野茉莉が声を揃えて同じことを言う。
出されたそれはまったくもって普通の饅頭であった。
「それに生地あんまりおいしくない……」
野茉莉はむーっと若干不機嫌そうな顔になってしまう。
やはり若い娘だ、甘いものは好きなのだろう。甘いものを好まない甚夜や染吾郎よりも、こだわりがある分野茉莉の方が評価は厳しかった。
「そ、そうか。結構自信あったんだが。まあいい、次に行くか」
そそくさと新しい菓子を店から運んでくる。
次いで出されたのは何とも奇妙な菓子である。球形ではあるのだが糸のようなもので幾重にも包んであり、あまり食欲をそそる外見はしていなかった。
「……三橋殿、これは」
「小麦の生地って聞いてたからな。小麦で作ったものって考えてたら、素麺が思い浮かんだ。つーことで、素麺で包んでみた」
「中には当然?」
「あんこが入っている」
腕を組み、堂々と言ってのける。
この男は何故こうも自信に満ち溢れているのだろう。
「……すまん、あずき味の麺は食べたくない」
「あ、やっぱり?」
分かっていたなら何故出した。
「……甚夜、これまずい」
何故食べた染吾郎。
ひどく疲れて、甚夜は俯いて溜息を零した。
いかん、豊重の発想に任せていては何時まで経ってもこの味見は終わらない。この後には野茉莉との買い物が控えている。早々に終わらせねばならない。
甚夜は気を取り直し、積極的に意見を出すことにした。
「三橋殿、あんぱんというのは小麦の生地であずきを包んだ菓子、だったな」
「ああ、そうだ」
「ならば“きんつば”に近い菓子ではないのか?」
きんつばは金鍔焼きの略称で、小麦粉を水でこねて薄く伸ばした生地で餡を包んだ菓子のことである。これも小麦の生地で餡を包んだ菓子だ。
「きんつば、か。いや、話によると本当に包んじまうみたいなんだ。あんこが外から見えないくらいに」
「ふむ。きんつばの生地で包むと」
「流石に野暮ったくなるだろう。あれは薄いからいいんだ」
確かに豊重のいう通りだ。あの記事がそのまま分厚くなっても旨いとは思えない。
「あーでも、既存の菓子と照らし合わせて考えるってのはいいかもなぁ。おっしゃ、ちょっと待っててくれ」
そう言ってまたも店に戻る。
何か思いついたらしく、えらく真面目な顔つきだった。
「……なんだかんだ、甚夜も付き合いええなあ」
「父様は優しいですから」
呆れたような染吾郎と、何故か自慢げな野茉莉。
取り敢えず二人の言葉は軽く流すことにした。
「団子風の生地にしてみた」
「悪くないな」
「うん、もちもちしてて美味しいです」
豊重は次々に、工夫を凝らした菓子を運んでくる。
「小麦だからな、焼いたらいい香りがすると思ったんだが」
「水で練った小麦の生地を焼き上げたか」
「お、いけるやん。そやけど、時間が経ったらちょっとこれはなぁ」
しかしながら“あんぱん”が何か分からない以上、悩みに悩んだところで明確な正解を出すことが出来ず、ただただ菓子を喰い続ける。
「あー、いい加減しんどなって来たんやけど。老人にこれはきついて」
最初に根を上げたのは染吾郎だった。
食べ過ぎで腹が苦しいらしく、居間の方で寝転がっている。かくいう甚夜も相当きつくなってきていた。
「父様、大丈夫?」
「……一応は」
甘いものが苦手という訳ではないが、流石にこう連続すると中々に辛い。
野茉莉がまだ平気そうなのは、やはり若い娘だからなのか。男と女では甘味の摂取容量に違いがあるのかもしれない。
「悪いな、長いこと付き合わせて。だが、今度こそってなくらいの自信作だ」
言いながら豊重はまたも店からあんぱん(仮)を運んでくる。今回のものは黄色っぽい生地に包まれた円形状の菓子だった。
「小麦の生地だが、卵と水あめをたっぷり入れて柔らかく焼いてみた。いい感じに仕上がったと思うぜ」
「……そうか」
見た感じ中々旨そうではあるのだが、如何せん食べ過ぎた。甘味であるというだけで体が拒否反応を起こしている。
「……あかん、僕もう無理」
染吾郎はもはや見向きもせずに手をひらひらとさせている。甚夜も出来ればそうしたかったが、協力すると言ってしまった。
些細な約束でも反故にするのは彼の矜持に反する。
躊躇いがちに手は揺れ、それでも何とか動かし、出された菓子を頬張る。
「む」
一口食べてみたが、案外と口当たりはいい。卵と水あめを使ったからだろう、小麦の生地は今までのものよりもふんわりと軽かった。中の餡は若干甘さを控えてあり、後味も悪くない。
「これは、旨いな」
批評したつもりではなく、旨いという言葉が自然と漏れた。続いて野茉莉も一口。にこやかな表情を見れば味を問う必要もない。しかし期待に満ちた目で豊重は感想を求めた。
「ど、どうだ野茉莉ちゃん」
「……おいしい。うん、これが一番おいしかったです」
親娘の答えを聞いて、豊重は感極まったように振るわせる。
野茉莉もこれが気に入ったようで、おいしそうに食べている。
その笑顔に、ようやく確信というものを抱くことが出来た。
「三橋殿、おそらくこれが正解だ」
にやり、口元が吊り上る。
豊重の方も手ごたえがあったらしく、不敵な笑みを浮かべる。
「そうか、これが」
呟いた声に頷きで返す。
そうして甚夜はきっぱりと、確信を持って言い切った。
「間違いない……“あんぱん”だ」
もっとも、その確信は見当はずれな訳だが。
「これがあんぱん……!」
「ああ、あんぱんだ」
勿論違う。
小麦粉を使い卵と水あめをたっぷり入れて焼き上げる。それはパンではなくカステラである。もはやあんぱんとはかけ離れたものが出来てしまった訳だが、突っ込める人間はこの場にいない。
野茉莉もあんぱんがどのような菓子か知らず、これがあんぱんなのだとこくこくと頷いている。
「ありがとう、葛野さん野茉莉ちゃん。あと、名前知らない爺さん。おかげで、ようやくあんぱんを作ることが出来たよ!」
間違っているとも知らず、今までの苦労から豊重は目を潤ませている。
それに応え、甚夜は軽く豊重の肩を叩いた。
「これを作ったのは三橋殿だ。私達は何もしていない」
「そうですよ、三橋さん」
野茉莉も純粋に賞賛していた。何度も言うが、この菓子はあんぱんとは全く違うものである。
「そんなことねえさ。俺一人じゃこいつは出来なかった……そうだ、もう一つ頼みがある」
照れくさそうに豊重は頬を掻いている。あんぱんの完成に気をよくした甚夜は、穏やかな表情で頷いてみせた。
「ああ、聞こう」
「名前を、考えて欲しいんだ。手伝ってもらったからできたんだ。出来れば葛野さんにつけて欲しい」
「む、そうか」
多分、場の空気に流されて柄にもなく高揚していたのだろう。
少しばかりむず痒い気持ちを感じながらも、その菓子に名をつけて────
◆
2009年 8月
時は流れて現代。
葛野市、甚太神社。その敷地にあるみやかの自宅では甚夜、薫、そしてみやか本人がテーブルを囲んでいた。
8月25日。夏休みもそろそろ終わる。残った夏の課題を終わらせる為に三人は朝からみやかの部屋でテキストに挑んでいる最中だった。
「甚くん、大丈夫?」
「一応は。ただ英語は苦手でな」
「なら私がちょっと手伝うよ。代わりに古典で助けてね」
「ああ、そちらは殆どのものを原文で読んだことがある」
「あはは、さすがー」
みやかは二人のやり取りを半目で眺めていた。
何故か薫は甚夜のことを「甚くん」などと親しげに呼んでいる。元々仲は良かったが、いつの間にこんなに距離が近くなったのか。
「朝顔、すまん」
「あ、ここはねー」
甚夜の方は「朝顔」と、何処をどうすればそうなるのか分からないあだ名を使っている。薫を見るに嫌がった様子もないし、一体どうなっているのか、みやかにはまったくもって理解が出来なかった。
じっと見ていると、不意に顔を上げた甚夜と目が合ってしまう。
しばらく見つめ合う形になった後、大した動揺もなく彼は言う。
「どうした、手が進んでいないようだが」
だとすれば間違いなくあんたのせいだ。
言おうとしたが、流石に理不尽過ぎると思い直す。
「……てい」
しかしあまりにもいつも通りすぎる態度が何となくいらっと来て、消しゴムなんぞを投げてみる。
「何をする」
こつんと頭に当たった。避けもせず受けもしない。なんだか子供扱いされたようで、イライラは全く晴れなかった。
「やった、終わったー!」
薫がシャーペンを放り出してぐっと伸びをした。
ちょうど同じタイミングで甚夜も息を吐く。
「うん、こっちも終わった」
みやかの方も片付き、三人は課題を何とか終わらせることが出来た。
ようやく一息つける、というところで母親がお菓子を用意しておいてくれたことを思い出す。
「疲れたー。でもこれで安心して遊べるね」
「そうね。……っと、ちょっと待ってて。今お茶淹れてくる」
そうして台所に行き、煎茶とお菓子を御盆に乗せて戻る。
部屋では完全にだらけモードに入っている薫とそれを微笑ましく眺めている甚夜の姿がある。確かにこの二人は仲がいいけど、恋人とかよりも兄妹と言ったイメージだった。
「あ、おかえりー」
「薫、床でゴロゴロしない。はしたないよ。一応男がいるんだし」
「だって疲れたんだもん」
大して気にした様子はない。仲はいいけど、男としては意識していないのかもしれない。
そんなことを考えながらテーブルにおぼんを置けば、さっと薫は起き上がる。まったくもって現金だった。
「お母さんが京都旅行に行ってきたから、そのお土産。三橋屋の“野茉莉あんぱん”だって」
「あ、知ってる! この前テレビでやってた!」
嬉しそうに頬を綻ばせる薫。反面、甚夜は普段通りの無表情。しかし若干眉間の皺がいつもより深かった。
「ごめん。もしかして、甘いもの嫌いだった?」
「いや、嫌いではない、がな」
珍しく歯切れが悪い。腑に落ちないものを感じながらもテーブルの上を片付けお茶を配る。
そうして三人の前に菓子と親が行き渡ったのを確認して、食べるのを促すようにこくりと頷いた。
「いただきまーす」
一口頬張る。
野茉莉あんぱんは京都・三橋屋の銘菓で、カステラ生地で餡を包んだ菓子である
柔らかい生地とあずきの組み合わせは確かに美味しい。人気があるのも納得の出来だった。
「あ、おいしー」
「うん。……でもこれ、あんぱんじゃないよね」
そもそも、パンじゃない。
なんでこれがあんぱんなんだろうと思っていると、思わぬ方から意見が出てきた。
「いや、小麦の生地に餡が入っていればあんぱんと呼んでもいいんじゃないか?」
「流石にそれ、適当過ぎると思う」
反射的に突っ込むと、何故か甚夜は苦々しい顔であんぱんを噛み締めている。
その様子に何か気付いたらしく、薫がおずおずと問うた。
「……ねえ甚くん。三橋屋って、確か甚くんが昔住んでた家の隣にあったお菓子屋さんだよね?」
「え? 甚夜、京都に住んでたの?」
「昔、一時期な」
初耳だった。というか、何故薫が知っているんだろう。席も近いし、案外プライベートなことも話しているんだろうか。
「でさ、もしかしてこのあんぱんって」
「……言うな朝顔」
やけに重い、疲れた声だった。
「でも、野茉莉あんぱんってどう考えても」
「頼む、言わないでくれ」
「ああ、うん。何となく分かった」
それきり俯き黙り込んでしまった。
恥じるべきは一時のテンションに身を任せてしまった過去である。
まさかあんなノリで作られた菓子が百年を越えるなど誰が思うものか。
なんとなく事情を察した薫と訳が分からないみやか。二人の視線を受ける甚夜は、ただただ項垂れるしかなかった。
<夕方・リボンの話>に続く。